妙風
論苑
葬儀のあり方を考えよう
今夏は、長梅雨が終わるや連日の猛にいささか閉口した。加えて新型コロナウイルスの感染拡大で世間の空気も暑苦しく、なにやら息苦しかった。
こんな状況下であるから、寺院におけろ孟蘭盆会の法要も、自粛乃至は3密に気をつけながら控えめに執り行われたようだ。
お盆といえは、過去1年以内に死者を送った家では、その死者の霊を初めて迎える初盆の儀礼として精霊棚(盆棚)を設け、位牌を安置し、提灯を灯し、菓子や果物、野菜等を供え、僧侶を招いて供養をしてもらう習わしがある。
少し前までは、精雲棚は竹で組んで自布をめぐらし、床にはコモやゴザを敷いて手作りしたものだが、今は葬祭反者がスマートな祭壇を設置していっでくれる。
それはそれでよいのだが、なかには身延の土産物屋で売っているような安つぽい曼荼羅本尊まで掛けていく葬祭業者まである。ワンセットとしてこれも料金の内に入っているのかもしれないが、迷惑な話である。
ところで話は変わるが、昔は葬儀は必ずと言ってよいほど自宅で行なったものだが、今ではほとんど葬儀会館で行われる。この葬儀会館での葬祭業者による葬送は、葬家にとっては手間のかからない便利なものとして受け容れられていった。何しろ昔なら家の誰かが亡くなると、町内など地域共同体にすぐさま触れが回って近隣の人々が集まり、葬式の段取りや手配が決められていき、あわただしく人の出入りがあって、遺族はしみじみ死者との別れを惜しむどころか、場合によっては居るべき場所言えなかった。
ところが今は、葬儀の生前予約まで登場し、しかも今日、日本では80%以上の人が病院で亡くなることから、遺体は病院から葬儀会館へと直行し、あとはすべて葬祭業者が請け負ってくれる。遺族の煩わしい負担が軽くなるところが、世間に受け容れられた大きな理由であろう。もはやこの流れは止まらないだろう。
折しも新型コロナウイルスの強い感染力に脅えて、遺体を病院から直に斎場へ運んで火葬に付し、遺体に触れることはおろか、最後のお別れすらできないケースが続出する時代となった。
この事態に便乗して、直葬と称して費用を掛けずにチャチャつと葬儀を済ましてしまおうという不届きな者も出るかもしれない。
葬家の負担を思うと、葬儀の簡素化は致し方ないにしても、それによって死者のことをしみじみと悼み、死者との今生の別れを心ゆくまで惜しむという、人間としての心まで無くしてはならないと思うのである。
人は自分の死から学ぶことはできない。他者の死から学び、そして自分の死を学ぶしかないのである。それが「生」を深く考えることにもつながる。そのためにも、簡素であっても厳粛で心こもる葬儀でありたい。
葬儀は自分の死生観を考える貴重な機会でもあるのである。