やさしい仏教教室

 

 

第10回  「象はどんなかたち?」

 

「一部」だけじゃわからない 素直な心で大きな「全部」を

 

 

突然ですが、象はどんな形をしているか知っていますか?

そうそう。あんな形ですね。

きっと君はテレビや本、動物園などで「見たことがある」から知っているのでしよう。

今回のお話では、目の見えない大が象をさわります。「見たことがない」彼らは、象をどんな形だとこたえるのでしようか。

 

昔、インドに思想家と呼ばれる大たちがいました。思想家とはいろんな事を一生懸命に考えて研究する大のことです。

ある時、彼らはある話題について意見をぶっけあって口ゲンカしていました。

例えば、「あの世」がおるのか、ないのか。

あるいは、魂はあるのか、ないのか。

こういったことについて、言い争っていたのです。これらのことは確かめようもありませんから、なかなか決着をみませんでした。

その様子をお弟子から聞いた仏さまは、「彼らはものごとを正しく見ていないから、いつまでもそんな口ゲンカをしているのです」といって、あるたとえ話をはなしはじめられました。

ある王さまが、家来に「目の見えない大をたくさんつれてきなさい」と言いました。

生まれつき目の見えない大、病気やケガで見えなくなってしまった大など、たくさん集まりました。

次に王さまは、「彼らに象を見せてやりなさい」と言いました。目が見えない彼らは、象をそれぞれにさわりました。

そして王さまは、[象はどんなものだったか言ってみなさい]といいました。

ある大は「柱のようでした」といいました。象の足をざわったからです。

また、ある大は「大きなうちわのようでした」といいました。象の耳をさわったからです。

また、ある大は「ロープのようでした」といいました。象のしっぽをさわったからです。

また、ある大は「ヘビのようでした」といいました。象の鼻をさわったからです。

彼らは、自分こそが正しいと言ってゆずりませんでした。

このお話をしたあとで、仏さまは「思想家たちの口ゲンカもこれと同じようなものなのです」と教えました。

このお話は、象のいろんな部分にさわった感想が述べられています。「柱」、「うちわ」、「ロープ」、「ヘビ」、どれも正しい感想です。しかし、その一つ一つがすべてかというと、そうではないのです。このことはとても大切なことです。

 たとえば、Aくんは「象の鼻は長い」と言いました。Bくんは[象の耳は大きい]と言いました。まさにその通りですね。しかしそこでAくんが「僕だけが正しい。Bくんほまちがっている」と言ったらどうでしよう。それはちがうということがわかると思います。

象の鼻は長いし、耳は大きい。決してAくんだけが正しくて、Bくんがまちがっているのではありません。

そして大切なことは、この2大の意見だけが正しいのでもないということです。ほかにもいろいろな意見があります。足が大い、休が大きい、「バオーン」と鳴くなどなど、何に注目するのか、見方によってさまざまです。どれも正しいのですが、それだけが正しくて、ほかがまちがいなのではありません。

どの意見も[象]全体からすると、ほんの一部なのです。一部というのは、正しい中の一部分であって、それ以外を「まちがっている」とすると、Aくんのようにヘンテコなことになってくるので、そのことがまちがっているということになるのです。

自分の意見も大切ですが、ほかの意見だって大切にしなければいけません。自分に自信があることはとてもよいことです。でもその自信が強すきて、相手の話や意見を聞くことができなくなってはもったいないです。自分とはちがう意見は、自分では気づけなかったことを教えてくれているからです。

それは君が学ぶチャンスであり、君の考えや見方を広げる助けとなります。ですから自分の意見と同じよう
に、相手の意見も大切にしましょう。そのうえで君が自分の意見をきちんと持てたなら最高てす。

さて、仏さまの教えにはたくさんの教えがあります。たくさんの大たちそれぞれにわかるように教えてきたからです。仏さまの教えを聞いた大たちは「すばらしい教えを聞いた」と喜び、忘れないために、あるいはまた別の大に教えてあげるために、その教えを集めたり、まとめたりしてお経として残しました。だからお経は教えの数だけたくさんあります。

 しかし、それらのお経はどれも仏さまの教えの「一部」でした。ですから、どのお経も正しいのです。どのお経も仏さまの教えですから正しいのですが、どれか一つのお経、つまり「一部」をもってきて、「これだけが正しくて、ほかは全部まちがっている」と言ってしまうと、先ほどのAくんのようにヘンテコなことになってしまいます。

では、仏さまの教えの「全部」はどこにあるのでしようか。それが「法華経」です。「妙法蓮華経」は「法華経」の正式名称です。

仏さまの願いはみんなを仏さまにすることです。そのためのすべての教え、「全部」が「法華経」に説かれています。ですから、わたしたちは「法華経」を大切にしているのです。

法華経というお経は全部で69384文字、原稿用紙にびっしり書いても170枚以上になります。

子供でも大大でも、毎日これだけ読むのは大変ですね。しかし、日蓮大聖大さまは「お題目の中には、法華経の教えのすぺてが含まれています。ですから正しい心でお題目を唱えましよう」と教えてくださっています。

では「正しい心」とはどんなことでしょうか。それが法華経の中の「方便品」と「寿量品」に書かれてあるのです。いつも唱えているお経ですね。勤行しているとき、私たちが成仏するための、つまりこの上なく幸せになるための仏さまの教えの「全部」をいただいているのです。

感謝の心でお題目を唱えるとき、君だけでなくみんな幸せになれる。大聖人さまはそう教えてくれています。

 

 


この話は「群盲象を撫ず」と呼ばれます。仏説というよりも一般に広く知られた話であったようで、釈尊はこの話を撮り上げて、丁寧に補足的説明を施しながら弟子に教えを説かれました。

真実は一つであっても、見方や捉え方によってはさまざまに意見が異なってきます。そのどれもが間違いではないにせよ、漏れなく十分であるとは言えないのです。これは、爾前経(法華経以前に説かれたすぺてのお経)と法華経の関係を理解するうえでも、大きな助けになると思います。

仏説は八万四千と言われるほどたくさんありますが、爾前経と法華経は比して同じ次元にはありません。このことは法華経や御書に何度も丁寧に説かれていますが、例えば、「報恩抄」には「阿含経は露や雫や井戸水や入り江の水などを収めた小さな河のようなものである。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経などは小さな河を収めた大河である。法華経は露や雫、井戸水や入り江の水、小さな河や大河、空からの雨など、すべての水を一滴も漏らさず収めた大海である」(意訳)と見えます。同次元で対比するようなものではなく、すぺてを包含して少しも漏らさない大きな法が「法華経」なのです。

さらに「法華経に全69384字を収めたる「南無妙法蓮華経」のお題目こそが、末法有縁の本仏・日蓮大聖人が私たちに授けてくださった大良薬です。

大台大師の「法華玄義」には「妙法蓮華経」のお題目は単なる経題ではなく、真理の本休であり、因縁果報であり、法の振る舞いであり、教えそのものであると解説されています。お題目に巡り会えた感謝を込めて日々の読経唱題に励みましよう。

 

 

 

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