やさしい仏教教室
第5回「やさしい心」
きたえぬかれた剣は曲がらない
きたえぬかれたやさしい心も曲がらない
仏さまにはたくさんのお弟子がいらっしゃいました。そしていつもいろいろなお話を通して、人切なことを教えていました。
今回は、りっぱな剣のたとえ話から、やさしい心をもつことの大切さについて教えている場面です。
ある日、仏さまはお弟子たちに一つのたとえ話をしました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「みなさん、たとえばここに、きたえにきたえた、とても頑丈な剣があるとします。
そこへある人がやってきて、「わたしは今から、この剣をアメ細エのように、ぐにゃりとねじり曲げて見せましょう」と言ったとしましよう。
みなさんは彼にこのようなことができると思いますか?」
すると、お弟子たちは[仏さま、そのようなことはできるはずがありません]と言いました。
「それはどうしてですか?」と仏さまはその理由を聞きました。
お弟子たちはそのようにきたえぬかれた剣を折り曲げたりねじったりできるわけがありません。
そもそもそんなことをしようとしたら、自分がケガをして痛い目にあってしまいます」と、弟子たちは答えました。
仏さまはその答えを聞いて、やさしい心をもつ大切さを次のように話されました。
「みなさん、そのとおりです。きたえられた剣は、けっして素手で曲げたりねじったりできるものではありません。曲げたりねじったりしようとすれば、自分がケガをしてしまいます。また、ケガをしたことによって、曲げたりねじったりしようとしたことが間違いであったことに気づくでしょう。
もしみなさんがやさしい心をきちんと身につけたいと願い、いつも心がけて、この剣と同じようにきたえにきたえて、すっかり身につけてしまったとしましょう。その人は本当のやさしい心を身につけたので、もはやどんな人をも怖がることはないでしょう。
たとえ恐ろしい鬼神があらわれて、その人を驚かそうとしたり、心をかき乱そうと思っても、けっして思い通りにはできないでしょう。なぜなら、やさしい心を身につけた人を驚かしたり丿心をかき乱そうとすることは間違いだからです」
【やさしい心】
やさしい人はみんなから好かれます。いじわるな人とぜひ仲良くなりたいとはあまり思いませんよね。みんなやさしい人になりたいと思うし、やさしい心を大切にします。
でも、友だちとケンカしてしまったり、友だちにイヤな思いをさせてしまったことはありませんか。
きっとだれにでもそういう経験はあるでしょう。実はいつもやさしい気持ちでいることは、なかなかむずかしいものなのです。
【反省の大切さ】
そんなときはどうしたらよいでしょうか。
そこで大切なのは反省することです。なぜなら、いじわるな心になっている自分に気づいて反省できるなら、それはやさしい心になるチャンスとなるからです。
けんかをしてしまったりイヤな思いをさせてしまったら、素直に「ごめんね」と謝りましよう。そして反省して、やさしい心を自分の心につくっていきましよう。
きっとみんな、いつでもだれとてもやさしい心でもって仲良くしたいのですが、それができないときはだれにでもあるものです。
そのたびに悲しい思いや、つらい思いをするのですが、それを何度もくり返すなかで、やがてやさしい心を知り、やさしい人へと成長することができます。
このことが仏さまのお話で「きたえぬかれた剣」にたとえられています。
【きたえる】
剣は、真つ赤になるまで熱くしてからカナヅチでたたいで作られます。何回も何回もたたいて頑丈に作られてぃきます。
そして立派にきたえぬかれた剣が、やさしい心をすっかり身にっけた人の心をあらわしているのです。
【傷つくのはどっち】
もし君の友だちのなかに、とても頑張り屋のやさしい心の友だちAくんがいたとしましよう。きっとみんなも大好きだと思います。
そんな友だちにイジワルをするBくんがいたとしましよう。イジワルをしてしまったそのBくんは、「イジワルしたらだめだよ」と注意されます。Bくんは注意されたことで、イヤな気持ち、あるいは悲しい気持ちになると思います。
でもよく考えれば、やさしいAくんにイジワルをしたから、Bくんは悲しい気持ちになった、つまり心が傷ついたのです。
さきほどのたとえ話のなかで、「きたえられたりっぱな剣をねじまげようとしたらケガをしてしまいます」という言葉かおりましたが、それはこれと同じことですね。
【ケガは治る】
転んですりむいてケガをすることは誰にでもあります。
しかし、きちんと手当てをして、同じようなケガをしないように気を付けていれば、削口はかさぶたになり、やがて洽ります。
やさしい気持ちでいたいという心とは反対に、ついイジワルしてしまったばかりに傷ついてしまったBくんの心も、反省して「ごめんね」をAくんに系直に言えたなら、きっとAくんとも、他のみんなとも、また仲良くなって、やさしい心を一つ身につけることができるでしょう。
【だれでも同じ】
いまAくんはやさしい友だち、Bくんはイジワルをしてしまった友だちとしてお話ししてきました。しかし、実はいつでもそうとはかどりません。
あるときはAくんがBくんにイヤな思いをさせてしまうことだってあるのです。そのときにAくんは反省して、やさしい心を見つめなおすことでしょう。
だれだって、やさしい心もイジワルな心も持っているのです。だから、みんな一人ひとりが相手を思いやれるやさしい心の人になりたい」と願いつづけることが大切ですし、そのことが何にも恐れないやさしい心をきたえあげていることになるのです。
この話でいう「やさしさ」とは、「慈悲」のことを指します。「慈」とは、すべての生きとし生けるものを慈しんで、楽を与えることです。これを「与楽」とも言います。「悲」とは、同じくすべての生きとし生けるものをあわれんで苦しみを抜くことです。これを「抜苦」とも言います。仏さまの慈悲の心は広くて限りないので、大慈大悲という言葉もあります。
実はこの慈悲の心を修することはなま易しいものではないことをこの話は物謡っています。そもそもこの慈悲の土台となるやさしい心は、私たちの心の中にあります。親が子を愛おしく思う心や、子が親を大切に思う心、近しい人が悲しい目に遭うと自分自身も同じように嶄然として涙を流します。この心を仏さまは広く生きとし生けるものにお持ちです。
仏に成ること、つまり成仏したいと願う私たちも、この慈悲の心を生きとし生けるすべてのものに広げようとするのですが、私たちの心にある煩悩が妨げの働きをします。利己心(自分だけがよければいいという心)もそうです。貪瞋痴の三毒(貪欲=貪ぼること・瞋恚=怒り憎むこと・愚癡=愚かなこと)もそうです。狭い派閥意識や、狭い愛国心も慈悲の心を妨げます。慈悲深くありたいという己の心に反して、自身の言動がそれを妨げていることに気づいたとき、素直に反省して改めることが大切でしょう。
末法の凡夫である私たちが、完全なる慈悲心を持ちえることは困難です。ですから、いつでも御書ならびに法華経を拝して、日蓮大聖人の大慈大悲を己心に映し、鍛え磨いていきたいものです。