二祖日興上人は、宗祖日蓮大聖人の御付嘱を受け、身延山久遠寺の院主として、大聖人のおあとを継がれたことが事実である。

然るに、一般の日蓮門下に於いては、此の事実を歪曲して日興上人を無視し、民部日向を以って身延山の二代と称して恬然としている。

甚だしきは日興上人の門系でありながら、日興上人の身延在住すら虚偽として世に発表し、身延日蓮宗に阿付して恥じない者まで出ているしまつである。

かかる時に当時の歴史の正鵠を掲かげて世に示し、以って日興上人が宗祖大聖人の仏法を正しく守り、而してその仏法を広宣流布する為めに、如何に御苦心せられたか、又その為めに遂に身延を捨てて富士へ移られ、此処を本門戒壇建立の地と奠められたのである、と云うことを知らしめるために、この日興上人身延離山史を作ったのである。

身延離山史は先年、59世日享上人が御著述なされているが、此の本は非常に学究的で一般向きとはならないので、人々には安易に理解出来難い様であった、しかも今日に於いては既に絶版になって居る。

依って今回、宗祖日蓮大聖人の第680御遠忌を記念して、富士学林に於いて、もう少し現代人の理解し易き様にと、再び身延離山史を発行することにし、それ相当の参考書を集め、富士学林研究生等が此れを物して出版したのである。

「正を正とし、邪を邪とする」のは大聖人の教え給う所である。いやしくも大聖人門下と名のるものは、従来の行きがかりを棄て、破邪顕正の誠意を表わして、日興上人の正義に帰り、以って大聖人の仏法を末世に輝やかすべきである。

若し本書が、その心掛けの人々の善心を動かす一助となれば、世の為め幸いと云うべきである。

昭和36年11月20日

宗祖日蓮大聖人第680御遠忌の砌

66世  日  達

 

 

 

日興上人身延離山史 目 次

 

序   論

第1章 日興上人の地位・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1

第1項 大聖人御在世中の事蹟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

第2項 久遠寺別当職就任・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5

第2章 日興上人付嘱への誹謗を破す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

第1項 二箇の相承への誹謗を破す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

第2項 墓所輪番制への誹謗を破す・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・21

 

本   論

第1章 日興上人の身延入山と常住・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・35

第2章 墓所輪番制の制定とその推移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・46

第1項 墓所輪番制の制定・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47

第2項 墓所輪番制の推移・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67

第3章 日興上人と波木井日円との関係・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・93

第4章 民部日向の登山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・106

第5章 身 延 離 山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・110

第1項 離山の原因・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・110

第2項 離山の決意・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・130

第3項 離山の時期・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・132

第6章 身延離山の意義・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・149

  付 録 年 表

写 真 解 説

 

 

序   論

 

第1章 日興上人の地位

 

宗祖日蓮大聖人が池上の地に滅不滅の相を現ぜられた後、身延に住された日興上人が8ケ年を経た正応2年、何が故に大聖人深緑の霊地、身延の沢を下り富士に移らねばならなかったのか、この日興上人身延御離山の真因は那辺に存し、将又そこに如何なる意義を有するのであろうか。今茲に御離山の歴史を顧み、その真実相をあきらめるに当たって、先ず明確にしておかなければならない問題は当事者であられる日興上人の御地位である。即ち日興上人は大聖人より一切の御付嘱を承け御滅後の大導師として一門統帥の地位に就かれ、又大聖人亡き後の身延山久遠寺に院主別当として入山遊ばされたのである。この事実がはっきり認識されないと、御離山に当たっての日興上人の御行動も、又真の意義も正しく把握する事は出来ない。身延離山と云うことは日興上人の御意がその中心となるのである。而して日興上人がどのように御考え遊ばされたかは大聖人の身延へ対する御考えが如何であったかによって決まる。即ち大聖人の御意は日興上人の御意を決定する。此れが筋目となるのであり、これを外しては到底正鵠な理解は求めらるべくもない。而して大聖人はどの様に身延に就いてお考え遊ばされていたか。日興上人は如何ようにその大聖人の御意を承けていられたか。此の辺の御消息を明らかにすることこそ先決の要事であると考えられる。

 

第1項 大聖人御在世中の事蹟

吾が二祖白蓮阿闍梨日興上人は数多の御弟子衆の中に於いて真に給仕第一の誉高き門弟である。宗祖大聖人御在世中、常にそのお側に侍して怠る事無く御給仕申し上げた方は、日興上人をおいて他に無いと云えよう。

正嘉2年、大聖人が『立正安国論』勘案の際、駿州岩本の実相寺に一切経閲覧の為入蔵され、その折、僅か13才の幼令で御弟子に加わり、以降弘安5年の大聖人御人滅に至るまで実に25年の長きに亘り、影の身に随うが如くその膝下に在って御給仕第一に勤められた。大聖人が始め建長5年、末法の御本仏として化を垂れ給いしより、終り池上御入滅迄、獅子奮迅の弘教を遊ばされた30年間の内、清澄寺での宗旨建立、と同時に擯出せられ鎌倉松葉ケ谷へ本拠を移し、折伏逆化の法鼓を高々と鳴らされた、その僅か草創の5ケ年を除いては、全く片時も離れる事無く随身し、まのあたり御本仏の御振舞を拝し随喜の日々を送ったのである。

即ち弘長元年、大聖人が伊豆伊東に御配流の時は、随侍して難苦を共にし、余暇を見ては附近を教化された。御赦免後、大聖人が松葉ケ谷に在す時はその秘書役として大いに活動し、又富士方面の法戦にも隠然たる法将としてその指揮をとられた。更に文永8年9月の竜ノロ大法難を経て佐渡御流罪の際に、寺泊迄は多くの僧俗が供奉されたがその殆どは渡海する事が出来なかった。然し吾が日興上人は万難を排してお供をし、配所4ケ年の間、筆舌に尽くせぬ労苦を乗り越えて常随給仕の任を完うされたのである。その熱烈な御奉仕は自ずと本間一族並びに阿仏房等を動かし、以って大聖人の正信に帰入せしめる縁となった。

又同11年春、御赦免あって鎌倉へお供をして入り、直ちに大聖人は第三の国諌をなされたが頑迷な執権は是れを容れず、止むなく身延の深山に入り遠く広布の雄図を計られるに至った。この身延入山は偏に日興上人の御懇志に依るのである。即ち身延の地頭波木井実長ほ日興上人初発心の信士であった故である。

さて大聖人の御草庵が完成するや、日興上人は出でて富士方面一帯の教化に専念し、多くの入信受法者を見るに至ったが、偶々四十九院、熱原の法難が惹起し、日興上人は大聖人の御指導を仰ぎ乍ら敢然と闘われた。就中弘安2年秋を中心とする熱原法難に於いては、主謀滝泉寺院主代、行智の刃傷殺害にも及ぶ奸策迫害にも屈せず、日興上人の指揮下、一糸乱れず強盛な信仰を続ける法華講衆の出ずるに至った。茲においてか大聖人は、愈々我が仏法の基礎も確立せりと深く御感あり、御一代御化導の最究寛である本門戒壇の大御本尊を建立遊ばされたのである。斯様に此の富士熱原の法難は重大な意義を有する。而して又微かに拝するに、その法華衆徒の薫陶教化、対法難策に一身を抛って当たられた日興上人の雄姿は、大聖人の眼に如何ばかり頼母しく映った事であろう。これを裏付けるかの如く、大聖人は弘安2年10月17日に熱原神四郎等20人が禁獄された事を知られて、即刻、日興上人を始め日秀・日弁に対し「聖人等御返事」(全集1455)と宛名した御教示を遣わされている、この「聖人」との宛名は全く異例の事であり、畢竟日興上人の偉功を称美された尊称でなくて何であろうか。

 

第2項 久遠寺別当職就任

かかる日興上人の細事跡を拝するならば、我々凡愚の到底うかがい知る処ではなく、唯仏与仏の御境界にあらせられたのであり、大聖人御入滅に際し、一切を御付嘱遊ばされた御事は、蓋し必然の帰趨と云えるであろう。

即ち弘安5年9月、大聖人は身延山に於いて日興上人を滅後の大導師とお定めになったのである。その御付嘱状は、日蓮一期弘法付嘱書、或いは総付嘱書とも、所嘱の地に約して身延相承とも呼ばれる。

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之れを付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるぺきなり、時を待つべきのみ、事の戒法というは是れなり、なかんずく我が門弟等此の状を守るぺきなり。

弘安5年牛壬9月 日

日 蓮 在御判

血脈の次第日蓮日興

(聖典339)

 

なおこの御付嘱に先立ち御本尊の相伝書・百六箇本迹の相違・本因妙の深義等、大聖人御内証の法門を悉く伝受なされた。

斯くして日興上人は名実ともに大聖人より総ての付嘱を承け、大導師として、法華本門戒壇建立を目指し指揮を執られる事に成ったのである。

ここにおいて大聖人は一大事因縁故出現於世の所作も完うされ、9ケ年御在住の身延山を下り、常陸国三筥の湯へ向われた。波木井殿の馬に跨り、日興上人始め目師等の御弟子、亦波木井殿の公達が御守護申し上げて東上されたが、途次武州池上の里、右衛門大夫宗仲の舘に立ち寄り御休養遊ばされた。而してこの邸が遂に御入滅の霊地と成るに至ったのである。

10月に入り、諸国に散在する門下の上足として六人の本弟子を定め、各々弘通に精進し広宣流布の大願を達成する様御下命遊ばされた。

 

1、弘安5年牛壬9月18日武州池上に入御 地頭衛門大夫宗仲

同10月8日本弟子六人を定め置かる 此の状六人面々に帯す可し云々日興一筆也

1、弟子六人事    不次第

1、蓮華阿闍梨    日持

1、伊与公      日頂

1、佐土公      日向

1、白蓮阿闍梨    日興

1、大国阿闍梨    日朗

1、弁阿闍梨     日昭

 

右六人は本弟子也、依って向後の為に定むる所、件の如し。

弘安5年10月8日

(聖典581)

 この本弟子六人(御入滅後六老僧と通称される)の撰定後、同月13日いよいよ御入滅に際し更に日興上人に対し身延山久遠寺の別当職を御付嘱遊ばされた。身延山付嘱書、或いは別付嘱書、又所嘱の地から池上相承と呼ばれる。

釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるぺきなり、在家出家共に背く輩は非法の衆たるぺきなり。

弘安5年牛壬10月13日

武州池上

日 蓮 判 

(聖典340)

この御付嘱を最後として、末法下種の御本仏日蓮大聖人は、遂に非滅の滅を現ぜられた。

翌14日六老僧を中心とする多数の弟子檀那の手に依って粛然と御葬儀が執り行なわれた。

その様子は西山本門寺に現存する日興上人御執筆の記録に詳しい。

 

同13日辰の時御滅御年61即時に大地震動す

同14日戊の時御入棺 日朗日昭、子の時御葬也

 

1、御葬送次第

 

先火        二郎三郎鎌倉の住人

次大宝華      四郎次郎駿河国富士上野の住人

次幡      左 四條左衛門尉

   右 衛門大夫

次香         富木五郎入道

次鐘         太田左衛門入道

次散華       南條七郎次郎

次御経       大学亮

次文机       富田四郎太郎

次仏         大学三郎

次御はきもの    源内三郎御所御中問

次御棺       御輿也

前陣 大国阿闍梨

  左

侍従公

治部公

下野公

蓮華阿闍梨

  右

出羽公

和泉公

但馬公

卿 公

後陣 弁阿闍梨

  左

信乃公

伊賀公

摂津公

白蓮阿闍梨

  右

丹波 公

大夫公

筑前公

輔 公

次天蓋       太田三郎左衛門尉

次御大刀      兵衛志

次御腹巻      椎地四郎

次御馬       亀王童

滝王童

『宗祖御遷化記録』聖典582

 

写真@参照)

この記録は10月16日池上に於いて記されたもので、更に釈尊立像、註法華経に関する御遣言が連なり、その後に翌弘安6年正月、身延にて記された「墓所可守番帳事」一紙が続いている。そのうえ首尾五紙が継ぎ合わされ、その裏四ケ処の継ぎ目にほ、老僧達の花押で継ぎ印されているが、佐土公日向と伊与公日頂は他行となっており、当時は不参であった事が知れる。その他にも不本意乍ら池上に参集出来得なかった僧俗は、多数あった事と思われる。当時の通信交通の事情からすれば致し方の無い事であったろう。

さて御茶毘も恙なく済み、多くの遺弟方に守られて御灰骨は身延山にお還りになった。

翌弘安6年正月には御正墓守護給仕の輪番制を定め、日興上人がこれを記録に留められた。

日興上人は以後正応2年御離山に至る迄、一山の院主として常住遊ばされ、かたがた出でては甲駿の地に挺身弘教されたのである。

この事はあらゆる史実に徹して明白であり、動かす事の出来ない事実である。

 

 

第2章 日興上人付嘱への誹謗を破す

 

古来他門に於いては、この厳然たる日興上人御付嘱の事実をまげて解し、殊更に日興上人に対する悪宣伝を恣にしている。史料が乏しく未開拓であったという事だけでは済まされぬ暴論が諸伝に横溢している。若し史料が無い為に正鵠を期し難かったというならば、宜しく吾が日蓮正宗正統の所伝に従う可きであるにもかかわらず、勝手気儘に全く事実無根の情景を筆の先だけで作り上げ、これを世間に流布させている事は断じて許せない。剰え当時の史料が種々公開されている現今に於いてすら猶且つ、旧来の誤謬伝説を踏襲し毒筆を敢えて止めぬ者が後を絶たないのは何とした事か。すでに吾が先師方が、其等の諸伝説は全く以って根拠の無い妄説である所以を、正史料を示して完膚なきまでに破り去っているにもかかわらず、未だに無価値な旧観を振り翳して日興上人を、ひいて吾が宗門を難じている姿は正しく悪鬼入其身の振舞いである。

而してその謬伝の依って釆たる根源は那辺に存するかというと、一にかかって日興上人への御付嘱を否定する点にある。大聖人御人滅の折、付法の大導師、久遠寺別当として日興上人に一切を相承遊ばされた事実を素直に認めようとしない。二箇の付嘱状は偽書であるとか、日興上人は六老僧中第三位に記されてあり、葬送の時も昭朗二師の方が上位にあった等、又御滅後の身延山久遠寺には専任の住職を置かず六老僧と其の次位の12人、併せて18人が1ケ月輪番住職と定められたと主張する。従って日興上人が最初から身延の院主として常住されたのでなく、この輪番制が遠国に教練を布いている者の場合、僅か一ケ月位の当番の為に7日8日と道中をして身延迄上るのは非常に容易ならぬ事なので、自然に最も近い富士郡在住の日興上人に代番を依頼する様な事に成っていた。そこで、どうも輪番制というのは確実に実行する事が難しいので、住持を一人はっきりときめた方がよかろうと衆議一決し、地頭波木井入道の意志に依って民部日向が正式に久遠寺の第ニ代住職と決定した。この時独り日興上人が大聖人の御遺言を楯にとって輪番制度を主張をしたが誰も賛成しないので直ちに一門を具して身延を去った。と他門では大体以上の様な主張している。尤も諸山諸派によりその記述内容は七花八裂の有様であるがともかく正鵠を得たものは一としてない。他門では最近ようやく『原殿書』により御離山の原因として波木井入道の謗法を認めざるを得なくなっているが、然しやはり久遠寺の後継問題も含まれていた等と相も変らず、故意に謬説を書き連ねている。

そこで、前にも述べたように是等悪伝の根底となっている日興上人への御付嘱否定論を推破し以つて大聖人御滅後の日興上人の御地位を明確にしておこう。

先ず日興上人がまのあたり大聖人より御付嘱を承けた事実、即ち二箇の相承に就いて精記し、近世他門より起こる妄評を破そう。

 

第1項 二箇の相承への誹謗を破す

既に前項に掲げた様に、大聖人は弘安5年9月に『日蓮一期弘法付嘱書』を、更に御入滅に際し『身延山付嘱書』の所謂二箇の相承を日興上人へ御付嘱遊ばされた。然し中世以来御付嘱に就いてとかくの妄推をなすものが後を絶たない。そこで日興上人の身延離山を述べるに当たり、先ず日興上人こそ大聖人の正義を余すところなく御相承遊ばされた御方であること、を明らかにする必要上、是等はとるに足らぬ謬説観であり既に先師方に依って悉く評破し尽くされている事ではあるが、以下少しく述べよう。

先ず大聖人の御跡を承継すべき方は数多の門弟中日興上人を除いて他に考えられなかったという当時の情勢に就いてであるが、これは既に先々記した如くである。

次に他門では大聖人にほ唯授一人相承の思想があったとは思えないと疑難しているが、これは全く不当な考え方である。『一代聖教大意』にほ「此の経は相伝に非ずんば知り難し」(全集398)との御文があるが、これは法華経は信を以って入る故に師弟相対の信心血脈でなければ知る事が出来ないとの文章である。法華経は釈尊の化導の場合でも、又その文底に秘された久遠元初の妙法を末法出現の御本仏が之れを弘道されるに当たっても、全て信を基とされるのである。唯異なる点は釈尊は脱益の仏である関係上、横に広く開会を旨とされたが、大聖人の妙法は下種であるから、縦に長く末法万年の化導をその所詮とするのが筋目である。従って大聖人の弟子檀那の中にも、親しく長期に亘って教えを承けた人もあれば、余り直に御慈化を受けていない人もおり、法門の信解領承の上にも当然浅深がある。故にこの差別を忘れ、大聖人御化導の法相を見失って、一切の機根を全て同じ様に考えては大変な誤りを犯す事になる。そこで当時の人々の信解の状態を大きく分けて考えると、一つは大聖人の御事を釈尊の弘めた仏法を受け継ぎ、その本懐である法華経を弘通遊ばされる方であると拝して信心帰依した人々、一つは法華経神力品に於いて付嘱を承けた妙法蓮華経の法体の上に種脱を弁え、大聖人所弘の妙法は正しく釈尊・天台・伝教の未だ弘め給わなかった久遠元初、本因妙に位する下種の妙法であり、従ってこれを弘め給う大聖人こそ外用は釈尊の本化の弟子上行菩薩であるが、その御内証は久遠元初自受用報身如来であり、末法御出現の御本仏であらせられると拝し奉っていた方、この二道りに分けられる。而して前者は念仏・禅・真言・律等の権宗を呵責し、釈尊一代化導の究竟である法華経八巻を弘めるのが、釈尊の弟子としての大聖人の御立場であると考えているのであるが、勿論これは大聖人の権実相対辺の立場であり、是等は全て天台の助言に過ぎず、大聖人独自の法門ではない。ところが御在世中の人々は、僧俗を問わず殆ど此の辺遷しか領解していなかったことはあらゆる文献、史実から見て明らかな事である。

然し大聖人の仏法は釈尊一代所弘の仏法の要をとり、それを弘通するのとは全く異なる、即ち釈尊の法華経一部八巻二十八品と、大聖人所弘の法華経とは、名は同じであってもその体は異なるのである。即ち大聖人出世の御本懐、それは寿量品文底顕本の真意である久遠下種の妙法であり、これを末法適時の大法として建立遊ばされた三大秘法の御法門なのである。而してこれは全く難信難解の法門であり、大聖人に直接御化導を蒙った弟子は数多であったが、その殆どは信解了達するに至らなかった。それ故にこそこの本懐究竟の法門法体を令法久住、広宣流布の為に信心無二、師弟一如の境界に達せられていた日興上人を撰んで御授与遊ばされたのである。憶うに大聖人御滅後の弟子方の振舞を見るならば、大聖人の御本意の本尊がなんであるかも解し得ず、釈尊像を造立したり、天台沙門と名乗って諌状を呈したり、その悉くが釈尊仏法・天台仏法の余滓を嘗めているに過ぎないあさましさではないか。それに比して大聖人出世の御本意を悉知了解遊ばされていた日興上人は、大聖人こそ末法出現の御本仏であり、その所弘の法門は正像未弘の三大秘法であると明らかに身を以って示されている。この現証こそ日興上人が付法の嫡弟として本因妙抄・百六箇相承等の法門相承を禀け、法体相承として二箇の相承をうけられた動かせない根拠と拝さなくてほならない。

さて次に、二箇の相承書自体に就いての様々な邪難・妄推に就いて筆を進めよう。先ずその伝承の経路が不明であり、上古の古記録にも見えないことは不審であるとの俗難があるが、これは全く付嘱状の特性と当時の事情に疎い故に起きる妄見と云える。大聖人より日興上人への付嘱書は御自身のものであり、他の者が介入する余地のない文書である。従ってこれを特に広く公表する必要もないし、又当時の門下一般周知の事実であるから、殊更之れを筆にする必要もなかったわけである。してみれば何の記録も存していないことはむしろ当然でこそあれ不思議はないと云えよう。今ここに論じょうとする日興上人の身延離山より富士草創に至るその間の化儀と御事蹟は、あくまでも大聖人の正義を立て継ぎ参らせんとの御精神に終始されている。

この御振舞自体が既に二箇の相承の存在する明証にほかならないのである。

最後にこの二箇の相承が紛失してしまった経緯に就き明らかにしておこう。慥に二箇の相承は現在不明となっている。然し正本が現存しないからといってそれが偽書であるとか、疑わしいとか難ずることが不当であるのは云うまでもない。而も現存した事実の明証があり、又紛失当時の事情が明らかとなっている以上、一点も疑う余地が存しない。

二箇の相承は、勿論日興上人に授けられたものであるから、御自身が常に所持遊ばされていた。従って身延より富士へ、更に重須本門寺へと移られた後は同寺に所蔵されていたのである。

ところが日興上人御入滅後日代日妙両師の諍いにより、日代は重須を出で西山へ移った。

 そこで西山の後住者達は、重須本門寺の重宝として守護されている二箇の相承等は、我が門家にこそ所持の権利があると考え、十世の日春が当時の有力な官権である武田勝頼に働きかけ、武力に依って重須本門寺の二箇の相承・御本尊等の重宝を押収した。天正9年3月17日のことである。然し其の後織田信長の攻略に依って武田家は滅亡し、館の持仏堂に納めてあった是等の重宝が何方かへ散失して、今に至るもその行方が知れないのである。この史実を証明する文献は重須本門寺・西山本門寺・或いは小泉久遠寺・保田抄本寺等に現存しており確かな事である。

然し乍ら武田方に奪われる26年前の弘治2年7月5日に、要山日辰が重須にて二箇の相承正本を拝して臨写しており、又佐渡世尊寺にも、紛失時の次の重須本門寺貫主日健の写本が現存しており、日辰写本と全同である。更に古くは聖滅後99年に妙蓮寺日眼師が『五人所破抄見聞』に日興上人の御付嘱を記し、左京日教(聖滅二有年頃)も『百五十箇条』・『類聚翰集私』等に二箇の相承を記録している。尤も日教の引用しているのは年紀の入れ違いや、付記の誤り等もあるが、常に正本を拝し得ない人であり、口写によったものであろうから多少の差異があるのに不思議はない。

以上種々な面から日興上人への御付嘱状に就いて述べたが、斯様に道理の上からも、又文証の上からも、更に最も大事な現証の上からみて、毫も疑うぺき御事ではなく、日蓮門下と名乗る以上伏して信じ奉るべきなのである。

 

第2項 墓所輪番制への誹謗を破す

次に墓所輪番制度に就いて考察を加えてみよう。先ず最初に明瞭にしておかなければならぬことは、墓所輪番制とは、読んで字の如く、あくまでも聖廟守護給仕の輪番であり、決して身延山久遠寺一山の輪番、即ち久遠寺別当職の輪番制ではないという事である。久遠寺別当職は、二箇の相承からいって既に日興上人と治定しているのであり、不動の事実なのである。大体一山の住職を一月交代で18名からの人が之れに当たるなどという珍妙な制度があるわけはない。この点を前以ってよく心得る可きである。

さて大聖入滅後その墓所の守護に関しては、六老が中心となり、更に高弟12人を加えた18人が、一月交代で当たる制度が定められた。弘安6年正月、即ち大聖人第百箇日忌の前後の事である。これは恐らく御遺言に基づいて取り決められたものと推定される。それは御葬送直後の16日に、日興上人が執筆された『御遷化記録』に、

1、御所持仏教の事

御遺言に云く

仏は(釈迦立像)墓所の傍に立て置く可し云云

経は(私集最要文注法華経と名づく)同じ寵にして墓所の寺に置き、六人香華当番の時之れを披見す可し、

自余の聖教は沙汰の限りに非ず

仍って御遺言に任せ記する所、件の如し

(聖典584 写真A参照)

とある。茲に御遺言として「6人香華当番の時」と記されている点から、墓所守護は当番制で為す可き事は、既に御在世中に治定していたと推考するに充分である。

さてこの墓所輪番はどのように定められたかと云うと、同じく『御遷化記録』の最後尾、第5紙に記録されてあるが、それに依ると、

定 墓所可守番帳事 次第不同

正 月   弁阿闍梨

2 月   大国阿闍梨

3 月   越前公

    淡路公

4 月   伊与公

5 月   蓮阿闍梨

6 月    越後公

      下野公

7 月    伊賀公

      筑前公

8 月    和泉公

治部公

9 月    白蓮阿闍梨

10 月   但馬公

卿公

11 月    佐土公

12 月    丹波公

         寂日房

右番帳の次第を守り懈怠無く勤任せしむ可きの状、件の如し

弘安6年正月 日

(聖典585 写真B参照)

 

の如くで、この制定に就いては、合議・承認の意を含めた証印が、昭・朗・興・持の四老僧に依り裏継ぎ目に為されてある。この御記録は申す迄もなく日興上人御正筆で、西山本門寺に現存する確実無比の正文書である。

ところが後代に至ってこの墓所輪番に関して様々な誤謬伝説が派生し、今にその禍根を残している。その根源になっていると目されるものは、現在池上本門寺に所蔵されている全一紙『身延山久遠寺番帳事』なる一書である。茲に全文を掲げると、

定  身延山久遠寺番帳事

正 月   弁阿闍梨

2 月   大国阿闍梨

3 月   越前公

   淡路公

4 月     伊与公

5 月     蓮華坊

6 月    下野公 

   越後公

7 月     伊賀公

   筑前公

8 月     治部公

  和泉公

9 月     白蓮房

10 月     佐渡公

11 月    卿 公

  但馬公

12 月    寂日房

   丹波公

 

右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕す可きの状、件の如し

弘安6年正月 日

日 持 判

日 興 判

日 朗 判

日 昭 判

(日宗全2-104 写真C参照)

右の如くであるが、西山の御正本と比較してみると、内容的には、先ず御正本では首題が「定、墓所可守番帳事不次第」とあるのに対して「定、身延山久遠寺、番帳事」となっており「墓所可守」と「身延山久遠寺」の差がある。又御正本では10月の番衆が、但馬公・卿公、11月が佐土公であるのに対し、池上本では10月と11月の番衆が入れ代わっている。又御正本は裏継ぎ目に四老僧の署名花押があるのに比して、池上本は前掲の如く文末にそれが為されている。更に細かい点では池上本は二人づつの番衆が充てられている月の中で、7月を除いた外は、全てその名前の列ぺ方が御正本と前後している。又御正本は「9月、白蓮阿閣梨」とあるのに対し、単に「白蓮房」とある。

次にその筆蹟書体の上から比較すると、この池上本も日興上人御筆と伝えられているのであるが、どうみても西山御正本の御筆蹟とは似ていない。これが10年20年と年代が隔たっているのならともかく、全く同時期に記された事になっているのだから、何としても同じ人の筆と認めるわけには行かない。写真(BC)にて比較すれば明瞭である。

そこで、それではこの西山、池上両本の就れを採るか、将又両本を認めるかとの問題になるが、吾人は池上本を怪しみ、これを捨てざるを得ない。即ちその理由としては弘安6年時の日興上人の御筆蹟とは拝せられない。これは同時代の他の諸書等に徹して明らかな事であり、又内容の面から考察しても、前記の如く18名の名前は全同であるが、10月と11月の番衆が入れ替わっている事は重大な鍵となる。慥にこの番帳が西山本一書ならず、他に多数存在しているとしても不思議はない。この制度を定めた時、各番衆所持用の為に日興上人が数本執筆されたという事は充分想定され得る事であるから。然しその内容が区々なものなどあるはずがない。これが同月内2人の番衆の名前が前後している程度の事ならともかく、月番の順序が番帳によって違っている等という事は到底納得の行くものではない。

故にどちらを撰択するかとなれば、当然上来勘考の経緯からして池上本を敬遠し、西山本を依憑とする事、蓋し常人のとるぺき態度と云えよう。なおこの池上の番帳に就いては、更に同寺所蔵の『御遺物配分帳』とも関連があり、その面から推す時に益々この考えが当を得ている事が判然とするのであるが、これは後に触れるところがあろう。

ところで斯様に池上所蔵の番帳を種々詮索した理由であるが、これは中世以降他門に於いては日興上人の身延別当職就任、常住を否定し、番衆が一月交代で身延一山を董する制度であったと主張している。或いは六老僧が交代で別当職に就いた等といっている。その依り所としているのがこの池上番帳の『身延山久遠寺番帳事』という表題なのである。慥にこの池上本の記述ぶりからすると、身延山久遠寺一山の短期住職輪番制の如く見える。従って院主は日興上人で、唯墓所の香華当番のみを各番衆が交代で行なうという制度を認めぬ事となる。斯の様に池上本に妄依して誤謬伝説を次第に作り上げて行ったものが世間に伝播し、今に捨て切れずしているのである。それ故にこそ、その根源となっている池上本を狙上に載せ考察を加えたわけである。

茲で参考までにその謂われ無き謬説を喋々している諸伝の実例を示そう。

先ず身延第11世行学日朝は、『身延先師代々ノ事』に

元祖聖人御入滅己来師資の事‥‥‥尋ねて云く、当山御住職の事如何、答う、弘安六年正月 日、六老僧加判御番帳別紙の如し、其の後巡番しかじかとましまさずありけるか、依つて別に一人住持を定め申さんと云わるる、日円の和義を以つて向師住持せしめ玉うと見えたり、私に云く、檀那の和義として、寺の住持を定むる事例式なり、設い日円の和義なりとも誰か難渋せんや、況んや日円直ちに在世の御檀那として兼日仰せを蒙り給いぬらん、かたがた以つて、聊爾すべからざるなり。

とも、又『元祖化導記』にも

29、身延山番帳の事、書類衆之れ有るも少異あり。 

(日全伝 47)

と記している。此れに依ると、先の書では「当身延山の住職の事は弘安6年正月の番帳の如く、各番衆が交代で行なう事になっていたが、だんだんその輪番が守られなくなった。そこで常住の住職を一人定めようと云う事になった時、身延の大檀那である波木井入道日円が民部日向師がよいと指定したので、向師が身延山第二世に就任した。この決定はたとえ入道の一存であったとしても、檀那がその寺の住職を定めるのは通例であるし、又更にそればかりでなく、兼ねて大聖人御在世中にその様な(日向を住持とする)仰せがあったのだから当然だと云えよう」との記述である。又『化導記』の方は、前掲文の次下に「定、御墓所可守番帳、次第不同、正月弁阿闍梨……」と番帳を記録している。ここで「御墓所可守番帳」としてあるのは西山御正本と同じで誠に結構なのであるが、各月の番衆に就いては3月に淡路公を落し、10月の卿公(目師)を紀伊公と誤っている。更に12月の丹波公日秀を11月へ入れて、佐渡公日向との二人組にする等、西山本と比較すると可成りの異同が見られる。なお7月に筑前公と並べて伊与公としてあるがこれほ恐らく伊賀公の誤写であろう。この番衆の記名からのみでは、『化導記』が池上本を唯一の依拠として記したとは推断出来ない。それは池上本とも4ケ所の相違が認められるからである。然しその主題に、「二十九、身延山番帳事」とある事は軽々に看過出来ない。即ちたとえ人文には西山御正本の如く「御墓所可守番帳」とあっても、これを引用する著者日朝の頭には、既成の観念として、池上本を源流とする身延山久遠寺番帳、即ち一山輪番制を妄信している事を示すものであるから、やはり茲にも池上本の悪影響が感じられる。前引の『身延先師代々事』にして見ても同じである。この方は更に日向の別当就任に就いては大聖人の御遺命があった等と史実も何もない無根の空説を記しているが、後節に詳述するように、日向と波木井入道の度び重なる謗法により、正嫡付法の大導師たる日興上人が涙を呑んで離山された後の空山に、其の儘居据ったに過ぎないのである。

ところで、この『元祖化導記』は、門下に於ける数多の大聖人御伝記中では吾が総本山に御正筆を現蔵する、4祖日道上人御記述の『御伝土代』に次いで古い (聖滅後約200年成立)伝記であり、『御伝土代』を余り知らぬ他門では、門下屈指の正伝として崇拝珍重しているのである。大聖人に就いての記事はともかくとしても、事日興上人に関する限り上述の如き状態である。況んやこの後に書かれた諸伝は推して知る可しと云えよう。

その代表的な悪伝として『当家諸門流継図之事』がある。これは作者年代共に詳らかでないが、およそ聖滅後300年頃の成立で、更に之れを下総峰妙興寺の日憲が増補して今日に至っている。

1、富士門徒大石寺継図之事

身延山出歩之事、古老の伝に云く、蓮祖御人滅の後は六老僧一同に身延をば二十日番に持ち玉えり、而るに御一周忌の時御報恩の行、池上に於いて之れ有り、各衆義として、向後は百日宛御番たるべし、其の故は上総・下総等より遠路なれば二十日番なれば行歩計り也と云云、時に日興の云く、向後に御番無用なり。其の故は、大聖人の仰せに、身延の隠居所をば拙者に御付嘱と云云。自余の云く、此の義口惜しと云云。即急に身延山に帰りて、板本尊と岡の宮の日法御作の大聖人の御影木像とを盗み取りて出山し玉う、故に自余と御不和の故に勝劣を建立し玉うなり、故に根本は我慢と盗偸とより起こるなり。(日宗全18−149)

何たる暴論であろう。然も「古老の伝に云く」等と無責任極まりない放言である。然もこの悪想像説が、後世の謬伝の根拠となっている如くであり、絶対に許す事は出来ない。御人滅後は六老僧一同が身延山住職を二十日番交代で行なったとあるが、再々述べる如く、大きな誤りであり、輪番制は墓所に限る事であり、院主は日興上人である。一体この著者は、全然墓番帳を見たこともないらしい、二十日番などという珍説、更に六老輪番という誤謬、全て根拠の無い浮説に過ぎない。其の他の謬説は直接墓番制とは関係ないので、後にそれぞれの項下で批判する事にしよう。諸伝には六老僧が輪番を行なったと記すものがよくあるが、西山正本の番帳を拝すれば判るように、六老僧以外に高弟12人も之れに加わり、合計18人の番衆が定められているのであり、決して六老僧のみが墓番衆であったわけではない。上古に於いては何故か西山の番帳が流布しておらず、反って池上本或いはこれを更に誤写したもの等が伝わり、正確な墓番制度が認識されていなかった模様で、殆どの伝記が皆誤解している。西山正本の御文が正しく引用されたのは、実に吾が総本山18世日精上人の『日蓮聖人年譜』(富要5−144) を以って嚆矢とする。

其の後京都の豊臣義俊著の『蓮公行状年譜』(法華霊場記の首巻、聖滅後400年成立、日全伝32) に載せられているのが、恐らく門外としては最初のものであろうと思われる。但しこれとても西山正本を引用しており乍ら「祖師七回忌の御時興師の輪番なり、実長入道日円故あって興師を廃し、日向聖人を常貫主として巡番の法式を破る云云」(日全伝34)と相も変わらず漫然と一山輪番制を伝えている。

次に聖滅後約500年、玉沢妙法華寺の日憲が著した『御書問答証議論』を挙げると、弘安4年大聖人御在世中に、上足六人(後の六老)付人12人(後世中老と称さる)が定められたとか、番帳も越前公や目師が抜けていて、代わりに肥前房・美濃房が入っていたり、その順序も全く正本とは程遠いものである。勿論一山輪番制の如く考えており、特に日興上人の離山に関しては悪意に満ちた謬伝でうずまっている。

以上の他にも、本法寺日親の『伝燈抄』(日宗全18−20)、六牙日潮の『本化別頭仏祖統紀』(日全本上−190)等いろいろと書かれたものもあるが、孰れもこの墓所輪番に関しては極く簡単に触れているだけで、左程の謬説は見られない。

さて是等の諸伝を通観して云える事は、その孰れもが一片の史料も挙げることなく、唯自己の想像、或いは依拠正しからざる写本類、将又古老の云く等と、全く勝手気儘に憶説を綴っているに過ぎない。尤も諸山の史料が一般に公開されていなかった事にも、原因はあるとも云えようが、それにしても判らないからと云って無責任な、それも自山に都合の良いような作り話を載せるとは何たる振舞いであろう。古来斯様に邪悪な謬伝が巷間に溢れていた事実を知る時、日興上人門下として、その雪冤に全力を傾け、正史を輝かして世人を啓発すべきは、蓋し当然の務めである。既にその聖菓は御先師方の尽力せられる処ではあったが、未だに愚迷の徒の後を絶ぬ実状を見る時、吾人等も勇躍先聖の御跡を承継して断固闘うべき使命を有するのである。憶うに、吾が日興上人門下外にあるものは、それぞれ自山の門祖が血脈付法の大導師たる白蓮阿闍梨日興上人の許、一致団結して大聖人御入滅後の宗門を維持発展せしめるべき立場にあったにもかかわらず、様々な理由のもとに、聖廟であり、又日興上人の在す身延へ近寄る事を嫌い、やがては大聖人の御法義をまげる等、全く大聖入門下とは名のみの憐れな存在となった。そこには大聖人の御正意を知らず、又化儀行法の面に於いても混乱甚だしく、徒らに寺門の経営に腐心する師敵対の邪義のみが伝わって行ったのである。従って後代の門弟達も、汲々として自門の立場を弁護し、将又遠くその門祖の非義非行を覆蔽し遂せようとし、それが為に、逆に大導師の御見識の上から敢然と正義を立て通し、一点の謗法も許すことなく、厳格に門下を統率遊ばされた日興上人に対して、有ること無いこと悪宣伝をした、その現われが、如上に掲げた誤謬だらけの諸伝なのである。然し真理はただ一つである。真実の歴史は後代の何人がこれを覆へそうとしても出来得るものではない。如何に姑息な手段を弄そうとも、正史をまげる事は不可能である。それが証拠に、前掲の謬伝ほどれ一つとして正史料を、或いは間接的傍系史料でもよいが、それを示しての立論は見当たらない。当然の事である。諸老僧等が輪番で身延別当の任に当たった等という事実が全く無いのであるから、従ってそれを証明する文献など存在しょうが無いのである。強いて池上蔵の『身延山久遠寺番帳』なる一書を担ぎ出そうとしても、既に考察を加えた如く、到底まともに依用出来る代物では無い。

 

 


 

本   論

 

第1章 日興上人の身延入山と常住

 

日興上人が、大聖人よりの御遺命を承けた正式な住職として、久遠寺に入山常住遊ばされたことは、序論に於いて述べた通りである。この就任はたとえ御遺状が無かったとしても、当時のあらゆる状勢からみて、至極当然な事だったと思われる。それは内面的な意味から五老僧に比べて群を抜いた大聖人法義への深い領解、我々末弟が云為するのは誠に烏滸がましい事ではあるが、後代から立ち返って日興上人と五老僧の在り方を拝するならば、斯く推察申し上げることが如何に当を得ているかは明瞭であろう。『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』等が如実に証明している。さればこそ、一門の棟梁として、又門下統合参会の中心地たる聖廟のある身延山に、別当として入山されたのは当然だったと云えよう。更に現実面に於いても身延山を始め甲州方面、又南は駿河一帯の地域は日興上人弘通の法場であり、従って門弟信徒雲衆の有縁の地でもあった。のみならず、身延山大檀那たる地頭波木井入道は、日興上人を初発心の師と尊崇する師弟の間柄である。

斯様な情況からして、当時日興上人の入山に対して、尠なくとも正面切っては誰一人として異議を唱えたりする門弟は居らず、極く自然な御就任であった。況して大聖人より御付嘱状を賜わっての常住である。不服など表明出来る道理がない。なおこの御付嘱状に関して『美作房御返事』に「……然れば墓をせんにも国主用いぬ程は、尚お難くこそ有らんずれば、いかにも此の人(波木井入道を指す)の所領に臥すべき御状候いし事、日興へ賜わりてこそあそばされて候いしか」と間接的ではあるが証明となる文が存する。

さて次に本項の主眼たる、日興上人入山の時期に就いて述べよう。日興上人は大聖人御入滅後御葬送を終った後、御遺言通りにその御灰骨を捧持し、諸門弟と共に身延山へ登られ、以降常住遊ばされたのである。従って御灰骨が身延に到着した時を以って日興上人の久遠寺入山の時期と云える。これは若し他に或る期間を経た後に入山したとか、又特別入山の式を執り行なった等という文献があるならともかく、今のところ左様な文書は発見されていない、とすれば既に弘安5年10月に御付嘱状を賜わって、責任ある地位に在したのであるから、別当職就任を半年或いは1年と延引されたとは考えられない。宗門の古伝も全て弘安5年の末、総大衆登山の時の儘、身延山院主として住されるに至ったと伝えている。御灰骨を奉じて池上より身延へ上った時期に就いては、正確な文献は何一つ残っていない。唯行学日朝の『元祖化導記』には

1、御身骨を身延山に移し奉る事

或記に云く、御身骨をば御遺言に任せて、10月21日池上より飯田まで、22日湯本、23日車返、24日上野南條七郎宿所、25日甲斐の国に入り給えり云々

(日全伝48)

と記している。茲に引用している「或る記」が如何なる書であるかほ解らないが、諸伝はおおよそこの説を用いている。但し池田本覚寺所蔵で日位筆と伝える『大聖人御葬送日記』のみは「御遷化御舎利は同月19日池上御立ち有って」(日宗全157) と19日出立説を記している。ともかくこの『化導記』に依る限り、初七日忌終了後池上を出発し、27日忌は身延でむかえた様である。若しこの説が信用するに足らぬものとしても、12月11日鎌倉に在った波木井実長より身延の日興上人へ奉った書状(弘安5年推定写真D参照)があり、その冒頭に「おおせかうりて候し子細うけ給わり候ぬ云云」と記してあるから、尠なくとも12月初旬には、既に日興上人は身延に登っておられた事は確実である。然し前掲の「或る記」を否定する文献も、又その理由も見当たらない故に、ひとまず日興上人御入山(即御灰骨身延到着の時期)は、10月末と推定するのが妥当と思われる。他門の諸伝は、日興上人御入山の時期に就いては、殆ど記したものは無い。それもそのはずで、大体他門では日興上人の主権を認めず、任意輪番の形であったと謬説を主張しているわけであるから、何年何月別当職に就いた等との伝説すらないのが当然である。ところが近年他門に於いてとかくの異観を主張する者もあるので、此の際明瞭にしておこう。勿論是等は、日興上人が大聖人よりの別当職御遺付を承けた事実を認め、その上で、ただ実際の御入山年時に異説を立てると云うのではなく、あくまでも、単に輪番制が段々崩れた結果、距離的に近くに居住していた日興上人が常勤される形になった時期を推定しての説である。従ってこの考え方が全く偏見がある所以は、既に先々に評破し尽くしている故に今更採り上げる迄もないとも云えるが、ただ問題となるのは日興上人が常住され始めた時期忙就いてである。吾人は先に、弘安5年10月末以降身延に常住遊ばされた旨を述べたが、是等は孰れもその起点を弘安7、8年頃に置かんとするものなのである。

即ち或るものは日興上人の『美作房御返事』に「何事よりも身延の沢の御墓の荒れはて候て、鹿かせきの蹄に親り懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候」とある事から考えて、若し日興上人が当時身延に常住遊ばされていたとすれば、草庵の直ぐ後にあったと思われる聖廟をその様に荒れ果てた姿にしておくわけはない。故にかかる状態になっていた事自体が日興上人の在さなかった事を証明するものである。従って日興上人の常住はこの『美作房書』発信の時、即ち弘安7年10月以降の如く考えられる。その事情を推察すると日興上人は波木井入道とは特別の間柄に在り、又甲駿に教線を有しておられた関係上頻繁に身延を訪れられたものであろう。然し、幾度聖廟に詣でても輪番当直の人は登って来ず、草は生い御墓は荒れるに任せて居る、せめて孝養給仕のしるしにもと度々草を抜いているうちに何時しか常住の様な形になったものではなかろうか。又『日尊実録』にも「日尊が弘安7年5月に日目上人に連れられて身延に登った時、日興上人は在山せられず、その10月即ち大聖人の第三回忌に初めて値うことが出来た」(日宗全2−411)とあるからいよいよ日興上人の身延山常住は第三回忌後である事を確信する。

以上のように論じている。又或る書では同様『美作房事』により、「輪番制が自然立ち消えになった結果御墓が荒廃するのを見て、日興上人が今後身延に常住し墓所を守ろうと決意され、波木井入道に相談した結果同意を得た。然し私が身延に住まうといっても決して、老僧達(日昭・日朝等)をないがしろにする意は微塵もないのであるから御諒承願いたいと弁明している。この文面からすると、日興上人は弘安7年10月から相談し諒解を得て、翌年正月から身延に常住することになったものと考えられる。」と主張している。これは孰れも『美作房書』の文意を偏取する錯誤であり、甚だしく史実を曲げるものと云わざるを得ない。又『日尊実録』の記を引用しての傍証固めも是れ又よく道理を見極めぬ粗忽な速断である。

先ず「何事よりも身延の沢の御墓の荒れはて侯」の文から、直ちに日興上人が常住遊ばされなかった根拠としているが、よしんば日興上人が別当職として常住されず、その上で輪番制が守られなかったとした場合、果して御正墓は目も当てられない程荒れるにまかせたであろうか。そうは思われない。仮令墓番衆が距離的・経済的理由、更に内面的には日興上人・地頭波木井入道に対する蟠りなどから、登山給仕を怠る様になったと云っても、それは日興上人御一門を除いた番衆に限る事である。それとも日興上人を始めとする甲駿地域在住の多くの方々も、全く登山を怠ったとでも云うのであろうか。それはむしろ逆である。彼等は遠国の番衆は日興上人等近くに住んでいる人達に、代番を頼む様に成ったとさえ伝えているのであるから、況してや身延山付近には越前公を始め地頭波木井入道一族も住んでいる。若しも誰一人として身延に住する者が無かったという、証拠でもあるなら別であるが、さもなければ、番衆が登山して来ぬのが悪いとばかりに荒れるに任せて御正墓を放置しておくわけがあろうか。あらゆる面から考えて、聖廟が目も当てられぬ程荒れ果てたとは思われない。とすれば、この『美作房事』の文意は別事を示していると気付くであろう。即ちこれは最初裏継ぎ目に証印までして取りきめた、御墓所輪番の制を遵守して登山する者も無い事実、弟子として本師に対し奉り、報恩を尽くす其の姿を失った、昨今の現状に就いて形容した言葉であり、久遠寺別当職としての御立場から、又遺弟の一人として、これに過ぐる嘆きほ無いとの御心情を表現した言辞に他ならない。従ってその御真意は、老僧方の怠慢を責めると共に、本状の宛名人である美作房に報恩の念を喚起して登山参詣を促された文なのである。実際には鹿の蹄に懸けられるどころではない。卒先して門弟を督励し、絶ゆる事なく香華給仕に当たっておられた。試みにその前の文を拝するならば自然と領解出来るはずである。「今年は聖人の御第三年に成らせ給い侯いつるに、身労斜めに候わば何方へも参り合わせ進らせて、御仏事をも諸共に相嗜み進らすべく候いつるに、所労と申し又一方ならざる御事と申し、何方へも参り合わせ進らせず候いつる事、恐れ入り候上嘆き存じ候」とも「此の秋より随分寂日坊と申し談じ候て、御辺へ参らすべく候いつるに其れも叶わず侯」との文もある。これから推定すると、御第三回忌奉修以前から御不例で何処へも御出ましがなかった。即ち身延にずっとおられた、更に此の秋頃より美作房の処へ参ろうと寂日坊とも相談したけれども、とうとう実行出来なかった、との文からすれば御在住は秋以前からの事である。即ちこの文だけでも弘安7年10月以降(美作房事より後)常住されたとの説は簡単に覆えってしまう。前引の「何事よりも身延の沢の御墓の荒れはて候」の文の解し方にしても、秋以前より住まっておられたのであるから、当然実際に御墓が荒れ果て目も当てられぬ状態になっていたはずはない。

次に日大筆の『尊師実録』を引いて弘安7年5月12日、日尊が登山した時にも日興上人が在さなかったと論じているが、『尊師実録』を信ずる限り慥に当時御不在だった事は間違いなかろう。然しそれ故に、日興上人は其の頃未だ常住されていなかったと速断するのは、至って軽卒であり愚論である。何故ならば、若し日興上人が当時身延に常任されていなかったのなら、日目上人は充分それを承知しているはずであり、態々身延山へ連れて行くわけはない。これは日興上人が身延院主として常時御在山されていたからこそ、日尊をお値いさせる為に真直ぐ登山したのである。ところが偶々日興上人は一時何れかへ下って御留守だっただけの話である。故にこの文献は、むしろ逆に日興上人常住を裏付けるものと云える。すでにして日興上人の弘安7年御不在説ほ崩れ去った。これは同時にそれ以前即ち弘安6年2月以降、7年4月迄の期間に入山説を立てる事も不可能になった事を意味する。それは此の間には、今の処是等関する何の史料も残っておらず、推論を立てる余地が無い故である。反証を挙げる事が出来なければ、宜しく弘安5年以降身延山御住山を信ずぺきであろう。

なお、近来日興上人が身延山院主として入山したのは、弘安6年暮頃との推定もある。即ち吾が宗門古伝の如く弘安5年冬の総大衆登山の時の儘、御住持遊ばされたのではなく、さればとて、二箇相承中の身延山御付嘱状を放棄するわけは決してない。唯弘安6年の春夏は混雑でもあったし、又有縁の諸地方の種々な整理もある事で、一旦富士方面弘道の根拠地に下られl改めて其の年の暮項に、いよいよ名実共に常住遊ばされる事になった。との推定である。これは西山本門寺蔵の波木井文書六通のうち日円が日興上人に奉った 「はるのはじめの御よろこび、かたがた申しこめ侯ぬ、さては久遠寺に法華経の弘まらせおわまして候よし承け給わり候事、めでたくよろこび入って候云云」の状が、ただ「2月19日」との日付だけで年号が無い。そこでこれを諸般の事情から弘安7年と推定し、従って6年末頃入山されたとの説を立てているのである。然し、今般この文書は、もう一通の日円状と一部が入れ替わっている事が明らかとなった。即ちこの部分は弘安8年正月4日の日円状の前半である事が判明したので、この文書を以って6年暮入山説を立てるのは誤りと云える。さりとて、8年正月、或いは7年末の御入山ということは『美作房事』等から考えて到底在り得ない。

ともかく、日興上人が身延別当として、常時お住いなさったのは厳然たる事実であり、何れの方向から論じても、これを否定する根拠は見出せない。勿論日興上人は身延に常住遊ばされたといっても、一歩も山外へ出られる事もなく、専住されていたというのではない。むしろ大いに暇を見ては附近に散在する弟子信徒を通じて弘教に励まれた事であろう。大体、主要な根拠地であったと思われる富士方面へ下るにしても、僅か一日の行程内にある。せいぜい往復するのに3日とかからぬ近さであり、気軽に度々往復されたと想像するに難くない。それ故に山務を抛って、半年・1年と身延を留居にされたとは考えられない。大勢は身延山常住であられたと拝される。

 

第2章 墓所輪番の制定とその推移

 

墓所輪番制に就いては、既に序論に於いて極く一般的ではあったが、その本来の正しき意義を述べ、又これに纏る誤った解釈、即ち久遠寺院主輪番制などとの誤解、更にその根源に伏在する奇怪な、池上本門寺所蔵の『久遠寺番帳』を批判し悪伝説を一掃した。そこで本項においては、日興上人御正筆、西山本門寺現存の『墓所可守番帳事』が、諸老僧の承認を得て成立するに至る過程を推究し、同時にその当時の様々な情勢を分析し、更に此の制度の意義をより深く掘り下げて見よう。その上で果して墓番制度がどの様に守られて行ったか、史実を通して明らかにしようとするものである。而して、そこには複雑多岐な諸般の事情と、それが故にこそ、日興上人の並々ならぬ当時の御苦心の跡が浮き彫りにされても来るのである。

 

第1項 墓所輪番制の制定

抑々『墓所可守番帳』制定の元意は那辺に存したであろうか、果して読んで字の如く単に墓所の守護、香華を捧げ清掃給仕を行なう為のみの目的に依って定められたものか。若し斯くの如く解すとするならば、それは皮相しか捉え得ぬ甚だ浅見と云うべきものと思う。弟子の道として計り知れぬ大恩を蒙った師匠に報恩謝徳の真を尽くす、その現われとして御墓所への登詣奉仕をするのは言わずもがなの常道である。今更月番を決め違約せぬよう証印までとる必要がどこにあろう。更に一歩突込んで論ずるなら、それでは番衆に漏れた数多の遺弟門家は御正墓に参拝供養を怠ってもよいとでも云うのであろうか。斯く考えて来るならば単に御墓所守護の為に、報恩給仕の為の放に態々番帳をつくる必要があったとは思われない。高弟末輩を問わず師匠の御滅後にその御遺骨が鎮座まします霊地に供華焼香の給仕の為、折節登詣するのは誰に強制されてすると云うものではない。自らの報謝の念から発する当然の行為であらねばならない。

そこで大聖人が御遺言として「六人香華当番」と仰せになったのも、又その御遺志に従って番帳を定めたのも、何かそこに御意図されるところが存したからと考えざるを得ない。憶うに大聖人が文永11年5月12日、身延御人山の直後に、太田氏へ宛てた御消息で、日興上人、佐渡公日向等が駿河熱涙方面の信徒と共に折伏弘教に当たっている様子に事寄せて「異体同心」と云う事を訓戒遊ばされている。

異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なしと申す事は外典三千余巻、内典五千余巻に定まりて候。殷の紂王は七十万騎なれども、同体異心なれば戦に敗けぬ。周の武王は八百人なれども、異体同心なれば勝ちぬ。一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず。日本国の人々は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事難し。日蓮が一門は異体同心なれば、人々すくなく候えども大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚え侯 (全集1463)

と御教示なされてある。茲に御聖訓を引用したのは、大聖人御入滅当時の日興上人の御心情を拝察申し上げんとの意からである。今まで一宗一門はおろか、日本国の大棟梁であられた大聖人は既に御示寂なされてしまった。過去数十年の間、吾等が主師親と頼み奉り、凡ゆる指導を蒙って来た最大依所を失った時、而も此の時に当たって一切の責任を背負って、今後の一門を卒いる立場に立った日興上人の御胸中、恐らくそこには前掲の如き異体同心、一門の一致団結こそ根本的に要求されねばならない最大の課題である、と感じられたのではなかろうか。若しこの統一結束と云うことがなされなければ、「諸事成ぜん事難し」なのであると、ひしひしと身に感じ、この実が挙ってこそあらゆる諸難に打ち克って堂々と、折伏逆化の歩を進め、大聖人の御遺命たる、本門事の戒壇建立の大願も達成されると思し召されたに違いない。

斯の様に推察して来る時に、その方策の一として、墓所輪番制がいかに重要な役割を果すものであったかが理解されて来るのである。即ち大聖人が「六人香華当番」と仰せられたのも、実に御滅後の教団は墓所が設定される身延山を中心とし、互いに連絡をとり円満に発展させて行くぺしとの御意を含んでの事と拝せられる。それ故にこそ御滅後教団の中心者となられた日興上人としても、この大聖人の意図された趣旨を諒解され、その線に沿って構想を練り諸老僧方に計られた事であろう。御滅後の今日、一門を総領して行かねばならぬ重責を担い、教団の和合団結を推進する一方法として、遺弟中の重鎮・中堅を以って編成する月番制を以ってしたならば、諸国に在っての弘毅状勢も月々に墓参する番衆に依って齎されよう。亦「去る者は日々に疎し」と云う事がある。いかに密接な関係を有していた者でも、遠く離れ、月日が経ったならば段々と両者の間は疎遠になって行くものである。日興上人はこれを御心配になった。何と云っても日蓮門家は近々30年の歴史しかもたぬ。言わば未だ草創の期に在る教団である。在家信徒には勿論、出家憎にすら大聖人の御法義を正しく解了把持せぬ者も居るであろう事は、充分予想される。それらが様々な所用にかまけて、心ならずも墓参を怠り、他と没交渉の儘、年時を経て行った末は、一体どのような事になるであろうか。恐らく教団は収拾のつかぬ混乱状態に陥ち入ること、火を見るよりも明らかである。正に殷の紂王の轍を踏む同体異心の結果が顕われるであろう。とにもかくにもこの御正墓の在す身延を扇子の要とし、教団統合の中心地として、常に諸国の同胞達と連携を持ち、互いに一致協力して意志の疏通を計ることこそ、最大の緊要事なりと斯の様に御考え遊ばされたであろう。

ところで、この輪番制定当時の身延の情勢を推察すると、先ずどのような人々が集まっていたであろうか、池上の御入滅御葬送当時には十八名の僧分が記録されている。他にも記録はされなかったが、参列した人々がいたかどうかははっきりしないが、若しいたとしても、主立つ御弟子方ではあるまい。池田本覚寺蔵の日位筆と伝える『大聖人御葬送日記』でも「余の大徳は他行の間不参なり」 (日宗全1−55)と記しているところに依ると、この他には参集していなかった如くであるが、然しこの日記は後に詳述するが余り当てには出来ない。そこで是等の人々の殆どが引き続き御遺骨のお供をして登山したわけであるから、おおよそ20名内外の門弟方が詰めかけていた事になる。或いは御葬送には間に合わなかったが、後に駈け附けた人々もいたであろうし、又甲駿地方に根拠を持つ日興上人の門弟方は当然登山したと考えられる故に、尠なくとも二十名は越していたであろう。本弟子六人の中では、日興上人を始め日昭・日朗・日持等が在山しており、日向・日頂の二人は御葬送の時、更にその後の墓番帳制定の時にも不参であった。其の他墓番帳に名を連ねている弟子方としては越後公・寂日房・越前公・淡路公を除き、治部公・下野公・和泉公・但馬公・卿公(日日上人)・伊賀公・丹波公・筑前公等は、恐らく御遷化記録からみて当時登山していた事であろうが、是等在・不在は確証が無いから、俄かに断定は出来ない。中には番帳制定迄凡そ一百日間籠山し得ず、途中で下った人もいたかも知れない。ただ院主の日興上人と日昭・日朗・日持の三老僧だけは墓番帳裏の華押からみて間違いない。而して是等一門の柱を失った多くの遺弟間に、身延の後事の処理や、将又今後教団運営の規矩などにつき、種々異見も生じたと考えられる。

そこで今綜合的に諸般の情況を勘案すると、墓所輪番制定に際しても、これを廻って在山の諸僧間に活発な討論が行なわれ、その決定に至る迄には可成り難航したと思われる。日興上人としては先に述べた如き趣旨のもと、率先してこの制度を老僧達に相談し御主張遊ばされたことは想像に難くない。これは後述する『美作房書』等からみても了解されよう。それでは日昭・日朗等を中心とする他の弟子方は、どのような態度でのぞんだであろうか。恐らく様々な理由を挙げて難色を示したと思われる。今それらの理由を推定すると、先ず内心ではどうせ輪番制度を定めるのなら、身延別当職を輪番とする事に決めた方がよいとの腹があったであろう。然し乍ら既に日興上人へは、大聖人より身延後継の御付嘱があった事であるし、又地頭日円入道との深い関係もあり、自分達としては正面切って異議を挿み、輪番制を主張する余地がなかった為、その考えを表面にはっきりと顕わし得なかったのである。又斯の様に日興上人に、唯授一人の御相承があった事に就いては、誰もそれを口にこそ出せなかったが、何か心の奥底では割切れぬ蟠りを持っていた為に、自然日興上人常住の身延山を、門家の中心とする事を潔しとせず、むしろ大聖人御人滅の霊地池上が、又政治交通の要衝である鎌倉こそが、滅後教団の中心となるべきである。否中心地としてゆかんとの気構えがあったと思われる。従って実際上表面に持ち出して、この墓所輪番制定を渋った理由としては、恐らく自らの根拠地よりの距離的不便さ、それに伴う時間的・経済的負担等であったろう。慥に諸老僧にとって毎年一度身延へ登り、三日や五日ならまだしも一ケ月に旦って御正墓守護の任を完うする事になると、留守に於いていろいろ支障も生ずるであろうし、加えて遠隔地に居住するものにとっては、往復に要する日数だけでも容易ではない。一体何事によらず、斯くせねばならぬと決ったことはきゆうくつなものである。この場合でも自由に自らの意志に依り、都合のよい時期を選んで師匠の墓参報恩を行なうか、将又毎年或月になると白分の意志とは無関係に諸事を差し置いて遠路登山せねばならない輪番制を比較すると、やはり後者に快く賛意を表せなくなるのは人情であろう。況してや大聖人の御遺言など左程意に介さぬ老僧達である。(これほ後述する一体仏・註法華経持ち去りの事例が証明となる)輪番制のもつ意義、教団の融和発展を心から庶う日興上人の深慮など、全く理解する迄に至らなかったと見るのは強ち不当でもあるまい。

然しともかく、10月末より翌年正月迄かかって論義された墓所輪番制度は、日興上人の一門を惟う熱烈な説得が、諸老僧をして受諾せざるを得ないところまでに推進し、教団の重鎮として権威をもつ本弟子方(日向・日預は他行)が番帳裏に署名華押を為し、一段落を見たわけである。原本には「弘安六年正月 日」とあるのみなので、果してそれが一月の上中下旬孰れの頃に成立したかは不明であり、他にもこれを証する文献は見当たらない。

さて弘安6年正月、難航を重ね乍らも一応「墓所可守番帳事」が決定した後の諸老僧・末弟の行動は如何であったろう。此の辺の消息を伝える正文書も亦遺されていないが、正月23日が大聖人第百ケ日忌に相当しているので、恐らくこの法要には参列したことであろう。然し既に慕所輪番が定まった以上、当番以外の人が、何時迄も留まる必要もないし、亦それぞれの弘通所もあること故にこの百ケ日忌終了を期して下山されたと見るのが至当であろう。ただ茲で問題となるのは日昭・日朗の二老の去就である。番帳で明らかな通り、正月番は日昭、二月が日朗となっている。この昭朗二師は果して輪番を行なったであろうか、是れも亦史料が全くないので何とも決し難い。然し正月番の日昭の方は、百ケ日忌法要がその下旬にあった事から、大凡其の月末或いは2月上旬に下山との推測も可能であろう。但し月番として正月を過ごしたか否かは、前述の通り番帳成立が其の月の何日であったかが不明なので決しようがない。2月番の日朗においては殆ど推定は不可能である。番帳決定に至る迄は或いは見解を異にしていたかも知れないが、ともかく決定され然も自ら証印まで押した以上、更に云うなれば、教団内でも指導者格に任する本弟子であるから、忽ち自らその定めを破るとは考えられない、故に当然二月の当番を実行したであろう、と此のように見る向も多いかと思うが、然しそれも次項の「輪番制の結果」に於いて詳しく記すが、その後全く空文となりおわったと考えられる事、即ち諸老僧は殆ど登山して来なかった事実に鑑みるとそのように一概には決し去れない。此の年の2月、言わば輪番制発足当初に於ける日朗の在山給仕は実行されたか否か、甚だ微妙である。

ところがこの頃の昭朗2師の史実として一つだけ明らかになっている事柄がある。それは大聖人が御遺言として「墓所の傍に立て置く可し」或いは「同じ籠にして墓所の寺に置き、六人香華当番の時これを披見す可し」と仰せになった「釈迦立像仏」並びに「註法華経」をこの二人が其々持ち去って行ったと云う不詳事である。即ち此の頃下山の際に日昭は註法華経を、日朗は立像仏を、不法に自己の所有として持ち出してしまった。この事実に就いては、ゆくりなくも日興上人が正応元年12月原殿への御返書に明瞭に書き置かれたので吾々後代の者も、正しくその当時の様子を知る事が出来る。同書には「大国阿闍梨日朗の奪い取り奉り候仏の代わりに」、(聖典559)又「其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ」とニケ処に亘って御記述がある。茲に「奪い取り」或いは「取り奉り」との語を用いられていることは、誠に不隠当な言辞であり、合法的に当然の事として持ち下ったのではない意味をはっきり示している。本書には日昭の註法華経のことに就いては触れていないが、それは、波木井入道の立像一体仏造立に閲して制止された状況を報らせる段で、偶々大国阿日朗の不詳事に触れた迄の事であり、関係のない日昭の註法華経持ち出しに就いては記されなかったのである。然し、その事実であった点は他の文献に徴して明らかである。日昭門流に『譲与本尊聖教事』・『遺跡之事』(日宗全1-11)などが伝わり、その中に「日昭が宗祖より相伝した」と記されており、又現に註法華経ほその系統に所蔵されている。但し日昭の譲状には、合法的に授与された旨を強調しているが、これは全く根拠のない僞りである。更にこの註法華経・立像仏所有を合法化しようと企てた証拠が、現在日朗系の池上本門寺に伝わっている。即ち『御遺物配分事』がそれである。これは前に述べた『身延山久遠寺番帳』と全く同じ筆蹟で、末尾には「弘安5年10月 日、執筆日興」とあり、その後には、日昭・日朗・日興・日持の署名華押まで添えられている。而してその冒頭には

註法華経一部十巻   弁阿闍梨

御本尊一体釈迦立像  大国阿闍梨

(日宗全20-107)

と明記されている。但し池上所蔵の配分帳は前半が紛失しており肝心な此処の部分は欠けて今は無い。唯池田(静岡市)の本覚寺にも冶部公日位の記録と伝えられている『配分帳』があり、これは全紙揃っているので、これを以って補っているに過ぎない。然しその日位本にしたところで、それが正しく日位が書いたものとの証明は何もない。本書には記年も署名もなされておらず、ただ日位の筆だと伝えられているだけの事で誠に頼りにならない。こうしてみると、池上の配分帳にしたところで、果してその冒頭に「註法華経は日昭へ、立像仏ほ日朗へ」と記されてあったか? 甚だ不確実な事である。池上本現存の部分と日位本の後半とが合致しているからといって (尤も仔細に比較すると、淡路・寂日・信乃・出羽公の順序が著しく入れ替わっていたり、「かうし後家尼」が脱落しているなど、決して全同ではないが)簡単に欠けている池上本の前半も、日位本のように註法華経・立像仏を日昭・日朝に配分された、而もそれを日興上人が執筆し四老僧が証印している、と決めるのは危険であると思う。然しその面から決定的な反証も挙がらないので一応認めて論旨を進めよう。

さて池上本門寺に所蔵する『御遺物配分事』に、明らかに註法華経・立像仏が昭朗二師に配分されたとあり、而もそれが四老僧公認で、正しく日興上人が筆を執られたとすると、これはどの様な事を意味するか。先ず第一に『御遷化記録』に「仏は墓所の傍に、経は同じ寵にして墓所の寺へ」とある御遺言と背反する。同時に日興上人筆の『御遷化記録』そのものの成立が疑われて来る。次で先に掲げた『原殿書』の「大国阿闍梨の奪い取り奉り候云云」の語も誇大な、或いは濡れ衣を着せた言葉となる。更に序論で述べたように、この池上本配分帳と同一筆蹟の『身延山久遠寺番帳事』も日興上人御正筆という事になり、大聖人より日興上人への身延山付嘱も、従って墓所の輪番制も、全て否定せねばならなくなる。斯様に重大な問題をいくつも孕んでいるのがこの配分帳なのである。即ち、今掲げた是等の問題を全て否定し尽くさなければ成立しない文献、それが池上の配分帳である。而して今更再言する迄もなく、『御遷化記録』、御遺言、将又日興上人への御付嘱は厳然たる事実でありこれを否定する根拠は全く存しない。わずか一片の、それも果して事実その様な記載があったかどうかも疑わしい文書を以て、是等の史実が左右されることなど断じてない。逆に、若し是等如上の史実に合敦せぬ文献があるとすれば、それこそ最先に疑われなけれはならない。茲で翻って、序論第二章、第二項で調べた、『久遠寺番帳』の筆蹟のことを併せて勘えると、誠にその成立は怪しくなって来る。即ちこの『配分帳』、並びに『久遠寺番帳』の筆体を、日興上人弘安五・六年頃のものとする事は無理であり、疑わしいのである。のみならず、大聖人の御遺言として「仏並びに御経は墓所の傍、墓所の寺に置け」とある。この御記録は再三述べるように一点の疑う余地なき正史料であり、日興上人が、その御遺言を無視して昭・朗へ配分することを決め、記録などされる道理がない。又「奪取」と書かれるわけもないではないか。とすれば当然、この配分帳なるものは、何等かの理由により昭・朗、或いはその系統の手になる謀作ではないか、と疑わざるを得なくなる。

而して、今正文書たる西山本門寺所蔵の『御遷化記録』・『墓所可守番帳事』と、池上本門寺所蔵の『御遺物配分事』・『身延山久遠寺番帳事』等の疑文書とを並べ挙げて考察を進めて行くならば弘安5・6年を中心とする当時の身延の情勢、又日興上人対諸老僧の空気が仄かに窺われるのである。即ち本項の先々に、当時の身延の状況に就て様々な推測を廻らしたのも、実は此の辺に根拠が求められるのである。これは又弘安五年と推定される十二月十一日付を以って、日興上人へ上った波木井入道よりの返書を参照することによっても或程度首肯けよう。

先ずその『日円状』を掲げると、次の様な文である。

仰せかうりて侯いし子細うけ給わり候ぬ。この子細仰せをかうりて侯只今こそ存知仕りて侯え、尤も道理申すぺう候に、これていの御坊中の事は、老僧達のわたらせ給い候うえは、実長申すに及ばず候。これならず又、御身に充てても大事の御事なども出来供。又外様に告げても候わん事は申し候とも、これは先に申し候いつるが如く、僧達のさてわたらせ給い候わばと覚え候。

まことに御経を聴聞仕り候も、聖人の御事はさる御事にて候。それにわたらせ給い侯御故とこそ一重に存じ候え。よろず見参に入り候て申すべう候。

恐々謹言

12月11日

謹上伯耆殿

源実長 華押

(日宗全1−197写真D参照)

 

この手紙には年号がないので、古来種々な推定がなされている。弘安5年・6年・7年、或いは正応元年という説さえある。然し、この書の内容を分析し、更に諸般の情勢とを勘え合わせると弘安五年に係けるのが妥当と思われる。大体この書状は、日興上人と身延山を背景にして、何等かの問題が有り、これを当時、恐らく鎌倉に居たであろう波木井入道にお報らせになった。それに対する入道の見解と、心情が中核をなしている。そこで本書の内容を検討すると、先ず入道が日興上人の御身の上を案じている様子、又末文に見える日興上人への厚い帰依の状態から考えて弘安八年以前と思われる。更に子細に見てゆくと「老僧達のわたらせ給い候云云」 「僧達のさてわたらせ給い候云云」との語がある。この老僧達とは誰を指すか、而してそれらの人々が身延の山に在ったのは何時かと考えて行くと、凡ゆる面から推して、日興上人を含めた昭朗等の老僧であり、この方々が一緒に在山していたのは、弘安五年の末以外に無いと云える。

さてこの『日円状』に表われている「身延大坊に於ける何等かの問題」これを当時の身延坊中の実状を想像し乍ら推定して行くと、池上所蔵の『配分帳』並びに『久遠寺番帳』成立の因由も朧気ながら摘めて来るのである。則ち御付嘱状を拝受して、身延山別当職に就かれた日興上人に対しては、波木井入道との深緑等もあり、到底老僧達は表面上、兎角の異議を挿み得なかった。然し、内心は潔しとせず、それが墓番帳制定に際して、種々難色を示すという形になって表われ、その方法としても、口にこそ出せなかったであろうが、「むしろ院主輪番制の方が」との見解を強く主張したかったに違いない。この内向した考えこそやがて『久遠寺番帳』を産み出した母胎となったと見られる。

そこで、あたかも久遠寺が、院主輪番制であったかの如き誤解を起こさせる『身延山久遠寺番帳』の存在は、その裏に昭朗等、諸老僧達の院主日興上人に対して、又御主張遊ばされる墓所輪番制を廻って、何等かの異議が存したことを聯想させ、更に『日円状』が「これていの御坊中の事」と表現している問題の内容を、想像させる一つの資料とも見れよう。

又『御遺物配分事』にしたところで、その成立の背景を探って行くと諸老僧、特に日昭・日朗の、当時身延に於ける思想行動が浮き彫りにされて来るのではあるまいか。大聖人の御遺言として、立像仏並びに註法華経は、墓所の傍、或いは寺へ置くぺき事は充分承知していたはずである。何故なら、御入滅直後の10月16日、日興上人が『御遷化記録』の最後に「一、御所持仏教の事」としてその御遺言を記し、自分達もその裏継ぎ目に証印したわけであるから。にも拘らず二人がこの一体仏・註法華経を持ち去るという行動に出た理由は何であったろうか。日朗の場合を考えてみると、無論そこには大聖人が伊東にて御感得以来、御所持遊ばされた立像一体仏に対する無上な愛着、異常な迄の執着もあったろう。それは大聖人所弘の、本因妙下種仏法の綱格に未だ昧い故に、御正意の本門大本尊が如何なるものかも当然理解出来ていない。そういうところから来る立像仏への崇拝の念でもあったろう。而してその信仰心にも似た堅い、一途な思いは仮令御遺言とはいえ、到底墓所に置く事など領納出来なかったのではなかろうか。恐らく日興上人ともその処置方法に就いては意見を交した事であろう。加えて墓番制度などを巡っての複雑な心境は、遂に日興上人をして「奪い取る」との表現をなさしめるような事態に迄発展した。その裏には既に墓所輪番奉仕遂行の意志も消え失せていた事であろう。日昭の註法華経持ち去りにしても粗同様な心境からであったと思われる。一応墓所輪番制に関してほ、表面上のみ了承した形を示したが、内心には色々な感情が起伏し、もはや身延本墓に対する観念がなくなり、その結果が註法華経私有などとなって顕われたのであろう。そして又『久遠寺番帳』を偽作したように、恰も大聖人より御譲りをうけたか、或い尠くとも御滅後諸門弟合議の上で、合法的に註法華経は日昭へ、立像仏は日朗へと配分したかの如く見せる文書を拵えたと考えられるのである。

以上の様に、日興上人・昭・朗等、在山僧間の空気がおおよそ乍らも推察し得られると、前掲の『日円状』も、弘安5年12月11日のものとして四囲の諸情勢と合致し、充分その云わんとしている事が了解されてくる。逆に云うならば、弘安5年以外ではこの内容は辻褄が合わず、従って理解出来ないと云う事である。茲でその『日円状』を振り返って見るならば、弘安5年10月末、御遺骨を捧持し、大衆が身延山へ登ってより1、2ケ月の間、教団の後事を巡って様々な、而も互いに相関聯する問題が山積していた。そこで日興上人が、恐らく是等墓所輪番制などが中心となっていたであろうところの色々な問題と、これが仲々決定に至らない事情、又これに対する自らの意見を、他の主要な門下檀越へも伝えてその実現に努力して欲しいとの希望を認め、12月初旬頃、波木井入道の許へ遣わされた。それに対する入道の返答が、この12月11日状となって現れたものと思う。入道は大聖人御入滅の際は御葬送にも列していない事から、当時身延に居していた事であろう。大聖人も池上御到着後直ちに身延の入道宛に御状をお認めになっているし、又『本化別頭高祖伝』(日全伝52)『本化別頭仏祖統紀』(日全本上−190)等も依拠は示していないが、御遺骨が身延山へ還られた際「波木井実長父子喪服して出迎う」と伝えている。而して其の後多分、十一月に入ってからでも鎌倉へ上ったのであろう。その鎌倉に在る入道へ報知なされたものと思われる。

さてその様な身延大坊の実状を初めて、事細かに知らされた入道は、「これに就いて自分としての道理上の見解もあるが、然し此の様な性質の坊中の事柄は、なまじ自分が口出しするより老僧達がいる以上は、其の方々に委せた方がよいと思う。又兼ねて老僧達が表面はともかく、裏面では必ずしも日興上人が院主たるの立場に賛成でない事も、いずれからともなく耳にしているので、その御身の上にも大事な問題などの気配も出て来ていて大変心配である。又日興上人が此の問題に就いての事柄を富木・四条といった主立った諸檀越方にも告げてはどうかとの意見も示されているが、此の事は仮令報らせたとて同様、御僧侶達も沢山在すこと故に其の方達に委す、との返答になるであろう」と述べ、最後に日興上人が、身延別当としてそこに在す事は地頭として此の上なく有難い極みである、と絶対帰依心服の情を示して文を結んでいる。

 

小 結

 

大聖人御入滅直後の、日興上人・諸老僧将又波木井入道を廻る教団の事情は、非常に微妙且つ複雑であり、正確に判断を下す事ほ難かしい。然し上来種々の角度から推定した如く、大聖人御滅後、一門の大導師として、諸老僧方の表裏二面の思想行動を悉知され乍らも、教団の大同団結、円満融和を衷心より庶われる日興上人の御心情、それに対し教団の結束という大局的見地に立てず、単なる私的感情を基として全てを律して行こうとする昭・朗を中心とする門弟、それが大聖人の御遺言、身延後住、墓所輪番等山積する諸問題を廻って様々に論議を交わした結果は、日興上人、並びにその門家、波木井入道等身延本墓を中心として、教団の和合発展を画する護法の念に燃える衆徒と、表面上は一応容認した形をとったが、内心では何か割切れぬ蟠りを懐いて其々の弘通所へと下山して行った老僧達、すでに大聖人御滅後半年を出でずして、斯様な教団前途に暗影を予想せしむる情勢が看取されたのではなかろうか。斯の様な想定を裏付けるものが、弘安5年12月10日渡木井入道が日興上人へ上った返書の内容、更に昭朗二師の註法華経・立像仏奪取の事実、これに関聯して『身延山久遠寺番帳』・『御遺物配分事』等池上本門寺に蔵する一連の疑わしい文書、将又次項に述べんとする、弘安6・7年頃の諸老僧の行動、即ち墓所輪番制の不履行、その底に流れる身延聖廟敬遠の思想等々であろうと推考されるのである。

 

第2項 墓所輪番制の推移

前項に於いて墓所輪番制度の制定を中心として、当時の教団内の動向を種々推究した。そこで更に其の後の様相を『美作房御返事』等を中軸として述べて行こう。それに先立って、大聖人御入滅直前、本弟子として撰定された栄誉あるべき六人の内、且らく日興上人は別として日昭・日朗・日向・日頂・日持の老僧に就いてその弘通拠点等、略伝を記しておこう。

日昭(弁阿闍梨)は承3久年、下総国海上部能手郷に生まれ、父は伊東成親の孫で印東二郎左衛門尉祐昭、母は工藤祐経の娘と云われている。嘉禎元年15才の時に出家して成弁と称し、其の後比叡山に登って、俊範のもとで天台の学問を修めたが、其の間に大聖人と相知り、建長5年の末頃、即ち宗旨御建立の佳き年に大聖人に帰伏し、師弟の契りを結んだ。この時日昭は33才で大聖人より1才長じており、その後は多く鎌倉を中心として弘道に励んだ。大聖人御入滅の時は、62才で一門中の大長老であった。弘安7年、鎌倉浜土に妙法寺(後に妙法華寺と改称)を創した。なお既に述べたように墓所輪番制が定まった後、身延を下るに際しては、御遺言に背いて大聖人御所持の『註法華経』十巻を持ち出してしまっており、以降日興上人とほ殆ど接触が無かった様である。元亨3年3月、浜土に於いて104才で寂したと伝えられている。後世、この日昭門徒は大聖人より日昭に伝法付法の大漫荼羅・註法華経・御内歯の三箇の霊宝を付嘱されており、当門こそ正統であるなどと主張するに至っている。

日朗(大国阿闍梨)は寛元3年〔『与中山浄光院書』 (日宗全18−83)・『本化別頭仏祖統紀』(日全本上−202)の説〕、日昭と同郷の下総国海上郡に、平賀二郎有国を父とし、日昭の姉を母として出生した。建長6年10才の時、叔父にあたる日昭の縁によって大聖人の門に入り、文応元年剃髪して筑後房と称した。文永8年9月、大聖人竜ノ口御法難の際は、他の4人と共に鎌倉の土牢に幽閉された。

後世よく六老僧の特長を挙げて日朗は給仕第一、日興上人は筆芸第一などと云われているが、序論に於いて詳述した如く、日興上人こそ給仕第一と云われるぺきである事は、あらゆる史実から論証される。無論文筆に於いても他に独歩して長けておられた。但し日朗に給仕の実が全く無かったと云うのではない。唯その度合を考える時に、日興上人を措いて第一というのは不当と云わねばならないとの意である。ついでに、佐渡へ赦免状を持参したとの伝説も流れているが、その赦免状の真偽、又官用を帯びた仕事を下人も連れない僅か一人の僧に托したと云う事、など甚だ疑わしいと云わざるを得ない。『日蓮聖人年譜』でも「御免状は預人へ遣わさるる事古今相替わらざるなり、然るを日朗に遣わさると云う事妄説なり、又免状を流人の手に渡すと云う事古今此の例なし」(富要5−122)と記されている。

さて日朗は性来温良の人で、従ってその徳により法縁も非常に多く且つ栄え、日興上人門下は別として六老系中では盛んな方であった。即ち鎌倉比企谷妙本寺・池上本門寺・平賀本土寺等を創めている。然し法義についての解了は他の同類方と同様で、その本尊観も勿論、聖意に悖る謬義に堕している。大聖人御百ケ日忌終了後、墓所の傍より立像仏を持ち去った事は余りにも有名である。日興上人とは爾後交渉が無かった様であるが、晩年遥々富士へ来詣した旨の史実がある。

日向(民部阿闍梨、佐渡公)は建長5年、房州男金に藤三郎実長の子として生まれ、幼くして比叡山に登った。然し文永2年13才の折改衣して大聖人の門に入った。主として房総方面に布教していたようであり、建治2年には大聖人の御命により道善房の墓前で『報恩鈔砂』を展読したこともある。大聖人御入滅時には何処かに弘教していたものか、葬送にも百ケ日忌にも不参であった。その後上総藻原に妙光寺を創し、弘安8年身延山へ登り、日興上人の元に学頭として活躍する事になったが、性来の放逸は自らも聖意に背く非行を敢えて為し、更に地頭波木井入道の数々の謗法を助長させるなど、遂に日興上人離山という一大事まで惹き起こすに至った。日興上人が富士へ去られると、其の儘魔山身延の首長におさまり爾後藻原方面に往復し正和三年62才で寂した。

日頂(伊与阿闍梨)は建長4年、駿河国に生まれ、幼少の頃父を失って下総の富木常忍氏に育てられ、その縁によって大聖人の門下に列したと云われる。主として下総真間に住し、教化活動を行なった。大聖人御入滅当時は他行中で御葬送にも、身延定廟の際も不参であった。晩年は真間を日楊に付し、富士重須の日興上人の元に身を寄せ文保元年に寂した。

日持(蓮華阿闍梨、甲斐公)ほ建長2年、駿河国松野に生まれた。日興上人の四十九院時代にその弟子となり、文永7年には大聖人の直門に列なった。大聖人御滅後は松野に住していたと思われるが、鎌倉方と交渉があった如くであり、遂に日興上人より破門をうけるような状態に堕した。其の後は遠く海外布教に向かい、その足跡は北海道を経て沿海州・河北、将又蒙古に及ぶと云う。

さて以上五老僧に就いてその略伝を記したが、身延にての御百ケ日忌を終ってから、彼等はどのように行動したであろうか。又本弟子以外で番衆に加わっている12名の高弟達はどうであったか。総じて弘安6年正月、4老僧加判のもとに決定成立をみた墓所輪番制は、その末に謳われている「右番帳の次第を守り懈怠無く勤仕せしむべし」との誠文が忠実に遵守されて効果を顕わしたであろうか。既に諸処で僅かながら示し来たった如く、その史実を探索して行くと、誠に遺憾ながら殆ど空制であった事を認めなければならない。

先ず御百ケ日忌終了後の行動は確実な文献もないので断定は出来ないが、当番制も定まった事であれば当然各自国元へ帰った事であろう。要法寺日辰はその『祖師伝』に番帳制定直後の模様を「其の後、当別当日興に同宿すべからずと云って日昭は浜へ下り(相州の浜)、日朗は比企谷に下り (相州の比企谷なり)、日向は安房の国に下り、日頂預は下総の国に下り、皆各我が本国に還り給う」 (富要5−20)と記している。無論その根拠となる史料は明示していないので其の儘信ずる事は出来ない。而も諸弟子が日興上人の院主就任を快く思わず、それが為に身延を下ってしまったとは少し認識不足な書き振りのように思われる。又諸老僧の下山とその行先に就いても「日向が安房、日頂が下総へ」との記述は、当時両師とも他行中で身延に登っていなかった事が墓番帳裏華押から証明される以上、明らかな思い違いと言えよう。昭・朗二師の事は恐らく誤りないものと思われるが、唯その下山の時期は、前項にも述べた様に正確には判らない。特に日朗が二月番であるだけに甚だその推定は難かしい。本書には老僧以外の弟子方に就いては何の記述も無いが、それぞれ有縁の地へと散って行ったことは勿論であろう。それでは三月以降壱周忌迄の間、番衆は登山奉仕を勤めたであろうか。此の辺も亦実証する何物も残ってはいない。

然し茲で番衆18名の法系・住地を調べてみると、およそ次の様な推定を為し得ると思う。即ちこの中で日興上人の直弟子或いは孫弟子が実に10名を数えるのである。

 

1 月

2 月 

3 月       越前公            (甲斐汲木井住)

 淡路公(日地)       (駿河庵原郡住)

4 月

5 月  蓮華阿闍梨(日持)      駿河庵原郡住

6 月  越前公(日弁)        駿河富士郡住

 下野公(日秀)         駿河富士郡住

7 月     筑前公            (駿河岩本寺住)

8 月     和泉公(日法)       (駿河富士郡住)

 治部公(日位)       (駿河庵原郡住)

9 月   白蓮阿闍(日興)     (身延山住)

10 月  卿公(日日)         (身延山住)

11 月  

12 月     寂日坊(日華)             (甲州蓮花寺住)

右の表を見ると一目瞭然であるが、日興上人門家以外の弟子方だけで行なわれる月は僅か1月・2月・4月・11月の4ケ月に過ぎない。あとの月には必ず一人以上日興上人門下の弟子が当たっている。斯様な仕組みから考えると、後に詳述する様に、昭朗等鎌倉方の系統に属する門弟が、たとえ来山しなかったとしても、4月を除いて御壱周忌の10月迄は、恐らく各月の当番衆が師匠の在す身延へ登り、御正墓の御給仕に当たったであろうことは想像に難くない。まして、これら門弟の居住地が御正墓に近い1日乃至2日行程の甲駿地方である事は、一層これを裏付けるものと云えよう。但し二人で一組となっている7月と10月の場合、昭門系の伊賀公日高・但馬公日実がそれぞれ登詣したか否かは明らかでないが、ともかくその月にはもうー人、日興上人直弟が当たっているわけであるから勤めは果し得たことであろう。4月は伊与公、即ち本弟子の日頂が月番である。再々述べた如く、日頂は御葬送、更に身延での御百ケ日忌前後の番帳決定迄は他行中であった。其の後2ケ月を経た此の当番月頃迄に御正墓参詣の為遥々登って来そうなものとも思えるが今は何の手掛りもない。

さて斯様に見て来ると、壱周忌迄はまずまず日興上人がその門弟を督励し、墓番制度の実践躬行に尽力されたであろうとの推定以外には何の証すべきものも存しない。然し次下に引証する『美作房書』の記述から推し量り、又この制度が定まる迄の経緯、即ち当時の昭朗二師を中心とする諸弟子方の空気等をも併せ考えると、恐らく日興上人門下以外の番衆は、既に発足当初より御本墓給仕の意志を失っていたと思われる。

茲で翻って、斯様に推察される事態に至ったことを、当墓所輪番制の意義の上から考えるならば、日興上人が昭朗等の老僧の様々な見解を聞き乍らも、熱心に御主張され、遂に決定までこぎつけられた努力、その裏にはこの制度を、今後の教団融和の一方策としての意味を含めていたからこそであったろう。として見れば一門を代表する高弟が、番月番月に教団統合の象徴たる聖廟へ入堂して来てこそ、始めて其処を連絡点として各地に散在する同志との交流を図り、種々な企画を練り、又それを徹底させるなど、要するに挙宗一致の体制が整い、所期の目的が達せられるのである。仮令毎月、番衆が怠りなく御給仕を勤めたとしても、それが全て甲駿在住の日興上人の門弟達の手によってのみ為されたとするなら、もうそこには輪番制本来の意義ほ滅失していたと云わざるを得なくなるであろう。

次に、弘安6年10月の御壱周忌に就いて考察を加えて見よう。円明日澄の『註画讃』(聖滅後約230年)では

弘安6年2月より聖人の御書所持の輩は悉く其の数を尽くして一周忌に将来して目録に入るぺき由之れを催す。茲に由って僧俗各々に武州池上長栄山本門寺に帯び来る。日昭筆受す。合わせて百四十余軸と為す、乃至六老僧等雷同の義をなして、同年十月十二日、各々加判あり(日全伝111)

と記し、又『本化別頭高祖伝』『本化別頭仏祖統紀』(聖滅後450年)も

十月十三日第一周忌諸子相会して供養を身延山に伸ぶ、次に復六師長栄山に会して遺書百四十余篇を輯す。

(日全伝53・日全本上ー191)

と伝えている。前書は一周忌に諸僧が池上で録内御書編輯を行なったと云い、彼の二書は共に諸憎が壱周忌を身延山で営み、続いて池上へ集まり録内結集を行ったという。無論これ等諸説はいずれも確固たる文献によっているものではなく、従って信用するに足らないもの計りである。大体壱周忌に録内御書が六老僧加判の上成立した、との説は他の凡ゆる文献から評破し尽くされ、現今でほ通用せぬ謬伝であることほ常識とさえなっている。然し壱周忌が諸弟子参集のもと御人滅の地、池上で行なわれたとの説は可成り古くからある。而も録内結集が誤りである事を考えた時、何故にこの謬伝を作る際、身延でそれがなされたと記さなかったのか。これほやほり池上で壱周忌が修されたとの伝説、或いは、なにがしかの根拠があったからこそ録内結集を池上に結びつけたのではなかろうか。更に昭朗等いわゆる鎌倉方の、身延本墓意識の稀薄であった当時の情況等を考え合わせると、壱周忌法要が諸門弟参集のもと、身延山で行なわれたと推定するのは少し無理であろう。従って御正墓身延に於いては、院主日興上人を中心にその門弟連のみが集まって奉修されたと見るべきであろうと思われる。

因に卸書の集録に関しては、門下中においては吾が日興上人が最初であり、他の五老僧達はむしろ「大聖人には御自作の御書釈などはない。たとえ少々あってもそれは愚かな在家の人の為に書いたもので、是れを残しておくのはかえって大聖人の恥を顕わすような事になる」と云い、諸方に散在する御筆を反故にしたり焼くなどの暴挙に及んだのである。日興上人はこれを憂い、各地の御書を集めたり、又自ら写されるなどして法宝護持の為、努力を遊ばされたことは『富士一跡門徒存知事』(聖典539)に明らかである。

続いて御壱周忌以後、翌年参回忌当時の有様を推察すると、この時期に関しては正確な日興上人の御消息文が唯一の貴重な史料として残っている。即ち弘安7年10月18日、大聖人第参回忌を営んだ直後、上総に住む美作房日保に宛てた書状から、ありありと読み取る事が出来るのである。

この『美作房書』(聖典554) によって当時の日昭・日朗等鎌倉方の動向、又日興上人を中心とする身延山の状況、将又この両者の関係、心情などが明らかに察知出来得る。今日現存の史料として此の辺の消息を伝えるものは、此の初手紙を措いて他にない事を考えると、誠に貴重な価値を有するものと云わなくてはならない。

然し此の御状は文が切れぎれになっており、文章としては甚だ難かしいが、今ここに示されている重要な点を要約し、大意として之れを記すと、

鎌倉方の諸老僧は「地頭の波木井入道に不法の色が顕われている。従って御遺言から見て、もう大聖人の御魂は身延に住まわせられていない」等と云って、このところ墓所輪番制も守らず一向登山して来ない。然し私(日興上人) の見るところ、地頭にはそれらしい態度は顕われていない。我々(日興上人と入道)は老僧方に対し何の別意も懐いていない。此の事ほ神明に誓っても宜しい程である。故に我々に対する誤解をといて、門下の方々が参詣なさる様になったらどれ程嬉しい事か、貴僧(美作房)も是非お出で下さる事を望んでいる。

大略右の様な文意と解される。そこで更に本状に表われている様々な内容を分類し、その上で其々解説を施して見よう。

 

@ 鎌倉方諸老僧の地頭に対する――ひいては身延に対しての考え方

諸老僧の地頭に対する考え方がどのようであったかは、日興上人が地頭の不法ならん時は我も住むまじき由御遺言には承り供えども、不法の色も見えず侯

と、地頭を弁護されている事から逆に推定出来る。即ち「大聖人が御遺言として、若し地頭が法に背くような行ないをするなら、自分の魂はもう身延に住まないと仰せになられていたが、それが現実になって表われ地頭の所行は不法である」と斯様に諸老僧は考えているのである。それで最早地頭が不法である以上、御遺言からみて大聖人の御魂は、身延の山に住まわせられていないと主張している。その様子は「彼には住ませ給い候わぬ義を立て」の文によっても知られる。

 

A 鎌倉方諸老僧の行動

諸老僧は前条のような考えを懐いているので、必然的に御本墓登詣の必要なしとの態度をとるようになっていた。即ちこの当時は、既に諸老僧は輪番制等は打ち捨てて、全く身延へは登らなくなっていた事がわかる。これを適確に示しているのが、次のそれぞれの文である。

何事よりも身延の沢の御墓の荒ほて候いて、鹿かせきの蹄に.親り懸らせ給い候事、目も当てられぬ事に候。

この文に就いては既に「日興上人久遠寺別当」の項で詳述したように、日興上人が常住遊ばされていなかった為に、御墓が荒れ果ててしまっているとの意ではない。老僧達が登山給仕せず、輪番制も有名無実になった事を仰せになり、御本墓を打ち捨てて省りみぬ、諸老僧の怠慢を、強く責めていられる御文である。次に、

聖人より後も、3年は過ぎ行き候に、安国論の事御沙汰何様なるべく候覧、鎌倉には定めて御さわぐり候覧めども、是れは参りて此の度の御世間承らず候云云。

 即ち早や大聖人御滅以来三年の御忌も過ぎたが、幕府に対する折伏の御書『安国論』の反響はどの様な状態か、定めし鎌倉方の門中も、相当幕府への運動を行なっている事であろうが、何せ身延の山中に居る私にとってはその様子を知ることも出来ない。との意であり、これは当時諸老僧方が身延へも参詣せず、日興上人と没交渉であったことを如実に示している。

師を拾つぺからず、と申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り償わん事、大方世間の俗難も術なく覚え侯。

これは師弟の関係は三世にわたっての深い因縁がある。その師を捨てると云うのは大聖人に背くことであり、一般世間の人々から批難をうけても弁解の余地がないとの文であり、此処にも明らかに「忽ちに本師を捨て奉り償わん事」と諸老僧方の態度が表わされている。

 

B 日興上人の地頭に対する見解

地頭については諸老僧が不法であると見るのに対し、日興上人はどの様に見ておられたか、これを示している文は前にも引いたが、地頭の不法ならん時は、我も住むまじき由、御遺言には承り供えども、不法の色も見えず候。の語である。これは云うまでもなく、諸老僧ほ地頭が不法であると批難し、それを理由に登山して釆ないが、私の見るところでは、入道にはそのような不法の気配は一向に表われていないと思う、との意でありこれが本状の骨子であり、ここから、それ故にこそ早く誤解をといて、昔日のように一門の人が、皆身延を中心にして集まることを望む日興上人の、並々ならぬ御努力が展開してくるのである。

 

C 鎌倉方諸老僧と地頭との関係

さて茲で当時の地頭波木井入道の行動が問題となる。諸老僧方には不法と見え、日興上人にはその色も見えず、と映った入道の行動、茲には何か微妙ないきさつが感じられる。諸老僧の見方としては、あくまでも地頭が法に背いていると考えている。これは本状に諸老僧の言として明らかには表われていないが前にも引用した如く、大聖人の御魂は「彼(身延の地)には住ませ給い償わぬ」との義を、ほっきりと云い切っていることから推して、それは当然「地頭不法ならん時は云云」の大聖人の御遺言に基づく立義であり、結局地頭の不法を断言していると見て差支えない。

では一体大聖人の御内意として仰せられた「地頭の不法」とは、具体的にどの様な行為を意味していたのであろうか。今にしてこれを推し量ることは至難ではあるが、その元意をよく考えて見ると、恐らく法義上の背反を警告されたものではなかろうか。後段でも触れるが大聖人御在世当時からして、既にその弱信振りは将来の背教を予想せしむるに充分なものがあったと察せられる。それ故にこそ、御滅後のことを慮ばかられて、主立った御弟子方に云い残されていたものであろう。蓋し「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」との御遺言は、大聖人の入滅後は墓所を身延に定める事であるし、在世同様、教団の中心地となって行くべき処である。そうした時に今迄の地頭の性格、或いは信仰振り、信解の進み具合等から推して、遺弟達の意を軽んじ、法義を曲げるような状態に立ち至ることを予感されて、注意を喚起なさった御言葉であろう。従って若し不法があったら我が魂は住まない、即ち、むしろ其の様な事態にならぬよう充分配意する事を志されたものと考える。そこで不法とは、法に背く、道にはずれる事であり、大聖人御立ての正義を破る、いわゆる謗法の行為を指すものであろう。若しこれが単に一般的な諸事決裁に於いて、院主或いは門弟達の意に従わず、自意を立て通して対立する事、くらいの意味に用いられたとすれば、後に続く「我も住むまじ」の言葉との釣合いから見て、そぐわない感がする。

斯く考えて来ると諸老僧の言から見るなら、御入滅後身延定廟、或いは御壱周忌頃迄に、何かそれに該当する行為があったとしなければならない。然し一方日興上人は、再々述べるように「不法の色も見えず候」と弁護なされている。若し事実謗法の所作があったとすれば、大聖人の卸法義には極めて厳格であらせられる日興上人が、これを責めることなく見逃したり、のみならず諸老僧達に対してこれを庇ったりされる道理があろうか。離山に至る経緯はその証明として余りある事実と云える。むしろこれは逆である。原殿書に「鎌倉に御座し候御弟子は、諸神此の国を守り給う、尤も参詣すべく侯」とある如く鎌倉方の弟子衆であれば或いは少し位の謗法ならば、と大目に許すこともあろうが、日興上人にして、このような御態度があったとは断じて考えられない。として見れば諸老僧の唱える「地頭の不法」なる内容も、大凡見当がつこうというものである。大体鎌倉方の諸老僧ほ、謗法の本家本元とも云える人達であり、仮令地頭に大聖人の正意に背反する様な行為があったとて左程気に懸けるわけがない、況してやそれに訓戒を与えるなどとは考えられないし、又それを批難して「彼には住ませ給い候わぬ義」を立てる資格も勿論ないと云えよう。そこで考えられる唯一の事は「感情」を主体とした諸老僧と地頭の対立である。その原因内容は知るべくもないが、何か両者間に意見の齟齬を来たし、不和が持ち上っていたとしか推せられない。それも地頭、日興上人の心情として「さればとて老僧達の御事を愚そかに思い進らせ(ず)侯事は法華経も御知見供え、地頭と申し某等と申し努々無き事に侯、御不審免がれしめ供えば悦び入り供の由地頭も申され侯、某等も存じ候」とある事から見れば、地頭の側とすれば、何故に諸老僧が自分を不法呼ばわりし、登山しないのか、その理由すらも判らないが、ともかく他意がない事を表明して、諸老僧の不審が晴れれば誠に悦ばしいと思っているのである。故に一方的に諸老僧側が、何か地頭に対する思い過ごし、誤解をし、その結果いたく感情を害してでもいたのではあるまいか。若しこの経緯が克明に解明されれば、既に前項で推察した、輪番制定を廻る諸種の情況等と考え合わせ、諸老僧方が何時頃から、輪番制を放棄し、御本墓登詣を怠る様になったかも、自と明白になって来るものと思われる。果して御滅後より身延定廟の間か、弘安7年の始め頃か、或いは又地頭が鎌倉に在る時か、是等の事を証する文献は残念乍ら現今見る事は出来ない。故に茲で云える事は、尠くとも弘安7年の御参回忌当時には、明らかに諸老僧方が、身延へは久しく遠去かっていたとの事実である。

 

D 日興上人の鎌倉方諸老僧への戒告

かかる諸老僧の態度に就いては当然一門の大導師として、又御正墓在す身延山の別当として日興上人は墓番給仕を懈怠する事を責め、警告を発せられたであろう。それは本状にも諸処にその意を汲む事が出来る。但し無論、この『美作房書』は上総興津在住の美作房日保へ宛てたのであり、この人は墓番衆には入っていない。然しその美作房へすら斯様に切々と実情を訴え、大聖人道弟として而もその中心者たるぺき諸老僧が御正墓へ参らぬとは何と情ない事かといい送っているのである。況してや当の御本人達にこの旨を警告せぬ道理がない。必ずやこの御参回忌を期して、或いはそれ以前にも怠慢の条を責められたと推察される。従って本状は一応美作房への日興上人の御言葉ではあるが、再往は鎌倉方諸老僧への御言葉であり、御文であると拝して差支えがないものと考えるのである。然し乍ら本状にもその御心情が顕われている如く、諸老僧方へ此の旨を遣わされるに当たっては、決して院主権を嵩に着ての高圧的な語句をお用いでなかったろう事は、日興上人の御人格からしても、又当時の御立場からしても推するに難くない。即ち前項で輪番制定の際の情況を推察する段でも述べたように、御滅後の一門を何とか円満に統率し、以って強固な教団態勢を整えたいと御腐心遊ばされた事を想起するならば、思い半ばに過ぐるものがあろう。

次いで本状に示されている諸老僧への戒告の文を列挙すると、

何事よりも身延の沢の御墓の荒れはて侯いて、鹿かせきの蹄に親り懸らせ給い侯事、目も当てられぬ事に侯。

この文に就いては再三述べたように、勿論御墓が現実に斯の様な状態であるはずはなく、日興上人御一統が意を尽くして御給仕遊ばされてはいたのだが、諸老僧が参詣しないありさまを形容されたと見るべき事は当然である。然し更に一歩突込んで推量するならば、日興上人は現状は斯くの如く、見る影もなく荒廃しているのであると、あたかも事実であるかのように記されたのではなかろうか。いくら地頭に悪感情を懐き、身延を敬遠する諸老僧とは云え、大聖人の遺弟として一片の報謝の念を持ち合わすならば、必ずやハッと胸を刺される思いであろう。従来の行き掛かりを乗り越え、本師御正墓への追慕の暗に駆られ早々に来山するであろう。斯様な効果を期待されての御記述と考えるのは、果してうがち過ぎであろうか。当時の日興上人の御心境としては、それ程御悩みになっていられたと拝せられるのである。次に、

地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候えども不法の色も見えず候。其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに此の殿ばかりあり、然れば墓をせんにも国主用いぬ程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人の所領に臥すぺき御状候いし事、日興へ賜わりてこそ遊ばされて候いしか。是れは後代まで定めさせ給いて候を、彼には住ませ給い供わぬ義を立て候わんは如何が有るべく候らん。所詮地頭より不法候わば泥んで候いなんず。争でか御墓をば捨て参らせ候わんとこそ覚え候。

この文には誠に理を尽くして、諄々と諌められる日興上人の御心情が滲み出ていると拝せられる。則ち諸老僧方は、大聖人の御遺言を楯に取って、地頭が不法であるから早大聖人の御魂は住まわせられない、従って登山の要なしとされているが、当地頭には一向にその気振りは見えないのみならず、大体大聖人が「日本国中に私を待つ人もなかったのに、此の波木井殿ばかりは待っていてくれた。其れに滅後墓を作るにしたところで、国主が未だ此の仏法を御信用ないうちは種々と難も起こるであろうが、この波木井入道の所領、身延の山中ならば其の様な憂いもない故に此処に基を定めたい」と斯様に身延定墓を仰せられたと云うのも、その実はこの身延山を日興に賜わったからこそである。即ち、私に身延後董の前提があったればこそ、波木井入道は信心未熟であり、又御遺言もあって如何にも頼りにはならぬかもしれないが「いずくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候ぺく侯」(全集1376)と仰せられたのである。それ故に仮令地頭の波木井入道がどの様であったとしても構わないではないか。この事は後々迄変らぬ義として定められているのである。それなのに諸老僧方は、地頭が不法であるからもう大聖人の御魂は身延に住まわせられない、等と主張して参詣せぬのは一体どうした事であろう、筋の立たぬ話ではないか。所詮地頭の態度から不法の色が出始めた時は、大聖人の正義を厳しく立てて行かねばならぬ我々として、誠に悩まねばならない事であろう。然しそれだからと云ってどうして御基を捨ててよいと云えようか、決してどの様な事があろうと本師の御正基を打ち捨てるべきではないと考える。

大要以上の如き日興上人の戒めの御文と拝せられるのである。又次下の文も同様不参の諸老僧を師敵対の所行である、と世俗の批難に事寄せて責められている。これは先にも挙げたので文を掲げるに留める。

師を捨つぺからず、と申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り候わん事、大方世間の俗難も術なく覚え供。

 又更に、

鎌倉には定めて御さわぐり候覧めども、是れは参りて此の度の御世間承らず候に尚今も身の術なきまま、はたらかず候えば仰せを蒙る事も侯わず、万事暗々と覚え侯。

 とも記されている。鎌倉方面に在る日昭・日朗等の門弟方は、定めて大聖人の御精神を継ぎ、国諌活動をされている事と思うが、その様子を知る為鎌倉迄出かけたくともその暇もなく、それに少々健康も勝れないので何事も出来ず仰せを蒙る事も適わない。従って万事闇の様である。斯く記されているのであるが、この最後にある「万事暗々と覚え候」との一旬のうちには無量の御心境が含まれていよう。病身の為御自身で門下諸般の情勢を察知する事が出来ないのも残念でほあるが、それにしても、鎌倉方の諸師は自ら登山もしなければ又何の音沙汰も無ない、未だようやく御参年の御忌が過ぎたばかりだと云うのに一体何とした事か、鎌倉方のみならず他の老僧方も登って釆ぬ当今は、全く何も彼も闇であると、言外に諸老僧不参の忘恩を詰られているさまが知れよう。

 

E 日興上人並びに地頭の心

さて以上諸老僧の身延に対する敬遠の状態、それを諄等々と、或いは厳しく諭される日興上人の御苦心を記して来たが、勿論日興上人とされては、唯単に批難をする事が主眼ではない。
 あくまでも相手の頑な気持を解きほぐし、一門が和合僧団たる事を衷心から望まれるに他ならない。その為に諸老僧方の地頭に対する誤解を、一刻も早く免れしめようと、御自身迄も共々胸襟を開き、その真情を披瀝されているのである。以下その思し召しが如実に顕われているを掲げて最後としよう。

若し日興等が心を、兼ねて知ろし食す事渡らせ給うぺからずば、其の様誓状を以って真実知者の欲しく候事、越後公に申さしめ候い畢んぬ。波木井殿も同じ事におわしまし候、さればとて老僧達の御事を愚そかに思い進らせ(ず)候事は、法華経も御知見供え、地頭と申し其等と申し努々無き事に候、御不審免がれしめ候わば悦び入り候の由地頭も申され候、某等も存じ候。

茲において、「以上様々な事を述べたが、要するに地頭に不法の色は見えないのであり、若し貴僧方に地頭に対する何等かの不満を持たれているとすれば、それは思い過ごしというものであろう。斯様な日興等の心に疑いを持たれるなら一札、誓状を入れてもよい。とにかく真実に吾等の心中を洞察する智者があって欲しい事を越後公から詳しく述べさせよう(本状は越後公日弁に托して美作房へ遣わされたものである)。此れは地頭も同じ考えである。さればと云って老僧達の事を疎かにすると云うのでない事は、御本尊も御証明遊ばされるであろう。地頭といい、自分といい、決して偽りではない、真の気持なのであるから、我々に対する不審の念が晴れるなら、いかばかり悦ばしい事であろうと地頭も申しているが自分も全く同様である。」

と此の御文により当時の日興上人並びに地頭の心情が、余す所なく表明されている事が了解出来るであろう。

 

小  結

以上『美作房御返事』を中心として、御参回忌当時の身延と鎌倉方の関係を推察するならば、最早此の頃は全く没交渉の状態にあったと断じ得る。然し乍ら敢えてかかる情勢を為した原因は、ひとえに昭朗等鎌倉方諸老僧の一方的な厭延山思想に依るものであり、身延側に於ける日興上人或いは地頭波木井入道は、極力その融和への努力を惜しまなかったのである。

而して諸老僧方の御正墓意識の滅失が那辺に根差すかを探ると、そこには対地頭感情の尖鋭悪化という根因が伏在したと推定される。然しその問題となった事情、時期等に就いてまでは殆ど想察は許されない。但し両者間の感情問題と云っても、地頭側には何の蟠りも見えない如くであり、従って一方的に諸老僧達が何等かの理由のもとに地頭に対し快からぬ思いを懐いていた。或いはそれが思い過ごしであり、誤解であったかも知れないが、ともかくこれが一つの原因であった事には間違いない。更に翻って輪番制定当時の情況を顧みるならば、そこにもやはり諸老僧達が御正墓を打ち捨てて一向に省みようとせぬ事態を現出する薪芽が見られると思う。この点に関しては既に前項に推定を試みた通りである。

ところで先に詳細に記したような、日興上人の諸老僧に対する御苦心は、其の後も遂に報われることなく終った。その結果としては、近くは正応元年の『原殿書』に、或いは更に降って『富士一痴門徒存知事』『五人所破抄』等に記される如く、鎌倉方は様々な謗法を犯し益々大聖人の御正意に背反して行ったのである。但しこの美作房の近隣に住していた民部日向が、恐らくその影響を蒙ったものであろう、御参回忌の翌弘安八年春頃、独り身延山へ登って来たのである。

 

第3章 日興上人と波木井日円との関係

 

波木井実長(入道して日円)は、甲斐源氏の系を引く南部三郎光行の六男で、南巨摩郡の波木井に住していたので波木井殿と称されていた。子息については、諸説まちまちであるが、およそ 

長男は彦次郎、次郎或いは六郎次郎と呼び、字は清長、諱が実継、

次男は弥三郎、六郎三郎と呼び、字は家長、諱が実氏、

三男は孫(弥)三郎、六郎四郎と呼び、字は光経、諱が祐光、

四男は弥六郎と呼び、諱は長義、法名を日教、

と称する四人があったようで、一族も広く繁栄し、日興上人の教化を蒙る者も多かった。波木井入道が抑々大聖人の慈化に浴するようになった端緒は、御先師の考究に依ると、日興上人が未だ四十九院に在った所化時代、当時そこが富士河交路の布施屋(駅毎にある官設の宿泊所)ともなっていた関係上、鎌倉出勤上下の途次に相識るに至ったと云われる。其の後年令的には可成りの距たりもあったが、同じ甲南の出身として意気相投じ、日興上人が大聖入会下に入るに及んでは、亦進んで一族と共に旧来の念仏を捨て日興上人の門に列なるに至った。この事は『原殿書』の「日興が波木井の上下の御為には初発心の御師にて候事は、二代三代の末は知らず、未だ上にも下にも誰か御忘れ候ぺき」の文、或いは『本尊分与帳』にも「一、甲斐国南部六郎入道は日興第一の弟子なり、仍って申し与うる所、件の如し」(日宗全2−114)と波木井入道を挙げ、他子息等一族十人も列挙している事、更に日道上人の『日興上人御伝草案』に「日興上人の御檀那たる甲州飯野、御牧、波木井郷身延山へ入り給う南部六郎入道、聖人波木井に御座あり、其の間常随給仕あり」(聖典596)等とある事により明確である。その日興上人に従って入信受法した時期に就いては、正確な文献はないが、然し『原殿書』に「総じて此の二十余年の間、持斎の法師影をだに指さざりつるに」(聖典558)との文がある。「ここ二十年程は、諸国を遊歴する念仏の持斎の法師は、南部領内に影を見た事もなかった」という事は、逆にそれ以前には念仏行者が出入りしていた、即ち波木井入道が未だ念仏を申し、阿弥陀仏を信じていた事を証する。とすれば『原殿書』は正応元年の御手紙であるから、20年前は正しく文永6年に相当する。然し勿論「二十余年」とある事から6年と確定する事は出来ない。ただ弘長元年には大聖人が伊豆へ御流罪となり、同3年鎌倉へ帰られても翌文永元年には安房へ下向され、再び帰倉されたのは同4年である。無論日興上人も御随身給仕なされた事である。又同8年には竜ノロ大法難を経て遠く佐渡の国へ御配流となり、日興上人も供奉して渡島されてしまっている。是等を勘え合わせると、やはり波木井入道は文永6年前後に捨邪帰正したと見るのが妥当の線かと思われる。なお文永元年に波木井入道最初の賜書と伝える『六郎恒長御消息』が存するが、これはその宛名から、又消息文としては特異な文体である点、更に確実な同10年8月同入道に宛てた御消息に「貴辺は之れを聞き給うこと一両度、一時二時か、然りと雖も未だ捨て給わず、御信心の由之れを聞く、偏に今生の事に非じ」(全集1372)とある辺から見て、絶対の信用は置けないと考えられる。即ち、若し既に文永元年頃には大聖人門下に列なっていたとすれば、10年間の間に僅か12回の開法と云う事は一寸合点がゆかない。尤もさてともかく、日円入道は四十九院の縁故以来日興上人と道交を保ち、遂に入信受法まで進む事を得、爾後親しく大聖人の御化導をも蒙るに至った。以下先ず大聖人と波木井入道並びにその一族の関係に就いて尠しく述べよう。

文永11年佐渡より御赦免となった大聖人は鎌倉へ帰られる早々、平左衛門に見参し、第3回目の国諌を遊ばされたが、頑迷な為政者達は、大聖人の予言適中の現われである蒙古国の諜状に戦々兢々として、又同志討ちを経験しているにもかかわらず、遂に末法の大闇を照らす救国の大導師が獅子吼する立正安国の精神も聞き入れる処とならなかった。止むなく「三諌して用いずば国を去るべし」との故事に則り鎌倉を離れる事となった。この上は教団の組織をより堅固にし、門弟を訓育して令法久住を図り、以って遺志を継承させんとの御聖慮、その他法門の光顕、将又御一期化導の本意究覚等々からと拝される。此の時に当たり、日興上人、並びにその初発心の弟子である日円入道は、相議して波木井郷身延の山へ大聖人を御招請申し上げたのである。当時大聖入門下の地方的範囲としては上絵・下総・安房・武蔵・相模・伊豆・駿河・甲斐・佐渡等があった。そこで日興上人・日円入道の進言を容れて、甲斐の山中に籠られた理由は何であったろうか。我々後代のものが容易く推しはかる事ほ出来ないが、単なる厭世の隠棲ではない。深い御構想の下に、百般の状勢を睨んだ上での御行動である。政治の中心地、亦従って布教面でも活動の中心となる鎌倉からは余り離れず、而も有縁の門弟檀越の根拠地とも隔絶しない程度の地、その上で「山林に身を隠さん」との御意に適う地、是等種々の条件を満たすものが身延山であったろう。然しそれ丈ならば他にも求められたとは考えられぬであろうか、慥にあったほずである。にも拘らず敢えて甲斐の山中を撰ばれた理由、そこに大聖人の日興上人に対する啻ならぬ御聖意が存した事を拝すことが出来るのではなかろうか。過去15年間、片時もお側を離れる事なく御給仕申し上げ、其の間、末法の本仏として激しく諸宗の謗法を珂責し、立正安国の大精神を掲げ、その結果として顕われた大難の数々を、常にお側に侍して共に法華経を身読して来られた。特に伊東・佐渡の配所に在ってはあらゆる辛酸をなめ尽くし、更に法義に就いても、時に触れ折に触れ、直接大聖人の御振舞の上から授けられている。大聖人にとっては軈て付嘱の法器なりと御覧遊ばされている、言わば秘蔵の弟子とも称すべき日興上人である。加うるにその領主たる波木井入道は、未だ深く大聖人の御化緑に接し、信行学解の増進を見ぬ比較的薄緑の檀那である。恐らく直接面談御教化を垂れたのは二三度を越えぬであろう(前掲の文永10年の御消息参照)而して門下を通観するならば、強信有力な檀越は決して尠なくない、それをも顧みず一路鎌倉より波木井の郷へ向われた事を察するならば、やはり日興上人を通して映じた波木井入道の姿があったと思われる。大聖人御入山に随従された日興上人は、其の後甲駿の地に一大法戦を展開するに至られた。初発心の弟子日円入道の一族にも導利の手を差し延べ、波木井郷を中心として散在する一門に多くの帰依入信者を見た。その中には播磨公・越前公等の出家憎も輩出したのである。建治を経て弘安期になると、益々折伏弘教は熾烈となり遂に富士下方方面においては熱原法難が惹起した。然しこれを期に信徒は強力に結束し、不惜身命、不退の信心に住するに至ったのである。日興上人永仁6年御記録の『本尊分与帳』を拝すると、僧俗を問わず、其の門弟が如何に豊富に集まっていたかが知れる。日興上人は是等甲・駿・豆、更に遠く佐渡方面に亘る数多の弟子檀那を率いる直接の師匠として、厳然と謗法呵責の法戦に挺身し、又身延御在住の大聖人への御給仕に、と東奔西走の御活躍を続けられた。一方身延の山も、当初仮初めに建てた草庵は、やがて柱は朽ち、壁は落ち、風は吹くにまかせるように成り、建治3年の冬にはとうとう「十二の柱四方に頭を投げ、四方の壁は一そに倒れ」(全集1542)て了ったので、居合わせた学生達を督励し、応急の修理を施した。弘安に入ると大聖人の御膝下に在って御給仕、勉学に励む者などが百人余も集うようになり非常に賑わった。地元の波木井入道、上野殿は勿論、各地の檀越は御供養申し上げる為にこの深山迄度々歩を運んでいる。弘安4年の11月には遂に十間四面の大坊が建立された。この模様は当時鎌倉に在った波木井入道宛の『地引和書』(全集1375)に詳しい。即ち波木井の一族や入道の孫達が懸命に地面を均し、柱を建て奉仕をして出来上った光景、落慶式には大師講、延年の舞等が行なわれ、参詣する者は洛中鎌倉の申酉の時の如き賑わいようで、誠に盛大であった様子など細かに綴られている。斯くしてようやくお住居らしい住居が完成し、中央にほ粛然と戒壇の大御本尊が奉安されたのである。然し翌弘安5年秋には9ケ年御住いの身延山を下り、常陸へと出発される事になり、御人山とは反対に富士山の裏側、甲州路を辿られた。此の時波木井の一族のうちからも、血気盛んな若武者達が池上迄お供をした。しかし翌月、大聖人は一切を日興上人にお任せ遊ばされ寂滅の相を現ぜられた。この時波木井一族は日円入道を初めとしてその御葬送には参列していないようである。何故ならば『御遷化記録』には全くそれらしき名が載っていない、尤も同御記録は参列した者全員の名が洩れなく記載されていると定まったわけではないかも知れぬ、然し御葬送次第には富木・四條・太田・南條・池上兄弟等の大檀越を初め、大聖人よりの賜書も残っていないような、余り知られてない方迄も記されているところを見ると、恐らく池上迄御守護申上げて来た公達も、間もなくそれより身延へ引き返した事であろう。又日円入道も、大聖人が池上へ御到着なされた9月中旬には身延に居た事が、同月19日付で無事に池上迄来たった旨を、波木井の日円宛に発せられた大聖人の御状(波木井殿御報』 全集1376)が存している点から証される。是等の事から推察して、多分日円入道も参列出来なかったものと見て間違いなかろう。なお確実な文献は引いていないが、諸史もその様に伝えている。

 さて大聖人の御墓所に就いてほ波木井の郷、身延山にこれを定める旨は、既に御遺志として決定的なものであった。それほ前述の『波木井殿御報』に

さてはやがて帰り参り候わんずる道にて候えども、所労の身にて候えば、不定なる事も候わんずらん。さりながらも、日本国にそこばくもてあつこうて候身を、九年まで御帰依候いぬる御心ざし、申すばかりなく候えば、いずくにて死に候とも、基をば身延沢にせさせ候ぺく候。(全集1376)

と述べられ、又日興上人が、弘安7年に上総の美作房へ遣わした書状にも、大聖人の御遺言としてそうあった旨を

聖人は、日本国中に我を待つ人無かりつるに此の殿ばかりあり、然れば墓をせんにも国主用いぬ程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人(波木井入道)の所領に臥すべき御状侯いし事日興へ賜わりてこそあそばされて候いしか。(聖典555)

と記されているので明らかである。この『美作房書』の御文から見て、大聖人が身延へ墓所建立を仰せられたのも、波木井入道に対する思し召しもさる事乍ら、やはり日興上人が身延の院主としてお住まいになる事が前提となり、それ故にこそ安心しておれるとの御意が潜み出ているといえよう。然し波木井入道にとっては、大聖人が自分に対して一沫の不安を懐かれていたなどとは夢にも考え及ばず、吾が領地に御墓所が建つようになった事に就いては、自然大檀越として自負する念が湧き、僧分をも含めた門弟一同に対する、一種の優越感に似たものさえ芽生えていたと察するに難くない。

弘安5年10月末、日興上人を始め大衆に捧持されて御遺骨が還り御墓所が定められた。無論日興上人は身延院主として以後一切の寺務を守られた。日円入道としてほ当然の事とは云え、初発心の師、日興上人が常住遊ばされるようになった事を、此の上ない喜びとして絶対帰依の念を以って迎えた。先には極寒の孤島に20有8箇月、配流の身としてあらゆる困苦迫害と闘い、又帰倉されての烈々たる救国の諌言も遂に用いる処とならず、止むなく山林に栖まんと仰せられた一宗の棟梁、いな閻浮第一の聖人たる宗祖大聖人を吾が地に請し奉り、9ケ年の長きに亘ってお住まい戴いた。其の間追々年序を経るに随って、各地より有縁の門弟檀越方は遥々この深山迄上って来た。遠く佐渡の国よりは齢七旬を越す身をもって、ただ一心に大聖人を見奉らんとの念から再三にわたる登山参詣を果した阿仏房なども在った。因に大聖人御在山中、参詣供養を奉った門人檀越の延べ回数を調べると、実に150有余に達する。無論これは現存する大聖人の御返書から割り出した数であり、実際にはこれを更に大きく上線る事は間違いなかろう。その御供養の品の内訳を見ても、米麦・野菜を始めとする様々な食物・銭・衣類・道具等数十種類に上り、当時の方々の大聖人に対し奉る真心の程が偲ばれる。

是れらの事から推し量って、当時如何に教団の中心として身延の山が賑わったかが察せられる。更に大聖人を中心として、その御膝下にお仕えする住侶学衆等は、その草創の頃こそ僅かではあったろうが、日増しに数も経え、晩年大坊が建つ頃には100人を越す大世帯となっている。毎日法華経を読み、談義を行なう仏法繁昌のようすは、諸御書に表われている。弘安2年6月の『松野殿女房御返事』には「此の身延の沢と申す処は、甲斐の国の飯井野、御牧、波木井の三箇郷の内波木井の郷の成亥の隅にあたりて候、乃至、まかるまかる昼夜に法華経をよみ、朝暮に摩河止観を談ずれば霊山浄土にも相似たり、天台山にも異ならず」(全集1394)とも、『曽谷殿御返事』には「今年一百余人の人を山中に養いて十二時の法華経を読ましめ、談義して侯ぞ」(全集1065)等と記されている。

それ故にこそ大聖人が常陸の湯に向かうと仰せ出だされ、再び御帰山になるとは言い残されたものの、主上の御留守になった身延の山は、火の消えた様な陀しさにおそわれた事であったろう。ましてその大聖人が池上の地で御入滅遊ばされた由を聞いて、入道の驚きは如何ばかりであったことか。然し大聖人の御遺命通りに着々と事ほ運び、御遺骨を捧じておも立った御弟子衆も皆帰山し、更に初発心の師たる日興上人も、大聖人の後を継ぐ一宗の大導師としての御帰山である。今後も御正墓を中心として、再び御在世当時のように諸国の門人檀越方が参詣登山されるであろう事を考えると、地頭としても、悲しみをも乗り越えて、亦新たな希望を見出した事と思われる。それ故にこそ日興上人へ対する信頼・喜悦の有様は、日円の書状の端々に浮き上っている。たとえば弘安5年12月状の末文にも「まことに御経を聴聞仕り候も、聖人の御事はさる御事にて候、それにわたらせ給い候御故とこそひとえに存じ候え、よろず見参に入り候て申すべう候」 (日宗全1−197写真D参照)とある。これは定墓の後、約1ケ月半を経た時、鎌倉より日興上人に上った状である。此処に「まことに身延の山で毎日有難い御経をあげて下さり、それを皆が御聴聞出来るという事は、大聖人がおいでなさった時の御事の有難さは、勿論申す迄もない事ですが、唯今あなた(日興上人)が身延においでになる故にこそ、と本当に有難いことであると私は唯ひとえに存じ上げております云云」と述べている様子、更にその後2年を経た弘安8年の「はるのはじめの御よろこび云云」に始まる鎌倉よりの年賀状では「久遠寺に法華経読詞、法門談義の声が益々広く盛んと成って来た由を承り誠に嬉しく存じます。それと云うのも、皆あなたがそこにいらっしやつて下さるからこそであり、私は大聖人が再びおすまいになっていられる如く、有難く存じています」と斯の様に院主たる日興上人の不断の御活躍に、常々恐悦の情を示している。特に後の状の頃は、既に諸老僧達は前項にその情勢を推察した如く、様々な理由のもとに御正墓への参詣は遠退き、独り日興上人が御遺命を遵守して、法燈を絶やす事なく掲げられている様を思う時、一入敬慕崇拝の念を強く懐いていた事であろう。

然し乍ら如何なる魔の所為か、その後数年を経ずして、三世に変らざるぺき堅い師弟の契りを赦履の如く抛って、邪師民部日向と結託し、清浄であるべき宗門史上に、将又身延の山に、永久に拭う事の出来ない一大汚点を印すに至った事は、惜しみても余りある痛恨事である。その因由は無論波木井入道の頑迷固階な、その性来の剛腹さに発するものでほあろうが、然しそこに苟くも本六の一人として、毅然と大聖人の正義を諭すぺきにも拘らず、阿諛迎合の軟風を以ってそれを助長せしめた師敵対謗法の師、日向の悪縁が大きく災いしている事は見逃せない事実であり、誠に不幸なことであった。以下波木井入道の信仰を大きく脱線させ、遂に日興上人離山の原由を作った民部日向の登山学頭就任の模様を記そう。

 

 

第4章 民部日向の登山

 

六老の一人、民部阿闍梨日向は日興上人より9才の年少で、大聖人御滅時は30才であった。大聖人御入滅の折、更に翌年正月の墓所輪番制定の際には、偶々他行中であった為参列していない。故に弟子として当然他行から帰った時には、早速登山墓参したであろうと考えられる。ところが尠なくとも弘安8年迄には、それらしい事実を証する文献は見当たらない。尤も御滅後壱周忌前後頃迄の史実は余り明瞭でないから、その参・不参は俄にに決し難い。日向は十一月の輪番に当たっているが、果して十月の御壱周忌に登山し、翌月の当番を勤めたか、此の辺も模糊として判らない。然し身延に常住するようになったのは弘安8年以降であり、それ以前に常住した形跡は全く見られない。

そこで以下日向が身延に登詣し、更に常住するに至った時期とその経緯を推定しよう。
 西山本門寺に所蔵する波木井文書六道の中に、弘安8年正月4日付で、波木井入道が鎌倉より日興上人へ上った年賀の書状がある。この中に

又民部の阿闍梨の御房の御文給わりて候事、悦び入って候、乃至、なをなを民部の阿闍梨の御房の御墓へ御詣り供べき由、うけ給わり侯事ひとえに御ゆえと相存じ、又も悦び入って候、何事か生涯の悦び、いかでかこれに過ぎ侯べきと覚え候。(日宗全1−196)

と民部日向に就いての記述がある。恐らく大聖人御滅後、日向に関する文献はこれが初めであろうと思われる。此処に「民部阿闍梨の御房の御文給わりて侯事」 「民部阿闍梨の御房の御墓へ御詣り候ぺき由うけ給わり候事」と記されている事から、明瞭に此の当時、日向が身延墓参への意志を表明した事実が知れる。日向よりの手紙を、波木井入道が直接受け取ったものか、将又直接手紙を受け取られた日興上人が、その旨を波木井入道に知らせられたものかは、此の書状の上からだけでは判ずぺくもない。然し孰れにせよ、日向が身延山側へお墓詣りに登る由を報らせたことは明らかである。

さて前掲の書状で入道は、此の日向の文が到来し、而も墓参の意志を知って「何事か生涯の悦びいかでかこれに過ぎ候ぺきと覚え候」と絶大な喜悦の情を表わしている。「生涯の悦び」とは何と最大級の表現であろう。然しこの入道の態度から、当時の身延と諸老僧との関係がほのかに窺える様な気がする。本論第2章で『美作房書』を中心に、種々な角度から御参回忌当時の情勢を論じた通り、「師を捨つぺからずと申す法門を立て乍ら、忽ちに本師を捨て」奉り「彼には住ませ給い候わぬ義を立て」た諸老僧方に、「御不審免がれしめ候わば悦び入り候の由、地頭も申され候、某等も存じ候」と真情を開陳された日興上人・入道の立場を思う時、今その諸老僧の一人、民部日向の墓参入堂の眼前となった時、茲に入道をして「生涯の悦びいかでかこれに過ぎ候ぺき」と云わしめたのは蓋し当然であったろう。

又更に、御参回忌には鎌倉方の中に誰一人として御正墓身延へ参詣するもののなかった事は明らかであるが、此の様な情勢の中で、独り日向が登山の決意をするに至ったのは、特異な現象である。茲で翻って彼の『美作房書』を注目するならば、そこに記されている内容、或いは発信の時期といい、又は宛名人である美作房の住地等々、この日向の登山予告と恐らく関連をもつものと想像され得る。多分この『美作房書』を中心として受信人の美作房日保、或いはこの書状を持参した越後公等の影響を蒙った結果ではなかろうか。而して入道は、斯の様に日向が墓参を決意するに至ったのは「ひとえに御ゆえと相存じ候」と日興上人の熱心な説得があったればこそである、と感謝の念を表わしている。これは日向宛に御親書を以って色々努力された事実を記するものであり、陰陽二面の働きかけが効を奏した。そこで『美作房書』でも「当時こそ寒気の頃にて供えば叶わず候とも、明年二月の末、三月のあわいにあたみ場治の次いでには如何有るべく候覧」と記されているように、寒さがやわらいでから、との日興上人の御意に従い、恐らく春2月か3月頃登ったものであろう。日円の悦びの表現具合からしても、割合近い時期に実現する様子であった事が察知される。

斯くして登山した日向は、永住する事になり、日興上人は学頭職に任じられた。これは正応元年の『原殿書』には「彼の民部阿闍梨、乃至大いに破らんずる仁よと、此の二三年見つめ候いて」との文があり、正応元年・弘安10年、更に9年頃からボツボツ学頭日向に不法の色がある事を見ておられたというのである。謗法の姿が見えてから学頭などという重職に就けられるはずはないから、当然それ以前から既に学頭の地位に在ったことが知れる、又この事によっても8年の登山は証されよう。

 

 

第5章 身 延 離 山

 

第1項 離山の原因

吾が二祖白蓮阿闍梨日興上人が身延を離山し、富士にわたられたことは、悠久700年に垂んとする宗門史上の単なる一齣として、軽々に看過されるぺきものではない。この身延離山こそ実に末法万年の闇を照らす御本仏日蓮大聖人の正義が今どこにあるか、将又大聖人9ケ年の間お住まい遊ばされた身延山は、現在いかなる意義をもつ山なのか、などの肝要な問題を、正確に解き明かす鍵ともなる誠に重大な事件なのである。

故に今茲にいよいよ日興上人が離山遊ばされる枢要な場面を叙す段に直面しては、正しき史実に基づき、その原因並びに当時の情勢をよく見究めなくてはならない。この態度を欠いては到底離山に関する正鵠な理解も、真の意義も見失ってしまうのである。

ところが古往今来、他門においては敢てこの用意をなさず、史実の精査を怠たり、我意想像に任せて、歪んだ記述を残しているものがその殆どと云える。是れら悪伝の様相は既に序論第二章「墓所輪番制への誹謗を破す」項に掲げた如くであるが、離山に関しても全く同様で、その傍若無人な記述振りには、憤りを通り越してむしろ憐れみさえ感じさせる。あたかも大聖人が文永8年9月、竜ノロ大法難の際の有様を回顧されて「あら面白や平左衛門尉が、ものに狂うを見よ」(全集912)と記されているのを想起せしむるような内容で、正に狂気の沙汰でしかない。たとえば本隆寺派々祖、日真よりの口伝を纏めた『真流正伝砂』(聖滅後約300年頃成立)に、

彼の富士の根の重須本門寺・大石寺・西山本門寺等の寺は日興上人の建立なり。日興は身延の後住を内々心に望み給うに、思いの外に日向に譲り給う。故に偏執の念出来して御存生の正御影を盗み出し、其の外の御書等を取り、夜の間に身延を出て富士の根に建立せる寺なり。これに依りて身延よりは富士の門徒を指して法盗罪有りと云うなり。(日宗全12−85)

と根も葉もない憶説を並べ、更に玉沢日通の『祖書証議論』に至っては、もはや何とも度し難い。その厚顔無恥な創作劇の大要を参考の為に略記すると、大聖人の第7回忌に六老僧始め諸国の弟子が皆身延に参集した。そこで輪番制が思うように出来ない現状から、住持を一人きめることになり大檀那たる波木井日円が、民部日向を指名し決定した。この時上野太郎時光は、夜叉の如き形相をして日興上人を睨み、今までの不甲斐なさを謗り即刻下山せよと居丈高に申し渡したので、仕方なくすごすごと富士へと下った。(日宗全18−355『御書略註』参照)

と綴っているが、このように、一文一句も事実と合致していないという伝記も世の中には珍らしかろう。このほか、『当家諸門流継図』・『本化別頭仏祖統紀』等々、何らこれと択ぶところ無き同調異曲の謬伝揃いである。而して是れら愚悪な妄説が、史料の不足が根因となってさまざまに発生したのかと考えると強ちそうでもない。『御伝土代』に次ぐ古史伝と目される日朝の記にも極く短文ではあるが、既に真相を伝える唯一の史料『原殿御返事』の引用を見、更に殆ど同時代の中山日親の『伝灯抄』にも肝要な箇処がおおよそ記録されている。又要山日辰は『祖師伝』にその全文を引用している位であり、恐らく当時各山に伝写され、流布していたものと考えられる。してみると、全く波木井日円の謗法を云わぬ前掲の諸謬伝は、故意に作られた悪質な伝と考えて差し支えなかろう。

さて上述の是れら脚本もどきの俗悪伝記は、今更取り合う必要は微塵もない。従って以下正史料に基づいて真実相を明かし、以って古来の邪説を自然に雲散霧消せしめよう。

 

(イ) 波木井日円の信仰

日興上人身延離山の根因は、一にかかって地頭波木井実長入道の謗法行為にある。そこで本項においては、先ず実長の信仰状態を推察してみよう。既にその入信年時に関しては、本論第三章で文永6年頃と推定を試みた如くであるが、其の後のありさまを伝える文書は、大聖人の御書以外に今のところ求められない。実長日円入道への賜書として、現在伝えられているのは『六郎恒長御消息』 (文永元年、全集1368)・『波木井三郎殿御返事』(文永10年、全集1369)・『南部六郎殿御書』 (全集1374)・『地引細事』(弘安4年、全集1375)・『波木井殿御報』(弘安5年、全集1376) の五書である。

このうち最初の『六郎恒長御消息』は余り信用をおけない事は前に述べた通りで、後の四書の内容からすれば、未だ深い仏法の義理に通じていない様子が窺われよう。唯文永10年の御書では、文底に大聖人所弘の法体を含められた上で、

仏滅後二千余年三朝の間、数万の寺々之れ有り、然りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与し給う所の妙法蓮華経の五字未だ之れを弘道せず、弘むべしと云う経文は有って国土には無し、時機の至らざる故か、乃至、まさに知るべし残る所の本門の教主、妙法の五字一閻浮提に流布せんこと疑い無きものか云々。(全集1372)

と記されているが、これは末曽有の大難に遭われた大聖人が「現世安穏、後生善処」の経文との矛盾、将又仏意に叶わぬ法華経の行者ではないか、等々の疑難に答えられ、絶海の孤島から烈々たる気迫を以って一気に筆を運ばれたであろう当時の情況を拝察申し上げるならば、宗要の大事な辺まで書き進められたのは、むしろ当然とも考えられよう。然し恐らく実長にとって、これを信解了達することは出来得なかったであろう。一体当時の時代的風潮として「現世安穏」を祈るのは一般的なことであり、実長とてもその例外ではなく、本状冒頭の御文からしても、大聖人の御事に就いて深い疑念を懐いていたことが知られる。 これは後に掲げる御書からも充分察知されるが、ともかく身命をなげうって末法適時の大法を奉行してゆくという熱原郷士に見られるような金剛信は殆どなかったと云い得よう。但し大聖人の竜ノロ、佐渡の大法難の際、多くの弟子檀那が退転していく情勢の中にあって、入信後、日も浅い実長が少々疑いはもっていたにせよ、未だこれを捨てるまでに至らなかったことを愛でて、大聖人は

日蓮法師に度々之れを聞きける人々、なお此の大難に値っての後之れを捨つるか、貴辺は之れを聞き給うこと一両度、一時、二時か、然りと雖も未だ捨て給わず御信心の由之れを聞く、偏に今生の事に非じ。(全集1372)

と遠く佐渡の国より云い送られている。

然しこの文永8年の『波木井実長御返事』を子細に見て行くと、更に末尾において

爾前分々の得道有無の事、之れを記すぺしと雖も名目を知る人に之れを申すなり。然りと雖も大体之れを教うる弟子之れ有り、此の輩等を召してほぼ之れを聞くぺし、其の時之れを記し申すべし。(全集1373)

と仰せになっている。これから見ると実長は「阿弥陀経とか、大日経など爾前の権経にも分々の利益があるや否や」を大聖人に問い奉った様子がわかる。入信初期のことであれば無理からぬ道理であるが、後々の実長の状態から察するならば、此の辺のけじめが終生納得しかねた程度の信仰であった事がほぼわかるのであり、既に此の頃から軈て如実に顕われる謗法の萌芽を見出す事ができる。此の時斯様な質問に対して大聖人は、「この問題は、いろいろ仏法の初歩的項目を習いおわった人でなければ、説明してもよく了解出来ないから今は申さない、但し鎌倉には弟子達も居る事であるから、おおよその話を聞くのがよかろう」と簡単にうけ答えられている。以って当時の実長の学解の進み具合をも推し量るべきである。

次に『南部六郎殿御書』では、

凡そ謗法に内外あり、国家の二是れなり、外とは日本六十六ケ国の謗法是れなり、内とは王城九重の謗是れなり、此の内外を禁制せずんば宗廟社稷の神に捨てられて必ず国家亡ぶべし云云。(全集1374)

と御教示遊ばされている。恐らく謗法破折に依る逢難のことについてでも問うところがあったものか、前半大聖人はいかなる留難があっても後世の堕獄をおそれるなら強く謗法を破折しなければならぬと説き、而し茲に現在は国家が謗法なる故に諸神は護国せず、と「神去り」の法門を示されているのである。

憶うに僅か四・五篇に過ぎない実長への御返書に、巳に大聖人御内証所具の妙法蓮華経の法体を内示され、又爾前権教の利益については、御自身は明かされなかったが、弟子達にこれを問うようにと教えられ、更に神天上をも説かれていることは、軈て次項に述べる実長日円入道の「一体仏造立」「念仏への施」 「神社参詣」等の謗法行為と考え合わせる時に、何か不思議な因縁を感じさせられるものがある。

最後に、大聖人に対し奉る実長の不順従な信仰態度を端的に示す文を掲げよう。

大学殿・衛門大夫殿の事どもは申すままにて候あいだ、祈り叶いたるように見えて候、波木井殿の事は、法門の御信用あるように候えども、此の訴訟は申すままには御用いなかりしかば、いかんがと存じて候いしほどに、さりとてはと申して候いし故にや候いけん、すこししるし候か、これに思うほどなかりし故に又思うほどなし、檀那と師と思いあわぬ祈りは水の上に火をたくが如し、又檀那と師と思いあいて候えども、大法を小法を以って犯して年久しき人々の御祈りは叶い候わぬ上、我が身も檀那も滅び候なり。(全集1151)

 これは建治3年頃、大聖人が四条金吾殿へ報ぜられた御書『八風書』に見える文であるが、同じ訴訟事件でも、大学三郎・池上等は、大聖人の御指示通りに事を運び、信心に励んだ結果、万事好都合にいったが、逆に実長は御教示をないがしろにし、自分の思うように行動した為、結局思わしくない状態に立ち至ったことを示されたものであり、此の辺に大聖人御在世中における日頃の実長の信仰状態、性格等がまざまざと浮き彫りにされている感がする。

更に弘安4年の『地引御書』の末文に

ただし一日経は供養しさし(止)て候、其の故は御所念の叶わせ給いて候ならば、供養しはて候わん、なにと申して候とも御祈念叶わずば言のみありて実なく、華さいて果なからんか、いまも御覧ぜよ、此の事叶わずば今度法華経にては仏になるまじきかと存じ候わん、叶いて候わば二人よりあい進らせて供養し終て進らせ候わん、神習わすは禰宜からと申す、此の事叶わずば法華経信じてなにかせん。(全集1375)

と仰せられている。大聖人が新築落成せる大坊の模様を報らせる御状において、鎌倉に在る実長の許へ、このような苦言を呈せねばならぬ御心中はいかばかりであったろうか。茲に大聖人が御遺言として遺弟方に「もし地頭不法ならん時は我も住むまじ」と仰せられた所以も存すると思われるのである。

さて斯様な実長ではあったが大聖人御在世中、特に制戒を破って積極的に謗法を行ったとの史実も残っていない。御滅後においても弘安7・8年頃まではこれと云った問題もなく、院主日興上人にひとしお尊崇の念を懐いて、身延と鎌倉の間を往復していた。この間の事情に開しては、既に本論第3章に詳しく述べた通りである。ただ鎌倉方諸老僧とのあいだには、それが一方的であったと思われるにせよ、感情的な距たりが生じていた点だけは認めなくてはならない。然しこれとても日円に何等かの謗法的な表われがある故に、とする鎌倉方の考え方が当たっておらぬようすは『美作房書』に「不法の色も見えず候」と云われた日興上人の御言葉から立証される。

ところが大聖人御参回忌をおえた翌8年春、民部日向が登山常住するに及び遂に入信以来、過去10有余年の間に大聖人、或いは二祖日興上人の御教導通りに信心修行を励まなかった弱信の表われが徐々に誘発されるに至ったのである。そして日興上人の理を尽くしての戒告も耳に入らず「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」(聖典560)と暴言を吐き、止むなく大聖人の正義を立てる為に身延を去られた日興上人に対して

日円は故聖人の御弟子にて候なり、申せば老僧達も同じ同胞にてこそわたらせ給い候に、無道に師匠の御墓を捨て進らせて、失なき日円を御不審候わんは、いかで仏意にもあい適わせ給い侯ぺき                                   

(富要安8−18・写真G参照)

と逆に批難するという師敵対謗法の徒と化したのである。

 

(ロ) 日円の謗法

二祖日興上人が大聖人御遺付の身延山、又聖廟を設け全教団の中心地としての身延沢を去らなければならなくなった根本の原因は、学頭民部日向と共に、地頭波木井日円入道が数々の謗法を行ない、一山を魔のすみかとしてしまったことによる。

而してその謗法の過程・実態、或いは日興上人の訓戒制止の御様子、そして遂に離山の御決意を固められた悲痛な御心情、これらを余すところなく正しく伝えるのが正応元年12月16日、日興上人が、日円の子息で清浄正信の徒、原殿へ遣わされた御返書、即ち『原殿御返事』(聖典557)以外にはない。この一書を至心に拝読する時においてこそ初めて、日興上人身延離山の一切の情景が明確になり、誤りなく真相を把握できるのである。

先ず原殿書の大綱を示すならば、

第1段にこのような一大事が起こるに至った直接の発端を挙げ、

第2段に日向の教唆による日円の謗法行為を叙している。その第一として「三島神社への参詣」、第二に「福士の塔供養奉加」、第3には「一体仏造立」を挙げ、更にこれを結して一に「安国論の正意を破る」、二に「久成の釈尊の木像を破る」、三に「謗法への布施始まる」と纏め、而してこれら日円の謗法は、全べて諂曲した日向の過ちであることを明かし、

第3段では、故に離山を決意しなければならなくなった苦衷の心情を述べ、最後に再び邪師日向の非行を難じて文をおわっている。

古来日円の謗法を四箇と数え、かく云い習わされているが、これは『富士一跡門徒存知事』に

是一、立像釈迦仏を造立し、本尊としようとした事

是二、大聖人が禁止された社参を始め、二所三島に参詣した事

是三、南部郷内の福士の塔供養に奉加した事

是四、九品念仏の道場を建立した事(聖典537)

と記されている事によるものであろう。

『原殿書』においては、個々の内容ではなくその元意を探しているのでこれを三箇と数えているが、「謗法の施を始む」の項の内容を細別し、「福士の塔供養」と、「持斎法師の供養」にすれば全体として四箇の謗法となり、同じことである。但し『門徒存知事』では「一門の仏事の助成と称して九品念仏の道場を一宇造立した」と挙げているが、『原殿書』には明らかでない。

而して今この三箇・四箇の謗法を図示すると左の如くである。

 

日円の謗法

(諂曲せる日向の過ち)

1、安国論の正意を被る   三島社参       (存知事、是二)

2、謗法の施を始む     福士の塔供養奉加   (存知事、是三)

              九品念仏道場の建立  (存知事、是四)

3、久成の釈尊の木像を破る   立像一体仏造立  (存知事、是一)

さて茲でよく認識しておかなくてはならぬのは、慥かに日円が数々の謗法を重ねたことが離山の原因となったには違いないが、然し日円をして然かあらしめた最大の根因は、何といっても学頭日向のせいである。即ちこれらの謗法は決して日円入道自体の失態とは言えない。それを制止すべき身であり乍ら、かえって理を曲げ諂って、悪行を成し遂げさせた日向の大過から起こったのである。云うなれば、諂曲した日向の過ちこそが離山の根本原因と見究めるべきなのである。これは『原殿書』で明らかに日興上人が述べられている。

此の事共(三つの仔細)は入道殿の御失にて渡らせ給い候わず偏に諂曲したる法師の過りにて侯えば云々

その文意からも、又表現の仕方においても「入道殿の御失」と云い、一方を「謡曲したる法師の過り」と云い、はっきり区別されているさまが読みとられよう。更に『原殿書』を仔細に拝すると、日円の三箇の謗法を叙す段には、必ずそれを助長させた日向のあるまじき言動を、強く責められている事によっても明らかである。

なお『原殿書』に示された「三の仔細」の順序を且く変えたのは、三箇の謗法中「久成の釈尊の木像を破る」件が、最もその中心的主要な問題であったことを表わさんが為である。即ち、「安国論の正意を破る」ことも「謗法の施を始む」問題も、大聖人の正義に背反する行ないには違いないが、云うなればこれは日円の個人的な謗法に止まるものである。然るに「久成の釈尊の木像を破り、一体仏を造立する」件は身延一山の本尊に関する重大な問題であり、日興上人が遂に離山を決意せねばならなかった主要な原因と見做すされるのである。

ところがこの肝心な「一体仏造立」を落として「波木井三箇の謗法」と掲げている史書もある。

実長種々の謗法を致す、福士の塔に材木を寄進し、又道智房が九品念仏の奉加帳に入り、又三島の戸帳を懸く 巳上三箇の謗法なり(富要5−21)

これは異流、要山日辰の『祖師伝』の記述である。この次下に『原殿書』全文を引いていながら、此処に一体仏造立の大謗法を記し落としているというのは、やはり大聖人御本意の本尊の何たるかも解らないが為に、さほど重要な問題と考えなかったか、或いは大体要法寺系は造像家である故に、謗法と解さなかったものか、ともかく大聖人・日興上人の御意が少しも理解されていない証拠と云えよう。

さて次に前掲の表の順序により、「日円三箇の謗法」について記そう。

 

(1) 立正安国論の正意を破る。

日円が安国論の正意を破り、神社詣りを当然のことと考えた事が、抑々の始まりである。則ち日円の子息の弥三郎が、三島大社に参詣しようと志した時、日興上人は早速越後房を遣わして思い止めさせた。ところがこれを聞いた日円は、学頭の日向に「神去りの法門」につき問うたのであるが、日向は事もあろうに、「神天上というのは、日興上人が安国論を外典読みに、表面しか見ない為に立てる法門であり、本当は法華の持者が参詣すれば、法味に飢えた諸神は必ず来下するのである」と全く大聖人の御正義をないがしろにする邪義を立て(日昭・日朗等鎌倉方もこの様に考えていた)日円もその様に深く思い込んでしまった。日興上人はこれを聞かれて日円に面談し、その非義である事を諄々と説得されたが遂に翻意する様子もなく、今度は弥三郎を使いとして念仏無間の問題と併せて日興上人に問うた。この時もいろいろ訓戒を与えたが、やはり日向等の誑惑が根本となり、神天上の法門だけはよく納得できずに帰って行った。

 

(2) 謗法の施始まる

日興上人は、このように日円入道を誑惑する七逆罪・師敵対の学頭日向を、断固として擯出すると仰せられた。然し日向は一向に反省するようすもなく、益々世渡り上手な腕をもって地頭日円に取り入り、日円もまたその軟風にすっかり惑わされ、其の後は郷内の福士(富士・身延線の沿線) に念仏の塔が建立される折も進んで寄進するなどの謗法を行なった。更に過去20余年間、日円が正法に帰入してからは、領内に念仏の僧など全く姿を現わさなかったのに、此
の頃は全国を遊行する持斎の法師などが自由に出入りをするようになり、そこにはもう正信を受持する日円の態度はみられなかった。このようなことは勿論「謗法への施を止めよ」(全集30)との安国論の御精神を踏みにじる行為であり、堅く誡められるべきなのである。而してこれもやはり日向に微塵の道心もなく、世間の我欲ばかり強くて地頭に媚び諂い、同調していることに由ったのである。又『富士一跡門徒存知事』等に依ると、この頃日円は、九品念仏の道場まで建立寄進をするなどの狂態を示している。誠に乱れ切った邪信と云わなくてはならない。

 

(3) 久成の釈尊の木像を破る。

この謗法こそ、日興上人が身延離山を決意せざるを得なくなった根本の主因、と云える大問題である。

既に記したように、日円は大聖人の御法門に対する信解領納は甚だ浅く、従って、御正意の本尊が何であるかもよくわかっていなかった。それで身延大坊に安置されていた、大聖人街出世の本懐の大曼荼羅の代わりに釈尊の木像を造立し本尊として崇めようと思い立った。ところがこの時、諂曲の邪師日向は、それを止めるどころか逆に、仏像を造るなら一体仏がよかろうと勧めた。即ち大聖人が御遺言として、墓所の傍に立て置けといった立像仏を、日朗が勝手に持ち去って行ったので、その仏の代わりとして同じ一体仏を造ったがよかろう、と教訓したのである。

そこで日興上人は、断固としてこれを戒められた。大体立像一体の釈迦像というのは、修行中の仏を意味しているのであり、本尊として之れを崇拝供養するなどというのは大変な誤りなのである。更に、もともと大聖人御立ての法門では、どのような形にせよ釈尊を本尊とするのほ御正意に背くものであり、大謗法と云わなくてはならない。日向を初め五老僧達は、全くこの辺の深義には疎かった。然し日興上人として真向からこれを否定したのでは、反って日円の逆罪をつのらせる事になろうと慮ばかられ、一応子孫に事寄せて「本門の釈尊像ならまだ少しは意味もあろうが、一体仏などというのは全く無価値なものである。あなた(日円)はまだ信心が決定していないのだから(『原殿書』では「御微力」との語を用いられているが、これは財力がない」と解すぺきではなく「信力が足りない」の意である)、然し、その久成の釈尊像にしたところで、一族子孫の中で強盛な信仰心をもった人が出て来た時に、その人々に造立を任せたらよかろう。――尤も信解が進めば、釈尊像などには執着しなくなるのであるが――−今は造像など止めて、大聖人が御文字に遊ばされた大曼荼羅豊一途に信仰されるべきである」、とこんこんと制止遊ばされたのである。古来この戒告の御言葉を曲解して、日興上人は造像思想を持っていた、等の暴論を為すものもあるが、それは当時の日興上人の御心情を理解せぬ浅見であり、御本意としては、大曼荼羅本尊以外に何物もなかった事は明白である。試みに日興上人の御一生を通じて、唯の一度でも釈尊像を造立した史実があるか否かを調べてみるがよい。この一事だけでも直ちに御真意を拝察するに充分であろう。

更に日興上人は日円に対して「あなたの信用している日向の考え、所行は全く大聖人の正義に背く間違ったことばかりであり、決して彼に順ってはならない。故に私が種々諌めて来たことを思い返し、今迄日向の言を容れて行なった数々の事柄が、みな御正意に背反する謗法行為である事を認識して心底改心し、大聖人の御影の御前に謝し奉るべきである」と理を尽くして諭されたのであるが、茲において日円は、あろうことか初発心教導の師匠である日興上人に向かって「我は民部阿闍梨(日向)を師匠にしたるなり」との暴言を以って報い、あまつさえ、遂に立像一体仏を造立するに至ったのである。

一方、この様に日円を誤らせ離山の主たる原因を作った日向の非行振りはどのようなものであったろうか。『原殿書』には次の如く強くこれを責めておられる。

日向の不法が顕われ初めたのは、大体、弘安9年〜10年にかけてである。日円を誑惑した有様についてはすでに記したので、此処では、日向自身が行なった謗法行為を叙そう。

先ず波木井に住していた諸岡入道宅において画師を呼び、其処で絵曼荼羅を画かせ、これを讃嘆し、一日一夜の説法をして布施を受けた。あまつさえ酒に酔って歌などを唄う狂態を演じたのである。この様子を見聞した人々が嘲けり笑ったことは申す迄もない。これはとりも直さず、師匠にておわす大聖人の体面をけがし奉る事であり、門弟としてあるまじき、ふしだらな姿である事は論を俟たない。

更に大師講の際には、学頭として読み上げる啓白文で国祷を行なった。則ち陛下方の天長地久を祈り、併せて大臣以下の文官・武官等の諸願成就を祈ったのである。これは一国がこの大法を信仰するようになる迄は、決して為すぺきではない、との大聖人の厳戒を破るものであり、日興上人も再三注意をされたが聞き入れなかったものである。

この様に全く大聖人の御正義をないがしろにし、公然と謗法を犯す日向は、幾度び諌められても一向に反省の色も見せず、地頭日円を、そして身延の山を漸々と混乱汚濁の泥沼へと導びいていった。茲に日興上人離山の元兇を認めずしては何を根因となし得ようか。

 

第2項 離山の決意

事茲に至っては、院主別当としての日興上人は、深く心に決せねばならない状態に立ちいたった。度重なる日円の謗法は、その極点に達し、大聖人御滅後教団の中心地、而も御正墓まします身延の地に、不法な本尊を造立したのである。斯様な地頭、加えるにそれをいよいよ助長させる師敵対の邪師、日向がつき纏う処で、どうして大聖人の法義を正しく立て通して行くことができようか。あくまでも大聖人の御意を中心として考え、行動される嫡弟日興上人として、もはや、魔の栖みかとなってしまった身延に止まるべきではない、との悲壮な決意を固められたのである。即ち

身延沢を罷り出で候こと、面目なさ、本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ詮にて候え、さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ侯いぬ、日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候ぺき仁に相当たって覚え候えば、本意忘るること無くて候 (聖典560)

この止むに止まれぬ御胸中を、一管の筆に托し、血涙を以って綴られた御文こそ末代の我々が常に拝読し、心に深く思いを致さなければならぬ御文でなくて何であろうか。この僅か140余文字に、当時の日興上人の御心情、御決意の全てが余すところなく披瀝し尽くされていると拝察されるのである。

たとい地頭の不法があっても、大聖人が9ケ年御住まい遊ぼされた深緑の地、そして御入滅に際しては、自分をその後董と定められた上で「いずくにて死に候とも、墓をば身延沢にせさせ候ぺく候」と御遺言をされ、又「六人香華当番」によりこの墓を中心に全教団の結束を指示なされた身延の山である。果して去るぺきか、将又止まるぺきか、この云うに云われぬ相克に、一心を尽くして考慮遊ばされた御ようすが、脈々として、我々の胸に伝わって来るのである。

然し「いずれの地においても、大聖人の仏法を正しく立て、伝えて行くことが、付法の弟子としての最大至上の務めである」との御決意を厳持されるに至ったのである。又そこには『美作房書』にある如く「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由御遺言には承り候」との御遺言も思い返され、更に「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるぺきなり。」(聖典339)との御付嘱も激しく御胸中に去来されたことと拝察申し上げるのである。

なおこの御決意を固められた時期は、波木井清長の『誓状』(富要8-10、写真E参照)からみて、恐らく正応元年11月の末頃と思われる。則ち先に掲げた同月24日の大師講啓白問題の起きた頃からか、と察せられるのである。

 

第3項 離山の時期

日興上人が遂に身延の沢を出られるに至った時期に就いては、古来種々の説が為されている。大聖人御壱周忌の節とする『当家諸門流継図』、或いは『別頭統紀』の弘安8年説、『祖書証議論』の正応元年10月14日説、これらは全く問題にならぬ謬伝であり、今更真面目に取り合う必要はない。今茲で採り上げて検討をしなければならぬのは、根拠のある真摯な研究の結果として表われている諸説である。それらのおおよそは、正応元年11月初め、或いは12月5日、遅くとも12月16日、即ち『原殿書』お認めの頃には御離山遊ばされていたとしている。果して事実はそうであったろうか。玄で是等諸説の根拠を探ってみると、先ず11月説の拠り所となっているのは具さには判らないが、「正応元年11月 日」となっている日興上人の入道に宛てた御状に基づくらしい。

即ち

一閻浮提の内日本国、日本国の内に甲斐の国、甲斐の国の中に波木井の郷は、久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり、天魔波旬も悩ますべからず、上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり、怨霊・悪霊もなだむぺし、天照太神の御子孫の中に、一切皆念仏を申して背くは不幸なり、適々入道一人法華経を説の如く信じ進らせ候は、いかで孝養の御子孫に候わずや、法華此の所より弘まらせ給うべき源なりと、御所作の申す事には候べし、仏は上行・無辺行・浄行・安立行の脇士を造り副え進らせて、久成の釈迦に造立し進らせ給うべし、又安国論の趣き違えまいらせ給うべからず、総じて久遠寺の院主学頭は、未来までも御計らえて侯ぺし

正応元年戊子11月 日              日 興
 使者下野公   

(日宗全2−169)

而して末文に「総じて久遠寺の院主学頭は未来までも御計らえて候ぺし」とあるのを、「日興上人が身延を離山されてしまった事を知った入道が、還住を懇望する条件として、身延山久遠寺の院主・学頭に請待した。ところが、日興上人としては其れを拒絶する旨を返事された」ものと解している。故に当然この11月の御状以前に御離山されたものと考えるわけである。然し入道が日興上人に対して、「院主・学頭にしてあげるから還って下さい」と懇望したとは少  し穏かでない。既に大聖人より身延山院主職の遺付を承けて入山された日興上人が、止むに止まれず其等の一切をかなぐり捨て、御離山された以上、入道がその就任を条件に還住を懇願したとは考えられない。若し強いて然うであるとするならば、日興上人が身延に常住された往時には、正式な院主としてではなかったと考えねばならないが、それは序論に詳述した通りで史実に合致しない。のみならず「院主学頭」を一人で兼職する制度などあり様がない。民部日向が学頭職として在廷した事は、原殿書の「今より以後かかる不法の学頭をば檳出すべく候」の文からしても立証される。若し此の文意を解釈しようとするなら「身延の院主・学頭の事は私が心配してあげよう」と云う程の事ででもあろうと思われる。大体この「一閻浮提の内に云云」として始まる文書は、身延山相伝巻物の中に初めて載せられた日朝抄録のものであり、無論日興上人自筆の正本、或いは写本も他には伝わっていない。中世、要山日辰もその『祖師伝』中に引用しているが、「法華此の所より弘まらせ給うぺき源也と御所作の申す事には候べし」の所で切り、中間二行程白丁で、然る後「院主学頭の事」との立題を示してから「仏は上行・無辺行云云」と以下を記している、慥かに全文一連のものとしては通じぬ意味もあり、吾が先師方も日朝抄録の本状を前後不整足であり、幾片かの断簡を転写したものと推定を下されている。ともかく本書そのものに絶対の信頼を措けぬ上、上述の如き不合理な諸点から判断して、この日興上人の状を根拠とする11月初め御離山説には賛成し兼ねる。

次に12月5日説にも確固たる根拠は見出せない。この日には入道の長男、清長が日興上人に対して次の様な誓状を奉っている。

もし身延沢を御出で候えばとて、心変わりをも仕り候て疎そかにも思い進らせず候、又仰せ入り候御法門を一分も違え進らせ候わば、本尊並びに御聖人の御影のにくまれを清長が身にあつく深く蒙るべく供。           源 清長 判

正応元年12月5日      

(富要8−10、写真E参照)

 

これは西山本門寺所蔵の文書で、書誌学的にも疑問の余地ない正史料である。今此の文を通解するならば「若し万一あなた(日興上人)が身延沢を御立ち去りなされても、私(清長)は一向変心は致しません。又疎末にも御扱い申しません。これ迄仰せ遊ばした御法門の一ケ条でも違反するような事があったら、大御本尊は勿論の事、大聖人の御影様の御憎悪を、此の清長が一身に厚くも深くも蒙りましよう」との意で、清長は既に日興上人が御離山の決意を懐いている旨を聞き知っている事が判る。而して父実長入道とは異なり、日興上人の御意を素直に堅く信奉している正義の仁である様子も文中に溢れている。入道にして若し斯くの如き信心があったならとつくつぐ長嘆息せざるを得ない。特に「御本尊並びに御聖人の御影の憎まれを」と記されている点は大いに注目すべきであろう。一般世間並の誓状では「天照太神・八幡大菩薩・八百万の神々」等と掲げるところであり、又大聖人門下でも「法華守護の鬼子母神・十羅刺女」と掲げるのが普通であるが、清長はかかる咄嗟の場合にも迷わず、すらすらと「本尊・御影」と記している。此の辺にも日興上人の日頃の御教導振りが如実に顕われていると云えよう。又当時の身延大坊に奉安されていた御本尊が、何であったかをも彷彿たらしむるものである。入道が一体仏造立などに異常な執着を持ち、それが為に初発心の師たる日興上人を抛って、民部日向を師匠とする等の暴言を吐くに至った程の乱心振りとを対比すると、同じ親子であり乍ら、何故に斯くも異なるのかと考えさせられる。

ところでこの誓状の冒頭に「もし身延沢を御出で候えばとて」との語がある。これによるならば、日興上人が未だ此の十二月五日には身延を去っておられなかった事実を知る事が出来よう。「もし万一出られるような事になっても」との仮定形を用いているのは、未だ現実には身延沢に御いでになる故と解して差し支えなかろう。

最後に正応元年12月16日、即ち『原殿書』を認められた日、或いはその直前頃離山されたとの説は如何であろうか。現今ではこの説が一般に用いられている様であるが、その依拠とするところは『原殿書』全体で、その旨趣から綜合的に判断したもののようである。然し本書の始終を通覧しても、具体的に御離山以後書かれたものとしなければならぬとの確証は見出せないのではなかろうか。「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ云云」の語にしても、強ち御離山以後としなくても充分意味は通じる。若し又同書追伸にある。

涅槃経第三・第九の二巻、御所にて談じて候いしを愚書に取り具して持ち来たって候、聖人の御経にて渡らせ給い候間、慥かに送り進らせ候。兼ねて又御堂の北のたなに四十九院の大衆の送られ候いし時の申状の候いし、御覧候いて便宜に付し給うべくや候らん云云。

との文からとするなら極めて根拠は薄弱になると思う。即ちこの大意は「涅槃経の第三巻と第九巻とを御所で談じたものを自分の書物と一緒に持って来てしまった。此れは大聖人御所持の御経であるから正に御返し致そう。又御堂の北の棚に蒲原の四十九院の大衆から送って来た時の申状を置いて来たが、御覧の上幸便に付していただきたい」というのであるが、茲で「御堂の北のたな」との語がある。これを直ちに身延の「堂」と考えると慥かに御離山後の如く思われる。然し、その前にある「御所」の場合を考えると無論これは鎌倉の御所、院の御所等と云う意とは異なり相手の人或いはその邸の敬称である。大聖人にも『地引御書』・『初穂御書』・『大豆御書』等にこの用例が見られる。従って茲では波木井入道の本邸か或いは原殿の邸であろぅ。次に「御堂」であるが、これとても必ずしも寺の御堂を指すとは限るまい。在家の場合でも持仏堂というのがある。一家の本尊を安置し、祖先の位牌を祀つる持仏堂が存するのは珍しい事ではない。大聖人の御消息にも「但し入道の堂の廊にて命、度々たすけられたりし事こそ云云」 (全集1315)と「堂」の語を用いられている。

斯様に考えればこの追伸の条も未だ身延に在す日興上人が、原殿或いは原殿を通じて日円入道に涅槃経を返し、逆に先方の堂に置いてあった四十九院申状の送付方を依頼している文と見れる。従って『原殿書』によって12月16日以前に離山されたとの確証は掴めないと思われる。のみならず翌正応2年正月にも未だ日興上人が身延に在す事を証する文献がある以上、当然是等の諸説は認め難いものとなろう。因に「涅槃経第三、第九の二巻」とは恐らく撰時鈔の勧講義をなさるに当たって引証の為お持ちになられたものであろう。なお離山の時期を漠然と「正応元年冬」と記した書も存するが既述の諸説同様、『原殿書』等からくる説であり、次下に示す史料などが得られなかったところに生じた当然の断定と云えよう。

次いで正しく日興上人御離山の時期を推定しょう。先ず西山本門寺所蔵、波木井文書の中に正月21日付の日円状がある。勿論正文書であり信頼すべき史料である。この文献こそが当項の主眼である離山年時の推定に大きな役割を果すものなのである。而るに本状は、近年に至って初めて公開された文書であり古来他門では勿論、当家でも全く引用した史書は見当たらない。この辺に正確な時期推定をなし得なかった原因が存すると思われるのである。

御札の旨謹んで拝見候い了んぬ。いまだ身延沢にわたらせ在しまし候御事、畏悦極まり無く候、仏法繁昌の御事疑いなく候わん事は生涯の悦びたるぺく候、今は万事たのみ入り進らせ候也、此の趣を以って御披露有るぺく候。 恐怪謹言

正月21日

沙弥日円 判

進上 越前公御房 

(富要8−12・写真F参照)

 

これは鎌倉より日円入道が越前公に宛てたもので、年号は記されていないがその内容から云って正応2年以外に考えられようがない。元年では斯かる切迫した状況は見られないし、又3年では日興上人が身延におられる道理がない。況してそれ以外の年では勿論当て嵌らぬ事自明の理である。この宛名人である越前公は日興上人の直弟であり、墓番帳では淡路公と共に3月に列なっている。又、波木井に住していた事は日興上人の『本尊分与帳』によって知られる。恐らく波木井一族の出身であろうが、此の人が当時日興上人と入道の間にあり、種々奔走していたように見受けられる。

茲で本状の大意を記すと「あなた(越前公)よりの御状の御意、謹んで拝見申しました。日興上人が未だ身延沢においでになられるとの御事悦ばしい限りです。此れで身延山の仏法繁昌ほ疑いなく、日円一生涯の悦びであります。今はもう万事あなた (越前公) にお任せ致す故、宜しく御願い申します。猶この旨を日興上人へも言上くだされたい」の如くである。

さて茲で括目すべきは文中の「いまだ身延沢にわたらせおわしまし候」の一句である。これは勿論越前公を指すのではなく、日興上人がいまだ身延の沢にいらっしゃるとの意である。それ故にこそ「畏悦極まりなし」とも、「仏法繁昌疑いなく、生涯の悦びたり」とも述べているのであり、更に「此の趣を以って御披露有るぺく候」と云うのも、若し既に日興上人が身延にいらっしやらないとするならば、このような言があるわけはない。斯様なれっきとした文献が存するのであるから、最早正応元年御離山との説は成り立たぬと云えよう。但し元年12月に一応身延大坊を出られ、近所にある越前公の私坊に留まっておられたと見る向きもあるが、これとても何等確固たる依拠を有しての立論ではない。思うに『原殿書』追伸の記述と、今掲げた正月21日状との矛盾解決の方策として生じた説でもあろうか。然し乍ら当時の日興上人の御行動としては納得の行かぬ事である。一旦身延大坊を出離されるからには、それ迄に万策を尽くされ、あらゆる御考慮の末、並々ならぬ一大決意を遊ばされた事であったろう。而して遂にそれを行動に移された時、仮令越前公の請いがあったとしてもそれを容れて再び近隣に住って様子を御覧になると云う、一見優柔不断にも似た御態度をとられたとは想像し難い。若しそれがあくまで日円入道の反省を、心から待ち望まれる日興上人の御心情の現われ、と見るものがあるとすれば、是れ亦余り当を得たものと云えぬであろう。何故なら、入道の諌言を続けられる為であれば、身延大坊に在ってなされるに何の不都合もある筈がない。何も態々直ぐ目と鼻の先に移住遊ばされて、それをなされる必要もあるまいと思う。越前公の私坊が何処に在ったかは不明である。然し、若し日興上人が越前公の処へ止まっていられたとするなら、それは殆ど身延大坊とは指呼の間にあったであろう事は推察に難くない。前掲の正月21日付『日円状』に「いまだ身延沢にわたらせおわしまし侯御事」と云う、その「身延沢」の語がこれを立証していると云えよう。但し日興上人が一旦大坊を離山された以上、その上更に入道に猛省を促される筈がないとの意ではない。日興上人の大慈悲は失本心の狂子を飽く迄も治せんとされたのであり、その後遂に離山遊ばされはしたが、なお誡状を入道の許へ遣わされた史実が存する。唯茲では態々近隣へ移住された上でそれをなさったか、という点に就いて考察したのである。

更に云うならば、若し既に久遠寺院主職を捨てて大坊を離れられたのなら、仮令未だ近隣に在すとは云え「仏法繁昌」との形容は当たらないであろう。これはやはり当時日興上人が大坊に在したからこそ日円が斯く形容したものと云うぺきである。ともかく日興上人の越前公私坊御止住の件は、さまざまな面からこれを推究しても意味のない、又当時の状勢にそぐわない御行動の如く思われ、全くその史実を証する文献のない事と相使って了承され難い。

そこで尠なくとも正応2年正月20日迄は、日興上人並びにその御一門が、未だ身延大坊に御いでになったと充分考えられる事が判った。而して西山所蔵の波木井文書中、日円が日興上人に宛てた最後の書簡として、同年6月5月状(『非法の返書』と云われる・写真G参照)が存するが、この文中には「無道に師匠の御墓む捨て進らせて失なき日円を御不審候わんは云云」と明らかに御離山された事を示している。故に問題はこの正月20日より6月1日の間の、いつであったかと絞られて来る。

先ず結論を挙げると、おおよそ正応2年1月末、乃至、2月当初の御離山であったと推定される。勿論そこに決定的な証左を有するというのではない。然し以下記す如き諸般の情況から推して、最も妥当であろうと考えられるのである。その一は『原殿書』を遣わされた正応元年12月中頃の状態は、既に胸中深く御離山の決意を堅めておられたことは、「身延沢を罷り出で候事、面目なさ本意なさ申し尽くし難く供えども云云」との文から拝して余りあると云えよう。此の頃には其れ程日円入道の謗法行為が病膏盲に入り、はや一山を清浄に保つことは殆ど絶望の状態にあった。故に事実はそうではなかったにせよ、古来正応元年12月御離山説が存した事も領けるのである。事態は斯く急迫していた。加えて翌年正月の越前公への日円状を見ると、その本文冒頭に「いまだ身延沢にわたらせ在しまし侯御事畏悦極まり無く侯」とある。これは当時入道が如何に日興上人の御離山に就き戦々兢々としていたか、その心情のさまを如実に示していると云えよう。いまにも「御離山遊ばさる」との報らせが入りはせぬかと、ハラハラした気持があったればこそ、越前公よりの書状を受け取り「未だ身延大坊に在す」と聞いた悦びが紙面に躍如としているのである。この入道の内心を探る時、日興上人の戒めに応ぜず「民部阿闍梨を師匠にしたるなり」等と暴言をほしいままにしている位であるから、逆に日興上人の離山をば望みそうなものと考えられるが、事実はそうではない。日興上人に去られることは耐え難いのである。何故ならば自らの所行が大聖人の正義を破る謗法であるとの自覚が全然持てない。日興上人がとやかく自分を責めるのは意地悪をしているのだと思い込んでいる故に、日興上人が御離山の決意を持しておられる由を聞くと、何が故に御正墓を捨てて、又自分を捨てて行ってしまわれるのかと逆に非難をさえしたい心情にある。正に頭破作七分・失本心の状態と云えよう。それ故にこそ此の状で未だ御在山と聞き喜悦しているのである。

斯様な書状の節々から正応2年正月頃の緊迫した事態が察せられ、最早御離山は時間の問題であったと云えよう。次に身延11世行学日朝の集録になる古文書で、日円入道が大隅殿に宛てたものがある。

日円返状云云。

一、聖人の御本尊の入らせ給いて候御厨子に仏造りて入れ、進らせ候わんと申して候いし、白蓮阿闍梨御房に聞かせ給い候いし、尤も能かるべしと仰せ候いしなり、聖人の御仏は姶成の仏にて候と和泉殿仰せられしを、など聖人は秘蔵し進らせて我より後には墓の上に置けとは仰せ候いけるぞと問答申して供えば、宣ぺやらせ給い候わで御立ち候いき。

2月12日                   日 円 判

進上大隅殿                                                                    (富要8−13)

これは全文が整束していないし、又内容から云っても無論確実な史料として依用する事は出来ない。特に日円入道が一体仏造立を発願し、日興上人にその旨を尋ねた処、日興上人は「尤も能かるべし」と許可されたと云うあたり、『原殿書』其の他あらゆる文献からして、日興上人に其の様な御態度があったとは到底考えられない。若し日興上人にして斯かるお考えがあったなら「いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て侯わん事こそ詮にて候え」と悲壮な御決意をなさって身延を去る必要などほ更々無かったのである。してみると此の状は日円入道が事実を殊更に歪曲し、身勝手な云い分を書いて大隅殿に送ったものと見なければならない。自分の非義を覆い隠す為に、日興上人が一体仏造立を許された等と悪宣伝をした書状と云える。故にこの記述内容を全般的に信ずる事は危険であるが、唯末尾に「宣ぺやらせ給い候わで御立ち侯いき」と記している。而して集録者の日朝は、もともとこの大隅状を「日興上人が立像仏を許可した事実と、離山の時期を決める証左」として掲げているのであり、無論正応2年の2月としている。今此れを考えると、その内容は日円が身贔屓の上の言葉が主体となっているとしても、ともかく2月12日には既に日興上人は「御立ち候いき」で身延を出てしまっておられた事を意味している、と云えよう。

さて先に見て来た正応2年正月頃の身延大坊の緊迫した空気、或いは端無くも他門に於いて記されている日興上人御離山に関する文等を併せ考え、更にこれを当門古伝に「正応2年3月より上野大石ケ原の開墾に取り掛かる」とある事につき合わせてみると、おおよそ正応2年の正月末・乃至・2月の初め頃の御離山と推測され得るのである。又時期的に考えてみても、12月では慌しい節季であり、又陰暦の事であれば寒さの最も厳しい時期でもある。当時身延山の寒中の様相を示されている御書を拝すると、

去年十一月より雪降り積もりて、改年の正月今に絶ゆる事なし、庵室は七尺、雪は一丈、四壁は氷を壁とし、軒のつららは道場荘厳の理路の玉に似たり、内には雪を米と積む、本より人も来たらぬ上、雪深くして道塞がり問う人もなき処なれば現在に八寒地獄の業を身につぐのえり云云。(全集1078)

深山の中に白雪三日の間に庭は一丈に積もり、谷は峯となり、峯は天に梯かけたり。全集1585)

抑々今年の事は申しふりて候上、当時(十二月)は歳の寒きこと生まれて巳釆未だ覚え侯わず、雪なんどの降り積もりて候ことおびただし。(全集1486)

 等々その困難な有様は、筆舌に尽くせぬ程であった事が偲ばれる。恐らく一門を率き随えての御離山であれば、当然是等の事情もあって延引されていたのではないかと考えられるのである。而して年も越し、ようやく春を迎えた正月下旬から2月にかけて、遂に身延を離山遊ばされたものと推測するものである。

 

 

第6章 身延離山の意義

 

日興上人は、邪師民部日向に証惑され、本心を失った地頭波木井日円入道に対して、精魂を傾けてその翻意を促されたが、当の入道は一向に正信に眼醒める気配すら見せなかった。のみならず益々頭破作七分の様相を呈し、もはや一山を大聖人の御正意通り、清浄に保って行く事は不可能になって来た。日興上人にとって身延の山は、大聖人から御付嘱をうけた尊い地ではあったが、然しそれよりも大聖人の正義を立て行く事の方がより大切な使命である以上、止むなくそこを去られる事になったのである。大聖人の門下として数多の弟子衆があったが、既にその大半が道を踏み違え、いよいよ御自分一人が末法万年の衆生を救うべき大聖人の仏法を、正しく承け継ぎ、身に具している立場に在る事を覚知されて、益々本門弘道の大導師としての重責を感じられたのである。

斯くして遂に住み慣れた身延の山を後にされ、大聖人が末法一切衆生の為に建立遊ばされた御出世の本懐、本門戒壇の大御本尊を始めとし奉り、生御影・御灰骨等一切の重宝を捧持して、富士へとわたられたのである。途中河合の養家に暫時御滞在になり、次いで3月には純信の若き地頭、南條時光殿の待ち受けられる上野郷へと入御された。

先ず嘗っては日興上人富士遊化の際の寓所となっていたその深緑の持仏堂に落ち着かれ、次いで直ちにそこより北の方、大石ケ原に法礎の確立を志され、大檀越南條殿の外護を得て翌正応3年10月には、遂に東には霊峯富士を負い、また眼を転ずれば遥かに駿河の海を望む景勝の地に、多宝富士大日蓮華山大石寺の創立を見るに至った。末法の御本仏日蓮大聖人の大慈大悲の願業たる閻浮広布の中心地、本門大戒壇建立の霊地は以上の如くして奠定されたのである。

翻って茲に当時の日興上人と五老僧連の関係を考察してみよう。『原殿書』には此の辺の消息を伝える注目すべき語が見出される。それは第一段で、弥三郎の神天上法門に対する不審ぶりを示すところで

弥三郎殿念仏無間の事は深く信仰し候い畢んぬ、守護の善神此の国を捨去すと云う事は不審いまだ晴れず候、其の故は鎌倉に御わし候御弟子を諸神此の国を守り給う、尤も参詣すべく候、身延山の御弟子は堅固に守護神此の国に無き由を仰せ立てらるるの条、日蓮阿闍梨は入滅候、誰に値いてか実否を決すべく候と委細に不審せられ候の間、二人の弟子の相違を定め給うべき事候、師匠の入滅候と申せども其の遺状候なり、立正安国論是れなり云々。(聖典557)

とある。ここに「鎌倉に御わし候御弟子」と「身延山の御弟子」の義とが、明らかに対立し初めていた事が判明する。無論弘安7年の御参回忌当時、すでに鎌倉方諸老僧が「身延には大聖人の御魂が住まわせられず」との義を立てて参詣もせず、対立的空気を作っていたことは『美作房事』から判断できる。然しこれはあくまでも地頭との感情的対立によるものであり、身延の日興上人側としては早く誤解をとき、互いに融和提携して行こうとの努力を惜しまなかったのである。そこには或いは法義上の対立が、内面的には伏在していたかも知れぬが、尠くとも表面上見出すことはできない。ところが御七回忌の正応元年頃には明瞭に社参問題を廻ってその解釈上、鎌倉方老僧達は安国論の御正意に背く異解を立てており、日興上人が強くそれを非難し、堅く戒められていた事が前掲『原殿書』の文から察知される。勿論ここで「身延山の御弟子」と云うのは日興上人と、その御一門であり、学頭日向は鎌倉方と同様邪義を構え、日円を誑惑していたのである。

更に弘安8年には日昭・日朗等は申状を呈するにあたり、「天台沙門」との肩書を以ってしている。この辺にもすでに大聖人の仏法へ対する無理解、背反のようすが見られる。

而して日興上人が富士へわたらせられた後は、これらの五老僧達はますます大聖人の正義に背反を重ねて行ったのである。『富士一跡門徒存知事』・『五人所破抄』にはそのさまが克明に註されている。『存知事』の冒頭には

先ず日蓮聖人の本意は法華本門においては異義あるべからざるのところ、其の整足の弟子等、たちまちに異趣を起こして法門を改変す、況んや末学等においては面々異轍を生ぜり云云
(聖典535)

と記し、以下教法全般にわたる邪義を、一々明示して破折を加え、正義を顕わしている。今『存知事』・『所破抄』或いは四祖日道上人の『御伝土代』等により、その異説の一班を掲げるならば

 

 1、本尊問題

大聖人の御本尊が、その御出世の本懐たる大漫荼羅であることがわからず、釈尊の像に固く執着していた。それ故に大聖人の漫荼羅本尊を粗末にし、死人にかぶせて葬ったり、或いは他人に売るなどの暴挙を平気で行なった。後世、日蓮正宗以外の全てが、宗旨の根本である本尊に迷い、教義に昧く、とんでもない邪義邪説を立てて民衆を毒しているのは、全くこの当時の五老僧の謬りに、その根源が存することを知らなければならない。

 

2、本迹一致勝劣の問題

すでに序論中「二箇の相承の項」で詳述したように、大聖人の仏法と釈尊の仏法との立て分けが全くつかず、大聖人の教えは、別に天台と異なるものではないと考え、天台の云う如く本門・迹門一致なりと主張した。これも大聖人の法門に対する了解が、いかに浅く誤っていたかを如実に示すものである。釈尊・天台の法華経においては、慥かに「本迹異なりと雖も不思議一」ではあるが、大聖人所弘の大法においては、釈尊所説の法華経一部八巻、本迹二門は共に束ねて迹門となり、末法下種寿量品文底の南無妙法蓮華経こそ独一本門の大法であり、そこにほ天地の相違、勝劣が存することを知り得なかったのである。

 

3、修行に関する問題

大聖人の仏法を奉行してゆく上において、日常は題目正行、方便・寿量品を助行とすべきことは、大聖人の御書にも、又常日頃の御所作からもはっきりしているのに、正像摂受時代の行法である五種行をおこなったり、法華経一部を読誦するなど、化儀の面においても全く乱れていた。

更に社参問題にしても、安国論の御精神からするならば、国土が謗法である以上、善神は悉く社を捨てて天に上り、その代わりに悪鬼が乱入しているのである。故に神社への参詣は厳禁されなければならない。それなのに諸神は此の国を守っているとか、法華の持者が参詣すれば神も来下する、などとの邪説を立てて禁制を破っていた。

 

4、其の他の問題

これらの他に天台沙門と名乗り、その内容も天台所立の法華を立てて国家を安んじようとの国諌状を上呈したり、本門の大戒を捨てて天台迹述門で用いた梵網瓔珞等の48軽戒を受持すべしと主張した。更に大聖人の法門は、天台の上に出ないものとの考えから、又和字を用いられていることを以って、御書など保存する必要なしと云い、これを反古にしたり、焼いたりしたのである。

以上五老僧達のありさまを見る時に、果してこれが大聖入門下の上足として、教団の指導的立場にある者の考えであり、行動であったかと驚かざるを得ない。そこには一かけらだに大聖人御立ての法門や、行儀をみる事はできない。ましてや、その流れを汲む末弟達に、大聖人の正義を持つものなどあるわけがない。

斯様な中にあって吾が二祖日興上人お一人のみが、大聖人の仏法を微塵も曲げることなく、正しく厳守遊ばされ、一方常にこれら心なき異端の徒を憂い、改心順正を説かれていたのである。然し、このような四囲の情勢の中に滅後付法の大導師として正義を守り、立て通して行くことも、身延に在ったのではもはや望めなくなったのである。その御苦衷はいかばかりであったろう。大聖人御人滅後僅か7ケ年、門弟は悉く師敵対謗法の徒と化し、今はただ、吾れ一人のみが正義を伝えるものとなってしまった事を考えた時、断腸の思いで身延を去られたその御胸中ほ、拝察するに余りあるものがあろう。

大聖人御正意の仏法を、一分も違えることなく後代に伝え、末法御本仏の万年の闇を照らす大法の燈を死守されたところにこそ、日興上人身延離山の其の意義が見出されるのである。この尊い、無上の意義を了解し奉ること以外に、遠く身延離山の歴史を繙く要はないとまでも云えよう。

我々が今、こうして正法に値遇し、過去遠々劫の謗法罪を消滅し、成仏得道の大利益を約束されるのも、ひとえにこのような、令法久住、死身弘法の御精神を堅持して魔山となり果てた身延を去り、正義を立て通された日興上人がおわしたからこそなのである。

而して、日興上人身延離山の歴史を正しく理解し、其の意義を了知するならば、大聖人の仏法は一点の差異径庭もなく、厳然として富士にのみ、滔々と流れ伝えられていることもまた、明らかとなるのである。同時にそれは、身延の山を初め、諸寺諸山には正応の往昔より汚濁の邪義誑説以外の、何ものも伝わらぬ事を物語ってもいる。大聖人9ケ年御在住の身延山も、日興上人の離山と共に、ただその霊蹟であったというに過ぎなくなったのである。そこには、真に衆生を救済する大聖人の仏法も、あらゆる霊宝も無い空虚な山であることを、世人はよく認識せねばたらない。

日興上人離山ののち幾百星霜、法燈連締として滞ることなく、末法の御本仏日蓮大聖人御立ての正義を相伝し、御一代御化導の究竟究たる、本門戒壇の大御本尊を厳持し来った、正統正嫡の宗門こそ吾が日蓮正宗であり、富士大石寺なのである。
 今や上、六十六世嗣法日達上人の御許、広布の大願、仏国寧土建設を目指して集うもの、日に月にその数を知らず、自らの宿命を打開し、又広く閻浮の民衆にこの大白法を知らしめんと精進修行に遇進する姿を見る。

さきに本門大講堂の完成をみ、今又世紀の殿党、大客殿の建立をみんとする吾が大石寺の威容、この霊地より大御本尊の霊光は、燦々と四域に輝くきわたっているのである。

大聖人の正義は富士に在り、一切衆生抜苦与の大白法は、ただ日蓮正宗にある。苦悩に悶える人々の一刻も早く来たって信受念持せんことを望むや切なるものである。 (完)

 

 

 

 

 


 

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