やさしい仏教教室

 

 

第26回 「いちりんの花」

 

キミの心のしあわせは

キミの「供養」の心から

 

 

3月になると、だんだんと暖かくなってきます。中旬には春の訪れを知らせる色とりどりの花を野山や庭先で見ることができます。

 また年度末、別れの季節でもある3月は、惜別に花を贈るシーンもよく見ますね。お花はもらうとやっばりうれしいですよね。うれしいのはきつと贈ってくれた人の優しい気持ちです。

 

 あるところにお花屋さんがありました。このお花屋さんは、王さまのところにたくさんのお花を届ける仕事をしていました。

 ある日のこと、いつものように王さまにふさわしいお花を念入りにえらんでいましたが、途中で思わず手を止めました。

 「これはなんときれいですばらしい花だろう。こんなみごとな花は見たことがない。王さまには悪いが、このいちりんの花で、ひと儲けさせてもらおう」

 お花屋さんはお城へ花を届けるのもそこそこに、さっそく町へ行きました。その花を見た町の人たちは、「なんてきれいな花だ。さぞかし高く売れるだろう。どんな人が買うのかな」と言いました。

 まもなくにぎやかな大通りにさしかかると、太った男が花を見るなり近寄ってきました。そして、「その花、わしに売ってくれんか。いくら高くてもかまわんぞ」と言いました。

 その時、ほかの一人も、「お花屋さん、それを私にゆずってくださいませんか。高くてもいいから」と言いました。その人はスダッタというお金ちでした。

 お花屋さんは、高い値段をつけた方に花を売ることにしました。

 太っだ男が10で買うと言えば、スダッタは20と言います。ならばと太った男が30と言えば、スダッタは40と言います。

 花の値段はどんどん、どんどんと、せり上がっていきました。太っだ男は、何とかして自分のものにしようと、値段といっしょに声までつり上けました。一方、スダッタは相幸があきらめるまでいくらでも続けますよというふうに、ニコニコとしていました。

 お花屋さんは思いました。 「(どうしてたったいちりんの花に、こんな途方もないお金をはらおうとするのだろう)」

そして「だんなさまがた、この花をそんなに高く買って、いったいどうなさるのですか?」と聞くと、太つた男は「わしは商売をしておる。商売の神さまにお供えして、もっとたくさん儲けさせてもらうのさ」と答えました。

それに対して、スダッタは「わたしは仏さまに差し上げるのです」と言います。

 仏さまのことを知らないお花屋さんは、「仏さまってだれですか?」「商売の神さまよりもっともうけさせてくれるのですか?」と聞きました。

 スダッタは、少し間をおいて答えました。

 「そうですね。お金儲けよりも、もっと大きな心の幸せを教えてくださるお方です」

 スダッタの澄んだ瞳や穏やかな話し方に、お花屋さんはいっのまにか心がひかれていました。

 「だんなさまがた、悪いけれどこの花を売るのはやめます。かんべんしてください」

 お花屋さんはすまなそうに、けれどもきっばりと言いました。

 太った男はムッとした顔になりましたが、これ以上、ムダな時間を使つてはいられないとでも言うように、足ばやに立ち去りました。

 お花屋さんはスダッタに「わたしをその仏さまのところへ連れていってくれませんか?」と言いました。

 「いいですとも」と言ったスダッタは笑顔をいっそうほころばせて、先に立って歩きました。その後ろをお花屋さんと物見高い町の人たちが続きました。

 お花屋さんは、小脇に抱えていた花のかごを、両手で胸の高さに持ちなおしました。

 花かごの中のその花は、あいかわらず静かに美しい香りをはなっていました。

 きれいなお花を求めた二人。この二人はどこがちがっていたのでしょうか。それぞれ見ていきましょう。

 

「太った男の考え」

 まず、太つた男です。彼はお金を儲けるために、商売の神さまにお花をお供えしようとしていました。

 しかし、お金を欲しがる心にはキリがありません。どれだけお金を持っていても、「たくさん持っているから、もうお金はいらない」とはなりません。

 もしキミの貯金箱がいっばいになったとしたら、おとうさん、おかあさんに「もう、おこづかいはいりません」と言いますか? たぶん言いませんよね。子どもも大人も同じで、みんなもっと、もっとと欲しがってしまうものなのです。

 たしかにお金は大切なものではあります。

でも、たくさん求め続けても心は満たされず、幸せのゴールにたどり着くことはできません。

 

【スダッタの思い】

 次に、スダッタです。彼は、仏さまに差し上けるために、お花屋さんがらきれいなお花を求めたのでした。

 スダッタはお花屋さんから仏さまについて聞かれました。それに「お金儲けよりも、もっと大きな心の幸せを教えてくださるお方です」と答えていましたね。スダッタにとって仏さまは、「心の幸せを教えてくれるお方」なのです。お金があってもなくても、宝物があってもなくても、幸せは心が感じるものです。だから「心の幸せ」は、とっても大切なキーワードですね。

 

【心の幸せのために】

 仏さまは、どうしたらスダッタの心が幸せになるかをご存じなんです。だから、幸せになりたいスダッタは仏さまのお話を聞いたり、教えてもらったとおりに考えたり、行動したりできるようにがんばるわけです。
 また、仏さまへの感謝のしるしに食べ物や飲み物やあれこれを差し上げます。このことを「供養」と言います。ていねいに「ご供養」ということも多いです。

 ご供養のためにスダッタは花を求めていたんでずね。仏さまはみんなに幸せになつてほしいと思って、いろいろなことを教えてくださります。

 このお話では、お花屋さんが仏さまにお花をご供養することになりました。お花を手にされた仏さまは、きっと大いに喜ばれたことでしょう。「お花」そのものを喜ばれたこともそうでしょうが、お花屋さんが仏さまに捧げた気持ちこそ喜ばれたのではないかと思います。それはつまり、お花屋さんが「心の幸せを教えてほしかったからにほかなりません。

 仏さまはお花屋さんの「心の幸せ」のために、心ゆくまでたくさんの教えを話してくださったことでしょう。

 

【ご供養のカタチ】

実はご供養とは、食べ物や飲み物やお花を差し上げることだけではありません。お経やお題目を唱えることもご供養なのです。

今、キミが生きる令和の時代に、「心の幸せ」を教えてくださるお方は、日蓮大聖人さまです。キミが毎日を幸せに過ごしたいと思うなら、日蓮大聖人さまにご供養申し上げましょう。

 おこづかいで買ってきたキミの大好きなお菓子、その少しでもいいです。道に咲いていたきれいなお花、お家でとれた新鮮なお野菜などなど。そこに「大聖人さまにお供えしたい」というキミの思いがこもっていることが大切です。

 それらをお仏壇にお供えして、ゆっくりていねいにお経とお題目を唱えましょう。日蓮大聖人さまは、キミのそのご供養を大いに喜んでくださるに違いありません。そして、キミの「心の幸せ」について教えてくださります。

 わからないことがあるときはお寺のご住職さんや大人に聞いてみましょう。みんな「心の幸せ」を大聖人さまから教えていただいている、キミの先輩です。

 

 『白米一俵御書』には、「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(全集1596頁)とあります。私たち凡夫は老若男女を問わず、志を捧げることによって成仏という無上の幸せに至るのです。

 志を捧けるということ、それは形として一輪の花や飲食物を供えたり、あるいは読経礼拝やお給仕による身のご供養という場台もあるでしょう。

 まずは大人が率先して、尊い日蓮大聖人さまへご供養の誠を捧ける姿を心がけることです。その振る舞いを見た子どもたちはきっと、貪瞋痴の三毒から離れた大人に成長するはずです。

 

 

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