時間医学の扉(10)
健康セルフケアの町をつくる
高齢化が急速に進む現代社会にあって、健康のために求められるべき医療とは?
既存のシナリオだけに頼らない、立体的、多面的なアプローチを考える。
文=大塚邦明(束京女子医科大学名誉教授)
2007年、日本は、65歳以上の高齢者の人口が21%を超え超高齢社会に突入した。急速に高齢化が進んでいる。これまで若者が支えてきた社会構造は、もうそこにはみられない。
85歳を超える人が巷にあふれ、100歳から110歳の百寿者がそこらあたりを闊歩する世の中になってしまった。高齢者の健康をどのように守っていくか。そこに住む私たちがともに考えなければならない大きな課題である。
超高齢者社会とは
高齢化の波は、なかでも首都圏で、いっそう深刻である。2010年の国勢調査によれば、2035年には、東京都の高齢化率は30%を超え、3人に1人が高齢者になる。そして一人暮らしの老人や高齢の夫婦だけで生活を送る世帯が増えてくる。
人は誰しも75歳を迎えると、活力が落ち身体的にも不調をうったえ始める。90歳になると、もの忘れがひどくなり、認知症が増え、死亡者が急増する。病気の候補者が増えすぎて、病室はいつも満杯。たとえ病気になってもそう簡単に入院できない。
私たちはこれから、どのように健康を守っていけばよいのだろう。
ガリバー旅行記の教訓
スウィフトのガリバー旅行記には、超高齢社会への強烈な風刺が盛り込まれている。
イギリスに戻る途中、ガリバーは島国のラグナグ王国に立ち寄る。「不死ならば、どれほど輝かしい人生を送っているのだろう」と心ときめかせていたが、不死の人間、ストラルドプラグ人の姿は悲惨なものだった。
200歳を超えた老人は、死ぬことができない前途を悲観し、不機嫌で愚痴っぽく、頑固で気むずかしく、頭髪も抜け歯も欠け、忘れっぽく、味わうこともできずただ飲み食いしていた。国中の人々から疎まれ軽蔑され、厄介者扱いされていた。
一方、最後に訪れた、理性いっぱいの島、スウィメム国では、人々は健康で病を知らず、やがて老衰し安穏な死を迎えていた。彼らは75歳くらいまで生き、衰弱を自覚するようになると自ら知人に別れを告げて、遠いところへ旅立っていった。
人は死なないから幸せなのではない。理性のある生活が健康と幸福な死をもたらす。むしろ死とは、人に与えられたある種の救済なのではないか。この物語はそれを訓えている。
エビデンスに基づく医療の限界
医療のあり方を考え直さなければならない。症状から背景疾患を診立て、その原因を探索し、病態の広がりをみきわめて徹底的に治療する。これが現在の医療のシナリオである。エビデンスに基づく医療(*EBM)と呼ばれている。
しかし、老人は同じ病気であっても多くの病気を合併して持っている。疾患の原因や病態は患者によって千差万別である。当然、同じ治療でも効果は異なる。ここにEBMの限界がある。
何かが足りないと思う。
EBMを補う時間医学
ここ数年の間の体内時計研究の進歩には、目を見張るものがある。それは老化を抑え、もの忘れを予防し、寿命を長く保っていた。たかが時を刻む仕組みが、人の生き様にこれほど深く関わっていたとはと、ただ驚くばかりである。
時間医学は、治療効果の個人差を予測し、個人に見合った適切な治療を模索する。一人一人をじっくり眺めることの重要性を教えている。エビデンスという名の下にEBMだけに奔りがちな、現在の医療に警告を発している。
時間医学とEBMの融合にこそ、医療の理想の姿がある。
健康セルフケアの町をつくる
医療のあり方の変換が求められている。病気を治し救命するというキュアから、病気とともに生活し、支え癒し合い、そして看取るというケアのかたちに変わる。
そこで提案したい。
自助と互助の精神のもと、自分達で自分達の健康を守るための町おこしを始めてはどうか。火災に対して地域毎に消防団があるように、町ぐるみで、未病を早期に発見するためのトレーニングを繰り返し、地域の健康セルフケア推進団をつくろう。
高知県土佐町に、そのモデルがある。「とんからりんの家」というボランティア団体が、運動教室や栄養教室を立ち上げている。町民は、2004年以降、町が主導でおこなってきた長寿検診を見よう見まねで、おおよそ覚えてしまった。自分で未病を早期に発見するという心意気で、日頃からその鍛錬を練り出している。
疾病の要因は生活の中にあり、健康のあり方は地域毎に異なる。地域に見合った、健康セルフケアを工夫していくことこそ、肝要である。それをグローカルな医療と称してきた。
時間と空間に視点をおいたグローカルな医療。超高齢化の波が押し寄せている日本に、今、それが求められている。