以下の論旨は「正信覚醒運動のめざすもの」より引用したものである。

阿部宗門

即物的受持

数量の世界

名聞名利

正信会

信念受持

志の世界

一念随喜

 


川澄語録

御授戒

御授戒は受持の儀式であって、受持によって始めて弟子の頂上に、而もその位置を改めることなく一言摂尽の妙法が出現することを示しており、知不知に関わらず衆生が成道できるところに本仏の大慈大悲がある。これが丑寅の成道である。弘安二年に完成した本尊を遥拝しながら師弟相寄って、しかも刹那刹那に成道を遂げるのであって、弘安二年の本尊に向って自らの本位を改めて成道するのではない。本位を改めた成道とはいうまでもなく本果の成道であり、永遠の成道に通じるものである。煩悩の中にあって刹那に成道する煩悩即菩提の境界ではない。この処では、命がけであげる題目や口唱の題目も通用するが、本因は一言の題目のみが通用する世界である。

師弟一箇の成道

宗祖の法門は七百年過ぎた今も当時と同じく民衆の要求に応えていることに変わりはない。開目抄に始まる一念三千の法門が六巻抄に受けとめられて、当家三衣抄に終るまでを師の開目とし、これを受持し観念することによって師弟一箇の開目がある。その開目とは即ち、一言摂尽の題目の上に開けてゆく本因の成道である。理即の上の凡夫は受持と観念の処に修行がある。「持つや否や、持ち奉る可し」ということは受持の儀式であり、結果として弟子の頂上にまず南無妙法蓮華経が出現することを示している。これが師弟一箇の成道であり、丑寅の成道である。

感得と受持

法門の世界に於いては文証の介在する余地はない。あるのは感得だけである。感得は受持と同じ様な意味であり、文の底に秘して沈めた法門を知るためにはこの感得以外に方法がない。弟子が師の内証、即ち文の底に秘して沈めた法門を感得した時、そこに戒壇の本尊を感じ、本仏日蓮大聖人を見る事ができる。自解仏乗というのもまたこのような境界を云うのであろう。
 かかる意味に於いて感得は師弟子の法門の中にしか存在しない。而も師弟子の法門は文証の通用する流転門の世界ではない。唯仏与仏乃能究尽の還滅門の世界での話である事を知らねばならない

古来からの常軌

久遠実成に成道を見るか、久遠元初に法門を立てるかということは古来からの常軌である。この受持即持戒の上に受持即観心の世界がある。受持の修行を持ったとき、始めて上行の滅後末法の世界が出現する。口唱の題目が一言に摂尽されるのもこの時であり、同時に観念文の領域が開ける。受持なくして流転門から還滅門に越えることは出来ない。当流行事抄の最後、一言摂尽の題目が次の当家三衣抄に至って受持即観心と開けた処に大石寺独自の法門がある。

不改本位の成道

凡身の体を改めず、受持即観心を実現し、刹那成道を現ずること、これが五字七字の妙法の体である。これを凡身即仏身ともいい、即身成仏ともいう。無限の修行の中にあって、成道は刹那に限られる。これが凡慮の成道の姿である。

受持即持戒

主師親の三徳も戒定恵の三学も、つまる処魂魄にある。そこに本仏も本因の本尊も出現する。それが成道でもあれば仏法でもある。これが事の一念三千でもあれば己心の法門でもある。これらの根本になっているのが受持である。受持即持戒という戒は戒定恵の戒のみを指すものではない。三学を含んでいるであろう。そのために受持即観心という。観心とは、本仏を獲(え)、本因の本尊を得て成道を遂げることであろう。

 

 

肉身本仏論

宗祖を上げすぎた結果が肉身を本仏と見立てるようになったとしても、これでは本仏の誕生は七百六十年を越えることは出来ない。あまりにも幼稚な発想である。釈尊入滅後二千年近くなって誕生した本仏ということを自ら確認しながら、どの様にしてこの関門を乗り越えようとするのか。本仏出生のところである己心の世界を捨てさっては鎌倉に生れた本仏は時空を超えることは出来ないであろう。感情の赴くまゝに口をついて出た肉身本仏論では、途端に破綻が待っていたということであろう。口に五百塵点を唱えてみても、当初を称してみても一向に無縁であり、寧ろ仏教や仏法の世界を遠く離れた感じが強い。このような処には受持もなければ修行もない荒凡夫の世界ということ以外、何物でもない。

多言の題目

多言の題目はそのままでは本果の領域に属するもので、一応己心の外にある。そこで方便品を誦んで捨て、寿量品を誦んで捨て、口唱の題目を誦んで捨てたその功徳によって始めて本因の題目ということが出来る。この本因の題目から立ち還ったとき、本果口唱の題目は始めて修行ということが出来る。経上ってゆくところを題目修行ということは、大石寺法門の取らざるところである。それにも関らず、今は宗門あげて口唱の題目、多言の題目全盛の時代である。

 

 

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