道念

 

 昨今、信心を続けていくことの難しさを思い知らされることに数多く直面している。

 学会・宗門・法華講等にて、信者・同志を導いていく立場にある方々の道念無き行動を見聞するに付け、心が重くなり、気が萎えてしまうことが有ります。

 しかし、人のせいにしたところで何も解決するわけでなく、自分自身で解決していく以外に道はありません。こんな時ほど、家族・知人の励ましや勤行・唱題による気力の充実は嬉しいものです。

そんな中、昨年後半ほぼ時を同じくして発表された興味ある論文を読んだことを思いだし、皆様の参考にでもなればという気持ちで、筆をとった次第です。

 1つは昨年の9月1日号の継命に投稿された所謂本山側の僧侶笠松尊師の「現法門を考える」であり、もう1つは前継命編集委員・原島氏が7月1日号の大白法に書かれた「一切の罪を懺悔、晴れて登山叶う」である。

 「現法門を考える」の要旨は昭和52年当時から現在に至るまでのご自分の心境と見聞した宗門の実態を生々しく表現し、終わりに「色心の二法に照らし、皆様方の道念に再び正法の炎が灯ります事を、心より御祈念申し上げます。」と結んでおられる。

 「一切の罪を懺悔、晴れて登山叶う」は出生から現在に至るまでの信仰履歴が綿々と綴られたものであり、特に「52年路線」を廻っての池田氏との諸々の葛藤と昨年5月25日に本山に登山し、猊下とお会いしてお詫びを申し上げるとともに御内拝を受けたことの感激が述べられて、「私の生涯を飾る…私の懺悔滅罪登山記とさせて頂きます」と結んでいる。

 このように両者の立場が逆転し、まるで互いに相手の陣営に鞍替えしたかのようにみえる言動である。

 では、どちらに正義、道念があるであろうか?

 「現法門を考える」には副題として「近代の宗門を振り返っての一考察」とあるが、筆者には「平成の今、たった20年程度しか経っていない今」が近代と呼ばれるほど遠い存在なのであり、この表現の中に忸怩たる気持ち、焦燥感が漂っているのを私は読み取ることができた。少し穿ち過ぎであろうか? だがこのことは、論文中で「正信会の二の舞はご免だという臆病な気持ちに成り下がっていたのかもしれない」と素直に心情を吐露していることでも分かる。

 それでも筆を置くに当たって、例えれば清水の舞台より飛び降りた気持ちで「誰かが口火を切らねばならぬ事と存じ」と宗門内へ問題提起したことは、地湧菩薩の眷属として、日興上人の遺弟 として、当然といえば当然なことであろう。

 「そもそも僧とは何のために存在するのか?」をしっかり自覚して、窮鼠猫を噛むでも良いから頑張って頂きたい。

 これは正信会僧侶とて同じ事である。寧ろ、正信を標榜しているのだから、それ以上の道念と行動が必要であろう。

 しかし、「これは!!」と思える魅力ある僧侶に、ほとんどお目にかかれていないのは本当に残念である。私の目が濁っていて、私のみに見えないのなら良いのだが!!!

 いずれにしろ、もっともっと研鑚・修行に励み、我々信者の道念をかき立てる魅力ある僧侶に成長していただきたいし、若い僧侶をしっかりと育成していただきたいものである。

 原島論文には「血脈否定・宗門誹謗の現罰下り、苦しみの底にあえいだ日々」との副題が添えられている。論文タイトルと週刊誌紛いの副題だけを見れば、本文を詳細に読まなくても全て分かってしまうという代物でもある。

 池田氏との諸々の葛藤を乗り越え、正信会の機関紙編集に20年近く携わってきた原島氏がなぜこんなに、権威主義、伝統主義に落ち込んでしまったのであろうか? 私たちも「他山の石」と受け止めて心しなくてはならぬ事件だと思う。

 論文によれば三年前、糖尿病の悪化・鬱病・不安神経症が重なり勤行も思うに任せず、一切の現実が恐ろしくなったそうである。その原因を「私は、かって創価学会時代に、池田の共犯者となって数々の謗法を犯し、今また、十数年にわたって御法主日顕上人猊下への血脈相承否定という大謗法に加担した罪を、自身の身に当てて痛感しないわけには行きません」と分析している。

 このように私たちとの本尊観・血脈観が大きく逸れており、おかしくなっている。

 正信20年の道念は一体何であったのであろうか?

 私は原島氏が個人となった時の脆弱さ及び自立欠如の無責任さを原因とみた。

 組織の中枢にいて、その雰囲気に身を任せてきた人が個人となった時のエリート症候群、すなわち自分の本当の実力が分からずに組織の成果が自分の成果と思い込んでしまうそのような状況なのであろう。このような人は自分の力より伝統や権威に自分を阿てしまい勝ちなのである。最近、いろいろと不祥事を多発している官僚・警察・自衛隊の幹部など同じ穴の狢であろう。

 どのような人であろうとも、手継ぎの師を通し、家族や講中の人々と助け合いながら自身の信心を研鑚していく基本がないとこのような結果を招いてしまうのである。池田氏然り。原島氏然り。日々の精進、志が本当に大事だと確信する。

 講の大事さは、日常の行事等を通してお互いが損得抜きに助け合い・補い合う気持ちや行動を通して個々人の正信の道念を育てていく場で有るからである。異体同心を目指し、少しでも其れに近づけるよう皆で日々努力していかなければ秀吉の辞世の句ではないが、「夢の又夢」に終わってしまう。

 手元に菅野憲道師の書かれた「正信覚醒運動のめざすもの」という継命新聞社発行の小雑誌がある。内容の濃い大変優れた論文であり、未だ読んでない人には是非一読を勧めたいものである。

こ の中に「三大秘法と本尊観」という章があり、本尊観等が分かりやすく丁寧に論説されている。

 結論の部分で千日尼御前御返事』を引かれて「結局、大聖人を拝する、御本尊を拝するということは、肉眼による物理的な視覚に頼ることなく、正しい信仰心、本師大聖人への渇仰心によるものであり、仏を見るとは法を見ることなのです。」と教示されている。正に「一心欲見佛 不自借身命」であろう。

 ともあれ、我々も行動を起こしましょう。宗門問題等を解決するのは我々檀信徒の力しか無いことを確信して。

 

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