やさしい仏教教室
第6回 「かたちのなかみ」
素直な心で「かたち」をみがく
たしかな「なかみ」でもっと輝く
今回は仏さまがある若者と出会ったときのお話です。この若者のお家は、お金持ちで地位も高く、召使いもいました。
さて、この若者のお父さんは、自分か亡くなるときに息子である若者に有る遺言を残したのでした。その遺言とは・・・。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
仏さまはある道すがら、一人の若者を見かけました。
彼は、朝の早い時問にもかかわらず、きちんとした身なりで、ていねいに手を合わせ、おじぎをしてお祈りをしていたのです。
仏さまは、「若者よ。あなたのその礼儀正しい振る舞いに私はとても感動しました。
いったいどうしてあなたは、こんなに朝早くから手を合わせて祈っているのですか」と聞きました。
その若者は、「仏さま、実はこのお祈りは父の遺言なのです。私はただ父の遺言の通りに礼拝を続けているのです」と言いました。
若者のお父さんは、ごくなる前に、
「朝早くにきちんと起きて身を清めなさい。そして東、西、南、北、下、上の6つの方角に向かって礼拝をしなさい」
と言い遺していたのです。
とくに意味を考えることなく、素直にその言葉にしたがって、若者は礼拝を一日も休まずに続けているとのことでした。
感心した仏さまは、この若者のためにある教えを述べました。
「若者よ。東の方を向いて礼拝するときには、お父さんとお母さんに感謝する気持ちで拝みなさい。お父さんとお母さんは、君を愛し、君を悪い人や悪いことから守ってくれたでしょう。また、生きる力をつけて、家を継ぐことを望んでくれたのです。これが父母を拝する理由です。
南の方を礼拝するときは、師匠を拝すると思いなさい。師匠は弟子に大切なことをどこまでも教えてくれるからです。弟子は師匠を尊敬してその教えを忘れてはいけません。
西の方を礼拝するときは、妻を拝すると思いなさい。お互いに協力し合うのが夫婦だからです。
北の方を礼拝するときは、親族を拝すると思いなさい。親族は互いに助け合い、励まし合うものだからです。
下にむかって礼拝するときは、召使いを拝すると思いなさい。あなたは彼らを大切にし、彼らはあなたに忠実に従うからです。
上の方を向いて礼拝するときは、聖者を拝すると思いなさい。聖者は人々に正しい生き方を教え、善き心に導くからです」
仏さまからこの教えを聞いた若者は、すぐに仏さまの信者になりました。
彼はそれからも、かわらず熱心に朝早くからの6つの方角への礼拝を続けました。
その礼拝は、形式は今までと同じように見えました。
しかし、礼拝をする若者の心の中は、まったく新しい内容、つまりうれしい気持ちや感謝の気持ちで満たされていたのでした。
【若者の礼拝】
亡くなったお父さんの教えを守り、毎日早起きして身を清め、6つの方角に向かって礼拝をしていた若者。まじめで立派ですね。
東西南北と上と下。この六つは、自分の周りに広がる方向です。きっとお父さんは、周りのあらゆるもののおかげで生きていられること、そして感謝をあらわす大切さを若者に伝えたかったのではないでしょうか。
若者には、自分が礼拝することについて「お父さんの遺言だから」以外の理由はありませんでした。
そこで、何のために礼拝するのかを仏さまは教えてあげました。
お父さんのため。お母さんのため。師匠やが、親族ノ召使いのため。仏さまのような立派な人である聖者のため。私たちが生きていられるのは、これらに代表されるたくさんの人たちのおかけです。
理由をよく知らず遺言通りに毎朝していた礼拝は、自分にかかわるこれらの人々に感謝をすることだったのです。そのことに気づいた若者は、どれほどうれしい気持ちだったことでしょう。
「感謝できること」は幸せなことですね。
◇ ◇ ◇
【私たちの唱題】
さて、くわしく理由や意味を知らなくても、実は私たちも当たり前のようにしていること、ありませんか?
ご飯をいただくとき、手を合わせてお題目を唱えてから食べますね。
出かけるとき、ご本尊さまに手を合わせて、お題目を唱えて「いってきます」とごあいさつしてから出かけますね。
また、家に帰ってくると、同じようにお題目を唱えて「ただいま帰りました」とごあいさつしますね。
勤行をするときにはお経(法華経)を唱えて、お題目をたくさん唱えますね。
このように私たちは、ふだんからお題目やお経を唱えています。なぜでしょうか?
何のために唱えているのでしょうか?
それは日蓮大聖人さまが「幸せになるためには南無妙法蓮華経のお題目を唱えることが一番大切ですよ」と教えてくださっているからです。
けれども、お題目の意味や、お経の意味はとても奥深いので、私たちには、なかなか全部を知りつくすことはできません。
それでもきれいな心で素直にお題目を唱えるなら幸せになれると、大聖人さまはおっしゃっています。
たとえつらいことがあったとしても、ただただきれいな心で素直にお題目を唱え、八正面から乗り越える努力をしましょう。
なぜならそれは君を成長させてくれるチャンスだからです。
りっぱに試練を克服して成長した君が、「あの時、ピンチから逃げずにお題目を唱えて乗り越えたから成長できた」と思えたなら、それこそ意味はわからなくてもお題目を唱えなさいとおっしゃった大聖人さまからの教えそのものだといえるのではないでしょうか。
君を苫しめたはずのピンチでさえ、大聖人さまの教えの一部となり、逆に感謝することさえできるのです。
わからなかったお題目やお経の意味のほんの少しでも、休験して気づけたならばどれほどうれしいでしょう。
「感謝できること」は
幸せなことですね。
今回のお話は、父の遺言を守り、六方礼拝をしつづけた若者が、仏さまから教えを授かり、喜びに満ちたという内容でした。これは言わば六方礼拝という「形式」に、その根拠たる「意義」が吹き込まれたということでしょう。
「形式」としての行をたゆまず勤め続ける尊さが、その内なる意志を帯びて一層輝きを増す様子が伝わってきます。
私たちも普段、読経・唱題をしておりますが、毎日たゆまず欠かさず勤めることはまずもってたいへん貴いことです。しかし、形式にとらわれすぎないように気をつけておくこともまた必要でしょう。
読経・唱題は、こなさねばならないノルマではありません。始めた瞬間から終わらせるためだけに唱えるような勤行であっては、もったいないと思うのです。
また自分の欲望を叶えるためだけの、呪術まがいの呪文でもありません。
大聖人さまの御心に照らして、正しい教えと信心をより深く求めようというまごころが「形式」の中身として存在すれば、今回のお話の若者のように日々に法悦と感謝を得ることが叶うはずです。
反対に、誠実さを伴わない空虚な「形式」におちいってしまっては、自己を省みることもままならず、せっかくの修行の機会がかえって三毒(貪欲・瞋恚・愚癡)の煩悩に侵されかねません。
大聖人さまは、お題目を一遍でも唱えれば成仏は疑いないと仰せですが、一方で法華経についてより深く知ろうと質問した檀越をたいへん称賛されています。
大聖人さまにお褒めいただけるように誠の信・行・学を求めて自身を磨いてまいりましよう。