経本作製のいきさつ

  現在の宗門の混乱は創価学会の謗法問題にあると一般には見られてゐるが、かうなる必然は遥か以前から胚胎してゐたやうな気がしてならない。それは御書の指南も先師の遺誠も時代の趨勢の前にはいとも簡単に改変してきた宗門の歴史があろからである。一々の事例は枚挙にいとまがないしその任ではないのでとどめるが、一ツ現今の勤行の形式にもそれは云へると思ふ。端的に云へば方便品の長行を読まなくなつたことである。

 宗祖日蓮大聖人が日常の行儀として寿量品と共に方便品の長行(世雄偈)をも読まれたことは檀越にそれを勧奨されたことによつても明らかである。すなはち
 『月水御書』に


常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ

とある。「常の御所作」とは、云ふまでもなく日常朝夕の勤行のことである。また
 『曽谷入道殿御返事』にも


方便品の長行書進せ候。先に進せ候し自我偈に相副て読みたまふべし

とあることによって明らかであらう。
 また第二祖日興上人も大聖人の行儀を継承されたことは遺誡冒頭の「富士の立義聊かも先師の御弘通に違せざる事」の宣言によつても疑ひないことであるが、『五人所破抄』に天目から「富山宜しと雖も亦過失あり、迹門を破し乍ら方便品を読むこと既に自語相違せり」と難詰されてゐることで明らかである。無論、十如までではなく長行まで読まれてゐることは次の逸話がそれを示してゐる。
 『大石記』 (旧版『富士宗学要集』所載)と云ふ古写本に


日目上人は日興上人に仏法の御異見をばお申しありき。所謂方便品の開三計り遊ばして広開三をあそばさゞりけるを、日目、日興上人へ御申しある様は大聖人の御時已に遊ばされ候ひしに尤も読むべきにて候如何と、其時上人仰せに云く尤も爾るべく候へども新発意共が自我偈をだにも覚えざる程に之を略し候。
已後読み候べしと其より遊ばしけるなり

とある。意訳すれば
 日目上人が日興上人に対し奉り仏法の上の御忠告をなされたことがございます。いはゆる方便品の読誦のとき略開三(十如是)の所までしか読まれないで広開三 (長行)をお読みなさらなかったことについてでございます。日目上人が日興上人にどのやうに申上げたかと申しますと、大聖人の御在世には確かに方便品の長行をもお読みになられてゐたのに此頃はお読みになられませんが、この長行読誦にはとりはけ意味がございますのにどうしたわけでございませうとお尋ねになられたのでございます。その時、日興上人が答へて仰せられるには、確かにさうするのが本当であるが、この頃は新入りの弟子たちが自我偈さへ暗んずることができないので、つい省略してしまったのである。これからはもとのやうに読むことにしやうと云はれて、それからまた方便品の長行を読誦するやうになりました。
 これを見ても一時の中断はあるが目師の諌言の後は方便品の長行の読誦を常の行儀とされたことは疑ひない。
 また第三祖の日目上人もそれを師に奏すぐらゐであるから御自身の行儀に読まれたことは無論である。
 この行儀が爾来連綿と伝承されてきたことは第廿六世目寛上人の『六巻抄』第五当流行事抄に伺へる。すなはち


問ふ、今当門流或は但十如を誦し、或は広開長行を誦す、其の謂如何。
答ふ、十如の文既に一念三千の出処なり。故に但之を誦すれば其の義則ち足りぬ。然りと雖も略開は正開顕に非ず。故に一念三千猶は未だ明了ならず。故に広開に至るなり。乃至、故に知んぬ、若し広開に至らずんば一念三千其の義仍ほ未だ分明ならず。故に広開長行を誦するなり。大覚抄の中に方便品の長行をも習ひ誦むべしと云ふは即ち広開の長行を指すなり。其の間に偈頌有りと雖も比丘偈の長篇に望むれば其の前は通じて皆長行と名づくるなり

 とある。
 若干解説を加へれば、方便品の十如是は一念三千の法門の出処であるから、そこまでを読めば一応の義は成り立つのであるが、それはあくまで略開であって広開ではない。丁度、門の半開きのやうなもので正式てはない。それゆゑ正開顕の長行を読むのである。との仰せである。さらにまた、後代邪智の者が、方便品は十如までが長行であると言ひ出さぬとも限らない。なんとなればこの長行は世雄偈とも云ひ慣はされてゐるぐらゐでそのほかに四度の偈が挿入されてゐる。だから「偈頌」は「長行」に非ずと云ふ理屈も成り立つのである。それを未然に遮難せられて、大聖人の云はれる「方便品の長行」の範囲は、最後部の比丘偈と称される長篇の偈頌の前までであると懇切に指南されてゐるのである。
 しかしいつの頃からであらうかこの行儀が漸々に衰微し今てはすっかり滅んてしまった。昭和三十年頃までは本宗の教師昇格試験に世雄偈の音読が科目に入っていたと云ふから、それ已前の人は何とか読めるが已後の教師は読めないのである。朝夕の勤行は信心修行の基本である。その基本において宗相の指南を無視し、連綿の伝承を絶やしてしまつてどこが正統と云へやうか、「富士の立義」の正統を叫ぶならば、基本の行儀を「先師の御弘通に違せざる」日興上人の時代に復古すべきだと思ふのである。
 私個人はその信念から独りの勤行の際は、昭和七年の六百五十遠忌記念の施本の経本をたよりに自己流に読んでゐたが、正式に教へられてゐないので不安であつた。疑問の箇所を先輩に糺してみたが人によつてそれぞれに違ふ。塔中山内では埓があかないので、某師と沼津の蓮興寺の関戸慈晃師に伝授を乞ふた。関戸師がその方面に一家言を有してゐるとかねて風間してゐたからである。録音機を携へて伺がつたのは昭和五十年十一月廿七日、一人前の教師二人、某師は私より十年先輩であるが新発意さながら一句ずつ復唱して伝授をうけた。自己流の誤りもさることながら、前記の遠忌施本の振仮名の杜撰さにはびつくりした。しかしそれ以後はその伝授に何の疑ひも持つことなくつい最近までそれを続けてきたのである。ところが近年二、三のお寺から、前記の遠忌施本の複製が法要記念に出され、時を同じくして若い僧侶の間に世雄偈を習ひたいと云ふ人が出てきた。私が関戸師から世雄偈の伝授を受け、録音テープも所持してゐることを聞きつけて自分等も習ひたいと云う。私は関戸師の伝授のままを伝へればよいと簡単に考へてゐたので直ちにその教授を引き受けた。
折も折、たまたま佐野知道師から昭和三十七年大坊にて収録したと云ふ理境坊前住職の故落合慈仁師による世雄偈の録音テープを戴いた。落合師もその方面にはうるさかつた方である。聞いてみると関戸師のとは随分相違が目立つ。落合師のは遠忌施本の読みと殆ど同じだつた。折角関戸師によつて遠忌施本の読みを払拭したのにこれでは関戸師の読みに再検討を加へる必要がある。第一これでは他に自信をもつて教へる事ができない。そこで一方の読みを全面的に信ずるのではなく両者の読みを比較検討することにした。今まで自門の読みが正統で他宗他門の読みは参考にならないと考へてゐたので幾多の音義書を所持しながら繙くことをしなかつたが、それも参考することにした。また関戸師の読みに全幅の信頼おいてゐた為に目に入らなかつたのであるが、その気になつて見ると手元にある明治初年に本宗で使用された木版の経本には文字の左側に本濁新濁を示す黒点が付されてあるのである。この経本はもと池田の源立寺にあつたのを故向島秀浩前住職より請ひ受はたものである。奥付などなく発行年は不明だが裏面に観念文が肉筆で書かれてあつて、その四座の祈念に「・・・別シテワ御本山御當職日布御上人師、御隠居日霑御上人師、日盛御上人師、日胤御上人師等、御壽命長久御弘通廣人御利益無窮御祈祷ノ御為」とある。五十五世日布上人が当職で三隠尊上人が在世されてゐる期間は明治八年から明治十八年であるから当時使用の経本とわかつた。振仮名は付されてないが、本濁新濁の印は文字の左側上下に識別して付してある。「本濁とは其の字本来の濁音、例せば『大、佛、善』等の如し。新濁とは清音の字なれども、上の字に従りて濁音に読む字、例せば『功徳、人間』等の如く下の字を云ふなり」 (相滓慈昌、『法華経正讀音義』)
 まずこの経本の清濁と関戸、落合両師の相違を比較し、この経本の清濁を他門の義書と比較すると云ふ方法で調べてみた。勿論、他門の音義書は数種あり、そしてそれぞれに違ふ。「法華経は千数百年もの永い年月にわたって、一乗家にも三乗家にも、各宗を通じて読みつがれてきた経であるだけに、その読みを仔細に見てゆくと、宗派・流派のよみくせ、または相承・相伝のよみ音というようなところがあって、一準にはゆかないところがあり、その取捨は簡単に決しがたいものがある。また時代音の影響を無視することもできない。このような理由から、法華音義書には作者所属の系統があり、またその他の関係から、たとえ同系の書でも彼此全同でないところのあることが決して珍らしいことではない」 (法華音義類聚 解説、兜本正亨)以上のやうな比較上の難問はあつても、由来のある読みであるか、全くの誤りであるかは大体類推できる。その結果わかつた事は、この経本の読みが極めて常識的であることであつた。関戸、落合両師の読みとの相違点は殊に慎重に調べてみたが、どうもこの経本の読みの方が正しいのである。
 寿量品の読みにも相違があるのでついでに調べてみたがやはりその相違はわれわれの読みの方が誤まつてゐるとしか思へなかつた。
 また他門のいづれの音義書とも全同でない所から、宗門独自の読みと考へられるのである。私は次の事例を見てもこの明治本と両師の相違点、あるいは寿量品の現在の読みとの相違点は、訛伝・誤伝としか考へられない。
 世雄偈の「信力堅固者」の「者」を落合師は「シャ」と読み後に頻出するこの類の「者」は「及余求仏者」を除いて全て「ジャ」と濁して読んでゐる。関戸師は「及余求仏者」以外全てを「ジャ」と濁す。明治本は「者」は全て清音である。他門の音義書で「ジャ」と濁るのは一書もない。それでは[ジャ]を濁って読むのは本宗独自の読みではないかと云はれるかも知れない。とすると次の疑問に逢着する。自我偈の「者」は全て清音である。「柔和質直者」 「汝等有智者」 「救諸苦患者」と
 「ジャ」と読んでもおかしくない。おかしく感ずるとすればそれは耳慣れないからである。寿量品の「者」はこれまた不可解である。「及不著者」「徳薄垢重者」「及
滅度者」 「或不見者」 「或不失者」 「若父在者」 「虚妄適者」は清音、「不失心者「余失心者」 「今者捨我」は濁音と云ふ乱れ方である。
 これらの「者」に関しては明治本、音義書は全て清音である。また清音に読んで読みにくい所など一箇所もない。「者」の読みの混乱の理由は次のやうに考へられる。つまり自我偈は自他宗を問はず最もよく読まれてきたので訛伝の余地がなかつたのだ。そして方便品も寿量品も自我偈に比せばその読誦の頻度は著しくおちるので恣意的に読まれやすくそこに訛伝誤伝の入りこむ間隙があつたのだ。これは方便品の十如までの読みが明治本と全同であることでも立証できると思。
 それでもなほ「者」の読みの混乱を訛伝ではなく区別だと思ばれる向きがあるかと思う。それは「知具限数」 「非算数所知」のやうに同じ字を清濁を区別して読ませる場合が多々あるからであ。しかしこれは単語と熟語の相違であ。「算数」は熟語であるが、「限数」と云ふ熟語はないからであ。また、意味の相違について読み方を変へる場合があ。例べば「著」の場合の「チヤク」と「ヂヤク」とか 「唯」の字を「イイ」あるいは「ユイ」と区別する場合などであ。だからこのやうな例と「者」は比較にならないのである。先にあけた「者」は全て単語で熟語は一つもない。
 かうした相違を知らぬ所から、同一音と見て訛伝される場合が随分あるやうに思う。その事例を挙げてみる。
 方便品の長行に「告諸声間衆」 「於諸声間衆」と云ふ句があ。これはいづれも「ショウモンジュ」と読むのだが、落合師は両方とも「ショウモンシュ」と読んでゐる。これも「大菩薩衆」 「一切大衆」等は清音であるから、これも同じとして清音で読んだ事が訛伝されたのだと思。これとて、「声聞衆」は『仏教語辞典』によれば、「小乗の修行者たちの仲間」と云ふ意味が熟してゐるが、「菩薩衆」と云ふ熟語はない。従つて読みが違ふのであ。関戸師の両様の読みは、「者」の読みの相違が訛伝である証明でもある。
 とにかくかうした事例は枚挙に逞がない。今までに宗門で発行した経本は何種もある。その全てに当つたわけではないが、あたふ限りつき合はせてみが、それぞれに少しずつ違ふのである。この辺で修正しておかないと将来収拾がつかなくなつてしまふだらう。ともあれ私はこの明治本の正しさが確信できたので、これを若い人たちの世雄偈の勉強会の折使ふことにしたのである。そしてこの際、我意我説を排し忠実に明治本の読みを復活してみやうと思ひたち印刷刊行することにした。勿論最初に記したやうに振仮名はないので新仮名遣ひをもつて新たに付し、長音、促音、半濁音については指示はないので従来の伝承に従つた。但し、長音は問題はないが、促音および半濁音については、従来の伝承に不審もあるが、それを明らかにする手立てがないので仕方がない。
 これは余談であるが、一体に本宗の読みは他門に比して促音が多い。従つて当然半濁も多くなる。その原因は経を早く読んできたことにあると思ふ。早く読まねばならなかつた原因は五座三座の勤行式あるのではなからうか、読みが速ければ音の乱れの発生は必然である。五座三座の形式がいつから始まつたかは不明であるが、少なくとも原初の形式でないことは疑ひない。そしてこの形式のため、長篇の世雄偈が次第に敬遠され省略されてしまつたとしか思へないのである。世雄偈を読む事は宗祖以来の軌範であるが、五座三座は絶対の軌範ではない。五座三座のために世雄偈が省略されたのならば主客転倒を甚だしい。勤行の大原則は、両品読誦と唱題である。この大原則に立脚していまこそ五座三座の形式を再検討する必要があるのではないだろうか。世雄偈を復活する意味においても、そしてそれが大聖人の行儀に近づく意味において。 

 山口法興・・・・・・・・・識

 

 

戻る