富士の立義と血脈相承についての私見(上)

                  

 

池田 令道


は じ め に



 周知の通り、正信覚醒運動は、昭和49年頃より次第に表面化した創価学会の謗法行為に対して、日達上人をはじめとする宗門の僧俗が、700年来の富士の立義をもって破邪顕正の折伏を展開したのが始まりである。

 しかし、それは日達上人遷化の後、とってかわった親学会の阿部執行部によって弾圧され、遂には「本宗の教義及び信仰の根幹をなす金口嫡々唯授一人の血脈相承を否定する」という嘘言を付され、全員擯斥の強行処分をうけるに至った。

 「血脈相承を否定する云云」は、昭和55年12月の久保川尊師の論文に端を発するものだが、この論文が富士の立義に照してみて何等異説にならないことは、現在までの正信会有志及び在勤教師会の諸論文によって、次第に証明されつつあるようである。それにひきかえ、当局側の主張は、久保川尊師を擯斥するにあたって刊行された「久保川論文の妄説を破す」の一篇にとどまり、その混乱や錯誤が指摘、破折されてからは、一向に破折論文らしきものは発表されていない。阿部日顕師の講習会での指南、大村教学部長の支院長会議での発言等は、反論というよりは、むしろ批難中傷に属するものであったが、それについても幾つかの具体的を項目を設けて不審を呈し、且又破折を加えた。(最近暁鐘誌を賑わしている大橋師のAB問答に至っては、自讃毀他が過ぎて、当局側も手放しでは喜ばれてないようである。論旨も支離滅裂である)

 つまり、当局側における具体的を反論は、論争がはじまるや否や、手品ではないが跡形もなく姿を消してしまったのである。

 その代りに登場したのが 「無相伝・無信心の族」という我々への罵声と、血脈の 「貫主絶対・貫主帰依」という日顕師への最大級の讃辞である。

 日顕師が我々に対して 「歯牙にもかけをい」といわれたのは言葉の上だけのことで、それとは裏腹に昨年の大日蓮記の巻頭言には、とうとう1月から12月まで一度も欠かさず猊座の尊厳″とか 師に帰依する信心″という見出しが付けられて、血脈の貫主絶対がヒステリックに訴えられていた。

 側近方の血脈観はさておいて、当局側のそれについての基本的を考え方を提示してもらうには、やはり、日顕師自身に語って戴くのが一番よいだろう。

「私としては、君達にこのようをことを申したくもないのでありますけれども、今日、百数十人の者どもが変なことを言っておりますが、その中心は日達上人にはだれにも相承をされた形跡がない。故に阿部日顕師は法主・管長を詐称しているんだ″などというばかげたことなのであります。しかし、もしも日達上人が相承をなさらなかったとすれば、どうなりますか。彿法は絶えたことになるではありませんか。日達上人がもしもそのことをなさらないで御遷化になったならば、本当に彿法はなくをっているわけです。(中略)もしもなくなったならば、大聖人は佛様ではないということであり、末法の一切衆生を成仏させることはできないということになるのであります」

まことに単純至極を発想ではあるが、これは富士の立義にはない妄想である。日達上人から自分に相承がなければ、大聖人も仏ではない。一切衆生も成仏できない。というのは当家の血脈観からはずれているばかりか、本末主客の顛倒、師敵対の謗法である。これ程明確な大聖人不信の言辞に対して、当局側には誰れも諌めるものがいない、諌めるどころか追従一筋のようである。これでは真面目な法義論争を要求する方が無理なのかもしない。

 しかし、問題の争点が、宗内においても、また裁判においても血脈に関わっている以上、そして更には、日顕師の意をうけた当局側の主張が丸一年にわたって、相も替らず「血脈の貫主を否定するものは異流義である」もしくは「口達上人から日顕師へ相承が無ければ仏法は無くなる」というゴリ押し的をものであるならば、もう一度、具体的に当局側の主張を破折し、富士門流における血脈とは何かを追求することも、あをがち無駄なこともないと思い、拙稿を起した。できうれば、反論においては、拙文に引用する御書・歴代先師の御文についての解釈も具体的に示してもらいたいと思う。

 


1、宗務当局の血脈観の誤謬について



(1)貫主から貫主への相承によってのみ我が富士門流は成立していないこと


「態一筆留申候。仍良王殿之事幼少之御方に御座候。雖然信心御志候て、勢仁被致候者、当寺之世間彿法共御渡、本末之僧俗共仰可被申候。仍為後日之如件。

大永六年九月五日

大石寺惣衆檀那御中    日鎮 花押」

これは、12世日鎮上人が大石寺惣衆に与へた書状、所謂院師への付弟状である。日鎮上人は、良王殿(のちの日院上人)に相承を授けたいが、当時まだ良王殿が9歳という幼年であった為、一時的に大石寺惣衆に相承を留め置かれ、良三殿が成人になるのをまって、惣衆から仏法及び世間の両相承を御渡ししなさいと書き残された。鎮師は付弟状をあらわして、翌大永七年に示寂されている。良王殿10歳の時である。以後、10数年大石寺惣衆が相承をお守りし、時いたって院師に御渡しされたことがわかる。

 こういうことは、少しも当家の本来の血脈の破綻にはならない。10数年の貫主職の空白は、大石寺惣衆が富士の立義をお守りして、貫主職の任にたえうる良王殿の成長をまったからである。

 これは、当局側の主張からすれば、大変なことである。なにしろ、貰主から貫主へどうしても引き継がれをければ「仏法は破滅し、大聖人は仏ではなくなり、一切衆生は成仏できない」というのだから。しかし、上代においては、それ程のこともなく行なわれているようである。これは全く現在とは血脈の考え方が異なっていることの一つの例証である。

 また家中抄日就伝にみる「元和年中昌公終蔦の後、同四月二十三日入院し、埋境坊日義に随い相承を継ぐ」との記載、及び盈師念記の「殊に血脈相承等を預而相伝せられる條、他人に異なるに依って上人を贈り畢ぬ」等の書き付けは、貫主ではない理境坊日義(大衆の一部といえる)の相承預りによって、はじめて昌師から就師へ血脈相承が成就したことを伝えている。

 有師から鎮師への相承も、鎮師の14歳という若年を考えれば化儀抄(日有仰日)を一つの相承書とみなして南条日住が相承を預ったとすることができる。

 長い宗門史のなかには、不測の出来事や非常事態が偶偶あって、貫主から貫主への相承が適確になされてないことが、幾度かある。(煩雑になるので、ここでは、これ以上の歴史的事実は挙げない)或いはまた、今後もあるかもしれない。こういうことを考えるのは、不謹慎でも何でもない、不信心からでもない。むしろ積極的に考えていくべき事柄ではないかと思う。当職の貫主に不測の事態が起った時は、大石寺惣衆が富士の立義をお守りし、時をまって惣衆の中から貫主がおでましになる。こういうことは富士門の歴史の中では、むしろ当然のこととして行なわれている。

 日達上人から阿部師への相承がなくても、全く当家本来の血脈の破綻にはならない。事実上の貫主から貫主への相承が一旦切れたとしても、富士の立義が色も替らず竿守りれたのであれば、当家の血脈は生きているといえよう。要は、

 「一、富士の立義聊かも先師の御弘通に違せぎる事」

の開山上人の仰せの通り、宗旨宗教にわたる富士の立義が守られているか否かが血脈相承における重要を問題なのである。それには、現在の阿部師の言動は、あまりに富士の立義から掛け離れていると言わざるを得ないのではないだろうか。例えば、貫主本仏的な発想や当家の事理を全く理解できていないこと、本尊観の稚説なこと、池田大作及び創価学会の謗法擁護、六十七世の貫主詐称、正信会僧侶の大量処分、折伏・広宣流布の考え方、不軽菩薩の軽視、その他常識では考えられないような日常の諸行為まで数多くの事柄を指摘できる。

 これらの一々は、到底看過することのできない謗法であり、黙認すれば宗開両祖の御法門は有名無実となり、富士の立義は聊かも立つべからぎるものになる。勿論、今までの法義に関する不審の条々への応答もーつの疑問といえる。

 


(2)相承をうけた貫主が信仰上・法義上の絶対的な存在にならないこと

 ごく当り前のことなので論述するに及ばないかもしれをいが、当局側の中には「貫主信仰の何が悪い、これが当家の伝統だ」 「民主々義は当家には馴染まない」という言葉も飛びだすぐらい盲目的に貫主絶対を訴える人が、以外に多いので一項を設けた。

 少くとも、富士門の上代には、貫主だから誤りが無いとか絶対だという文言、思想は見当らない。むしろ、誤りがあれば捨てよ、用いてはならない、ということが富士門徒への誠しめとして伝えられている。その代表は、やはり開山上人の遺誠置文二十六箇条である。末文に、

「右の条目大略此くの如し、万年救護の為に二十六箇条を置く、後代の学侶敢えて疑惑を生ずること勿れ。此の内一箇条に於いても犯す者は日興が末流に有るペからず」

と定め置かれた通り、当家の僧侶であるならば、一箇条も疎かにしてはならない遺誡である。その中の、

「時の貫首たりと雖も彿法に柑達して己義を構えば之れを用うべからざる事」

の条目は、貰主にも佛法上の誤りを犯す場合があり、その時、大石寺惣衆はその貫主を用いてはならないという後代への厳格な誡めである。勿論、その後には、

「衆義たりと雖も彿法に相違有らば貫首之れを挫くべき事」

の条目もある。決して、これも蔑ろにされるべきではない。ニケ条とも第一条の富士の立義を万年にわたって守る為には、当然のことともいえる。

 しかし、このニケ条を一足飛びに越えて、貫主には仏法上の誤りはない、絶対の存在だというのは、開山上人の遺誡への反逆である。貫主絶対が富士の立義だというのは、すでにして自家撞着である。その点においても、日顕師が富士の立義に則った貫主であるか、疑惑を生ぜしむるに充分である。

 また、大石記には、

「仰せに云く、日興上人の常の御利口に仰せられけりとなん、予が老耄して念仏など申さば、相構えて諌むべきなり、其れも叶はずんば捨つべきなり。而に日代は数通の譲り状を持ちたりと云へども既に迹門得道の上は争でか言ふに足るべけんや云云」

という記述がある。日興上人は二箇相承という明確な貫首としての付嘱書がありながら、それによって自分が正統なることを主張するのではなく、実質的に大聖人の佛法を体得している姿をもって、正統なる証しとされた。故に、自分が若し念仏などを申して己義を構えたら、たとえ相承をうけた貫主であっても厳しく諌めて富士の立義を守らなければならない、そして、その諌めをどうしても聞かないようであれば捨てなければならない、とまで仰せられた。この精神をうけて、日時上人(大石記は日時上人談)は、西山の日代派が代師に日興上人よりの譲り状が数通あることをもって興門正統を主張したのに対し、たとえ譲状があったとしても、迹門無得道などと、富士の立義に違背した己義を構えているのであれば、すでに問題にならないと破折しているのである。

 また、方便品読不読の論争にしても「日道一人正義を立る」の文は、富士の立義をもって天目方・鎌倉方を破折したのであり、血脈相承の貫主は絶対なのだから従えとゴリ押ししたのではない。

 かくの如く、富士の立養を実践してこそ当流の貫主であり、譲状などの確実を相承があったとしても、富士の立義を所持されない貫主であれば、退けられてもしかるべきである。

 


(3)貫主が己義を構えた事実


 前項にて触れた開山上人の遺誠が、七百年の宗門史のなかで現実に生かされた時期がある。日精上人の時代である。

 当家に、要法寺からの貫主が横滑り的に流入したのは、14世日昌上人からであるが、その3代目にあたる精師は、広蔵日辰の教学の影響を強くうけて、富士門流の不造像不読誦を排して、要法寺流の造像読誦を遂行した。日辰の二論義抄(造像論義・読誦論義の意)にならって、随宜論をものし、造像読誦を殊更に正当化し、末寺の曼荼羅を仏像にかえた。因みに末寺名を挙げれば、浅草法詔寺・鎌倉鏡台寺・牛島常泉寺・久米原妙本寺・下谷常在寺・会津実成寺の諸寺である。これは、貫主の己義による富士の立義の破壊である。随宜論の巻末には、

「右の一巻は予法詔寺建立の翌年仏像を造立す。茲に因って門徒の真俗疑難を致す故、膜霧を散せんが為廃忘を助けんが為に筆を染むる者なり」

と記されているが、門徒の真俗が疑難を致すとは、貰主の己義に対して、大石寺惣衆が富士の立義をもって対抗したことをいうのである。血脈の貫主が絶対だという当局側の主張では、この時以来、富士門流は造像読誦になって各末寺には一尊四士が祀られたことになろう。これをもっても、血脈相承の貫主を否定することが直ちに異流義だという当局側の主張が、全く根拠のないものであることが分る。

 精師の時期ばかりではない。先に述べた如く、要法寺からの貸主は14世昌師からであるが、この時にも要法寺流に反対する大石寺惣衆のあったことが伺える。

 昌師は、相承をせずに金井の蓮行寺に引き籠られた日主上人のところまで態々いき、相承受授証なるものをかわしている。

「今度就有直受師弟之契約日興日目日道嫡々付法遺跡之事、従日院金口相承一字不残付嘱仕候、於残蒙釈迦多宝代々御罰者也。仍如件

八月三十日

伯耆阿闍梨日昌上人 宮内卿阿闍梨日主 花押「於金井蓮行寺之仏前嫡々之御相承、従日主上人請取申虚実正明白也。為後日之証状如件。

文禄第五丙申天九月朔日 大石寺日昌 花押」

他の歴代上人にも、みられない一見厳格風な受授証であり、当局側なら無理を承知で、こうやって相承は断絶しないで日顕師まできているというかもしれない。しかし、当時の状況をよく把捉した上でこの受授証をみるならば、かえって主師から昌師への相承が大石寺惣衆にとって納得の行き難いものであったことを思わせるのである。

 明確な受授託をかわし、主師から血脈相承をうけて絶対な筈の貫主の昌師が、登座まもなく大石寺惣衆と軋轢を起している。


「 愚僧当山之堪忍難成候条々事
一、三ケ年以前より衆中の色意悪口共迷惑に御座候条可致退出覚悟に候事。
右別而悪僧等ややもすれば野心をかまえ憎檀をふれまわり我等を擯斥いたし、可招先上存念顕然に候。
其外何事を申付候共一返ニ返にてはきき不被申候陳。

雖然且は小事を及大事当寺退轉之儀迷惑也。且は細々退縛外聞如何に存候故、今迄は堪忍仕候へ共事かさをれば不及是非候」

これを短絡的に、大石寺に悪い僧侶がいて当職の貫主を無闇に悪口雑言していたとする訳にはいかない。文中の「愚僧」とは15世の昌師であり、「先上」とは金井に寵られた14世の主師のことである。つまり、状況は、主師から昌師への相承をこころよく思っていない大石寺の惣衆(ここでは悪憎等といわれている)が昌師登座してまもなく、日主上人を金井から再び本山に迎えるべく(先上を招くべき存念顕然に候)様々を言動をもって昌師(要法書流)に反対し、その為に種々の軋轢を生じた、というところであろう。昌師にしてみれば「何事を申付け候とも一返二返にてはきき申されず候」であったのだろうが、富士の立義を守らんとする大石寺惣衆にしてみれば、聞き入れないには、聞き入れないだけの理由があったのである。書状の後半も推して知るべしだが、大石寺惣衆と昌師は真向から対立している。それは、富士の立義の要法寺化に対する当然の抵抗といえる。

 抑、要法寺の大石寺進出は13世日院上人の代には、富士の立義をもって退けられているのである。大石寺と要法寺の法門の相違を指摘されることによって、広蔵日辰の申し出は院師に明確に拒絶されている。それが、主師の代になって、恐らくは経済的を逼迫からであろうが(永禄12年に大石寺は武田信玄の兵火に罹る。その4年後に主師は登座するが、幾度か災雉を蒙って主師の代に困窮の頂点に達したのではないか)、要法寺の昌師を迎え入れざるを得なくかったのである。その昌師は、永年日辰に師事して要法寺数学を身に付けた人であり、後
に精師が強烈に造像読誦を推進する先鞭をつけたことは、容易に考えられる。大石寺の惣衆が、富士の立義を歪曲される危倶を懐いたことは当然である。昌師は、自分に反対するものを「悪憎」といわれているが、大石寺惣衆・富士の立義からすれば、貫主の昌師こそが異流なのである。先の受授証も、貫主職を絶対の権威にする為にとりかわされたと見る方が、何とも自然である。

 ここにあらわれる要法寺流に反発した大石寺惣衆の流れは、これ以後、約百年の歴史の中に見え隠れしながら次第に大きをうねりとなっていったことが分る。精師の時、或いは舜師の時、強く貫主に反対し、俊師、啓師、そして永師の代になり、惣衆の念願であった富士の法門は再び蘇えったということができる。

 宗門史の中では暗黒ともいえるこの時代の一つの特徴は、菖土の立義よりも血脈の貫主を絶対とする思想である。富士の立義が要法寺流によって次第に損なわれていく中で、それを批判するものには、血脈の貫主の権威をもって鎮圧するように務めた。この時期の血脈の貫絶
対を示す資料は様々を形で残っているが、舜師の時の法詔寺日感(要法寺の僧)の書状などもその一つであろう。

「別して大石寺事は金口の相承と申す事候て、是の相承を受くる人は学不学によらず、生身釈迦日蓮と信ずる信の一途を以って、末代の衆生に仏種を植えしむる事にて御座候(中略)其の器量の善悪を簡ばず、但相承を以って貫主と定められ候、故を以って一山皆貫主の下知に随い、貫主の座上を踏まぎる事悉く信の一字の修行にて候。釈迦日蓮代々上人と相承の法水相流れ候えば、上代末代其の身の器は変われども法水の替わる事少しも之れなく候。(中略)但賛ずれば法を日昌上人の御仰せのごとく成され候わば、法燈再び富山の峰にかがやき云云」

貫主に「信の一字」をたてるとか、貫主を「生身釈迦日蓮と信ずる」というのは、富士の立義ではない。先にも述べたように、貫主に誤りがあれば諌めよ、改めよというのが、開山上人の遺誡である。ましてや、この時期はまだ精師造立の仏像が末寺に安置されており、要法寺流が罷り通っていた時期である。貫主に異義申し立てする大石寺惣衆に道理があることは論を俟たないのではないだろうか。それにしても「日昌上人の御仰せのごとく」すれば「法燈再び富士の峰にかがやき」とは、随分要法寺の手前勝手を言い分であり、全体的を雰囲気もかなり強行に貫主絶対路線を打ち出していたことが伺える。つまり、それだけ惣衆の反発も強かったのであろう。

 造像が退けられるのは、更に下って俊師の時であるが(造像と一経錠読誦は一対になったものであり、この頃には同じく一経読誦も停止されたと思われる)、我々は、貫主に反対して富士の立義を守ってくれた大石寺惣衆に感謝しなければならない。と同時に、貫主が己義を構えることが現実にあることと、その時には貫主絶対が著しく強調されるという事実関係を忘れてはならないようだ。

 この悪しき時代が我々に残してくれた教訓は、貫主絶対が現実に叫ばれている時には、必ずといって良い程、富士の立義が危機に頻しているという事実であろう。つまり力が道理を圧迫するという一典型である。このカリスマ的な貫主信仰の思想は、要法寺が入る以前の当家の上代に求めることは出来ない。

 

 


 

 

 

富士の立義と血脈相承についての私見(下)

 

 

 

2、富士の立義と血脈相承についての私見



 当家が上代より血脈の宗旨といわれてきたことは、動かしがたい事実である。しかしそれが上代の血脈と現在言れる血脈とが同義であるという証明には勿論ならない。

 既述してきた通り、当局側の血脈観は、上代に遡れば甚しい見当違いであることが分かる。更には前回の考証で、現在いわれるような貫主絶対の思想の原型が、要法寺からの貫主にあったことを見い出すことができた。これは要するに、要法寺からの貫主が、上代の大石寺が血脈の宗旨を標榜していることを利用して、血脈イコール貫主絶対という権威を作り上げ、富士の立義をもって反発する大石寺惣衆を制圧しようとした、とみることが出来る。

 ここで問題になるのは、それでは上代(要法寺の貫主が入る前、例えば主師・院師・有師・道師その他の著述)においていわれた当家の血脈が、どういう意味をもっていただろうかということである。

 すなわち、当家が血脈の宗旨であるといった所以は何処からきたのか、またその血脈とは何であるのか、という問題であり、それがまた、富士の立義とも密接を関係にあるのではないかと考える。



(1)当家が血脈の宗旨といわれる所以

 五一の相違について記されている日道上人の日興上人御伝草案を具さにみると、凡そ次のことが分かる。すなわち、他門家と富士の立義の根本的な相違は、当家が末法に入って釈尊は隠居し上行の世になっているのに対し、他門においては明確に上行の世になっていないという事の指摘である。そういうことが、元徳四年の開山上人の御通告として丹念に説かれている。これが、当家の血脈とも深い関連があると思われるので、今通告の箇条を逐一あげてみる。

 先ず、天台沙門と号せらる申状は大謗法の事、には

「地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に脆く、天台宗は智禅師の所立、迹門行者の所判也、既に上行菩薩の血脈を汚すか」 

とある。次に、大聖御書和字たる事、には

「大聖人出世の本懐を記し給うに和名を以って之れを注す。処々門徒の中に滅後に及び、或いは和名を消す、(中略)和名においては賢愚倶知の上下同じくこれを読む、下機を本とす、上行菩薩の御本懐は由緒あるかな」

次に、脇士なき一体仏を本尊と崇むるは謗法の事、には

「小乗の釈迦は舎利弗・目連を脇士となし、権大乗迹門の釈迦は普賢・文殊を脇士と為す。法華本門の釈迦は上行等の四菩薩を脇士と為す云云(中略)仏滅後二千二百三十余年が間一閻浮提之内未曽有の大曼荼羅也と図し給う御本尊に背く意は罪を無間に開く云云。何ぞ三身即一の有縁の釈尊を擱きて強ちに一体修三の無常の仏陀を執せんや、既に本尊の階級に迷う、全く末法の導師に非ざるかな」

そして、一部八巻の如法経は末法に入って謗法たるべき事、には

「神力品に云く、上行菩薩の御言に、我等亦是の真浄の大法を得て受持、読、誦、解説、書写して之れを供養せん云云(中略)末法には五字に限って修行すべしと見えたり、取要抄に云く、日蓮は広略を捨てて肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経是れ也、肝要を取り末代に当てて五字を授与す、当世異義あるべからず文」

とある。一見してわかる通り、各項目ごとに、上行菩薩が強調されている。つまり他門家においては、宗祖滅後まもなく、その点が曖昧になっていったのである。

 かくの如く、富士の立義と他門家との相違の根本は、上行の世に法門を建立するか否かということである。他門では、宗祖滅後まもなく、天台沙門と号し、和名を漢字に改め、脇士なき一体仏を崇め、一部如法経を行じた、と開山上人の御遺告には述べられている。これらは一体何を意味するのかといえば、釈尊から上行の血脈が排され、釈尊隠居・上行の世という大聖人の法門の大綱が崩されることを意味する。末法から正像の世へ再び後退するようなものである。

 しからば、当家ではどうかといえば、歴代先師の申状に

「先師日蓮上人は生知の妙悟深く法華の淵底を究め、天真独朗玄かに未萠の災孽を鑒たもう。経文の如くんば上行菩薩の後身遣使還告の薩摩なり。若し然らば所弘の法門寧ろ塔中伝付の秘要末法適時の大法に非ずや」(道師申状)

「是に又末法の今上行菩薩出世して法華會上の砌虚空会の時、教主釈尊より親り多宝塔中の付属を承け、法華本門の肝要妙法蓮華経の五字並びに本門の大漫荼羅と戒壇とを今の時弘むべき時剋なり、所謂日蓮聖人是れなり」(行師申状)

然るに今末法に入っては稍三百余歳に及べり、正に必ず本朝においては上行菩薩の再誕日蓮上人、法華本門を弘通して宜しく爾前迹門を廃すべき爾時に当たり巳んぬ」(有師申状)

とあるように、釈尊上行の血脈、滅後末法の上行の世を明確に伝えている。(他門の申状には、上行菩薩の名目すら見当たない)

 当家では、釈尊上行の塔中相承を把え、釈尊隠居、上行の世という時節の転換の上に立って、法門が悉く建立されている。後述することになるが、ここから当家相伝法門の「互為主伴」「報恩抄の読み」等が伝えられ、宗祖本仏論も展開される。


 更に、血脈相承の語を御書に尋ねれば、

「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は、釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠々劫より巳来寸時も離れぎる血脈なり」

「只南無妙法蓮華経、釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ」

「此三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として日蓮僅かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」

「答えて云く、日蓮の己心相承の秘法此の答に顕すベきなり、所謂南無妙法蓮華経是れなり(中略)今の文は上行菩薩等に授与するの文なり、汝何んが故ぞ己心相承の秘法と云うや、答えて云く上行菩薩の弘通し給うべき秘法日蓮先きに立って之を弘む身に当るの意にあらずや、上行菩薩の代官の一分なり(中略)今日蓮は塔中相承の南無妙法蓮華経の七字を末法の時云云」

と仰せられているごとく、釈迦多宝を上行日蓮の己心に摂入して、大聖人の法門が建立されていることは、まず間違いない。当家では、これを把え、他門に勝れて血脈の宗旨といったのではないだろうか。それが、五一の相違を立てる富士の立義の淵源ではないかと考える。

 他門家では、上行の血脈をとることは出来ない。何故ならば、釈尊を本尊と立てる限り、釈尊の隠居を素直に認める訳にはいかないからである。(故に身延派等の学者は、日蓮塔中相承があらわされている先の御義口伝、十八円満抄、三大秘法抄、生死一大事血脈抄等の御書を、中古天台の影響の強いものとして認めたがらない)他門では、釈尊が現役のままの上行に甘んじなくてはならない。滅後末法に入っても釈尊が在世の如くであれば、上行日蓮の存在が次第に疎んぜられていくのは自然の成り行きである。こういうことが、他門に上行の血脈がない、無相伝だということになっていくのではないだろうか。

道師が

「地涌千界の根源を忘れ天台四明の末流に脆く(中略)既に上行菩薩の血脈を汚すか」

といわれたことは意味深長である。この「地涌千界の根源」「上行菩薩の血脈」という処に、当家の血脈・宗祖本仏論の根本があるのではなかろうか。

 当家は、上行の血脈を伝える宗旨である。それも、釈尊現役の上行ではなく、釈尊隠居、滅後末法の上行「地涌千界の根源」という上行である。故に当家の相伝には、

「所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏、並に上行等の四菩薩の脇士となるべし」(報恩抄舜師本)

という報恩抄の読みが伝わる。更には

「在世滅後の仏法弘通・本来本因妙の菩薩の御内証より本果の成道を遂げられたまふ、釈迦霊山虚空の間には虚空会の時、涌出して上行菩薩等の四菩薩と顕れて(中略)師の釈尊の久しき事を顕わして脇士となりたまふ、而るに釈迦以大音声普告四衆したまふ事、末法の法主を募り御座す、仏法授与有れば末法の導師日蓮聖人にて御座す故に、此の時は霊山の時の釈迦多宝は脇士と成りたまふ」

という。釈尊上行の互為主伴の法門を伝えている。

 この上行は、有師が 「たとひ地涌の菩薩也と云ふとも地住己上の所見なれは末法我等が依用に非ず」といわれ、永師が「上行菩薩金色四八果徳を捨て、久遠名字の因行の體まで末法に出現候」といわれた如く、当家においては、直ちに久遠元初自受用身に結びつく、未断惑の上行である。首題の妙法蓮華経と人法一箇する上行である。これを有師は、


「当宗御門徒の即身成仏は十界互具の御本尊の当躰也。其の故は上行等の四菩薩の脇士に釈迦多宝成り玉ふ所の当鉢大切なる御事也。他門徒の得意には釈迦多宝の脇士に上行等の四菩薩成り玉ふと得意て即身成仏の実義を得はつし玉ふ也。去れは日蓮聖人御書に曰く、一閻浮提之内未曽有之大曼荼羅也と云へり。又云く、後五百歳に始たる観心本尊とも御遊す也。上行等の四菩薩の體は中間の五字なり、此の五字の脇士に釈迦多宝と遊はしたる当躰を知らずして上行等の四菩薩を釈迦多宝の脇士と沙汰するは、中間の妙法蓮華経の当躰を上行菩薩と知らざればこそ、軈て我即身成佛を知らざる重で候へと御伝これ有り」

といわれて、当家と他門家では上行菩薩の解釈が全く違うことを示されている。当家にいう上行は、中間の五字そのものである。そして、大聖人が仰せになられた 「一閻浮提之内未曽有之大曼荼羅」「観心本尊」とは、滅後末法の上行の世をあらわしたものである。(故に、先の三師伝開山上人通告の中の一鉢仏用否の項において、小乗の釈迦、迹門の釈迦を説き、法華本門には上行等の四菩薩を脇士とする釈迦を説き終って、最後に曼荼羅本尊を示されているのは、滅後末法上行の世を顕わさんが為である)当家では、久遠実成本果第一番の釈尊は隠居し、元初に直接結びつく上行の血脈を承け伝えていく、これが当家は血脈の宗旨であるといった所以である。

 それを、四世日道上人が宗開三組の法門として明示されたのが三師伝である。すなわち、宗祖伝は冒頭に、


「日蓮聖人は本地は是れ地涌千界上行菩薩の後身也」

とあり、次に龍の口の発迹顕本を丹念に説いて、最後に撰時抄の、


「此の三の大事は日蓮が申したるにはあらず、只偏えに釈迦如来の御たましい我が身に入りかわらせ給いけるにこそ、わが身ながらも悦び身にあまれり、法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」

の御文をもって終る。この撰時抄が、題号の通り時節の転換の役目をはたして、実成から元初へ、在世末法から滅後末法への切換えを成している。宗祖伝は全体的にみて、龍のロの発迹顕本や撰時抄の一念三千の御文を示すことによって、釈尊(久遠実成)から上行の世(久遠元初)への切換えをあらわされているようである。寛師が愚記に、釈迦如来のたましいとは久遠元初自受用身のことであるといわれたのも、この意に則るものである。

 次の興師伝には、既述の通り、上行の血脈を継ぐ当家の立義を五一の相違をもって明らかにされている。また、ここでは戒壇本尊が日興上人の信力の故に建立されたことも示唆されている。興師伝において、当家の宗旨である血脈と本尊が明示されたとすることができる。

 目師伝には、宗祖開山への「常随給仕」と「巧於難問答」が説かれているが、その役割は、現実に信行学をもって富士の立義を受持することにあろう。

 大雑把ではあるが、以上の如く三師伝は釈尊隠居、上行の世という富士の立義を三祖の御伝にあわせて法門としたものである。しかし、後になって、有師、院師、主師事の著述になると、更にそれを明確にするためか、釈尊の隠居と上行の血脈を、宗開三祖の事相にあてはめて、富士の立義とされている。(原型は道師の時に、すでにあったのかもしれないが)所謂、蓮興目・蓮目興の二箇の血脈、日興上人の重須隠居を釈尊の隠居に擬し、目師の大石寺を三世常住上行の寺とする隠居法門等がそれである。また、宝蔵の戒壇本尊、客殿の譲座本尊の示書をもって当家の隠居法門の何たるかを伝えている。次に、二三の資料を挙げて、上行の血脈と隠居法門の関連について説明を試みる。


(2) 上代先師の血脈観


@日主上人の日興跡条々示書

「富士四ケ寺之中に三ケ寺者遺状を以て相承被成候。是は惣付嘱分なり。大石寺者御本尊を以て遺状被成候。是則別付嘱唯授一人ノ意ナリ。大聖ヨリ本門戒壇御本尊、従興師正応之御本尊法躰御付嘱、例者上行薩埵結要付嘱大導師以意得如此御本尊處肝要なり。徒久遠今日霊山神力結要上行所伝之御付嘱、末法日蓮、日興、日目血脈付嘱全躰不色替其儘なり。八通四通者惣付嘱歟、当寺一紙三ケ条之付嘱遺状者文證寿量品儀なり、御本尊者久遠以来所未手懸付嘱也」埵

示書の大意を述べれば、大石寺以外の寺では、八通四通などの譲状をもって相承しているが、当家では、法体そのものをもって相承としている。それは上行を滅後末法の大導師と定めたところの大曼荼羅本尊のことであり、すなわち、当家における戒壇本尊、譲座本尊である。戒壇本尊は宗祖、開山の師弟、譲座本尊は宗、開、三祖の師弟であり、当家では、上行の血脈を日蓮日興日目の血脈の全体をもってあらわしているのである。故に 「日興跡条々事」という付嘱状は、単なる寺を譲り管理を譲るという遣状ではなく、本尊についての内容を指し示したものであり、例えていえば、文証の寿量品にあたるものである。というようを意味になる。

 示書によれば、当家の本尊と血脈はほとんど同義であり、上行の世を当家は戒壇本尊・譲座本尊と日蓮日興日目の血脈全体をもって説明しているのである。主師には、更にこれに関連して、一枚の示書の上段に戒壇本尊の脇書、下段に譲座本尊の授与書の説明を記されたものがある。その下段の譲座本尊のところには「日興客座御隠居、日目嫡子分本座」との当家の隠居法門が示されている。

 これらの釈尊隠居、上行の血脈・日蓮日興日目の血脈(日興隠居の法門)、戒壇本尊・譲座本尊等は、互いに密接を関係があると同時に、その源を尋ねれば同一のものであるといっても過言ではない。これらの法門の起点となるのは、報恩抄三箇の秘法の下「本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏、故に上行等の四菩薩の脇士となるべし」 の相伝である。主師にも、報恩抄の三箇の秘法の血脈に、在世蓮興目、滅後蓮目興の二箇の血脈があることが示されている。また左京日数の三箇秘法の事には、報恩抄の当家の読みを挙げて、更に「当家の血脈の大事一切の法門を是れを土代と定めて御書等を拝見し奉る可し(中略)三箇秘法は日蓮日目と御相承也(中略)此の時は日蓮日目日興と次第し、御付法は日蓮日興日目と次第する也、此の三箇の秘法は当宗の独歩也、若此御書(報恩抄)の旨に背かは八万聖教を胸に浮へ十二部を空に覚たる人也とも智解の

入らぬ宗旨なれは信の道に背かん」

と述べられている。これをもっても、当家でいう血脈の大事とは、釈尊隠居・上行の血脈ということであり、その時節の転換の上にたって一切の法門が展開されていることが分る。この血脈を「土代と定めて」他の御書を拝見しなければ、当家では御書を心肝に染めたことにはならない。この血脈の次第を当家では蓮目興の血脈ともいうのである。

 以上のことから、次に所述する日院上人の 「師口の両相承」も、蓮目興(今師相承)、蓮興目(金口相承)と次第する二箇の血脈であることは、ほぼ察して戴けると思う。

 



A日院上人の要法寺日辰御報


「仰せに曰く諸仏の国王と是の経の夫人と和合して共に是の菩薩の子を生ずと、御血脈の奥書内證本門戒壇末法弘通の正導師範凝滞無き者なり。此の金言に応じ法水を汲む輩争か之を信ぜざらんや、茲に因って後五百歳の説文扶桑に到らん時は、速疾に四大御涌現(地涌上行の意)有るべき處法門既に二途に分る門流の本意に帰せぎる故か (中略)然りと雖も迷妄救助善巧方便の為め造仏読誦の執情不審なり(中略)某會上多宝塔中に於て親り釈尊より直授し奉る秘法なり甚深々々。然る間本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり(中略)匿無く本意の修行法水を乱さず師口両相承、三箇の秘法胸に当て四聖湧現(地涌上行の意) の刻を相待つ者なり」

これは要法寺の日辰が、天文法乱(天台と法華の争い)にて、洛外に追放された後、時流に迎合して法門を改竄し、再び洛中にもどり、その余勢を駆って大石寺をも傘下に入れんと通用を迫った時の、日院上人の返答である。日辰の法門の変質と、それに応対する富士の立義が如実に示されていて興味深い文書である。

 抑、日辰は西山の日心に師事して、はじめは、不造像不読誦を主張していたが、天文法乱を境に造像読誦論者に転向する。多分に、曼荼羅は上行の世を示し、一尊四士は釈尊の世をあらわしているから、造像読誦に力が入るということは、上行の世から釈尊現役の世に逆戻りすることである。故に、上行の世を伝える当家では、日興上人以来、曼荼羅正意、不造像を堅持してきたのである。

 無論、他門においても、日蓮門下を自認する限り、完全に上行の世を否定し、曼茶羅を本尊と認めないというようを極端なことはなかった。身延派等においても、造像と雑乱ではあるが、それなりに上行の世を伝えんとする曼荼羅正意の思想もあった。天文以前の、行学日朝、円数日意、宝樹日伝等の本尊観及び曼荼羅の様式などは、大変当家に近づいたものといえよう。しかし、天文法乱を境に状況は一変し、各門家は宗祖の法門から遠ざかり、台学偏重になり、造像に力が入るようになる。これを期に、上行菩薩の解釈が従来のものから変り、釈尊在世の上行を一歩も出ないものになるのである。それが次第にエスカレートされて、同じ造像でも、一尊四士のほかに、普賢文殊を造立する。その他様々をものを造立するという甚しい本尊の雑乱が行なわれた。(広蔵日辰も普賢文殊の造立を可とする) つまり、それらはますます上行のもつ意味を希薄にさせることを示している。


 さて、当時の状況を踏まえて、先の要法寺日辰御報の意訳をすれば、凡そ次の如くになる。

 仰に云く諸仏の国王云云は、日有上人仰せの「諸仏の国王とは高祖日蓮聖人のことなり、此の経の夫人とは日興上人也、菩薩の子とは日目上人是れなり、されば当門徒の信は此の心得一大事也」の文のことである。当家では、上行出現の血脈をこの様に伝えて、今に滞るものではない。末法は上行の世である、どうして富士門の流れを汲むものが、それを信じないことがあり得ようか。「五五百歳広宣流布」の経文によれば、扶桑に末法の時節到来すれば速疾に上行菩薩の涌現あるべきところである。しかしながら、すでに法門が二途に分れることは、富士門流の本意にも惇ることである。(中略)日辰が方便のために造像読誦に執着し、異義をたてることは、上行の世を捨てることであり、甚だ不審なことである(中略)本因妙抄にある如く、当家では、多宝塔中において親り三箇の秘法を相承された本因妙の日蓮大聖人を久遠元初自受用身と拝するのである。(中略)この多宝塔中における釈尊上行の今師金口の両相承、そしてその法体たる三箇の秘法を身に当てて修行し、地涌上行の涌現を待つのが当家の宗旨である。

というのが院師の、この書状で言わんとするところである。

 無論、信の上において上行は出現している。釈尊滅後五五百歳に上行が出現するということは、すでに末法の暗闇なくまなく照しているのであり、信の上において広宣流布は成就しているといえよう。宗祖が 「心地を九識にもち修行をば六識にせよ」と仰せられたように、その上行涌現を胸におさめて、日々修行するというのが当家の法門のたて方である。御書及び相伝部の諸処に 「時を待つべきのみ」ということが示されているが、ここに、信の上に上行の涌現を伝える当家の奥行きの深さがあるのではなかろうか。ここで院師が日辰に対していわれたのは、日辰の説では、釈尊が隠居していないのだから、上行出現の心要がないではないかという批判である。

 日辰の申し入れに

「倩ら尊師の内証を推するに造仏読誦は且は経釈書判の亀鏡に依憑し、且は衆生済度の善巧を施設するか。願くば憐慇を垂れ通用の御一礼を賜はば云云」

とある通り、日辰は、造像読誦をもって大石寺との通用を謀ったが、院師は、当家は釈尊の世を伝えるのではなく、滅後末法の上行の世を伝える宗旨である。造像は異流であると退けられたのである。

 更に、この御報には「所詮三聖(日蓮日興日目) の御内証違背無きように善巧方便有らん者か」とあるように、上行の世を当家では三祖をもってあらわしたことは明らかである。すなわち、釈迦多宝の境智合して上行と顕われるところを当家には日蓮日興の境智合して目師となり、目師に血脈ありと示されたのが、興尊隠居・蓮目興の血脈である。一方には、在世蓮興目の順次の血脈もあり、これを院師は今師・金口 「師口の両相承」といわれたのである。

 院師の姿勢を拝すれば、今師金口の両相承は、三祖の内證法門の中においてのみ、よく理解されるべきであって、貫主の立場は、日院上人の如く、三祖内諾の法門を我が身に当てて、守り伝えていく立場である。それは言葉を換えて言うならば、富士の立義の継承に他ならない。現在のように、血脈が内證法門から離れて論じられたり、貫主職をうけたものが絶対的存在になるというような理不尽をことは、微塵も感じられない。
  
 以上、二三の資料を挙げて、当家の上代の血脈観について述べてみた。惟うに、主師、院師、有師、道師における血脈の語は、まさしく当家が血脈の宗旨であるといった所以を、一言をもって伝えているようを気がする。たしかに、血脈は当宗の根本命脈であり、ここに曼荼羅本尊・元初自受用身の人法本尊も建立されている。しかし、それは、本来の血脈観を探る時はじめていえることであり、現在の阿部日顕絶対の血脈観からは、真実の富士の立義を宣揚することはとてもできない。現在のものは、要法寺が流入した時の誤った血脈観の焼き直しであり、当家からすれば、大変を見当違いである。我々は本来の血脈を取り戻すべく一層精進せねばならない。

 例えば、当局は「とにかく血脈を信ぜよ」という。しかし、その言葉も、本来の血脈とは何か、信とは何かということがわかっていないのであれば、何もならない。有師は「信と云ひ、血脈と云ひ、法水と云ふ事は同じ事なり」といわれている。信と血脈が同じものならば「血脈を信じる」とは一体どういうことをのか。素朴な疑問が残る。

 有師はそんを訳のわからないことをいわれているのではない。ここでいわれる血脈とは、既述の通り、上行の血脈であり、蓮目輿の血脈である。それでは信とは何か、といえば、これも先に引用した、

「諸仏の国王とは高祖日蓮聖人なり、此の経の夫人とは日興上人也。菩薩の子とは日目上人是れなり、されは当門徒の信は此の心得一大事なり」

の信である。故に信といい、血脈というも同じことなのである。故に「信が動ぜざれば其の筋日蓮うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず」なのである。有師が聞書の諸処にいわれる信とは「○○を信じる」という信ではなく、当家の仏法そのものと同義の信である。それがすこしも動揺しなければ「我等が色心妙法蓮華経の色心」である。

 全く当家が「血脈の宗旨」「信の宗旨」といっても、本来のものと現在の感覚とは、かなりの隔たりがあるのである。

 


お わ り に

1、 に現在の宗務当局の誤った血脈観を破し、次いで当家の血脈についての私見を述べた。

 前者については、当局側の血脈観はあまりに幼稚であり、その血脈の末は、当局がどう否定しても、日顕本仏に落ち着かぎるを得ないと思う。現に、本文にも指摘したが、日顕師は 「自分に血脈がなければ大聖人も仏ではない」との宗祖従、日顕主の謬見を開陳しており、これをもって宗旨とするならば、彼の六師外道にも劣る邪教ということになるだろう。

 後者については、詳細を考察は今後の課題とするが、大筋においては、かく考えられるのではないかと思う。私見を述べたまでなので、異論があれば御叱正を頂戴したいと思う。

 

 

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