富士の清流を問う

 

 

依法不依人の精神に立つ正信覚醒運動

 

 

日蓮正宗の真の再興を願い私たち正信会は主張する

継命新聞社

 


 

はじめに

 

 正信覚醒運動は、宗開両祖の仰せのまま、依法不依人の精神に立って進められてきた運動です。私たち正信会の僧俗は、大聖人・日興上人の教えをかたく守り、富士日興門流の法脈を正しく伝えていくために日々精進しています。宗門の皆さんにも、ぜひ真実の富士門の信仰にめざめていただきたいと願い、この冊子を作成しました。

 私たちは法の正邪を糾し、一切衆生を成道へと導く教えを明らかにしていこうと主張しておりますが、相承を偽る阿部日顕師は人びとにゆがんだ血脈観を押しつけ、師弟子の道を踏み越え、富士門本来の法門を混乱させています。私たちが現宗門の法義歪曲を指摘しても、富士大石寺こそ信仰の根本であるとして、阿部師は私たちに「謗法者」のレッテルを貼り続けてきました。最近、阿部師は創価学会問題への過去の対応などで、しばしばその不明を吐露しているようですが、いまだに公式的な反省の弁も謝罪もありません。その一方で、もっばら自分たちの権益を守ることに腐心する僧侶が、日蓮正宗という教団組織のなかに巣食い、富士門の教えを遠ざけている状態です。

 宗門の皆さんは、こうした現実を直視し、ぜひとも富士日興門流の本来の信仰を求めてください。この冊子は、皆さんの素朴な疑問にお答えするよう工夫しました。信行増進の一助となれば幸いです。

 

 

 

 

富士の清流を問う

 

 

目次

 

第1章 創価学会問題への対応と責任‥‥‥‥‥‥‥3

第2章 阿部師は日達上人の後継なのか‥‥‥‥‥‥7

第3章 富士日興門流の血脈を守る‥‥‥‥‥‥‥‥11

第4章 本尊観の歪みと法門の混乱‥‥‥‥‥‥‥‥16

第5章 宗祖求道の基本姿勢とは何か‥‥‥‥‥‥‥21

第6章 宗門僧俗は真の信仰にめざめよ‥‥‥‥‥‥26

おわりに

 

 

 

 


 

第1章 創価学会問題への対応

 

現宗門は当時、昭和52年路線にどう臨んだのか

 

【宗門】創価学会問題(第1次)は先師日達上人のときに一応は収束しました。現在のご法主上人がその路線を継承しましたが、新たに池田大作氏の慢心によって宗門と創価学会の間に平成の紛争(第2次)が起こり、創価学会は破門されました。正信覚醒運動は、創価学会の逸脱・謗法を改めさせ、日蓮正宗を護り抜くことを標榜した運動ですから、その運動はすでに使命を終えているのではありませんか。

【正信会】宗門の皆さんは、日蓮正宗が創価学会を破門したことによって、本当にこの問題に終止符が打たれたと考えていますか。むしろ以前よりさらに深刻に、皆さんは現在この問題に直面しているのではありませんか。皆さんが「第一次」と見なしている学会の昭和52年路線は、どのように収束したのでしょう。過去の経緯を直視し、事実を事実として認め、反省すべき点を率直に反省してこそ、この問題の解決につながると考えている私たちは、宗門の皆さんがいうように、覚醒運動の使命が終わったとはとても思えません。

【宗門】昭和52年路線は、宗門僧侶の指摘により創価学会も非を認め、先師日達上人の慈悲によって収束したと聞いています。にもかかわらず正信会はその収束の意味を理解しようとせずに無視して暴走し、宗門から破門されたのではないですか。

【正信会】そういうレッテルを貼ることで、宗門の現幹部は正信覚醒運動を否定し、現体制の正当性を主張したいのです。正信会を悪者に仕立てて、あわせて宗務当局の正当化を図るための筋書きは、しかし現実を無視しており、論理的にも破綻していることがよく分かります。

 さて、当時の創価学会の逸脱・謗法は、いったい誰が指摘し、是正させようと努力したのでしょうか。現在の日蓮正宗の統率者を自認する阿部師や宗門の皆さんですか。それとも私たち正信会ですか。一度まじめに胸に手を当てて考えてください。

 宗門の皆さんは現状を正しく把握するためにも、創価学会問題と覚醒運動に対する事実経緯をありのままに認識すべきです。

 覚醒運動は、創価学会問題とその是正を直接の発端として起こりました。そして昭和53年2月の時事懇談会がひとつの山場となりました。それは創価学会から提案された5箇条の協定案(宗門と学会を対等に位置づけたもの)をめぐって、9日と23日に開催されています。この懇談会では学会に是正を求めた者、学会と同一歩調をとった者、立場を鮮明にせずにいた者など、さまざまな人間模様が見られました。

 このときを境に、これまでタブー視されていた創価学会問題は比較的自由に語られるようになり、覚醒運動は大きなうねりとなって全国に伝わりました。そして宗門の大勢も学会是正に傾くようになりました。これに窮した創価学会は、是正と恭順の意をよそおい、教義上の基本問題(6・30)やお詫び登山(11・7)などで批判を封じようと躍起になっていました。

 この時期、宗務役僧(早瀬総監 阿部教学部長・藤本庶務部長など)は日達上人の信頼を失い、また宗門人の大半からも支持を失っていました。そこで創価学会は、やむを得ず当時活動家と称されていた正信会僧侶と直接協議を重ねていたのです。昨今問題となっている「河辺メモ」(昭和53年2月7日の項)に「時局の件、今日秋谷が来る。3時頃是非会いたいと云って来た。八木信栄の所へ森田総長来て9日は大変ですねと云って来た」と記されています。9日とは、前述の時事懇談会を指します。このとき阿部師が学会首脳と通じていたことがよく分かります。

 ちなみに池田氏は山崎裁判の証言中、「(昭和53年)2月10日に私は当時の早瀬総監 当時の教学部長等々とお会いして、一体どういうことなんてすかと、光亭さんで遅くまて懇談しました」と語っています。事実は隠しおおせません。

 創価学会の法義逸脱問題で日達上人も悩まれ、宗門人がこぞって学会の覚醒に努力しているそのとき、いま「ご法主上人」を自認している阿部師は、何と学会に通じていたばかりか、「貌下は話にならない。人材登用、秩序回復等全て今後の宗門の事では猊下では不可能だ」(河辺メモ)と露骨に日達上人を批判していたのですから驚きます。

 宗門の皆さんはよく、昭和52年に発覚した創価学会問題を、わざわざ「前回」「第一次」とことわっています。おそらく平成の創価学会問題と昭和52年当時の学会問題とに、別の発端と経緯があると印象づけようとしているのてしょう。

 しかし創価学会問題は、前回と今回、もしくは第一次と第二次とに分けられるような性質のものてはありません。皆さんが「教義逸脱の本質は当時の池田の大きな慢心と野望によるもの。その根底に『学会は主、宗門は従』とする考えがあった」と述べているとおり、学会の体質や目的は、前回も今回も昔も今も、何ひとつ変わっていません。

 私たち正信会は、すでに20年も前から、「北條文書」や「山崎 八尋文書」の内容が、池田創価学会の本心と野望を端的に示すものとして追及し、学会の抜本的是正を求めていました。しかしそれを阻んで「一時の感情」として不問に付し、創価学会の暴走を許したのは、他ならぬ阿部師自身だったのです。阿部師にはその点に関する公式的な謝罪発言がありません。その阿部師に統率されている宗門の皆さんが、事実関係を知らされすに、今ごろ当時の機密文書を取り上げて創価学会を批判しているわけです。

 現在の宗門と学会の争乱は、スキャンダルをめぐる名誉毀損事件をはじめ、末寺納骨訴訟など係争中の事件が引きも切らず、ところによっては暴力事件も発生し、抗争10年に至っていまだ憂慮せざるを得ない事態が続いています。また今後も予断を許しません。もし創価学会の52年路線が本当に是正され収束していたならば、今日の混乱と争いは、とうてい起こり得なかったてしょう。それても宗門の皆さんは、創価学会による「昭和52年路線」が日達上人の慈悲と善導により収束していたと主張しますか。

【宗門】しかし、昭和53年11月7日の「お詫び登山」の折、日達上人は「幸い、学会においてその点に気づかれて今後の改善のために、反省すべき点は率直に反省し、改めるべき点を明確に改める決意をされたことは、まことに喜ばしいことであります。〈中略〉相手の悪口、中傷をいい合うことなく、理想的な僧俗一致の実現をめざしてがんはっていただきたい」と仰せになりましたし、昭和54年4月の池田の会長辞任を受けて28日に開催された教師代表者会議でも、「会長が辞任願いを持って参りまして、会長をやめて一切の責務を退く、今後、学会のことに口を出さない、また院政というようなことも絶対にしないということを表明しておりました。宗門としてはそれで一応解決したものと見ております」と発言されています。これは日達上人の実質的な収束発言ではないのでしょうか。

【正信会】そうではありません。お詫び登山の折の日達上人の発言のなかには、「ここに確認された学会の路線が正しく実現されるということの上で」との前提条件がついていました。つまりここては、学会が反省すべき点を反省せず、改めるべき点を明確に改めなければ、これまでの問題に終止符を打つことはない、と意思表示されています。会長辞任の際の日達上人の発言も、「一切の責務を退く」「院政は絶対に敷かない」という池田氏の約束を受けたうえで、なおその解決に「一応の」という言葉を加えているわけです。

 しかも、このような一応の収束発言の背景には、正信会僧俗による全国檀徒大会(昭和53年8月、昭和54年1月)がありました。そしてこれに驚いた創価学会や宗務役僧も、宗内教師からあがる学会是正の声に真剣に対応せざるを得なくなったのです。日達上人が日蓮正宗の最高責任者として、節目ごとに事態の収拾を願われたのは事実です。

 その日達上人が、「僧侶達が学会に対してその誤りを指摘して、そしてここに結束して皆様と共に檀徒を作って、日蓮正宗を護ろうとしているその誠意は、誠に日蓮正宗の根本の精神を、広宣流布する為であるという深い赤誠であることを認めて貰いたいと思うのであります。まだまだある僧侶はいかに今迄間違った教義を宣伝されておっても、未だに平気な顔をしておる僧侶もあります。しかし、一応これらの僧侶も日蓮正宗の僧侶としておる以上、私はただ大きな心においてそれ等の身をまもり、又正宗の一つの団体の僧侶として守っておるのでございます」(昭和54年1月28日・第2回全国檀徒総会)と公式に発言されています。ここにいう「未だ平気な顔をしておる僧侶」とは、現在の「ご法主」を自称する阿部日顕師ではありませんか。

 日達上人の本心は、真剣に日蓮正宗の信仰を求める者を善導したいというところにありましたから、しばしば創価学会に対して厳しい発言をされ、姿勢をとられてもいました。それは日達上人最後の説法となる妙流寺(昭和54年7月17日)発言にも表れています。

 「仏教では『恩を棄て無為に入るは真実に恩を報ずる者なり』と法華経に説いております。今までかわいがられた、あるいは育てられたという恩を捨てて、真実の法を求めてこそ自分の父なり師匠なりを導くことになるということであります。よく学会の人が間違ったことを言いますね。『師匠が地獄へ行ったら自分も行っても良い』という考えは大変な間違いであります。よく考えなければいけません。そのような考えは、人を信じて法を信じないということであります。もしも師匠が地獄へ堕ちたならば、自分が本当の信心によって救ってやろうということこそ師匠に対する報恩であります。それを間違ってはいけない…」

 これは収束発言のあとの日達上人ご自身の創価学会批判であり、正法の護持と信徒の善導に真剣に悩まれた日達上人の偽らざる姿であったと思われます。日達上人の発言を都合よく引用して「収束した」とする認識は偽りです。

 このとき創価学会問題が収束していたとは、宗門幹部の主張の最たる過ちのひとつです。反省と懺悔は、言葉ではなく行動で示されることが大切です。創価学会がその過ちを是正しなかったからこそ、今日の混乱と争いがあるにもかかわらず、当時「学会が反省懺悔した」と主張し、「日達上人が敷いた創価学会との協調路線を自分も承継した」とする阿部師の主張は、まったく事実と異なっているのです。

 

 


 

第2章 阿部師は日達上人の後継なのか

 

化儀伝続からも、宗制からも資格はあり得ない

 

【宗門】日達上人は日顕上人に血脈相承を行なわれ、日顕上人も「実は昨年(昭和53年)4月15日、総本山大奥において、貌下(日達上人)と二人きりの場において、貌下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、これについて甚深のご法門のご指南を賜った」と公に発言されています。正信会はこの血脈相承を認めないのですか。

【正信会】もちろん、宗門の皆さんが無条件に認めているようには、私たちは阿部師を「法主」と認めるわけにはいきません。なぜなら、ご本人をはじめ、どなたも客観的事実をもって日達上人から阿部師への相承を証明できないからです。日達上人ご遷化のあと、弟子が勝手に「私か受けました」と宣言すれば、それが相承を受けたことになるのですか。たしかに先師が遷化された昭和54年7月22日を境に、今後の宗門はどうなるのかと宗内は混乱をきたしました。その際、通夜の席で椎名重役を通じて阿部師に相承があった旨が公表されました。ところが日蓮正宗の宗制宗規のうえからも、またあらゆる化儀伝統のうえからも、阿部師が正当に第67世を継ぐことは不可能だったのです。多くの宗門人が疑義をいだきながらも、ことは重大な相承の問題でしたから、おかしいと主張して阿部師の登座をさえぎる人はおりませんでした。そんな状況をこれ幸いと、一瞬の間隙を縫うようにして阿部師は貌座を奪い取ってしまったのです。

【宗門】しかし、正信会が日顕上人の血脈相承に疑義を呈したのは、それからだいぶあとになってからのことではありませんか。自分たちの都合が悪くなったので、あとから相承を否定したのではありませんか。

【正信会】私たちが相承に疑義を呈したのは、たしかに阿部師が登座して1年数か月を経てからです。しかし、本宗の化儀伝統に照らし、また宗制宗規に照らして、阿部師に相承があったという形跡がまったくありません。しかもご本人が証明すれば良いのに、それすらできません。疑義を呈するのに、遅いも早いもないでしょう。

【宗門】とはいえ、血脈相承というのは、ある意味では信仰的な事実ですから、ときとして眼に見えないことがあってもやむを得ず、それを信じることが大切ではありませんか。

【正信会】信仰的な事実だから証明できない、というのもおかしな話でしょう。そのようなことが起こらないように、本宗の化儀伝統があり、宗制宗規があるわけです。たとえば相承の大事について第65世日淳上人は、「仏法においては相承という事が誠に大切でありまして、これが明確でないと仏法が混乱してしまう」「仏法においては正法が混乱しないように相承の道を立て明らかにされるのであります。相承とは相い承けるという事で、師の道をその通り承け継ぐ事であります。すでに、師の道を承け継ぐのでありますから、必ず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したと言ってもそれは相承ではない」と仰せになっているではありませんか。

 日淳上人は、相承は厳格にして誰にでも分かるように証明されなければならず、授けた師の証明もなく、弟子が勝手に受けたと言っても、それは当宗の相承ではないと教示されているわけです。

 また日淳上人ご自身も、第64世日昇上人から明確に相承を授けられ、第66世日達上人に明瞭に授けておられます。仏法において相承の義が重要視されるのは、仏法が惑乱されることを恐れるからです。すなわち魔族が相承を受けたと詐称して仏法を破るからです。それを防ぐためにも相承をおごそかにして、確実に証明しなければならないのです。

 日淳上人は、もし相承が明確でなければ、仏法が惑乱されると警鐘を鳴らされ、私たちが信仰の正邪に迷わぬようにと配慮されました。

 登座後の阿部師の信仰観を知るにつけ、また、創価学会に対する教導の姿勢を見るにつけ、それはあまりにも先師とは異なりましたし、一方で客観的な事実が次第に明らかになってきたために、私たち正信会は阿部師に相承の有無を質す「お尋ね」をしました。もちろん回答はありませんし、いたずらに権威権力をふり回す阿部師の姿を、私たちは目の当たりにしてきました。宗門の皆さんは、このような人に、本当に相承があったと思っていますか。

【宗門】日顕上人が血脈相承を受けていないとすれば、日達上人のご遷化以降は日蓮正宗に管長・法主がいないという状態を意味しませんか。

【正信会】日蓮正宗の宗制宗規をご覧になれば、その心配には及びません。宗教法人日蓮正宗の法的規範となる「宗制宗規」は、間違いなく阿部師に法主管長に就任する資格がないと示しています。おそらく貌座を奪った阿部師も、そのときには宗制宗規を詳しくは知らなかったのでしょう。自分が無資格者だと分かっていれば、「私か受けました」といったそのあと、どういう状態になるかは容易に想像がついたはずです。

 さて、次期法主(貫首)の選定については、日蓮正宗の宗制に次のように明確に定められています。

「2 法主は、必要を認めたときは、能化(注=日号の公称を許された者)のうちから次の法主を選定することができる。但し緊急やむを得ない場合は、大僧都のうちから選定することもできる」

「3 法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役及び能化が協議して、第2項に準じて次期法主を選定する」

「4 次期法主の候補者を学頭と称する」

 この選定規定によれば、法主・管長に選ばれる資格者は「能化」でなければなりません。相承の儀に関して日達上人からお話を聞いたという昭和53年4月15日はもちろん、日達上人の遷化に至るまで、阿部師が能化に補任された事実はありません。また「緊急やむを得ない」事情があって、日達上人が当時大僧都だった阿部師を選定したのかといえば、そのあと1年3ヶ月もの間、日達上人が法主として法務に携わっていた事実からしてあり得ません。

 万が一、日達上人が健康に不安を覚え、また何らかの緊急の事態を認められ、昭和53年4月15日に阿部師を次期法主の候補者として選定したとすれば、後継候補として「学頭」に任じ、また「能化」に昇級させていたはずです。

 そしてこの規定のすべてにわたって、阿部師は資格者として該当しません。つまり阿部師は正当な管長でも法主でもないのですから、私たちは、阿部師に対して「管長の地位」にあるのか、それともないのか、法的な確認を裁判に求めました。

 しかし驚いたことに、宗門は私たちに対して、確認請求それ自体が血脈否定の謗法であるとのレッテルを貼りました。何も信仰上の問題を裁判所に判断してもらおうとは思いません。あくまでも相承の事実の有無を問題とし、規則に照らして正当か否かの確認を求めたのです。もとよりその訴えが、富士日興門流に流れる血脈を否定したものであるわけがありません。

 このような明確な事実をふまえ、私たちは何度も「お伺い書」等を提出しましたが、阿部師は「おれ以外に受けた者がいるのか」「おれが受けたのでなければ仏法がなくなってしまう」などとうそぶきました。しょせんは詐称である以上、証明は不可能ということなのでしょう。

【宗門】血脈相承の法主がいなければ、仏法は絶えてしまいませんか。日達上人から相承を受けた人だからこそ、これまで日蓮正宗を統率してきたのではありませんか。

【正信会】阿部師が相承を受けないからといって、仏法が絶えることはありません。また実際に、阿部師は相承を受けたと偽って日蓮正宗を支配してきましたが、それは正当な統率行為とはいえません。長い歴史のなかでは、こういう事態も起こり得ると いうことを、私たちは改めて認識し ています。

 日達上人と阿部師の相違は、数え あげればきりがありません。一例を あげれば、「法主」(貫首)の立場につ いて日達上人は「我が宗の三宝は、御 本尊が法宝、太聖人が仏宝、日興上人 が僧宝と立てます。それに対して日 目は座主である。……その日目上人 の後は、皆筒の流れのようにそれを 受継いで行くにすぎない。だから 代々の法主が日蓮大聖人ではない。 大聖人そのものと間違って書かれて よく問題が起きますが、その点は はっきりしてもらいたい」(昭和52年 5月26日、寺族同心会)と述べていま す。

 ところが、これに対して阿部師の 発言をあげれば「法主の心に背いて 唱える題目は、功徳がありません。こ れだけは、はっきりと申し上げてお きます。ですから、『法主にも誤りは あるんだ』などということを信者に 言いふらす僧侶も、また、それを信じ て平気で法主を誹謗するような信徒 も、同じくそういう人の唱えるお題 目には功徳はない、と私は申し上げ る」(昭和55年7月4日、全国教師指 導会)と述べています。

 日達上人は、三宝をお守りする日 目上人の座を「法主」が預かるという 意味でお話をされているのに対して、 阿部師の場合は、貌座を奪った翌年、 「法主」の座にある自分が、大聖人と 同等の立場にあるかのような発言を してはばかりません。

 以来、阿部師はしばし「御仏智」な る表現を用い、あたかも大聖人のご 意思に従っている自分に異議を唱え ることは師敵対になる、と思わせる ような発言をしてきました。

 そういえば、大客殿の破壊や正本 堂の破壊の際にも、「御仏智」はその 言い訳として用いられました。道理 を尽くさず、また法門のうえからも 十分納得のいく説明をせずに、いた ずらに「御仏智」をふり回して仏法を ほしいままにする阿部師の暴挙に、 宗門の皆さんは翻弄されているので はありませんか。

 大石寺では日達上人の時代、昭和 30年代に大講堂・奉安殿・大化城・大 坊・大客殿が建立され、その後も正本 堂建設を中心に六壷・総坊・納骨堂・ 裏塔中などが建立整備されました。 しかしそれらの伽藍の大半は阿部師 に破壊されて姿を見ることができま せん。阿部師は諸堂宇の解体理由を 「大震災への対策」「願主池田の大謗法 」にありとし、それは御仏智のしか らしむるところ、と述べています。し かも破壊にとどまらず自身の名誉心 のために、新たに新客殿を建て、今度 は法義的にも判然としない奉安堂を 巨額のご供養を募って建立するそう ですね。これらの行状はひとり阿部 師の責任ではなく、それを見ながら、 また聞きながら諌めようとしない者 すべての罪過として問われているの です。

 

 


 

第3章 富士日興門流の血脈を守る

 

大聖人・日興上人以来の信心を違えずに正しく継承

 

【宗門】ひとつの器からひとつの器へ 水を移すように、血脈は連綿とつづ いて現在にいたっているというのが 日蓮正宗の伝統ではなかったのです か。それを否定してしまえば、血脈が 断絶し仏法が絶えてしまうことにな りませんか。

【正信会】私たちは阿部師への相承に 疑義を呈しました。しかし富士日興 門流の血脈そのものを否定してはお りません。阿部師が相承を受けてい ないからといって、富士の法脈が途 絶え、仏法がなくなってしまうと考 えるのは誤りです。

 宗門の皆さんのなかには、「正信会 が宗務当局から処分され、その処分 を無効として対抗上、相承の疑義が 持ち出されたのだ」と教わった人も いるようですが、いやしくも宗内の 教師僧侶を大量処分に付した当事者 である阿部師に、そのような処分を 行なう正当な資格があり、また正当 な処分理由があるのかとうかを問題 視しないわけにはいきません。

 何度でもいいますが、もし正当な 資格があるならば、それを自ら証明 し宗内に告知すればよいのです。皆 さんもそう思いませんか。阿部師に 相承があったのか、それともなかっ たのか、明確にそれを証明してほし いものです。その証明をせず、いたず らに強権を発動して宗内を混乱にお としいれ、疲弊させているのは、ほか ならぬ「法主」詐称の阿部師自身では ないのでしょうか。

 宗門の皆さんは「正信会も当初は 日顕上人のご登座を認めていた」と いいます。しかし私たちは、「認めて いた」のではなく、「認められるのだ ろうか」との素朴な疑問をいだいて いたのです。私たちは阿部師の発言 に左右されて、創価学会の是正をは じめとする正信覚醒運動を放棄した ことは、だったの一度もありません し、宗開両祖の教えを学び、その仰せ に忠実であろうとし、一貫して覚醒 運動を進めてきました。

 私たちは、阿部師に対して、それま での創価学会側に立つ姿勢を改めて 富士の法門を求め、正法護持・謗法厳 戒の道を歩み、池田学会を教導する こともあり得るのではないかという、 いちるの望みをいだいていたことも 事実でした。また自省の念を込めていえば、近年の創価学会によって醸し出されていた法主絶対的な信仰観に、私たちも慣らされ、翻弄されていた面がたしかにあり、不覚をとったのも事実です。

 

貫首は三宝の護持に当たる立場

 たとえば、第3回全国檀徒大会を大石寺で開催するに当たり、準備のため数日前に阿部師と面談した折、内々に創価学会と通じて、大会を妨害しよう、覚醒運動を混乱させようとたくらむ阿部師の意を読みとり、私たちは阿部師から突きつけられた大会開催の粂件(阿部師の法主としての立場を最大限に認める)を飲んで、やむなく不本意な発言をしたこともありました。しかし、当時の私だちのなかに、そのような誤った信仰観が存在していたことも、否定できない事実です。

 誤った信仰観とは、宗開両祖の法門、先師のご教示より、現在の「ご法主上人」と称する人の言動を重用する、法主絶対的な感覚をもって富士門の信仰と見誤ることです。

 しかし、正信覚醒運動が創価学会問題の是正に始まり、富士日興門流の法門再興を念願する方向へと進展するにつれて、阿部師の邪義・非道ぶりが顕著となってきました。そこで私たちは、ご開山日興上人の「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との遺誠に従いました。このときから、法主絶対観に立つ信仰は、私たちの覚醒運動のなかから払拭されていったのです。

【宗門】本宗では、大聖人より血脈を相承あそばされた二祖日興上人、さらにそれを継承された三祖日目上人以来のご歴代上人方を僧宝と仰ぐのではありませんか。そうなると、日顕上人を否定すれば僧宝の座に連なる法主を否定し、おのずから日蓮正宗の三宝を破壊することにつなかっていきませんか。

【正信会】富士日興門流の三宝は、仏宝を本仏日蓮大聖人、法宝を本仏証得の南無妙法蓮華経、僧宝を第二祖日興上人と立てています。さらにこの仏法僧の三宝を尊崇護持し、お給仕申し上げ、一切衆生の成仏のありようを身をもって示されるところの三祖日目上人を座主と拝します。もとより、私たちは法主を詐称している阿部師を歴代・座主とは認めていませんから、阿部への疑義を呈したこと自体が僧宝の座の否定となとは思いません。当代の貫首は本来、仏法僧の三宝に深く帰依し、その護持にあたるべき立場なのです。したかって貫首みすがらが三宝の内に組み込まれ、現在の阿部師のように、一方的に崇拝される立場に居座ってしまうなど、とうてい許されることではありません。

 日達上人の仰せのとおり、歴代の貫首は、三宝の中に座って大衆に臨むということではなく、むしろ三宝を護持し、お給仕申し上げる大衆の側にあると考えるべきでしょう。これは、貫首を僧宝のなかに入れるという義をかたくなに拒むということではありません。貫首は三宝と大衆の中間にあるともいわれますから、一分その意義を与えることもありましょう。しかし基本としてのあり方は、貫首が大衆・弟子分に位置するという立て分けを確認しておかないと、ときとして貫首が宗開両祖に等しくなったり、さらには両祖を凌いでしまう阿部師のような「貫首」が出現してしまいます。

 富士門流においては、当代の貫首は弟子の位置の頭に座し、大衆とともに仏道修行に精進する立場です。宗門の皆さんは、私たち正信会をさして「師敵対の大謗法」であると教わっているようですが、富士門僧俗の根本の師はどなたですか。日蓮大聖人をおいて、他に師がいらつしやるのでしょうか。日蓮大聖人の仏法を、ほしいままに私する貫首など、道理に照らして破すべきではないでしょうか。また、そのような邪義を見て置いて、迎合して恥じない幹部僧侶こそ、師敵対の謗法というべきではありませんか。

【宗門】正信会は日興上人以来のご歴代上人を軽んじ、僧俗大衆(正信会)こそが真実の僧宝であると主張しているのではありませんか。またそれは、「創価学会こそが今日における僧宝」という妄説と軌を一にする邪義ではありませんか。

【正信会】どうも宗門の皆さんは、私たち正信会を、創価学会とセットで「邪義」「邪教」というふうに思い込みたいようですね。学会を破門する前は、宗門は創価学会と結託して正信会を攻撃していたではないですか。むしろ宗門こそ、いまだに創価学会の法主絶対・外相偏重の信仰観に毒されているのではありませんか。ぜひとも、そのことに早く気づいてもらいたいものです。

 もちろん、富士の法門を求めてやまぬ正信僧俗のなかにこそ、宗開両祖以来の血脈法水は流れ通っていると、私たちは誇りも高く自負しています。しかし学会の主張する「自分たちは僧宝だ」などという錯覚には無縁です。そのような慢心もなければ、師弟の筋目を違える思いも、私たちにはありません。私たちはご開山日興上人を唯一の僧宝として厳格に尊崇していますから、弟子の立場に迷い、それを踏み越えて本師に匹敵するような言動をとろうなどという慢心はありません。

 ところが、宗門の皆さんはどうでしょう。阿部師は師弟の筋目を完全に違えてしまっています。なぜなら「法主上人」の立場にある阿部師自身が「戒壇の大御本尊と不二の御尊体」であるなどと弟子に語らせているからです。

 これこそ、とんでもない発言では ありませんか。宗開両祖に肩をなら べようとする阿部師こそ、僧宝の破 壊者ではありませんか。三宝を遵守 すべき立場の阿部師が、大聖人の法 魂と「不二」の身となり、また当代貫 首を称する自分を、ためらうことな く僧宝に当ててその権威を極上のも のとすることで、結果として宗門の なかで、阿部師が現在の絶対権威者・ 絶対権力者として君臨することに なっているではありませんか。

 これこそ誤った血脈観にもとづく ものであり、僧宝の立て方に大いに迷っている証拠以外の何ものでもありません。このように三宝に迷う宗門の信仰には、残念なことに、富士の法水が流れ通うことは断じてあり得ません。宗門の皆さんは、この点をよくよくお考えください。

【宗門】日顕上人に血脈がないというなら、一切衆生を成道へと導く富士門流の血脈とは、いったいどのようなものなのですか。

【正信会】私たちは日有上人の「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり(中略)高祖已来の信心を違へざる時は我等が色心妙法蓮華経の色心なり」との仰せに沿う富士伝燈の法門に血脈を観ています。

 宗門の皆さんは「日蓮正宗の血脈は大聖人以来、歴代法主に伝えられてきたものであるから、血脈を受けて神秘的な能力をそなえた法主がいてこそ大衆が救われるのであり、そ れが本宗の命脈である」という考え方なのでしょう。しかし、このような考え方は大聖人の仏法とはかけ離れています。

 富士日興門流における血脈は、何か得体の知れない神秘的な能力を秘して授けたり受けたりするというようなものではないのです。その本当の意味は、大聖人・日興上人以来の信心を少しも違えることなく、また余計なものを交えず、正しく継承し弘通していくところにあります。

 もともと、仏教の目的は一切衆生 の成仏にあるのであって、ただ「法主」一人の権威のために仏法があるわけではありません。血脈も教団統率者としての「法主」の権威を保証するためのものではありません。正法 正義を求め、正信に住する人たちのなかにこそ、日蓮大聖人の血脈法水は流れ通うということを、宗門の皆さんもよく自覚してください。

 それにしても、「血脈の貫首を否定するのは異流義」とする阿部宗門の血脈とは、いったい何を意味しているのでしょうか。阿部師は自身の相承の疑惑に対して次のように述べています。

 「もしも日達上人が相承をなさらなかったとすれば、どうなりますか、仏法は絶えたことになるではありませんか。日達上人がもしもそのことをなさらないで御遷化になったならば本当に仏法はなくなっているわけです」(昭和57年3月31日、第3回非教 師指導会)

 語るに落ちたとは、このことでしょう。やはり阿部師は、相承の有無と血脈の存否とを混同し、自分が相承を受ける行為のなかに、大聖人の仏法の一切が秘伝されるといいたい のでしょう。阿部師はさらに、このようにも述べています。

 「もしもなくなったならば、大聖人は仏様ではないということであり、 末法の一切衆生を成仏させることはできないことになる」(同)

 何とも珍妙な発言です。たしかに富士門流は上代から「血脈の宗旨」と称してきました。しかしこのような阿部師の発言を耳にすると、すでに 「血脈」の内容自体が相当に変化してしまったことが分かります。本来は宗開両祖のご法門、富士の立義そのものを血脈と称していたのですが、 教団や組織を管理するために、便宜的に「法主」を仏法の全体を掌握しているひとりの絶対者に見立てたのは 近代の創価学会でした。

 創価学会は「血脈付法」の法主に絶対的権威を与えるよう仕向けて富士の法門を混乱させました。また宗門も大聖人の魂が歴代上人に伝わって現貫首へきているから、貫首を信ずることが大聖人を信ずることになると主張し、その結果、貫首が白を黒といえば、白いものでもみんな黒くなってしまうという本末転倒の考え方を誘引してしまったのです。

 血脈を「法水写瓶」とも表現しますが、これは現実の上でひとつの器からもうひとつの器に水を移し、現貫首のみが法水の所持者であるという意味で単純にとらえるべきではありません。もともと「法水写瓶」とは、 本仏の慈悲が永遠に閻浮提に流れ、 一切衆生を潤してやまないことを示す法門上の比喩なのです。しかし成仏のための血脈も、その意味を取り違えるならば、かえって仏法を破り、 成仏への妨げとなるということを、 私たちも、そして宗門の皆さんも知らなければなりません。

 宗門は富士日興門流本来の血脈を見誤ることで、当代貫首の位置が三宝に匹敵するものと錯覚し、それが災いして、僧宝観はおろか、仏宝観や法宝観にいたるまで歪みを生じてしまっているようです。

 みずからの野心のために貌座を奪った阿部師と、名聞名利を求めた宗門の幹部僧侶は、まさに邪心をもって法門を展開したがゆえに、本 宗における三宝の立て方を見失い、 富士門の本来の信仰を破壊してしまったといえましょう。

 

 


 

第4章 本尊観の歪みと法門の混乱

 

凡眼凡智には決して映ることのない宗祖の御魂

 

【宗門】正信会では、戒壇の大御本尊に対し「ダイナマイト一本で吹っ飛ぶような物が、大聖人の究極の本尊であるわけがない」とか「宗門の本尊観は唯物の次元に堕している。色法の御本尊の奥に、眼には見えない御本仏の心法を拝する。その心法こそが常住不滅の真実の大御本尊である」 と論じています。しかしそれは法華経に説かれる深理を知らず、戒壇の大御本尊をさげすむ妄説だと聞いています。

【正信会】私たちは、眼に映る外の世界ばかりにとらわれ、板に顕されたその奥に確かに存在する本仏の内証(心法)を拝しようとしない宗門や創価学会の唯物的な本尊観の誤りを指摘しているのです。宗門ではお文字が顕わされている板そのものを本仏本尊であるとし、それは永遠であり消滅しないと主張します。また消滅しないと信ずることが本宗の信心であるといってはばかりません。

 あらゆる事物・事象は諸法無常の法理を免れません。にもかかわらず 内証本尊がお文字として顕された板曼荼羅だけは、その範躊に入らないというのでしょうか。板そのものを永遠不滅と断定すれば、それはもう外道の論議であり、仏法上の論議とはなり得ません。

 もとより御本仏・戒壇の大御本尊がダイナマイト一本で吹き飛んでしまうとは思ってもおりません。ただ宗門や学会が主張する唯物的な本尊観の間違いを指摘し、宗門の皆さんに、本来の本尊観はこうではありませんかと述べているだけなのです。

 報恩抄には「日蓮が慈悲礦大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来まで恚ながるべし」と仰せです。この「日蓮が慈悲」とは、永遠に滅せぬ本尊であることはいうまでもありませ ん。

 宗門の皆さんは、正信会が大御本尊を「物」としか見ていないとも非難していますが、そうではありません。 大御本尊が楠の板の上に顕されているのは事実ですが、私たちはそこに示されている御本仏の御魂(心法)こそを大御本尊と拝するべきであると申し上げているのです。

 そもそも、大御本尊を「物」として眼に映し、楠の板自体を本仏・本尊と崇めているのは宗門の皆さんではありませんか。大御本尊はとうていこの肉眼では拝し得ぬものですから、 御宝蔵に秘蔵され、今日まで信心の眼をもって拝されてきました。それが本来の姿ではありませんか。

 板の上にお文字をもって示された本仏の内証を拝し、己心に頂戴してこそ御本尊の実義があるにもかかわらず、物や形しか尊崇できない信仰は、偶像崇拝との非難を免れることはできません。草本成仏口決の「草本にも成り給へる寿量品の釈尊」との文証を出して、正信会を論難する向きもあるようですが、これは草や本そのものが文底寿量品の釈尊ということではなく、無常である草にも木にも顕れる文底寿量品の釈尊という意味なのです。

 御本尊とは、根本として尊敬すべき信仰の対境です。私たちは何を本とするかによってその信仰が定まるのです。富士日興門流では、宗祖の顕された妙法曼荼羅をもって本尊と しますが、単に偶像的対象として本尊を拝するものではありません。そ こには宗祖の法門の一切が納められているのですから、その由来を求め、 正しく拝していくことが信仰の基本となるでしょう。

 宗祖は「日蓮がたましひをすみにそめ流して・かきて候ぞ信ぜさせ給へ」(教王殿御返事)と仰せられています。「日蓮がたましひ」とは、宗祖 が証得された事の一念三千、己心内証の御本尊です。「すみにそめながし て・かきて候」とは、その内証の御本尊を一幅の曼荼羅として図顕されたことを示します。もちろん墨に染め流して図顕された曼荼羅それ自体は 無常を免れるものではありません。 墨そのもの、板や紙そのものが宗祖の魂ではありません。しかし私たちは信仰上、板や紙や墨を通して顕された宗祖の御魂こそを、永遠性を有する御本尊として拝しているのです。 「日蓮が魂」は凡眼凡智には決して映りません。だからこそ宗祖は魂を墨に染め流されたのであり、宗祖が 証得されたところの御本尊を信ずるとは、行者がその己心に本尊を受持することなのです。

 ゆえに宗祖は「日蓮が魂」を「信じさせ給え」と仰せになっているのです。「日蓮が魂」「曼荼羅」「行者の受持」が一体となって、ここに初めて本尊が整います。

 さらに宗祖は「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とも仰せです。「行者の一身」とは当然、法華経の行者である宗祖ご自身を指していますが、大聖人の法門を信受する富士門の僧俗は、受持の一行によってその刹那に、等しく己心に御本尊が建立されるということが、ここに示されています。

【宗門】かつては身延派からも「日蓮正宗は紙や板にとらわれているから 唯物的な思想だ」という論難があり ました。また正信会では「眼に見えない仏の心法を大御本尊として信じていれば、わざわざ大石寺へ参詣して大御本尊を拝む必要などない」と主張しているようですが、それは正信会が大石寺から離れて異流義集団として存続していくための布石ではな いのですか。

【正信会】身延派との問答で、日蓮正宗は戒壇の大御本尊の裏づけとなる富士の法門を丁寧に説明せず、ただ 物体としての板本尊を「所有している」ということを強調して自派の正統を主張してきました。そのことが 身延派に「唯物的な思想」と受け取られたのでしょう。日蓮正宗が、板本尊所持の強調だけではなく、富士日興門流本来の成道を示す法門を論じていれば、「唯物的な思想」などという要らぬ批判をこうむることはなかったはずです。

 いつの頃からか、大石寺では「板の戒壇本尊ありき」がすべての中心になってしまい、一切衆生の成道を認める肝心の法門が見失われてしまったようです。宗門では正信会を身延派と同じと決めつけたいようですが、 私たちは板や紙に顕された御本尊を軽んじてはいませんし、曼荼羅本尊を信仰の対境として日々尊崇礼拝しています。

 正信会が異流義集団として存続をはかっているとのことですが、そんなことはありません。「法主」を詐称している阿部師に支配され、ほしい ままに独断専横が展開されている現在の宗門に、どうして宗開両祖の御魂が存在するでしょうか。私たちは、 純粋に富士の法水を求めてやまぬ正信の僧俗の心中にこそ、大聖人の法魂は存在すると誇り高く主張するのみです。

 

尊い先師先達のお心を拝して

 700余年に及ぶ富士門の歴史を見るとき、時代の混乱や想像を絶する苦難のなか、宗開両祖の法門を懸命に護り伝えてきた多くの僧俗がおられたことが分かります。私たちは日蓮正宗という名称を盾に、伝統や伽藍を利用する現宗門の統率者にくみすることなく、尊い先師先達のお心を拝して、富士の法門と信仰を、この 時代にひたすら護り伝えていこうと の誓願を鮮明にしているだけのことです。

 私たちは、日蓮正宗、富士大石寺から離脱したわけでもなく、異流義化した事実もありません。また自ら好んで宗門を離れたわけでもありません。私たちは貌座をかすめ取った偽貫首や創価学会の邪義を批判し、富士日興門流本来の法門を求めようとしました。にもかかわらず偽貫首によって、正信の僧俗は不当な擯斥を受けたのです。もとより「富士の本流」を自認する正信会ですから、宗門に対抗するために、わざわざ異流義をかまえ、一派を旗揚げする必要など毛頭ありません。

 富士日興門流の信仰に縁する人たちが、いたずらな混乱と争いから脱するには、我見をさしはさまず、宗開両祖の法門を探求する以外にありません。そのためにも「法門をもって邪正を糾す」ことが肝要であり、それこそが宗祖のお心に叶うものといえるでしょう。

 さて、宗門からの離脱僧は、いわゆる「河辺メモ」(阿部教学部長が戒壇本尊を偽物と発言した旨が記されて いるメモ)の内容を声高に糾弾して います。偽貫首の阿部師は「御指南」 のなかで、この「河辺メモ」を「客観 的な言旨を極めて主観的な形に書き変えた慈篤房の記録ミスである」と し、戒壇の大御本尊の相貌を「鑑定」 しています。しかし同じ「御指南」のなかで「ある時に慈篤房と客観的な話しをしたような記憶は存する」とも述べています。一方の河辺師も、このときの阿部師の話が強烈な印象に残ったと証言しています。しかもこ の事件は、宗門に迷惑をかけた河辺師が、北海道札幌市の日正寺から東京都新宿区の大願寺に「栄転」するという首を傾けざるを得ない人事のオマケまでついていました。宗門の皆さんは、こんなごまかしさえ指摘できませんか。まさにいま、宗門に身を置く一人ひとりの信仰心が問われていると思うのですが、いかがでしょうか。

【宗門】戒壇の大御本尊にお目通りで きなければ成仏はできません。大石寺に登山できず、大御本尊へのお目通りもできない正信会の人たちは成仏の道を閉ざされているということになります。

【正信会】宗門の皆さんにお尋ねします。大石寺では、いつから戒壇の大御本尊を公開するようになったのでしょうか。

 私たちは法門のうえから、さらには信仰実践のうえから、戒壇の大御本尊の在処とともに、板にお文字をもって顕された御本尊を肉眼をもって直接拝する(直拝)のか、もしくは 信心の眼によって拝する(遥拝)のか、ということについて問題を提起 してきました。そして戒壇の大御本尊は肉眼をもって拝するのではなく、 あくまでも信心をもって拝するのであり、信心をもってして初めて拝することができるのであるから、遥拝の形が正しいと主張してきました。

 対する宗門では、信不信を問わずに連日のご開扉を行ない、そればかりか、しっかりと肉眼をもって拝んでこそ功徳があり、成仏があると主張しています。信心の内容、心のあり方を問うことよりも、むしろ大石寺に参詣して大御本尊を肉眼で拝することを優先し、それが本当の信心であると主張しているようです。しかし、対象としての曼荼羅さえ拝していればよしとする考えは、偶像崇拝の信仰と何ら変わりありません。 妙法の曼荼羅は、色相を尊ぶ旧来の仏像・菩薩像・曼荼羅絵図への偶像崇 拝を打破し、行者の己心内証に証得する御本尊を顕そうとしたものとい えます。ところが現在の宗門では、大御本尊が他宗他門の仏像以上に偶像的に崇拝されています。

 ちなみに日寛上人は、「本尊抄文 段」において、妙法蓮華経の五字の左右に文字をもって仏菩薩を顕すのと、 色相の仏菩薩をもって顕すのとでは、 どのように意味が異なるのかと設問 し、文字は無作本有の体徳をあらわ しているのに対して、色相の造立(仏菩薩等)は迹中化他の形像に執することになると、その違いを述べています。

 本来、形のない無作の体徳(己心の 世界)を顕すには、形像よりも文字が ふさわしいということであり、文字による十界曼荼羅は己心内証・観心の本尊を建立する必然より生じていると考えなければなりません。 こうしてみると、すでに大御本尊にそなわる一切衆生成道の法門を観ようとせず、戒壇本尊の直拝を強調する偶像崇拝的な信仰に堕してしまった宗門は、誤った法宝観に立っているといわざるを得ません。

 日寛上人はまた「撰時抄文段」にお いて、文底のいわれを知るか否かでは、その差は天地雲泥であり、ましてや仏法のいわれを知ることがなければ、それは世法と何も変わるところ がなく、名利という世間的利益を欲する僧侶らが、仏法をもって世を渡るための橋として利用するようなも のである、とも戒めています。大御本尊の法門的背景とその真意を探求しようともせず、あたかも教団の利 益の源として偶像崇拝的に大御本尊を取り扱う現宗門の本尊観こそ、日寛上人のご教示を空しくし、衆生成道の方途を妨げることになるのではありませんか。宗門の皆さんは、いまこそ立ち止まり、その非がどこにあるかをよく省み、富士門本来の本尊観を熟考してください。

 とにかく相承の証明もできず「戒壇の大御本尊と不二の御尊体」などと奉られて平然としている阿部師が 「一切衆生の成道を一手に握ってい る」というような妄念妄想から、皆さんは一刻も早く目覚めるべきでしょ う。法義的な裏づけもなく戒壇の大御本尊を思いのままに遷座し、仏法を渡世の具となすことなど、本仏の罰を恐れない蛮行であることに気づき、速やかに改めてもらいたいものです。どうか宗門の皆さんも、勇気を出して諫言してください。

 

 


 

第5章 宗祖求道の基本姿勢とは何か

 

依法不依人の精神を忘れた阿部宗門

 

【宗門】当初は創価学会の謗法を責め、日蓮正宗を護ることだった正信覚醒運動の目的は、さらに法門再興へと進展していったということです が、正信会はどうして宗門と歩みをともにしないのですか。

【正信会】むしろ阿部師や、皆さんを率いている宗門の幹部僧侶に、私たち正信会を認めたくない理由があるのではありませんか。また私たちも、 いまの宗門の現状を見聞するにつけ、 そこに富士の清流が通っているとは、 とうてい思えません。

 宗門の皆さんは、この覚醒運動がなぜ「法主」という権威や権力をものともせずに進められ、今日まで一貫 して継続しているのかという点をどう思いますか。

 宗門と創価学会が結託して正信会を排除したとき、私たちは利害損得で結びついている両者のあいだに、 必ず亀裂が入るときがくると訴えてきましたし、宗門に対しても、また創価学会に対しても、法門の混乱・歪曲を指摘し続けてきました。

 宗門の皆さんは、阿部師が登座してからの宗門と創価学会の「協調路線」がもたらしたもの、また宗門と創価学会のトップ同士がののしり合って紛争を起こしてからの、今日までの両者の応酬の数々、そして私たちの覚醒運動の歴史と事実とを、ありのままに認識すべきです。

【宗門】日蓮正宗を護るという正信会の当初の主張は、宗門から処分され て変わってしまっだのではないのですか。日蓮正宗を護るという言葉に、 正信会はどのような意味を込めているのですか。

【正信会】おそらく、宗門の皆さんは 「日蓮正宗を護る」ということの本当の意味をご存じないのではないでしょうか。また正信会が「権力闘争」 に牙をむいているかのように言い立てて、故意に覚醒運動の本質を隠した宗門の僧侶がいますが、そういう人たちの言動に、皆さんは惑わされているのです。

 宗祖日蓮大聖人の求道の基本姿勢をご存じですか。「依法不依人」の精神に立つことです。その精神を忘れて、ひたすら自身の俗的な名聞名利、 現実の教団の利害損得にのみ執着している人たちが、宗門の皆さんをリードしているのですから、これは大変なことです。心の奥で「こんなはずではなかった」と思い、真剣に富士門の正しい信仰をしていきたいと望んでいる皆さんの前に、名聞名利を価値基準として物事を考えている人たちが立ちはだかれば、皆さんの成 道は妨げられてしまいます。

 普遍の真理を求めてやまない仏道の修行者ならば、何をおいても仏法の道理に照らし、宗開両祖のお振舞いに照らして、ことの是非・善悪を判断しようと思われるでしょう。しかしそのような富士日興門流の信仰姿勢を、宗門の幹部僧侶の言動に見ることはできません。

 私たちはこの運動が起こった当初から、創価学会の謗法を指弾し、日蓮正宗を護るという姿勢を一貫して堅持し今日にいたっています。この日蓮正宗という名称は、上代では法華宗とも富士日興門流とも称されました。門流名は時代とともに変わって、 明治以降は「日蓮正宗」となりました。したがって「日蓮正宗を護る」とは、富士日興門流の法脈を護ることを意味します。

 もちろん日蓮正宗が、この仏法を信仰する人たちが集って形成されている教団である以上、その団体のなかに継承されてきた法義を護る、そ れが日蓮正宗を護るということでなければなりません。ところが信仰心が欠如すると、肝心の法義を忘れ、団体そのものが保証してくれる利益に目を奪われ、またそのような目をもって権威・権力というものに執着していくのです。

 ご開山日興上人は、民部日向師等の軟風に染まった身延山にこだわることなく、富士の大石が原に法華の道場を建立し、富士の法義を立てて本法万年の礎を築かれました。私たちも日興上人の精神を継承しなければなりません。それは原殿書に示されている「いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候え」との依法不依人の精神であり、正法正師の正義を堅持するということなのです。

【宗門】しかし日興上人が開かれた大石寺を離れて、成道にいたる信仰というものができるのですか。

【正信会】日興上人は「いずくにても」 と仰せになっています。私たちは好んで大石寺を離れているわけでもなければ、富士の立義と相違する異説を唱えているわけでもありません。 日興上人の遺誠置文の冒頭に、「富士の立義いささかも先師のご弘通に違せざる事」と示されていますし、かつて先師日達上人が、創価学会の横暴を前にして「一人になっても護る」と仰せられた際の、その護るべき対象とは、富士の立義、つまり日蓮大聖人の仏法そのものだったことは言うまでもありません。それとも、宗門の皆さんは、富士の立義より大石寺の境内や伽藍や、法的な本寺と末寺の関係から離れるべきではないと主張しているのですか。

 

教団の価値は仏法の護持伝承に

 私たちが「日蓮正宗を護る」という言葉に託しているのは、宗開両祖のお心である法門を護るということです。それは20余年を経過したこの覚醒運動に当初から貫かれている、い ささかも変わることのない不動の理念なのです。

 そもそも日蓮正宗は、その団体が 所持する仏法の護持伝承があって、 はじめて存在の価値が認められるのではありませんか。もしそこに仏法が存在しないのであれば、ではその団体のどこに存在価値があるのでしょうか。決して教団があるから、大石寺があるから成仏の教法があるのではありません。成仏の教法がそこにあるからこそ、その教団の存在意義があり、大石寺が尊重されるのです。宗祖は「法妙なるが故に人貴し人 貴きが故に所尊し」(南条殿御返事) とご教示です。所よりも人、人よりも法が尊まれるべきです。むろん相承の証明のない阿部師よりも、場所としての総本山よりも、仏法を根本としなければなりません。法を軽んじてカリスマ「法主」にひれ伏し、教団 組織の利害損得のみに執着することの罪過は計り知れません。

 この法義と教団との関係を転倒させて、教団の維持運営のために教法を歪曲してしまった人が日蓮正宗のなかから出てきました。現実に創価学会が教法を歪曲してしまったことは、皆さんもそれなりに勉強してご存じのことと思います。しかし、覚醒運動の歴史をふり返れば、教法の歪曲を指摘して仏法を護ろうとした私たち正信会は、創価学会を擁護した阿部師に排斥され、阿部師をはじめとする教団幹部は、日蓮正宗という団体の存在によって得られる自身の利益を護ろうとしたのです。

 正信覚醒運動は、創価学会の謗法・ 逸脱を責めると同時に、学会の暴走を許した宗門にも相応の責任があると指摘しました。学会の急膨張に対応できずに宗門が指導性を失ったという事実、または学会の政治力や経済力によりかかり、結果的に宗門が学会に追従することになってしまったという事実を事実として認め、その経緯を踏まえたうえで、宗門人としての反省を深く自覚して進められてきたのがこの運動です。

【宗門】日達上人の本心は、やはり創価学会も含めて一宗をうまく統率していくことだったと思います。しかし正信会がその本心を理解せずに暴走したので、のちに日蓮正宗の統制と秩序が破壊されることを憂慮した日顕上人は、やむなく正信会を懲戒に処しました。

【正信会】阿部師には懲戒の権限はありませんし、日達上人の本心を理解できなかっだのは、現在の宗門幹部です。私たち正信会は仏法の歪曲・改竄を恐れ、現在の宗門幹部は教団の混乱を恐れたのです。教団を浄化するためには伝統にくもりをかけている旧弊を断たなければなりません。 そのためには改革への強い意志も、 進取の気性も必要です。そのような道程には、いくつもの困難が待ちかまえているはずです。

 しかし、それを恐れ、旧態依然のままでいては、日蓮正宗を、一人ひとりが大聖人の仏法を護持し弘通していく本当の意味での富士日興門流へと脱皮させることができません。それでも皆さんは、現在の宗門に安閑としていたいのですか。

【宗門】決して安閑としているわけではありません。日顕上人も、「今日、日本ないし世界最大の邪宗教は何かといえばまさしく創価学会であります。 これをはっきり肝に入れてください。 そうであるならば、生ぬるい風呂の湯に入ったようなグズグズした考え方は一挙に捨てて、創価学会を慈悲の上から徹底して破折しなければいけないのだという気持ちを、はっきり持っていくことこそ大切だと思うのであります」(平成6年5月26日全国教師・寺族指導会)と訴えられています。

【正信会】それはご立派なことだと思います。でも、どこか変ですね。私たちが創価学会の教義違背を懸命に糾していたとき、自分が善導するから 学会を破折してはいけないと制止し、 学会を責めることは法主の意に逆らうことになると主張し、さらに、法主の意に逆らう者は日蓮正宗から出ていけと述べたのは、ぽかならぬ阿部師でした。しかも、公然と「大石寺の 燈燭を守ってくれているのは創価学会だ」といい放つたではありませんか。本山の財政を優先させることも 「御仏智」ですか。せっかく昭和54年に総講頌を辞任した池田大作氏を、 また総講頭に復帰(昭和59年1月)させたのも「御仏智」だったのですか。

 宗門の皆さんは、阿部師から「創価学会を責めるな」といわれれば責めないのですか。「責めろ」といわれれば責めるのですか。謗法を責めるのも放置しておくのも、阿部師の指次第ということなのですか。日蓮正 宗の信仰は、阿部師にすべてをお任せして自分の意思を放棄する信仰のですか。そうでなければ成仏でき ないのですか。その文証はどこにあるのですか。

 私たちは「護法」をかかけ、創価学会員の覚醒を願って正信覚醒運動を進めてきました。また富士の法門を明らかにし、この信仰に縁した人びとに対して、成仏への道をともに歩もうと主張してきたのです。覚醒運動は各自の道念のもと宗内に広く展開され、ついには日達上人の共感と支持を得るまでになりました。ひとえに正法を求め、宗開両祖をはじめ富士の立義に信順する人たちが結束したこの運動の根底には、宗祖大聖人の「依法不依人」という求道の基本姿勢が貫かれているのです。

 宗門の皆さんが「法主」と仰いでいる阿部師は「自分が創価学会を善導する」といいましたが、結果はどうなりましたか。惨たんたるものでしたね。「御仏智」が聞いてあきれます。自 分の虚偽や過誤や不明や不徳を「御 仏智」という言葉で隠そうとしても、 決してそれができないということを、 事実をもって教えてくれるのが「御仏智」であると考えるべきではないでしょうか。

【宗門】もし、ご法主上人のご指南のもとに信仰するのが間違いであると非難するならば、では、どなたの指導にしたがうべきですか。

【正信会】私たちが仏道修行と称するのは、みずから仏の法を求め、みずからの意志によって実践するものです。 どなたかが高いところに鎮座ましまして、そこから発せられる号令にしたがって行動していくということではありません。ましてや誰が見ても 白いものなのに、それを黒といわれれば、何が何でも黒と主張しなければならないような、道理に外れた言動が仏道修行であるわけがありません。

 宗門の皆さんは、ご自身の胸に手を当ててよく考えてご覧なさい。いまの宗門は、本来はともに仏道修行をしていくべき凡夫たる貫首が、あまりにも絶対化されていませんか。 そして皆さんも、末法は荒凡夫の集まりであるのに、そんな絶対者がこの世界に君臨するはずがないと、うすうす感づいているのではありませんか。まずはご自分の眼をよく開いて周囲を見渡してご覧なさい。そうすれば、どうもおかしい、そんなことがあるのかというような道理に外れた言動が、そこにも、ここにも散見されるはずです。

 相承を証明できない阿部師が、日蓮正宗のなかで絶対的な位置を占めました。また自己の保身から唯々諾々とその権威にひれ伏してきた幹部僧侶たちは、おそらくこう考えているはずです。「信徒が思い思いに考え、勝手な行動をとったら、それこそ日蓮正宗は成り立だない」と。しかし、そうではありません。皆さん一人 ひとりが、みずから考え、みすがら判断し、そしてみすがらの責任によって行動する。このような人間としてのあり方を確立し、その思索と判断と行動とを、大聖人・日興上人の教えに照らしていくのが、真実の信仰者であるといえましょう。

 

 


 

第6章 宗門僧俗は真の信仰にめざめよ

 

法論で正邪を決し、清浄な宗門への道を開け

 

【宗門】私たちは「仏法は師弟の道にきわまる」と教わっています。当然、 現実の日蓮正宗のなかには、師の立場で弟子に臨んで育てる人もいれば、 また弟子として、師に仕えることをもって仏道修行とする立場の人たちもいると思います。この師弟の道を無視している正信会に、成仏があるのでしょうか。

【正信会】もちろん、師弟の道を無視するつもりは毛頭ありません。しかし、何度もいいますが、私たちは「法主」を詐称し、相承を証明できない阿部師を師匠とは認めていません。創価学会を擁護し、学会首脳の意向に 沿って私たちを擯斥に処しておきながら、正信会を散々に「邪義邪法の擯斥の輩ども」と悪口中傷している阿部師を、私たちは師匠とは認めてい ません。

 そもそも大聖人の仏法は、この末法という時代のなかに、阿部師や池田氏のような絶対者を置いて、その人にひれ伏すよう強要することを教えてはおりません。仏法は一切衆生を差別なく仏道へと導くものではありませんか。あらゆる呪縛を解きぽどいて真の自由、真の自我というものにめざめることに、その目的があるのではありませんか。そしてこの 精神を、私たちは阿部師や宗門の幹部僧侶の言動に見ることができないと主張しているのです。

 宗門の皆さんは、みずからの意志や思考を捨てて、日蓮正宗に君臨し支配しているつもりの「法主」に、ひたすら忠誠を誓うのですか。阿部師の意志と号令にもとづいて行動する ことが仏道修行であると考えているのですか。

 「仏法は師弟の道にきわまる」と は、よくいわれることです。しかし考えてみてください。仏法で説いてい る師弟のあり方が、はたして宗門の皆さんの認識と合致しているのでしょうか。「師匠が針で弟子は糸」と いうたとえも、日興上人、日目上人に拝される「常随給仕」の姿も、私たちにとって実に大切なことなのですが、 それは、皆さんが考えているように、 支配者と被支配者との関係でもなく、 主人と従者というような固定的な関係でもありません。

 仏の道を求める者が、互いに師となり弟子となって成道を遂げてゆくところに、本来の師弟の意義があるのです。なぜなら、末法の法華経の行者は、何か得体の知れない能力をもっていたり、煩悩をすべて断じ尽くした超人的な存在ではなく、僧侶も在家も、ともに名字の凡夫として余事余念なく妙法蓮華経を唱えていくところに成仏があると教えられているからです。

【宗門】これまで、いろいろとうかがいましたが、正信会の主張が正しいのか、それとも私たちの主張が正しいのか、正信会は宗門の責任ある僧侶と法論をして正邪を決すればよいのではないですか。

【正信会】皆さんのおっしやるとおりです。宗祖は「僧道を歩む人も在家して信心に励む人も、ともに仏法の正邪を分別して、そのうえで正法に随順し成仏を願って精進しなさい」 と仰せになりました。そして法の正邪を決することの重大さを指摘されています。

 富士門流の今日の混乱をおさめ、 清浄な宗門へと導くための、ただひとつの方法は「法門をもて邪正をただすべし、利根と通力とにはよるべからず」との金言を実践することで す。私たちは日蓮大聖人・日興上人の法燈を継ぐ正真正銘の「富士の清流」 を自認していますし、日興上人の教誠をはじめ、先師の指南を信仰の規範としています。現在の宗門の皆さんも、もしこのことに異存がなければ、互いに信仰を論じ合う土俵が同じだという前提に立つわけですから、 まじめに法論を展開して、富士門流の真実・正義を求めるのに何の不都合もないはずです。

 宗祖大聖人は、法の正邪を明らかにされるべく法論を重んじられました。ご開山以来の先師も申状を奏して法の正邪を宣せられ、ご存じのごとく、問答に巧みな日目上人が法論に優れていたことが富士の歴史として伝承されています。このように富士日興門流では、法論は望むべきものなのです。私情我欲を抑えて法論に臨むならば、それによって私たち 正信会と、宗門の皆さんを「指導」している阿部師ならびに幹部僧侶との信仰の理非曲直は、たちどころに明らかになるでしょう。

 大聖人は「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」と仰せになっています。仏法を護持伝承するためにも、富士門流に帰依する一人ひとりの成仏のためにも、宗祖の御書を身に当て、開祖のご遺文を拝 し、宗開両祖のお振舞いとその精神を根本として、中興の祖と称される 日有上人・日寛上人等の指南を踏まえて十分な論議がなされるべきでしょう。しかし、阿部師が登座して以 来20年、私たち正信会は幾度となく法論を申し出ましたが、一度として 誠意ある対応がなされたことはありませんでした。

【宗門】道理と証文のうえから、すでに正信会も創価学会も同じく邪義と判定され、現証として仏罰の姿も頻繁に出ていると聞き及びます。

【正信会】私たちの主張を、道理と証文のうえから、どのように見きわめたのでしょうか。それを教えてください。「創価学会と同じ」とは、どういう意味なのでしょうか。一方的なレッテル貼りでごまかさず、宗門の皆さんは堂々と富士の法義に立って信仰を論ずる土俵にのぼるべきです。心配には及びません。私たちは創価学会や顕正会と違って、人数をたのんだり、一方的な確信を大声でまくし立てるようなことはしません。宗門の幹部僧侶も、信徒向けにコソコソと欺瞞に満ちた説明などせずに、毅然たる態度で邪正分別の場に臨んではいかがですか。

 しかし「正信会は邪義であるから現証として仏罰の姿が現れる」とは聞き捨てなりませんね。宗門の幹部僧侶が「正信会に仏罰の姿が現れたらいい」と望むのは勝手です。しかし怨念と憎悪にまみれた信仰観に立つかぎり、どんなに巧みな言辞を弄しようとも、そこには一切衆生を成仏せしめようとの宗開両祖の尊い誓願の片鱗すらうかがえません。

 さて、宗門の皆さんが読んでいる機関紙『大白法』では、創価学会や顕正会と同じく、現世の損得に引き当てた罰論・功徳論が頻繁に展開されていますし、宗門の機関誌『大日蓮』でも、「現証」に関するとんでもない、噴飯ものの異説が堂々と掲載されています。

 「創価学会員が多くいたと伝えられる北海道奥尻島の大震災の姿、さらにまた、阪神大震災の起こる前々日と前日に大量のニセ本尊を配布したことにより、あの地域において大きな災害を招来したということを考え合わせるとき、その大謗法の邪義を明らかに打ち破り、対治して、正法がいよいよ興隆する因縁として表れてきておるということを深く感ずる次第であります。既に御承知の方もあると思いますが、昨年の10月31日、ブラジルにおいて飛行機事故がありました。不思議なことに、情況上、亡くなってもおかしくはなかった法華講員が難を免れ、2人の学会員が死んでおるということからしても、はっきりとした仏法の現証が、正邪のけじめにおいて明らかに顕れておるということを、我々は深く感じなければならないのであります」(平成9年2月号)

 阿部師はここで、北海道奥尻島の大津波や火災、阪神淡路大震災の惨状、ブラジルでの航空機事故もすべて創価学会の謗法による「現証」と位置づけました。これには私たちも本当に驚きました。それはまさにオ力ルト的な信仰観なのですから。

 

富士門にこんな「現証論」はない

 ところで、宗門の皆さんのなかには、いわゆる「罰の現証」とされる病も事故も、家庭崩壊も失業もないのですか。災害による死亡も、病死も事故死もないのですか。阿部師の指導にしたがう人びとは、みんな満ち足りた幸せな日々を送っているのですか。そうではないでしょう。阿部師の指導や機関紙誌の内容を見ると、どうも宗祖大聖人が仰せの現証論をはき違えているとしか思えないのです。

 大聖人は私たちの眼前にある事象そのものを「罰」「利益」と判定されているのではなく、道理と証文とに裏打ちされた確かな成仏への道を歩んでいるか否かを問題とされているのです。

 宗祖のご一代をつぶさに拝するならば、「今生にはきわめて貧しく、いやしい身分の者と生まれた」(佐渡御書)と仰せになり、「あるいはさんざんに悪口をいわれ、あるいは刀で傷を受け、杖で叩かれるなどの難に遭い、あるいはたびたび流罪に当てられました」(松野殿後家尼御前御返事)と仰せになっているではありませんか。大聖人はしばしば所を追われたり、食や衣の乏しさのなかでのご生活に甘んじられ、晩年は病にも苦しんでおられます。さらには大聖人に帰依する弟子や檀越も、主君から所領を没収されたり、周囲から悪党呼ばわりされているではありませんか。それも罰の現証なのでしょうか。

 宗門の皆さんは、「日蓮は世間には日本第一の貧しき者なれども仏法を以て論ずれば一閻浮提第一の富る者なり」(四菩薩造立抄)との宗祖のご教示をどのように拝しますか。阿部師の「現証」論に見られるように、法門をとり違えてしまうと、より根源的な不幸を呼ぶということを知るべきです。道理の通じない「現証」論は、法門を破壊することになり、成仏への道を断つことになります。大いに慎んでください。

【宗門】私たちは平成14年の30万総登山の達成をめざして頑張っています。折伏目標を定めていますし、奉安堂を建設して、大聖人の立宗750年を慶讃すべく戦っています。

【正信会】そうなのですか。私たちには宗門の皆さんがどこまでも「折伏」「登山者」の数にこだわり、無意味な奉安堂建設へと盲進しているとしか思えませんし、ここにも富士日興門流とは異質の信仰観がよく現れていると見ています。

 皆さんご自身が信仰のうえから立てた目標であれば、どうのこうのとはいいません。しかし各末寺や講中がかかげる折伏勧誘の目標や奉安堂建設ご供養の割り当てなどが、寺院相互や僧俗間の摩擦を生じ、その軋轢で宗内から悲鳴まで聞こえてくるぽどの過激ぶりではありませんか。

 それらの慶讃事業が、富士門流本来の成仏への道を歩むことにつながるならば、何もいうことはありません。しかし残念ながら、それは阿部師と一部の指導者たちの名聞名利を満たすだけなのです。極端な上意下達や過度のノルマを信仰と思わせられ、宗門の皆さんがそれを疑わずに阿部師や幹部僧侶の意のままに行動することで、私たちは宗門の体内に深く潜伏している「創価思想」の毒気が、いよいよ強まっていくことを危惧しているのです。

 宗門の皆さんは、もう一度、何ゆえの30万総登山なのか、何ゆえに、それほどまでに「折伏」「入信」の数にとらわれるのか、何ゆえに莫大な費用をかけて正本堂を破壊し、その跡地に奉安堂を建設するのか、じっくりと自問してください。一人ひとりの真心や信仰への情熱、心の奥底から泉のように湧き出てくる感動もなく、ただ慶讃のイベントが進められていくというのでは、決して宗開両祖のご嘉納されるものとはならないことを知るべきです。

 

    ◇      ◇

 私たちはこれまで、阿部師の創価学会問題への対応と責任を問いました。また阿部師が日達上人の後継として相承を受けたのか、受けたのであれば、それを証明できるのかどうか、さらには宗制宗規のうえからはどうなのかと問いました。まずはこの問題について、宗門の責任ある幹部僧侶は、私たちにも、そして事実を知らされていない宗門の皆さんにも、明確に回答すべきではないのでしょうか。

 つぎに、私たちは阿部師の相承に疑義は呈しても、富士日興門流の血脈そのものを否定してはいないということを論じ、なおかつ阿部師を法主と認めて師を「戒壇の大御本尊と不二の御尊体」と定義している宗門の考え方、とりわけ三宝のあり方について、皆さんに混乱があるのではないかとも問いかけました。

 また、阿部師の「もし日達上人が(自分に)相承をしなければ、仏法は絶えたことになる」との発言を重大視し、これは三宝を乱す本末転倒の考え方であると指摘しました。

 加えて宗門の本尊観の歪みに見られる法門の混乱をあげ、宗祖求道の基本姿勢について論じ、「依法不依人」の精神の大切さ、「いずくにても」の日興上人のご決意について訴えて正信会の姿勢を示しました。

 とくにこの章では、お互いに富士の清流を主張するのであれば、正々堂々と法論をして正邪を決し、信仰の理非曲直を明らかにしようと訴えました。また、あまりにもひどい宗門のオカルト的な「現証論」にも触れました。

 問題はまだありますが、どうか宗門の皆さんは、これらの問題をご自身の胸に当てて真剣に考え、判断し行動してください。私たち正信会の僧俗は、皆さんが真の富士の法門に帰依し、ともどもに成道を歩むことを切に望んでいるのです。 (完)

 

 


 

おわりに

 私たち正信会は、日達上人のご存命中から、創価学会はまったく反省のない団体であると指摘し、「信仰というものは一点の汚染もない清浄にして純粋なものでなくてはならない。その清浄な信仰は、絶えざる自己反省によって保たれる。これなきところ、たちまちにして濁りを生じ、信仰の目的は成就できなくなるばかりか、宗義そのものを乱すことになる。われわれは誰につくのでもない。あくまでも真理につく。御本仏日蓮大聖人の正法正義につき、そしてそれを死守しなければならない」と訴えてきました。

 そしていまも、この考えに変わりはありません。「誰につくのでもない。あくまでも真理につく」とは、依法不依人の精神の宣言のひとつでもあると思っています。

 最近、創価学会問題に関連して、阿部師は「うかつにも私は(創価学会に)そのような謗法の流れがあるということをほとんど知らなかったのであります」と述べており、このほかにも、覚醒運動が正確な創価学会認識に基づいて展開されてきたということを結果的に認める発言が多く残されています。そのような事実を、宗門の皆さんは、どのようにお考えですか。創価学会問題に限らず、阿部師は法門の歪曲と混乱についても、いずれ認めざるを得ない立場に置かれているのではないでしょうか。

 私たちは、これまで宗門の皆さんの素朴な疑問としばしばお付き合いをしてきました。いかがでしょうか。皆さんのまじめな問いかけには、私たちも誠意をもってお答えしてきましたし、これからもお答えするつもりです。ですから皆さんも、私たちの問いかけに、まじめに答えていただけないでしょうか。私たちの問いかけと、皆さんの問いかけとを、宗開両祖の教えや先師の指南に照らし見るとき、
現在の宗門の信仰や主張は、やはり富士日興門流の教えとは明確に違うということを容易に理解できるのではないかと思います。

 皆さんは日有上人の「連陽房雑々聞書」をご存じでしょうか。日有上人はここで、

「堂舎僧坊は仏法に非ず、又智慧才覚も仏法に非ず、多人数も仏法に非ず。堂塔が仏法ならば三井寺・山門等仏法たるべし、又多人数仏法ならば市町皆仏法なるべし、智慧才覚が仏法ならば天台宗等に若干の智者あり是れ又仏法に非る也。働信心無二にして筋目を違へず仏法行するを仏道修行広宣流布とは云ふ也」

 と指南されています。この仰せのなかに富士日興門流の信仰を見出だす私たちは、正信会にこそ富士の清流が脈々と流れ通っていると自負しているのです。

 平成11年7月に、小社が刊行した『正信覚醒運動のめざすもの』という小冊子にも、阿部宗門と正信会との信仰の相違が明確に記されていますので、この冊子と併せて、ぜひご一読をお勧めします。

 

参考URL:https://www.syo-shin-kai.com/

 

 

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