かがみ

宗教法人正信会の理念

 

宗開三祖の教えを真撃に求めよう、覚醒されるべき対象を確認し

 

【覚醒されるべき 対象とは】

 日蓮大聖人入滅後、その門下では六老僧を中心として各門流が形成されたが、白蓮阿闍梨日興上人は富士の麓に妙法流布の礎を築かれ、他門より日興門流・富士門流と称されるようになった。その門流は近年日蓮正宗を名乗っているが、日蓮大聖人の正法正義を護持するこの門流に昭和52年頃、正信覚醒運動が興起した。

 正信覚醒運動とは正しい信仰に目覚めようという運動のこと。言い換えれば日蓮大聖人のまことの教えに目覚めるための運動である。目覚めるということは、目覚めなければならない理由を理解し、その必要性を認識した人々によって用いられるべき言葉である。
 昭和20年代後半から信徒団体であった創価学会の急膨張と相まって、教団勢力を大いに伸張させた日蓮正宗。しかし、その学会との関係は時に利用し合ったり、批判し合ったりと複雑なものであった。

 約40年ほど前、池田創価学会による教義と信仰の改変問題から、ついに深刻な事態を迎えることになり、日蓮正宗では澎湃として正信覚醒運動がわき起こる。その機縁は、創価学会による謗法や邪義、社会的不正などであったことは事実だが、運動は.「宗風の刷新」と「祖道の恢復」を明確な旗印として宗内に覚醒を求めたのである。

 その意味するところは、正信覚醒運動は単純に池田創価学会の邪義非道の改善を求めるばかりではなく、そのような事態を招く原因となった近代日蓮正宗の在り方を正そうということであり、ここに運動の本質が存在していたことは、その歴史をひもとけば一目瞭然である。

 すなわち、正信覚醒運動は池田創価学会への覚醒を求めると同時に、血脈を偽証し法主の座を纂奪した阿部日顕師の非道と邪義を正すことになり、阿部宗門との間で交わされた法義論争では、近代宗門の教義と信仰の誤りを指摘したのである。
 論争では、阿部宗門側は近代日蓮正宗の教義と信仰をさらに曲解・強調してきたが、正信会は近代宗門の教学を検証し、門流教学の存在を認めながらも、宗開三祖の教えを求めることこそ末弟の責務であることを述べた。門流の近代教学よりも宗開三祖の教えをより重視したのである。

 もし、創価学会問題が正信覚醒運動の全てであり、近代日蓮正宗の教学と信仰、ことに日達上人の指導の全部を守ることが正信覚醒運動であるとするならば、阿部師によって創価学会はすでに破門されているのであり、阿部・早瀬宗門は日達上人の路線を継承していると主張しているのであるから、速やかに運動の矛を収めて宗門に復帰するべきである。まして、戒壇の板本尊こそすべての本尊の根源、功徳の源泉、宗祖日蓮大聖人の御当体″とするなら、躊躇するいわれはない。

 ここに運動における覚醒の対象が問われていることを知るべきである。覚醒の対象とは何か。これは実に重要なことで、このポイントをはずして正信覚醒運動を論じることは軽率の極みといえよう。近代日蓮正宗の有り様がすべて正しいのであるならば「覚醒」など不要である。

 我々、宗教法人正信会僧俗は、「宗風の刷新」と「祖道の恢復」こそが正信覚醒運動の原点であり」覚醒のキーワードであると考える。したがって近代宗門の教学と信仰こそが覚醒の対象であり、宗開三祖の教えを真筆に求めることこそ運動の本質である。我々はこの運動を継続する道の中にこそ富士日興門流の成道があると信じている。

 

【古川グループの「継命新聞」掲載鼎談】

 5年ほど前、宗教法人正信会僧俗は「任意団体日蓮正宗正信会」を名乗る古川グループの方々と運動の歩みを異にすることになった。その理由は、前述の「覚醒の対象」を中心とする運動の理念と路線の相違などによるものだが、我々は要らぬ混乱を招かぬために、旧任意団体正信会の機構などについては一切の関与を避けることとした。

「継命新聞」の購読を改めて、「妙風新聞」を発刊したのも争いを避けるためであった。

 我々は、所信や事実については堂々と主張するが「どちらが覚醒運動の正統な団体か」という非難合戦には関わるつもりはない。阿部・早瀬宗門の僧俗などは、単純で過剰な正統意識のもとに低俗な権威主義を振り回すが、我々はそのような愚かな轍をふむことはしない。

 したがって「宗教法人と任意宗教団体、どちらの団体が正信覚醒運動を正しく理解し推進しているか」ということは、「我々が正統だ」というような一方的な主張を弄ぶのではなく、宗開三祖の教えに照らし、その運動の姿によって判断されるべきだと考えている。

 「継命新聞」4月1日号では、新年度より正信会議長が古川興道師から田村竜道師へとバトンタッチするとして、「5年間を振り返って」と題しての正副議長(古川興道師、田村竜道師、中谷道尊師)3名による鼎談を掲載した。

 そこには、「運動の原点を遵守、大聖人出世の本懐とは、入仏・開眼の意義、信徒の成仏を第一に」という4つの見出しが躍っている。内容は彼のグループ5年間の活動を総括し、所信を表明したものということが言えよう。

 彼のグループがどのような浩動をしようが意見を述べようが、自由であることはいうまでもない。しかし、事実をねじ曲げて宗教法人正信会を批判してくるならばお応えしなければならない。

 まして鼎談の末文ではわざわざ「妙風新聞への反論を兼ねております」とのことわりがなされていた。次号よりポイントをしぼってこれに回答したい。  

 

 

(つづく)

 


 

かがみ

 

宗教法人正信会の理念

 

正信とは何か∞覚醒とは何か≠真摯に考え、品格を持って正信覚醒運動に精進しよう

 

 正信覚醒運動は当初より「宗風の刷新」「祖道の恢復」をその目的として運動を推進してきたことは前号で述べた。しかし、古川・田村グループ(任意団体正信会)はそのような理解ではないらしい。もっとも、そもそも覚醒運動が僧俗一人一人の道念によって起こされ、最初から画一的で組織化された運動でなかったことは事実であるから、彼のグループが我われ宗教法人正信会と見解が違うということも理解はできる。

 

【宗開両祖の教えに照らして】

 正信覚醒運動と称して進めてきた運動も40年の歴史を刻んだ現在、運動興起からの各僧侶や寺院・講中の活動実態を振り返れば、思想信条の異なる僧俗がそれぞれの思い込みで集っていたことがよくわかる。その証左に、わずかではあるが阿部宗門に転向した者もいたし、運動の旗振りをしていたのにいつの間にか見えなくなった者もいる。また他者に発被をかけながら、今では運動しているのか、していないのか疑われるような者もいるし、運動の尊さが理解できずに去って行った者もいる。しかし他方、しっかりと正信覚醒に向き合って精進に精進を重ねている宗教法人正信会の寺院講中も存在しているのである。

 もちろんどのようなスタンスを取るかは各人の自由であるが責任もあるだろう。覚醒運動を口にするのであば正信とは何か″覚醒とは何か≠真摯に考え、自らの成道と向き合っているかが問われることを知らなければならない。愚者や薄信の者をたぶらかすことはそう難しくないかもしれないが、自ちの浅識や欺瞞を長く覆い隠すことはできないし、識者はむちろん、宗開両祖の厳しい照覧を免れることはできないのである。

 そもそも基本的理念やその見解に相違があるのであれば、気がついた時には歩むべき道を異にするのは当然のこと。理念も目的も違うのに、利害得失に執着して利用し合う関係をときに野合という。宗教法人正信会と古川・田村グループも、覚醒運動の目的や理念、主張や路線に違いがあるのならば、将来はともかく現在はそれぞれの道を歩むことが望ましい。

 しかし、その道は阿部・早瀬宗門ような世俗的権威や、自己正統化の主張を一方的に押しつけるものであってはならず、宗開両祖の教えに照らし、自らの活動を通して明らかにすべきものである。 

 

【独りよがりのレッテル貼り】

 現在、彼のグループの機関紙となっている『継命新聞』では、本年4月1日号に古川興道、田村竜道、中谷道尊の3師による鼎談を掲載した。そこには彼らの主張と体質が端的に示されている。冒頭、田村師は「正信会の原点は護法にあります」と発言。重ねて古川師も「正信会と覚醒運動の原点は、本宗信仰の根本である戒壇の大御本尊を厳護し、信徒の成仏を願うこと、護法とは日蓮正宗の法義を護ること」と発言している。

 我われ宗教法人正信会は「宗風の刷新」と祖道の恢復」こそが運動の原点であり目的とするから、「正信会の原点は護法。本宗信仰の根本・日蓮正宗の法義を護り、信徒の成仏を願う」という表現を否定はしない。まして「信徒の成仏を願う」ことは自明の理である。

 しかし、彼らが阿部・早瀬宗門同様に「電源としての本尊」「宗祖の法義のすべてが込められた超絶の本尊」と主張する戒壇本尊義を本宗信仰の根本とは考えていない。また「日蓮正宗の法義」というl表現についても、彼のグループのように現在の阿部・早瀬宗門とほとんど変わらぬ信仰観に立ってはいない。覚醒運動における日蓮正宗の法義とは、近現代の変質した教義と信仰ではなく、宗開両祖の教えそのものと理解しているのである。護法という表現は同じであってもその内容は大きく違う。

 さて、古川・田村グループには阿部・早瀬宗門や学会のような「レッテル貼り」という手法がよく見られる。レッテル貼りとは、虚実を織り交ぜ、時系列を無視して対象者を攻撃し、悪しき印象を植え付けることであるが、その目的は対象者のイメージダウンをはかることにある。

 この鼎談でも、会内で特異な発言でよく知られた中谷師が「ここ数年続いた会内の混乱もこの原点を見失ったことが原因ではないですか。正信会の事務所拠点作りの話に、有志の会(後の法人派)で横浜・旧妙法院の取得を提案してきました…」と発言している。

 しかし、正信会事務所のことは平成20年から21年の問題であり、3年1月には会員の意思表明によって決着していた問題である。
 有志の会は平成24年に結成されたのであるから、時をざかのぼって旧妙法院の取得を有志の会が提案することなどできようはずもない。時系列を無視し、虚実織り交ぜて他者を攻撃することは、仏教者としての資格さえ問われる愚かな行為と言える。

 また古川師は鼎談で、「法人派との裁判は裁判所の和解勧告に従い、双方が了承しました。その骨子は、@それぞれ別個の宗教団体である。A財産については正信会が2、法人派が1の割合で分配する。裁判は世俗の問題ですが、ある意味勝訴以上の結果が得られ」と発言している。

 しかし、そもそも和解は裁判による判決以外の方法で係争を終了させるための一方法に過ぎないから、勝敗とはなじまない。双方が裁判長の和解案を了承して訴訟を終結したのである。また、分配も2対1という表現ではなく、裁判長が具体的な数字を示して勧告案を出したもの。

 古川師はどのように説明するのも自分の勝手と考えているのだろうが、内容や表現が正確でなければ「独りよがりのレッテル貼り」との批判を免れない。

 我々は他山の石として品格をもって覚醒運動に療進したい。

 

 

 

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参考資料;正信会HP