やさしい仏教教室
第16回 「イカダのたとえ」
ちっちゃなことにはこだわらない
「お題目」こそ一番大きな良い心
きみはコロッケには何をかけて食べますか?
「絶対にソース!」
「いやいや、しようゆでしよう」
「ウチは先祖代々なにもかけない派」
いろいろな食べ方がありますね。それぞれに
食べ方のこだわりがあるのはよいことです。
でも、それしか食べ方がないわけではありません。知らなかった意外な食べ方がもっとおいしかったりします。
こだわりや思い込みから離れてみることも、時には大切なんてすね。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
仏さまがたくさんのお弟子たちにお説法していたときのことです。その中の一人が、思いあぐねた様子で仏さまに質問をしました。
「仏さまはいつも、執着をすてなさいとおっしやいます。
それでは、『仏さまのおしえしについてはどうなのでしようか。仏さまのおしえを大切にすることは執着することになりませんか?』
執着とは、あることにこだわり、心がとらわれて離れられなくなることです。
仏さまは、
『それは良い質問です。台日はそのことについて話しましよう。みなさんよく聞いてください』
といって、たとえ話を語られました。
「たとえば、ある人が旅の途中で、大きな川にたどりついたとしましよう。そこはゴツゴツした岩だらけで、すべってころんだらケガをしてしまいそうな、とてもあぶない場所でした。
反対に、川の向こう岸を見ると、平らな草地でとても歩きやすそうです。
旅人は、ぜひ川をわたって向こう岸を歩きたいと思いました。しかし川は深くて急で、舟もありません。
そこで旅人はイカダをつくって川をわたることに決めました。考えたとおりのイカダをつくり、それに乗つて一生けんめいに手と足でこいで、やっとのこと無事に川を渡ることができました」
聞いていたお弟子たちは、ホッと息をもらしました。仏さまは続けます。
「川を渡った旅人は、どのイカダはなかなか役に立つ。せっかく自分でつくったのだし何かの役に立つかもしれないから、担いでもっていこうこと思いつきました。
さて、みなさん。旅人がイカダを惜しんで執着し、担いで歩くことは、本当にイカダを活かすことになるでしょうか?」
お弟子たちは口々に答えました。
「いえ、そうは思いません」
「イカダは置いていくべきです」
「担いで歩くことは、イカダを活かしたことにはなりません」
仏さまは満足そうにニッコリして話をつづけます。
「そうですね。では、旅人はどうすればよかったのでしょうか。
イカダは、川を渡るのにとても役に立ちました。これは川を渡ろうとする他の人の役にも立つはずです。
持ち去るかわりに水にでもつないでおくか、引き上げておいて次の人が使えるようにしておけばよいでしょう。
旅人が担いで歩いても、重たいばかりでなんの役にも立ちません。
結局、イカダヘ執着する心を捨てるほうがすべてうまくいくのです。
これと同じように、わたしのおしえであろうとも、こだわって、とらわれて、執着してはいけないのです。
ましてや、それ以外のものに執着してはならないことは、いうまでもありません」
仏さまのお話を聞いていたお弟子たちは深くうなずきました。
最初に質問したお坊さんは晴れ晴れとした表情で仏さま合掌し、深く頭を下げました。
今回のお話で仏さまは、ものごとに執着してはいけませんとおっしやっています。
執着とは、「あることにこだわり、心がとらわれて離れられなくなること」。ここには、2つのことが書かれています。
1つ目は、「あることにこだわり…」という部分です。でも、こだわることは、そんなに悪くないように思いませんか? 勉強にしても運動にしても、こだわってがんばることは、むしろ必要なこと、大事なことではないでしょうか。
2つ目は、「・・・心がとらわれて離れられなくなること」という部分です。問題はここですね。心がとらわれて離れられなくなってしまっては、どうしていけないのでしょうか。
【算数】
たとえば、小学生になったら、算数の時間には、たし算とひき算を勉強します。
それから、かけ算やわり算を勉強します。だんだんレベルが上がっていくんですね。
中学生や高校生になれば、さらにレベルは高くなります。
やがて大人になったら、仕事で必要な計算はもつともっと複雑になっでいきます。
たし算とひき算はとても大切です。でも、たし算とひき算だけではできないこともたくさんあるのです。だから毎目勉強をして、少しずつ学ぶレベルも上がっていくのです。
たくさん勉強して、いろいろなことがわかったりできるようになったら、とても楽しいです。だから、実は大人も一所懸命にいろいろ勉強しているんですよ。
【含まれている】
さて、学校でたし算を習っているときに、たし算にこだわってたくさん練習することはとてもよいことです。
でも、「ぼくはたし算が好きだから、たし算しか勉強しない」となってしまったらどうでしよう。
これは、心がたし算にとらわれて離れられなくなっています。仏さまはこのことを、「いけませんよ」とおっしやっているのです。
どれだけたし算が大好きでも、実はかけ算の中にも、たし算はあります。レベルが上がるということは、別の事をやっているのではなくて、それが台まれているんです。
たし算はかけ算の中にあって、活かされています。
【旅人の心】
旅人がイカダに執着せずに置いていったとしても、別の川に出会えばまたイカダをつくって渡れることでしょう。なぜなら、「イカダをつくって川を渡れたぞ!」という自信が、旅人の心の中にあるからです。
【最高のおしえ】
仏さまのおしえはとてもたくさんありますが、その中にも算数のレベルで例えたようなちがいもあるのです。
仏さまのおしえはどれもすばらしいおしえですが、それでも仏さまご自分から「わたしのおしえであろうとも、こだわって、とらわれて執着してはいけない」とおっしやっています。なぜなら、低いおしえに執着してしまうと、もっとすばらしいおしえを聞くことができなくなってしまうからです。
その中で最高にすばらしい、すべてのおしえを台んだ仏さまのおしえを「妙法蓮華経」といいます。だから、お題目を唱えるということは、きみの心をどこまでもすばらしくて大きなものにしてくれるのです。
そのことを教えて下さったのが日蓮大聖人さまです。いつも正しい素直な心でお題目を唱えたいものですね。
法華経如来寿量品第十六には「皆実不虚」(皆、実にして虚しからず)という経文が2ヶ所に見えます。一切経に説かれる仏の教えは皆、真実であるということです。また、同品内の自我伺には「仏語実不虚」(仏語は実にして虚しからず)ともあり、これも同内容です。
あらゆるお経は仏説ですから偽りではありませんが、それは仏の教えのごく一部であってすべてではありません。
したがって、それらの教えに強く執着してしまうと、すべての教えを包含する諸経の王たる法華経に出会ったとしても、低い教えに基づく見方から抜け出すことができません。
日蓮大聖人の諸宗破折は、一切衆生を法華経によって救いたいという大慈大悲であり、決して思い込みによる我田引水の主張ではないのです。その御心を正しく拝し、報思感謝のお題目を唱えてまいりましよう。
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