「御相伝の大事」を拝見して



成田 詳道


は じ め に


 内弁慶な時局法義研鑽委員会殿、せめて論義の歯車だけは噛み合わせて論じて下さい。時局法義研鑽委員会という仰々しい名前を、どなたの趣味でつけられたのか知りませんが、端的に見て正信会や在勤教師会に対する反論委員会と推察いたします。しかるに的外れな自画自讃の感想文を発表していたのでは、大事な時局にとり残されてしまいます。「正信会や在勤教師会の己義・我見にまどわされることなく、戒壇の大御本尊と御相伝の仏法の大事を顕彰していかなければならない」と調子をあげる前に、まず明確に己義・我見と決めつける理由を指摘し、その上で正義を立てて破折して下さい。威勢の良いわりに、失礼ながら随分と思い違いをされていることが多いようです。当方の論文を引用しても一向に破折にならず、自問自答や感想に終ってしまっては、とても要旨を顕彰することは無理かと思われます。文中でも「戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相伝を厳護していくことが我ら日蓮正宗の僧俗の使命である」と虚勢を張っておいでですが、「戒壇の大御本尊を蔑み、唯授一人の血脈を否定する」と蔑視する正信会や在勤教師会の論文を、読み損ってピントがずれてしまっては破折になりません。もっとも当世流行のAB問答の筆者B師の如く、相手の説を引用しながら自説の如く解説されるのは更に因りますが。

 此の論文は四項に分けてありますので、各項ごとに感じたことを述べてみます。但し、以前から述べてきたことを再び書くのは紙面の無駄です。そこで今迄と重複するところは省略し、著しい独断と新たな誤りと思われることのみを簡略に抽出いたします。

 

 

(1)「非学匠は理につまらず」

 初めに正信会や在勤教師会は主義主張をコロコロと変えてしまうので論理に行き詰まることが無い(趣意)″と仰せですが、冒頭から聯か虫の良すぎる見解ではないですか。当方の質問や論文に対して、貴方達は理論を以て正式に返答・破折をされたことがおありでしょうか。内輪向けの感情に激した文章を垣間見たことはあっても、理路整然と破折、或は見識を述べた論文には一度たりともお目にかかっておりません。また、正信会や在勤教師会は勿論、貴方達を含めて今の宗門に学匠と呼ばれる方がいるかどうかは知りませんが、これでは学匠ならずとも論理の詰まりようがありません。余談ながら現在は七百年間の宗門史上稀にみる人材不足、不勉強の時代です。だからこそ互いに我執を捨てて、真剣に切磋琢磨すべき時なのです。久保川師の擯斥経過にしても余りにも不条理なものでした。同師の論文の是非を充分に論義し検討した結果、異流義と判断したのではなく、当時正信会の中心的立場にあった宗会譲長の久保川師を除くことが目的という、多分に政治的要因の強い処置であったことは明白です。これは先に在勤教師会で出した 「主張並に要求書」にも述べた通りです。「太平の眠りを醒ます蒸気船たった四杯で夜も眠れず」ではありませんが、同師の論文が、それ迄太平を貪っていた宗門を驚愕させたことも事実ですが、大石寺伝灯法門を再確認すべき緒(いとぐち)となったことも又事実です。宗祖も「書は言を尽さず、言は心を尽さず」と仰せです。されば問答無用と擯斥に処し、その後は我々の要求にも答えぬ宗務当局の姿勢は、宗祖の御心に大きく背くものと思われます。

 「その場かぎりのことばや刹那的を発想論稿が多く、また、自己の妄執、我見に執われ激昂した感情的な論文云云」在勤教師会の論文を斯く避難されておりますが、思わず笑止千万の語が口を突いて出てきます。それほど手厳しい御見識をお持ちであれば、具体的に例をあげてその論拠を御指摘下さい。それをなさらず思いつくままに憎悪の語を連ねるならば、それこそ刹那的であり激昂した感情的な論文であります。曽て宗務当局では「宗旨・宗教、流転・環滅等の語は当家には無い」と断言されました。しかし、それから数ヶ月後には他家の解釈を以てそのまま当家の説明に充てたことをお忘れですか。何が何でも当方の意見は否定し、然る後に遣繰算段するという当局の自転車操業ぶりが目に浮びます。此等は我々の創造語ではなく卸歴代が使用された語です、能く能く検討されてから否定して下さい。

 また、次項に『事の法門について』を評して「彼らは己心に偏重し、外相を軽視している」と仰せですが、これも的外れです。我々は、明治以降の教学が外相中心で内証己心を軽視しがちな欠点をもち、それを矯正すべく提言を致しております。然るにその部分のみを捉えて己心に偏重とは驚きました。たとえば左右を比較して、右が強すぎて左が弱い時に左を補強するのは当然です。しかし、そこを捉えて左に偏重すると批難することは、自己の妄執、我見に教われていると言えましょう。

 


(2)「御相伝の大事」

 題名から判断して、相伝の要旨に就いて講義をされたのかと思い、謹んで拝見致しましたが見かけ倒しでした。看板に偽りありと迄酷評は致しませんが、せめて標題を「御相伝は大事!」とか「大事な御相伝」とでもされた方が函蓋相応ではなかったでしょうか。特にこの項では「相伝仏法」「相伝法門」等々、数ヶ処に及んで子細ありげに叫ばれておりますが、本音の処は「唯受一人の血脈相伝」と判断致しました。唯受一人の血脈が本宗の信心の根本であることは、我々としましても誰一人否定致しません。しかし猊下一人のみに血脈が伝わるのだから猊下に絶対服従をせよ″という貴方達の趣旨に賛同することはできません。これも従来主張し続ける通りですので省略致します。但し、その違いを記すならば本来、唯受一人の血脈とは貫首の専制君主的行政や貫主無謬を意味するものではないということです。又、貴方達は口を開けば卸法主上人御法主上人と壊れたレコードの如く叫びますが、総てを猊下の名のもとに屈伏させようとすることは、自己の責任を回避した御都合主義です。三葉葵の印籠を出し、権威権力をもって「この紋所が……」と叫んでみても、乱用したのでは九官鳥が「オタケサン」と叫ぶよりも虚しいことです。大聖人の為さることなら何でも正しいというのではなく、大聖人の御振舞いが正法正義に叶っているから正しいのです。宗門も同様に正法正義を実践してこそ日蓮正宗たり得るのであり、その看板に胡座をかいて実が伴わなければ老舗三越の轍を踏むことになります。猊下や日蓮正宗の名前だけが正しいと思うのであれば、それは大衆不在の独善です。「人を信じて法を信ぜず。また世間の人々の思いて候は、親には子は是非に随うべしと、君臣師弟も此くの如しと。此等は外典をも弁えず、内典をも知らぬ人々の邪推なり。外典の孝径には子父臣君諍静うべき段もあり、内典には棄恩入無為真実報恩者と佛は定め給いぬ。――賤み給うとも小法師が諌暁を用ひ給はずば現當の御欺きなるべし」との御金言を徒やおろそかにせず、真摯に拝読すべき時と思います。

 



(3)「師弟一箇の本尊」

 「現実には師弟にはおのずから上下・差別があるのであるから『師弟一箇』という語は適当ではない」と言われますが、本尊の内容に就いて説明をしている時に、いきなり現実世界の形態にあてはめて考えたのでは話にをりません。「石が流れて木の葉が沈む」という俗諺を、貴方達はいかように解釈されますか。現実は石は重くて流れず木の葉は軽くて沈まないので、この諺は間違いであると否定をされますか。これは物事が逆になり正常さを失ったことを意味しますが、まるで現在の宗門状況を言い当てたかのごとき諺です。

 「師弟相対十界互具の事の一念三千の事行の妙法蓮華経」とは、大聖人の悟った妙法を日興上人が受持、感得したところを称すのであり、これ総て内証の世界を語句で表現したものです。然るに貴方達のように、これを文字の通り現実世界の形態にあてはめて考えてしまうならば、師弟相対という意義も、単純に大聖人と日興上人が向き合って対座しているようを場面を想像するのでしょうか。さらに師弟一箇の語になると、ますます混乱してしまうのであり、基本的に歯車の回転する場所が異るのですから当然噛み合わさることが無いのです。

 このように安易を考えを以て総てを判断するならば、現今の混乱も至極当然と言えます。我々は稍もすると、権力や金や物のうづまく現実の外相世界と混乱し易い故に、師弟相対とは己心内証の世界であることを確認する意味で師弟一箇と表現したのであり、師弟ともに余事余念を絶した信心の世界についての話を法門というのではないですか。それをわざわざまた現実の世界に戻して論ずるから余計に混乱するのです。「(現実では)師弟而二がなければならない」とも仰せですが、現実の人間の世界は必ず師弟而二なのです。現実世界の形態を還滅門に持ち込んで考え、内証において使用される語句を現実の形態で理解しようとすれば混乱することは必至です。まずは仏教の初門を学び、時節のイロハを弁えて、それから批判を始めていただかぬと自分自身の歯車は勿論、当方との歯車も空回りして議論がさっぱり進行いたしません。

 「(戒壇の大御本尊を)師弟一箇の本尊と命名するのは不適当であろう」命名するなどと大袈裟を表現は止して下さい。戒壇の大御本尊は戒壇の大御本尊でありますから、戒壇の大御本尊の尊称で良いのです。しかし、これも宗務当局の見解では戒壇の大御本尊の否定になるのでしょうか。抑も師弟一箇の内容を理解できないから、初めは「適当ではない」と言い、次に「不適当といわざるをない」更に 「不適当であろう」と自問自答した揚句、「何の理由あって「師弟一箇の本尊」などと法義に外れた意義づけなして称する必要があるのか』と結論を出しています。前述の通り尊称は戒壇の大御本尊で良いのです。それを法義に則って説明する時に「師弟一箇の本尊」という表現ができるということです。今日戒壇の大御本尊という尊称は在りますが、その説明は極めて不明瞭といわざるをえません。そこで御歴代の残された書を読み返して斯くの如く説明をしているのです。初めから文章や表現の一文一句に固執して批難されず、内容を把握確認したうえでその語句の是非を論じて下さい。



(4)「人間日蓮」


 『「人間日蓮」という表現は当家の信仰上正当ではない。他宗の者達や信仰の全くない人間のいうことと同じである』 これも乱暴が過ぎます。

 百歩譲って質問致しますが、大日蓮編集室発行、山峰淳氏著「堀日亨上人校閲日蓮大聖人とその教え」の末尾に掲載された感想文の筆者、正教寺住職・奥法道師は当家の人ではないのですか。師は「更に人間日蓮が本仏日蓮と発迹顕本せられた龍の口の巨難に於て、大聖人の尊厳をもっと詳細に各方面から論述し説明され」ることを望み、又積極的に人間日蓮、上行再誕日蓮、本仏日蓮等のたて分けをより明確にすべく指摘されています。これも信仰の全く無い人間のいうことなのですか。堀上人が校閲し、日淳上人が序を識されて当家推薦の書かと思わせる本の末尾に、当家信仰上好ましからぬ感想文を載せているとすれば、大日蓮編集室(佛書刊行会)は即座にこれを抹消し、読者に謝罪表明する責任があります。

 此の項でも自問自答した揚句に大英断されておりますが、能く理解できず速巡されたまま結論を急ぐから的外れな返答になり、ひいては大先輩迄侮蔑するはめになるのです。

 釈尊にしても印度応誕の釈迦牟尼、法華経久遠実成の釈尊等のたて分けがあります。まして当家では六種の釈尊を立て、大聖人といっても同様に種々の立て分けがあることは、今迄に何度も述べてきたところです。六巻抄の引用文を幾つ並べるのも勝手ですが、そのたて分けがつかず解釈が同じならば、寧ろ少ないほうが読み易いというものです。

 



おわりに


 誠実温厚を高橋信興師らしからぬ乱暴を文体に、阿部師はじめ数多くの朱筆が入れられたであろう原稿を想像します。しかし、そのわりにはずい分低調であり、高橋師個人の混乱も未整理のままであるうえ、読解力の無さを露呈してしまつた観を否めません。

 概して貴方達は当方の論文が理解できてもできなくても、結論としては、これを何が何でも否定することだけが必須条件のようです。これでは完全に御用教学の域を出ることもできず、所詮は真剣相手に竹刀で臨むようなもので全く迫力がありません。それを補おうとして使うのが御法主上人御法主上人の乱発であり、これが貴方達の唯一のパターン化した逃げ口上です。これでは金と力でしばった身内をおさえることはできても、他の人を納得させることはできません。折角法義を研鑽なさろうというのですから、法務御繁多とは存じますが、いま少し当方の論文を能くお読み下さい。お持ちでない方には御送り致します。それでなければ何時迄経っても反論にはなりませんし、時が経てば経つほど歯車が噛み合いません。そこで今回は論文ならぬ感想文を記しました。意をお汲み取り下さい。

 余談ながら、先日或る学会大B長から「日蓮正宗の猊下も紫の衣を著られるのですか」と質問をされました。私はすぐに否定をしましたが、聖教グラフの新春合併号の見聞きを見た限りでは確かに薄紫の衣を着けた阿部日顕師が写っておりました。「おそらく光線の加減でしょう」と返答し直しましたが、「瓜田に履を納れず李下に冠を正さず」とは古人の訓戒であります。柵を立てて山外を見張るのも結構ですが、内部の定期点検も忘れないで下さい。阿部師に阿諛した御用教学の呪縛からのがれて、より一層の法義の研鑽をお祈りします。

 

 

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