やさしい仏教教室

 

第22回 「チューラ・パンタカ」

 

得意も苦手もみんなある

 はらおう心の中の「ちり」

 

 キミは、掃除は得意ですか? それとも苦手ですか? 

 ・・・そうですか。そうですね。

 さて、掃除をした結果をきらいな人はきっといないのではないでしょうか。部屋も心もすっきりして気持ちがいいものです。

 今回は、勉強は苦手だけど、掃除が得意で好きなお弟子のお話です。

 

 

 ある町にパンタカという兄弟がいました。

 マハー・パンタカがお兄さん、チューラ・パンタカが弟でした。

 兄弟のおじいさんは兄をつれて、よく仏さまのお話を聞きに行きました。やがて、兄は仏さまの弟子になりたいと思いました。おじいさんは喜んで許しました。兄はとてもかしこくて、とても努力したので、すぐに立派なお弟子になりました。

 ある日、兄はふと弟のことが気になりました。そして、弟を迎えに行き、あつい心で仏さまのもとへ連れて行きました。こうして弟も仏さまのお弟子になりました。

 弟は素直な性格でした。めんどうくさがったり、イヤな顔をせずに、毎日のつとめをはたしました。

 ところが、一つだけ困るところがありました。暗記することが大の苦手だったのです。

 がんばって努力して1付目を覚えても、2行目に取りかかると、もう前の行を思いだすことができません。

 最初は弟をかわいそうだと思っていた兄もだんだんイヤになってきました。仲間のお弟子たちはだれも弟をばかにしたり、兄をからかったりはしませんでした。

 しかし、兄は「みんな心の中ではぼくたちを笑っているかもしれない。弟を連れてくるんじやなかった」という思いがちらつきかけていました。そんなとき、町のお医者さんが仏さまとお弟子たちを食事に招待したいと言いました。

 弟子の人数を知らせるのが兄の役目でした。しかし、兄は弟を数に入れませんでした。そして弟を呼んで、こっそり家に帰るように言いました。

 弟は悲しくて泣きました。たしかに、ものを覚えるのが苦手ではありましたが、仏さまを尊敬する気持ちが強く、ここを出ていくのが辛かったのでした。

 弟が泣きながら歩いていると、仏さまがわけをたずねました。弟が涙をふきながらわけを話すと、仏さまはやさしく言いました。

 「泣くことはない。だれにでも苦手なことはあるものだよ。反対に、だれにでも得意なこともあるのだよ。得意なことはなんだい?」

 「はい。わたしは掃除が好きてす」

 「では、この布で壁をみがいておくれ。みがきながら”ちりをはらい、ちりをはらい“とくりかえしてごらん」

 弟はわき目もふらず自分の部屋の壁をみがきました。

 次の日、仏さまとお弟子たちは、お医者さんの招待を受けに行きました。その席て仏さまは、「弟子がひとり足り
ないようだが…」と言いました。

 すると兄が「はい、弟はあまりにもの覚えが悪いので、家に帰しました」。

仏さまは、「わたしの弟子の中で欠点のない者がいるだろうか。また、欠点のない者に仏の教えが必要だろうか。マハー・パンタカよ。チューラ・パンタカを迎えに行ってあげなさい」

 兄はたちまち自分のしたことのまちがいに気づいて、弟を迎えに行きました。すると向こうから、ろうろうと声が聞こえてきます。

 「ちりをはらい、ちりをはらい・・」

 それはまさしく弟の声でしたが、自信のない、おずおずとした昨日までの声ではありません。

 声を聞くと、弟は輝くばかりの顔でひたすら壁をみがいています。その姿に、兄は思わず合掌してしまいました。

 

【お話のつづき】

 「ちりをはらい、ちりをはらい・・・」と言いながら壁をみがくパンタカ兄弟の弟、チューラ・パンタカ。このお話にはつづきがあります。

 チューラ・パンタカは、みがいているうちに、あることにハッと気がつきました。

 「ちり」というのは、ただ壁や床をよごしている「ちり」ではなく、心の中にある[ちり]、つまり心のよごれのことだったのです。心のよごれとは、わるい気持ち、ずるい気持ち、いじわるな気持ち、おこりんぼな気持ち、などのことです。

 「ちりをはらい・・・」と言いながら壁をみがく修行は、じつは、自分の心をきれいにみがく修行だったのです。

 これに気づけたことを仏さまに報告に行くと、仏さまはとてもほめてくれました。

 もの覚えがわるく、自信がもてなかったチューラ・パンタカは、とてもうれしく思いました。初めて自信がもてたのてす。

 

【初めてのお説法】

 あるとき、仏さまはチューラ・パンタカに、500人の比丘尼(女性のお坊さん)にお説法をするように言いまいた。

 比丘尼たちはチューラ・パンタカが、もの覚えがわるいことを知っています。

 ある一人は、「私の方が先輩だわ」と言いました。

 またある一人は、「私の方が仏さまの教えをたくさん知っているわ」と言いました。

 またある一人は、「お説法がはじまったら、みんなてバカにして恥をかかせて笑ってやりましょう」と言いました。この提案にみんな賛成しました。

 そしてお説法の日。500人の比丘尼はチューラ・パンタカを前にしてニヤニヤしています。

 そんな中、チューラ・パンタカが初めてのお説法をしました。心のちりをはらい清めて、仏さまの教えを修行することについて、一生懸命に心を込めてお話ししました。

 すると比丘尼たちは、つぎつぎと涙をながして泣き出しました。

 チューラ・パンタカのお説法は、なにせ初めてですから上手でもなければ、別にめずらしい話でもありませんでした。

 しかし、比丘尼たちは、自分たちの思いあがった心、きたない心に恐怖と恥、深い反省を感じて、涙が止まらなかったのです。

 こうして、500人の比丘尼たちもチューラ・パンタカのお説法によって正しい心とな
り、立派なお弟子になることがてきました。

 

【心をきれいに】

 チューラ・パンタカは、自分の名前さ忘れてしまうほど、もの覚えがわるかったのてすが、仏さまの教えを素直に信じて修行したところ、みんなから尊敬される立派な人になりました。すばらしいお手本ですね。

 勉強、連動、パズル、料理、片付け、読書・・・、どんなことでも、だれにでも、得意なこともあれば、苦手なこともあります。

 チューラ・パンタカのように、掃除が得意な人もいるでしょうし、苫手な人もいるでしょう。

 苦手があることはわるいことではありません。苦手があるから、できないことがあるから、素直にもなれるし、人の話を聞くこともできるものです。だから大丈夫です。

 なにができても、できなくても、いちばん大切なことは、仏さまの教えを素直に信じて、心をきれいにみがいていくことです。

 では、令和の時代に生きる私たちへの、仏さまの教えは何でしょうか。それは、日蓮大聖人さまを信じ、お題日を唱えて、心をきれいにみがきましょう、ということです。

 

 


 

 今回のお話に出てくる兄弟の兄であるマハー・バンタカは、漢語で摩詞槃特、弟であるチューラ・パンタカは、漢語では須利槃特や周利槃特のように音写されます。「法華経題目抄」には、「鈍根第1の須利槃特は、智恵もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給ふ」とあります。

 切磋琢磨とは言いつつも、さまざまに比較され、競争を強いられる昨今の社会において、子供たちはその禍を被りやすいものです。どんな状況下においても子供たちを温かく見守り、大聖人さまと御本尊さまが守ってくださることを教えて、大きな安心を伝えましよう。

 そして、唱題によって心を磨く、純莫な信仰心を育みたいものです。

 

 

 

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