やさしい仏教教室

 

 

第12回 「服の裏のたからもの」

 

「宝珠」とは仏さまからの宝物

     ありかは君の心のなかに

 

メガネを頭にかけながら、「メガネ、メガネ」と探している人、たまにいますね。

身近にありながら、なかなか気づけないことを「灯台もと暗し」ともいいます。

大切なものほど案外身近にあるものです。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 あるところに、一人の旅人がいました。決まった仕事もなく、トボトボとさまよい歩き、お腹をすかせて貧しい思いをしていました。

 あるとき立ち寄った国で、親友の家のちかくであることを思い出し、彼の家を訪ねることにしました。

 親友はとてもお金持ちで裕福だったので、家もたいへん立派なお屋敷でした。

 久しぶりに再会した二人はとても喜びました。そして親友の家の家来がごちそうを運んできてくれました。二人はたくさん食べて、たくさん飲んで、たくさん語り合いました。

 次の日の朝、親友は仕事があるので早起きをしました。旅人は長旅の疲れもあってか、まだ寝でいます。

 「かわいそうに。ずいぶん疲れているんだな。生活も苦しくてたいへんだらう」
 そう思った親友は、宝箱に大切にしまっておいた宝珠をもってきました。この宝珠は爪先はどの大きさで、簡単に手のひらに乗るようなものですが、この上なく最高に価値のある宝物でした。

 どんな願い事もかなえてくれるすばらしいこの宝珠を、親友は旅人の服の裏に、日立たないように隠して縫い付けました。

 「友よ、どうか幸せになるんだよ」

 寝ている旅人にそっと語りかけ、仕事へ出かけていきました。

 さて、しばらくして旅人は起きました。親友が見あたらないので親友の家の家来に聞いてみると、「旦那さまは仕事に出かけられまた。あなた様にくれぐれもよろしくとおっしやっていました」と言いました。

旅人は「ずいぶん寝坊してすっかり迷惑をかけてしまった。せっかくもてなしてくれたのに、お礼も言えずに悪いことをしたな」と思いながら、家来にお礼を言って、再び旅に出ました。

今までどおりのどこへ行くとも当てのない旅です。だんだんと食べるものにも着るものにも困ってきました。

ようやく見つけた仕事をなんとかこなし、その日の食べ物を得るという、とても貧しくてみすぼらしい日々を送っていました。

それから何ヶ月か何年か、しばらく時間がたったある日、お腹をすかせてふらふらと歩いている旅人の背中に、「友よ!」という声が飛んできました。振り返ると、あの親友ではありませんか。

旅人は「親友よ、よいところで会った。実はろくに食事をしていなくて腹が減って腹が減って・・・」と、はんぶん笑ったような情けないようすで言いました。

親友は悲しくなって「なんてことだ。どうして君はこんなに貧しくてわびしい生活をしているんだ」と残念がりました。

そして「僕は昔、君が我が家を訪ねてきてくれたときに、君の幸せを願って最高に価値のある宝珠を、君の服の裏に縫い付けておいたのだよ」と言いました。

そんなことをまったく知らない旅人はとてもびっくりしました。

親友は続けて「今もきっと君はその宝珠をなくさすに持っているはずだ」と教えてあげました。

あわてて旅人が自分の襟元を探してみると、光りかがやくすばらしい宝珠があるではありませんか。親友が教えてくれるまで、ぜんぜん気がつきませんでした。

親友は「さあ、その宝珠で君が必要なものをすべてそろえよう。これからはすべてに満足できる。決して苦しむことはないんだよ」と旅人に教えてあげました。

こうして旅人は親友に感謝の念を忘れずに、いつまでも幸せな生活をちくりました。

 

君の欲しいものは何ですか?

サッカーボール?

新しい洋服?

ゲームのカセット?

子どもだって、大人だって、欲しいものだらけです。では、どうしてあれこれ欲しくなるのでしょう。

持っていないから?

自慢できるから?

楽しそうだから?

いろいろな理由があるでしょうが、よく考えていくと、「自分がよい気分になりたいから」です。イヤな気分になるものをわざわざ欲しがったりはしませんね。

「よい気分になりたいから」…。言い方を変えると、「幸せになりたいから」とできるでしょうか。みんな幸せになりたいからあれこれ欲しがるのです。

でも、あれこれ欲しがる気持ちにはかぎりがありません。

たとえば、欲しかったゲームを買ってもらっても、すぐに別のゲームが欲しくなってしまうようなものです。

このことは悪いことというよりも、君も私も誰もかもがみんなそういうものなのです。

これを知っておくことがまず大切です。みんな何でも欲しがって苦しんでいるのです。

さて、幸せになるために何かを欲しがって手に入れても、次の何かが欲しくなるということが意味するもの。それは、欲しがったものがほんの少しの時間は満足感をくれたにせよ、本当の意味で幸せにしてくれるものではなかったということでしよう。

では本当に私たちを幸せな気持ちにしてくれる宝物とはいったい何でしょうか。

それこそ旅人が親友から譲り受けた宝珠なのです。なかなか気づけなかったけど、苦しい旅の中で再会した親友が、以前に宝珠を授けてくれたことと、今もそれを旅人が持っているはずだということを教えてくれました。

それで、旅人は苦しく貧しい生活から抜け出し、いつまでも幸せに暮らすことができました。

なかなか気づけないけど、私たちも持っているはずの宝珠。実はそれは仏さまの心です。それをまた「南無妙法蓮華経」と言います。そう、お題目です。そして、このお題目のことを初めて私たちに教えてくださっだのは日蓮大聖人さまです。

うれしいこともイヤなことも、きちんと理由があって起きている。そしてそれは君を成長させてくれるヒント、メッセージ。お題日という自分の持つ「宝珠」に気づけば、すべてのことが君の栄養味方になります。

それを教えてくれた大聖人さまへの感謝を忘れず、君とみんなの幸せを祈って、お題目を唱えましょう。

 


今月は「法華経」五百弟子授記品第八に説かれている「衣裏繋珠の譬え」を取り上げました。品題の通り、成仏の記別を受けた五百人の阿羅漢の弟子たちが、自らの信仰姿勢を反省懺悔し、仏心の領解を述べた譬喩です。弟子たちは自らを旅人、釈尊を親友に譬ています。

二乗が過去に釈尊より仏種を下種されたことを、親友が衣服の裏に縫い付けてくれた宝珠に譬えており、そのことを忘失し方便の小さな悟りで満足していた様子を、その日暮らしの貧しく、わびしい生活に甘んじていた旅人として描いています。

自らの衣服に縫い付けられた宝珠、つまり自らの心に備わる仏心に、私たちはいつでも気づける状態にあると言えるでしょう。しかしそれを自分の外側に求めてしまうところに苦しむ一囚があるのです。

心底から妙法蓮華経を信じ、お題目を唱えていくことが縁となって、本来備わっている仏種が薫発し、それが芽となり花となる。まずは私たちに仏さまから無上の宝珠が与えられていて、改めて仏さまから教えを受けてはじめて気づくことができ、旅人が苦しみの流浪生活から抜け出して幸せを得たように、私たちの永遠な、そしてこの上ない幸せ、つまり成仏もそこにあるということ。このことをお題目を信心受持する私たちはまず自覚し、また他の人にも教えていくことが必要です。

「自行化他」と言うとおり、自ら行じることと、他を教化することは一味であり、どちらか一方だけで成り立つものではありません。自他共の成仏を願って、日蓮大聖人の御教示を柔和質直にして正直に信じ学び、法華経の身読、お題目の受持信行にいよいよ励みましょう。

 

 

 

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