以下の論旨は「正信覚醒運動のめざすもの」より引用したものである。

阿部宗門

数量・多人数

覇権主義

戒壇堂建立

正信会

信の一字

衆生救済

娑婆即寂光

 


川澄語録

昔は・・・

さて広宣流布といえば、昔は正月十六日と盆の十六日の地獄の釜の蓋の開く日を広宣流布の日と定めて、一人残らずという広宣流布を祝福していた。正月には富士宮から万歳が来て不開門の前で広宣流布を祝い、次に二天門の左裏で、御宝蔵に向って一回、同じく丑寅(御先師の墓)に向って一回、都合三回祝福をしていたようである。この日は云うまでもなく不開門の開く日で、開く事は即ち勅使が参向したのであり、従って客殿には紫宸殿の御本尊がかけられ、天皇も信仰されたことになる。所謂王臣一同広宣流布を祝福した事を意味し、また盆の十六日は地獄の釜の蓋の開く日であり、天下に一人の罪人のない日、これを捉えて天下万民の広宣流布を祝ったのであろう。前者が王臣一同、後者は天下万民の広布を即時に実現していると考えねばならない。

宣流布は

広宣流布は一言の題目の上にあるもので、成道の語と殆んど同じではないかと思う。そこを基盤として外相に出るべきものが、いつのまにか本所を忘れて外相において特異な発展をしているのが現在の考え方である。外相のみに考えられると種々の摩擦も起るし、自己矛盾にも遭遇しようというものである。

己心の法門の領域

一閻浮提総与の衆生とはいうまでもなく一人にまとめられた一切衆生である。時空を超えた処に一人の一切衆生がある。こゝには信の一字をもって即時に広宣流布する境界があり、それが己心の法門の領域である。弘安二年の本尊を受持し、わが身に体達した時始めて開けてゆくところの境界である。

己心

己心の仏国土における広布であって、文底が家の広布は専らここにある。一人が信ずれば、その仏国土に居る衆生は一人残らず信者となって一糸乱さぬ広宣流布が実現する。それを確認した上で、余れば弟子旦那に施すという慈悲心から、一人二人のものでも信者にしようというのが本来の在り方ではなかろうか。己心を忘れたノルマ調はいつか行きづまるものである。しかし今の大石寺の近代的な仏教観には通じない。何故かといえば、それは仏法的な考え方が強いからである。従って金とは全く縁のない故に、今の宗門人の最も斥う処である。法を守るか金を取るか、大石寺にとって今が最後の正念場である。

開宗以来

国立戒旦とは三堂一時に建立し、三秘即時に建立するのも、信の一字の上の建立である。いつの頃から今のような世出世の混乱が起きたのであろうか。現在も相変らず同じような混乱が続いてますます複雑になっている。広宣流布などもその一例ということではなかろうか。開宗以来己心の法門を説きながら、弘安最後に至って建造物を伴った戒旦の建物こそ真実であるということになれば、大混乱必至である。本尊抄を中心に己心の戒旦を建立して来た宗祖が、いよいよ弘安の終りになって、建築物による戒旦こそ自分の真意であると遺命されることもあるまい。己心の戒旦をもってこのような戒旦を破されることはあっても、最後になって己心の戒旦を破せられるようなことはあるまい

   
異様な成道

本尊は唯寂光土にあり、それより分身が出て成道せしめることが、広宣流布の中の本尊流布ということになれば、分身成道となり、迹門の成道と同じ形であり、時の混乱によって刹那成道の意が甚だしく薄らいでくる。そして一旦成道したものが一閻浮提総与の本尊の本に馳せ参じてくるということになれば、徳川の封建政治に似て、文底寂光一土の成道でもない、文上寂光土の成道でもない、異様な成道となる危険がある。

呪術的な

御書を心肝に染めてといえば即時に御書が心肝に染まる。狂った学といえば即時に狂った学になる。広宣流布達成といえば即時に広宣流布達成となる。何となしに大村先生のものを見ておると、こちらまで呪術的というか幻想的というか、その様な世界にまきこまれてしまいそうである

外相へ出た結果

この己心の三秘建立、広宣流布が外相へ転じ、己心が失なわれる時、民衆仏法から色相荘厳の貴族仏教へと変身するのである。今日の混乱も全く法門が己心から外相へ出た結果であるといわねばならない。己心に法門が建立されれば独一である。しかし一歩でも外相へ出ると、それは独善でしかない。独善はもはや法門ではない。大石寺法門は全て己心に建立されている事をまず覚知する必要があるようだ。

宗教分の広宣流布

また久成の定恵出現して、幾百年後に至って始めて戒壇が建立されるという考え方がある。これもまた完全に流転門の戒壇であって、三秘同時の建立を唱える還滅門の領域ではない。そしてこの戒壇建立に引き続いて、いつとも知れぬ広宣流布を目ざして長い年月を送ってゆく時、果して一人残らず信仰するという広宣流布の時があるであろうか。勿論宗旨は還滅門に於ける己心の広宣流布を本義とするとしても、宗教分としての一人一人の弘通を否定するのではない。けれども宗旨を忘れ、宗教分のみの広宣流布を追求するとすれば本末転倒といわねばならない。要するに問題は滅後末法の真実、即ち宗旨分の広宣流布がどこまで把握されているかという事である。

 

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