やさしい仏教教室

 

 

第25回  「帝釈天と阿修羅」

 

瞋恚を真に乗り越えて

怒る心を善心に変え

 

プンプンと怒っている人がいます。なんだか近寄りたくないですね。こわいですよね。でも実は、その人は傷ついて弱っているんです。だから近づくなと怒っているんです。

 ニコニコと笑っている人がいます。とってもやさしそうです。でも実は、そんな人ほど強いんです。本当に強い人はやさしいんです。

 ある日の昼下がり、仏さまのお弟子の2人がケンカをしてしまいました。2人はとてもはげしく悪口を言いあっていました。そこへ他のお弟子も集まってきて2人の間に割って入り、ようやく落ち着かせました。そのとき仏さまが近づいてきました。

 「どうしましたか?」 1人のお弟子が仏さまにケンカのいきさつを話しました。仏さまがケンカした2人に歩み寄り、みんなを見わたして言いました。

 「みなさん、怒りは他人をこわがらせるものではありません。自分自身をこわがらせるものなのです。怒りをおさめて、みずから反省することがいちばん大切なのです」

 そして、仏さまは、帝釈天(善い神様)と、阿修羅(悪い神様)の戦いの話をされました。

その昔、帝釈天たちと阿修羅たちは、とてもはげしい戦争を繰り返していました。

 何度も戦った末、帝釈天たちはついに勝利しました。

 手足をしばられ、帝釈天の前に座らされた阿修羅の王は、帝釈天にペッとつばを吐きかけて言いました。

 「こんなことで勝つたと思うなよ。こんな縄はいつだってほどけるんだ。おまえたちの聖人ぶったアホづらを見たくて、オレさまはわざわざつかまってやったんだ。今度は貴様がオレの前でびびって小使をもらす番だ」

この悪口雑言を聞いて、怒りに震えた帝釈天の家来たち。

 「帝釈天さま、なんとかおっしやってください。このまま阿修羅王の罵声をお許しになるおつもりですか。何をこわがっているのです。すぐに殺してしまいましよう」

 帝釈天はやさしくほほ笑み、家来たちに言いました。

 「わたしがどうして縄にしばられている相手をおそれようか。正しい知恵を大切にし、おろかなことをしないのがわたしの信条なのだよ。どのように罵られようと、心静かに黙つていれば、相手は自分のまちがいを認めるものだ」

 それを聞いて、家来は言いました。

 「いいえ、黙っているだけでは、こわがっているのと同じです。阿修羅王は帝釈天さまにむかって臆病者と言って、バカにしているのです」

 帝釈天は、家来の肩にそっと手をおいて言いました。

 「いいかい。わたしはひるんで言っているのではないのだよ。そのように見えてしまうのは、お前が怒りにとらわれて、ものごとがありのままに見えなくなっているからなのだ。わたしは究極の真理を見極め、忍耐(がまんして耐えること)と沈黙(静かに黙っていること)こそがいちばん大切なものだと気づいたんだ。悪の中の悪とは、怒りに怒りをもって応えることだ。本当に強い者は、怒りに耐え、怒りを包み込んでしまって、それを収めてしまう者なのだよ」

 帝釈天の言葉は、家来の心に突き刺さりました。

 そして続けて、帝釈天は言いました。

 「多くの人は、悪口を言われて耐えている者のほうを愚か者と見なすものだ。だが、もしもその人が本当に強い人であるなら、それでも弱者のごとくふるまうであろう。わたしはこれがいちばん大切なことだと思うのだ」

 その言葉を聞いた家来は、両手をついて謝りました。

 「帝釈天さま、わたしが間違っておりました。どうかお許しください」

 その目からは大粒の涙がこぼれていました。

 〜〜 〜〜 〜〜

 仏さまがここまで語られたとき、ケンカした2人のお弟子は恥ずかしさと後悔の気持ちでいっばいでした。

 「みなさん、帝釈天は、屈辱に負けない力、本当の強さを養っていたのです。みずからの怒りの心に負けてしまって、人と争うようではいけませんよ」 と、仏さまは諭されました。

 仏さまは、ケンカした2人のお弟子に「帝釈天と阿修羅」のお話を語られ、「みずからの怒りの心に負けてしまって、人と争うようではいけませんよ」と諭されました。

 厳しくも温かい仏さまの言葉は、お弟子たちの心にしみわたり、潤いを与えたことでしょう。まるで、乾いてひび割れた大地に、やさしく降りそそぐ雨のように。

 だれでも、ケンカしたり怒られたり間違ったりして、心に傷を負うことがあります。悔しくて腹がたって、怒りで心がいっばいになってしまうこともあります。

 その怒りは、相手に向けられているようですが、実は自分に向けられているのですね。ケンカしちやった後、勝っても負けても自分の心がつらくなること、ありますよね。

 このお話でも「怒りは他人をこわがらせるものではありません。自分自身をこわがらせるものなのです。怒りをおさめて、みずから反省することがいちばん大切なのです」と仏さまがおっしやっていました。

 たとえば、人を指さして悪口を言ったとしましょう。5本の指のうち、1本は相手に向いていますが、のこりの4本の指はどこを向いているでしょうか。少なくとも2本は自分を向いていませんか?

 やっばり相手に向けた怒りは、それ以上に自分に向けられているのです。

「怒りはなくせる?」

 でも、そもそも怒りをなくすことはできるのでしょうか。

 毎日、学校でたくさんの出来事がありますし、たくさんの友だちとも接します。楽しいこともあるけれど、イヤな気持ちになることもあるでしう。おうちで家族といても、ちょっとしたことでプンプン怒ってしまったり、反対に怒らせたりしてしまうこともあるでしょう。怒りをなくすなんて、なんだかむずかしそうですね。

 

 【良くない3兄弟】

 怒りのことを仏教の専門用語で「瞋恚」といいます。瞋恚は怒りの心ですから、あまり良い心だとは言えませんね。良くない心です。良くない心にはたくさん種類がありますが、それらをまとめて「煩悩」と言います。

 良くない心「煩悩」には、実は2人の兄弟がいます。1人目は良くない行動の「業」。悪口を言ったり、イヤがらせをしたり、悪い行いのことです。もう1人は、苦しみそのものである「苦」。心が苦しいのはイヤですよね。イヤな思いをさせてしまうと、結局自分の心が苦しいものです。この苦しみのことを「苦」といいます。

煩悩・業・苦。この良くない3兄弟を、あわせて「三道」と呼びます。

 さて、わたしたちがこの3道をなくすことは、ほとんど不可能です。困ったものです。それでは、わたしたちはどうすればよいのでしょうか。

 

 【三道を三徳へ】

 日蓮大聖人さまは、「煩悩・業・苦の三道は法華経の教えによって三徳にできるんだよ」と教えてくださっています。

 三徳とは、すばらしい姿(法身)と、すばらしい知恵(般若)と苦しみからの解放(解脱)のことです。

 法華経の教えは、お題目の中にすべて込められています。

 ケンカしてしまったり、イヤな思いをしたときは、怒りにまかせて大騒ぎせずに、グッとこらえて心の中でお題目を唱えてみましょう。そうすると、そのイヤな思いへの向き合い方や、イヤな思いそのものが変わるでしょう。そして、キミの中の善い心に気づいて、本当の強さを持つたやさしいステキな人になれるでしょう。

 

 「三道即三徳」の法門は『始聞仏乗義』(全集982頁)に詳しく見られます。

 三道と三徳。相対する二義ですが、法華経信仰によって三道は成仏する因としての価値を有し、妙法受持によって変毒為薬して、三徳を得ることができるという法門です。

 次世代の子供たちが困難にぶっかったとき、その心に寄り添い、法華経信仰を勧めて共に読経・唱題に努めましょう。仏の慈悲を語り、さまざまな角度からのものの見方を提示して、より良い未来へのきっかけとし、その困難をかえって法燈相続の種としたいものです。

 

 

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