妙風
論苑
事実と伝説
日蓮正宗では、熱原の法難を契機にいわゆる「戒壇の大御本尊」を大聖人御自らが造立されたとしてきている。楠の丸太を縦に半分に割ったような形で、高さ約140cm、巾約66mである。
「腰書」といって御本尊の最下部には、
「右為現当二世 造立如件(右、現当二世の為に 造立件の如し)
本門戒壇之願主 弥四郎国重法華講衆等敬白 弘安二年十月十二日」
と彫刻されている。
熱原法難の経緯を言うと、弘安2年9月21日、滝泉寺院主代行智らが法華衆徒たちの稲刈りを襲撃した上で、これを法華衆徒側の乱暴狼籍と捏造して幕府に提訴、ために神四郎以下農民信徒20人が捕縛されて鎌倉へ連行された。その報告を受けた大聖人は、同年10月1日、鎌倉に在って事件に対応する日興上人等に向けて教示を発せられ(『聖人御難事』)、同日『富木入道殿御返事』でも同事件についての指示を記されている。
10月12日には、すでに届けられていた『滝泉寺申状』の案文に加筆訂正の筆を入れて鎌倉に送り返し、併せて『伯書殿御返事』をしたためて訴訟に臨む指示を日興上人等に与えている。
その3日後の10月15日、事件の吟味に当たっていた平左衛門尉頼綱が、その私邸にて神四郎たち法華衆徒に拷問を加えながら信仰を捨てよと迫り、ついに神四郎・弥五郎・弥次郎の3名を斬首した。
この日の夕5時頃出された急報は2日後の17日夕5時頃身延に届き、大聖人はその1〜2時間後には『聖人等御返事』をしたためられて日興上人等に対応を指示されている。この1ケ月足らずの間の緊迫した状況がよく察せられる。
さて日蓮正宗では、この熱原法難、殊に神四郎等3人の初心の百姓が命に替えても信仰を堅持したことに大聖人が深く感ぜられ、出世の本懐として日興上人と共に「戒壇の大御本尊」をお顕しになったと伝承されている。しかも図顕の年月日は弘安2年10月12日と特定されている。
なお、弘安2年11月6日の『上野殿御返事』には、
「此れはあつわらの事のありがたさに申す御返事なり」(全集1561頁)
とあるも、「戒壇の大御本尊」については何も触れておられない。また法難19年後永仁6年の日興上人の『弟子分本尊目録』には、神四郎等が首を斬られても信仰を全うしたことを称賛されているのに、「戒壇の大御本尊」の存在は窺うこともできない。
これらの史実をもって見ても、熱原法難と「戒壇の大御本尊」が結びついたのは、『聖人御難事』に「立宗以来27年の弘安2年、出世の本懐を遂げた」(主意)という大聖人の御文からであろう。しかし同御書からは.「出世の本懐」=「戒壇の大御本尊」の脈絡は認められない。後人の付度だろう。
どこの宗派にも少なからず伝説はあるものだから、伝説は伝説として大切にすればよいと思うのだが…。