やさしい仏教教室

 

第23回 「ひとくちの水」

 

すべては、たまわったもの

  「情け」と感謝で、わけあおう

 

キミは、のどが  カラカラです。

友だちも、のどがカラカラです。

水はコップに一杯だけ。どうしますか?

そう。仲良く半分こすれば、よいですね。

のどの乾きにはすこし足りないかもしれない

けれど、そのぶん心がう-んと潤います。

 

 ある日、仏さまのお弟子である目連が道を歩いていると、木の下に人かげが見えました。近づくにつれて、目連の眼はそこにくぎづけになりました。人かげのようすが、どうもおかしいのです。

 からだは骨と皮だけで、やせ細っています。おなかは小山のようにふくれ、枯れ木のような足を、くの字にまげて、やっとのこと立っています。からだ全体に水気がなく、ゆらゆらとかげろうが立っているようです。

 とても痛ましいすがたを見かねて、目連が声をかけると、走って逃げてしまいました。その先には川が見えたので、水を飲みに行ったのだと目連は思いました。

 ところが、その人が川のほとりについたとたん、川はスーツと消えてしまいました。

 今度はポツボツと雨がふってきたので、これであの人も助かると目連は思いました。

 ところが、雨の一粒、一粒が、その人のからだに触れるたびに、火となって燃えてしまうのです。

 「なんてかわいそうに・・・」

 目連は助けることもできず、仏さまのもとへ行き、なぜあの人はあのような目にあっているのかをたずねました。

 仏さまは、しばらくの間、遠くかなたを見つめてから、おっしやいました。

 「目連よ。あの人は昔、たったひとくちの水を惜しんだばかりに、あのような苦しみを自分で招いてしまったのだよ」

 そして、神通力という、ふしぎな力を使って、あの人の昔のすかたを映しました・・・。

〜〜〜  〜〜〜

 ある女の人が、ひいに汗を光らせて、井戸から水を汲んでいます。

 桶が水でいっぱいになったところへ、のどが渇いたお坊さんがやってきました。

 お坊さんのすがたを見るなり、女の人はすかさず言いました。

 「この水なら、一滴だって、やれやしないよ。苦労してやっと汲みおわったところなんだからさ。水なら井戸にいくらでもあるんだから、かってに汲んで飲むがいいさ」

 そう言いすてると、女の人は桶を頭にのせて、さっさと帰ろうとしました。そのとき水がすこしこぼれましたが、それはひとくちの水よりも多かったのです。

 家につくと、女の人は台所に水の入った桶をおろしながら言いました。

 「あつかましいったらありゃしない。人がせっかく汲んだ水をやれるもんかね。ああ、イヤだ、イヤだ」

 そのとき、家の中から声がしました。

 「そんなことを言うものじゃないよ。汲んだのはお前でも、水は自然のめぐみだろう。ひとくちあげたらよかったのに・・・。人さまが喜んでくださるのを見るほど、うれしいことはないじやないか・・・」

 女の人はそれを聞くと、ますます怒って目をつり上げ、声のしたほうにペツとつばをはきかけました。

 すると、女の人も声のした家も、スーツと消えました。

〜〜〜  〜〜〜

 「汗を流して水を汲めば、自分のものだと思い込む。井戸も釣瓶も桶も、自分のものだと思っているその手だって、たまわったものてあることに気がつかない。

 それはこの人だけのことであろうか・・・」

 仏さまは少し悲しそうなまなざしで、そう言いました。

 たったひとくちの水を惜しんでしまったあの人。とてもひもじく、つらい思いをしてしまいました。こんな思いをすることがわかっていたのなら、昔のあの時にひとくちの水をさし上げればよかったのですが…。

 このお話が教えてくれること、それは自分がよければそれでよいという態度はダメですよ、ということです。

 

【情けは人の為・・・】

 「情けは人の為ならず」という言葉があります。「情け」とは相手を思いやるやさしい心のことです。

 この「情け」が「人の為ならず」とは、どういうことでしょうか。

 これは、「相手を思いやるやさしい心が、相手の為にならない」という意味ではありません。「相手を思いやるやさしい心は、相手の為になることはもちろん、めぐりめぐって自分の為にもなる」という意味です。

 だから、困っている人がいたら、迷わず助けてあげましょう。つらい思いをしている人がいたなら、すかさず声をかけて、やさしい心で寄りそってあげましよう。

 キミの「情け」、そのやさしい一つの行動は、相手のためになることはもちろん、実はキミに3つの喜びをもたらしてくれます。

 1つ目は、助けた相手が喜んでくれることです。上のお話には、「人さまが喜んでくださるのを見るほど、うれしいことはないじやないか」とあります。相手がにっこり笑顔で「ありがとう」と言ってくれたら、自分だってうれしいですよね。

 2つ目に、「情け」をかけるというやさしい行動ができるキミは、今までやさしい心を育てて来れたという喜びです。お父さん、お母さん、友だちや先生、その他たくさんの人と、キミは接してきたことでしよう。

 うれしかったこと、楽しがったこと、つらかったこと、怒られたこと、誰にだってたくさんあります。そのすべてが、キミのやさしい心を育ててくれた原因だったんですね。

 キミにご縁のあったすべての人は、そのやさしい心でやさしい行動のできるキミを喜んでくれるでしょう。キミを喜んでくれる人がいる。こんなにうれしくてありがたいことはありませんよね。

 3つ目は、良い原因を作れたということです。良い原因は、必ず良い結果をもたらします。暗くて困っている人に明かりを照らしてあげたなら、自分の前だって明るくなりますね。やさしい心は、わけてあげても減ることはありません。きっとキミにもやさしい心が返ってきますよ。

 

【誰のもの?】

 さて、実は今回のお話が教えてくれていることが、もう1つあります。

 お話の中で仏さまは、「汗を流して水を汲めば、自分のものだと思い込む。井戸も釣瓶も桶も、自分のものだと思っているそ手だって、たまわったものであることに気がつかない」と、おっしやっていますね。

 つまり、キミのもっているものは「たまわったもの(=いただいたもの)」なのてす。そしてキミ自身も、いただいたものなのです。これはとても大事なことです。

 キミの頭も、からだも手も足も、お父さんとお母さんからいただいたものです。また、今まで食べてきた無数の命によって育てていただいたものです。

 そしてキミの心も、今まてご縁のあったすべてに育てていただいたものです。

 だからキミはみんなにとって、とても大切な存在なんです。もちろん、他のみんなだって同じように大切な存在です。

 そのすべてへの最高の感謝と恩返し。それこそが日蓮大聖人さまが教える、”お題目を唱える”となのです。

 


 

 人への施しを惜しむ貪る心。ゆえに相手にぶつける瞋る心。惜しんだ施しをうっかりこぼす愚かな心。

 この貪・瞋・癡の三毒の心を乗り越えて、善き心を発揮するには、その指針となって正しい心を教える南無妙法蓮華経の信仰が必要不可欠です。

 大聖人の御書「「忘持経事」には 「我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり」(全集977頁)とあります。

 たまわったこの命に宿る貴い一念心を磨く仏道修行には、老いも若きも関係ありません。大聖人の仰せを心肝に染めるという信心を皆で共有し、ともに唱題に励みましょう。

 

 

 

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