kisuke 汗の賜物

 

 

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阡陌陟記(一)

発迹顕本(ほっしゃくけんぽん) (P18)
迹(しゃく)を発(ひら)いて本(もと)を顕わすと読む。仮の姿を払って本地(真実の姿)を顕わすこと。

師弟子の法門 (P18)
師弟相寄って成じる処の法門のこと。本因本果の法門ともいい、蓮華因果の法門ともいわれる。詳しくは本文及び大石寺法門四巻「互為主伴」の項参照。

受持 (P19)
多くの苦難を乗り超えて来た民衆の知恵(悟り)を受け持つということ。上行の法、不軽の行、釈尊の学、日蓮の慈悲を受持することをいう。

内証 (P19)
師が会得(えとく)している内面真実の悟りの世界。

本尊 (P19)
根本尊敬の意。民衆が生れながらに所持している己心内証の本尊(本因の本尊)と本果の本尊がある。

還滅門 (P19)
還滅(げんめつ)の法門のこと。流転門に対する語で煩悩生死(ぼんのうしょうじ)の苦悩を離れることをいう。悟りの世界。

折伏 (P20)
不軽菩薩の行を行ずること。相手方を主役と立て自他彼此の差別の無い己心の本尊を確認する行を言う。

第六当家三衣(さんね)抄 (P21)
享保十年(一七二五)六月に記述された日寛上人の六巻抄の第六のこと。六巻抄の結論にあたる。詳しくは別の機会に説明する。

止観第五 (P21)
中国隋代の天台智?
(ちぎ)説、章安記「摩訶止観」十巻の第五のこと。観心本尊抄発端の文、これから一念三千及び十法界及び十界互具及び十如是を明かす、又そこから本因本果も出ているようである死後堕獄すれば十界互具は成り立たない。ここから滅後末法の本尊を明かされる。今は死後の堕獄を認めている。これは詳しくは別に論じることにする。

本因(ほんにん)実義 (P23)
本因とは本果に対する語で、ここでは日蓮の仏法のことをいう。日蓮の仏法の真実のすじみちのこと。

三秘相即 (P23)
本門の本尊・戒壇・題目が差別なく一つに融(と)け合っている状態をいう。

滅後末法 (P26)
滅後己心の末法のこと。本尊抄は滅後第五の五百歳即ち二千五百年後に生まれた衆生のあるべき心得をとかれる。

御宝蔵 (P26)
大石寺客殿の裏にある土蔵造りの建物。久遠名字の妙法の別号でもある。民衆の己心を表示する言葉である。大石寺の丑寅(うしとら)の一隅にあり客殿から遙拝し乍らこれらを確認していたようである。

不開門 (P26)
大石寺境内、客殿の南側にある小さな門。己心の法門を事行に表わした広宣流布の姿である。「大石寺法門(三)」参照。古い客殿の東南の隅、やや西よりにあり、閻浮提(えんぶだい)に正対していた。今でも広宣流布の時至ればこの門を開くという。

二天門 (P27)
大石寺境内の建物。三門をくぐり御影堂に向う途中の門。正月十六日に門を開き客殿に紫宸殿の本尊を掛け奉って広宣流布を祝う。昔明治以前は三河万歳を呼んでこれを祝福した。

久遠名字 (P28)
久遠名字即のこと。本因妙抄に「釈尊・久遠名字即の位の御身の修行を末法今時・日蓮が名字即の身に移せり」とあったが、今は使うことが出来ない。今は本因妙抄には二本線が引かれて切りすてられている。

当体抄 (P28)
文永十年(一二七三)日蓮五十二歳作。「当体義抄」のこと。古来真偽について色々にいわれている。

勘文抄 (P28)
弘安二年十月(一二七九)日蓮五十八歳作。「三世諸仏総勘文教相廃立」のこと。真偽について、当体義抄に近い。

戒定恵 (P29)
戒学・定学・恵学の三学のこと。川澄勲著、「大石寺法門(一)」参照。

日本国立戒壇論 (P30)
現実の日本国に閻浮提一の戒壇を建築物として建立しようという考え方。三位日順は「寸尺高下註記する能わず」という。今は註記に切りかえて正本堂と現われている。その根拠如何。

貫主本仏論 (P33)
相承を受けた大石寺の貫主が生きながらの本仏であり、これに叛く輩(やから)は僧俗共に、成仏できないとする説。他人の居る時には畏れ多くも勿体なくもと法主にこのような語を冠して唱えていた人あり。

大霊である本法 (P34)
民衆の己心から抜け出た本法をいう。本法は衆生の己心にある。そこに宇宙の大霊をみる。本仏もまたそこにある。そこに常寂の故里をみている処に大石寺法門が成り立っている。

当家の云う本法 (P34)
本尊抄の末文にある民衆所持の本法のこと。「一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起し、妙法五字の袋の内にこの珠をつつみ、末代幼稚の頸にかけさしめ給う」

因行果徳 (P34)
因行とは師弟一箇の成道を目指して修する行をいう、即ち本因の行である。そしてそこに本果を求める、これが果徳である。その因行果徳の上に衆生の成道も成り立っている。

迹仏の寿命 (P37)
始成正覚の迹仏、久遠実成の本仏の共に領する世界、時節を文底から見つめ直した時のとらえ方。

化儀の折伏 (P41)
要法寺日辰師の説。創価学会が折伏基盤に置いた言葉。「日蓮正宗教学小事典」参照。


阡陌陟記(二)

御書七抄 (P47)
開目抄・観心本尊抄・撰時抄・報恩抄(ほうおんじょう)・法華取要抄・法華経題目抄・当体義抄。聖典の唱法花題目抄ではない。寛師はこれを天台ずりという。

三重秘伝 (P48)
三重秘伝抄の義に十門を開くの内、権実相対、本迹相対、種脱相対して一念三千を明かすを示した三重の秘伝のこと。「阡陌陟記」下巻一一八頁参照。開目抄読み方についての寛師のお示し。

五重相対 (P48)
寛師の本尊抄開目抄各文段抄の文。
内外・権実・権迹・本迹・種脱の五重の相対のこと。開目抄から引き出されたもの、そこから本尊抄の読み方が定められる。

隠居法門 (P50)
大石寺客殿の座配に痕跡を残す山法山規。釈尊隠居の後に展開する、滅後末法の法門。

久遠の妙法 (P51)
久遠名字の妙法に迹仏の時を付与して作られた語。

末法思想 (P53)
釈迦滅後二千年を過ぎるとその教法の功力が失われるという終末思想ではなく、民衆が自力で立上った思想。太平記参照。弥勒思想、世直し思想もその一例である。

三世超過の法門 (P53)
我々民衆が過去・現在・未来の三世による威(おど)しを超過し、三災を離れ四劫を出(い)でたる常住の浄土を手中に納める手掛りのこと。開目抄はその秘術をとかれている。その体得を寛師は教えられている。

「戌亥の方」の御書 (P57)
「いぬゐのかたより・かはながれて・たつみのすみにむかう・かかるいみじきところ」とある。東北のすみ御宝蔵のある処或は明星池を指すか、それより南に流れ更に東に流れて東の川に流れて更に東南の閻浮に注いでいるように川が作られている。それらの水が南の坊の南を東に流れている。明星池の水は湧水あり、それに天の明星がうつるそれが明星であり本尊である。今はその池に柱を立てて書院が建てられ師弟交遊の場となっている。そこにあるのが御華水、或は身延派の水をうけているかもしれない。それが出るのが御華水である。それらの水は霊山から流れ来ているかもしれない。

唯授一人法水瀉瓶(しゃびょう) (P58)
師日蓮と弟子日興の師弟一箇した姿をいう。

文底寂光一土 (P61)
法華文底寂光一土。凡夫の己心のこと。これが常寂の浄土である。そこに本法があり、その土を魂魄の上に求められている。又本仏の住処である。

文底一念三千 (P61)
法華文底事行の一念三千の事。本因妙抄に「文の底とは久遠実成の名字の妙法を余行にわたさず直達の正観・事行の一念三千」とある。

総与 (P64)
総(すべ)てに与(あた)うの意。本仏から衆生は三秘を授与されている。これが総与である。

定戒恵・恵定戒 (P65)
戒定慧の三学相互の関係を説法(定戒恵)・法門(恵定戒)の次第に約した語。修行の次第に約せば戒定慧となる。

三衣(さんね)抄 (P65)
日寛記。六巻抄の第六当家三衣抄のこと。享保十年六月述作。六巻抄のうち結論と決められている。観念文も用意されている。左伝の註の文底をよみとる事。そこに常寂の浄土がある。

逆次の読み (P74)
法華取要抄「問うて云く法華経は誰人の為に之を説くや(中略)逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す」

刹那(せつな)成道 (P75)
民衆成道を指す語。戒定慧や仏法僧を一言に摂尽した題目として受け止めた刹那をいう。「本因妙抄」「当家三衣抄」等参照。

受持即観心 (P75)
受持とは本因修行のこと、受戒であり持戒でもある。観心とは刹那成道をいう。

民衆成道 (P75)
三惑未断の我々凡夫の成道。

無作三身 (P76)
本来のまま、ありのままの仏で本仏が眠りについている状態をいう。

弟子檀那 (P76)
弟子とは出家の僧、檀那は在家の信者。僧俗と並び称して大衆の意。弟子檀那とは民衆の事をいう。


阡陌陟記(三)

遙拝 (P81)
奥深い処にあるもの(己心)を取り出す為の語。師弟相寄って客殿にまみえ「遙拝」という語に託して三仏の顔貌を拝見しうけたまわること。

直拝(じきはい) (P81)
本因の本尊を確認した後に、師弟結縁(けちえん)の一機一縁の本尊に対し礼拝し報恩・感謝・尊敬の意を表すること。

法主(ほっす) (P90)
久遠元初自受用報身のこと。宗祖の内証(本師)に対する弟子の側からの尊称でもある。


阡陌陟記(四)

日蓮紹継上行跡 (P107)
宗祖は「法華経の行者」「不軽の跡を紹継する」立場を取っており、上行に関しては、「御使」「使い」と表現されている。

受持即持戒 (P111)
三大秘法口決裏書の文。

煩悩即菩提 (P112)
煩悩の体を改めずに菩提を成じること。

学行信 (P126)
学を承け行を重ね信に至る道筋のこと。

上行所伝の法 (P126)
釈尊が上行菩薩に付嘱した滅後末法の法体をいう。

摂受行(しょうじゅぎょう) (P129)
折伏に対する語。相手を容認しつつ正法に入らしむ化導法。開目抄下参照。

日蓮大聖人の化儀化法 (P142)
教化の形成方法と教法、教説及びその内容。本因で出ているものを本果で解するために種々なむじゅんに出くわすように思う。

摂折二門同時 (P147)
摂受と折伏の二門を同時に行うこと。

本仏の魂魄 (P151)
己心の本仏、師弟子の魂魄のこと。


阡陌陟記(五)

魂魄 (P160)
人の肉体・精神を司るもの。神(たましい)。

成道 (P160)
仏道を成ずること。成仏・得道と同義。

肉体本仏論 (P160)
宗祖の肉身そのものが釈尊を超える本仏とする説。

法主(ほっす) (P160)
法門の主すなわち仏の称。法に通達(つうだつ)した人、法を説く人。一宗派の首長。大石寺第六十七世阿部日顕師も法主と称している。

本果(ほんが) (P161)
成仏したという結果。本因に対する語。 

本因(ほんにん) (P161)
悟りを開く原因。本果に対する語。

三秘 (P161)
三大秘法のこと。本門の本尊・戒壇・題目を意味する。

宗祖 (P163)
宗祖自ら一宗の元祖にあらずといわれている。
一宗の開祖。ここでは日蓮のこと。寛師は蓮祖といわれているのは宗祖の語をはばかられたものであろう。

法主本仏論 (P163)
日蓮正宗の管長(大石寺の貫首)が法主であり、本仏でもあるとする説。

流転門(るてんもん) (P166)
時空の上に考えられている久遠実成や五百塵点(じんでん)の世界の総称。

還滅門(げんめつもん) (P166)
魂魄の上にのみ考えられるもの即ち己心の世界。

五百塵点 (P166)
五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)の略。無始無終を意味する。

久遠元初(くおんがんじょ) (P166)
五百塵点の当初(そのかみ)と同義語。日蓮の法門を代表する語の一つ。大石寺法門(三)九二頁参照。

十二因縁 (P170)
衆生の迷いの因果を十二に分け関連づけたもの。流転門と還滅門の十二因縁がある。

一念三千法門 (P173)
摩訶止観第五に説かれた天台を代表する名法門。日蓮は観心本尊抄の冒頭に引用し、開目抄上では「一念三千の法門は但法華経の本門、寿量品の文の底にしずめたり」と記し、己心の法門を展開されている。秘しての三字は録外にある。これは日乾によって取り除かれたもの。身延では沈の字を認めない。

丑寅成道 (P174)
凡俗の生きながらの成道と同義。

開目抄 (P176)
日蓮遺文中最重要の御書の一つ。文永九年二月佐渡塚原にて記された。仏法の開目された抄である。この抄の意をとって本尊抄は説かれている。

三大秘法抄 (P180)
三大秘法禀承事。弘安四年日蓮六十歳の作とされるが門下一般では疑問を持たれている。詳しくは「大石寺法門と日蓮正宗伝統法義」一の後半〜二、三、四参照。

滅後末法 (P180)
滅後己心の末法のこと。釈尊側から説く末法を在世末法といい、我々民衆が主役の座に着く時を滅後末法という。本尊抄は仏滅後五五百歳始観心本尊抄即ち第五の五百歳の衆生のために説き出されたのが本尊抄である。

法前仏後 (P181)
大石寺の法門の立て方をいう。師弟子の法門によって本仏が誕生する仕組になっている事を指す。

日蓮紹継不軽跡 (P181)
日蓮は聖人知三世事に「日蓮は是れ法華経の行者なり不軽の跡を紹継する」と記す。
 
法行二人 (P181)
本法所持の人(にん)上行と行をもって体とする人(にん)不軽の二人を言う。

一言摂尽の題目 (P190)
大石寺法門の一つ。久遠名字の妙法とも言う。六巻抄第五当流行事抄に詳述されている。


仏道雑記(六)

国立戒旦論 (P203)
三大秘法禀承事(ぼんじょうじ)の文を是とし現実世界に戒壇を建立しようとする考え方。明治の田中智学、戦後の創価学会、現在の顕正会などが主として主張している。

内証本因 (P207)
己心内証・本因の本尊のこと。今は本因はとらない。

三師塔 (P223)
宗祖を中央に開山、目師を左右に配した塔化儀抄に「今の本末諸寺には皆三師塔あり」とある。


仏道雑記 (七)

三災 (P233)
観心本尊抄「今本時の娑婆世界は、三災を離れ、四劫(しこう)を出でたる常住の浄土なり」。三災とは穀貴(こくき)・兵革(ひょうかく)・疫病、又は火災・水災・風災のことをいう。

四劫(しこう) (P233)
成・住・壊(え)・空の四劫をいう。万物の生成流転の有様。

即身成仏 (P234)
三世諸仏総勘文教相廃立に「己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に生死(しょうじ)の夢を覚(さ)まして本覚の寤(うつつ)に還(か)えるを即身成仏と云うなり、即身成仏は今我が身の上の天性・地体なり煩も無く障りも無き衆生の運命なり果報なり冥加なり」とある。

伝戒の法 (P243)
戒定慧の三学倶伝の妙法をいう。三学は古来戒の扱いを受けてきたのでこの語がある。

三祖一体 (P245)
三祖の用(はたらき)を法門の上で一体とし、民衆を利益(りやく)する大石寺の化儀をいう。

釈尊本果 (P248)
釈尊が仏果を証得し衆生を教化したことをさす。

釈尊不譲座 (P252)
釈尊在世から滅後末法へ時節の転換が行われていない状態をいう。

流転還滅(るてんげんめつ) (P256)
三界六道の生死(しょうじ)と生死・煩悩を滅した悟りの境界。

互為主伴 (P257)
「交互に主君となり臣下となる」老子の釈文。大石寺法門(四)参照。

受戒 (P264)
末寺に於て「法華本門の戒を持つや否や」「持ち奉るべし」と誓言する入信の儀式。

持戒 (P264)
三学を受持すること。三大秘法口決裏書に「受持即受戒なり是を持戒と名づく」とある。

伝戒の戒 (P264)
戒定慧の三学のこと。

勘文・当体 (P270)
日蓮の御書。三世諸仏総勘文教相廃立と当体義抄のこと。共に余り深入りしないこと。


仏道雑記(八)

世間即仏法への開目 (P277)
世間の中に仏教を取り込み魂魄の上に仏法の眼(まなこ)を開くこと。

法華取要抄 (P278)
文永十一年五月、日蓮五十三歳の作。「法華経は誰人の為に之を説くや(中略)逆次に之を読めば滅後の衆生を以て本と為す」とある。

法華文底 (P300)
文上に対する語。文の奥底、根底のこと。

御動座 (P306)
御宝蔵に密附すべき戒壇の本尊が正本堂にその座を動かした事。


仏道雑記(九)

取捨得宜(とくぎ)不可一向 (P319)
取捨宜しきを得て一向にすべからず。

新流転門 (P345)
釈尊の流転門を宗祖の仏法の立場から再び踏襲するという考え方。

明治教学 (P346)
現在の大石寺の教学に代表される古伝の法門を無視した目茶苦茶な立義をいう。他門のものが雑然と入っている。

己心の法 (P348)
己心の法門のこと。己心の法は台家のみという誤った考え方。


阡陌陟記(十)

人法一箇 (P363)
三重秘伝抄の註解に「名は一つで義は広いのであるが今は凡身と一念三千との人法一箇、宗祖大聖人妙法との人法体一とを取るのである」とある。

仏法僧 (P363)
仏教の三宝(仏宝・法宝・僧宝)をいうが大石寺では仏法の上で用いている。

三重秘伝 (P363)
民衆の成道、本仏の誕生、明星直見の本尊の三重の秘伝をいう。

御相承 (P364)
相伝・付嘱と同義。師と弟子が相対して法門を授け承け継ぐこと。

文底が家 (P364)
法華文底に宗旨を立てる大石寺のこと。

久遠実成 (P365)
法華経如来寿量品第十六で釈尊が五百塵点劫(じんでんごう)という久遠の昔にすでに三身をそなえた仏であったと説きあらわしたこと。

三学倶伝 (P366)
三学を倶(とも)に伝えること。

三学別伝 (P367)
戒定恵の三学を別立させ伝えること。

ラセン法門的 (P367)
流転門に法門を立てればラセン階段を廻りながら上り下りするのと一緒であるということ。

久末(くまつ)一同 (P368)
久遠即末法と同義。

弥勒(みろく) (P369)
ここでは弥勒菩薩のこと。釈迦滅後五十六億七千万歳に再びこの世に下生し衆生を済度(さいど)するという。

末法の始 (P374)
観心本尊抄の文。「本門は序正流通倶(とも)に末法の始を以て詮と為す、在世の本門と末法の始は一同に純円(じゅんねん)なり。但し彼れは脱、此れは種なり。彼れは一品二半此れは但題目の五字なり」

事行(じぎょう) (P376)
本因妙抄に「文の底とは久遠名字の妙法を余行に渡さず直達(じきだつ)正観する事行の一念三千の南無妙法蓮華経是れなり」とある。法体に天台・伝教の理と当家の事があり、事を事に行ずることを事行という。

事行が家 (P376)
大石寺一門のこと。五重円記に「今当家の円宗は事行の妙法蓮華経宗也」とある。五重円記正宗聖典五三〇(日興聖人御教示中にあり)。

未断惑(みだんなく) (P376)
見思・塵沙・無明の三惑(さんなく)を断じていない迷いの状態のこと。

能居(のうご)の教主 (P379)
居住する主体の教主。住する国土を所居(しょご)という。

御義口伝 (P380)
日蓮の法華経の講義を二祖日興上人が記述されたものとされるが種々異見あり。上下巻で構成されている。

覚前の実仏 (P380)
伝教の守護国界章の文「有為の報仏は夢の裏(うち)の権果、無作の三身は覚(さとり)の前の実仏なり」とある。

在世像末 (P380)
釈尊の立場即ち仏教の側からみた像法・末法のこと。

天経 (P383)
孝経には「孝天之経也」とあり、また左伝には「夫礼天之経也」とある。それ礼は天の経なり、とよむ。化儀抄三十八聖典九八〇参照。天の諸天善神に向ってあげる経をいう。或は諸天に対する孝養(きょうよう)をいうか。

盆経 (P383)
盂蘭盆に経を唱えること。盂蘭盆経御書を根拠とする。宗門では古くはこの御書は使わない。

原殿書 (P387)
原殿御返事、正応元年日興上人四十三歳の作とされているが真疑については種々異見あり。正宗聖典五五七にあり。


阡陌陟記(十一)

守株の語 (P396)
童謡「まちぼうけ」に謡われている物語。語源は韓非子(かんぴし)にあり。宗祖は法華取要抄に引用され、寛師は取要抄文段で株を守る愚を諸宗に譬え法華経を取るべき事を主張されている。

樟板 (P396)
くすのきの板本尊。

法華初心成仏抄 (P397)
建治三年三月日蓮五十六歳の作とされるが門下一般では種々異見のある御書とされている。

外典(げでん) (P412)
内典(ないでん)に対する語、仏典以外の書籍。

内典(ないでん) (P412)
外典に対する語、仏法の経典をいう。

三世 (P412)
仏教の術語で過去・現在・未来を意味する。

一大事因縁 (P412)
法華経方便品第二の文。「諸仏世尊は、唯(ただ)一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう」とあり、諸仏が世に出現した理由を説く。寛師は文底秘沈抄に於て一大事の文を引用し、本門の本尊・戒壇・題目に配し三大秘法の名号を説かれている。

霊山一会儼然未散 (P415)
「霊山の一会、儼然として未だ散せず」と読む。法華経説法の会座(えざ)が滅後末法の今時に於ても民衆の己心に、厳(おごそ)かに気高く具わっている事。
 
霊山会 (P418)
法華経説法の会座の一つ。法華経は前霊鷲山会(りょうじゅせんえ)・虚空会・後霊鷲山会の二処三会(にしょさんね)で説かれる。また法華経の説法全体を霊山会と総称する。

従義流 (P419)
従義は宋の人、中国天台宗の学僧。初め山家説を支持したが後世離反したので山外派と呼ばれた。著書には「法華三大部補注(ふちゅう)」十四巻等がある。この従義の流れを汲む流派。細草等の勝劣派の段林はこれを用う。一致派は四明の集註による。

四明流 (P419)
中国北宋代の天台宗の僧智礼は四明地方に居たので四明尊者などと呼ばれた。又智礼の法系を継ぐ者を四明家といった。一致派という。後には叡山の学風を支配する。日蓮は京なめりとこれを斥(きら)う。


阡陌陟記(十二)

アンモ山 (P448)
天母山。大石寺の東方約四キロに位置する小高い丘をいう。ふもとに広がる平地は、万坊が原と呼ばれる。皇后をアンモ又はヲンモとお唱え申し上げているのではなかろうか。大石寺の求めた山。東半分と西半分との間に谷あり。その谷の下端から富士を見れば天母の股間から富士が誕生している如くに見えるこの山は、むしろ北山に関係の深いもの。恐らくこのあたり溶岩の平原であったものと思われる。

浄土思想 (P456)
煩悩でけがれている衆生の住む穢土(えど)(娑婆世界)に対し、五濁(ごじょく)の垢に染まらない仏の住する清らかな国土を浄土という。穢土と浄土は全く異なった別世界であるとする説と、開悟によって現実の娑婆世界が即浄土となるという考え方もある。日蓮、及び法然・親鸞等の根本になっているものは天台浄土ではないかと思われる。註法花華では多数に引用されている。

霊山往詣思想(りょうぜんおうけいしそう) (P457)
死後霊山に往き詣(もう)でようという思想、そこに死後の世界を見ている。死後師弟共に霊山の再開を期(ご)すという本尊抄の結語のごとき考え。これは後にミダの浄土と変るようである。

地下(じげ) (P457)
上行の住所をいう。
(一)地下に居ることによって姿形を現わさない。(二)知不知に係わらず、常に民衆を支えている。(三)地の厚き事により民衆の為に孝、徳の厚き事、かつ無尽蔵(むじんぞう)を表示する。(四)求めに応じ不軽の行によっていつでも地上に現われることができる。

一往法後 (P461)
釈尊から付嘱を受けた上行所持の法は一往仏前法後にあたる。

以信代恵、信恵因、名字即位也 (P462)
「信を以て慧に代え(中略)信は慧の因、名字即の位なり」


阡陌陟記(十三)

見思未断(けんじみだん) (P471)
見思惑を未だ断じていないこと。見思惑は三惑(さんなく)の一つで辺見・邪見や貪瞋癡(とんじんち)などによって生ずる見惑、思惑をいう。見思未断とは宗祖も含め滅後末法に生きる全ての民衆の事であり、己心とは別個のものである。

明星口伝 (P483)
明星直見口伝のこと。御本尊七箇相承の一つ。「末代の凡夫・幼稚の為めに何物を以って本尊とす可きと(中略)即ち彼の池を見るに不思議なり日蓮が影・今の大曼荼羅なり」との口伝をいう。天の明星が浮ぶ池のこと。古くは客殿の西北の隅にあったが今はない。

三衣抄 (P491)
日寛上人述記。六巻抄第六当家三衣抄のこと。ここに六巻抄の結論を考えられていたようである。

左伝 (P491)
春秋左氏伝のこと。春秋とは周代の末魯(ろ)国の史記であり孔子がこれを筆削(ひっさく)した。左伝は左丘明が文を作ってこれを釈したものをいう。

絶待信(ぜつだいしん) (P502)
彼此の対立を超えている信のこと。相対に対する語。


阡陌陟記(十四)

境界(きょうがい) (P507)
同一の現象に対する個々の認識の程度、理解の深さなど、智解(ちげ)の分限をさす言葉であり、信の一字の功徳にそれ程影響をもたらすものではない。

虚空住在 (P508)
境界の違いを示す言葉。我々の世界を見下すはるか上空の別世界。

信心教学 (P508)
信者になり信心に励めば(主に学会)功徳があると説く教え。

ニ而不二(ににふに) (P508)
「二にして二ならず」と読む。二つに立分(たてわ)けて説明することはできるが実体は一つであること。

三世常住の肉身本仏 (P515)
過去現在未来の三世に亘って永遠不変に肉身のままで本仏が存在すること。

富士門 (P531)
日興上人の門流。日興上人は弟子に本六新六を定めて入滅したが、その後分立があり富士門流は八本山で形成されていった。

談林 (P532)
談林は学問等を講じ談ずる林の意。僧侶の学問所をさす。学林、談所等も同じ。

細草 (P532)
細草談林(ほそくさだんりん)のこと。富士派と八品派の合同で創立された談林。

黄巻赤軸(おうがんしゅじく) (P538)
仏教の経巻のこと。仏教の経巻は、古来、黄色の紙に書写し、赤色の軸を芯として巻き物にした。黄巻朱軸ともいう。


阡陌陟記(十五)

外道(げどう) (P545)
仏教以外の道門およびその道門を立てる者を下していう言葉。

肉身成道 (P546)
師弟一箇、刹那己心に対する語。生きての仏ではなく生き仏そのもののこと。

南無妙法蓮華経日蓮在御判 (P552)
御本尊の相貌(そうみょう)の首題、宗祖己心所具の妙法。

日蓮体具 (P552)
日蓮の本体に具(そなわ)った。

本法所持 (P552)
愚悪の凡夫が悟りを啓(ひら)くための法門(手掛り)を所持するの意。

越階 (P553)
順序を飛び越えて上位にのぼること。

本法伝持 (P558)
民衆所持の本法を伝え持つ。

肉身常住 (P559)
生身(なまみ)の肉身が生滅変化することなく常に存在すること。

「今は凡身」 (P562)
三重秘伝抄の「人法体一」の註解。
名は一つで義は広いのであるが、今は凡身と一念三千との人法一箇、宗祖大聖と妙法との人法体一を取るのである(以下略)。

内秘の折伏 (P563)
折伏を内に秘める。

外現(げげん)の摂受(しょうじゅ) (P563)
折伏を内に向けた徳が外には摂受と現われる姿。

本仏出世 (P564)
(多くの民衆の知恵により)(謝霊運によって)法華文底に秘められた本仏が経文上の迹仏世界を通り越し、現実世界にまかり出ること。

仏法即世法 (P564)
開目抄上「若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」 観心本尊抄「法華を識る者は世法を得可(べ)きか」

他門超過 (P564)
他門に相手にされないような考え方のこと。

内証己心 (P570)
衆生成仏の姿そのもののこと。

無作本有(ほんぬ)の妙法 (P572)
久遠元初の自受用報身のこと。


阡陌陟記(十六)

絵像木像 (P580)
絵像−絵画にかいた仏菩薩の像。木像−仏菩薩の形像を木に刻んだもの。観心本尊抄に「然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏、木画二像の本尊は有名無実(うみょうむじつ)なり」。

断・未断 (P586)
断(断惑(だんなく)証理)「惑を断じ理を証す」一切の煩悩を断じ尽くし悟りの境地を体得すること。
未断(未断見思)いまだ見惑思惑を断じていない迷いの凡夫のこと。


阡陌陟記(十七)

謝霊運 (P623)
中国六朝時代の南朝宋陽夏の人、一般では詩人として知られている。法華経は鳩摩羅什の訳とされているが後に謝霊運も法華経にかかわり再治されている。

事行の法門 (P630)
大石寺独歩の法門。「三大秘法口決裏書」参照。事迷の法門を事に行ずることで丑寅勤行に代表される。三大秘法裏書き、久遠院日騰(とう