やさしい仏教教室

 

第8回 「居眠りと心の眼」

 

たいせつなことは、

  たいせつなことを、

    たいせつにすること

 

 

 5月を迎え、気持ちのよい季節になってきました。新しい環境にも少しずつ慣れてきて、ふとしたときにうっかり居眠りしてしまった、なんてことありませんか?

 仏さまの時代にもうっかり居眠りしてしまったお弟子の方がいたようです。

 

  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 ある時、いつものように仏さまのお説法をたくさんのお弟子や人びとが聞いていました。

 そんな中で、あろうことか居眠りをしているお弟子がいたのです。彼は仏さまの従弟で、名前をアナリツ(阿那律)といいました。

 仏さまはアナリツを呼んで次のように言いました。

 「アナリツよ。君は正しい教えを求める強い気持ち、そしてその立派な志しをもって出家得度してお坊さんになったのでしょう。それなのに今日、説法の最中に人びとの中で居眠りしていましたね。これはいったいどういうことですか」

 仏さまにとって、アナリツは従弟であって弟子でもあります。もしかしたら頑張って立派なお坊さんになってほしい気持ちが強く、厳しい言い方になったのかもしれません。

 アナリツは姿勢を正して地而に座り、手をついて仏さまに謝りました。そして、緊張と決意のこもった表情で、「仏さま、今日から私は、どんなことがあっでも、二度とこのようなみっともないことはいたしません」と言いました。

 それからアナリツは強い反省の気持ちから、昼も夜も「絶対に眠らない」という誓いを立てました。

 しかし、人間は眠らなくては生きていけません。睡眠不足のアナリツはやがて体調を崩し、眼の病気になってしまいました。

 それを知った仏さまは「アナリツよ、まったく眠らないという無茶をするのはよくありません。だらしなく怠けることはいけませんが、だからといって体を苦しめすぎるのは避けねばなりません。中道といって、やりすぎることなく適切な分をきちんと行うことが大切ですよ」と教えました。

 しかしアナリツは、「仏さま、私はすでに仏さまの御前において「絶対に眠らない」という誓いを立てましだ。いまさらその誓いの心に違うことはできません」と言って聞きませんでした。

 人間に眠りのない牛活はありえません。適切に眠り、適切に活動するという、仏さまの言う「中道」につくことがもっとかにしい生き方であることは、アナリツも知っていたはずです。しかし、彼にとっては、仏さまのお説法中に居眠りをしてしまったという失敗があまりにショックだったので、どうしても自分が眠ることに堪えられない気持ちだったのでしょう。

 アナリツの眼の病気はますます悪くなり、とうとう失明して日が見えなくなってしまいました。

 アナリツの[肉眼]は見えなくなってしまいましたが、そのとき彼は「心眼」を開くことができたのです。

 「心眼」とは、「心の眼」ということです。目で見えるようなことも見えないようなことも、心で正しく感じることができるようになりました。

 やがてアナリツは、「天眼第一」と呼ばれ、みんなのお手本となるすばらしいお坊さんになりました。

 仏さまのお説法中に居眠りをしてしまったアナリツ。この失敗にとても落ち込んでいる様子がわかります。

 また、「絶対に眠らない」という誓いから、居眠りしてしまったことを反省する気持ちの強さがとても伝わってきます。

 たいていは誰もが毎日数時間は眠っています。たとえば、ある日、君が夜になっても眠らず朝になるまで起きたとします。

せっかく新しく迎えた一日を、きっと眠くてフラフラのまま過ごすことになるでしょう。それは君の体が眠ることを必要としているからです。

 それでも眠らずに次の日も、そのまた次の日も起きていたなら、体の調子がおかしくなったり、病気になったりしてしまうことでしょう。

 けれども、アナリツは「眠らない」という厳しい反省を続けました。仏さまが中道を教えて無茶をしないように言ったにもかかわらず、誓った反省を貫き、ついには目が見えなくなってしまいました。

 どうして失明するほどまでに厳しい反省を貫いたのでしょうか。

 アナリツは、うっかり居眠りしてしまったことによって、「仏さまのお説法」を大切にできませんでした。

 しかし、アナリツは「仏さまのお説法」を大切に思う心をもっています。ですから、お説法を大切にできなかった自分を強く反省し、「絶対に眠らない」と誓いました。

 この誓いを貫き守ることは、アナリツにとって「仏さまのお説法を大切に思う心」を大切にすることだったのではないでしょうか。

 反省を口いた結果、「肉眼」を失ってしまったアナリツですが、同時に「心眼」を開くことができだとお話にはあります。「心眼」とは、「心の眼」ということです。

 たとえば、君が産まれて来れたのは誰のおかげでしょうか。そう、お父さんとお母さんが命を授けてくれたからですね。これは真実です。そしてお父さんとお母さんも、それぞれ君のおじいちゃんとおばあちゃんに命をいただいたのです。

 このようにご先祖をさかのぼれば限りがありませんが、そのすべてのご先祖がいて君という存在がいることもまた確かな真実です。ただ、その真実すべてを目にすることはできません。もし、その真実を君の心が受け入れることができたならば、それは「心の眼」で見たことになります。だから、「心の眼」で見えた大切なことを大切にできることが、実はとて大切です。

 このように。目に見えるものはもちろん、目には見えなくても大切なもの、想いや出来事は身の回りにたくさんあります。そうして君を包んでくれているたくさんのことに、自然と感謝の心を持てたなら、どれほど幸せでしょう。

 アナリツのように激しい修行はなかなかできませんが、君が心に感じた大切なことを一つでも二つでも多く見つけて、大切にできたら素晴らしいことですね。

 

 


 このお話にあるように、阿那律尊者は説法中に居眠りした失態によって釈尊から叱責を受け、不眠の誓いを立てました。その結果、失明してしまいましたが、「心眼」という仏果を得て「天眼第一」と賞され、釈尊の十大弟子に名を連ねます。

 「不眠の誓い}のような激しい修行は私たちにはなかなか実践できません。しか
し、薬王菩薩が臂を焼いて供養したという話(法華経)や雪山童子が法を求めて身を投じた話(涅槃経)など、経文には身を損なう厳しい修行をした故事が多く説かれています。成仏という最上の仏果を求めるために、いったい私たちはどうすればよいのでしょうか。

 日蓮大聖人は「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(「白米一俵御方全集1596頁」と仰せです。そして、その「志ざし」とは「観心の法門なり」(同)とあり、一つしかない着る物や食べ物を法華経の御宝前に荒し出すことであると示されます。つまり、何事においても、自分の都合や考えや欲望より、法華経の教えや仏さまのためにすべきことを優先するということでしょう。これもまた容易いことではありませんが、そこには私たちの信心修行の在り方が明確に示されています。

 ちなみに阿那律尊者は過去世で、飢饉の際に自らのわずかな食料をある修行者に供養したその功徳によって、91劫という長い間、人界や天上界に長者として生まれるという果報を得たと言われます。

 私たちの成道に大切なことは、何よりも貫く大切なお題目と日蓮大聖人とに、何よりも優先して誠実な志ざしを捧げ、大切にすることと言えるでしょう。

 

 

 

もどる