かがみ
宗教法人正信会の理念
正信とは何か∞覚醒叢とは何か≠真摯に考え、品格を持って正信覚醒運動に精進しよう
正信覚醒運動は当初より「宗風の刷新」「祖道の恢復」をその目的として運動を推進してきたことは前号で述べた。しかし、古川・田村グループ(任意団体正信会)はそのような理解ではないらしい。もっとも、そもそも覚醒運動が僧俗一人一人の道念によって起こされ、最初から画一的で組織化された運動でなかったことは事実であるから、彼のグループが我われ宗教法人正信会と見解が違うということも理解はできる。
【宗開両祖の教えに照らして】
正信覚醒運動と称して進めてきた運動も40年の歴史を刻んだ現在、運動興起からの各僧侶や寺院・講中の活動実態を振り返れば、思想信条の異なる僧俗がそれぞれの思い込みで集っていたことがよくわかる。その証左に、わずかではあるが阿部宗門に転向した者もいたし、運動の旗振りをしていたのにいつの間にか見えなくなった者もいる。また他者に発被をかけながら、今では運動しているのか、していないのか疑われるような者もいるし、運動の尊さが理解できずに去って行った者もいる。しかし他方、しっかりと正信覚醒に向き合って精進に精進を重ねている宗教法人正信会の寺院講中も存在しているのである。
もちろんどのようなスタンスを取るかは各人の自由であるが責任もあるだろう。覚醒運動を口にするのであば正信とは何か″覚醒とは何か≠真摯に考え、自らの成道と向き合っているかが問われることを知らなければならない。愚者や薄信の者をたぶらかすことはそう難しくないかもしれないが、自ちの浅識や欺瞞を長く覆い隠すことはできないし、識者はむちろん、宗開両祖の厳しい照覧を免れることはできないのである。
そもそも基本的理念やその見解に相違があるのであれば、気がついた時には歩むべき道を異にするのは当然のこと。理念も目的も違うのに、利害得失に執着して利用し合う関係をときに野合という。宗教法人正信会と古川・田村グループも、覚醒運動の目的や理念、主張や路線に違いがあるのならば、将来はともかく現在はそれぞれの道を歩むことが望ましい。
しかし、その道は阿部・早瀬宗門ような世俗的権威や、自己正統化の主張を一方的に押しつけるものであってはならず、宗開両祖の教えに照らし、自らの活動を通して明らかにすべきものである。
【独りよがりのレッテル貼り】
現在、彼のグループの機関紙となっている『継命新聞』では、本年4月1日号に古川興道、田村竜道、中谷道尊の3師による鼎談を掲載した。そこには彼らの主張と体質が端的に示されている。冒頭、田村師は「正信会の原点は護法にあります」と発言。重ねて古川師も「正信会と覚醒運動の原点は、本宗信仰の根本である戒壇の大御本尊を厳護し、信徒の成仏を願うこと、護法とは日蓮正宗の法義を護ること」と発言している。
我われ宗教法人正信会は「宗風の刷新」と祖道の恢復」こそが運動の原点であり目的とするから、「正信会の原点は護法。本宗信仰の根本・日蓮正宗の法義を護り、信徒の成仏を願う」という表現を否定はしない。まして「信徒の成仏を願う」ことは自明の理である。
しかし、彼らが阿部・早瀬宗門同様に「電源としての本尊」「宗祖の法義のすべてが込められた超絶の本尊」と主張する戒壇本尊義を本宗信仰の根本とは考えていない。また「日蓮正宗の法義」というl表現についても、彼のグループのように現在の阿部・早瀬宗門とほとんど変わらぬ信仰観に立ってはいない。覚醒運動における日蓮正宗の法義とは、近現代の変質した教義と信仰ではなく、宗開両祖の教えそのものと理解しているのである。護法という表現は同じであってもその内容は大きく違う。
さて、古川・田村グループには阿部・早瀬宗門や学会のような「レッテル貼り」という手法がよく見られる。レッテル貼りとは、虚実を織り交ぜ、時系列を無視して対象者を攻撃し、悪しき印象を植え付けることであるが、その目的は対象者のイメージダウンをはかることにある。
この鼎談でも、会内で特異な発言でよく知られた中谷師が「ここ数年続いた会内の混乱もこの原点を見失ったことが原因ではないですか。正信会の事務所拠点作りの話に、有志の会(後の法人派)で横浜・旧妙法院の取得を提案してきました…」と発言している。
しかし、正信会事務所のことは平成20年から21年の問題であり、3年1月には会員の意思表明によって決着していた問題である。
有志の会は平成24年に結成されたのであるから、時をざかのぼって旧妙法院の取得を有志の会が提案することなどできようはずもない。時系列を無視し、虚実織り交ぜて他者を攻撃することは、仏教者としての資格さえ問われる愚かな行為と言える。
また古川師は鼎談で、「法人派との裁判は裁判所の和解勧告に従い、双方が了承しました。その骨子は、@それぞれ別個の宗教団体である。A財産については正信会が2、法人派が1の割合で分配する。裁判は世俗の問題ですが、ある意味勝訴以上の結果が得られ」と発言している。
しかし、そもそも和解は裁判による判決以外の方法で係争を終了させるための一方法に過ぎないから、勝敗とはなじまない。双方が裁判長の和解案を了承して訴訟を終結したのである。また、分配も2対1という表現ではなく、裁判長が具体的な数字を示して勧告案を出したもの。
古川師はどのように説明するのも自分の勝手と考えているのだろうが、内容や表現が正確でなければ「独りよがりのレッテル貼り」との批判を免れない。
我々は他山の石として品格をもって覚醒運動に療進したい。