道標
東日本大震災7回忌を迎えて
信仰もてんでんこが基本
平成23年3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)物故者の7回忌を迎える。昨年4月には九州で平成28年熊本地震が起き、以前から注意喚起されている南海地震に加え、最近は福島南部から千葉・茨城方面で、頻繁な揺れが生じ警戒感が高まる。
そうしたなか、正信会では5月21日に被災地と物故者慰霊の意味も込め、宮城県南三陸町で第40回日蓮正宗正信会法華講全国大会を開傭すべく、今年も実行委員が精励している。
では、私たちはこれらの大災害から何を学ぶべきなのだろうか。
およそ仏法を修する者ならば、生死無常の理は当然で、悲惨な状況に涙するだけでは大聖人仏法の信仰者として完壁な供養とは言えない。
三陸地方には昔から「津波てんでんこ」という標語が伝わっていると聞く。「津波が襲って来たなら取る物も取りあえず、肉親にも構わず、各自がてんでんばらばら、一人で高台へと逃げろ。自分の命は自分で守れ」という教訓で、非常時には自分の周辺状況を把握して自らの命を守る、高度な理性と判断が要求される。
また、江戸後期に起きた安政南海地震の時には「稲むらの火」という物語が伝わる。
この話は紀州の山村で、高台に住む庄屋が地震の揺れを感じたあと、海の水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲を確信した。すぐにこれを村人へ知らせるために、庄屋は自分の田で刈り取ったばかりの稲の束(稲むら) に火をつけた。それを見て寺では半鐘を打ち鳴らし、村人は火事を消そうと高台へ登ってきた。
その時に眼下の家々は津波に呑み込まれたが、庄屋の機転と損得を考えない行動で多くの命が津波から守られた、という話である。この話には諸説あるが、過去の災害を教訓にして明日に活かす点で両者は共通している。
これはまた私たちの信仰にも通じていないだろうか。異体同心とか、講中一結、一致団結といった考えから、ややもすると私たちは自分の主張や行動を抑えて、みんなで手を携えて同じ行動を取るように考えがちだが、信仰も原点は一人ひとりを基本とする。
阻織や役職はあくまでも平常時、信仰を増進させるために大切な糧ではあるが、臨終只今にありとの精神で生きるならば、それらは信仰の主目的ではなく、信心修行による目己啓発、六根清浄を目的と精進しなければならない。そう考えれば、信仰もてんでんこが大事になる。
一人ひとりが南無妙法蓮華経の教えによって、自分の人生を豊かにして、少しでも他人や社会のために尽くす人が増えれば、広宣流布は自ずから開けると確信する。
災害の悲しみや辛労は心の中に思い出として納め、今できること、やるべきものに向って精一杯、法華経の精神で生きることが物故者へ贈る最高の供養になるのである。