阡陌陟記(5)

 

笑語録上より

 むかし大村先生の名論文が発表されたことがあった。長い伝統の中に信ぜられてきた戒壇の本尊と熱原三烈士との関係、それは十二日を中心にしての事であった。戒壇の本尊の十二日はおそらく法門の上に決められたものであろう。仮に十五日であっても、幕府の断罪決定の日を十二日とし、法門の上に一致点を求めたのかも知れない。現実の日時と相違があっても格別問題にする程のものでもあるまい。これが問題になったのは、本尊を宗制宗規をもって宗祖直筆と定めた以後の事ではないかと思う。宗祖直筆と定めた処に問題があったので、法門として定められたものは法門として解決を委ねるべきであった。

 熱原三烈士の最後の力強い題目が昇華して戒壇の本尊と顕われたということは、そこには長い信仰の歴史があった。その最後の題目とは一言摂尽の題目即ち師弟一箇の題目であり、六巻抄では第五の終りに至ってこれを明されている。何故こゝに気がつかなかったのであろうか。そして現実は法門に勝っていたことを証明する羽目になった。

 堀上人も開山の徳治の本尊を三十三回忌の追善とし、翌年四月と定め十二日とは切り離したいような気配が伺えるが、この本尊は三十三回忌としては一ケ年のずれがあるし、三十三回忌というよりは鎌倉法難の関わりのなかで見た方が史料に忠実なようである。今も阿部さんの処では未解決の難題であろう。淳師の時も同様である。第三の難が阿部さんの時に来ないとは保証し難いと思う。幸い今は十五日説を決定付けた大村教学部長であるから、十余年以前から準備は出来ているので、その点不安はないが、戒壇の本尊開顕の日と三烈士の処刑の日が、国柱会説を頼りとして切り離されたことは返す返す遺憾な事である。大村先生は信心深いから格別関心もないとは、誠にお目出たいことである。不信の輩が遺憾といい、深信の高僧が無関心とは不思議な世の中である。全くアベコベである。

 本尊の前のお供餅には、十二因縁と三烈士処刑の日との二つを含めているように考えられる。しかし十五日と決まった以後は十二因縁とは全く無縁となるが、本尊の十二日のみは依然として残っている。本尊の威力も戸惑いの貌であろうか。十五日と決めたくらいなら、餅の数も十五箇に改めてはどうであろう。三烈士を切り離した戒壇の本尊は完全に本果に落ち、師弟子の法門も消えた。そして三烈士の処刑日を十五日とすれば、身延側はその目的を達したことになるから、再びこれについて突いてくることはないであろう。しかし、これをもって大村教学の勝利ということができるであろうか。

 

 

 

大石寺法門(3) 

 

熱原の愚痴の者共

 愚痴の者共とは愚悪の凡夫であり、本仏の資格を備えているが、近来は三烈士の語が専ら使われていた。勇ましさはあるが本仏とは異なったものを持っている。この三烈士が戒壇の本尊と一箇して説かれていた。魂魄や己心とは別な雰囲気を使っていたのであろう。その後十月十二日の処刑が四月八日と改められ、また十月十二日になっていたが、今は十月十五日に改められた。しかし究竟中の究竟の本尊説が出ると、何となし十月十二日説の復帰を思わせるものがある。これが現在の説と思われる。どうも熱原の愚痴の者共も落付かないし、本尊もまたそわそわしている感じである。やはり戒壇の本尊への連絡の仕方に問題があるようである。

 

 

 

大石寺法門(4)

 

 広宣流布

 魂魄佐渡に至るとは仏法建立の宣言であるが、一宗建立の宣言は真蹟には見当らない。また本時の娑婆世界は現実の娑婆世界と解され、そのまま迹門につなげ、魂魄世界とは考えられていないようである。そして魂魄に現われるべきものは総て迹門に置きかえられている。今それらの矛盾が急激に頭をもたげようとしているのである。

 熱原の愚痴の者共が三烈士となり、頸が飛んでしまった処で戒旦の本尊と連絡付けられたのは明治の頃であったが、結果はあまり好くなかった。処刑日も次々に変えられていった。結局本因の本尊を本果と証明するようになった。もともと魂魄の上に考えるべきものを肉身の上に考えたのがそもそも間違いの発端であった。本果と決めてこれで落ちつくであろうか。結局本因に収まらなければ真実落ち付いたとは言えないであろう。まだまだ時間がかかりそうである。あまりにも周辺に紛動され過ぎているようである。