生きづらさに向かい合う  南直哉さんに聞く


仏教、若者を救うツールに


人の心分る努力を

 仏教の教えは社会のありようを問い直し、見直す視点を提供することに意味がある。
 禅僧の南直哉さん(57)はずっと生きづらさを抱えてきた。子どものころにぜんそくの発作で、週一度ぐらいは絶息状態に陥り、死を意識した。死とは何か? 周りの大人たちに尋ねても、死の前か後の話はしてくれても死そのものについては教えてくれない。以来、死というわからないものにつきまとわれることに。そこで出合ったのが「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という「平家物語」の冒頭と、曹洞宗の開祖である道元禅師の「正法眼蔵」。後に仏門に入るきっかけとなった。
 「人生をうまく生きている人に宗教なんていらないと思います。でも大抵の人はうまくいかなくなる。ほとんどの人がいつかは壁にぶち当たるり特に社会の目標が見えにくくなった現代は、若者にとって生きにくい時代でしょう」
 「私は『正法眼蔵』や『平家物語』を読んで、自分と同じようなことを考えている人がいたんだと感じました。死について思い悩む自分はどこか変なんじゃないかと感じていましたが、『ああ、自分だけじゃなかったんだ』という安心を得ました。それは強烈なシンパシー(共感)であり、人生という高い賭け金を払ってでも、この教えに賭けてみたいと思いました」
 「ただ、仏教の教えを直接、社会に適応しようとするのは慎むべきです。むしろ社会の様々な関係性の中で何が問題なのかを明らかにすることが大切なのではないでしょうか。『医術は診断が全て』と知り合いのお医者さんから聞いたことがありますが、仏教にも同じようなことが当てはまる」
 大本山永平寺(福井県)での修行が丸10年を過ぎた1995年、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きる。オウムに集まるような若者たちの不安に伝統仏教もこたえられるのではないかと思い、雑誌連載を通じて発言を始めた直後だった。
 「『伝統教団は何をやっていたんだ』といったお叱りをよく受けましたし、私もそう思いました。そうしたオウムの問題は今も終わっていません。若者の生きづらさは増しているしハその受け皿も存在しない」
 「本来仏教は有効なツールであるはずです。そのため、新しい言葉で語ることで仏教をバージョンアップさせたいと考え、本を出すようになりました。とはいえ、問題をすぐに解決する特効薬の答えはない。生きるのは面倒であるとわかっていただくしかないのだと思います」

 生きづらさは煎じ詰めれば人間関係に起因する
「我思う、ゆえに我あり」。16世紀末のフランスに生まれた哲学者デカルトの言葉である。目の前に広がる世界はひょっとしたら夢か幻かもしれないが、そう考える「自分」がいることだけは間違いない、といった意味だろう。しかし、ときにラジカルな僧侶と評される南さんは、「自分」は「他者」との関係によって存在すると述べる。
 「人は『自分』を『私』『僕』『俺』などと言いますが、それは誰もが使う言葉であって、特定の個人を意味しない。そもそも言葉は(記号にすぎず)事実そのものを語りません。その人固有のように見える『名前』ですら他者から与えられたものです。それゆえ『自分』がなにものかをつかまえるのはとても難しい」
 「同時に自己の認識や形成は人間関係に大きく左右される。自死の大きな原因として貧困や病苦が挙げられますが、それよりも孤立、孤独などの人間関係に端を発することが多いように思います。人間という存在が関係性の中で成り立っている以上、本当の問題はそこに起因することになる」
 「20代、30代の若い人たちと話をすると、彼らの生きづらさは親子関係に起因していることが多い。でも、それを話しても親の世代はピンとこないんですね。豊かさを目指すことが大切で、頑張れば何とかなるはずという高度成長期に身についた価値観が、バブルとその崩壊後は通用しなくなっていることにまるで気付かない。子供たちは反感長持つというより、あきれてしまうわけです」
 家族や地域社会といった共同体の根本にはポリティクス(政治)があり、基本は利害関係と権力関係で成り立っていると指摘する。それに目を背け、「安らぎの場」などと利点ばかり強調しようとすると問題がこじれてしまうという。
 「子どものことを一番思っていて、最もよく理解しているのは自分であると親は考えがちですが、本当にそうか。子どものためと言いながら、自分の利害のためにしていることも多いのではないでしょうか。とりわけ幼少期の子どもは無力なので、親の影響力は大きい。長じるに従って、その関係性は変わっていくわけですが」
 「そもそも他人の心がそう簡単にわかるわけはない。仏教でいう慈悲とは他者を思う心であり、相手を何とか理解しようとする努力が根幹にあると私は考えています。その前提として他人のことはわからないものだと考える必要がある。わからないからこそ、わかろうと努力するわけです」

 


供養の聖地・恐山に10年、「死者は実在する」
 死者供養の聖地とされる青森・恐山に入って10年。「恐山に来て『死者』をリアルに感じた。これは大発見だった」と南さんは話す。幼い頃から「死」には強い関心を抱いていたが、「死者」はその枠外だったという。「私にとってバーチャルとリアルを分けるのは思い通りにできるかどうか。恐山にいると亡くなった方がご遺族の生き方に大きな影響を及ぼしているのを目にする。これは『死者は実在する』と言わざるをえないのではないか」。そうした恐山の日々をつづったブログをまとめた本「刺さる言葉」(筑摩書房)が今年5月に刊行された。
 福井・霊泉寺住職を兼ねるとともに、著書の打ち合わせなどで東京に行く機会も多く、「住所不定住職」を自認する。東京・赤坂の豊川稲荷では月1回の定期講義を10年にわたって開いた。「語り方が坊さんっぽくないせいか、『なかなか良いお話でした。でも説教しなくていいんですか』と聞き手から質問されることもある。自分としては、専門の言葉を使わずとも、仏教を語っているつもりなのですが」と苦笑する。

 

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