宗旨・宗教と異流義について



池田 令道



 昨年来、さまぎまなかたちで在勤教師会による法門研鑽、論文発表が行われているが、それに対する宗務当局の対応は頗る不親切で、適切を欠いたものと言わぎるを得ない。当局へ提出した論文中にも、誤りがあればできる限り反論を戴きたい旨が述べられているが、いまだに何の音沙汰も無いようである。

 一度だけ、8月の末頃、阿部日顕師がかなり興奮した調子で在勤教師会を批判されたようだが(大日蓮9月号)それとても内容的には無に等しく、かえって誤謬や矛盾を拡大して、在勤教師会及び周囲の不審を募らせる結果になっている。それに対しては継命11月1日号、15日号に在勤教師会として『不審条々』を掲載して反論した。

 また近頃は、教学部長をはじめとする十数人の反論グループがつくられ、破折論文を執筆中と風聞するが、今度こそ真面目な法義上の批判を願うものであり、更にはそれに対しての、在勤教師会の反論が公式なかたちで受け入れられることを、教師会の一員として期待している。互いの論をたたかわせてこそ法門研鑽になるのであり、いつまでも対象のいないところで、陰口を叩いていても大石寺法門の為には何もならない。

 また反論グループの方々には、今までの様に貫主絶対を引続き提唱するのであれば、昨年の日顕師の誤り多き指南を全面肯定して自らの論文を作成する勇気がなければならないことを付言する。はたして御指南に矛盾せず、大石寺法門を宣揚することができるかどうか、私はかなり疑問をもっている。

 さて、私達は現在、当局もしくは創価学会から「久保川某師に与する異流義一派」などといわれている。貫主に逆らうものは僧俗ともに異流義であるという程の安直なもののようだが、このところ何処でも「異流義、異流義」の大合唱が行なわれている。聖教新聞紙上でいわれるのは、法門の素人がすることでもあり、別段法義的に相手にする必要もないが、院達や宗務広報に明確に「異流云云」の語がみえる場合は、こちらの論文のどこが異説なのか説明を求めなければなるまい。道理・法門の上から異流義なのは断然いまの宗務当局であると私は思っている。果してどちらが異流義をのか、一々論をたたかわしていくしかあるまい。

 私達の主張に現在の宗門及び創価学会は宗旨・宗教の立分けができていないというものがある。すなわち

「当宗には、『広宣流布』にしても『三秘』にしても宗旨分と宗教分の両意があって、古来より宗旨分を中心として双方の調和がとられてきた。しかし昨今は宗旨分がすっかり忘れられて、宗教分だけが独り歩きをしている」 (事の法門について)

とするのがそれである。これに対する日顕師の指南は、大方「広宣流布」や「三秘」に宗旨・宗教の立分けなど必要ないとするのである。これは日顕師の本尊観が「最後には決を取って本尊を受持せしめること」というぐらいに、徹底的に唯物化していることと密接な関係がある。何故ならば、本尊を物体と把えることから本尊流布という言葉が生れ、その本尊流布のはて(一人残らず物体としての本尊を戴く世界)に広宣流布は成就するという論法になっているからである。ここに至って「三秘」も「広宣流布」もすべて現象世界に固定化されてしまったが、その根源は唯物的な本尊観にあるといえる。つまり、宗教分の物体としての本尊が日顕師の本尊観の全体になっており、宗旨分にあたる行者の己心に建つべき本尊が見当らない、故に本来、宗旨分にたつべき戒壇本尊さえも物体としての扱いを現在うけているのである。この本尊における宗旨・宗教の立分けが、なしくずし的に不明瞭になってきたことが現在の異常事態を呼んだ大きを要因と思われる。

 これに関連して、私達の本尊観の主張に次のものがある。

「考えれば考える程、大石寺の法門は緻密にできている。御本尊も、宗旨の根本はあくまで一閻浮提総与の戒壇本尊であり、他の本尊は一機一縁と呼ばれるもので、宗教分ともいえるものである。寺院や家庭にある一機一縁の曼荼羅を我々は、じかに拝することができる。つまり直拝している。しかし、それは、すべて戒壇本尊の写しであるという、しからば、戒壇の本尊はと、根源を尋ぬれば宝蔵に秘蔵されており、我々の肉眼に触れえないようになっている。つまり遥拝するかたちをとっている。宗教分は一機一縁の曼荼羅に相対して、否応なく本果の修行の立場をとっているが、宗旨分は戒壇本尊が秘蔵されていることによって、本因修行があらわされている。これは自然に宗教分から宗旨分へ切換えがなされているのであり、これによって宗教分が生きてくるのである。すをわち、宗教分では行者と相対していた本尊が、宗旨分では実は、行者の外にあるものではなく、信を以って刹那に己心のうちに証得されると説かれるのである]

 戒壇本尊と一機一縁、遥拝と直拝、本因と本果、宗旨と宗教、これらは現在、悉く明確な立分けがなされていない。これは広蔵日辰同様、時節の混乱である。

 就中、戒壇本尊の遥拝は、700年来、丑寅勤行によって相伝されてきた当家の深義である。39世日純上人が42世日厳上人に与えられた切紙の相承にも、

ヨロズヨノ ヤミラテラセル ミノリトテソモウシトラニ ツタエコソスレ

と歌にたくされて、丑寅に当家の極意が伝えられていることを明かされている。

 しかし最近では、次第に戒壇本尊の遥拝は影がうすなり、信徒の大半は直拝することが当然とばかりに考えている。形の上では、まだ正本堂は蔵になっており、わずかながら遥拝すべき根跡をとどめてはいるが、実際は僧も俗も意識の上から、はるかに直拝が勝っている。これは、すでに法義的には、戒壇の本尊と一機一縁の本尊が判然としていない証拠であり、ここに宗旨・宗教の混雑を端的に指摘できるのである。

 これと相似した事柄を、700年の宗門史のなかに見出すことができる。造像読誦の異義がたてられた日精上人の時代も、当家における宗旨・宗教の立分けがないがしろにされて、敬台院の絶大を権力によって建立された御堂に戒壇の本尊が安置されている。もっとも、この時は精師退出の後、一時期をもって戒壇の本尊は御宝蔵に戻されているようである。

 精師は、日辰教学の影響をうけて、大石寺を要法寺化する為に造像を提唱したぐらいの人であるから、当家古来の戒壇の本尊の拝し方など関心もなく、容易に御堂に安置できたのではないかと思われる。造像論者が戒壇本尊(曼荼羅)を御堂に安置するというのは不都合ではないかと思う人がいるかもしれないが、精師の本尊観は多分に現在と同じく、曼荼羅本尊をも色相像と同じ感覚(つまり色形にあらわれるもの)でとらえられていたからであろう。

 しかし、それも短い期間をもって御宝蔵に再び秘蔵されることになったのは、やはり大石寺法門に違う異義であったことを指摘されたからではないだろうか。ここでも、随宜論等の造像、読誦論義に反発をした、もとよりの大石寺僧衆が原動力になったのではないかと推測できる。(それ以後、御堂には精師の御本尊が安置されている。)

 はじめての要山からの貫主15世昌師がいわれた「大石寺の悪僧共」とは、大石寺法門が要山流になるのを真から憂えた人々なのかもしれない。その「悪僧共」の流れが、苦節の中にも、その都度抵抗し、次第に大石寺法門を盛り上げていき、あまりに当家の法門と違う造像・読誦や戒壇本尊の御堂安置には強く反発したのであろう。

 更に時は流れて、日永上人、日宥上人の頃には見事に法門の復興はすすんで、その著述には、後に日寛上人が示された文段や六巻抄の部分部分がすでに説き顕わされている。つまり永師の頃には、復興の基盤が充分築かれており、そこに法門を大成させた寛師の生れる必然もあったのである。そして、この時期の法義上の立直しの中心が宗旨分・宗教分の明確化にあったことは、当時の状況をみればおよそ見当がつくのである。

 これに関連して興味のあることは、日精上人の教化によって三鳥派という異流義が発生している事実である。精師には、両巻血脈、その他相伝書の写しがあるが、これを精師が要法寺教学を所持しながら、大石寺法門の摂取を試みたものと推測できる。しかし、これは譬えていえば、本果の世界において本因を主張するような矛盾におちいり、そこに大石寺法門とは似て非なる異流義を発生せしむる隙が生じたのではないかと思う。この三鳥派の発生・急成長と現在の深刻を混迷には、かなりの共通性を見い出すことができる。三鳥派もまた宗旨・宗教の混乱を犯しているのである。

 三鳥派の布教は『異流一件のこと』 によれば、江戸は勿論、相模・伊豆・駿東にまで弘通し、信仰者もまたたくまにふくれあがったとのことである。東海道三島の足高山の麓に本寺建立の願いをかけ、在々所々より材木を集め、且つ又、武州・相州辺よりの月々の参詣者が夥しく往復することによって、ついに箱根の関所にて不審改められ、公儀により検議の上、新義異流と落ち、罰せられうに至った。その時すでに三鳥日秀は死去しており、法難には逢わずじまいだったが、江戸中に、日秀の曼荼羅が莫大にでままり、本因妙の行者、本国妙の題目ということが盛ふにいわれたそうである。

 この三鳥派の本尊観と本尊流布、それによるところの信仰者の急増、本因妙の解釈等は、当家の法門を取違えたもので、本来宗旨分にたつべきものが、宗数分にてなされているのである。そして、この様に三鳥派が宗旨・宗教の混乱を犯しているという指摘は単なる推測ではない。永師の消息にその言葉が見えるのである。

「然ハ三鳥一類利養之輩干今埒明不申候二付、其元へ富山化儀法則等御尋二付書上候趣致披見両度共ニ尤二存候。宗旨宗教両門法則無相異様二得二御意書付なといたし可申候。覚束なく候事なと啓上へ御尋可被遣候。精師より彼ノ僧當申候書物御うつし遊シ候て申候。當山障りになり、拙子二度住持の節にも三鳥等利養の僧等五七人なんぎいたし候。江戸中評判候共不苦候。」

 この消息は永師が、常在寺の僧長遠に宛てたものである。三鳥日秀の死後も、三鳥派の問題は容易に解決せず、更には、三鳥派が精師からの両替血脈等の書写本をもって江戸中に触れまわる為、常在寺などは何度となく迷惑を蒙っていた。(永師も当住持の時、二度程難儀している)しかし、この三鳥派の思想や行動は、当家の宗旨分・宗教分の混乱からくるものだから、よくこの点を意得て、対処するように、おぼつかないところがあれば、啓上(当時、隠居されて常泉寺に在住されていた23世日啓上人) へお尋ねするようにしなさいと、永師が長遠に助言されている。
 この消息にて、当家化儀法則と宗旨・宗教の立分けが密接を関係にあることがわかる。更に、宗旨分・宗教分の混乱が当家の異流義を発生せしむる要因となっていることは、時にあたって実に考えさせられる点である。

 差し詰め、「宗旨・宗教の立分け」を悉く曖昧化する日顕師の指南は異流義指南ともいえるものである。そして、自称″広宣流布の団体″創価学会の唯物的を本尊観・本尊流布は、三鳥派のそれと一脈相通ずるものがあり、宗旨・宗教の混乱は極に達して、まさしく「宗教分のひとり歩き」が行なわれている感がする。三鳥派が「三鳥一類利養之輩」と呼ばれて、名利を追った団体であろうと推測されることも、学会の営利企業的体質と酷似して、何やら彷彿とさせるものがある。また三鳥派の信仰は、かなり呪術的でもあり、不可思議を現証を求める現世利益傾向の強いものであったが、学会流の信仰も、左程それと変らないところがある。その他、ねずみ講的に信者がふくれあがる急成長や、三鳥派にもあったであろうと思われる社会的不正と、現在噴出している学会の社会悪等、様々を類似点があげられる。

 学会は今、盛んに「宗教への政治介入を許すな!宗教への冒涜を許すな!」などとキャンペーンをはっているが、真実信仰を冒涜しているのは創価学会なのである。もしそれが、創価学会が大石寺法門を実践した結果、もしくは広宣流布を追求する必然より起った社会問題であるというのであれば、やはり、それは創価学会による大石寺法門の取り違い、広宣流布観の誤りの結果であると反論せぎるを得ない。当然それを全面的に支援する日顕師及び当局側の本尊観・広宣流布観も同程度のものと判断せぎるを得ない。もっとも、本来法門のエキスパートであるべき僧侶が、殆んど創価思想に御追従していることは全く本末顛倒も甚しい、情無いことではあるが。

 以上、日顕師の指南に反論して、当家の深義には悉く宗旨・宗教の立分けがあってしかるべきことを、異流義の発生に関連して述べてみた。

 もとより、宗旨・宗教の解釈を、宗教は文言による教学の理論・教相、宗旨はそれを超えた悟りの内容、観心、本来行者の己心にたつべきものとするのは、私達の独想でもなければ、発明でもない。中世の台家の解釈にもみることができるごく一般なものである。ともあれ、この様なことを参考にして『事の法門について』等を再読していただければ、宗旨・宗教の立分けも当然であり、事更目新らしいものではないことが、理解されると思うのである。

 

 

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