世界に必要な宗教


ラダ・ビノード・パール

 ある文明が崩壊すると、その破壊者に呼応して、今までよりもさらに高度の宗教が出現するものであるが、現代のあるすぐれた歴史家はこのことを指摘して次のように述べている。
「宗教を一つの馬車とするならば、天に向かって昇ってゆくその車の車輪が、すなわち地上における文明の周期的な没落であるといえるであろう。文明の動きは周期的・回帰的であり、宗教の動きは単一の連続上昇線をたどるようである。宗教の連続的な上昇運動は、誕生、死、誕生の周期をめぐる。そしてそれは、文明の周期的な運動によって動かされ、促進されるであろう」と。
 すべての人類にたいし使命をもつ高度な宗教が、人間の歴史の現世面に達したのは、じつに比較的最近のことに属する。幾多の文明が興亡の経験をたどって、長い旅をつづけているあいだ、これらの宗教は文明途上社会の間にさえ、あらわれてこなかったのである。
 宗教のなかに、神が全一なることと、人類がつねに兄弟であることの認識をもちこんだ人間の魂の光明なるものは、歴史上しばしばあらわれているが、そのうちで最も古いものは、詩仙・プラジャバティ・パラメスティンによって、インドの土地に芽生えたといわれている。彼は偉大なヴェーダ派の哲学者であって、彼の残した言葉を評して、かの大東洋学者たるマックス・ミューラーは、「心の無色の抽象物を言語に反映させるという最も偉大な試みのひとつ」であるといい、「言語が赤く色づく表現、しかもその色つきは勝利のそれであるような表現」であると説いている。このヴェーダ哲学者はその創造論を述べて、つぎのようにいっている。


「そのとき存在もなく非存在もなく、
大気の領域もなく、それを超えた天界もなかった。
何が覆われてあったのか? そして何処に。
また何が隠れ家を与えたか、そこにどんな水があったか、水の底知れぬ深淵があったか。
そのとき死もなく、したがって不死なるものもなかった。
いかなるきざしもなく、昼と夜のけじめさえもなかった。
かの一者が、呼吸することなくして、しかもおのずから呼吸していた。
それ以外にはいかなるものも存しなかった。
暗黒がそこにあった。
はじめは闇に覆われて、すべては分かちがたい混沌であった。
そのとき存在していたものはすべて空しく、形がなかった。
熱の大いなる力によってはじめて一者が生じた。
そのうちはじめに欲望が起こつた。
それは霊の最初のたねであり、芽生えであった。
詩仙たちは心のなかを探し求めて、非存在のうちに存在の種子を見いだした。
それらを横ぎって切断する線があった。
それより上に何があったか。またそれより下に何があったか。
そこには生む者があった、また力があった。
こなたには自由な行動があり、かなた上方には活力があった。
誰が真実を知るか。そして誰がここで告白できるか。
いったいいずこからそれは生じ、いずこからこの創造は来るのか?
神々はこの世界の生産よりあとに現われている。
しからばいずこからそれの存在が始まったかを誰が知るか?
この創造の始源者である彼。
創造のすべてを形造ったか、形造らなかったかのいずれにしても……。
その彼の眼は最高の天界でこの世界を支配している。
彼はそれを真に知っているか、恐らくは知るまい」
               (以上リグヴェーダ第十章、129の1から7まで)


 太初には何もなかった。存在も非存在も。実在も非実在も。ただ偉大なるエカ、偉大なる一者のほか何もなかった。それは純粋なる、抽象的なる、不滅なる存在者で、始めもなく終わりもなく、つねに一者で、不可分かつ完全であった。ところがこの一者は、スヴァダすなわち自然を侍者としており、気ままで勝手な存在者ではなかった。
 この詩仙の哲学のなかに、われわれはヴェーダにおける進化の観念をたどることができる。存在者の一般的な進化の過程は、単純から複雑への分岐であり、無形の素質から多様な異質への分岐である。それは部分の最大の類似と、最深の相関とを伴っている。哲学者はこのことを次のように表現している。「一者すなわち完全な全体から、偉大な単一者の、いかなる再分化も行われなかった以前に、諸部分の分化と分離が行われた」と、そしてこれらの諸部分は、明確で具体的な諸単位、もしくは発展充実した諸完成体にまで、発展する傾向をもっている……と。
 パラメスティンは人間知の相対性の理論を説いている。そして不可知なるものの可能性を暗示することによって、不可知なるものの実在を認めている。「誰が真に知るものであるか」と彼は問うている。「そしてどこからそれは生じたか、どこからこの創造が起こるかを、ここで言明しうるものは誰であろうか?」、いな「神々でさえもこの世界の創造よりおくれてあらわれている。しからばどこからそれがあらわれたかを知るものは誰か?」この間題は解決できないものでなければならない。端初は不可知でなければならない。だがそれはいったい知りうるものであろうか。多分、この世界を支配する最高の神がそれを知っているであろう。しかしまた、彼すらも知らないのかも知れない。それは知られず、また不可知である……からである。
 このわれわれの知の相対性の原理は行動と思想とを、制限するという効果をもっていた。そして義務の形而上学的基礎と、権利の究極の保証とを提供した。しかしパラメスティンのみがこの相対性の教説を説いたのではないことを、記憶しなければならない。リシ・ヴィスバミトラやリシ・ディルガタマスなどのような、他のヴューダ派の詩仙たちも同様の考えをもっていたのである。これらのヴエーダ哲学者のうち、あるものはさらに歩を進めて、「知られざるものの意識に対し、また不可知なるものの意識に対し、意識にとって知的には不明瞭な何ものかが付加される」と言明したのである。
 ここでついでに考察してもよいことであるが、ヴィスバミトラは現存する世界秩序に抗して、彼自身の世界を創造したという説話が、インド神話のなかにある。
 じっさい、人間は彼自身の世界を、彼自身の内部から要素をとり出して、創造することができるものであって、決して彼の環境とか経験とかからではないのである。
「これは都合よくものを利用しょうという問題ではなく、物質的な現実などはたんに口実にすぎなくなるような、まったく新しい知的な構成力の問題である。ひとは彼の感覚に知覚される事実とか、彼の分別できる宇宙とかの背後に、彼に考えさせ、彼の経験を解釈させ、そして結局は第一者を支配させるために不可欠となるもう一つの別の観念界を発明する。彼が火、雷、稲妻の背後に恐るべき生きた実在を創造したごとく、まさにそのように、また狩猟の魔術″を創造したというように、彼はついに観念の魔術を創造し、かの動物の先祖から進化した実在よりもさらに偉大な実在を、その頭脳から生まれた宇宙に与えるのである。これこそは厳密に人間の世界であり、純粋観念の世界であり、道徳の世界であり、霊的観念の世界であり、美的観念の世界である。
 人は神によって意志され、意識と自由のたまものによって責任の一端を、神から与えられている。したがって、人は彼のできる範囲内で動物界には禁ぜられている非物質的世界を彼自身で創造するということで、かの創造者と括抗する力をもっている。この非物質的世界たるや将来、彼の関心を奪い、彼を熱中せしめるものに違いないものである」。
 ところで世界が経験した悲しむべき事実は、神の全一の認識を生み出す人間の魂の照明そのものが、また同時に、これらの魂を宗教の名のもとに、不寛容と迫害という致命的な罪におとしいれる傾向がある――にあるこのことが人間歴史の最も鋭い皮肉の一つであるということである。
 この事実に対する説明はおそらく次のようであろう。全一という観念を宗教にあてはめることが、最初にこの観念にめぐりあった精神的開拓者たちを感銘させ、この観念の卓絶した重要さを絶対的に確信させた。そこで開拓者たちは、自分らの考えを後継者たちに巧みに押しっけて、それをただちに実現する見込のある近道がありさえすれば、すぐにもそれへ跳びこむ癖があった、というわけである。
 だが解釈はともかくとして、全一の名のもとに行われた不寛容と迫害との大罪は、はとんど例外なしに、そのいやらしい容貌を呈してきた。「より高級な宗教」が発見され、形成され、説教される場合には、いずこにおいても、またいつでもそうであったのである。
 しかしながらインドのヴェーダ的アリアン人の信用のために、次のことがいわれなければならない。彼らは全一感を宗教に押しっけてその結果、精神上の大罪をひきおこすようになることをうまい具合に許さなかったのだと。この精神上の大罪なるものは、インド以外のはとんど各地において、宗教上の不寛容と迫害という形で、押しっけによってひき起こされたものなのである。
 現代の偉大な思想家であるオルダス・ハクスレーは次のように指摘している。イスラム教徒のやってくるまでインドには事実上迫害がなかったということは、この上もなく重要な事実であると。
「七世紀の初め、インドを訪れて十四年間滞在したときのくわしい記述をのこしている支那の行脚僧ヒュエン・チャン(玄奘)は次の事実を明らかにしている。すなわち、ヒンドゥー教徒と仏教徒とは一緒に住んでいてもなんら暴力沙汰を起こさなかった。彼らはおたがいに、一方が他方を改宗させようとしたが、そのための手段として用いたのは、説得と論争とであって、力によるものではなかった。ヒンドゥー教も仏教も、決して宗教裁判に該当するような何ものによってもそこなわれてはいない。また欧州の十字軍のような非道や、16、7世紀の宗教戦争のような犯罪精神病などの罪に問われることもなかった」
 だがヴューダの宗教はさておき、なに人も仏教にたいして、この異常な寛容の徳を否定することはできない。
 オルダス・ハクスレーはいう。
「インドの平和主義は、仏陀の教えに完全に表現されている。仏教もヒンドゥー教と同様にアヒムサ、すなわち生きとし生けるものを害わないということを教えている」
 世界のあらゆる偉大な宗教のなかで、ただ仏教のみが、迫害も、検察も、宗教裁判もなしに、栄えていった。これらすべての点で仏教の経歴はキリスト教のそれにくらべて、ひじょうに優れているということができる。
 キリスト教は軍国主義と結合した民衆の間で栄え、旧約の野蛮な青銅時代の文学に訴えることにより、信徒の血に飢えた性行を正当祝することができたのだ。仏教徒にとっては、怒りはつねに、そして無条件的に恥辱である。エホバを神と同一視するように訓練されたキリスト教徒にとっては、「正当なる義憤」というようなものがある。この義憤が正当なものでありうるということのおかげで、キリスト教徒はつねに戦を起こしたり、この上もなくいまわしき虐殺をおかすことを、正当と思いこんできたのである。
 ノースロップ教授は、いかにして仏教が心の平静を得る道を示しているかを指摘している。仏陀はここに現にあるところの、はかない、死すべき運命をもった有限の事物のなかに坐して、その目を半ば閉じ半ば開きつつ、心の真の平静を得る道を精細に示している。
 仏陀の教えには各人の直接経験に含まれていないものは一つとしてない。仏陀はこの点から、そこにあるいろいろな要素を指摘し、あるがままの人生のはかない現実に直面するために、この実際生活においてこれらの要素が提供する原動力を明らかにしている。さらに仏陀はこのようにして情緒的な、審美的な、したがって本質的に精神的な、満足を得ることが可能であることを発見し、それによって、われわれの愛するものの死のみでなく、他の有限な一切のものの死に対して心構えをもたせてくれた。またあらゆる被造物、人間や動植物にたいする深い、悲劇的といってもいいほどに深い同胞感を、われわれにもたせることによって、仏陀はわれわれに独立独歩の仕方を教えてくれたのである。
「われわれが理解できないような何らかの方法で、外部から突然われわれの生活のなかに入ってきて、きまってわれわれを奴隷にするような、超経験的な手品などというものはありはしない」とノースロップ教授はいっている。
 仏陀なくしては人は完全な道徳的宗教的な生活に達しえないということはない。明らかにその本性上、われわれが責任をとることができないような、遠い過去に起源をもつ罪(人間の原罪)が、われわれに課せられていて、つねにわれわれの重荷となっているというようなこともない。その結果として、仏陀がわれわれのために苦しみを受けたとか、死んだとかいって、われわれをして永久に仏陀に負目を感じさせたり、それをもって仏陀の財産にするというような、自己犠牲の過度な正義感も、なんの権利も、仏陀の側には存荏しない。仏陀の人間生活にたいする権利は、たんに一人の有限な人間の権利にすぎない。彼はそれ以上何も要求しなかった。彼は徹底的な現実主義と、最も冷静な合理主義をもって、ただ、あらゆる有限な被造物にふりかかる不可避的な死が課する人間と自然物の不幸にたいして人の関心を呼び越こし、人とともにこの不幸に同情をもつにすぎないのである。それと同時に仏陀は、事物の本性内の他の一つの要素と、それの存在とを知り、これを啓発することによって生ずる審美的な観賞や、魂の滋養や感情の平静に関する実利的な結果とを指摘している。仏陀が、名目上といいきれなければ精神上、他のいかなる世界の宗教的指導者よりも、より多く地上の住民たちの感情と愛情とをかちえたということは、不思議ではない。
 彼は他の諸宗教をしりぞけたり、被壊したりするよりも、むしろ寛容な態度で、友誼的にこれらと結び、また彼みずからそれに溶け込むことによって、献身をかちえたのである。「インドのヒンドゥー教は紀元前660年このかた、そのかなりの部分、内部における仏陀の改革のおかげで、今日のごとき隆盛をみている。中国、朝鮮、日本、モンゴルの文化は、儒教的、道教的、神道的なものであると同時に、仏教的なものである」
 仏陀の教養ある後継者のなかには、知的な事物や美的な事物を鑑賞するものも起こつた。これとても、包容的な態度であって、じつさい、自分の宗教上哲学上の教義以外のものを積極的に歓迎するということであり、またそれに伴う寛容心であって、事物の本性中の神的な要素が真に文字通り、たんに全人類にのみでなく、あらゆる美的な自然物のうちにも存するということを主張する人にとっては、ふさわしい精神である。
 これこそ戦争によって破壊された世界が、是非とも必要としているものである。世界は教育体系としての宗教を必要としている。それによって、人類は自己を訓練し、その結果は自分自身の人格を望み通りに変化せしめ、次に社会を望み通りに変更し、かくして自覚を高め、彼ら自身と彼らを構成している宇宙との関係を、さらに適切化することができるようになるであろう。

 

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