やさしい仏教教室

 

 

第9回 「ミリンダ王の問い」

 

本当の、本当のご先祖さまへ お題目を唱えて感謝を尽くそう

 

 

 お盆の季節には、ご先祖さまのためにお経を唱えたり、お供えをしたりします。

 しかし、ご先祖さまは亡くなっているので、お経を唱えても聞こえないし、お供えをしても、食ぺたり飲んだりもできません。

 亡くなった人にお供えをする意味はあるのでしょうか?

 今回は、このことを質問した王さまと、質問されたお坊さんのお話です。

 

 昔、ミリンダ王という王さまがいました。

 このときには、仏さまは亡くなっていました。

 ですからミリンダ王は、仏さまに食べ物や飲み物などをお供えすること、つまり供養をすることを不思議に思っていました。

 そしてナーガセナというお坊さんに次のように質問しました。

 「仏さまは亡くなっているのに、食べ物や飲み物をお供えすることに意味はあるのであろうか。もし、仏さまが供養を受け取ってくださるなら、それはなくなったとは言えないであろう。どこかに生きていて、食べ物や飲み物を受け取られているはずである。

 もし、仏さまが亡くなっているなら、捧げた供養を受け取られないから、供養をすることは無意味だと思うのだ。

 どうかこの疑問を私のために説いてくださらぬか」

 それに対してナーガセナは、次のように答えました。

 「王さま、仏さまは確がに亡くなったのです。食べることも飲むこともできませんから、どんなお供えをいただいても、受け取られることはありません。

 しかし王さま、目の前に火が燃えていたとします。それが消えてしまった時、この世から火はなくなってしまったのでしようか」

 「いいや、そんなことはないだろう。火が消えてしまったとしても、火が必要ならば誰でも自分で火をおこせばよいのだ。それでもって火の必要な仕事をすることができる」 と王さまは答えました。

 それを聞いたナーガセナは、

 「その通りです、王さま。それと同じ事で、亡くなった仏さまが供養を受け取られないからといって、あなたがなさった供養が無意味であるというのは、まちがいなのです。

 仏さまはたくさんの人を教え導き、この世界を明るい火のように照らしました。仏さまが亡くなった今、その火は消えてしまいましたが、人びとが火を必要として自分で火を起こせばよいのです。

 つまり、仏さまが亡くなっても、人びとが仏さまの教えを大切にし、実践することによって正しく生きていけるのです。

 そのとき、仏さまに対して、あるいはその教えに対して捧げられる尊敬、感謝そして供養は、たとえ仏さまが受け取ることがなかったとしても、けっして無意味などではありません。たいへんすばらしいことなのです」 と語りました。
 ミリンダ王は、ナーガセナの言葉を聞いて、供養することの大切さをよく理解しました。

 そして、感謝の気持ちでナーガセナを褒め称え、もっと信心をがんばルようになりました。

 皆さん、夏休みに入りましたね。これから花火やプールなどいろいろな楽しみがたくさんあるでしよう。それと、お盆の季節であることも忘れてはいけません。

 お盆のときには、ご住職におうちに来ていただいてお経を唱えたり、あるいはおな参りに行ったり、あるいはお寺にお詣りしてお題目を唱えて仏さまやご先祖さまへ感謝の心を表します。

 

 

【お供えについて】

 そのときに、食べ物や飲み物などのお供えを捧げますが、このことを不思議に思ったことはありませんか?

 亡くなったご先祖さまは、お供えした食べ物を食べることも、飲み物を飲むこともできません。それではお供えした意味がないのではないか、ということがこのお話にあるミリンダ王の疑問でした。

 確かに、亡くなったご先後さまの声は私たちの[耳]には聞こえてきません。しかし、私たちの「心」ではどうしようか。

 

 

【心で聞くこと】

 例えば亡くなったおじいちゃんの、あるいはおばあちゃんのために、お経とお題目を唱えたとしましよう。

 そのときに「おじいちゃん、おばあちゃん、喜んでくれているかな?」と心にそっと想ってみてください。

 きっと、「どうもありがとうね」「お経が上手になったね]「大きい声でお題目を唱えられたね」と喜んでくれている声が、君の心の中に届くでしよう。

 その理由は、君の心に、おじいちゃんもおばあちゃんも、それだけではない、すべてのご先祖さまがいらっしゃるからです。心の中は無限です。

 これまで褒めてもらったこと、遊んでもらったこと、叱られたこと・・・、その思い出の全部が君の心の中に刻まれているのです。

 もし君が小さくて、そのころのことをぜんぜん党えていなかったとしても、そもそも君自身が生まれて今ここにいることが、ご先祖さまが生きた証であり、長い間、少しも絶えることなく、何よりも大切に受け継がれてきだ、町い命そのものなのです。

 

 

【本当のご先祖さま】

 さて、これまで「ご先祖さま」と呼んで話してきましたが、どこまでが「ご先祖さま」なのでしようか。時代をさかのぼってみましよう。

 ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんまででしようか?

 ちがいます。

 江戸時代くらい?

 まだまだ。

 縄文時代くらい?

 ぜんぜん。

 恐竜のいた時代?

 いやいや。

 実は君に預けられた命のバトンは、考えられないくらい昔から受け継がれてきているのです。地球もそう。太陽もそう。さらにもっともっと昔の宇宙のありさまのすべてが、君を生み出した「ご先後さま」です。

 「そんなにたくさんのご先祖さま全部を供養できないよこと困っている君。心配しなくても大丈夫です。

 そもそも、そのすべてのご先後さまも、君と同じように生み出されたのです。

 では、君やすぺてのご先祖さま、あらゆる仏さまをも生み出した、本当の本当のご先祖さまは誰か。それは「妙法蓮華経」という仏さまです。

 

 

【お題目を捧げる】

 私たちが唱えるお題目、「南無妙法蓮華経」の「妙法蓮華経」です。

 「ナム」というのは、インドの言葉で、「何よりも一番感謝します」という意味です。

 お題目を唱えることは、おじいちゃんもおばあちゃんも、ひいおじいちゃんもひいおばあちゃんも、誰も漏れることなく、すべてのご先限さまに感謝し尽くすことができる唯一の方法です。その方法を教えてくださったのが、「日蓮大聖人さま」です。

 お題目を唱える君は、妙法蓮華経の仏さま、日蓮大聖人さま、すべてのご先祖さまに感謝の供養をしているのです。これだけきちんと感謝のお題目を唱えることができる君を、仏さまも大聖人さまもご先祖さまも褒めてくれないわけがありません。そして護ってくれないわけがありません。

 なんて心強くてありがたくて幸せなんでしょう。お題目ってすごいですね。

 私たちの信仰では、「常盆常彼岸」といって、夏のお盆の時だけではなくて、春秋のお彼岸の時だけでもなくて、いつでもお題目によって、自分につながるご先後さますぺてに感謝することが大切です。うれしいときも、困つだときも、正しい気持ちでお題目を唱えたなら、君の心に届く声はきっと目の前を明るく照らしてくれ、必ず正しく護られます。

 お盆のお詣りをきっかけに、いま君がこうして生きていられることを喜び、感謝の心でご先祖さまへお供えをし、そして何よりも心のこもったお題目を唱えて捧げましよう。

 ちなみに夏休みの最終日、もし宿題が終わらずに困難に直面している君がいたなら、ご先祖さまからの君を護るメッセージは、きっと「しっがり終わらせなさい」でしよう。こちらも忘れてはいけませんね。

 

 

 

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