大日蓮6月号掲載

  尾林師の諭苑≠読んで物思う


                             大橋 一法

 兵衛志殿御返事に云わく

「千年のかるかやもー時にはひとなる。百年の功も一言にやぶれ候は法のことはりなり」(新定1、740頁)

最近、大日蓮を読むたびにこの御文が身に染みて思い出される。

 行学講習会の時に阿部教学部長に教わり、数学部長ともなればよく知ってるものだなあと感心し、学林では尾林さんに教わり、文証を黒板一杯に書かれ、よくこれだけ文証を引けるなあ、御書が心肝に染まるというのはこういう事を言うんだろうな、と思ったものであったが、最近の大日蓮を読んで、今はそんを気持ちは跡形もなく消え果ててしまった。それのみか。最近の大日蓮には衰れさを感じる。なぜか、泣きべそをかいた子供が相手から離れた所で、”お前の母さん出べそ!”と言っている光景が目に浮かぶのであるが、それは私一人だけであろうか。

 在勤教師相手に真面目な論議など出来ないというところであろうが。今の宗門内の意識にあっては尤な事と、同情を禁じ得ないものがあるが、さりとて対等に論議し合えるはずの非正信会の在勤教師が全く反論出来ないでいるのであるから、これ総べて、上一人の不徳の致すところと言えよう。

 阿部師に随従する在勤教師諸師は、師と仰ぐ日顕上人が在勤教師会及び正信会の質問の文々句々に答える事が出来ないでいる姿を見て、弟子分として平気でいられるのであろうか。師に降り懸る火の粉は、弟子が身を挺しても振り払うべきと思うが、如何なものだろう。師の衣の影でこちらを見ているような弟子に非ず。尾林さんも引用されているが

「弘長配流ノ日モ、文永流罪ノ時モ、某外諸所ノ大難ノ折節モ先陣ヲかけ、日蓮に如影随形せしなり誰カ疑ヤ之ヲ乎」(新定2718頁)

を何と拝するつもりなのであろうか。一つ先陣を走けて戴きたいものである。

 さて、大日蓮6月号の尾林さんの論苑を読ませて戴いたが、内容的には、行学講習生の課題論文の域を出たものではないようである。

 大日連5ページを割いて、「常随給仕と血脈相承」と大層大袈裟に銘打っておられ、尾林さん独特の羅列式文章であるが、随所に問題があるものの、要は、日興上人が大聖人に信伏随従″常随給仕″をされた事によって血脈相承を受けられたものであって、その日興上人の振舞いが正宗伝統の信心である。故に日顕上人は日達上人に20年の長きに渡って常随給仕をされて相承を受けたのであつて、我々は、日顕上人に信伏随従、常随給仕するのが正しい信心である。というものであろう。

 全く素晴しく説得力のある論理の展開であるが、しかし、こういう単純を理論の立て方であれば、阿部師が日達上人に常随給仕しなかったという証拠一つを挙げるならば、この論苑の言わんとする事が、根底から壊れ去るものと私には思える。

 日興上人の常随給仕のお姿にしても、弟子の中で一番時間が長かったというが如き単純をものではなかろう。論苑と言う限りに於ては、常随給仕にしても、外相の面と内証の面との立て分けをされた上で論を進められた方がよかったのではなかろうか。

 余分な事だが、その立て分けを、流転・還滅、宗旨・宗教、と在勤教師会が言っているのであって、その語が理解出来なければ、一往・再往・総・別・当分・跨節とでも理解されたらどうであろうか。

 そこまでの論究がなかった為に、なんとか阿部師に相承が有るという事を論理付けたいという努力は分るが、反対に、外相の上に於いて阿部師が常随給仕していなかった現証を示せば、阿部師への相承が否定出来る結果となってしまった。布教師の論苑にしては全くお粗末としか言い様がない。阿部師の相承否定の手助けをしてくれたようをものである。

 どうしても阿部師が相承を受けたという事にしたいのであるならば、現実の面(外相)と、法門の面(内証)との立て分けを頭に置かれて、書き直される事をお勧めしたい。

 さらに又尾林さんは常随給仕を取り上げて、常随給仕のない五老僧には血脈が無く、肝要の法門がどれ一つ伝わっていない、と言うのであるが、それは当然、正信会及び在勤教師会には肝要の法門がなく、阿部師を中心とするところに存在すると言いたいのであろうが、それならば、その肝要の法門をご教示願いたい。尾林さんの論苑一つを見ても、肝要の法門らしいものは窺い得ない。

 そろそろこの辺で、尾林さんから、「御書の底に一貫して流れる本迹種脱の勝劣″四重の興廃″三重の秘伝″宗旨の三箇″等の肝要の法門から、(この仲間に、師弟子の法門″なども入れて欲しいが)阿部師への相承の有無、血脈相承とは何か、というものをお教え願いたい。それは、正信会に対してただ単に、正宗の信心から外れていると言うだけでなく、正信会の質問に明解に答える義務があると思うが如何なものであろう。

 大聖人の法門に就いてまだ何もかも分からない私が見ても、在勤教師会が書いたものの中には、一念三千の法門、師弟子の法門、己心内証の法門等の上から血脈等が論じられているように思える。もしそれが、阿部師のところに伝わる肝要の法門から見て、正しく伝わっていない見当違いのものであるならば、その正しい信仰に則る尾林さんに、逐一、破折顕正をお願いしたい。尾林さんの論苑では、日達上人を大聖人、阿部師を日興上人に擬しておられるようであるから、一つ尾林さんに、三位日順となって戴いて、五人所破抄ならぬ、在勤教師会所破抄なるものでも著わして戴きたいものである。

 五人所破抄を見習えば、少くとも、日顕上人に村する相承を信じないものには返答しないとか、日顕上人に相承があるのは現然たる事実であるとかと言う事にはならないだろうと思われる。大いに期待したい。

 さて、論苑の内容に就いても、指摘しをなければならない事が数限りなくあるが、今は、この論旨とは全く関係なく、「ともあれ云々」として突然引っばり出され、結論とされている事に就いて少々思うところを述べてみたい。

 ともあれ、この結論には開いた口が閉がらない。先に行学の課題論文と述べたが、この結論では、行学講習生に対しても申し訳なく思う程である。

 戒壇の本尊は、百六箇抄に「本堂の正本尊と為す可き」とあるから究極の本尊であるという結論であるが、全く問題の本質が掴めていないと断ずる他ない。何も、正信会は数多く存在する御本尊の中の究極・第一番とかという話をしているのではない。又、「正本尊と為す可き」本尊だから究極の本尊と書いて平気でいられる尾林さんを、本当に正宗の坊さんなのかと疑わぎるを得ない。広宣流布を目的とする創価学会の発想としか言い様がない。”創価学会の坊さん”と言われる所以であろうか。少し贔屓目に見れば、故意に、この論苑を読む者に、正信会には万年講の如き、戒壇の本尊とは別に 「本堂の正本尊と為す可き」本尊があるか如く思わしめるところに目的があると言えようか。何れにしても、正常な僧侶の文章とは思えない。

 尾林さん自身も 「曲がれる心をもって、節穴からものを見ると結局、すべてのものが曲って見えるのである」と述べているが、実にその通り。正信会を「日顕上人と創価学会に対する怨念と、宗門への野心と策謀という不純に染まり」「信心のない在家の狂学者や悪徳弁護士の熱烈なる支持者となりさがっている」という「曲がれる心をもって、節穴からものを見」ているから、血脈相承を否定し、戒壇の御本尊を否定するかのように曲って見えるのである。気持ちを落ち着けて、素直に見て戴きたい。

 節穴から見ている証拠に、尾林さんが、「本尊の法体」という語で戒壇の本尊を表わしているようである事が挙げられよう。「本堂の正本尊」であるから究極の本尊とするのと軌を一にしている。未熟な私から見ても浅見と言わぎるを得ない。

 されば尾林さんは、当体義抄(新定1015)の「問フ妙法蓮華経トハ其体何物ソヤ乎」の問に対して、「板本尊也」とでも答えるおつもりなのであろうか。又、寛師が文底秘沈抄(学林204)に、「問う、若し尓らば其の法体の事とは何。答う、未だ曽て人に向って此くの如き事を説かじ云云」と言われている事を何とするつもりなのであろうか。

 「十界ノ依正即妙法蓮華経之当体也」(当体義抄)をよくよくお考え戴き、さらに、「我等信受此本尊奉唱南無妙法蓮華経我身即一念三千ノ本尊蓮祖聖人也」(本尊抄文段、研教8-868)・「事の一念三千は迷中の事なり、其の故は妄情の十界即本有無作の覚体と云ふなり」(三大秘法口決裏書・聖典377)の上から、「本尊の法体」さらに、「究極の本尊」についての尾林さんの概念を一日も早く訂正される事を望みたい。その為にも、在勤教師会発行の 「事の法門について」等を熟読される事をお勧めする。

 何はともあれ、尾林さんは御書等を数多く引用羅列されてはいるが、本当に理解しているのだろうか疑わぎるを得ない。それは、「暗者ハ守ル其ノ文」と同じであるとしか言い様がない。一度、一切文を引用せず、文章を書かれてみてはどうであろうか。

 最後に、大日蓮6月号論苑は初信者の為の法話″であったと、訂正文を大日蓮に掲載される事をお勧めして、勝手放題書かせて戴いた筆を置きたいと思う。

 

 

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