テレホン法話で「仏」身近に
足掛け30年で1000法話 修行と心得て月3回更新
曹洞宗徳本寺住職 早坂文明
「お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺、テレホン法話です――」0223・38・1717(宮城のイーナイーナ)。この番号に電話をかけると、住職である私が吹き込んだ法話を聞くことができる。始めたのは1987年12月。これまでに伝えた法話は1000を超え、足かけで30年目に突入した。
宮城県山元町、曹洞宗徳本寺のテレホン法話は、先代住職の父が84年2月14日に始めた。留守電話を活用したもので毎月1,11,21日に更新。当時は、画期的な布教方法として様々な寺院で行われていた。
父「明日からやって」
他のお寺で実務経験を積み、私が徳本寺に戻ってきたのが87年春。その年の12月20日、父から突然に言われた。「明日から私に代わってテレホン法話をやってみなさい」
それまで父のテレホン法話を聞いたことさえなく、見よう見まねもできない状態でスタートラインに立たされた。年が明けたら任せる、というのが普通ではないか。恨めしく思いながらも、第1回の法話に取り組むしかなかった。法話は寺院内の一室で録音する。お客様が来る時間帯はできないので、録音はいつも朝。朝のお勤めを終えた6時頃が多い。はじめの頃は読み違いも多く、録り直しはしょっちゅうだった。
パソコンで執筆・録音テレホン法話は1回約3分で、字数は1000字前後、400字詰め原稿用紙で2枚半。原稿用紙をめくる音も、めくることに意識が行ってしまうのも嫌なので、1000字ほどがl枚に収まる専用の原稿用紙を手作りして使った時代もあった。最近はテープでなくパソコンで執筆・録音しており、3分という時間も厳密には気にしなくていい。
やはり大変なのがネタ探し。いつも8,9のつく日になると不安で仕方ない。ネタは購読している新聞2紙や移動時に車の中で聞くラジオから探すことが多い。電話という文明の利器を使っていても、法話は法話。多少なりとも抹香の臭いはちりばめたい。2013年、球団創設9年目で楽天イーグルスが日本シリーズを制した時は、壁に向かって9年座禅を続けた達磨様になぞらえて信念を貫くことの重要性を説いた。お盆やお彼岸、お正月などは毎年の話題なので、なんとか別の切り口を探そううといつも苦労している。
今は亡き父から引き継いいだだけに、テレホン法話を絶えさせてはいけないという思いはあった。2001年に500話を超えた時から、法話の冒頭で第何目と数字を示すすようにした。500といつ数字は重かった。やめたら、数字がそこで途切れるのだという意識が生まれ、とにかく続けていこうと思った。
震災後の復興も話題に
最大の危機はやはり、11年3月11日の東日本大震災。その日の朝に836話目を更新したが、午後3時半ごろから電話を電気も不通に。私が住職を兼務する徳泉寺も津波で流された。徳本寺と徳泉寺を合わせ、檀家さんだけで200人以上が亡くなられた。
あの惨禍の中では法話など何の助はにもならないと痛感した。ネタに困っていた普段と違い、伝えるペきことはいくらであった。それでも、法話のことなんて考えられなかった。ここで終りにしてもいいだろう。
だが1週間ほどして電話と電気が復旧する。当時、被害が甚大だった山元町のことは外部にあまり伝わっていなかった。知人の間で、「私が死んだ」という噂が流れていた。テレホン法話を通じて、山元町の様子が誰かに伝わるかもしれない。ひっきりなしに供養事が続く中、朝晩のわずかな時間で原稿を書き、法話を更新し続けた。
復興の状況、被災地支援イベントへの取り組み――。「ずぼら」という言葉の語源が「坊主」にあることを示し、寺や地域の復興に向け「ずぼらな和尚」にならぬよう自らを戒めた正月もあった。そうした話題を取り上げながら続けるうち、昨年10月に法話は1000回目を迎えた。これまでの通話回数は延べ5万回に上る。1000話を記念した本「千話一話」も出版させてもらった。
インターネットもある現在、テレホン法話が必ずしも効率的な手段でないことば承知している。けれど、定期的に法話をまとめることは、和尚としての姿勢を保つ上で私自身にとって必要な修行になっている。仏法を伝えることにも終わりはない。悟りの境地とはほど遠いが、やれる限りは淡々と、これからも法話の更新を続けていくつもりだ。