時間医学の扉(8)

人はなぜ老いるのか


私たちには「体内時計」と「腹時計」、そして「心の時計」がある。
それは脳内の「島」に在るとされ、老いることと深く関わっている。


文=大塚邦明(東京女子医科大学名誉教授)


 地球に棲む生物は、みな体内時計を持っている。進化の過程で時を刻む仕組みを身につけることにしくじった生物は、地球上から消えていったことを表している。そして腹時計が、体内時計とは独立して働いていた。餌が豊富ではなかった古代の生存環境では、生体リズムに則って食を摂るなどと悠長なことを言っておられなかった。
 それでは、体内時計と腹時計さえあれば、十分だったのだろうか。

リトル・ブレイン、「島」

 種の保存のためには、もう一つの働きが必須だった。
 危急存亡のとき、からだからの情報を集中的に受容し、即座に判断して実行に移すという行動力である。思いがけず外敵と向かい合ったとき、闘うか逃げるか、それを瞬時に判断し、行動を起こすことが必要であった。
 脳の「島」という神経細胞群が、それをとり仕切っていた。
 全身からの情報を集め、そして加工し、全身に発信する。リトル・プレイン(脳の中の脳)とも呼ばれる所以がそこにある。
 大脳が、極端に専門化した分業システムであるのに対して、島皮質は、そこから逃れて孤島に住み、生命の全てを見守っていた。

心は何処にある

 心の棲み家は、いったい何処なのだろう。
「島」こそ、その所在なのだろうと思っている。
 脳のこの場所を、「島」と名づけたのはオランダの解剖学者ライルだった。それゆえ、「ライルの島」とも呼ばれる。「あたかも広い海洋からその魂を吸収するかのように、からだの隅々からの情報を吸収し、大脳からの全ての情報と混ぜ合わせ、咀嚼して、他者との意思疎通を図る」。
 1809年、ライルは、ここに心が在ると考えた。

心の時計

「島」には、他の脳にはみられない際立った特徴がある。
 ある時ふと十数年前に亡くなった母親を思い出し、悲しくなって涙を流す。入学試験に落ちてがっかりする。詐欺事件に巻き込まれて損をして悔しい。
 子どもの頃に食した食べ物の味にふれ、楽しい気分になった。好きな花の香りをかいで、心をときめかせた。山を登りきって青空を見たとたん、遵成感とともにえも言われぬ幸福感に満たされた。
 このような気分を醸し出すとともに、「島」は時間も支配していた。
 子どもの頃、ゆっくりと流れていた時間が、歳とともにあっという間に過ぎ去っていく。
「島」は、心の時計の在り処だった。

老化を左右する「島」

一見、何の異常も見られていなかったご老人が、ある日突然、急死した。
 その原因は、「島」の老化にあつた。
 3つの時計のうち体内時計は、たとえ脳卒中になっても被害がない場所にかくまわれている。腹時計の在り処も、老化が最も遅い小腸である。さて、「島」はどうだろう。
 大脳の表面から深く埋もれるように存在している。一見、特別に保護されているかのようにみえる。しかし、そこは脳動脈の枝分かれの、細い血管から栄養を受けとっていた。ここに落とし穴があった。実は老いやすい脳であった。
「島」が老化してくると、自律神経のバランスが崩れ、睡眠時の無呼吸が現れ、高血圧になり、いろいろな不整脈が現れてくる。なかでも右側の「島」が主役だとわかってきた。右側に脳梗塞がおきると、急死の頻度が高くなった。

人はなぜ老いるのか

 老いるとともに、脳のネットワークの協調が崩れ、多彩な症状が現れてくる。
 味覚の異常、渇き、息苦しさ、嗅覚の障害、嚥下が困難になる。言葉がなめらかにしゃべれない。さっき覚えた単語が思い出せない。喉まででかかっているのに、出てこない。いわゆる老年病が現れてくる。
 それゆえ私は、老いていく理由は、人の生き様の全てを見守っている、「島」の老化にあるのだろうと思っている。
「島」の設計ミスは、偶然だったのだろうか?
 神は敢えてそのように創造したのだろうと思う。答えを出せない課題が与えられることで、人は次の世代に対して期待を残すことができるからである。
 私は、心を含む生命とは、時間と生命と、それを包む宇宙との融合にあると考えている。それを融合するのが「心」である。時間と宇宙と心を科学する学問体系を、「クロノスフェア」と呼んできた。クロノス(時間)、ノモス(学問)、ノウス(心)、スフェア(宇宙)を圧縮した言葉である。
 人の一生は、宇宙の時間に比べれば、ほんの短い時間であるかもしれないが、幸運にもこの世に生を受けた私たち。そのひと時を大切にしたい。

 

 

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