やさしい仏教教室

 

第20回「お母さんを救え!」

 

おだいもくは最高の

   ご先祖供養親孝行

 

キミのお母さんはどんなお母さんですか?

何もできない生まれたての赤ん坊だったキミを知っているお母さん。

キミが歩くことやしゃべることを覚えていくのをそばで見守ってくれていたお母さん。

今回は、仏さまのお弟子が、苦しんでいるお母さんを救うお話です。

 

 

仏さまのお弟子の中に目連尊者という方がいました。

目連尊者はとても優秀で、すばらしいお弟子でした。仏さまのもとで一生懸命に修行して、六つの不思議な力を身につけました。

あるとき、目連尊者は「亡くなったお母さんはどこでどうしているのだろう?」と思いました。そして身につけた不思議な力の一つ、「天眼」をつかって、この世界の全部を見わたしてお母さんをさがしました。

すると、大地の下の餓鬼道という苦しい世界に、お母さんはいました。

餓鬼道は食べ物や飲み物がなくて、とてもひもじい世界です。お母さんはお腹をすかせてひもじい思いをしていました。

栄養不足になってしまって、かみの毛が抜けてしまった頭は、まりのように丸く、首は糸のように細く、お腹は風船のように大きくふくらんでいました。

お腹が空いているので、口を大きくあけて、手を合わせて食べ物をほしがっていました。

お母さんの様子を見た目連尊者は、どれほど悲しい思いだったことでしょう。

目連尊者は、神通力という不思議な力をつかって、お母さんにおにぎりを差し上げました。お母さんがおにぎりを食べると、どうしたことでしょうか。口の中でおにぎりが火となって、たちまちお母さんの体は燃え上がってしまいました。

びっくりした目連尊者は火を消すために、あわてて神通力で水をかけました。すると、どうしたことでしょう。今度は火に油をかけたかのように、もっとはげしく燃えだしてしまいました。

「自分の力ではどうしてもお母さんを救うことができない」

目連尊者はそう思って、大急ぎで仏さまのもとへ相談に行きました。仏さまは。

「そなたの母はとても罪が深いので、餓鬼道におちてしまいました。ちょっとやそっとではとても救うことはできません。

どうしても救いたければ、あらゆるところから徳の高いご僧侶をお招きして、たくさんのごちそうをささげて供養し、法要をおこないなさい。そうすれば、母を苦しみから救うことができるでしよう」

目連尊者はすぐさま仏さまに言われたとおりにしました。

そして長いあいた餓鬼道で苦しんでいたお母さんを救うことができたのです。

今回のお話は「孟蘭盆経」というお経のお話です。

『孟蘭盆」というのは昔のインドの言葉の「ウルラムバナ」のことです。昔の中国の人が、耳に闘こえた「ウルラムバナ」を漢字で「孟蘭盆」と書きました。

 「ウラボン」

 「ウルラムバナ」

なんだかわかる気がしませんか? 音が似てますよね。

これはどんな意味かというと、子どもや孫から供養をしてもらえないご先祖の苦しみのことです。だから、キミがお盆の季節にご先祖さまのために、ご住職やご僧侶をお招きして、お経を唱えることは、ご先祖を苦しみから救い、喜んでもらえる、とても大切なことなのです。

さて、目連尊者のお母さんは青提女という名前でした。青提女は生きているときに、「慳貪の科」という罪をつくってしまいました。

「慳貪の科」とは、ケチなことをした罪のことです。

困っている人がいたとしても、自分のものを人にあたえず、助けてあげない「ケチんぼ」なことをしてしまったわけです。それが原因で、餓鬼道におちてしまったのでした。

仏さまは目連尊者に、お母さんを救うためにケチんぼとは反対のことである、お招きしたご僧侶へ食べ物や飲み物をささげて、みんなで法要をしなさいと教えました。

目連尊者は仏さまの教えのとおりにしたので、お母さんを餓鬼道の苦しみから救うことができました。

これでめでたし、めでたし・・・、ではありません。

なぜなら「苦しみから救われた」ということは、「苦しくなくなった」というだけのことです。本当の心の幸せや満足がもたらされたのではありません。

あるいは、ひとときの苦しみから救われたとしても、当然ふたたび苦しみはやってきます。

たとえば、キミがお腹ペコペコだったとしましょう。もし、おにぎりを一個だべたら、きっとお腹ペコペコ状態の苦しみからは救われるでしょう。けれども、満腹にはならないでしょう。それどころか、明日になればやっぱりお腹はふたたびぺコペコになるのです。

ですから、餓鬼道から救うだけでは本当に救ったことにはならないのです。

では、目連尊者のお母さんは、これ以上救われることはなかったのでしょうか。

実は、目連尊者とお母さんのお話には続きがあります。

日蓮大聖人さまは、このことについて「目連尊者は「法華経」という正しい教えにめぐりあい、素直な心で正直に南無妙法蓮華経とお題目を唱えたところ、仏さまのようになることができました。そのとき、目連尊者のお父さんもお母さんも本当に救われることができました」とおっしやっています。

仏さまのようになることは、これ以上ない最高の幸せとも言えましよう。

子どもの目連尊者がお題目を唱えたとき、お母さんは最高の幸せ者になったのです。

このことから考えると、キミがお題目を唱えると、キミはもちろんのこと、キミのお母さんもこの上なく幸せになるのです。これはすごいことだと思いませんか?

お母さんは、キミの幸せを願ってくれています。キミがうれしいと、お母さんもうれしいのです。それはなぜでしょうか?

キミはお母さんから生まれてきました。だからキミはお母さんの分身です。お母さんにとっては、キミがお母さんそのもの、あるいは自分よりも大切な宝物なのです。

キミが悲しいとお母さんも悲しいです。

キミが幸せだとお母さんも幸せなのです。

だから目連尊者がしたように、キミが素直な心でお題目を唱えて最高に幸せになったならば、お母さんも最高にうれしいし、幸せなのです。

キミがお題目を唱えて、仏さまの教えを信じて、いつも元気にがんばっている。ときにはつらくてくじけそうになったとしても、やはり仏さまの教えを強く信じて、正しく乗り越える心の力がある。親としては、これほどうれしく誇らしいことはありません。

お母さんがうれしいと、キミもうれしいでしょう?

どんなときも仏さまの教えを信じてお題目を唱えて信仰していきましょう。

さて、キミには当然お父さんもいます。おじいちゃんも、おばあちゃんもいます。亡くなったご先祖もたーくさんいます。これは空想ではなく事実です。

キミの素直な信心によってみんなに最高のよろこびと幸せを感じてもらえるのです。精一杯いいお顔で、お題目を唱えましょう。

 

 

お盆での先祖供養を大切にすることは、大いに法燈相続の機会となります。「法燈」とは法のともしび。ただ慣習や行事として法要をするのではなく、正しい教えと信心によって、真の追善供養のあり方を次世代に継ぐべく、自身の振る舞いをもって模範を示すことが大切です。

妙法蓮華経の前では、幼い子どもであっても、立派な大人であっても老齢であっても、誰一人例外なく、その「子」であり、「孫」となります。この命を授かったことの感謝をもって、お題目を真心から唱え捧げることで、ご先祖にも功徳がもたらされます。また日々の精進としても、「常盆」の志で信心錬磨に努めてまいりましよう。

 

 

 

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