やさしい仏教教室
第27回 「器の水」
ものごとを正しく見つめる心で
気づける、キミの成長も幸せも
いよいよ新年度が始まります。 新しい学校、学年、クラス、先生、友だち。
4 月ってなんだか希望に満ちていて、今年こ そなんでもがんばれそうな気がしませんか?
これからはじまる新しい環境に、期待も不安 もあるでしよう。きっとうれしいことや楽しい こともあるでしようが、そうでないこともきっ とあります。大切なのは、「なにごとも、正し くありのままに見ること」です。
◇◇◇◇◇◇
ある日、仏さまのもとに一人のバラモンが やってきました。
バラ モンとは、昔のインドの身分の一つで、一番 えらいとされたグループの人のことです。
一人はあれこれと楽しく話をしていましたが、バラモンはふとこんなことを仏さまに聞 きました。
「わたしは、ある時は 心がスッキリして澄み わたり、頭もとても冴えわたることがありま す。そんなときは、これまでに勉強したことはもちろん、勉強していないようなことまでスラスラと説明することができるほどです。 しかし、別のある時は、なんだか心がモャ モャして、日ごろ勉強 していることでさえも理解できずに思い出す こともできません。 これはいったいどうしたことでしようか?」
仏さまは、 「バラモンよ。たとえば、ここに器に入れた水があるとしましよう・・・」 と、たとえ話を語りはじめられました。
「もしその水が、赤や 青で濁っていたら、水面に映るあなたの顔はありのままに見えないでしよう。 それと同じように、 人の心がおろかな心で 濁ってしまうと、なに ごともありのままには 映らないのですよ」 さらに、たとえ話は続きます。
「また、もし器の水を火にかけたとしましょ う。すると、やがて熱いお湯になります。 グラグラと沸いているそのお湯に、あなたの顔をありのままに映すことはできますか? できませんね。 それと同じで、人の 心が怒りに掻き立てられ、グラグラと沸いてしるようなときには、 なにごともありのまま には見えません」 たとえ話は、まだま だ続きます。
「また、もしその水の表面がコケや水草で覆い隠されていたら、 としましよう。やはり、そこに顔を映してもあ りのままに見ることは できませんね。 それと同じで、人の 心がよくない考えや疑 いの気持ちで覆い隠されてしまうと、ものごとをありのままに見る ことは、とてもできま せん」 ここまで話された仏 さまは、バラモンにこ う言いました。
「バラモンよ。いま話 したことの反対を考え てごらんなさい。 器の水が濁らずにき れいで、グラグラと沸 き立たずに静かで、コケや水草に覆い隠され ていないようすを。 そこには、いつでも ありのままの自分の顔 を映すことができますね。人の心もそれと同じなのです。 欲ばったり迷ったりせずに、怒りに掻き立てられずに、よくない考えや疑いの気持ちを 持たなければ、なにごとも、ありのままに正 しく見ることができるのですよ」 バラモンは、仏さま の言葉を聞いて、深く 感じ入りました。
今回のお話に登場し たバラモンは、心や頭 がスッキリしてとても 調子のよいときと、なんだかモヤモャして調子がわるいときがあるようですね。キミはどうですか?きっと誰にでも、そのような経験があるのではないで しようか。
【モヤモヤの原因】
さて、仏さまはこのことを説明するために 「器の水」のたとえ話を されました。 一つ目は、器の中の水が濁っているとき。 それはつまり、心がおろかな心で濁っている ときです。 たとえば、友だちについイヤがらせをしてしまったり、困っている人に気づいたのに見て見ぬふりをしてしまったとしましよう。 そんなとき、どうも決 まりのわるい、沈んだ 気持ちになりますよね。
二つ目は、器の中の水が火にかけられてお湯となり、グラグラと 沸いているとき。それはつまり、怒りの気持 ちによって心がグラグ ラと沸き立っているようなときです。 たとえば、なんだかイライラしてしまって、人や物に八つ当たりして後悔したなんて ことありませんか?
三つ目は、器の中の 水がコケや水草で覆い 隠されているとき。そ れはつまり、よくない考えやズルい考えなどが、きれいな心を覆い 隠してしまっているときです たとえば、どうする ことが正しい行動なのかはわかっていたはず なのに、ついズルい行動や楽な行動に逃げて しまったばっかりに、しばらく 落ち込んでしまうこともめずら しいことではありません。
心がこの三つのような状態だと、心も頭もモヤモャ して、調子がわるく なってしまうんですね。 そんなときに、スッ キリした心で元気いっばいに「よし、勉強が んばるぞ!」となれるわけがありませんね。 それはなぜかという と、正しい行動やものの見方ができなかった後ろめたさが心を濁ら せ、心をグラグラと不 安定にさせ、素直で明 るい心を覆い隠してし まっているからです。
【きれいな水】
では、その反対はどうでしようか。器の水 がきれいなら、ものご とをありのままに正しく映します。
このようなきれいな心になれたなら、後ろめたさはなく、心は安定し、素直で明るい心でものごとを見ることができます。 いつもスッキリした頭 と心で、どんなことも前向きにありのままに見ることができたらすばらしいですね。
そうは言っても、いつもきれいな心でいることはなかなかむずかしいことです。
どうしてもいじわるな気持ちゃズルい心になっちゃうときもありますし、プンプンと 怒ってしまうこともあります。そんなときは、どうしたらよいの でしようか
【幸せのため】
そういうときは、まず自分の濁った心をきちんと見つめましょう。
そして、どうして濁ってしまったのかを考えましよう。
キミにもイヤなこ があってイライラして いたのかもしれませ ん。
だれかに怒られて 悲しい気持ちだったのかもしれません。
いっしようけんめいにがん ばったのに、思うような結果が出なかったの かもしれません。
でも、 それらすべてはキミが 成長するため、幸せに なるために必要だったことなのです。
それは実は、仏さま がキミにわざわざ与えて教えられていることなのです。
仏さまは ずーっと昔からいつも みんなに寄り添って、 いろんな姿で、いろん な言葉で、いろんな出来事で、たくさんのことを与え教えてくださっているのです。
どうして仏さまはこのようなことをされる のか?その理由はただ一つ。
みんなに幸せ になってほしいのです。だから、キミが経験するすべての出来事は、うれしいことも悲 しいことも、イヤなこ とやつらいことがあったときについ心か濁っ てしまってモヤモャし たとしても、みんなキミが幸せになるために 必要なことなのです。
なぜなら、それを乗り こえてキミの心が成長することで、本当の幸せの意味に気づいていけるからです。
仏さまがおっしやる 「なにごとも、ありのままに正しく見ること」、 その意味は、どんなこ ともキミの幸せのためにもたらされた仏さまのお説法であると捉えることなのです。
「器の水」の濁りを払い 、お湯のグラグラを 静めて、コケを取り除く。その方法は、お題目を唱えることです。お題目は仏さまのやさしい心そのものです。素直に「ありのままに正 しく見ること」を願っ て、心ゆくまでお題目を唱えましょう。
ものごとをありのままに正しく見ることを「正見」と言います。『法華経題目抄』には「たとひさとりなけれども、信心あ らん者は鈍根も正見の者なり」 (全集 940 頁)とあり、悟る知恵がない愚悪鈍根の凡夫でも、 正しい信心かあるならば正見の者であると大聖人は仰せです。
ものごとの見方を正しくすれ ば、ものごとの意味を正しく知ることができます。信心を深め、 お題目を唱えて己心を磨くことで、自然と仏と同じように「正見」を持つ者の姿となることができます。新年度を迎え、それぞれの人生の一歩を踏み出す若い人たちに教えたい言葉です。