2023オンライン 新春僧侶座談会
議論して健全に成長を
宗教のあり方と私
三重県津市 経住寺執事
中谷 修徳師
岡山県倉敷市 法眼寺執事
毛利 叡岳師
長崎県長崎市 一信寺在勤
浜中 和興師
司会 編集部
災害が社会や人心の乱れを誘引する正しい宗教観を持つこと
司会=本日は現代の社会状況と、それに対する宗教のあり方をお聞かせ願います。
◎コロナ禍と自然災害
修徳師=コロナウイル スには初め動揺しましたが、それと御書を結びつけて大聖人の信仰をしないからとあおるのは気になりました。気持ちはわかりますが突き詰めれば各人の生き方と関わっており、それを無闇に信仰と結びつけることはオカルトチックで危険です。そういう点ではこ騒
動が大聖人の教えを考え直すきっかけになったともいえます。
和興師=疫病や災害など自然界の現象を自己中心的に解釈し、人々の不安をあおることは大聖人のご本意ではありません。
修徳師=人には多種多様な意見がありますが最近の風潮はすべてを正か邪、悪か善かと二極化し、レッテルを貼ろうとします。コロナ禍でマスクをしていない人を冷たい目線で見たり、感染者が出た家は村八分で地域に住めないよう、嫌がらせをする現象がそうです。冷静であればそこまでしないと思いますが、間違つた知識が必要以上に過剰反応させたと思います。
叡岳師=コロナウイルスよりも人間自体が恐いです。当地でも初期には感染者へかなり辛辣な態度や発言がありました。ウイルスは目に見えないものですから不安になるのもわかりますが、感染拡大で社会や人心の乱れが露呈したといえます。
司会=大分や長崎の方面はどうでしたか?
和興師=初めは参詣を控えてようすを見ていたようですが次第に状況を把握し「これなら大丈夫」と、今は普通の状態に戻りました。現代はまさしく「立正安国論」に戒められた時代と思いますが、国難は誰もが等しく受けます。コロナや災害もそれを罪障消滅の機会ととらえる土壌ができてきたと思います。災いに過剰反応せず、難局をどう乗り越えるかを信心中心に模索することが大切です。
司会=地名辞典などには災害に関連した名称もありますが?
修徳師=以前に在勤していた兵庫県の丹波・興福寺の丹には「地下の石を採る井戸」の意味があり、坑道が崩れたという話を聞いたことがあります。
叡岳師=法眼寺から北へ数km向かつ酒津という地は港だったといいます。また平成30年には真備町で100年に1度といわれる大水害がおきました。やはり人が普段から気をつけることを忘れた人災かともいわれました。
和興師=長崎の一信寺の近くに大曲という集落があったそうですが水害による地盤の崩落で消滅したと聞きます。また大分の竹田は水が豊富で間伐の心配がない土地だったそうですが、近年は森が消滅してほどよい保水ができず、2度の水害で伝法寺も大変な苦労斉しました。人が自然のバランスを崩したのであれば、もとに戻すのも人の役目ではないでしょうか。
◎旧統一教会と宗教
司会=旧統一教会の問題で宗教が批判されています。
修徳師=大学時代にアメリカ人の教授が「あなたの宗教は?」と質問して、友だちが「無宗教です」と答えたら教授が驚き「無宗教とは自分自身の根本がないようなもので、人として信用できないというに等しい」と、授業時間の大半を使い説教されていました。
和興師=確か外務省の海外研修ですか、初めに「自分の宗教をもて」といわれるそうです。海外にいる一信寺の信者さんも「無宗教ということは嘘をついても恥じない人、大事な仕事には使えない人と思われます。私は大聖人の教えを信仰していて本当にょかった}といっていました。日本の学生は簡単に「無宗教です」と答えますが一方で占いやお守りを大事にする不思議な国民と思われるようです。
叡岳師=日本人と西洋人の宗教観が違うことも理由の一つと思います。西洋でいう宗教の観念が自分のそれとはちがう。でも目に見えないものに対する畏敬や怖れはあるから、西洋流の観念で迫られると、自分は違うと思ってしまいます。
和興師=日本人の宗教観は明治の神仏分離令の頃から変わったのでしょうか。日本にも信仰のために命を投げ出し、法難も厭わない人年がいました。現代信その反動でしょうか。信仰が人生の信念ではなく、何かよいことがないか、孤独を解消できないかなど欲望を満たす幸段になったようです。仏教では苦しみ作困難は自分の業で逃れられないが、それを乗り越えた時に法悦があると説きます。信仰は難を乗り越えるための修行で、救いを求める次元が違います。
叡岳師=薬師経などにも現世利益は説かれますし、鎌倉新仏教も誕生当時は新興宗教でした。では現代のそれとどう違うかといえば、議論をしてできた宗教か否かです。議論したことで悪いものは消えて、よいものが残ったのです。それはいつの時代でも同じはずですが、現代は何をしても自由だと議論もせず野放しだから、宗教もどきの教えが横行するのです。新興宗教に限らず宗門や創価学会、正信会も健全な議論に努めるべきです。
修徳師=宗という字は「おおもと」の意味で宗教は「おおもとを弁える教え」です。本来は「己れを忘れ他を利する」 「人の喜びを自分の喜びに、人の悲しみを自分の悲しみとする」利他なの精神なのですから、そこを理解しなくてはいけません。
和興師=地方から出てきて知る人もなく不安なところへ、親しげに近寄るのは新興宗教の常套幸段なのです。言葉巧みに寄り添う素振りをしても、実際は寄り添うどころか人の悩みや孤独につけ込みます。
叡岳師=統一教会には教義がなく自分たちが救世主たというだけです。キリスト教の一派なら先祖の霊や、悪いことがおきるのは祖雪が悪さをしているからなどというわけがありません。あれを宗教といってよいかどうか。
そして、これは日本人が宗教に対して無知な証拠です。不安をあおり、親元を離れた子どもを標的にするのもよくあることです。
和興師=新興宗教の建物はおよそ大きくて、それに安心するのも人に共通する判断基準です。ネットで買い物をする時でも、最終的にレビューを見て決めるのは、自分に自信がないからです。怪しげな宗教はそんな人の気持ちを利用し勧誘するのです。
修徳師=大学の校内にはあやしげな活動をする人々や、原理研究会などというグループがありました。その中には留学費用まで出してくれるところもあったようです。
叡岳師=やはり人はみな何かにすがりたい、寄りかかりたいという気持ちが強いです。だからこそ正しい宗教が大事なのです。
多様な意見を聞く環境作り 会内で議論して世間に働き掛けを
◎創価学会や京門に対する印象と正信会のあり方
司会=みなさんは第2世代といわれますが自分はどう思いますか。
修徳師=私的な感情は別として、富士の清流を蘇らせるとの思いは変わりません。覚醒運動の歴史をみると、宗門の主張は一貫性に欠けて大聖人の魂もないと思います。
叡岳師=よく宗門に戻る、帰るという表現を聞きます。しかし宗門に在籍していた僧俗が阿部師に追放されただけなのですから、あくまでも私たちは「合一を目指す」と主張するべきではないかと思います。現在は宗門の外にいても正信会は宗門人と認識しています。また宗門という後ろ盾を離された ことで、信徒との関係にも見えてきたものがあります。現宗門に随うことは、信心をもってすれば納得がゆかず、そこを取り戻すことが正信覚醒運動であり、私たちが受け継ぐべきことだと思います。
修徳師=おかしいものにはおかしいといえる勇気と知恵が私たちには必要です。その点、覚醒運動草創期に学会や宗門に対して声をあげ、正信会を結成した先輩方は僧俗共に立派だと思います。
司会=今後、正信会はどうすべきですか。
修徳師=現宗門は他宗批判はしても世間の出来事に対して、日蓮正宗の見解を示すことが少ないです。宗内のことだけを論じて世間一般の出来事には無関心なのか、あまり触れていないのは残念です。それを正信会が示せたらいいです。
叡岳師=正信会とはこういう組織で、このような考えを持っていると、世間に働きかけをしたいですね。
和興師=せまい組織や一部の間で口論しても一般社会には通用しません。視野を全体に広げて冷静に見ることです。正信会は多種多様な意見が互いに共存できる組織でなければいけません。Aという考えがありBという考えもある。またCという考えもあるが、大聖人の教えに随い議論し判断する時には、Dという方向へ進む。それが健全なあり方ではないですか。正信会の総意見解を世間に示すのは当然ですが、そこに至るまでに内部で議論がなく、みな同じ意見ではおかしいです。
修徳師=それを主導するのが僧侶の役目ではないでしょうか。議論を重ね、では大聖人はどのように仰せか、法華経にはどう説かれているかを検証する。それが盛んになればよいですね。少なくとも異なる意見や人々を一刀両断し、問答無用にする宗門や学会の体質はいやですね。
司会=自分と違う意見を自分の否定と考えずに、そういう意見もあると思えばそこに活発な議論が生まれるし、健全といえます。
叡岳師=基本的に信心の基本を無視しては駄目ですが、素朴な疑問に対してそれは禁句だとタブー視してはいけません。さまざまに議論ができるようにしておかないと、先々とんでもないことにもなりかねません。ある意味、これまで現宗門と正信会の議論が成立しなかった一因も、そこに関係していないでしょうか。
和興師=それは確かに重要なことで、決して過去の話ではありません。これは近代日蓮正宗の悪い体質かも知れませんね。やはり他宗他門との交流、健全な議論が少ないからでしょうか。同じ日蓮門下なんてすから、もっと遠慮なく議論しあえはよいと思います。
修徳師=学林や教師講習会では外部講師を含めて、さまざまな人から話を聞きたいです。宗門はみな先輩役員や管長など、内部の人が講師のようです。他宗派や一般学問に秀でた人の講義は難しい内容であっても、勉強の幅を広げるし自分とは異なる視点や意見が聞けます。
和興師=個人では外部講師との接点や招聘が難しいですから、正信会で企画してもらえればうれしいです。
叡岳師=宗派や門流の垣根を越え、多種多様な意見や研究を聞ける環境作りも大切です。オンラインなら誰でも気軽に距離を超えて集えます。技術的なことに偏りすぎてもいけませんが、私たちにできる方法を柔軟に模索したいです。
司会=正信会は正しいとの自覚は大事でもそれを当然と考え、所属さえしていればよいという考え方は駄目ですね。正信会は正しくあろう、という努力と検証を忘れないことでしょうか。
◎活動テーマや活動方針について
司会=最後になりますが、正信会のテーマや活動方針についてお話しください。
修徳師=「我らこそい富士の本流」は永遠に失ってはいけない根本テーマだと思います。
叡岳師=テーマとはグループや組織の目的とあり方、活動方法などを示して共通意識をもうためのものです。
和興師=どうすれば活動テーマを活かせるのか。何か問題なのかを探し、ではそれをどういう方法で解決するのか。そして解決をしたらどうなるのかが、具体的に示されていなければいけませんね。
叡岳師=テーマはみんなで考えることが大事です。各寺院・講中でテーマを考えてもらって、それを寄せてもらうと面白いと思います。そうすれば必然的に以前のテーマの反省もできるし、これからの展望も生まれてくると感じます。またテーマはわかりやすいものがいいです。「ありがとうの題目を」みたいなのは、いかがでしょうか。
和興師=堅い言葉を聞くと、頑張らなくてはいけないの? という感じになります。それにコピーライターではないのですから、当たり前のものでいいと思います。各寺院で正信会とはこういう組織という文句を考え、委員会で議論し投票してみてはどうでしょう。
司会=最後はテーマに対するご意見までいただきました。これが新年度、今後の委員会の参考になれば幸甚だと恵います。本日はありがとうございました。
仏宝流布の光は西へ
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