やさしい仏教教室

 

 

第7回 「お腹ペコペコの仏さま」

 

そっと心の中で聞いてみよう「大聖人さまならどうしますか?」

 

 

 お寿司、おにぎり、ハンハーグ。リンゴやミカンもおいしいですね。食べられることはとても幸せで、うれしいことです。でも、食べられずにお腹ペコペコの時もあります。

 ある時、仏さまは食べ物がなくてお腹ペコペコでした。そのとき、仏さまの前に現れたのは・・・悪魔でした。

 

 ある時、仏さまはある村にいらっしやいました。

 仏さまはいつもと同じように、衣をまとって鉢を持ち、托鉢の修行に出かけました。托鉢とは、いろんなお家を訪ねて、食べ物やお供え物をいただく修行のことです。村の人々にとっても、仏さまにいろいろなものをお供えすることは「布施」という修行でした。

 さて、托鉢に出かけた仏さまでしたが、どうしたことか、いつもとちがってなかなかお供えを受けられませんでした。

 実はその日は、村の仲良し同士がプレゼント交換をするお祭りの日だったのです。村の人々はお祭りに夢中になって、仏さまにお供えの食べ物をささげようとする人はいませんでした。

 お腹ペコペコのまま空っぽの鉢をもって帰ることにした仏さま。その時、仏さまの前になんと”マーラ”という悪魔が現れたのです。

そして、

 「沙門よ、食べ物はもらえたのか?」

と、聞きました。

”沙門”とは、修行をしている僧侶のことで、マーラは仏さまをそう呼びました。

 「マーラよ、食べ物はもらえなかった」と、仏さまは答えました。すると、

 「ならば今から村に引き返すがよい。今度はお供えの食べ物をもらえるようにしてやろう」

と、マーラは言いました。仏さまは、

 「マーラよ、確かに食べ物のお供えは受けられなかった。しかし、見てごらんなさい。私は安らかにたのしく過ごしています。私たちは食べ物を食べることのみで生きているわけではありません。例えば、喜びを食べて生きるという光音天という神がいる。私もこの光音天のように、言喜び』を食べて生きるものなのです」

 その言葉を聞いたマーラという悪魔は、仏さまの前からすぐに消えました。

 このお話の中で登場する”マーラ”という悪魔。なんだか怖い気持ちになってしまう人もいるでしよう。

 実はこの悪魔は、仏さまの心の中にひそんでいた「弱い心」をあらわしていると言われています。

 お腹がペコペコの仏さま。心のどこかで、「今から村に引き返せば、プレゼント交換のお祭りも終わっているころだし、食べ物をお供えする村人もいるかもしれない」と思ったのかもしれません。

 そういう心が、このお話の中で、悪魔が食べ物をもらうために村へと誘う場面として描かれているのです。

 その悪心と向き合って話し合い、誘惑を断った仏さま。これはつまり、仏さま自身の中にある「弱い心」に打ち克つたということです。

 1回目の托鉢は、食べ物のお供えがなかったとしても、仏さまのいつもの修行としてきちんと勤めるべきものでした。しかし、帰り道に悪魔の誘いにのって村へと引き返し、2回目の托鉢をしたならば、それはもはや修行ではなく、ただ空腹のために食べ物をもらいに行っただけのことです。つまり「貪ぼる心」にしたがっだことになってしまいます。

 それ以降の托鉢はもう、ただ食べ物をめぐんでもらうだけの行いとなり、とてもみっともないものに成り下かってしまったことでしょう。

 だから仏さまは、悪魔”マーラ”からの誘いを断りました。その理由は、仏さまは1回目の托鉢で、すでにその日の修行を勤めることができたからです。

 ここでは、食べ物が得られたかどうかが聞題ではないのです。今日という日の修行ができたこと、それ自体を喜びとして、明日もまた生きることができるからです。

 仏さまと同じように幸せになるための修行を「仏道修行」と言います。ですから仏道修行とは、食べ物を得るためにするものでもなければ、お金持ちになるためにするものでもありません。

 私たちは、ご飯を食べるために生きているわけではなくて、幸せに生きるためにご飯を食べているのです。

 幸せに生きることが一番大切なことであって、幸せになるための助けとしてご飯を食べること、あるいは必要なお金を得ることなどの、その他のことがあるのです。

 だから、お腹ペコペコのときに、君がどう考えて、仏さまのような幸せな心になるかが本当は一番大切です。

 例えば、お腹いっぱいの時に、大好きな食べ物が目の前にあっても、あまり食欲がでませんね。むしろお腹ペコペコだからこそ、おいしく、うれしい気持ちで何でも食べられるものです。よく、[空腹は最高の調味料]とも言います。そうすると、お腹が減れば減るほど、次の食事がおいしくいただけると思って、楽しみをふくらませることも一つの方法かもしれませんね。

 お腹ペコペコのときには、お家で何かを作って食べたり、お店に行って食べ物を買ったりして、節度やマナー、行儀を守ってお腹を満たせばよいです。

 しかし、それらもどうでもよくなって、とにかくお腹をみたすことを一番にしてしまったらどうなるでしようか。誰かのものを勝手に食べたり、お店のものを取ってきてしまうようなことになりかねません。

 これは極端な話のように聞こえますが、だれの心の中にも、仏さまのような良い心と、マーラのような悪い心があります。だから、自分の考えだけでなく、いつのときも「仏さまならどう考えるのかな」と心に聞いてみることが大切です。

 実は、それをこの上なく実践された方が日蓮大聖人さまです。だから私たちも、お題目を唱えて大聖人さまならどうしますか?」と、心の耳を傾けてみましょう。きっと私たちの目の前には、マーラのような悪魔ではなく、日蓮大聖人さまがお姿を現して、幸せになるために大切なことを教えてくださるに違いありません。

 

 


 私たちの日常には、さまざまな欲求と、それを満たしうるたくさんの誘惑があります。しかし、誘惑の存在そのものが悪魔なのではなくて、誘惑になびきそうな自分の心こそが悪魔として描かれています。つまり、村へ引き返したときに、空腹の仏さまに食べ物を供えるかもしれない村人の存在、あるいは食べ物そのものが悪魔なのではありません。

 その日の托鉢という修行を勤め終えたにもかかわらず、食べ物を得るために村へ引き返そうかどうかと揺れる、内なる誘惑こそが悪魔なのです。仏さまはその誘惑に乗らずに、悪魔を降伏させました。これを「降魔」といいます。降魔は覚りを開く時には必ず起こるものです。

 私たちの毎日には、思うようにいかないこと、心を悩ますことがたくさんありますが、これらの出来事自体が悪魔なのではなくて、むしろこれらに思い悩む自分目身の心が、困難や悪魔そのものであると言っていいでしよう。ならば、悪魔や困難があるのではなくて、それを乗り越える知恵がないのです。

 思えば、日蓮大聖人も法華経信仰ゆえにたくさんの苦難を受けられました。耐えかねる空腹にあえいだこともあったでしよう。内なる誘惑に対峙したこともあったかもしれません。しかし、法華経の明鏡に照らせば、あらゆる困難は大聖人ご自身の成仏の資けであったのです。

 大聖人のお振る舞いを拝せば、この世に無駄なことは一つもありません。すべては自身を磨く糧であり、そう捉えることが本当にできれば、何かあっても喜びとともに人生を歩めるのではないでしようか。

 

 

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