やさしい仏教教室
第21回 「七つの馬車」
正しい教えを聴き学び
目指すは「ちゃんとした人間」
キミが生まれたとき、キミは泣いていました。
キミが生まれたとき、周りのだれもが笑っていました。キミがみんなを笑顔にしたのです。
あれからいろんなことがありました。
かぞえきれないくらいありました。
そのどれかひとつでも欠けていたなら、今のキミではありませんでした。
仏さまには、フルナ(富楼那)というお弟子がいました。フルナはとても頭が良く、仏さまの教えをわかりやすく教えることができました。だから、仏さまのたくさんのお弟子の中でも、説法第一と言われて作敬されていました。
また、仏さまにはシャリホツ(舎利弗)というお弟子もいました。シャリホツもとても頭が良く、かしこかったので、智慧第一と言われて尊敬されていました。
あるときシャリホツは、みんなから尊敬されているフルナとお話をしてみたいと思っていたので、会いに行きました。
シャリホツはフルナに聞きました。
「フルナさま、とつぜん失礼いたします。あなたはりっぱなお徳を身につけていらっしやるとお見受けいたします。それは仏さまの教えによって身につけられたのですか?」
フルナは、
「そうてす。すべて仏さまの教えによるものです」と答えました。
シャリホツは、
「では、仏さまから授けられた戒律などの決まりごとをきちんと守ることで、そのお徳を身につけられたのですか?」と聞きました。
フルナは、「いいえ」と答えました。
「では、心を見つめる瞑想によって身につけたのですか?」
「いいえ」
「では、惜しまず人に施す布施行の実践ですか?」
「いいえ」
他にもシャリホツは修行の理由をいくつも聞きましたが、何を聞いてもフルナはすべて「いいえ」と答えます。
フルナは、「つまり、どれか一つの教えによるのではないということです」と答え、あるたとえ話をしました。
「たとえば、ある遠くの地へ急用で行くとしましよう。馬車にのって急いで出発しますが、一生懸命に走つた馬は途中で疲れてしまいます。
そのときに次の馬車が用意してあれば、それに乗り換えてまた元気に進むことができるでしょう。
またその馬が疲れたときには、3台目の馬車が用意してあれば、それに乗り換えて再び元気に進むことができるでしょう。
こうして、4台目、5台目、6台目、7台日と馬車を乗りついで、目的の地へたどり着けたとします。
これはすべての馬車のおかけです。目的の地までの間に配置した馬車のどれひとつ欠けてもたどり着くことはてきませんでした。
これと同じように、私も仏さまのどれか一つの教えによって徳を身につけたのてはありません。
戒律を守るだけてなく、瞑想(心を静めて集中すること)だけでなく、布施行の実践だけなく、そのほかのどんな教えだけでもありません。仏さまの教えのすべてによってこの徳を得ることができたのです」
シャリホツはそのたとえ話のわかりやすさに感心しました。
ところであなたのお名前は?」
とフルナは聞きました。シャリホツが自己紹介すると、
「あなたがシャリホツさまでしたか。ご高名はかねてより聞いておりました。これはお見それいたしました。
あなたほどの方にはいささかおせっかいなたとえ話でしたな。失礼しました」
とフルナは恥ずかしそうに言いました。
そして、二人はお互いに尊敬して認め合い、この出会いを喜び合いました。
フルナのたとえ話は「七車のたとえ」と言われています。
目的の地に着くことができたのは、七つの馬車の力が台わさったからです。
もう少し細かく考えてみましょう。
それぞれの馬車を用意してくれた人。それぞれの馬を育ててくれた人。馬に乗る方法を教えてくれた人・・・
他にも考え始めるときりがないほど、たくんの人やもの、関わるすべての力が合わさっていることに気づくことでしょう。
そのどれ一つ欠けても、目的の地へたどり着くことはてきませんでした。
これはリレーや駅伝を思い出せばよくわかるのではないかと思います。
一本のタスキを肩にかけ、一生懸命に走って次の人につなぐ。途中の誰一人として欠けてはゴールまでたどりれけません。゛みんながお互いに支えたり、支えられたりしているんです。
【目的の地の先】
さて、人はみんな「目的の地」に向かってがんばっています。
たとえば高校野球。
試合に勝つという目標に向かって、たくさん練習にはげみます。
「七車のたとえ」にあてはめると、試合に勝つことが「目的の地」、練習を重ねることが、馬車で走ることにあたります。
試台に勝てるときもあれば、負けるときもあります。「目的の地」にたどり着けるときもあれば、そうでないときもあるのです。
今年は新型コロナウイルスの影響でたくさんのスポーツの大会が中止になりました。
高校野球の華やかな大会、3年生にとっては最後の大会も中止になりました。ある高校野球の選手が次のように言っていました。
「最後の大会が中止になったことは残念ですが、その先にある、ちゃんとした人閻になるという目標だけは見失わないようにしたいてす」と。
この選手は「最後の大会」を目標に今までがんばってきました。そして、それが中止になったことを受け止めて、「試台に勝つ」という目標のその先に、「ちゃんとした人間になる」という目標をあらためて見つめ、「目的の地」をここに設定したのです。
オリンピックも中止になり、多くの選手が目標を見失い、今まて培ってきた力を発揮する舞台を失いました。つらく悲しい思いをした選手がたくさんいると思います。
でも、この高校生のように前向きに力強いあらだな一歩を踏み出した人がたくさんいることもまた事実です。
私たちそれぞれの「目的の地」は、ときに新しくしたりしながら押し進めていくものなのですね。勉強することも運動することも、仕事をすることも、どんなことも「ちゃんとした人間になる」ことが最終目標つまり[目的の地]になるのだと思います。
では、「ちゃんとした人間」とはどんな人のことでしようか?
それは、正しい心を持った人。自分勝手な正しさではなく、自分も他人もみんなが幸せになることを願う正しさです。
そしてその正しい心とは、仏さまの心です。仏さまはいつも私たちを見つめてくださっていて、それぞれが経験する出来事すべてを通して、正しい心とは何かを問いかけられています。
だから実は、キミが今まで生きてきたどの瞬間も、仏さまの教えに満たされていて、そのどれ一つ欠けても「目的の地」へ行くことはできません。
そのことに気づいて仏さまの正しい心と教えを信じることが、お題目を唱えることなのです。
富楼那尊者は舎利弗尊者と同じく、釈尊の十大弟子に名を連ねる高弟てす。「七車のたとえ」は爾前経の教えですが、たいへんわかりやすく首肯できるお話だと思います。
どの馬車が欠けても目的の地へはたどり着けないように、想像を絶するほどの過去から続く命のリレーは、途中の一つでも欠けていたなら、そのバトンは今の私たちへはたどり着いていません。その広大深遠な”妙法蓮華経”の営みが私たちを生かしてくださっています。
秋季彼岸会にあたり、曰蓮大聖人が教え示し、授けてくださったお題日に”南無(帰命)”して心を込めて唱題し、先祖有縁の諸精霊をはじめとした法界すべてに報恩謝徳申し上げましよう。