道標
信行学に励むべし
日興上人の御正当会にあたり
日興上人は大石寺のご開山である。富士日興門流を名乗る私たちが報恩謝徳申し上げるのは当然のこと。では私たちは日興上人の人柄や事跡、精神などをどれたけ正しく知っているたろうか。信徒や読者が自力でその理解を深めるのは難しいが、それを知る善知識に親近し、少しでも真の日興上人像を学ぶことは可能である。興師会にあたりその一端に触れてみる。
現代よりも食糧や医療事情が悪く、平均寿命がたいぶ短かがった鎌倉時代にあって、日興上人の88歳や日目上人の74歳は特筆すべき長寿といえる。
では現在のような戸籍制度もなかった時代に、日興上人の88歳という年齢はどうして確定できたのか。
結論からいえば、日興上人は御本尊を書写された時、そこにご自分の署名(花押)とともに年齢を書き入れていたことから判明する。
これはまた、大石寺第6世日時上人の「御伝土代」 (従来は第4世日道上人筆と伝えられてきた) 「寛元四年丙午御誕生」の記述とも符合している。
ところが、日興上人の族姓「橘氏」を「紀氏」とすることや、出生地が「甲斐国鰍沢」とされたのは江戸時代後期からであることは、よくよく再検討する事柄であろう。たたし伝承や先人の研究には、それぞれ目的があることにも注意したい。
たとえば私たちは、日興上人は芹がお好きだったので興師会へには芹をお供えし「芹お講」と称す。また日目上人は蕪を好まれた故に蕪を供えて「蕪お講」と称している。こうした伝承は史実の確認ではなく親近感を生む象徴的エピソードして古来大事に伝えられているものであり、その目的は私たちの信仰を深めるためである。
史実を解明するうえでは、歴史家や研究者が史料の希少さから事実を誤って判断することは責められない。大事なのは、後世の研究者がそれを客観的史料に基づいて修正し、少しでも真実に迫るために可能な限り原本にあたり、関連史料と照合確認する作業なのである。
そのためにも原本や未公開史料を所有する者は、公開しても差し支えないものに限り宗派やセクトを超え、提供しあうことで所有者自身もより有益で、正しい理解と成果が得られる。
それによってこれまで誤って通例とされてぃた事柄や、疑義があり再検討を要する事項などに日の光が当たることにもなる。
先の「御伝土代」筆者や日興上人の俗姓、誕生地などの誤りは本来、本家である日蓮正宗教学部で随時、訂正し発表されるべきことである。幸いに正信会の有志僧侶が専門誌に長年の研鑽成果を発表し、回題提起したため、史実の認識は改まりつつある。ただし、これらの専門的な知識や能力を甘つ人は限られているし、成仏を目的に信心している信徒にそれを求めるわけではない。私たちはそれらの研鑽成果に触れて、自身の信行増進の糧とすることが大事になる。
難しい教学を理解できなくても宗開三祖の教えを信じ、日頃の勤行唱題や御本尊の給仕作法などの化儀を守ることが、信行学に励む姿である。そのうえで、宗門の歴史を正しく認識することは、末代僧俗の報恩謝徳になるだろう。