やさしい仏教教室

 

 

第11回 「小さな種」

 

小さな良いこと悪いこと

かならず大きく育ちます

 

読書の秋。スポーツの秋。なかでもやっぱり食欲の秋。おいしい果物、おいしいお野菜、最高ですね。そこで少し考えてみましよう。

 どんなに立派に実った果物もお野菜も、最初は小さな、小さな一粒の種でした。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

あるとき、仏さまは夕コンジュ村というところで乞食をしていました。乞食とは、僧侶がお説法をして、食べものや着るものなどの供養を受ける修行のことです。

ある女性が仏さまの立派なお姿を見て、心の中に思いました。

「仏さまは釈迦族の王子でありながら、地位も名誉も財産も捨てて出家された。そして私たちのような身分の低い者にも功徳を積ませるために、こうして乞食の修行をされている。なんてありかたいことでしょう。私も何か差し上げたいわ」

そこで麦こがし(小麦粉を炒ったもの)を仏さまに差し上げました。

仏さまはその施しに対し、「この女性は今の善い行ないの功徳として、やがて悟りを得るでしよう」と言いました。

このことを聞いた女性の夫は、とても怒って仏さまに言いました。

「デマカセを言って、オレの妻から麦こがしをもらおうとするな。そんな粉ごときで悟りを得られるような功徳があるわけがない」

それを聞いた仏さまは「よい機会だから少し話をしようじゃありませんか。ところで、あなたは世にも珍しいものを何か知っていますか?」と開きました。

夫は「珍しいといえば、この村に生えている多根樹(夕コンジュ)の木ほど珍しいものはない。1本の木の陰に500の馬車を入れてもまだ余硲があるほど大きい木だ」と自慢しました。

すると仏さまは「それはすごい。それほど大きな木ならば、さぞかしその種も大きいのでしょう。臼や桶ほどでしょうか」と聞きました。

 夫は[いや、ほんの小さな種だ。芥子粒の4分の1くらいだろう]と言いました。

仏さまは「そんな小さな種がこんなに大きな木に成長するなんて、誰も信じないでしょうね」と聞きました。

 夫は「だれが信じようが信じまいが、おれはこの目で見て知っているんだ。どんなに小さな種であっても、季節をえらんで、栄養のある土地に蒔いて、ちょうど良く大陽と雨に恵まれれば大きく育つに決まっでいるさ」と自信満々に言いました。

そこで仏さまは次のように話されました。

「その通りですね。あなたは小さい種から大きな木が生まれるのを知っている。それと同じように、私は小さな原因が、大きな報いになることを知っているのです。つまり、ほんの小さな善き行ないであったとしても、それが大きな結果として悟りに至ることだってあるのですよ」

仏さまのお話がよくわかった夫は、食ってかかった失礼を仏さまに謝りました。そして、仏さまを信じて尊歌する気持ちになりました。

どんな小さな供養であっても、どんな小さな善根であっでも、そこに真心が込めてあるならば、必ず大きな功徳の因(原因)となることがわかりました。

 

【小さな善いこと】

このお話に山てきた多根樹の木。小さな種が、やがて大きく成長して立派な大木になるというお話でした。

このことと同じように、私たちのほんの小さな行動が原因となって大きな結果をもたらすことを、仏さまは教えています。

小さな善いことは大きな善いことにつながります。最初はほんの小さなことでいいのです。

例えば、ちょと元気に「おはよう」「こんにちは」と笑顔であいさつしてみる。

買物の最後に店員さんに「ありがとう」と感謝の言葉を言ってみる。

部屋に落ちているものを10個だけ片づけてみる。

トイレのあと、スリッパをそろえてみる。

ご飯を食ベたあと、自分の食器は自分で片付ける。

これらのことは、君が一生懸命に歯を食いしばらなければできないことではありませんね。ちょっとだけ善い心を持てば、できることばかりです。その小さな積み重ねがどんどん君を素敵な人にしていくのです。

いろんな人に感謝をし、いろんなものを大切にする君。きっと、君と接した多くの人を笑顔にすることでしょう。

 

【小さな悪いこと】

反対に、小さな悪いことも、やがて大きくなってしまうことも忘れてはいけません。

例えば、夕飯の時にお母さんに「宿題したの?」と聞かれたとしましよう。うっかり忘れていたにもかかわらず、叱られたくないので「うん、宿題は終わったよ」とウソをついてしまいました。

そこでお母さんが「あら、えらいわねえ。いつしたの?」と聞きました。まだ宿題をしていないので、頭の中で考えて「学校の帰りに友だちの家でしたよ」と2つ目のウソをついてしまいました。

「誰の家でしてきたの?]と問かれたので「OOちゃんの家だよ」と3つ目のウソをつぃてしまいました。

 「国語? 算数?」と聞かれました。国詰も算数も出ていましたが、ウソばかりを答えていて、だんだんめんどうくさくなってきたので「う、うん」と、なんだかはっきりしない返事なってしまいました。

「ん?どうしたの? なんかあやしいわねえ。ホントに宿題やったの?]と聞かれたので、つい意地になって「やったよ!」と強い口調で4つ目のウソをついてしまいました・・・

このように、1つのウソをバレないようにするためにたくさんのウソをつかなくてはなりません。

昔から「ウソつきはどろぼうのはじまり」とか、「ウソをつくと舌を抜かれる」と教えられてきました。バレなきやいいや」とか「このくらい平気」といって小さい(と勝手に思っている)悪事をやっていると、そのときには想像もできないような収り返しのっかないことに、あとからなってしまいます。

君が善いことに気づいて実行できたなら、それは素清しいことです。たとえ、それがどんなに小さなことだったとしても、その禎み重ねが必ず君を、とっても立派でかっこいい大人にしてくれます。

 


 

方便品第二には「小善成仏」が説かれています。童子が仏さまへ真心の供養や修善を捧けることによる成仏です。供養や修善について、経文には「童子の戯れに、若しは草本及び筆、或いは指の爪甲を以て画いて仏像を作せる」と具体的に見えます。

また「松野殿御消息」全集1380頁)には「昔、徳勝童子は、土の餅を釈迦仏にご供養した功徳によって阿育大王としてこの世に出生し、世界の主となって結局は仏になりました」(意訳)とも見えます。

 【就類種と相対種」

これらのように、善き心による善き行ないが成道を遂げる因となることを「就類種」と言います。一方、善ではなく悪事を縁となして成道の因とすることを「相対種」と言います。この二種は、衆生のあらゆることについての善悪の二重であり、どちらも成仏の因となりうることが「法華文句」に説かれています。

誰もが、ときには善いことを、ときには善くないことを、またその大小にかかわらず、考えたり行なったり経験したりします。しかし、どちらであっても柔和な心で正直に仏の御心に向かうならば、それはすべて成仏の因となりうるのです。

縁する子供たちが小善をしたら、大いに認めて共に喜びたいものです。特に、お寺に一緒に参詣したとか、お経・お題目を一遍でも二遍でも唱えられたならば、それはすでに大善ですから、なおさらのことです。

反対に、f供たちが失敗や悪事をしてしまったならば、それを反省材料として「仏さまだったら何とおっしやるかな」「どうすれば吉かっだのかな」と寄り添つて考えてあげましよう。この縁こそ仏道へ、そして成道へ誘う無上の便であると信じて。

 

 

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