新春インタビュー

 

二人の師僧に仕えて 

 

愛知県・天晴寺 

卜部 乗道師

 

止暇断眠を心肝に染め

     命のある限りご奉公を

 

 

 時の流れが年々と早くなっている現代社会です。若者は10年前の出来事を大昔のようにいいます。時流を止めることはできませんが、それと共に大事なことまで流し去っては困ります。今回は若者が信仰を志す上で、ほんの少し前にあった貴重な話を伝え遺す意味で、、愛知県瀬戸市の天晴寺ご住職にお話を伺いました。 (編集部)

司会=ご住職は昭和42年11月1日に天晴寺第6代住職として赴任されておりますが、その当時のようすを聞かせて下さい。

天晴寺=日達上人から瀬戸のお寺へ行けといわれて「瀬戸って瀬戸内海のどこですか?」と聞くほど、何も知らなかったですね。名古屋から1時間ほどの隣接地で、瀬戸物の町と知ってびっくりしました。

その当時は陶器に塗る釉薬を川に流していたので水が真っ白く、公害と職人の町でした。

司会=それからわずか3年でお寺を移転・新築されています。

天晴寺=私は愛知県には足を踏み入れたことがなく、右も左も分からない中で、当時の天晴寺(瀬戸市東印所町31=現在は墓地)の敷地は、天晴寺名義になっていなかったのです。なので着任早々から裁判に.着手しました。名義が12人の連名登記になっていたため、先代の斉藤宜謙師もご苦労されたようです。

しかも新法相続で12人が50有余人の登記に膨れあがり、地理不案内の中で大変な裁判の末、ようやく天晴寺名義に変えることができました。

移転でも二転三転と苦労させられました。ここも初めは畑の中にぽつんと一軒だけでしたが、現在は周辺も住宅街になってしまいました。

司会=昭和32年4月に、65世日淳上人を師と仰ぎ、出家得度されています。

天晴寺=私が出家を願い出た時に「坊さんは厳しいぞ、つらいぞ。堪えられるか?」と聞かれて、「はい!」と即答したものの、挫折しそうになるたびに日淳上人のご尊顔とお言葉が脳裏に浮かび、今の僧道があります。

昔の本山は六壷と遥拝所・客殿だけでも、百何十畳という畳があったように記憶しています。その周囲がみな障子でした。寒風の吹きさらす中で茶殻をまいて箒で隅から隅までしっかり掃き、障子の桟を一つひとつ拭き掃除をするのが大変でした。

丑寅勤行の時間は現在とちがい、午前1時から始まりました。初座から4座までみな寿量品の長行を読んでいましたので、きっちり2時間はかかっていましたね。

司会=日淳上人はどのようなお方だったのでしょうか。

天晴寺=日淳上人は身体の弱い方でしたが、非常に勉強家でした。また大変な読書家で、本山在勤の時代にはローソクの薄暗い明かりを点けて、夜遅くまで本を読んでいたという話は有名です。普通の本であれば月に20冊は読んでいたと、お聞きします。

日淳上人の生き様は、止暇断眠の実践そのもののように思えてなりません。「自分の身体は宗門のため大聖人に捧げる」といわれ、「宗門のために命のある限りご奉公をしろ」 「今日一日を有意義に、できることは精一杯やれ」とのお言葉が時空を超えて今も聞こえてくるようです。

日淳上人は中野の歓喜寮(現在の東京・昭倫寺)時代にも大変ご苦労されたようで、創価学会の初代・牧口常三郎氏、2代二戸田城聖氏の指導もされたと聞きます。

司会=日淳上人が貌座に着かれてからはどうでしょうか。

天晴寺=日淳上人は本山で毎日のように学林に出向き、本山在勤の所化さんや塔中のご住職さんに講義をされていました。誰が質問をしても、よどみなくスラスラと受け答えをされていました。

学林と図書館を活用されたのは日淳上人だったと思います。

宗旨建立七百年慶讃事業では『日蓮正宗聖典』を刊行されています。乂ゲイザに登られてからは「ザ・読売」の英字新聞を毎日読んでおられました。私たちはただただ、びっくりするだけでした。

書も実に達筆で、ここにある床の間の掛け軸は、理境坊の落合慈仁師が日淳上人にお目通りした折りに、目の前でササッとお書きになられた軸の複製です。

私はとうてい足下にも及びませんが、「止暇断眠」を心肝に染めて、少しでも実践できるように精進して参りたいと思っております。

司会=同時期に3人の現下がおられました。そのようすなどを聞かせて下さい。

天晴寺=59世日亨上人は伊豆の畑毛に隠居され、本山にくると雪山坊におられました。64世日昇上人は蓮葉庵で、そして方丈(大坊)の奥には日浮上人がおられました。

本山に3人の現下がおられたから戦後の窮状を救い、支えられたのだと思います。3人の現下の時代があと10年続いていたら、宗門・創価学会の動きも変わっていたのではないかと思いますね。

司会=むかしの本山在勤当時におけるエピソードなどを教えて下さい。

天晴寺=日淳上人は本山の中をよく散歩されていましたが、毎日そのコースが違うんですよ。ある時「お塔川(潤井川)は石が崩れて川幅が狭くなっているなぁ」と、気がかりなようすでつぶやかれていたと、どなたかにお聞きした記憶があります。どういうことかよく分からなかったのですが、日達上人がご登座されて間もなく、猊下の散歩のお供をしました。

猊下は石ころだらけのお塔川の川幅や深さを測るといわ、れて、白衣の裾を襷で縛り
お前も入ってこい」と冷たい川の中に下駄を抱えて、膝まで浸かって一緒に渡ったことが、昨日のように思い起こされます。それが後の護岸工事につながっていったと思います。

日達上人もまた山内をよく散歩され、隅々まで注意深く見ておられたように記憶しています。

司会=そうですね、小僧さんたちが学校帰りに、散歩中の日達上人とバッタリと出会う光景を何度も見ました。

天晴寺=高校は富士宮東高の分校(定時制)に通いました。

むかしは「農繁休暇」というものがあり、農繁期には学生も学校を休んで農作業を手伝ったのです。

私も早退して帰ってきたら、不開門のところで蓑・笠を着けたおじいさんらしき人が、草むしりをしていたのです。そこで私が「おじいさん精が出ますね」と声をかけたらそれが日淳上人でした。「お前も早く草をむしれ」と怒られ、あわてて帰って着替え、草むしりをした記憶が蘇ります。

司会=法要などにおける猊下からは、想像もっかないお姿で驚きます。ほかにも何かあるでしょうか。

天晴寺=冬のよく晴れた朝だったと記憶します。客殿で木綿の袈裟・衣をつけた老僧が朝早くから勤行をしていました。

私が「おじいさん、掃除するので、そこをどいてくれますか」というと、その人は「はい、はい」といってすぐに移動したのですが、掃き掃除が終わるまで3度ほど移動してもらいました。

その日の夜は61世日隆上人のお逮夜法要でした。雪山坊の日亨上人が追憶談をされるといわれまして、そこで私が顔を上げると、朝の客殿の老僧がおり、びっくりして後で謝りに行ったことを記憶しています。 

また日亨上人は年に一度、9月の観月会の頃でしたか、本山の小僧たちを伊豆の畑毛にある隠居所・雪山荘に招待してくださいました。

確か天丼井かカツ丼をいただいたように記憶します。嬉しかったですね。

日有上人の「化儀抄」にある、「月見と花見には、貫主が稚児僧に給仕する」(取意)ことを実践されていたのではないかと思います。

司会=そうですか。「化儀抄」のご文が現代にそのまま活かされていた、という例を初めて知りました。

富士門流・大石寺には、是非ともこのような化儀を後世にも伝えて欲しいと思います。さて「天晴寺さんは既に吉野町という地州に、新菩提寺の「信乗院」を開創されています。信乗院とは師匠の日淳上人の院号ですがそれについてお話を聞かせて下さい。

天晴寺=私がお二人の師僧(日淳上人・日達上人)のもとで、少しでもご奉公ができたことは望外の喜びであり、僧道を全うできる礎になったと思っています。

 

宗開両祖に立ち返る

     新菩提寺を弟子に託して

 

日淳上人と日達上人の師恩報謝のために、2人の弟子を育て菩提寺建立を目指し、菩提寺の名前に1ケ寺目は日淳上人の能化の院号「信乗院」を使わせていただこうと決めておりました。

弟子は立派に成長してくれましたが菩提寺建立は思うようにいかず、平成3年に用地を購入してより二転三転して、平成11年5月28日に宗教法人「信乗院」の認可を取得できました。

平成27年4月19日に、瀬戸市吉野町63番地の土地を購入し、家屋を改装して仮本堂として使用しているのが現状です。できることなら、早い時期に本堂・納骨施設を建立して、弟子に託していければよいと思っています。

司会=最後に、正信覚醒運動について思うことを何か。

天晴寺=何をするにもまず宗開両祖の教え(正法正義)を身に体することが先決と思います。そして自分のことは後回しにして、命ある限り日興上人の「常随給仕」の信念と、日目上人の本因修行のかくある姿勢を心肝に染め、ご奉公に精進する持と思います。

宗開両祖の教えを身に体して令法久住・広宣流布を目指していたなら、宗門・学会も今日の状態にならなかったと思われます。

正信覚醒運動はこのことを私たをに気付かせんがために、起こるべくして起こった運動と思えてなりません。

いずれにしても、いつの時代でも宗開両祖の時に立ち返ることがもっとも肝要と信じます。

司会=本日は貴重なお話をありがとうございました。

 

 

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