2020年新春僧侶インタビュー

 

僧道を振り返って

 

貧しさと厳しさのなかで

弟子を思う師匠の心とは

 

正信覚醒運動の草創期より運動を牽引されてきたご僧侶が、どのような僧道を歩まれたかを振り返っていただきました。興大寺・児正大光師には示唆に富む話をたくさん聞かせていただきましたが、その中から新年にあたり誰もが理解しやすく、興味を引く話を選んでご紹介します。(編集部)

 

◆小僧時代の思い出

編集部=あけましておめでとうございます。小僧さんの頃はどんなお正月を過ごされたでしょうか?

住職=お正月だからといって特に楽しいことはなかったですね。私は小学3年の時に日向本山の定善寺で出家しました。あの当時はどこも貧しい生活でしたから、正月が特別ということはなかったんですよ。

編集部=檀家さんの初参りなどは、どんな具合でしたか。

住職=檀家さんは自分で縫った布袋に1升か2升のお米を入れて、あるいは鏡餅を正月の御供養にする家が多かったです。鏡餅は大きい物から小さいのまでさまざまで、御宝前がいっぱいでした。今とちがって、お金の御供養は少なかったと思います。

編集部=そのお餅はどうされていたのでしょうか。

住職=瓶に入れてカビが生えないように水餅にするんです。だから学校から帰ると毎日その水を替え、3月ぐらいまでは毎日、雑煮を食べました。雑煮といっても、ドロドロに溶けた餅の味噌汁です。だから搗き方が粗くて米粒の残っだ餅の方がかえって美味しかったものです。

 それが終ると今度はタケノコの煮染め。定善寺は本堂の前に104段の階段があり、その両側が竹藪で春先は毎日タケノコです。弁当もメザシとタケノコで、麦7米3の麦飯弁当。これが続き、さすがにイヤでしたね。

編集部=お正月は足袋や下着の支給があったのでしょうか。

住職=貧乏で、学校でも足袋や靴下なんか誰も履かなかったし、みんな素足でした。母親が内緒でスリッパを買ってくれたことがありました。それを新聞紙に包んで、学校に持っで行こうとしだところを、師匠に見つかって「クラスで何人スリッパを履いているか」と聞かれ「10人くらいが履き、40人くらいは履いてません」と答えだら「お前は坊さんだから貧乏人の味方だ、クラス全員が履いてからにしろ。それまでは預かる」と取り上げられました。

編集部=大石寺へ登山をされた時のエピソードなどはありますか。

住職=毎年、夏に沙弥・行学講習会がありました。昭和30年代ですね、急行・高千穂号の自由席に乗り大石寺まで24時間かかります。車中はランニングシャツでごろ寝、ようやく着いた時には機関車の煤で顔中真っ黒になります。当時の所化頭・菅野慈雲師から「九州は暑いと聞いていたが、そんなに焼けるのか」と笑われましたよ。

 あの当時、1週間の滞在費用が1人250円でした。それが無い者は米2升を持参することが規則でした。私は師匠がお金を持たせてくれました。

 

   ◇ ◇ ◇

 

 ◆師匠と日向定善寺

編集部=お師匠さんはどんな方でしたか。

住職=定善寺の第32代貫首の小原日悦能化(観解院日悦贈上人。昭和55年8月19日遷化)です。とにかく厳格な人でよく叱られ、時々ピンクもされ怖かったですが師匠は苦学生で日亨上人を慕う学究肌な人でもありました。

編集部=では修行も厳しかったでしょうか。

住職=修行というのか、私は小学3年の時に出家しましたが、自分でもお寺の小僧なのか農家の小僧なのか、わからないような生活でした。当時は自給自足のようなもので、お寺の周りはみんな畑です。学校から帰り、御本尊様にあいさつすると毎日「大光作業着」と書かれた棚の服に着替えて農作業です。それが終ると、近くを流れる塩見川で肥桶を洗って物置にしまい、それを師匠が点検してから夕飯でした。

夏など星が出る頃まで肥桶を担ぎい畑仕事をしました。

編集部=掃除なども大変でしたか。

住職=雑巾掛けでは「膝を突くな、腰を落とすな」と厳しく注意されました。

 四つん這いになってお尻を上げ、中腰で両手に重心をかけて拭き上げるんです。だから板の間はどこもピカピカでした。

 私が大石寺に登山して驚いたのは、住職たちが集まった部屋の前にスリッパが山ほど脱いてあったことね。スリッパを履かなければ足袋が汚れるからなのか、末寺では考えられないことでした。

編集部=本山は鉄筋コンクリートが増えて床はプラスチック製P夕イルでした。モップで拭き、ワックスをかけましたから雑巾掛けとは違いましたね。

住職=私が中学の頃、2月か3月の寒い夜に師匠から厳しく叩かれました。反抗期で日頃のストレスもあったのでしょうね、師匠を突き飛ばして「そんなに叩いて嬉しければ追い出せ!」と啖呵を切ってお寺を飛び出したことがあります。

 ところが、母親や村人の顔を想うと家にも帰れず、行く場所が無い。駅で一晩過ごすつもりが、警察が夜回りをしている。

 結局、こっそりとお寺に帰りました。夜中の3時頃たったでしょうか、外にある風呂場で震えていたら、師匠が懐中電灯を持って探しに来ました。そして「弟子を叩いて嬉しい奴がどこにいる、お前も師匠になればわかる」と涙を流されたんです。

 それを見て、あぁ、悪いことをしてしまったと、思わず「お師匠さん!」と膝に取りすがり、大泣きしたことを覚えています。

編集部=嫌なことを思い出させてしまいましたが、師匠は人情味のある弟子思いの方だったのですね。

住職=師匠を偉いと思うのは、どんなご信者に対しても姿が見えなくなるまで見送ることです。末寺は師匠と1対1の生活ですから師匠の影響を強く受け、自分も今回ではそれが癖になっています。

 それと晋は物乞いの人がよく来ました。すると、師匠は娘さんに「旅の人が来たからおにぎりを差し上げなさい」といいました。

 昔、自分が東京から千葉県の保田・妙本寺へ帰るのに、電車賃がなくて線路沿いに歩いたそうです。途中で腹が減って疲れ、あるお寺の境内で哲学書を枕に一寝入りしてたら、そこの住職がおにぎりをくれたそうです。

 おにぎりといっても何も具が入ってませんから、握り飯を手ぬぐいに包み、ヒモを結んで海面まで下ろし、塩水に浸して食ぺたそうです。だからでしょうか、物乞いの人が来たら必ずおにぎりをあげた。

編集部=たいへん恩義に感じるというのか、几帳面な方だったのでしょうか。

住職=時間に厳しい人で、学校の往復には「大光連絡簿」という帳面をもたされ、登下校時の時間を書いて先生に判子をもらい、帰ると師匠にそれを見せる。だから道草なんか絶対にできません。

 几帳面というのか、小学校で先生がテストの練習ドリルを生徒に配り「明日代金10円を持って来るように」と言われ、お寺に帰って師匠に話したら激怒したんです。「代金を払わずに品物を持ち帰るのは泥棒と同じだ。今から払ってこい」と。それから山越えの夜道をバスで30分かけ、先生の家へ行きました。次の日、先生はお寺へ来て平謝りしました。

 

◆覚醒運動の原点

編集部=興大寺さんにとって正信覚醒運動の原点はなんですか。

住職=原点は佐々木秀明師です。私は昭和44年3月に無辺寺に赴任しました。そこへ秀明師から度々連絡が入り「世の中や人生について、自分もまだまだよく分かっていないし、棺桶に入る頃になってようやく分かるのかも知れないが、よく考えてくれ。今の創価学会は、どう考えても間違っていると思わないか?」というんです。 

 その当時、私の地域では創価学会とお寺の間に争いはなかったのです。だから、初めは秀明師が極端なんじゃないかとも思いましたが、だんだんと秀明師は学会憎しで言っているのじゃないとわかり、私も考え直しました。それが私の覚醒運動の原点です。

編集部=その後、学会批判をする僧侶が増えて、宗門では活動家僧侶などと呼びました。初期の顔ぶれは、どんな方々ですか。

住職=別府・寿福寺の佐々本秀明師、丸岡文乗師、菅野憲道師と私の4人でした。その後すぐに足立堅泉師、渡辺泰量師、山口法興師、荻原昭謙師、小平慈周師等が参加されました。

 初めはそれぞれ自分のお寺で、お講の時に学会批判を展開しました。私は「公明党に投票すれば功徳があるなどと、人を利用しても悪いのに御本尊様を利用するなど、絶対にいけない」等と、言い続けました。

 そのうちに学会は批判する僧侶を本部に呼びつけて、つるし上げるなどの事件を起こしたので、秀明師が 「一人ひとりでは学会に潰されてしまうから仲間を増やし力をあわせてやろう」と言い、創価学会に批判的な僧侶を一人でも多く集め、お講の統一原稿まで作りました。

編集部=当時、覚醒運動の輪は若い人々の間から広がりましたが、年配の方々の反応はどうでしたか。

住職=日達上人にお目通りした時、秀明師と一緒に「なぜ先輩方は覚醒運動に参加しないのでしょうか」と伺いました。すると、日達上人は「しょうがねぇな、昔はみんな食うや食わずで苦労してきたから、学会にものがいえないんだよ」と言われましたね。後に日達上人が「覚醒運動をしない僧侶は自分の弟子とは認めない」と言ったものだから、続々と運動を始めましたが、やはり苦しい時代のことが脳裏から離れなかったのですよ。とにかく学会ができる以前の宗門といえば貧しかったのです。

 継命新聞に前川慈肇師の思い出が掲載(947.948号)されていた通りです。

 師匠が保田・妙本寺に在勤していた小僧の頃は、お寺で飯が食えないから檀家の家に行くんだそうです。すると檀家の百姓親父さんが「オイ、妙本寺の小僧が来た、飯を食わしてやれ」と言って、師匠は土間で飯を食わせてもらったそうです。

「まるで乞食のようだった。あの思いは二度としたくない」と言っていました。みな貧乏の極みを経験してきたから、老僧にはなかなか学会批判ができなかったんでしょうね。保田の妙本寺と末寺4か寺、日向本山・定善寺と末寺6か寺が日蓮正宗に帰したのは昭和32年ですが、それ以前に身延派に所属していた時も定善寺では本堂に御本尊1幅のみを安置して、御影様は御宝蔵に納め薄墨の衣を着ていました。富士日興上人門流の自負があったんですね。

 でもその頃の檀家さんは今のように教学などは関心なく、先祖とそれを祀るお寺を維持することだけでした。だからどこの寺院でも食うや食わずで赤貧洗うような生活をしながら、なんとか法を護ってきたんですよ。ところが創価学会ができて信徒も寺院も増え、宗門は経済的には裕福になりました。しかしまぁ、良くも悪くも創価学会ができてガラッと変わりましたね。

 

  ◇ ◇ ◇

 

◆若い人たちへ

編集部=正信会は草創期に活躍された世代から、第2世代と言われるお弟子さん方が増えています。これからの指針として何かお伝え願います。

住職=若い方にはもっと折伏に力を入れて欲しいと思います。折伏というのは理屈ではなく実践することで、実際に折伏に歩いてみるといろいろな縁が生まれるものです。

 昔、この田川の創価学会は飯塚支部と言ったのですが、その飯塚支部で千葉県に縁のあった人が千葉へ折伏に行き、それが今の千葉・創価学会の種となり大きくなったくらい、折伏には熱心でした。

 もう亡くなりましたがうちの西村講頭という人が、私が打ち出した「年間100所帯折伏の達成」の目標を熱心に奨励して頑張りました。初めは半信半疑の人もいましたが、やり遂げました。その時の頑張りが今の興大寺を建立した源になっているのです。

 私はいつも話していますが、創価学会の膀法を糾すのはよいけれどそれから後、寺院外護や弟子の育成、さらには講習会に学林、全国大会の開催などを法華講だけで支えることができなくなっしまったら、大聖人に対して面目がたちませんとね。

 だから若い僧侶には法華講とともに折伏に励み、学会員の覚醒にも力を入れて、この運動を末永く継続していって欲しいのです。

編集部=本日は貴重なお話を聞かせていただき、大変にありがとうございました。草創期をご存じの方が少なくなっておりますので、お身体ご自愛のうえ、ご教導を願います。

 

 

 

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