論説

 

世法と仏法の取捨選択

 

 

 皆さんは調べものをする時、何に頼るだろうか。辞書か、あるいはお婆ちゃんの知恵だろうか。たぶん現代では、ほとんどの人がスマホやパソコンなのではないか。

 私もご多分に漏れず、何かを調べる時には、まずスマホに手が伸びてしまう。また、ニュースを見るのも新聞ではなくインターネットでみる方が多くなってきた。しかし、最近では辞書や新聞を開かなくてはいけないなと感じている。

 ところで、ネット上にはターゲティング広告というものがある。ユーザー(使用者)や検索内容の情報を分析して、ユーザーにとって適切と思われる広告を配信するものである。また、ニュースなども閲覧や検索履歴に関連づけて表示される。少し前まではネット上での調べ物や、ニュースの閲覧に、目的と違うものや興味のないものも目に入っていた。そして、その情報を自分で取捨選択をしたり、新たな興味を持ったりした。しかし、今は自分が興味・関心のある情報しか入ってこない。たしかにネットが普及して、膨大な情報の中から自分の目的の情報を探し出すのは大変であり、ターゲティングの手法は、忙しい現代人には時間の節約にもなり、非常に便利なのだが、そこ思考の広がりを求めることは難しいのではないかと感じる。

 人生において、視野を広げることは良いが、逆に視野を狭め、限定してし持つことは非常に危険であろう。戦前の日本や遠い隣国情報統制がどのような結果を招くかということは皆さん承知のことであろう。広い視野をもって、そこから、取捨選択する能力を得ることは非常に大事である。企業でも、異業種で学ばせて視野を広げさせることがあり、有意義な余暇から新たな発想や仕事のアイデアが生まれることもあるのだ。

 しかし、信仰においてはこの取捨選択をしてはいけない。読者のみなさんの大半は、自分が仏様の教えを信じていると思っているであろう。しかし、この世には自分に都合のよい仏様の言葉しか聞けない人が多い。仏様の言葉はほとんどが私たち凡夫の欲望を叶えられるような類のものではなく、私たち凡夫には耳の痛い言葉ばかりである。そして、仏教を信仰するということは仏様の言葉をすべて受け容れるということである。

 悲しいかな、私たち凡夫は仏様の言葉よりも同じ荒凡夫は人間の評価や批判、はたまた賞賛の言葉というものに惑わされやすいのではないか。ちまたに溢れている新興宗教も、ほとんどが仏様や神の名を語った人間の言葉なのである。さも神仏が説いているように、自分たち人間に都合のよい言葉を並べ立てているに過ぎない。

 私たち凡夫は、けっして仏様の言葉に加飾したり、都合の悪い言葉は聞かなかった振りをしてはいけない。私たちは仏様の言葉をありのままに受容し、そこに人間の欲や考えという「私」を交えないことが肝要なのである。

 そして、この仏様の教えを基準・拠り所として、人生の中での取捨選択をしていけば、私たちは必ず幸せな人生を送ることができるはずである。

 

 

 

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