川北義則



遊びを愉しむ



「遊びをせんとや生まれけむ。
  戯れせんとや生まれけん

 遊ぶ子供の声聞けば、
  わが身さえこそ動がるれ」
      (後白河院撰『梁塵秘抄』)



 定年退職を迎えて、「さあ、明日から自由の身だ」と肩の荷を下ろした気分になっても、さて現実に「毎日が日曜日」となると、何をしていいかわからなくなる。思いきり遊びたいと思っても、今まで仕事一途でやってきたサラリーマンにとっては、あり余る時間をどんな遊びに使っていいのかわからないのが現実だ。
 20代で会社勤めを始めて、定年退職までの労働時間と、いざ退職になって平均寿命の80歳まで生きている時間が、睡眠時間を除くと、ほぼ同じだというデータもあるくらい。それほど時間はたっぶりある。それこそが、定年後の魅力ではないか。
 いろいろなことをやってみたいが、年金と貯金だけでは先行き不安という人もいるだろう。だが統
計的にも、定年後はけっこう預貯金を残したまま亡くなる人が多いそうだ。なんでもその平均値は2,3000万円とか。定年後は、もっとお金を使えばいい。
 本人が興味を持てば、そば打ちをしようと、土をこねて茶碗をつくろうと、青春18切符であちこち列車の旅をしようと、やりたいことをやればいい。

 遊びは、人間にとって大切なものである。オランダの文化史学者のホイジンガは「人間の本質は遊ぶことである」とまで言っている。元来、人間は「ホモ・ルーデンス (遊戯する人間)」なのである。
 何の気がねもいらない。何をしても自由なのが、定年後である。見たい映画や演劇に行ったり、たまには一人でぶらりとフランス料理やイタリア料理を食べに行ったり、社交ダンスなど習い事を始めたり、同じゴルフでも近所やスポーツクラブで知り合った人たちと出かけたり、行動範囲をできるだけ広げてみると、思わぬ発見もあるものだ。
 「人生は、お金が少しもかからない、いきいきとした楽しみに満ちあふれている。多くの人たちはそのことに気づいていない。『もっと目を見開き、楽しみを見つけよ』。あらゆる国の言葉で、こう書いた貼り紙をあちこちに貼りたいくらいだ」 (アラン 『幸福論』)
 それくらい楽しみに満ちているのに遊べないのは、現役時代から、遊びと仕事を分けて考えるからである。「よく学び、よく遊べ」 のような区分けではなく、「人生すべて働きながらの遊び」と思ったほうがいい。
 したがって、定年後は収入など考えず、週に1,2回はボランティアでも何でもいいから働く、そして遊ぶ。これが充実した生き方ではないだろうか。人に会えば身だしなみにも気を使う。その緊張感がいいのだ。
 誰でも、遊び心は子どもの頃からある。貝原益軒は「小児のあそびをこのむのは、つねの情なり」といっている。小さなときから遊び好きな人間は、スポーツ選手や冒険家、芸術家になったりしている。絶えず努力して、より高きに挑戦している。今からでも遅くはないのだ。
 一方で、子どもの頃、何に夢中になっていたかを思い出してみるのも一興ではないか。男の子なら、たいてい電車や汽車など乗り物に憧れたもの。そんな小さな頃の遊びを、今実行してみるのも楽しいはずだ。
 交通博物館へ行けば、SLをはじめあらゆる乗り物が見られる。また懐かしのSLに、時刻表を調べながら乗ってみるのもいいだろう。大人になってからの電車や汽車ゴッコもわくわくする。「鉄ちゃん」などは、そんな夢を見続けている人たちだ。
 妻が同行をいやがったら、一人で行けばいい。妻は妻、自分は自分とある程度、それぞれが自由に行動する。それが大人の分別というものだろう。
 今は旅行でも、国内外ともに一人だけのツアーもある。一人の人たちが団体で行く旅行で、その分、少々料金は高くなるが、みんなが一人参加だけに友だちもできやすい。また、中高年向きの「趣味人倶楽部」などといったSNSサイトもある。そこで知り合った人たちと新しい交友関係を広げていけばいい。

 ふつう、遊びというとすぐに趣味が思い浮かぶが、それも履歴書に書くような「読書・音楽鑑賞」 ではつまらない。たとえば、「日本百名山にならって、日本中の暗渠を探し出すとか、日本の低い山、短い山脈だけを旅したり、短い川や小さな湖だけの写真を撮ったりするのもいい。
 また、書くことが好きなら、来し方を振り返って「自分史」を手がけてみるのもいいだろう。その際、人に読んでもらいたかったら、自慢話は控えめに、失敗談をユーモラスに綴ってみるのがコツ。人それぞれ、自分が夢中になれる「心分だけの愉しみ」を見つけること。 それが本物の遊びである。
        、
「遊びに師なし」ー誰に教わるでもない、一人で覚えていくものなのだ。

 

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