取要抄文段

 

享保二丁酉二月七日  日寛之を記す
 
一、題号
 「法華取要抄」とは「法華」の二字は一代経の中に爾前を簡び、「取要」の両字は法華経の中に広略を簡ぶ。謂く、一代経の中には但法華経、法華経の中には但肝要を取る、故に「法華取要抄」と名づくるなり。
 問う、当抄の大意、略して三節あり。初めに一代諸経の勝劣を明かし、次に今経所被の時機を明かし、三に末法流布の大法を明かす。
 然れば則ち当抄の題号はこの三節を総するや。
 答う、此に通局あり。謂く、「法華」の二字は三段に通じ、「取要」の両字は第三に局る。これ則ち結要付嘱の要の字なるが故なり。
 問う、如来要を取って付嘱したまう旨を述ぶる故に「取要抄」と名づくるや。将、蓮祖要を取って弘通したまう相を述ぶる故に「取要抄」と名づくるや。
 答う、両意を含むと雖も、今正しく題意は第二に在り。謂く、蓮祖要を取って弘通したまう相を述ぶる故に「取要抄」と名づくるなり。然る所以は、如来要を取って付嘱したまうが故なり云云。
 問う、要の字の字義は如何。
 答う、天台云く「一切を総括する、之を名づけて要と為す」等云云。孝経大義十八に云く「其の父を敬う則は子悦ぶ。乃至、其の君を敬う則は臣悦ぶ。一人を敬いて而も千万人悦ぶ。敬う所の者は寡くして悦ぶ者は多し。此れ之を要道と謂う」云云。譬えば樞柄、綱維、喉襟、目奚の如し。これを思い知るべし。「此の経は持つこと難し乃至亦然なり」云云。
 問う、いう所の要とは、その体如何。
 答う、諸抄の中に且く両文あり。一には一部の題号に約す、報恩抄等の如し。二には寿量の妙法に約す、本尊抄等の如し。中に於て一部の題号に約するは、これ一往の傍義なり。寿量の妙法に約するは、再往の正義なり。その故は、題号の妙法は仍これ迹門の妙法なり。何となれば、今日一代は皆これ迹中の所説なり。既に迹中所説の法華の題号なり。豈迹門の妙法に非ずや。実にその功を論ぜば、咸く本門寿量文底秘沈の大法、久遠本地名地(字)の所証の妙法に帰するなり。故に天台云く「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり」文。妙楽云く「迹中に説くと雖も、功を推すに在ること有り。故に本地と云う」云云。
況やまた題号は只これ久遠名字の妙法の朽木書なり。譬えば画師の焼筆を以て且くその形を図するが如し。その画を施し已んぬれば、還ってこれを払除す。何ぞこれ実義ならんや。故に当流深秘の血脈抄に云く「迹門の妙法蓮華経の題号は本門に似ると雖も義理・天地を隔つ成仏亦水火の不同なり、久遠名字の妙法蓮華経の朽木書なる」等云云。秘すべし、秘すべし。
 当に知るべし、諸抄の中に或は「寿量の文底」といい、或は「寿量の肝心」といい、或は「三箇の秘法」という、皆これ久遠名字の妙法なり。これ則ち正中の正、妙中の妙、要中の要なり。故に当流の意は、久遠名字の妙法を肝要と名づくるなり。当に知るべし、三世十方の微塵の経々、無量の功徳は、皆咸くこの要法に帰するなり。
 今蓮祖大聖、偏に如来の付嘱に任せ、この要法を取って末法今時に弘通したまう相を述ぶ、故に「取要抄」と名づくるなり。抄は鈔と同じ。字彙に云く「抄は俗の鈔の字、鈔は写録の目、亦之を抄と謂う」云云。職原抄の頭書の始めに云く「又漢には抜書を以て抄と曰う。又和漢註解を以て抄と曰う」文。
 
一、扶桑沙門。
 「扶桑」は日本の別称なり。総じて十四の名なり。
 一には豊葦原千五百秋瑞穂国、二には豊秋津洲、三には浦安国、四には細戈千足国、五には磯輪上秀真国、六には玉垣内国、七には倭国、八には倭面国、九には倭人国、十には邪馬台国、十一には姫氏国、十二には扶桑国、十三には君子国、十四には日本国なり。啓蒙二十九四十四、また第七三十三、往いて見よ。
 「沙門」は梵語、此には勤息と翻ず。善を勧め悪を息むる故なり。要覧の上六にこれを釈す、往いて見よ。
 
一、日蓮之を述ぶ文。
 御名相承は今且くこれを略す。「之を述ぶ」とは、「述」とは伝なり。礼記第十八巻十四楽記に云く「礼楽の情を知る者は能く作る。礼楽の文を識る者は能く述ぶ。作者は之を聖と謂い、述者は之を明と謂う。明聖は述作の謂いなり。註に云く、夫子聖にして、乃ち述べて作らずとは、其の徳有ってその位無き故なるのみ」已上。論語第四初に云く「子日く、述べて作らず、信じて古を好む」。註に云く「述は旧を伝うるのみ。作は則ち創始なり。故に作は聖人に非ずんば能わず。而して述は則ち賢者も及ぶべし。孔子は皆先王の古を伝う、未だ嘗て作る所有らざるなり。其の事は述と雖も、而も功は則ち作に倍せり。知らずんばある可からず」已上。
 蓮祖もまた爾なり。皆久遠名字の妙法、塔中付嘱の要法を伝う。豈先王の古を伝うるに非ずや。故に「日蓮之を述ぶ」というなり。
 
十三日
 
一、夫れ以れば等分。
 この抄、大いに分ちて三と為す。初めに一代諸経の勝劣を明かし、次に「問うて云く法華」六丁の下は今経所被の時機を明かし、三に「問うて云く如来滅後」十一の下は末法流布の大法を明かすなり。初めの一代諸経の勝劣を明かすにまたニ。初めに教法の勝劣を明かし、次に「今・法華教」の下は教主に寄せて勝劣を判ず。初めの教法の勝劣を明かすにまた二。初めには標、次に「所謂」の下は釈。
 
一、月氏西天より等文。
 「月氏」の名義に略して三意あり。一には仏日既に没し、賢聖月に出でて凡を導く故に。二には国の形の半月に似たる故に。謂く、北は広く南は狭きなり。三には彼の土は大国にして、星の中の月の如きが故に。名義三十云云。「西天」とは方処を指示するの名なり。
 
一、漢土日本等文。
 別して「漢土」というは漢代に仏法始めて渡るが故に。また漢の代久しきが故なり。例せば大唐国というが如し。「日本」の名義に略して三意あり。一には日始めて出ずるが故に。二には日神始めて生ずるが故に。三には日の神を本と為すが故に云云。その外、これを略す。また愚案十二十九。
 
一、五千七千余巻文。
 旧訳は五千巻なり。新訳を加えて七千巻なり。
一、其中の諸経に勝劣を論ず等文。
 「勝劣」は能栓の教に約し、「浅深」は所栓の理に約し、「難易」は法体に約し、「先後」は次第に約するなり。
 問う、略して教の勝劣を知るの相如何。
 答う、宗祖謂えるあり、今引いてこれを示さん。
持法華問答抄二一初に云く「抑も希に人身をうけ摘ま仏法をきけり、然るに法に浅深あり人に高下ありと云へり何なる法を修行して速やかに仏になり候べき願くは其の道を聞かんと思ふ、答えて云く家家に尊勝あり国国に高貴あり皆其の君を貴み其の親を崇むといへども豈国王にまさるべきや、爰に知んぬ大小・権実は家家の諍ひなれども一代聖教の中には法華独り勝れたり」已上。本迹相対また然なり云云。
 問う、略して理の浅深を知るの相如何。
 答う、宗祖謂えるあり、今引いてこれを示さん。開目抄下二四に云く「黒白のごとく・あきらかに須弥・芥子のごとくなる勝劣なを・まどへり・いはんや虚空のごとくなる理に迷わざるべしや、教の浅深をしらざれば理の浅深を弁うものなし」等云云。弘七末五十七に云く「一期の仏教所栓を以て体と為す。体また教に随いて権実一ならず」已上。
守護章中四十六に云く「凡そ能詮の教権なれば、所詮の理も亦権なり。能詮の教実なれば、所詮の理も亦実なり」略抄。
 問う、略して難易を知るの相如何。
 答う、また妙判あり。今引いてこれを示さん。難信難解抄十七三十五に云く「外道の経は易信易解・小乗経は難信難解・小乗経は易信易解・大日経等は難信難解・大日経等は易信易解・般若経は難信難解なり・般若と華厳と・華厳と涅槃と・涅槃と法華と・迹門と本門と・重重の難易あり。問うて云く此の義を知つて何の詮か有る答えて云く生死の長夜を照す大燈・元品の無明を切る利剣は此の法門に過ぎざるか」已上。
 この中この中に七重の難易あり。伝教云く「易信易解は随他意の故なり。難信難解は随難解は随自意の故なり」云云。随他意はこれ衆生の意に随う、故に信じ易く解し易し。随自意は直ちに仏意に随う、故に信じ難く解し難きなり。大日経はこれ方等部の摂なり。故に知んぬ、通じて方等部を指すことを。「生死の長夜」とは、唯識論に云く「未だ真覚を得ず、恒に夢中に処る、故に仏説いて生死の長夜と為す」文。沙石一巻二十四。「真覚」とは即ち真仏なり。既に覚者と名づくるが故なり。
 
 当に知るべし、爾前・迹門の仏は未だ本門寿量の真仏を得ざれば、仍これ夢中の虚仏なり。故に「未だ真覚を得ず、恒に夢中に処る」というなり。また爾前・迹門の仏は未だ元品の無明を断ぜず。故に惑者と名づけ、また賢位と名づくるなり。
 当体義抄二十三に云く「爾前迹門の当分に妙覚の位有りと雖も本門寿量の真仏に望むる時は惑者仍お賢位に居ると云わる者なり権教の三身未だ無常を免れざる故は夢中の虚仏なるが故なり」云云。当に知るべし、爾前・迹門の間は仏尚生死の長夜に迷い、未だ元品の無明を断ぜず。何に況や所化の衆生をや。
 故に権実の浅深を弁じ、本迹の勝劣を知って、但本門寿量の教主の金言を信じて南妙法蓮華経と唱うべし。若し爾らば生死の長夜を照らし、元品の無明を切って、倶体倶用・無作三身・本門寿量の真仏と顕るる事、豈疑あらんや。故に「此の法門に過ぎざるか」というなり。
 問う、略して先後を知るの相如何。
 答う、また祖判の中に文理分明なり。録外第七二十二に云く「法華経の第七の巻を見候へば『如来の滅後において仏の所説の経の因縁及び次第を知り、義に随って実の如く説かん、日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す』」等云云。
 
 文の意は、この法華経の一字一句をも説くことは、必ず一代聖教の浅深と次第とを能く弁えたらん人の説くべき事に候。譬えば暦の三百六十日を勘うるに、一日も相違せば万日共に返逆すべし。三十一字をつらぬるに、一字一句も相違せば、三十一字倶に歌にてあるべからず。謂く、一経を読誦すとも、始め寂滅道場より終り沙羅双林に至るまでの次第と浅深とを迷惑せば、その人は我が身に五逆を造らずして無間地獄に入り、これに帰依せる檀那も阿鼻地獄の堕つべし等云云。所引の文中に「一代聖教の浅深と次第」とは、且く浅深を挙げて勝劣・難易を知らしむるなり。次第は即ちこれ今文の「先後」の両字なり。然れば則ち爾前・迹門・本門・文底の勝劣・浅深・難易・先後・能くこれを弁ずべし云云。
 問う、浅深を知って何の栓かありや。
 答う、伝教大師云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり」云云。
 
 問う、前後を知って何の栓かありや。
 答う、華厳玄談五二十七に云く「譬えば世の後勅の前勅を破るが如し。涅槃法華は最後に居る、故に能く有余の義を決了するのみ」文。
 宗祖云く、三十一二に云く「仏説すでに大に分れて二途なり、譬へば世間の父母の譲の前判後判のごとし、はた又世間の前判後判は如来の金言をまなびたるか孝不孝の根本は前判後判の用不用より事をこれり」云云。
一、自見に任せて之を弁えんとすれば其の分に及ばず文。
 宗に依ってこれを知らんとすれば点の如し。「其の分に及ばず」とは日蓮の智分に及ばずとなり。これ卑謙の言なり。
 
十四日
 
一、所謂等文。
 この下は釈、また二。初めに諸宗の謬解、次に「爾りと雖も」の下は今家の正判なり。
 
一、華厳宗の云く、一切経の中に此の経第一文。
 所依の経に随って宗号を立つ、故に「華厳宗」というなり。法蔵法師、六十巻の華厳に就いて疏を作る。探玄記二十五巻並びに五教章三巻、五教を立てて一代経を判じ、十玄六相の観を明かすなり。
 「一切経の中に此の経第一」とは、華厳経第七二十八、疏抄十五三十五。経に云く「一切世間の諸の群生、声聞乗を求めんと欲すること有るは尠し。縁覚乗を求むる者は轉た亦少なし。大乗を求むる者は甚だ希有なり。大乗を求むる者は猶易しと為す。能く此の経を信ずるは甚だ難しと為す。況や能く受持し、如説修行し、真実に解せんをや」已上。この文に依るか。
 
一、法相宗の云く文。
 解深密経、瑜伽論、唯識論を所依と為して宗を立つ。彼の解深密経の法相宗に三性の法相を演ぶ。瑜伽論に解深密経の文を載せて、無辺の法相を明かす。世親菩薩、瑜伽論に依って唯識論を作る、この故に「法相宗」と名づくるなり。彼の所立の大旨は、有・空・中の三時教を立て、唯識三性の観を明かすなり。また五性各別の旨を存し、決定性の二乗は作仏を得ざることを談ずるなり。「一切経の中に深密経第一」とは、解深密経第二巻十六に彼の経を歎じて云く「正法論を転ずること第一の甚奇にして最も希有と為す」云云。
一、三論宗の云く等文。
 中論・百論・十二門論を以て所依と為し、宗を立つる故に「三論宗」というなり。また大論百巻を用ゆ、故にまた四論宗とも名づくるなり。彼の宗の所立の大旨は、大小二蔵・三転法論を立てて一代を判じ、三諦・三観・八不中道を明かすなり。「一切経の中に般若経第一」とは、秀句下に云く、大唐伝に云く「摩訶般若は三論宗所依の経なり」云云。大般若経五百四十九巻の真如品に云く「聴聞する所の世、出世の法に随い、皆此を方便として般若甚深の理趣に会入す。諸の造作する所の世間の事業も亦、般若を以て法性に会入す。一事として法性を出ずる者を見ず」已上。
 
一、真言宗の云く等文。
 「真言」とは陀羅尼の呪なり。旧には総持と翻じ、新には真言と訳するなり。大日経七巻三十六品、蘇悉地経三巻十四品、金剛頂経三巻三品、此の三部の真言経に依って宗を立つ、故に爾云うなり。「一切経の中に大日の三部経第一」とは、大日経の第一三六に云く「何なるか菩提。謂く、如実に自心を知る」云云。六度経の第一、帰依三宝品に云く「総持門とは契経等の中に最も為れ第一なり」云云。
 
一、禅宗の云く等文。
 戒定慧の三学の中に、禅定を専らにする宗なる故に「禅宗」というなり。禅定とは、心を一境に止めて余念妄情を絶つ、故に禅定というなり。依経は楞伽経・金剛経・楞厳経なり。「楞伽経第一」とは高僧伝十六、釈僧可の伝六に「達磨禅師、四巻の楞伽経を以て可に授けて云く、我漢の地を観るに只此の典のみあり。仁者依行して自ら世を度するを得ん」文。「首楞厳経第一」とは、これ五祖弘忍の弟子の神秀禅師の末流、北宗の意なり云云。
 
一、浄土宗の云く等文。
 但念仏を唱えて安養浄土を期す、故に「浄土宗」というなり。三経一論に依って立つる所の宗なり。謂く、観経・双観経・阿弥陀経、天親菩薩の往生浄土論なり。「機教相応して第一なり」とは「法華経等は正像二千年の機の為なり。今末法に入っては未だ一人も得る者あらず、千中無一なり。但浄土の三部経のみ十即十生、百即百生、唯浄土の一門のみあって路に通入すべき法なり」、故に「第一」というなり。具に諸文の如し。
 
一、倶舎宗等文。
 倶舎論に依って宗を立て、成実論に依って宗を立て、戒律に依って宗を立つ、故に爾云うなり。「華厳経・法華経等は仏説に非ず外道の経なり」とは、北本涅槃経二十六二十九に云く「諸仏菩薩、三乗を説く。而も是の経の中には純ら一乗を説く。謂く、大涅槃なり。此くの如きの言、云何が是れ仏の正典に当らん。諸仏は畢竟して涅槃に入りたまう。是の経には常楽我浄、涅槃に入りたまわずと云う。是の経は十二部の数に在らず、即ち是れ魔の説なり。是れ仏説に非ず。善男子、是くの如きの人は我が弟子なりと雖も、是の涅槃経を信順する能わず」等云云。即ちこの文に当る故なり。
 
一、或は云く或は云く文。
 興師真筆の取要抄には但「或は云く、而るに彼れ彼れ」云云。故に知んぬ、一箇の「或云」の二字は剰せることを。この「或は云く」等とは慈覚・智証の義なるべし。
 
一、杜順ー註三三十九、智儼ー同じ、法蔵ー註四十五、澄観ー註三四十二、統紀三十九。この四師は即ち華厳宗の祖師なり。
 玄奘ー註二四十、慈恩ー同じ、法相の祖なり。
 嘉祥ー註五二十一、道朗ー註十十二、啓蒙二十三。三論の祖なり。
 善無畏・金剛智ー註三四十一、不空ー統紀三十十七、道宣ー統紀三十二十三、鑒真ー釈書一十四、曇鸞ー註五五十一、道綽ー註四二十一、善導ー同じ。達磨・慧可ー統紀三十初。
 
一、智は日月に斉く文。
 安国論の朝抄第三三にに論語・無量義・金●を引くなり。
 
一、各各に経律論に依り等文。
 宗々の所依の経律論は前にこれを示すが如し。「更互に証拠有り」とは各々依経第一の文、また前にころを引くが如し。
 
一、王臣国を傾け土民之を仰ぐ文。
 応に「王臣頭を傾け」に作るべし云云。
 
一、然りと雖も宝山に来り登って等文。
 この下は今家の正判、また三。初めに正しく勝劣浅深を明かし、次に証明の有無を明かし、三に対告の尊卑を明かす。
 
一、或は旧訳の経論を見て等文。
 華厳宗の如きは新訳の密厳経を見ざるなり。彼の経には十地・華厳・勝鬘等を列ね、密厳経を以て一切経中の勝と結するなり。彼の経は地婆伽羅三蔵、唐代にこれを訳す、故に新訳なり。啓蒙の義は不審なり。
 
一、或は自宗の曲に執著して己義に随い文。
 これ実経の文を会して権経の義に従う等なり。
 
一、株杭に驚き騒ぎて等文。
 本処は註の所引の如し。「團扇」もまた註の中の如し。止観に、扇というは即ち團扇の事なりと。この文より去って「智人なり」に至るまでは、先ず取捨を論ずべきの道理を立つるなり。今文の意に云く、株に驚いて兎を求め、扇に依って月を見る。若し求めて兎を得ば則ち応に株を捨てて兎を取るべし。若し月を見ることを得ば則ち応に扇を捨てて月を見るべし。これはこれ智人なり。故に今、末師の株扇を捨てて専ら本経の兎月を取るなり。然るに諸宗の族は、縦い兎を得るも仍株を守り、縦い月を見るも仍扇に執す。豈愚人に非ずや。
 
一、已今当の三字最も第一なり文。
 文の八十四に云云。今の法華は已今当の外に在り、故に三説超過というなり。一、或は相似の経文に任せ文。
 只相似の経文に任せて権実の起尽を知らず、仰いで依経の文を信ずるのみ。これ内心より実に依経第一と執するなり。「或は本師の邪会に執し」とは、これ内心にはこれを疑うと雖も、本師の曲会を執師て依経第一と思うなり。「或は王臣等の帰依を恐る」等とは、これ内心には実に法華第一と知ると雖も、彼等は王臣帰依の宗なるが故に、恐れて言にこれを出さざるなり。
 
十五日
 
一、所謂金光明等文。
 開目抄下二十三已下、往いて見よ。本朝法華伝上二十五、六。
 
一、此等の諸文は法華経の已今当の三字に相似せる文なり文。
 記六三十六に云く「縦い経有って諸経の王と云うと雖も、已今当説、最為第一と云わず。兼但対帯、其の義知る可し」云云。
 
一、或は梵帝・四天等の諸経に対当すれば等文。
 梵天の出欲論、帝釈の種々勝論云云。開目抄下四十四ウ、健抄四六十二。
 
一、是れ諸経の王の大王なるに非ず。
 報恩抄上五、往いて見よ。
 
一、所詮所対を見て等文。
 例せば大小相対の如し。具には五義あり。迹門も尚本門に望むれば名づけて小と為すなり。記九末九に云く「凡そ諸の法相は所対不同なり。何ぞ須く問うて円は小を楽うに応ぜずと言うべけんや」云云。
 
一、強敵を臥伏するに等文。
 日本武尊の事、大成経二十一十一に出ず。
 
一、其の上諸経の勝劣文。
 この下は証明の有無を明かす。他経の中には証明等なし、故に「釈尊一仏の浅深」というなり。
 問う、般若経の舌相、弥陀経の舌相は如何。
 答う、本尊抄八二十四に云く「夫れ顕密二道・一切の大小乗経の中に釈迦諸仏並び坐し舌相梵天に至る文之無し、阿弥陀経の広長舌相三千を覆うは有名無実なり、般若経の舌相三千光を放って般若を説きしも全く証明にあらず、此は皆兼帯の故に久遠を覆相する故なり」云云。また開目抄上十九。
 
一、諸経は或は二乗凡夫に対揚して文。
 この下は対告の尊卑を明かすなり。
 
一、弘博の菩薩等文。
 「弘博」は即ちこれ凡夫の義なり。書註一十五に「弘は大なり、広なり。博は通なり、普なり」と文。広大普通、豈凡夫の義に非ずや。例せば博地の凡夫、普通の凡夫の如し。今、地涌千界に望み、迹化の菩薩を以て未断惑の凡夫と名づくるなり。その相、当体義抄二十三二十一、十法界抄三十四三十五に、具に経釈を引いてこれを判ずるが如し。
 
 
十六日
 
一、今・法華経等文。
 この下、次に教主に寄せて勝劣を判ず、また二。初めに標、次に「諸経は或は釈尊の因位を明すこと」の下は釈云云。
 
一、二十種之有り。
 記四本五十、録外二十二二十四に云云。
 
一、諸経は或は釈尊の因位を明すこと文。
 この下の釈の中に因あり、正釈あり、他破あり。文に望みて見るべし。況や権実・本迹、結縁の有無、一往・再往、これを思い見るべし。
 
一、或は三祇等文。
 この文は、次の如く蔵・通・別なり。
 
一、二十九劫より已来等文。
 開目抄下八に云く「仏三十成道の御時は大梵天王・第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき」云云。
 
一、三千塵点乃至結縁の大士なり文。
 娑婆世界の一切衆生というと雖も、只これ在世・正像の衆生に約するなり。実義は然なりと雖も、而もこの経相を引いて当世日本国の一切衆生に擬し、以て善導・法然等の邪義を破するなり。故に下の文に「当世日本国」等というなり。
 
一、一指を挙げて之を降伏して文。
 弘一上十九、啓蒙所引の如し。
 
一、他土の仏菩薩等文。
 他土の仏菩薩に下種結縁の衆生は一人もこれなきなり。その相は、所引の経文の如くなり。
 
一、天台云く等文。
 文六七、中正十一五十八、破記三十八。
 
一、弥陀の来迎を待つ文。
 ●川親政云云。
 
十七日
 
一、大日如来乃至釈尊の所従等文。
 此等の諸仏は皆これ釈尊の分身なるが故なり。故に「天月の万水に浮ぶ」というなり。
 
一、華厳経乃至例せば世の王の両臣の如し文。
 これ教の権実に約するなり。謂く、多宝は実経の仏なり、故に大王の如し。盧舎那及び大日はこれ権教の仏なり、故に左右の臣の如し。「此の多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり」とは、これ教の本迹に約するなり。謂く、寿量の教主は本門の仏なり、故に主君なり。宝塔品の多宝如来は迹門の仏なり、故に所従なり。また御書六終、中正十七十六、決疑上十一、明匠口決一十一。
 
一、この土の我等乃至愛子なり文。
 これまた実には在世・正像の衆生に約するなり。而してこの経相を引いて末法の衆生に擬し、以て諸宗の権迹執情を破するなり。在世・正像の衆生は三五下種の輩なり。今末法に入りぬれば、皆これ本未有善の衆生なり。深くこれを思うべし云云。
 
一、不孝の失に依って等文。
 信心退転を以て「不孝の失」と名づくるなり。
 
一、無縁の仏と衆生と等文。
 愚案四八に云く「仏に三の不能有り。一には無縁の衆生を度すること能わず、二には衆生を度し尽すこと能わず、三には定業を転ずること能わず」。須達老婢一覧五三十八。
 
一、譬えば聾者の(乃至)如し等文。
 大論八八。籖三百九。童観抄十三に荘子を引く。
 
一、或る人師等文。
 開目抄下十、本尊問答抄九十八に諸宗分明なり。
 
一、仰いで大日如来を崇め文。
 撰時抄下十一に舎利講式を引く云云。
 
一、阿弥陀は有縁なり等文。
 破記三十九、中正十二十五、御書二十九十六。
 
一、迹門の釈尊文。
 これ天台宗に配すべし。叡山戒壇堂の本尊は正くこれ「迹門の釈尊」なり。第三十巻の戒体抄に云云。
 
一、釈尊を忘れて等文。
 久遠実成の釈尊を忘るるなり。
 
一、例せば阿闍世太子の(乃至)如し文。
 註十十三、会疏三十一三十一、祈祷抄に云云。
 
十八日
 
 
一、二月十五日文。
 註に具に涅槃経を引くが如し。深意あり、往いて見よ。
 
一、四月八日文。
 仏生、仏滅、異説紛紜たり。名義三二十二、統紀二八に云云。随筆三四十三に云く「周の四月は即ち今の二月なり」云云。今謂く、三代の正朔同じからずと雖も、皆寅月を以て数を起すなり。具には開目抄に至るを俟つ。書経四十四に云云。
 
一、我も亦為れ世の父文。
 御義口伝下十六に、主師親等云云。
 
一、天台大師云く等文。
 玄義六六十、応生の三義を見るべし云云。
 
三月七日
 
一、問うて云く法華経は誰人の為に等文。
 この下は大段の第二、今経所被の時機を明かす、また二。初めに迹門二門、次に証明・舌相等。初めの文は自ら二。初めに迹門、次に本門なり。
 
一、方便品より乃至八品に二意有り文。
 啓蒙に多義を挙ぐ。並びにこれ迷乱なり。今謂く、正にこの文の意は、但正宗を論じて流通を論ぜず。流通は本より滅後の為なるが故に、今は置いてこれを論ぜず。但し正宗八品に就いて順逆を以て二意を明かすなり。謂く、順次にこれを読めば但在世の衆生の為なり。在世の衆生に三人あり。謂く、菩薩・二乗凡夫なり。当に知るべし、またこの文に於いては、但文の次第に准じて未だ義の傍正を論ぜざるなり。
 文の次第とは、正説の文に云く「菩薩是の法を聞いて、疑網皆已に除く。千二百の羅漢、悉く亦当に作仏すべし」、及び歓喜段の文に云く「大智舎利弗、今尊記を受くることを得たり。我等亦是の如く、必ず当に作仏することを得べし」等云云。今この文の次第に依るが故に「第一は菩薩・第二は二乗・第三は凡夫」というなり。若しまた義の傍正を論ぜば、本尊抄及び薬王品得意抄の如く、応に「二乗を以て正と為し、菩薩・凡夫を傍と為す」(取意)というべきなり。所詮、順次にこれを読めば、但在世の衆生の為なり。
 次に逆次に、流通段より立ち還って正宗八品を見れば、則ち傍正あり。所謂滅後の衆生を正と為し、在世の衆生を傍と為すなり。滅後の中にも正像は仍傍なり。末法を正と為す。末法の中にも日蓮を以て正と為す。故に迹門の正宗八品も、正に末法今時の日蓮が為にこれを説くなり云云。
 
 問う、迹門の正宗八品、末法今時の為と成すの意は如何。
 答う、啓蒙の意に云く、これ則ち末法流布の正体なるが故なり云云。難じて云く、凡そ蓮祖の本懐、宗門の綱格は、正に正像未弘の本門三箇の秘法を以て、末法流布の正体と為す。且く一文を引かん。
 報恩抄下巻に三箇の秘法を釈し畢って云く「『後五百歳中広宣流布』云云。此の経文若し空しくなるならば、三千塵点も戯論となり、五百塵点も妄語とならん。争か其の義有る可き。其の義無くば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり」(取意)云云。また顕仏未来記に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」云云。
 況や当抄に浅きより深きに至ってこれを判じ、結して云く「上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天。四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か」云云。明文宛も白日の如し。
 
 日講、何ぞ迹門の正宗八品を以て末法流布の正体と為すというや。彼尚天台の本迹を知らず、況や蓮祖出世の本意を知らんや。憐れむべし、悲しむべし。
 また本迹決疑抄下十四の意に云く、既に当抄の意は、初めに迹門を以て日蓮を正と為すと判じ、寿量の一品二半もまた日蓮が為と釈す。即ち滅後に約して本迹一致なり等云云。
 難じて云く、三大秘法抄に云く「末法に入て爾前迹門は全く出離生死の要法なり」云云。この文に分明なり。何ぞ迹門を以て末法の出離の要法と為さんや。況や薬王品得意抄に云く「分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代の凡夫の行ず可き様を・傍には方便品等の八品を修行す可き様を説くなり」云云。既に末代に約して本迹一致といわんや。彼、深く自立を執し、曲げて己情に会す。悲しいかな、悲しいかな。
 また什門の日悦の義に云く、末法出離の要法、本門寿量の題目を弘通したまうに就いて、「悪口罵詈・及加刀杖」の難を蒙りたまう事、誠に法師品の「況滅度後」、勧持品の二十行の偈に少しも差わざる事を自讃し給う時、「末法の中には日蓮を以て正と為す」と判じ給えり。全く迹門を以て末法出離の要法と為したまう故に、日蓮を以て正と為すと判じ給うには非ざるなり云云。
 
 難じて云く、凡そ当文の大意は、流通は本より滅後の為なり。然るに流通の経文、全く日蓮の身に符合す。所以に今、この流通段より立ち還って正宗八品を見るに、またこれ正に日蓮の為なり云云。文意は斯くの如し。何ぞ只流通の経文に差わざることを自讃し給うといわんや。若し爾らずんば「八品に二意有り」及び「逆次に之を読めば」の文は、如何がこれを消せんや。故に知んぬ、他流の如きはその流れを異にすと雖も、只これ五十歩百歩の異ならくのみ。
 今謂く、凡そ宗門の綱要、当抄の大意は、正に本門三箇の秘法を以て末法流布の正体、出離生死の要法と為す。然るに方便品等、寿量品等は、能くこの文底三箇の秘法を助顕するの功あり。故に並びに「末法今時の日蓮等が為なり」というなり。倶に文底三箇の秘法を助顕すと雖も、而も傍正あり。謂く、方便品等は遠くこれを助顕し、寿量品等は近くこれを助顕す。既に遠近親疎の別あり。故に薬王品得意抄に「正には寿量品」「傍には方便品」等というなり。
 当に知るべし、傍正の言に就いて両処水火なり。在滅相対、本迹相対を雑乱すべからず。故に知んぬ、迹門は若し在世に望むればこれ正意なりと雖も、若し本門に望むれば仍これ傍意なることを。これ傍意なりと雖も、而も文底を助顕するの功あり。故に在世及び正像に望みて「末法の中には日蓮を以て正と為す」と判ずるなり。
 問う、文底を助顕するの相は如何。 
 答う、これはこれ宗門の秘事なり。容易に君に向って説かず。若し信心無二の志あらば、別に義章あり。重ねてこれを示すべし云云。
 
一、況滅度後の文是なり文。
 今、流通の文を引いて正宗の、末法を正と為るの義を証するなり。凡そ流通とは、正宗の法水を末代に流通す、故に流通という。所引の文意に云く、在世尚爾なり、況や正像をや。正像尚爾なり、何に況や末法をやと云云。故にこの文は滅後を以て正と為し、滅後の中にも末法を正と為すなり。故に伝教大師云く「代を語れば像の終わり末の初め。経に云く、況滅度後」云云。この文、豈末法を正と為すの義に非ずや。
 
一、諸の無智の人有つて等文。
  既に流通の中の文、全く日蓮が身に符う。故に知んぬ、正宗もまた日蓮を以て正と為ることを。故にこの文を引いて正宗の、日蓮を正と為るの義を証するなり。
 
一、喜び身に余るが故に等文。
  喜びにまた喜びを重ぬるが故に「喜び身に余る」という。謂く、流通の経文の御身に符合する上に、また正宗八品も日蓮を以て正と為す。豈喜びにまた喜びを重ぬるに非ずや。古歌に云く「嬉しさを昔は袖に包みけり 今宵は身にも余りぬるかな」。                                              十五日
 
一、問うて云く(曰)本門の心如何文。
 この下は次に本門、また二と為す。初めに略して両義を示し、次に「問うて云く略開」の下の文は広く両義を釈す云云。
 
一、一には涌出品乃至脱せしめんが為なり文。
 問う、涌出品の略開近顕遠の文に云く「我れ伽耶城菩提樹下に於いて坐して、最正覚を成ずるを得て、無上の法輪を転じ、爾して乃ち之を教化して、初めて道心を発さしむ乃至我久遠より来、是れ等の衆を教化せり」等云云。既に「伽耶城に於て乃ちこれを教化す」と説き、また「我久遠より来、是れ等の衆を教化す」と説く。一段の文の中に、この二説は宛も水火の如し。故に一会の大衆、執を動かして疑を生ずるなり。故に知んぬ、略開に於ては但これ疑網を生ず、何ぞ脱益を得ることを。故に天台云く「略開近顕遠・動執生疑」と云云。
 今、何ぞ判じて「前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり」というや。
 答う、一義に云く「略開近顕遠・動執生疑」とはこれ始得無生及び未得の者に約するなり。若し弥勒等の深位の菩薩は、略開の説を聞いて如来の内証に達し、即ち脱益を得たるなり。然るに弥勒等、心に疑惑を生ずというは、示同を知らざるが故なりと云云。
 一義に云く、既に序分の無量義経に於て、只出多の経を聞いて密かに帰一の益を得たるなり。また今経の序品の時、久遠下種の人には脱益を得たる人あり。序分尚爾なり、況や略開三顕一に於てをや。迹門既に爾なり。本門豈略開得脱の人なからんや。故に知んぬ、利鈍の両機、略広を歴て方に得脱すべしと雖も、今、広開は一向に滅後の判に対せんが為に、在世の脱益を総じて略開に属することを云云。
 今謂く、此等の諸義は並びに宗祖の本意に非ず。不相伝家、誠に愍れむべし。当に知るべし、寿量品に於て義に両辺あり。
 所謂一には文上の寿量品、これ則ち本果久成の遠本を説き顕す。この顕本の説を聞いて、在世一段の衆生は皆真実の断惑を究むるなり。これを天台は「広開近顕遠・断惑生身」と名づくるなり。
 
 二には内証の寿量品、これ則ち久遠元初の名字の遠本を説き顕す。蓮祖はこれを広開近顕遠と名づくるなり。これはこれ天台未弘の法門なり。
 この故に今文の意は、文上の寿量品、天台の「広開近顕遠・断惑生身」を以て、仍退けて涌出品の略開近顕遠に属し、通じて断惑生身と為す。故に「涌出品の略開近顕遠は前四味並に迹門の諸衆をして脱せしめんが為なり」というなり。次に内証の寿量品を以て広開近顕遠と名づく。これを以て正しく「一向に滅後の為」とするなり。
 問う、天台の広開近顕遠を以て、蓮師、何ぞ略開近顕遠と名づくるや。
 答う、天台の広開近顕遠は本果久成の遠本を顕し、未だ久遠元初の名字の遠本を顕さず。故に蓮祖の広開近顕遠に望むるに、実にこれ略開近顕遠なり。故に退いて涌出品の略開に属するなり。
 問う、寿量両辺の証文は如何。
 答う、既に開目抄に、寿量品の文底に秘沈という。本尊抄に、先ず一品二半を以て在世の脱益と為し、次に内証の寿量品を以て本化の付嘱と為す。両辺既にこれ分明なり。何ぞ更に文証を求めんや云云。
 問う、経文の進退は如何。
 答う、且く体用の三身の如し。若し文の上の意は、「如来秘密」は本果の三身、「神通之力」は第二番已後の迹中の三身なり。もし内証の意は、「如来秘密」は久遠名字の三身、「神通之力」は本果已後の迹中の三身なり云云。
 
一、動執生疑の半品等文。
 答う、天台は動執生疑の文を以て正しく略開に属す。故に「略開近顕遠・動執生疑」という。蓮祖、何ぞ広開近顕遠に属するや。
 答う、一義に云く、略開に由る故に動執生疑す。故に大師は略開に属するなり。若し蓮祖の意は即ち三義あり。一には動執生疑に由り寿量の説興るが故に。二には疑請と正答と一連の便あるが故に。三には滅後正意の類文あるが故に云云。
 今謂く、若し文の便を論ずれば、或は然るべきなり。若し実義を論ずれば、これ理に尽せるに非ず。天台は、略開に由る故に動執生疑す、故に略開に属し、広開近顕遠を以て断疑生信と定むるなり。若し吾が祖の意は、既に略開を以て在世の脱益と為す、故に断疑生信に当れり。何ぞ動執生疑を以て略開に属すべけんや。故に進んで広開に属するなり。これ則ち動執生疑に由り、広開の説興るの便あるが故なり。故に文の便、義の便あり。何ぞ只文の便のみならんや。
 
一、広開近顕遠と名く等文。
 開近顕遠に、また両辺あり。若し文上に准ぜば、近日始成の近迹を開して本果久成の遠本を顕す、故に開近顕遠というなり。若し文底に拠るらば、本果・中間・今日の近迹を開して久遠元初の名字の遠本を顕す、故に開近顕遠というなり。 問う、何ぞ本果を以て仍近迹と名づくるや。
 答う、これ久遠元初の自受用身に望むるが故なり。これはこれ内証の寿量品の顕本の意なり云云。
 
 一、一向に滅後の為なり文。
 若し迹門正宗八品の如きは、逆次にこれを読むと雖も、傍正これありと雖も、仍在滅及び正像等に亘れり。今、本門内証の寿量品は爾らず。一向に滅後末法の為なり。故に「一向に」というなり。序・正・流通倶に一向に滅後の為と判ずるには同じからざるなり。
 
十八日
 
 
一、問う、内証の寿量品の意は如何。(この文御書に拝せず)
 答う、これ宗門の秘事なりと雖も、且く題号の「「如来の」二字に就いて、略してこれを示すべし。聞いて深くこれを信ぜよ。
 所詮、内証の寿量品の意は、一品の始終、皆これ本門三箇の秘法を説き顕すなり。且く題号の「如来」の二字の如きは、若し文上の意は天台の釈の如し。如来というは十方三世の二仏、三仏、本仏、迹仏の通号なり。今正しく本地三仏の功徳を栓量するなりと云云。本地三仏とは即ちこれ釈尊久遠本果の三身なり。その相は常の如し云云。若し内証の寿量品の意は、正に御義口伝の如し。如来とは釈尊、総じては十方三世の諸仏なり。別しては本地無作の三身なり云云。本地無作の三身とは、即ちこれ釈尊久遠名字の三身なり。また久遠元初の自受用身と名づくるなり。自受用身とは境智冥合の真仏なり。即ち所照の境はこれ無作の法身なり。能照の智はこれ無作の報身なり。起用は即ちこれ無作の応身なり。止観第六九十に云く「「境に就いて法身と為し、智に就いて報身と為し、用を起すを応身と為す」等云云。
 故に文上の寿量の意は、釈尊久遠本果の三身を如来というなり。若し内証の寿量品の意は、釈尊久遠名字の三身を如来と説くなり。故に文辞は一なりと雖もその義は各別なり。若し深くこの意を得れば、久遠は即ち今に在り。今は即ち久遠なり。故に知んぬ、久遠名字の釈尊は即ちこれ今日の蓮祖聖人なることを。今日の蓮祖聖人は即ちこれ久遠名字の釈尊なり。故に末法今時、内証の寿量品の如来とは、全くこれ蓮祖聖人の御事なり。故に口伝に云く云云。これを秘すべし、これを秘すべし。
 問う、台家の口伝に准ずるに、本地無作の三身とは即ちこれ一切衆生なり。故に明匠口決第五 二十六に云く「先ず仏果を定むるに自他宗の意格別なり。若し他宗権門の意は、凡そ仏果とは紫金の妙体、瓔珞細●の仏を以て仏果と為す。若し一家円実の意は、此等の仏果は且く機の前に面形を著けて化仏なり。故に有為の報仏は未だ無常を免れざるの仏果なりと下して、この上に本地無作の三身を以て真実の仏果と為すなり。その無作の三身はまた、これ何物ぞ。謂く、只十界三千、本来常住の処を指して体と為す。然る則は究竟の仏果は外になし、只これ我等が当体なり。故に守護章に謂く『有為の報仏は夢裏の権果、無作三身は等前の実仏』」と云云。また山家の秘密荘厳論に云く「一念三千即自受用身、自受用身とは出尊形の仏」等と云云。既に本地無作の三身を以て真実の仏果と為し、究竟の仏果は外になし、只これ我等が当体なりという。豈本地無作の三身は即ちこれ一切衆生に非ずや。
 答う、今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり。
 
 問う、その意如何。
 答う、且く桃李の如き、紅華青葉は染めて然らしむるに非ず。自然法にして不可思議なるは無作の法身なり。能く四季の転変を弁え、時節に芥爾も差わざるは、これ一分の智慧に似たり。即ちこれ無作の報身なり。春は生じ、夏は長じ、秋は紅に、冬は凋み、能く生住異滅の用を顕すは、即ちこれ無作の応身なり。非情すら尚爾なり。況や有情をや。
 且く鳥獣の如き、各々の身分は無作の法身なり。分々のの智慧は無作の報身なり。己々の作用は無作の応身なり。畜生すら尚爾なり。何に況や人界をや。我等が五体の身分はこれ無作の法身の境なり。我等が分々の慧解は即ちこれ無作の報身の智なり。我等が常恒の作業は無作の応身の用なり。当に知るべし、妙法蓮華経の五字を以て一切衆生の色心の二法を造る。故に所有の所作は皆これ本有無作の振舞なり。豈無作の三身に非ざるべけんや。
 若し理に拠れば然りと雖も、事に約すれば則ち然らず。束ねてこれを論ずるに、一切衆生は二人に過ぎず。謂く、一人はこれ権迹の行者、一人はこれ本因妙の信者なり。若し権迹の輩は既に無作三身の真仏を信ぜざるが故に、その人もまた無作三身に非ざるなり。徐氏、信の字を釈して云く「文に於て人言を信と為す。言信ならざるは人と為すに非ざるなり」云云。外典尚爾なり、況や仏法をや。尚人と名づけず、況や仏と名づくべけんや。但信ぜざるのみに非ず、またこれを毀謗す。豈「其の人命終して阿鼻獄に入らん」の人に非ずや。何ぞ無作三身と名づくべけんや。若し寿量文底本因妙の行者は、既に無作三身の真仏を信ずるが故に、その人はまたこれ無作三身の如来なり。
 故に御義口伝に云く「此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり、仍って経に云く『我等当信受仏語』と信受の二字に意を留む可きなり」等云云。 涅槃経に「一切衆生、大乗を信ずるが故に大乗の衆生と名づく」とは即ちこの意なり。
 
 況やまた権迹の行者は無作三身の所作を行ぜず。何ぞ無作三身と名づくるを須いんや。例せば不忠・不孝の人をば忠臣・孝子と名づけざるが如し。但無作三身の所作を行ぜざるのみに非ず、却って謗法の悪行を作す。故に無間の罪人と名づくるなり。玄二 二十一に云く「譬えば世間に悪行を為す者を、名づけて半人と為すが如し。既に悪行を行ずれば、地獄の作と名づくるなり」等云云。若し寿量の文底本因妙の行者は、正しく無作三身の所作を行ず、故に無作三身の如来なり。御義口伝に云く「無作の三身の所作は何者ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」云云。 若し全く顔回が所作を行ぜば、豈顔回に非ざるべけんや。然れば則ち権述の行者は、不信不行の故に無作三身に非ず。若し本因妙の信者は、信行具足の故に即ちこれ無作三身なり。故に御義口伝に云く「今日蓮等の類の意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり」等云云。また云く「無作の三身の当体の蓮華の仏は日蓮が弟子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり」云云。当体義抄に云く「但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は乃至倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」云云。
 
 当に知るべし、蓮祖の門弟はこれ無作三身なりと雖も、仍これ因分にして究竟果分の無作三身なり。若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり。故に究竟円満の本地無作三身とは、但これ蓮祖大聖人の御事なり。故に御義口伝に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり」文。末法の法華経の行者、豈蓮祖大聖に非ずや。その義は開目抄、撰時抄等の諸文の中に分明なり。
 
 「無作三身の宝号」等とは久遠名字の釈尊の宝号をも南無妙法蓮華経というなり。故に撰時抄に云く「南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし」云云。
 また蓮祖聖人の宝号をも南無妙法蓮華経というなり。故にまた云く「南無妙法蓮華経日蓮の御房日蓮の御房と喚び候はん」(取意)等云云。
 「事の三大事」とは無作三身の宝号、南無妙法蓮華経とは即ちこれ人法体一の本門の本尊なり。
 この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる所作は、即ちこれ本門の題目なり。本尊及び行者の所住の処は、即ちこれ本門の戒壇なり。故に内証の寿量品の意は、本門三箇の秘法を説き顕すなり。題号の「如来」の両字、既に爾なり。入文の始終、これに准じて解すべし。深く心中に秘して口外すべからず云云。この内証の寿量品は一向に滅後末法の為なり云云。
 
六月十五日
 
一、問うて曰く略開近顕遠の意如何文。
 この下は釈、また二。初めに略開、次に広開なり。文の如く見るべし。
 
一、文殊弥勒等文。
 問う、何ぞ別して二聖を挙ぐるや。
 答う、凡そ序品の問答は一経発起の初めなり。この意を以ての故に、別してこれを挙ぐるか。
 
一、不思議解脱に住して等文。
 釈尊は初成道已前、三徳秘蔵の妙理に住するなり。
 
一、我と別円二教を演説す文。
 文は恐らく倒なり。応に「我別円二教を演説す」に作るべきなり。
 問う、文六 二十五に、「即ち傍人を遣す」を人に約して釈して云く「華厳の中に四菩薩をして四十地を説かしむるが如きは、即ち傍人を遣すなり」と云云。妙楽、これを受けて釈して云く「是の四菩薩、此位を説く時、並びに仏力の故に説くと云う。何に所遣と名づく」等云云。既に仏の加に由る、何ぞ「我演説す」というや。
 答う、今は但化儀を論じてその内証を論ぜず。各一意に拠る。縦義補註九 三十七に云く「又華厳の中に文殊・弥勒各々自説す」等云云。既に「自説」という、これを思い見るべし。
 
一、勝は劣を兼ぬる是なり。
 問う、開目抄上四十五に云く「蔵・通二教は又・別・円の枝流なり別・円・二教をしる人必ず蔵・通・二教を知るべし」云云。同異は如何。
 答う、彼は譬喩に約し、今は法体に約す。その言は殊なりと雖も、その意はこれ同じ。謂く、界外の二教は猶根源の如し、故にこれ勝なり。界内の二教はこれ枝流の如し、故にこれ劣なり。
 
一、釈尊の師匠なるか善知識か文。
 問う、縦い釈尊の説法は此等の諸人の得分に非ずと雖も、何ぞ仍進んで「釈尊の師匠」といわんや。
 答う、開目抄に云く「世尊・彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後・重ねて方等・般若の別・円を説けり、色もかわらぬ華厳経の別・円・二教なり、されば此等の大菩薩は釈尊の師なり、華厳経に此等の菩薩をかずへて善知識ととかれしはこれなり」文。今「委細に之を論ぜば」というはこれなり。
 
一、始めて未聞の法を聞いて文。
 彼の領解の文に云く「我等昔より来、数世尊の説を聞きたてまつるに、未だ曾て是の如き、深妙の上法を聞かず」と云云。故に「未聞の法」と云うなり。即ちこれ諸法実相、一念三千の法門なり。この法門を信解し、即ち疑を断じて脱を得たり。故に「菩薩是の法を聞いて、疑網皆已に除く」等というなり。然りと雖も未だ本門に至らず、仍これ夢裏の権果なり。故に開目抄下初に云く「又今よりこそ諸大菩薩も梵帝・日月・四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ而れども霊山日浅くして夢のごとく・うつつならず」等云云。
 
一、舎利弗目連等文。
 問う、何ぞ別してこの二聖を挙ぐるや。
 答う、舎利弗は右面の弟子、目連は左面の弟子。例せば世の左右の大臣の如し。故に別してこれを挙ぐるなり。況やまた、この二聖は同時に御弟子と成り
、また同時に滅度を示すなり。蓋し定慧の二法の離れざる相を表するか。同時に御弟子と成るとは、大論十一 二紙の如し。同時に滅度を示すとは、西域九十九の如し。珠紀四五。
 
一、今法華経に来至して実法を授与し文。
 「実法」とは即ちこれ諸法実相、一念三千なり。この法を信受して三重の無明一時に倶に尽し、初住の位に至り、劫国名号の記別を蒙るを二乗作仏というなり。然りと雖も未だ本門に至らざれば、真の一念三千の顕れず、二乗作仏も定まらざるなり。故に水中の月に譬え、根無し草の波の上に浮ぶに喩うるなり。
 
一、法華経本門の略開近顕遠に来至し乃至位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり文。 問う、本尊抄二十に云く「久種を以て下種と為し大通前四味迹門を熟と為して本門に至って等妙に登らしむ」云云。同異は如何。
 答う、今は文少しく略なりと雖も、その意は往いて全く同じ。
 問う、今、舎利弗・目連等はこれ大通下種なり。何ぞ久遠下種に同ぜんや。故に啓蒙に云く「本尊抄は久遠下種の一類に約し、今文は汎爾に今日の得道を挙ぐるなり」云云。
 答う、舎利弗等の大通下種とは、これ則ち第二の教相、迹門当分の意なり。若し第三の本門に望むれば、これ実義に非ず、但これ熟益の分斉なり。実義は即ちこれ久遠下種の輩なり。故に本門に至って等妙の脱を得るなり。
 十法界抄三十四 二十八に云く「天台宗に於て三種の教相有り第二の化導の始終の時過去の世に於て法華結縁の輩あり爾前の中に於て且らく法華の為に三乗当分の得道を許す所謂種熟脱の中の熟益の位なり是は尚迹門の説なり、本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず」文。
 「如来久遠の本に迷う」とは、即ちこれ久遠下種の父に迷うなり。一念三千を知らざる者は即ちこれ久遠の種子を知らざるなり。当に知るべし、脱は必ず種に還って而して脱なり。若し下種を知らずんば、豈能く脱を得ることを得んや。故に「永く六道の流転を出ず可からず」というなり。
 
 当に知るべし、宗門の意は、若し第二の教相・迹門の意に拠れば、在世の衆生は皆これ大通結縁なり。若し第三の教相・本門の意に拠れば、皆これ久遠下種の輩なり。その相は即ち本尊抄等の如し。啓蒙、この格を知らず、但久遠下種の一類といえることは、唯四節の文を見て四節の意を知らざるが故なり。具には別章の如し。
 
 問う、身子・目連等、久遠下種の証文は如何。
 答う、玄六に云云。籤六に云く「本の所受を忘る、故に失心と曰う」云云。また遠益の下に云く云云。三重秘伝抄に略してこれを示すが如し。
 問う、脱は必ず種に還るの証文は如何。
 答う、五百品の譬説の大綱に云云。且く一句を引く。経に云く「示すに繋けし所の珠を以ってす」等云云。王子の覆講は珠を繋くるが如し、これを下種と名づく。今日の得記は珠を示すが如し、これを名づけて脱と為す。故に籖一本二十二に云く「聞法繋珠、是を円因と為し、名づけて円果と為す」云云。
 故に知んぬ、得脱とは、彼の下種を覚知するを名づけて得脱と為ることを。故に本尊抄に、或は「大通の種子を覚知せしむ」といい。或は「法華に来至して下種を顕す」というはこれなり。豈脱は必ず種に還るに非ずや。譬えば田家の如し。春に種子を下し、夏にこれを調熟し、秋にその実を取る。その秋の実は必ず春の種に還る。これを秋実と名づくるなり。脱は必ず種に還ること、見て自ら知るべし。
 またまた当に知るべし、春の種はこれ一粒なりと雖も、秋に至れば必ず万倍を得て、普く妻子及び眷族を養うなり。下種はこれ妙法の一句なりと雖も、得脱の秋至れば必ず一粒万倍の法門を成ず。妙法五字の一句より八万・十二の法門を出し、普く一切衆生を益せんこと、豈疑あるべけんや。然りと雖も、若し信心退転の輩は、応に三五の塵点を裕むべきこと。身子等の如くならん。若し信心強盛の行者は、一生の中に即身成仏すべきなり。二十八巻の十如是抄の如し云云。
 
十八日
 
一、又妙覚の位に入るなり文。
 問う、今経の本門に至って妙覚に登る人ありや。若し爾らば経及び大師の諸文には、但「隣極」といい「登極」とはいわず。若し爾らずんば当文及以本尊抄等は云何がこれを消せんや。
 答う、これはこれ台家古来の諍論なり。一流の義に云く、妙覚の益ありと雖も、而も文にこれを挙げざるには多く所以あらん。或は梵本にはあるべし、漢には略して書かざるなり。或は若し妙覚の人を挙ぐれば、二仏並び出ずるに成るべし。故に文にはこれを挙げざるなり。或は本門の得道はこれ授記なるが故に、現座の妙覚は文にこれを挙げざるか。或は若し妙覚の益を挙ぐれば師弟の道を破るべし。若し師弟の道破れなば、また本迹の流通も破るべし。故にこれを挙げざるか。
 一流の義に云く、妙覚の益なかるべし。謂く、若し妙覚に至る時は無師独悟なり。故に聞経の益の中にはこれあるべからざるなり。或は云く、得益の分極は但機縁に在り。当時、機あれば即ちこの益あり。若し当座に機なくんば、乃ちこの益なけん。この法、妙覚に至らしむる能わずと謂うには非ず等云云。
 今謂く、当流の意に准ずれば、その義最も明らかなり。謂く、若し文の上の寿量品の意に拠れば、能化の教主、已に四十二品の無明を断じて妙覚究竟の位に入れり。能化既に爾なり、所化もまた爾なり。若し本化付嘱の内証の寿量品の意に拠れば、能化の教主、五百塵点の当初、凡夫の御時、本地難思の境智の妙法を即座に開悟し、名字妙覚の成道を唱うるなり。これを本地自行の成道と名づくるなり。能化既に爾なり、所化もまた然なり。これ則ち不断煩悩、不離五欲、凡夫即極、即身成仏の極説なり。然れば則ち内証の寿量品の眼を開いて、還って在世の本門の得益を見る則は、初め発心より終り補処n至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るなり。
 凡そ妙覚とは、必ずしも四八の妙相に非ず。始終の不変なるを名づけて妙覚となす。而も少しも変わらざるが妙覚の実体なり。謂く「雖脱在現、具騰本種」の本因妙、久遠常住にして「等覚一転・名字妙覚」の成道を唱うるが真実の妙覚なり。天台・妙楽は内鑑冷然たりと雖も、付嘱なき等の故にこの義を宣べず。然りと雖も台家の口決に「等覚一転して理即に入る」と相伝するなり。等海集第六二十六、これを見合すべし。 
 若し当流の相伝は「等覚一転・名字妙覚」と習うなり。然れば則ち初め発心より終り補処に至るまで、皆久遠名字の妙覚の位に入るが故に、別して更に妙覚の益を挙げざるなり。
 次に正しく今文を消せば、文に「位妙覚に隣る」というは、これ文上の分斉に益するなり。即ち玄文第一の「増道損生して、位大覚に隣る」の文に同ずるなり。また「妙覚の位に入る」とは、これ本化付嘱の内証の寿量品の意に拠るなり。本尊抄の「等妙を脱と為す」、これに准じて知るべし。また祈祷抄十六五十一に云く「教主釈尊・四十余年が間は『因分可説果分不可説』と申して妙覚の功徳を説き顕し給わず、されば妙覚の位に登る人。一人もなかりき・本意なかりし事なり、而るに霊山八年が間に『唯一仏乗名為果分』と説き顕し給いしかば・諸の菩薩・皆妙覚の位に上りて釈迦如来と悟り等し」云云。
この文の意、往いてまた同じきなり。
 
 文にいう「四十余年乃至妙覚の位に登る人・一人もなかりき」とは、若し仁王・瓔珞の中の現座の妙覚は、彼の経の大旨に准ずるに、只これ別教の妙覚なり。故に円位に望む則は第二行の菩薩なり。故に「一人もなかりき」というなり。
 
 文にいう「霊山八年が間乃至諸の菩薩・皆妙覚の位に上る」とは、若し文上の意に拠らば、迹門には尚等覚の益なし、況や妙覚の益あらんや。本門もまた妙覚の益なし、只補処に限る故なり何ぞ今「諸の菩薩・皆妙覚の位に上る」といわんや。故に知んぬ、今、本化付嘱の内証の寿量品の意を以て、還って在世得益の相を見るに、諸の菩薩等、皆久遠の信心、名字妙覚の位に登ることを。故に「皆妙覚に上る」というなり。豈今文の意に同じきに非ずや。
 
 問う、証文は如何。
 答う、今内鑑の辺を引かん。記九末五十四に云く「若し但只事中の遠寿を信ぜば、何ぞ能く諸菩薩等をして増道損生して極位に至らしめん。故に本地難思の境智を信解す」云云。「事中の遠寿」とは、文上の寿量品の顕本なり。「諸菩薩等」とは、二乗・梵釈・日月・四天・竜王等を等するなり。「極位に至る」とは、即ちこれ名字妙覚の位なり。故に「極位」というなり。「信解」というは、即ちこれ久遠名字の妙法を信解するなり。既に久遠名字の妙法を信ずるが故に、即ち久遠名字の信心の位に還るなり。雲師私志記十一四十八に云く「聞いて信解を生ずるは即ち名字の位なり」云云。宗祖云く「信は慧の因・名字即の位なり」云云。
 「本地難思の境智」とは、即ちこれ久遠名字の妙法なり。久遠名字の時なり。豈「本地」に非ずや。「難思」は即ちこれ妙なり。故に経に「我が法は妙にして思い難し」というなり。「境智」は即ちこれ法なり。故に天台大師は「法は如々として智、法は如如として境」というなり。境智和合すれば則ち因果あり。境を照すこと未だ窮まらざるを因と名づけ、源を尽すを果と為す。因果豈蓮華に非ずや。宗祖云く「本地難思の境智の妙法は迹仏等の恩慮に及ばず」。また云く「本地難・境智冥合・本有無作の当体蓮華をば」。また外二十五十七。
 
 故に妙楽の文意に云く、若し但只文上の寿量品・久遠本果の法門のみを信ぜば、何ぞ能くこの諸菩薩等をして増道損生して久遠の信心・名字妙覚の極位に至らしめん。故に内証の寿量品・久遠名字の妙法を信解す。故に能くこの諸菩薩等をして久遠名字妙覚の極位に至らしむるなり。また五十九に云く「故に長寿を聞いて復宗旨を了す」とは、内証の寿量品・久遠名字の本地難思の境智の妙法なり云云。
 
一、生身の妙覚の仏本位に居して等文。
 「生身の妙覚の仏」とは名字妙覚の仏なり。「居」はこれ案位の義。謂く、本位を動ぜざる故なり。「本位」というは、既にこれ久遠名字の妙覚なり。豈本位に非ずや。文意に云く、既に本門に至って諸菩薩乃至日月等、皆久遠名字の本位を動ぜずして、常恒不退に衆生を利益したまうなり云云。
 問う、法蓮抄に云く「一一の文字案じて日輪となり日輪案じて釈迦如来となり」云云。また釈尊供養抄に云く「日天子と申すは眼前の利生なり。教主釈尊に坐さずんば争でか是くの如く新なる事候べき。一乗妙法の力に非ずんば争でか眼前の奇特をば現ずべき」(取意)云云。また千日尼抄に云く「日蓮を恋しく思食さば日月に影を移す身なり」(取意)等云云。此等の文意は如何。
 答う、これ相伝の法門なり。君に向って説かず。所詮、本因妙の教主釈尊・日月・日蓮大聖人は、一体異名の御利益にても候らん云云。
 
七月七日
 
一、問うて云く誰人の為に等文。
 この下は次に公開なり。これ内証の寿量品を問うなり。
 
一、広開近顕遠等文。
 前に略してこれを示すが如し。文の上の寿量品の意は、今日始成の近迹を開して本果久成の遠本を顕す。故に開権顕遠というなり。若し内証の寿量品の意は、本果・中間・今日の近迹を開して久遠名字の遠本を顕す。故に広開近顕遠というなり。
 問う、本果の如来は久遠実成の本仏なり。何んが本果を以て仍近迹というや。
 答う、文上の寿量の意は実に所問の如し。内証の寿量の意は則ち爾らざるなり。本果の仏を以て仍近迹に属するなり。
 問う、何を以て知ることを得ん。本果を迹に属することを。
 答う、凡そ本迹を知る方法に多種あり。且く一意を示さば、本は一、迹は多なり。故に一と多とを以て即ち本迹を知るなり。玄文第七に云く「百千枝葉、同じく一根に趣くが如し」云云。「枝葉」は迹にして多なり。「一根」は本にして一なり。文第九に云く「一月万影、孰んぞ能く思量せん」云云。「一月」は本なり、「万影」は迹なり。本迹、一多、その義分明なり。
 
 然るに本果の成道に蔵・通・別・円の四教あり。劣等・勝応・報身・法身の四仏あり。妙楽云く「久遠に亦四教有り。三教を麁と為し円教を妙と為す」云云。天台云く「唯本地の四仏は皆是れ本なり」等云云。本果若しこれ本仏ならば、応に四教、四仏、多種なるべからず。只応に妙法蓮華経の一円因を修して、自受用報身の一円果を感ずべし。既に四教・四仏の不同あり。故に知んぬ、本実成の後、物機に随順し、機縁不同ある故に、本より迹を垂れ、四教・四仏の相を示すことを。故に知んぬ、本果は仍これ迹なることを。故に妙楽のいう「既に四義の浅深不同あり。故に知んぬ、不同は定めて迹に属す」とはこれなり。
 
一、末法今時の日蓮等が為なり文。
 「正く滅後衆生の為なり」等とは、これ在世の衆生を簡ぶなり。「末法今時」等とは、これ正像の衆生を簡ぶなり。
 問う、内証の寿量品、何ぞ別して末法今時の為なるや。
 答う、此に於て応に須く機を知り、教を知るべし。謂く、在世及以正像は本已有善の衆生なり。末法今時は即ちこれ本未有善の衆生なり。これ機を知るなり。爾前、迹門、文の上の寿量はこれ熟脱の法なり。内証の寿量に顕す所の三箇の秘法は、本これ下種の法体なり。これ教を知るなり。
 妙楽云く「未なる者には下種し、已なる者には熟脱すべし。故に熟脱の法は、これ在世及以正像の衆生の為なり。本未有善の衆生は宜しくこれを下種すべし。故に下種の法は正に末法今時の衆生の為なり。然るに内証の寿量品は三箇の秘法を説き顕す。この故に正に末法今時の衆生の為なり。故に内証の寿量品を以て助行の中の正意と為るなり。故に「末法今時の日蓮等が為なり」というなり。故に当流の読誦は諸流に同じからず云云。
 
十五日
 
一、疑って云く此の法門等文。
 総じて「広開近顕遠」の下の文に両段あり。初めにこれ略示。今、この下の文は引証なり。問あり、答あり。答の中にまた三。初めに卑謙、次に正しく文証を引き、三に「此の
一閻浮提」の下は結成なり。
 
一、予が智先哲に超えず等文。
 文の相は只これ卑謙の辞なり。その元意を尋ぬれば諸人の情を挙ぐるなり。其の相は下にこれを論ずるが如し。
 
一、下和が●(啼)泣文。
 和氏が古事並びに王代の異説は、具に註等の如し。啓蒙に云く「史記第十四巻十二の諸侯の年表に、楚の国の武王・文王・成王等」云云。
 文の元意に云く、今日本国の諸人一同の情に謂えらく、弘法・慈覚等は先代の明哲、天下の帰依なり。今の日蓮はこれ後世の末学、辺鄙の小僧なり。故に智ありと雖も先哲に超えずと。然れば説い経文を引いて向来の義を証すと雖も、上一人より下万民に至るまで、誰人かこれを信ぜん。例せば下和が真玉を以て瓦石と為し、忠事を以て慢事と為すと●泣せしが如し。
 日蓮もまた、天下の諸人一同に但弘法等の謗法の讒義を信じて、日蓮が正法の忠諌を用いず、妙法の真玉を以て権教の瓦石に同ずと歎くなり。故に「下和が●泣等是なり」というなり。
 またまた当に知るべし、この下和の璧を或は夜光の珠と名づけ、或は車照の璧と名づけ、或は趙璧と名づけ、或は連城の璧と名づくるなり。謂く、この璧は光明赫々として十二の街を燿す。故に夜光の玉と名づくるなり。隋侯の夜光の珠には同じからず。また車十七輌を照す、故に車照の玉と名づく。代々の帝王の宝として趙王に伝わるが故に趙璧と名づけ、秦王、秦の十五城に替ゆるが故にまた連城の玉と名づくるなり。三国伝記、往いて見よ。
 
一、伍子胥が悲傷是なり。
 太平記第四巻に云云。十六日夜、これを談ず云云。
 
十八日
 
一、然りと雖も略開近等文。
 この下は次に正しく文証を引いて寿量所被の時機を明かすなり。中に於て涌出品の文に「然も諸の新発意の菩薩」とは、これ所被の機なり。「仏の滅後に於て」とは、これ所被の時なり。下の六の文の中に、寿量・分別・神力・薬王の四文は、これ所被の時なり。「此の経は則ち為れ」、「譬えば七子の如し」の二文は、これ所被の機を明かすなり。
 
一、動執生疑等文。
 涌出品の始終、これを宣ぶ。
 
一、或は信受せずして等文。
 不信・毀法の両種の謗法云云。
 
一、罪業の因縁文。
 意に信受せざるは即ち罪業の因なり。口に法を破るはこれ罪業の縁なり。故に「罪業の因縁」というなり。総じてこの文意は本尊抄二十二、開目抄下六。
一、文の意は寿量品を説かずんば、末代の凡夫皆悪道に堕つ。故に知んぬ、寿量品を説きたもうが故に末代の凡夫皆成仏することを。豈広開近顕遠の寿量品は末代今時の日蓮等が為に非ずや。
 
八月七日
 
一、是の好き良薬を今留めて此に在く文。
 当に知るべし、「良薬」の義、甚だ多し。先ずその相を示し、次に今の所引の意を明かさん。
 
 一に天台大師は、総じて一代を以て「良薬」と名づくるなり。文の九 六十四に云く「経教を留めて在く。故に『是好良薬、今留在此』と云う」等云云。「経教」というは即ちこれ一代の聖教なり。今例文を引き、以てその意を示さん。玄の一に云く「大法東漸」云云。籤の一に云く「通じて仏教を指して倶に妙法と名づく」等云云。書註十七 三に四部律を引いて云く「耆婆、初め得叉羅国に詣って医を学び、七年を経たり。後に其の師、一篭及び草を掘るの具を以て耆婆に告げて云く、一由旬の中に於て応に薬に非ざる草を求むべしと。耆婆、周く求むるに、草木の薬に非ざる者無し。師の云く、汝、今去るべし。医道已に成る。我死して後、即ち汝有りと」等云云。
 正像二時の一切衆生は仍これ軽病なり。故に小乗・権大乗等の浅近の薬を以てこれを治するなり。而るに「良薬」というは、外道・外典に対する故なり。故に開目抄に云く「されば一代・五十余年の説教は外典外道に対すれば大乗なり大人の実語なるべし」云云。
 
 二に妙楽大師は、別して法華を以て「良薬」と名づくるなり。記の九末四十に云く「薬草の名は通ぜり。好の義は局らず。故に頓漸をして倶に名づけて方と為し、好等に非ざること無からしむ乃至頓漸に被ると雖も、本実成に在り」等云云。初めに本疏の意を示し、次に「頓漸に被ると雖も」の下は正に法華を良薬と名づくるの義を顕すなり。文意に云く、総じて一代を名づけて良薬と為すと雖も、仏の本意は法華の実乗に在り。故に「頓漸に被ると雖も、本実乗に在り」というなり。若し末法に望むれば正像の衆生はこれ軽病なりと雖も、若し正法に望むれば像法の衆生は漸くこれ重病なり。故に法華経の良薬を以てこれを治す。而るに医師の習いは、必ず重病を治するを以て本意と為す。故に法華の実乗を以て像法の衆生の病を治するを以て仏の本意と為すなり。「本実乗に在り」の文、良に由あるかな。「況や滅度の後をや」の金言は即ちこの意なり。
 
 三に蓮祖大聖は、但文底を以て「良薬」と名づくるなり。本尊抄八 二十三に「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」文。当に知るべし、肝要は即ちこれ文底なり。文底は即ちこれ肝要なり。故に開目抄には「寿量品の文の底」といい、今の所引の文には「寿量品の肝要」というなり。然るに啓蒙十 九十一に云く「本迹の法門一致する処を肝要と云うなり」云云。曲会私情、大僻見なり。須く知るべし、今時末法の衆生は重病の中の大重病、謗法闡提の極大重病なり。仏は別してこの極大重病を治するを以て本意の中の本意と為るなり。故に本門の本尊、妙法蓮華経の良薬を地涌の菩薩に付属して、末法今時の極大重病を治するなり。故に「是好良薬、今留在此」というなり。
 またまた応に知るべし、天台大師は通じて経文の如く滅後に約する故に、総じて一代を以て良薬と名づくるなり。妙楽大師は別して像法に約する故に、法華を以て良薬と為るなり。我が蓮祖師は但末法に約する故に、文底を以て「是好良薬」と為るなり。並びにこれ経文の意なり。「況滅度後」の文、これを思い合すべし。
 高橋入道抄三十五 四十三に云く「我が滅後の一切衆生乃至末法に入りなば乃至小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず、所謂病は重し薬はあさし、其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」文。全文、往いて見よ。向の三義を含むなり云云。
 「今留在此」の文、また三義を含む。若し天台の意に拠らば、今滅後に留むるなり。若し妙楽の意に拠らば、今像法に留むるなり。若し蓮祖の意に依らば、今末法に留むるなり。故に御義口伝に云く「今留とは末法なり」等云云。即ち今の所引の意は此に在るなり。
 「在此」とは、三義倶に通じて一閻浮提を治すなり。若し別して之を消せば、天台は通じて一閻浮提を指し、妙楽は別して漢土を指す。また日本にも通ずべし。蓮祖は別して日本を指すなり。故に御義口伝に云く「此とは一閻浮提の中には日本国なり」云云。
 
一、上は過去の事を説くに似たる様なれども等文。
 「過去の事」とは釈尊久遠五百塵点劫の昔、本因妙の修行に由って本果の成道を唱うるという事なり。「滅後を以て本と為す先ず先例を引くなり」とは、滅後末法の衆生、本因妙の修行に由って本覚無作の成道を唱えんこと、例せば釈尊の如し等云云。
 
一、神力品に云く等文。
 若し天台の意は、十神力を以て在滅に分配す。若し蓮祖の意は、十神力通じて滅後末法の為なること、この文に豈分明に非ずや。
 
一、能く是の経を持たん文。
 「是の経」とは、即ちこれ是好良薬の南無妙法蓮華経、本門の本尊なり。
 
一、広宣流布文。
 顕仏未来記に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云云。
 
十三日
 
一、又云く、此の経は則ち為れ等文。(三三五ページ)
 「此の経」とは寿量品の肝要、名体宗用教の南無妙法蓮華経なり。「病」とは即ち謗法なり。下にいう「法華経を謗ずるが第一の重病なり」とはこれなり。故に文意に云く、是好良薬の妙法は、能く謗法の病を治するの良薬なり云云。
 
一、涅槃経に云く、譬えば七子の如し等文。(同ページ)会疏十八 三に云々。
 
一、第一第二は一闡提謗法の衆生文。(同ページ)
 太田抄の「第七の病子は一闡提の人・五逆謗法の者・末代悪世の日本国の一切衆生」とは、これ古師に准ずる義なり。当抄の意は、恒沙七種の衆生の義に准じ、以て今の文を釈する故なり。
 
一、諸薬の中には南無妙法蓮華経は第一の良薬なり文。(同ページ)
 これまた寿量品の肝要、名体宗用教の南無妙法蓮華経なり。「第一の良薬」とは、能く法華誹謗の第一の重病を治す、故に「第一の良薬」というなり。若し広略二門の法華経は、文字はあれども末法の衆生の病の薬には非ざるなり。但文底秘沈の妙法のみ能く謗法の病を治する是好良薬なり。
 問う、薬王品得意抄三十三 十 に云く「此の経の大海に死屍を留めずとは法華経に背く謗法の者は極善の人為りと雖も猶之を捨つ何に況や悪人なる上・謗法を為さん者をや」云云。相違するに似たり、如何。
 答う、各その意あり。これ相違するには非ず。謂く、得意抄の意は、始終の謗法の人に約するなり。謂く、始終邪法・邪師の邪義を信じて正法・正師の正義を謗ずるの族なり。即ち今時の禅・念仏・真言等の諸宗これなり。此等の人は則ち仏種を断つ、故に「死屍」の如し。故に「此の経の大海」にこれを留めざるなり。苦岸等に例してこれを知るべきなり。
 当抄の意は、邪を捨てて正に帰するの人に約す。謂く、始めは邪法・邪師の邪義を信じて正法・正師の正義を謗ずると雖も、後には邪法・邪師の邪義を捨てて正法・正師の正義に帰伏し、本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち始めの謗法の重病を治し、不老不死の果報を得るなり。故に「南無妙法蓮華経は第一の良薬」というなり。不軽品に云く云云。
 故に権迹の諸宗の邪法を捨てて本門寿量の正法に帰依し、今日まで造る所の謗法の罪、速かに応にこれを懺悔すべし。若し爾らずんば彼の米を含む愚人の如し。沙石第三巻の如し。若しこれを懺悔せば、本門三箇の秘法の力用に依って、霜露の如く消滅すべきなり。
 故に今経の流通たる普賢観経に云く「若し懺悔せんと欲せば、端座して実相を思え。衆罪は霜露の如し、慧日能く消除す」等云云。今、末法に約してこの文意を消せば、「端座」とは戒壇の霊場に坐するなり。これ則ち戒壇は一切衆生の懺悔滅罪の処なるが故なり。「実相を思え」とは、「思」は即ち思念、即ち信心なり。「実相」は即ち一念三千の本尊なり。「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如」等、これを思え。一念三千は即ちこれ自受用身なり。故に人法体一の本尊を「実相」というなり。この本尊を信じて実相を思えというなり。
 信心はこれ唱題の始めなり。故に本門の題目に当たるなり。「慧日能く消除す」とは、これ本尊の力用を明かすなり。此に人法あり。若し法に約する則は、「慧日」は即ちこれ本門の本尊、妙法蓮華経の五字なり。この妙法の五字は文に非ず、義に非ず、即ち教の意なり。教の意はこれ仏の意なり。仏の意は即ちこれ仏の智なり。故に妙法五字は即ちこれ仏の智慧なり。この妙法の本尊の力用の能く衆罪を滅すること、朝日の霜露を滅するが如し。故に「慧日」という。豈法の本尊の力用を顕すに非ずや。薬王品に、本門の妙法を日天子に譬う。これを思い合すばし。若し人に約する則は「慧」は即ちこれ智慧なり。智慧は即ちこれ報身なり。「日」は即ちこれ日蓮聖人なり。故に久遠元初の自受用報身たる日蓮聖人の力用、能く衆罪の霜露を滅す。故に「慧日」等というなり。豈人の本尊の力用を顕すに非ずや。仏、豈この事を鑑みざらんや云云。
 
一、未だ広宣流布せざる法華経文。(三三五ページ)
 此くの如く点ずべし。或は「未だ広宣流布せざる法華経」と点ずべし云云。広・略の法華経は已に広宣流布せり。要の法華経は未だ広宣流布せざるが故なり。撰時抄上巻、往いて見よ。
 
十五日
 
 
一、疑って云く多宝の証明等文。(三三五ページ)
 この下は次に証明・舌相等は滅後の為なることを明かすなり。
 
一、日蓮云く舎利弗・目連等文。(同ページ)
 「舎利弗」の智慧第一なること、文一 六十二、記一末の如し。「目連」の神通第一なること、文二初、記二の如し。各文、広く往いて見よ。
 
一、金竜陀仏等文。(同ページ)
 文一 十四 に云く「若し身子の化を見れば則ち竜陀の本を見る」文。記一本 五十八 に「意須菩提は青竜陀仏、舎利弗は金竜陀仏」云云。
 
一、文殊・弥勒乃至過去の古仏文。(同ページ)
 文二 五十六 に「文殊は歓喜蔵摩尼宝積仏」云云。弥勒の事は、文二 五十九、義疏
二十に云云。啓蒙に云く「弥勒古仏の義は正しき証文無しと雖も、文殊・観音等に准じて爾云うなり」云云。
 
一、現在の応生文。(同ページ)
 問う、諸の法身菩薩、若し本化及び妙音等の如きは、本身を改めずして裟婆に来集す。これはこれ往来なり。若しこの界に託生するを「応生」と名づく。若し爾れば文殊・弥勒はこの界に託生するや。
 答う、実に所問の如し。文殊師利は、涅槃経に云く「仏、跋陀波羅菩薩に告ぐ。此の文殊師利は大慈悲有り。此の国の多羅聚楽、梵徳波羅門の家に生る。其の生るるの時、家内屋宅、化して蓮華の如し。母の右脇より生ず。身は紫金の色なり。地に堕ちて能く語ること、天の童子の如し。七宝の蓋有り、随って其の上を覆う。九十五種の諸の論議師、能く酬対する無し。但仏処に於て出家学道し、首楞厳三昧に住す」等云云。また、賢愚経に云く「波羅奈王は波羅摩達王と名づく。輔相有り。一りの男児を生ず。相好備満して身の色紫金、姿容挺特なり。字を立てて弥勒と曰う」云云。既に此土に託生す、故に「応生」というなり。
 
一、仏の在世に於ては一人も無智の者之れ無し等文。(同ページ)
 問う、能引の権者は実に然るべきなり。所引の中に三周得悟の人もまた然るべし。三周未悟の一毫未断の輩これあり。何ぞ「一人に於ても無智の者之れ無し」といわんや。
 答う、妙楽の記八 三十五 に云く「三周の後、縦い凡夫有れども咸く凡見に殊なり」等云云。如説修行抄二十三 二十九 に云く「在世は能化の主は仏なり弟子又大菩薩・阿羅漢なり、人天・四衆・八部・人非人等なりといえども調機調養して法華経を聞かしめ給ふ乃至末法今の時は乃至其の師を尋ぬれば凡師なり、弟子又闘諍堅固・白法隠没・三毒強盛の悪人等なり」云云。
 当に知るべし、在世の衆生はこれ実に凡なりと雖も、皆これ三五下種の輩なり。しかのみならず塵点より已来節々にこれを誘い、今日四十余年の間、機を調えたり。縦い一毫未断なりと雖も、何ぞ末法今時の本未有善の大愚人に同じからんや。
 
   取要抄文段 三大秘法の下      日寛之を記す
 
一、問うて云く如来滅後二千余年等。(三三六ページ)
 此の下は第三、末法流布の大法を明かす。文を分かちて三と為す。
 初めに正しく三箇の秘法を明かし、次に「疑って云く何ぞ広略を捨て」の下は但要を取るの所以を明かし、三に「疑って云く今世に此の法を流布せば」の下は広宣流布の先相を明かすなり。
 初めの三箇の秘法を明かすに、また三。初めに正しく明かし、次に「問うて曰く正像」の下は正像未弘の所以を明かし、三に「問うて曰く仏法を滅尽」の下は末法弘通の所以を明かすなり。初めに正しく明かす中に間あり、答あり、見るべし。
 
一、竜樹・天親・天台・伝教等文。(同ページ)
 既に「二千余年」という、故に此の文は略せるなり。具には応に「迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親乃至天台・伝教等の残したまえる所の秘法は何物ぞや」というべし。  然るに今但四師のみを挙ぐることは、竜樹菩薩は大論の中に別して法華を指して秘密と名づけ、天親菩薩は論を造って法華を称歎したまう故なり。天台・伝教は知るべし。
 
一、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり文。(同ページ)
 これを本門の三大秘法と名づく。また、宗旨の三箇と名づくるなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、末法下種の正体なり。故に宗門の奥義此に窮まり、当家の秘事これに過ぐるはなし。この故にその義は甚遠にして解し難く、その意は幽微にして彰し難し。
 然りと雖も今、講次に臨んで略して一端を示さん。且くその門を分ちて以て七段と為す云云。
 
   第一  末法今時は但この法を信ずべきことを明かす
 
 夫れ仏道に入る根本は信を以て本と為す。故に五十二位の中には十信を本と為す。十信の位には信心これ初めなり。
 況や今経には「信を以て入ることを得たり。己が智分に非ず」等と云云。涅槃経には「是の菩薩の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば則ち已に摂尽す」と云云。止観第五の巻には「仏法は海の如し、唯信のみ能く入る。信は即ち道の源、功徳の母。一切の善法は之に由って生ずるなり」云云。故に信心最要なり。
 問う、今時の衆生は応に何れの法を信ずべきや。
 答う、宗々門々、区々に相分れたり云云。若し当流の意は、応に但本門の三大秘法を信ずべきなり。これ則ち釈尊出世の本懐、多宝・分身の証明・舌相の本意、天台・伝教の内鑑冷然の本意なるが故なり。
 
 問う、釈尊出世の本懐とは但これ法華経一部を指す。故に経に云く「唯一大事因縁を以ての故に世に出現したまう」云云。妙楽云く「大事の因縁は迹門に在りと雖も、理に拠るに応に須く双せて本迹を指すべし」等云云。何ぞ只本門の三大秘法といわんや。
 答う、汝但法華経は釈尊出世なることを知って、未だ釈尊出世の本懐と説きたまう所以を知らざるか。
 問う、若し爾らば、その所以は如何。
 答う、何ぞ私の言を出さん。今、明文を引いて汝が信を生ぜしめん。秘法抄に云く「予年来己心に秘すと雖も此の法門を書き付て留め置ずんば門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し乃至 法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり」。秘すべし、秘すべし。
 
 問う、多宝・分身の証明・舌相の本意、別して三大秘法に在るの証文如何。
 答う、釈尊出世の本懐、既に三大秘法に在り。多宝・分身の証明・舌相、豈爾らざらんや。然りと雖も、今一文を引いてこれを示さん。
 下山抄二十六 四十四 に云く「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」云云。「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経」とは即ちこれ三大秘法の事なり。
 本化を召し出すの本意、またまた各の如し。故に撰時抄に云く「寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出されたる」等云云。
 問う、天台・伝教の内鑑の本意は如何。
 答う、文の一に云く「後五百歳遠く妙道に沾わん」等云云。「後五百歳」とは末法の初めなり。「遠く沾わん」とは即ちこれ流布の義なり。「妙」はこれ能歎の辞、「道」は即ち三箇の秘法なり。
 問う、道の一字を何ぞ三箇の秘法というや。
 答う、いう所の道とは即ち三義あり。第一に虚通の義、即ち本門の本尊なり。文二 三十六 に云く「中理虚通、之を名づけて道と為す」等云云。「中」は謂く中道、即ち妙法蓮華経なり。「理」は謂く実相、即ちこれ一念三千なり。この妙法の三千は法界に周遍して更に●がる所無し。故に虚通というなり。豈本門の本尊、事の一念三千の南無妙法蓮華経に非ずや。
 
 第二に所践の義、即ち本門の戒壇なり。輔正記四 十四 に云く「道は是れ智の所践なるがゆえに」等云云。以信代慧の故に智は即ち信なり。凡そ戒壇とは信者の践む所なり。故に所践の義は本門の戒壇なり。秘法抄に云く「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて乃至霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か乃至三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下して●給うべき戒壇なり」等云云。
 第三に能通の義、即ち本門の題目なり。天台大師、法界次第の中に云く「道は能通を以て義と為す」等云云。本門の題目とは即ちこれ修行なり。修行は進取の義なり。進取豈能通の義に非ずや。玄文第四に云く「行は進取に名づく乃至智目行足、清涼地に到る」等云云。故に知んぬ、能通の義は即ちこれ本門の題目なることを。若し爾らば道の字の三義、即ちこれ本門の三大秘法なり。
 この三大秘法の広宣流布せんすることを恋い慕うて「後五百歳遠く妙道に沾わん」と釈したまえり。伝教大師の「正像稍過ぎ已って末法太だ近きに有り」等は即ちこの意なり。 故に撰時抄上九に此等の文を引き已って云く「法華経の流布の時・二度あるべし所謂在世の八年・滅後には末法の始の五百年なり、而に天台・妙楽・伝教等は進んでは在世法華経の時にも・もれさせ給いぬ、退いては滅後・末法の時にも生れさせ給はず中間なる事をなげかせ給いて末法の始をこひさせ給う御筆なり、例せば阿私陀仙人乃至道心あらん人人は此を見聞ききて悦ばせ給え正像二千年の大王よりも後世ををもはん人人は末法の今の民にてこそあるべけれ此を信ぜざらんや、彼の天台の座主(東寺七大寺の碩徳)よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」等云云。
 若し爾らば、三大秘法は但蓮祖出世の本懐なるのみに非ず。忝くも釈尊出世の大事、多宝・分身の証明・舌相の本意、本化を召し出すの本意、天台・伝教の内鑑の本意なること文義分明なり。豈この三大秘法を信ぜざるべけんや。
 経に云く「無量無数劫にも是の法を聞くこと亦難し」また云く「無量国中に於て乃至名字も聞くことを得べからず」等云云。三大秘法の御名すら尚百千万劫にも聞き難し。況やこの大法に値い奉らんをや。三千年に一度花開く優雲華、無量無辺劫に値うなる一眼の亀にも譬え給うはこれなり。大地の上に錐を立てて大梵天宮より芥子を擲げんに、錐のさきに貫かれたるよりも、三大秘法には値い奉り難きなり。この須弥山に針を立て、彼の須弥山より大風の強く吹かん日に糸を渡さんに、針の穴に至って糸の銛の入りたらんよりも、三大秘法には値い奉り難し。何ぞ但この法を信ぜざらんや。
 
   第二  宗教の五箇を以て宗旨の三箇を顕すことを明かす
 
 凡そ「宗教」「宗旨」の名目は、本天台宗より出でたり。等海集第四 初 に云く「止観に於て宗教・宗旨の二の習い之れ有り。智証大師、記の九の『故に長寿を聞いて復宗旨を了す』の文を引き、『宗旨とは一念三千なり』と釈したまえり。止観の宗旨を以て天台宗と名づくるなり。宗教とは章段建立なり。謂く、十章・十乗・十境なり」等云云。正に当流の宗教とは教・機・時・国・教法流布の前後なり。
 譬えば医師の良薬を与えんと欲するに、先ず必ず薬の名君・佐史等を識り、病の起る所の本を知り、時を弁じ、処を弁じ、与薬の前後を弁え、而る後に正しく薬を与うるが如し云云。
 第一に教とは、即ち一代諸経の勝劣浅深を知るなり。天台大師は五時八教を以て東流一代の聖教を判じ、吾が祖は三重秘伝を以て八万聖教の勝劣を暁めたまえり。
 且く一文を引いて略してその相を示さん。禀権出界抄三十一に云く「法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候」等云云。爾前当分・迹門跨節、これ第一なり。迹門当分・本門跨節、これ第二なり。脱益当分・下種跨節、これ第三なり。
 当に知るべし、迹門の大教起れば爾前の大教亡じ、本門の大教起れば迹門・爾前亡じ、文底下種の大教起れば本迹・爾前亡ずるなり。故に文底跨節の法門は即ちこれ独一の本門、待対すべきものなき大法なり。是くの如く知る、これを教を知ると謂うなり。猶、薬の浅深を識るが如し。第二に機を知るとは、所謂正像二千年は仍本已有善の衆生にして、専ら熟脱の機縁なり。今末法に入れば皆これ本未有善の衆生にして、只これ下種の機縁なり。
 故に太田抄に云く「正像二千余年には猶下種の者有り乃至今は既に末法に入って在世の結縁の者は漸漸に衰微して権実の二機皆悉く尽きぬ彼の不軽菩薩末世に出現して毒鼓を撃たしむるの時なり」等云云。
 
 天台云く「本未有善、不軽大を以て而して之を強毒す」と云云。妙楽云く「已なる者は熟脱し、未なる者は下種す」等云云。
 立正観抄に云く「天台弘通の所化の機は在世帯権の円機なり」等云云。文意は、法華経の本門寿量品の文底秘沈の三大秘法の直機なり云云。故に「法華本門の直機」というなり。
 是くの如く知る、これを機を知ると謂うなり。猶医の能く病の根源を知るが如し。
 第三に時を知るとは、具には撰時抄の如し。今、一言を以てこれを示す。末法今時は本門三箇の秘法広宣流布の時なり。当に知るべし、今末法に入り小大・権実・顕密共に皆悉く滅尽す。故に大集経に云く「後の五百歳、白法隠没」等云云。正にこの時に当って三大秘法広宣流布す。故に薬王品に「後の五百歳、広宣流布」と説けるなり。譬えば明闇の来去同時なるが如し。
 故に撰時抄に云く「後五百歳に一切の仏法の滅せん時上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせん」等云云。また云く「仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・乃至天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深密の正法経文の面に現前なり、此の深法・今末法の始五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべき」等云云。顕仏未来記に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか」等云云。是くの如く知る、これを時を知ると謂うなり。猶医師の能く春薬・秋薬等を分別するが如し。
 
 第四に国を知るとは、仏教は必ず国に依って応に弘むべきなり。然るに日本国は、通じてこれを論ずるに法華有縁の国なり。弥勒菩薩の瑜伽論及び肇公の法華翻経の後記等の如し。「日本」の名に依るに神道の抄の如し。即ち多意あり。一には日始めて此の国に生ずる故に「日の本」と名づくるなり。二には、日の神の本国なるが故に「日本」と名づく。三には日神始めに生まれたまうが故に「日の本とす」と名づくるなり。四には、この国は日神を本と為る王法の国なるが故に「日本」と名づくるなり云云。
 若し当流の意は、即ち三意有り。
 一には、所弘の法を表して日本と名づくるなり。謂く、日はこれ能譬、本はこれ所譬の本門三箇の秘法なり。法譬並びに挙ぐる故に日本と名づくるなり。経に云く「又日天子の能く諸の闇を除くが如し」云云。宗祖云く「日蓮云く、日を本門に譬うるなり云云。今日の一部を通じて迹門と名づく、文底独一の本門」云云。四条抄に「名は目出度きは日本第一」(取意)と謂う、これなり。
 二には、能弘の人を表して日本と名づくるなり。謂く、日蓮の本国なるが故なり。諌暁抄に云く「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ」云云。此に相伝あり云云。
 三には、本門三箇の秘法広宣流布の根本を表して日本と名づくるなり。謂く、日はこれ本門寿量品の妙法なり。この本門寿量の妙法の広宣流布する根本の国なるが故に日本国と名づくるなり。遵式の云く「始め西より伝う、猶月の生ずるが如し。今亦東より還る、猶日の昇るが如し」云云。宗祖云く「月は西より東へ向いたり。月氏の仏法東へ移るべき瑞相なり。日は東より西に入る。日本国の仏法月氏へ還るべき瑞相なり」(取意)等云云。豈この国、本門の流布する根本の国なるに非ずや。
 然れば則ち日本国は本因妙の教主日蓮大聖の本国にして、本門三箇の秘法広宣流布の根本の妙国なり。此くの如く知る、これを国を知ると謂うなり。
 問う、若し爾らば蓮師出世の已後、応に日本国と名づくべきに、何ぞ開闢已来、日本国と名づくるや。
 答う、これ霊瑞感通し、嘉名早立する故なり。例せば不害国の名の如し。記一末に云く「摩訶提、此に不害と云う。劫初已来、刑殺無き故に。阿闍世に至り、指を截って刑と為す。後、自ら指を齧むに痛し。復、此の刑を息む。仏、当に其の地に生ずべき故に、吉兆預め彰る。所以に先より不害の名を置けり」等云云。
 今また是くの如し。蓮祖当にこの国に生まれて本門深秘の大法を弘通したまうべきに故に、吉兆預め彰る。所以に先より日本国の名を置けるなり。彼此異なると雖も、その趣はこれに同じ。豈信ぜざるべけんや。
 
 第五に教法流布の前後を知るとは、正法の初めの五百年は小乗流布の時なり。後の五百年は権大乗、次に像法一千年は法華経の広略二門流布の時なり。故に迦葉・阿難は小乗教を弘宣し、竜樹・天親等は権大乗を弘通す。像法に至っては則ち天台・伝教等、法華経の広略二門を弘通す。故に末法に入っては応に但文底秘沈の要法を弘宣すべきなり。
 太田抄二十五 十八 に云く「迦葉・阿難は一向に小乗経を弘通して大乗経を申べず、竜樹・無著等は権大乗を申べて一乗経を弘通せず乃至南岳・天台等は観音・薬王等の化身と為て小大・権実・迹本二門・化導の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ其の上に已今当の三説を立てて一代超過の由を判ぜざること乃至然りと雖も広略を以て本と為して未だ肝要に能わず・自身之を存すと雖も敢えて他伝に及ばず」等云云。
 既に像法に於て、広略二門これを弘通す。故に知んぬ。今末法に於ては応に但要法を弘通すべきなることを。此くの如く知る、これを教法流布の前後を知ると謂うなり。
 若し爾らば、宗教の五箇を以てこれを験みるに、末法今時は但この本門の三大秘法広宣流布の時なり。
 
   第三  本門三箇の秘法の名義並びに開合を明かす
 
 問う、三箇の秘法並びに本門という意は如何。
 答う、本門の言に於て二意あり。一には、本門寿量文底の秘法なり。故に本門という。これ開目抄の意なり。二には、久遠元初の独一の本門なり。故に本門という。これ血脈抄の意なり。
 当に知るべし。久遠元初は但これ本門の一法にして、更に迹として論ずべきなし。故に独一の本門というなり。二意ありと雖も往いてこれ一意なり。只これ能詮・所詮の異なるのみ。
 一致門流はこの義を知らず、本門の言を会して曲げて己情に順う。且く五義を挙げて以て之を破責せん。
 一に謂く、これ本迹一致の妙法なりと雖も、既に久遠本果の釈尊の所詮なり。故に本門等というなり。
 難じて云く、凡そ今日始成の所証を説くを迹門と名づけ、久遠本果の所証を説くを本門と名づく。若し久遠本果の釈尊の所証ならば、則ち豈本門の妙法に非ずや。何ぞ本迹一致といわんや。
 二に謂く、これ本迹一致の妙法なりと雖も、本門神力品に於てこれを付嘱するが故に本門等というなり。
 難じて云く、神力品はこれ別付嘱、嘱累品はこれ総付嘱なり。これ則ち本門嘱累品に於て、法華経並びに前後一代の諸経を一切の菩薩に付嘱す。若し爾れば前後一代の諸経皆本門と名づくべけんや。既に本門嘱累品に於て付嘱するが故なり。
 三に謂く、これ本迹一致の妙法なりと雖も、既に本化の菩薩、これを弘むる故に本門という云云。
 難じて云く、本化の菩薩は但本門寿量の妙法を弘む。故に道暹云く「法是れ久成の法なるが故に、久成の人に付す」等云云。付嘱既に爾なり、弘通は知んぬべし。
 四に謂く、これ本迹一致の妙法なりと雖も、迹化迹門の弘通に対して、本化弘通の規模を顕さんが為に本門等というなり云云。
 難じて云く、若し爾らば汝等、本化弘通の規模を隠さんが為に本迹一致というや。豈法敵に非ずや。
 五に謂く、本迹一致の本迹は本家の迹にして、一部唯本なり。故に本門というなり。
 難じて云く、若し与えてこれを論ぜば、既に一部は唯本なりという。若し爾れば只これ本門なり。何ぞ本迹一致というや。若し奪ってこれを論ぜば、一部またこれ唯迹なり。これ則ち今日迹中の所説なるが故なり。若しこの辺に拠らば、応に一部は唯迹の妙法というべきや。諌迷論十六 十七、啓蒙二十 三十四、往いて見よ。並びにこれ不相伝の大僻見なり。責めざるべからず、破らざるべからず云云。
 
 問う、三箇並びに秘法と名づくる意は如何。
 答う、この義を知らんと欲せば、先ず須く今経の秘密の綱要を了すべし。所謂今経の秘密の蔵、秘要の蔵、如来秘密、秘妙方便、法華是秘密等を天台・妙楽これを釈するに、その文、諸部に散在す。古来の諸師、多く大旨に迷う。更に互いに是非し、異論蘭菊たり。予曽て諸文を括るに、凡そ三義を出でず。
 一には法体の真秘。謂く「一身即三身を名づけて秘と為す」等釈する如くはこれなり。故に妙楽云く「法体法爾として相即す」等云云。
 二には在昔の隠秘。謂く「又昔説かざる所を名づけて秘と為す」等と釈するが如きはこれなり。
 三には開顕の真秘。謂く「顕露彰灼の故に真秘と云う」の文の如きはこれなり。今各一文を引き、以て諸文に例す。学者能く須くこれを了すべし。
 問う、その文を見ると雖も未だその義を解せず、願わくは大旨を示せ。吾深くこれを信ぜん。
 答う、夫れ法は既に本来法爾として相即なり。微妙難見なり。これを法体の真秘と名づくるなり。この法体の真秘を爾前の諸経の中に秘して説かず。これを在昔の隠秘と名づくるなり。今、今経の中に来って彼の在昔の隠秘を開き、法体の真秘を顕す。故に開顕の真秘と名づくるなり。譬えば本来の月、雲の覆う所と為る、今雲を払って本来の月を見るが如し。
 
 伝教大師釈して云く「於一仏乗とは根本法華経なり。分別説三とは隠密法華経なり。唯有一乗とは顕説法華経なり。妙法の外、更に一句の余経無し」と云云。
 妙楽大師云く「法既に本妙なり。麁なるは物の情に由る。故に知んぬ、但其の情を開せば、理自ら本を覆う」等云云。若しこの三義を暁めば、法華開顕の大旨は掌に在り。況やまた方便の題号、得て自ら知るべし。権実相対、本迹相対、種脱相対なり云云。
 問う、若し爾らば今の秘法の三義は如何。
 答う若し権実・本迹を了せば、今文の秘法の三義、自ら知るべきなり。
 問う、その相如何。
 答う、略してその相を示さん。一には法体の真秘。謂く三箇の法体は本来法爾として微妙難見の大法なり。これを法体の真秘と名づく。天台云く「本極法身は微妙深遠」云云。経に云く「甚深微妙の法は見ること難く、量るべきこと難し」云云。
 宗祖云く「教主釈尊の一大事の秘法」等云云。
 二には文上の隠秘。開目抄に云く「寿量品の文の底に秘し沈め給へり」云云。故に知んぬ、文上の寿量品には教主釈尊、尚秘して説かざることを。故に文上の隠秘と名づくるなり。
 三には文底の真秘。謂く、内証の寿量品に於て顕露彰灼に三箇の法を説き顕す。故に文底の真秘と名づくるなり。妙楽云く「顕露彰灼の故に真秘と云う」云云。宗祖云く「最大深秘の大法経文の面に顕然なり」(取意)等これなり。
 当に知るべし、法体の真秘は本来の月の如し。文上の隠は雲に覆わるるが如し。文底の真秘は雲を払って月を見るが如し。「雲晴れて後の光と思うなよ 本より空に有明の月」等云云。故に今、文底の行者は久遠元初の月を見るなり。当に知るべし、久遠は今に在り、今は即ち久遠なり云云。
 
 問う、諸抄の中に或は「一大秘法」といい、或は「三大秘法」といい、、或は「本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字」といい、或は「法華経の題目を以て本尊とすべし」といい、或は「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という。諸文一准ならず、如何がこれを消釈せんや。
 答う、この事を知らんと欲せば、須く開合を了すべし。若し一大秘法というは即ちこれ本門の本尊なり。この本尊所住の処を本門の戒壇と名づけ、この本尊を信じて妙法を唱うるを本門の題目と名づく。故に分ちて三箇の秘法と為るなり。また本尊に人あり、法有り、戒壇に事有り、理あり。理は謂く、義理なり。題目に信、行有り。故に開して六義と成す。この六義、散じて一代五十年の説法と成る。また蓮祖一期の弘法と成る。
 例せば高僧伝に「一心とは万法の総体、分ちて戒定慧と為り、開いて六度と為り、散じて万行と為る」というが如し。またまた、これを合する則は釈尊一代の説法、日蓮一期の弘法は但六義と成る。またこの六義を合する則は但三箇の秘法と成る。またこの三箇を合する則は但一大秘法の本門の本尊と成るなり。故にこの本門の本尊をまた「三大秘法総在の御本尊」と名づくるなり。
 若し、この開合の意を得ば、諸抄の文意、照然として観るべし。然れば則ち釈尊一代五十年の説法の功徳及以蓮祖一期の弘法の功徳、皆悉く本門の本尊に結帰するなり。故に本尊の功徳無量無辺にして、心の及ぶ所に非ず、言の宣ぶる所に非ず。
 故にこの本尊を受持すれば、則ち祈りとして叶わざることなく、福として来らざることなく、罪として滅せざることなく、理として顕れざることなし。故にこの本尊信受の輩は但受持の一行のみにして尚成仏すべし。何に況や本尊の妙法を読誦せんをや。「我が滅度の後に於て、応に斯の経を受持すべし。この人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」とはこれなり。
 
   第四  正しく人法の本尊を明かす
 
 凡そ本尊とは所縁の境なり。境若し邪なる則は智行も随って邪なり。境若し正なる則は智行も随って正なり。故に須く本尊の邪正を簡び、以て信行を励むべし。
 故に妙楽大師の弘一下 十一 に云く「仮使い発心真実ならざる者も、正境に縁すれば功徳猶多し。若し正境に非ずんば、縦い偽妄無きも亦本種と成らず」等云云。然るに諸宗の本尊はこれ正境に非ず。載せて諸文に在り、故に今はこれを略す。正しく当流の本尊は久遠元初の独一の本門、妙中の妙、正中の正なり。今この本尊に人あり、法あり。人即久遠元初の自受用身、法即事の一念三千と名づくる意は如何。
 答う、一流の義に云く、己心の一念三千を紙墨に図顕するが故に、事の一念三千の本尊と名づく等云云。今謂く、事の一念三千の本尊は紙墨にこれを図顕す。紙墨にこれを図顕するが故に事の一念三千と名づくるには非ざるなり。
 若し爾らずんば難じて云く、修禅寺決 三十一 に云く「南岳大師、一念三千の本尊を以て智者大師に付す。所謂画像の十一面観音なり。頭上の面に十界の形像を図し、一念三千の体性を顕す」云云。「体性」というは即ちこれ理性なり。故に理の一念三千なり。何ぞ紙墨に図顕するを以て即ち事の一念三千と名づけんや。
 
 問う、当流の実義は如何。
 答う、境智冥合、人法体一の故に事の一念三千の本尊と名づくるなり。故に御義口伝に云く「自受用身即一念三千、一念三千即自受用身」等云云。所謂「即」とは二物相合に非ず、背面相翻に非ず。当体全き、これを「即」というなり。故に自受用身の当体全くこれ一念三千、一念三千の当体全くこれ自受用身なり。豈事の一念三千に非ずや。故に報恩抄に云く「自受用身即一念三千」。本尊抄に云く「一念三千即自受用身」等云云。
 問う、両抄の中に未だこの文を見ず、未だこの事を聞かず。
 答う、宗祖云く「文は睫毛の如し」。天台の云く「睫は近く霄は遠し。倶に皆見えず。金 もて膜を決せば空色朗然たり」云云。故に当流深秘の金 を以て熟脱執情の膜を決せば、両抄の明文朗然ならん。本尊七箇の口伝、三重口伝、筆法の大事等、唯授一人の相承なり。何ぞこれを顕にせんや。
 問う、人の本尊は如何。
 答う、一流の義に云く、在世の本門の教主釈尊・色相荘厳の仏を本尊と為すべし等云云。今謂く、夫れ色相荘厳の仏は迹中化他の応仏にして、本これ脱益の化主なり。久遠元初の自受用身は本地自行の本仏にして、本これ下種の教主なり。今既に末法下種の時なり。何ぞ下種の教主を閣いて、却って脱益の化主を以て本尊と為すべけんや。況やまた末法は本未有善の衆生なり。故に脱益の仏に於ては三徳の縁浅し。何ぞ吾が三徳有縁の仏を閣いて、他の三徳の仏を以て本尊と為すべけんや。
 故に当門流の意は、本地自行の本仏・久遠元初の自受用報身・本因妙の教主を以て本尊と為すなり。所謂末法下種の主師親・大慈大悲の南無日蓮大聖人これなり。「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし、・主君ぞかし・明師ぞかし」等云云。
 観心本尊抄には正しく脱仏を簡び、下種の仏を取る。故に「彼は脱此れは種」というなり。其の外、文理甚だ多し。且くこれを略するのみ。
 
 問う、本尊問答抄の意は、末代悪世の凡夫は但法華経の題目を以て本尊と為すべし等云云。若し爾らば、蓮祖を造立して仍本尊と為すべからざるか、如何。
 答う、「法華経の題目」とは本地甚深の奥義、即ちこれ蓮祖聖人の御事なり。その故は蓮祖大聖人、我が身は即ち法華経の題目なりと知しめし、久遠元初の自受用報身と顕れたまえり。故に知んぬ、法に即して人、人に即して法、人法本これ体一なることを。故に「法華経の題目」とは、またこれ蓮祖聖人の御事なり。豈本尊と為ざらんや。この故に蓮祖の在世に、御弟子日法をして自身の影像を造立せしむ。即ち今の生御影これなり。
 問う、人法体一の証文は如何。
 答う、経に云く「若し能く持つこと有らば則ち仏身を持つ」等云云。普賢観経に云く「此の経を持つ者は則ち仏身を持つ」等云云。妙楽云く「人法の名は殊なれども大理は別たず。人即法なるが故に」云云。具には文底深秘抄の如し。
 
 問う、若し爾らば色相荘厳の仏もまた応に人法体一にして即法華経の題目なるべし。何が故に爾らざるや。
 答う、夫れ久遠元初の自受用身とは本地自行の本仏、境智冥合の真身なり。故に人法体一なり。譬えば月と光と冥合するが故に、その体これ一なるが如し。若し色相荘厳の仏は迹中化他の迹仏にして、世情に随順して現ずる所の仏身なるが故に、人法に勝劣あり。譬えば水中の月は大小の器に移るが故に、天月に望むれば勝劣分明なるが如し。故に色相荘厳の仏は、人法体一に非ずして勝劣雲泥なり。
 問う、人法勝劣の証文は如何。
 答う、涅槃経に云く「諸仏の師とする所は所謂法なり。是の故に如来、恭敬供養す」等云云。宗祖云く「法は是れ聖の師」等云云。宗祖云く「仏は所生・法華経は能生」。具には文底深秘抄の如し。今は且くこれを略す。
 問う、色相荘厳の仏は世情に随順するの証文如何。
 答う、且く一文を引かん。教時義に云く「世間皆仏は三十二相を具することを知る。此の世情に随って三十二相を以て仏と為す」等云云。金剛般若に云く、云云。
 問う、蓮祖大聖人、我が身は法華経の題目なりと知しめし、久遠元初の自受用身と顕れたまう文理は如何。
 答う、吾が祖は諸宗遊学の間に普く一代聖教の淵底を究め、滅後弘教の次第を検す。都て八宗の奥義を尽して、末法流布の深秘を暁む。御年三十二歳、建長五年癸丑の春の比、再び故郷に帰り、末法の本尊を祈りたまうに、四月二十八日の暁天に、古僧示して云く「汝が身を以て本尊と為すべし」と。即ち明星池を見たまえば、不思議なり、蓮祖の影即ち今の大漫荼羅なり。この時、正しく我が身は法華経の題目なりと知り、朝日に向って始めて南無妙法蓮華経と唱え、而る後、無量の巨難を忍び、三大秘法を弘む。文永八年九月十二日子丑の刻、竜口御難の時、名字凡身の当体即久遠元初の自受用身と顕れたまえり。具には開目抄愚記の如し。故に蓮祖大聖人は末法下種の本仏、主師親の三徳なり。故に本尊と仰ぐべきなり。
 
 第五 本門の戒壇を明かす
 
 凡そ本門の戒壇とは、一閻浮提の人の懺悔滅罪の処なり。いう所の「戒」とは防止を義と為す。謂く、無始の罪障を防ぎ、三業の悪を止むる故なり。
 宗祖云く「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん」云云。豈非を防ぎ悪を止むるに非ずや。当に知るべし、本門の戒壇に事あり、理あり。理は謂く、義理なり。これ則ち事中の事理にして迹門の理戒に同じからず。その名に迷うこと勿れ。故にまた義の戒壇と名づけんのみ。初めに義理の戒壇とは、本門の本尊の所住の処は即ちこれ義理、事の戒壇に当るなり。経に云く「当に知るべし、この処は即ちこれ道場」とはこれなり。天台云く「仏其の中に住す、即ちこれ塔の義」等云云。故に当山は本門戒壇の霊地なり。またまた当に知るべし。広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」(取意)等云云。
 凡そこの本尊は久遠元初の自受用の当体なり。豈根深く、源遠きに非ずや。故に天台云く「本極法身は微妙深遠」等云云。
 次に正しく事の戒壇とは、秘法抄十五 三十一 に云く「王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」等云云。
 
 問う、最勝の地とは何の処を指すべきや。
 答う、応にこれ富士山なるべし。故に富士山に於てこれを建立すべきなり。
 問う、その謂は如何。
 答う、且く五義を示さん。一には結要付嘱の玄鑒に由る。故に神力品に云く「若しは経巻所住の処、若しは園中に於いて、若しは林中に於いて、乃至是の中に皆応に塔を起て供養すべし」云云。文に「若しは経巻」というは、これ広略二門の法華経の経巻には非ず。即ちこれ要の法華経の経巻なり。これ則ち「要を以て之を言わば」というが故なり。要の法華経の経巻とは、即ちこれ一幅の本尊なり。これに相伝あり云云。「皆応に塔を起て」とは、即ちこれ戒壇なり。故に経文の意は、本尊所住の処に応に戒壇を起つべしとなり。然るに本門戒壇の本尊は正応元年冬の比、彼の身延を去って此の富士に移る。蓋しこれ、意あればなり。凡智の能く測る所に非ず。既にこれ富山は本尊所住の処なり。豈この処に戒壇を起てざらんや。如来の玄鑒、寧ぞ唐捐なるべけんや。
 二には日本第一の名山なるが故に。都良香の富山の記に云く「富士山とは駿河の国に在り。峯は削り成すが如く、直ちに聳えて天に属けり。其の高さ測る可からず。史籍の記する所を歴覧するに、未だ此の山より高きもの有らざるなり。蓋し神仙の游萃する所なり」云云。興師の門徒存知に云く「凡そ勝地を撰んで伽藍を建立するは仏法の通例なり、然れば駿河国・富士山は是れ日本第一の名山なり。最も此の砌に於て本門寺を建立すべき」云云。戒壇を建立して本門寺と号するが故なり。
 三には正に王城の鬼門に当る故に。義楚六帖二十一 五 に云く「日本国亦倭国と名づく。東海の中に在り。都城の東北千里に山有り。即ち富士山と名づく」等云云。台家の類聚一末 五十三 に云く「天竺の霊山は王舎城の丑寅なり。震旦の天台山は漢陽宮の
丑寅なり。日本の比叡山は平安城の丑寅なり。共に鎮護国家の道場なり」云云。上野殿御返事、外五 七に云く「仏法の住処・鬼門の方に三国ともにたつなり此等は相承の法門なるべし」云云。
 四に富士はまた蓬莱山と名づくる故に。義楚の六帖に「又富士と云い、亦蓬莱と名づく。徐福此に止まり今に至る。子孫皆秦氏と曰う」云云。当に知るべし、蓬莱山は不死の薬の在処なり。当初、秦王、不死の薬を求む。不死の薬は唯蓬莱に在り。故に徐福、
五百の童男、五百の童女を将いて尋ねて富山に入る。其の時、未だこの薬有らず。故に徐福、本国に帰ること能わず。終に此の処に止まれり。今謂く、これ徐福の詐には非ず。後に応に不死の薬あるべき故に、自然に預め蓬莱山の名を立つる故なり。これ則ち霊瑞感通し、嘉名早立せるなり。今は現に不死の薬あり。蓬莱山の名、豈虚立すべけんや。
 
 問う、不死の薬、今何れの処に在りや。
 答えて云く、本門の戒壇の本尊、即ちこれ不死の薬なり。
 問う、証拠は如何。
 答う、寿量品に云く「是の好き良薬を、今留めて此に在く」等云云。薬王品に重ねてこれを説いて云く「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅して不老不死ならん」等云云。「是好良薬」とは本門の本尊なり。本門の本尊豈不死の薬に非ずや。この故に、兼ねてその処を蓬莱山と名づくるなり。寧ろ嘉名早立に非ずや。
 五には大日蓮華山と名づくる故に。神道深秘 二十六 に云く「駿河の国には大日蓮華山」云云。今これを案ずるに、山の形、八葉の蓮華に似たり。故に爾名づくるなり。
 神社考四 二十 に云く「富士縁起に云く、孝安天皇の九十二年六月、富士山涌出す。乃ち郡名を取って富士山と云う。形、蓮華に似たり。絶頂に八葉あり」等云云。
 古徳の富士の詩に云く「根は三州に跨って烟樹老い、嶺は八葉に分れて雪華重なる」等云云。即ちこの意なり。日順詮要抄に云云。「天台大師は漢土の天台山に於て之を弘通し、彼の山の名を取って天台大師と号す。富士山亦日蓮山と名づく。最も此の山に於て本
門寺を建つべし」等云云。況やまたこの義は、一致門流も未だ曽てこれを諍わず。故に弘経寺の日健の抄に云く「伝教大師は山門に迹門の戒壇を建立したまうなり。此の外に本門の戒壇とて有る可きなり。富士門徒は是を懐ろ脇指にするなり。駿河国富士山に本門の戒壇立つ可きなり。富士山を天下晴れて大日蓮華山と云うなり」等云云。若し爾らば、富士山に於てこれを建立すべき文理明白なり。
 御書外十六 四十一 に御相承を引いて云く「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり、時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり」等云云。
 
  第六  本門の題目を明かす
 
 夫れ本門の題目とは即ちこれ妙行なり。聖人垂教の本意、衆生入理の要蹊、唯この事に在り。豈池に臨みて魚を観、肯て網を結ばず、粮を裹みて足を束ね、安座して行かざるべけんや。故に宜しく妙行を励むべき者なり。
 当に知るべし、行に始終あり。謂く、信心はこれ唱題の始めなり。唱題はこれ信心の終りなり。これ則ち刹那の始終、一念の因果なり。
 妙楽大師云く「理に依って信を起す。信を行の本と為す」等云云。また云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首」等云云。譬喩を以てこれをいわば、信心は目の如く、唱題は足の如し。目足具足して能く寂光に趣くなり。天台云く「智目行足、清涼池に到る」等云云。
 当体義抄に云く「当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。この一文に三大秘法は了々明々たり、学者見るべし。当に知るべし、心に本尊を信ずれば、本尊即ち我が心に染み、仏界即九界の本因妙なり。口に妙法を唱うれば、我が身即ち本尊に染み、九界即仏界の本果妙なり。境智既に冥合す、色心何ぞ別ならんや。十界互具、百界千如、一念三千、事行の南無妙法蓮華経これなり。
 当流深秘の血脈抄に云く「宗とは所作の究竟なり、受持本因の所作に由って口唱本果の究竟を得」等云云。甚深甚深、口外すべからず。故に本門の題目とは信行具足するなり。何ぞ止に唱題のみならんや。若し他流の輩は口に妙法を唱うと雖も、只これ宝山の空手なり。
 法蓮抄に云く「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し」等云云。何に況んや本迹一致の大僻見、蓮師違背の大罪をや。何ぞ無間を免れん。悲しむべし、悲しむべし。
 
 問う、一致門流に略三意あり。一には、機情昇進に約すれば則ち一往勝劣あり。開迹顕本に約すれば則ち再往一致なり。二には、迹機の所見に約すれば則ち一往勝劣あり。本化の知見に約すれば則ち再往一致なり。三には、二門ありと雖も通じて妙法と名づく。妙法の題号に豈勝劣あらんや。故に諸抄の中に本迹勝劣を判じたまうは、これ一往の傍義なり。只天台過時の迹を破せんが為なり。若し「一一文文是れ真仏」等、「妙法蓮華経の五字は一部八巻の肝心」(取意)等と判じたまうは、再往の正義、これ「予が読む所の迹」の意に由るなり云云。この義は如何。
 答う、開迹顕本に約する時にも仍勝劣あり。故に十法界抄に云く「若し本門顕れ已りぬれば迹門の仏因は即ち本門の仏果なるが故に天月水月本有の法と成りて本迹倶に三世常住と顕るるなり」云云。
 既に「天月水月」という、豈体内の本迹勝劣は宛然なるに非ずや。例せば体内の権実に仍勝劣あるが如し。何ぞ本迹一致といわんや。また本化・迹機の所見は異なりと雖も、本化の知見に仍勝劣あり。故に妙楽大師、記の九本 二 に云く「然るに本弟子は元より近迹を知る。今の弟子は猶遠本に迷う」等云云。文の意は、本化の菩薩は但遠本を知るのみに非ず、また元より近迹を知れり。故に「然るに本弟子は元より近迹を知る」というなり。今の弟子は近迹を知らざるのみに非ず、猶また遠本に迷う。故に「今の弟子は猶遠本に迷う」というなり。
 
 譬えば、本化の智人は但天月を知るのみに非ず、また元より水月をも知れり。迹機の●猴は水月を知らざるのみに非ず、猶天月を知らざるが如し。故に知んぬ、迹機は仍体外の本迹に闇きことを。本化は尚体内の本迹に明らかなり。何ぞ本化の知見、本迹一致といわんや。故に体内・体外、一往・再往、倶に本迹勝劣なり。
 また題号の如き、且く二意あり。一には名通一往、二には義別再往なり。彼等の義の如くんば、只これ名通一往の義なり。義別再往とは本迹の妙法、その義は永く別なり。謂く、迹門は開権顕実の妙法、本門は開迹顕本の妙法なり。具には玄文の如し。義別分明なり。何ぞ一往妙法の名同じきを以て、却って再往本迹一致と為んや。若し名通に執し、強
いて一致といわば、応にこれ一代一致なるべきや。
 
 輔正記の第八に云く「通じて一代を指して倶に妙法と名づく」等云云々。また中阿含第三に云く「舎利子の所説は妙中の妙なり」。金光明経の「甚深の妙法」、般若経の「般若の妙法」、皆これ一致ならんや。妙楽大師の籤二 五十八 に云く「豈是くの如き妙中の妙等の名を以て能く法体を定めんや。是の故に須く名の下の義を以て而して之を簡別すべし」等云云。豈義別再往の実義に非ずや。若し諸抄の中の「一一文文是れ真仏」等は、これ権実相対、一往の所判なり。「妙法蓮華経の五字は一部八巻の肝心」(取意)等とは、またこれ名通一往なり。故に諸抄の中に本迹勝劣を判じて「本門寿量の肝心」等というは、これ再往の実説なり云云。
 今謂く、一致の所立は大僻見なり。勝劣の所立は文義炳然なり。然りと雖も仍宗祖の本意に非ず云云。此に相伝あり。若し当流の意は、今日の迹中所説の本迹二門、通じて名づけて迹と為す。久遠元初の名字の妙法、これを名づけて本と為す。これ則ち内証の寿量品に顕す所の深旨、文底秘沈の甚深の大法なり云云。故に久遠名字の妙法を余行に渡さず、直ちに信行する故に本門の題目と名づくるなり。諸門流の題目と永く別なり。能く能く伝受すべし云云。
 
 第七  三大秘法の証文を明かす
 
 問う、三大秘法の証文は如何。
 答う、その文多しと雖も、且く一文を引いて前の六段を証せん。寿量品に云く「是の好き良薬を、今留めて此に在く」等云云。この文は三大秘法を明かすなり。具に下に弁ずるが如し云云。
 問う、この文を引いて第一段を証する意は如何。
 答う、この文の意は、釈尊の「然るに病者に於て心則ち偏に重し」の本懐、多宝の証明、分身の助舌、皆咸く末法今時の衆生の為なるが故に、末法今時の一切衆生は但三大秘法を信ずべしという経文の元意なり。故にこの文を引いて第一段を証するなり。
 問う、この文を引いて第二段を証する意は如何。
 答う、この文に宗教の五箇また炳然なるが故なり。謂く「是好良薬」の四字は、これ宗教を明かすなり。而も他の毒薬に対して「是好良薬」というが故に、勝劣の義また明らかなり。
 「今留」の二字は、これ時を明かすなり。滅後の中にも別して末法の時を指すなり。「在此」の両字は、これ国を明かすなり。閻浮提の中には別して日本国を指すなり。「汝」の一字は、これ機を明かすなり。三時の衆生の中には、別して末法の衆生を指すなり。御義口伝に云く「今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり」等云云。前の四意を了すれば、教法流布の前後は含みてその中に在り云云。
 
 問う、この文を引いて第三の名義の開合を証する意は如何。
 答う、先ず名義を証するとは、宗祖云く「是好良薬とは寿量品の肝要」等云云。既に寿量品にこれを明かす、故に三箇倶に本門というなり。「肝要」というは、即ち文底秘沈の大法を指す、故に秘法の名を証するなり。
 次に開合の義を証すとは、「是好良薬」の一句は本門の本尊、即ちこれ一大秘法なり。一大秘法というと雖も、自ら三大秘法を含むなり。これ則ち「好き良薬」とは「色香美味、皆悉具足」の故なり。若し色・香・味、皆悉く具足するに非ずんば、何ぞ「好き良薬」と名づくべけんや。故に経に云く「此大良薬、色香美味、皆悉具足」等云云。
 当に知るべし、この「色香美味」即ちこれ三大秘法なり。謂く「色」はこれ本門の戒壇なり。故に天台云く「色は是れ戒に譬う。事相彰顕なり」云云。「香」はこれ本門の本尊、即ち十界互具の大漫荼羅なり。故に天台云く「香は是れ定に譬う。功徳の香、一切に薫ず」等云云。夫れ漫荼羅とは功徳聚集と名づく。今真実の功徳を以て、集めて一処に在る故なり。「美味」はこれ本門の題目なり。故に天台云く「味は是れ慧に譬う。理味をを得るなり」等云云。以信代慧の故に「味」はこれ信に譬うるなり。
 信はこれ唱題の始めなり。始めを挙げて終りを摂す。信行具足、即ち本門の題目なり。宗祖云く「常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」云云。題目豈理味を得るに非ずや。
 また、案じて云く、美はこれ信心の味、これ唱題なり云云。故に知んぬ、「是好良薬」の一句、三大秘法を含在せることを。故にまた「三大秘法総在の御本尊」と名づくる、これなり。
 
 次に開の義を証せば、「是好良薬」は即ちこれ本門の本尊なり。本尊所在の処、豈戒壇に非ずや。故に知んぬ、「今留在此」は本門の戒壇なることを。所修は即ちこれ本尊、能修はこれ題目なり。故に「汝可取服」は本門の題目なり。天台云く「修行を服と名づく」等云云。「取」はこれ信心、「服」はこれ唱題なり云云。
 問う、別して「是好良薬」の一文を引いて第四段の本門の本尊を証する意は如何。
 答う、この一文、人法体一の本尊を説き顕す故なり。謂く、この一文に「色香美味」の三徳を具足するが故なり。経に云く「此大良薬、色香美味」等云云。天台云く「色は是れ般若、香は是れ解脱、味は是れ法身、三法不縦不横なるを秘密の蔵と名づく。教に依って修行すれば此の蔵に入ることを得ん」等云云。
 若しこの法身・般若・解脱の三徳を以て体・宗・用に約する則は、即ち法の本尊を成ず。妙楽云く「体等の三章は只是れ三徳」等云云。当に知るべし、色はこれ般若、即ち妙宗なり。香はこれ解脱、即ち妙用なり。味はこれ法身、即ち妙体なり。秘密の蔵は即ちこれ妙名なり。依教修行は、即ちこれ妙教なり。宗祖云く「是好良薬とは寿量品の肝要たる名体宗用教の南無妙法蓮華経是なり」云云。豈法の本尊に非ずや。
 また若し法身・般若・解脱の三徳を以て三身に約する則は、即ち人の本尊なり。宗祖云く「法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来」等云云。故に知んぬ、色はこれ般若・報身如来、香はこれ解脱・応身如来、味はこれ法身即ち法身如来なることを。これはこれ久遠元初の自受用報身、報中論三の無作三身なり。境はこれ法身、智はこれ報身、境智合う則は必ず慈悲あり。慈悲は即ち応身なり。
 この無作三身とは、御義口伝に云く「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり」云云。秘密の蔵とは無作三身の宝号なり。故に御義口伝に云く「無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」云云。依教修行とは無作三身の所作なり。故に御義口伝に云く「無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり」等云云。故にこの文に、人の本尊またこれ分明なり。当に知るべし、三章三身異なりと雖も、其の体は只これ三徳なり。豈人法体一に非ずや。譬えば耆婆の造る所の薬童の如し。秘すべし、秘すべし云云。
 問う、別して「今留在此」の文を引いて、第五段の本門の戒壇を証する意は如何。
 答う、この文はこれ本尊所在の処を明かす故なり。本門の本尊所在の処、豈本門の戒壇に非ずや。
 
 問う、別して「汝可取服」の文を引いて、第六段の本門の題目を証する意は如何。
 答う、この文に信行具足して、本門の題目分明なるが故なり。所謂「取」はこれ信心、「服」はこれ唱題なり。凡そ「取」というは手を以てこれを取る、故に信心なり。大論の第一に云く「経の中に信を説いて手と為す。手有って宝山に入れば自在に能く取るが如し」文。当に知るべし、取はこれ用なり。手はこれ体なり。今、用を挙げて体を顕す、故に取の字はこれ信心なり。いう所の「服」とは、口を以てこれを服す。故にこれ唱題なり。前に准じて知るべし。天台云く「修行を服と名づく」云云。然れば則ち本門の題目、甚だ以て分明なり。
 今、且く一文を引いて、前の六段を証し畢んぬ。其の外の諸文、予が依義判文抄の如し。
 
一、問うて云く正像に何ぞ弘通せざるや文。(三三六ページ)
  この下は次に正像未弘の所以を明かすなり。
 
一、小乗・権大乗等文。(同ページ)
  正像はこれ小乗・権大乗・迹門の法門、物を益する時なり。譬えば、夜はこれ星月の光を現ずる時なるが如し。然るに三大秘法の日輪、若し正像に出現せば、彼の星月の光は一時に滅尽すべきなり。故に正像には未だこれを弘めざるなり。故に上野抄三十二に云く「正法・像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり」等云云。
  問う、迹門の法門とは但前の十四品を指すと為せんや。
  答う、或は爾るべきなり。然るに当抄の大意に准ずるに、これは天台弘通の法華一部の広略二門を指すべきなり。太田抄に云く「南岳・天台等は乃至小大・権実・迹本二門・化導の始終・師弟の遠近等悉く之を宣べ乃至然りと雖も広略を以て本と為して未だ肝要に能わず」等云云。
 
一、問うて云く仏法を滅尽する等文。(同ページ)
  この下は末法弘通の所以を明かすなり。
 
一、小大・権実・顕密等文。(同ページ)
  啓蒙に云く「勿論、爾前当分の大小・権実等なるべし」云云。今謂く、この文は豈次上の文に異なべけんや。故に知んぬ、大は即ち権大乗、小は即ち小乗、権は即ち爾前、実は即ち迹門の法門なることを。顕は即ち他経、密は即ち今経なり。これ則ち「般若は秘密に非ず、法華は是れ秘密」の意なり。
  問う、若し爾らば権実顕密、何の異あらんや。
  答う、文意は所破を含するが故なり。太田抄に法相・三論・華厳・真言の諸師を破して云く「経に於ては大小・権実の旨を弁えず顕・密両道の趣を知らず」等云云。
  問う、実に密経若し法華を指さば、何ぞ「有教無得道」といわんや。
  答う、天台弘通の法華経は、今末法に至っては去年の暦の如し。高橋入道御返事三十五 四十四 に云く「末法に入りなば乃至小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず乃至其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」云云。即ちこの文の意なり。
  当に知るべし、今、大法弘通の所以を明かすに且く二意あり。一には有教無益の故に。二には不軽の例に由る故に云云。文意は謂く、縦令法の侭に弘通有れども、末法に至っては小大・権実・顕密、共に教は有れども得道なし。この故に三大秘法を弘通するなり。何に況や弘法・慈覚・法然已来、一閻浮提謗法と為り畢んぬ。逆縁の為には但妙法五字に限る。不軽に例するが故に三大秘法を弘通するなり等云云。
 
一、但妙法蓮華経の五字に限る文。(三三六ページ)
  問う、啓蒙に云く「初めに総じて三大秘法を示す。二に『問うて曰く正像』の下には、略して題目の五字に就いて弁ず」云云。この義は如何。
  答う、これ開会を知らざる故なり。所修は即ち本門の本尊なり。能修は本門の題目なり。所住は本門の戒壇なり。是くの如き三事総在するは、別して本門の本尊なり。
  顕仏未来記に云く「本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんんか、例せば不軽菩薩の如し」(取意)等。即ち今の文に同ずるなり。これを思え、これを思え。
 
一、我が門弟は順縁なり日本国は逆縁なり文。(同ページ)
  当に知るべし、弘通の始めは一国皆逆縁なり。然るに妙法漸々に流布すれば、逆縁漸々に減じて、順縁漸々に増するなり。而る後、終には逆縁都て尽き、一国皆順縁と為るなり。
  初めに「一閻浮提皆謗法と為り畢んぬ」というは、これ弘通の始めなり。今「門弟は逆縁なり」というは、これその中間なり。下に「一四天・四海一同に妙法」とは、これその終りなり云云。
  問う、逆縁の為には但妙法五字に限り、門弟の順縁には一部を用うべきや。
  答う、この義爾らず。弘通の始めは一国皆これ謗法なり。故に正しく逆縁の為には但妙法五字を弘むるなり。而してその中に信ずる者は順縁と成るなり。
  初心成仏抄に云く「当世の人・何となくても法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑なき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」云云。この文の意なり。況やまた有教無益の時なるをや。順縁と雖も妙法五字に限るべきなり。
  太田抄に云く「小乗経・大乗経・並びに法華経は文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず」云云。上野抄三十二に云く「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」云云。此等の諸文、これを思い合すべし。
 
一、疑って云く何ぞ広略を捨て要を取るや文。(三三六ページ)
  この下は次に但要を取る所以を明かすなり。この文にまた二。初めに汎く取捨の例を引き、次に「日蓮」の下は正しく要を取るを明かす、また二。初めに正しく明かし、次に「仏既に」の下は結要付嘱を引いて当世に誡示す。
 
一、千巻の大論を百巻と成せり文。(同ページ)
  大論一百 二十六。
 
一、日蓮は広略を捨てて等文。
  汎く「捨」の字に三義あり。一には廃捨の義。経に「正直捨方便」といい、妙楽の「捨は是れ廃の別名」という等はこれなり。二には捨置の義。置いて取らざるを捨と名づくるなり。例せば捨置答の如し。三には施捨の義。財物を他に施すを捨と名づくるなり。例せば檀捨の如きこれなり。今の文はこれ捨置の義なり。諌迷七 十六、金八 十三、中正九 六。
 
一、上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり文。(同ページ)
  一義に云く、これ則ち「如是我聞」の上の妙法蓮華経の五字なり。これ一部八巻二十八品の肝心なるが故なり。一義に云く、本尊の南無妙法蓮華経の所住は、一往は迹中の旅宿に在りと雖も、終には迹中の旅宿を去って久遠本果の本処に還るなり。故に天台云く「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり。三世諸仏の証得したまう所なり」云云。妙楽云く「迹中に説くと雖も、功を推すに在る有り。故に本地と云う」等云云。今謂く、当流の意は久遠本果も仍これ旅宿なり。故に終に久遠元初の本因・名字の本処に還るなり。故に本尊の妙法蓮華経は久遠本因・名字の妙法なり。これを「上行菩薩所伝の妙法蓮華経」というなり。諸抄の中に「本門寿量の肝心」と判じたまうはこれなり。
 
一、九包淵等文。(同ページ)
  正しく明かす中にまた二。初めに正しく明かし、次に「九包淵」の下は例を引く。
 
一、五字を授与せんこと。(同ページ)
  点の如し。板点は不可なり。
 
一、疑って曰く今世等文。(三三六ページ)
  この下は三に広宣流布の瑞相を明かすなり。この流布の先相を明かすにまた三。初めに必ずあることの理を明かし、次に「問うて曰く若し爾れば」の下は正しく明かし、三に「我が門弟は之を見よ」の下は結勧。
 
一、天台云く等文。(同ページ)
  玄六 二十一 に云云。これ魏の葛稚川が撰する所の西京雑記下巻第五章に出ず云云。語園下 十三。
 
一、問うて云く若し爾れば等文。(同ページ)
  この下は正しく明かす、また三。初めに正しく現事を示し、次に「問うて曰く此等」の下はその興起を明かし、三に「問うて曰く弗舎」の下は料簡。
 
一、問うて曰く此等文。(三三七ページ)
  この下は次にその興起を明かすなり。第五 二十四 已下を往いて見よ。
 
一、法華経に云く・涅槃経に云く文。(同ページ)
  安国論七紙。
 
一、此の国に悪比丘等有って乃至聖人を失う世なり文。(同ページ)
  この故に諸難起るなり云云。
  問う、前に天変地夭を以て大法流布の先相と為す。今、国土の謗法に依って天変地夭起るという、これ相違するに似たり。
  答う、国土の謗法に由り天地瞋を成す。この故に天変地夭起るなり。この天変地夭もまた即ち大法流布の先相と成るなり。具には外十六 二十 の如し。
 
一、正像乃至其の科尚浅きか文。(同ページ)
  問う、正像二時の悪王等、仏法を滅失す。その科何ぞ浅きや。
  答う、此に三の意あり。一には内外異るが故に。謂く彼の悪王等はこれ外敵なり。故に実には仏法を滅失する能わざるなり。故にその科は尚浅きなり。今末法の悪王等はこれ内敵なり。師子身中の虫の如く、須弥自生の火の如し。能く仏法を滅する故に、其の科重きなり。当抄の文は即ちこの意なり。また第七 四 に云く「仏法の・かたうど・なるようにて仏法を失なう法師を扶くと見えて正法の行者を失う乃至天も下劣の天人は知らずもやあるらん」云云。
  二には権実異るが故に。謂く、彼の悪王等はこれ権経・権仏に敵を成す。故にその科浅し。今末法は皆実経実仏に敵を成す。故にその科重きなり。
  三には多少異るが故に。謂く、彼の悪王等は只その王一人の悪行なり。今末法は上下一同の悪心なり。妙法尼抄十三 四十九 に云く「彼の王一人の悪心大臣以下は心より起る事なし、又権仏と権経との敵なり僧も法華経の行者にあらず、是は一向に法華経の敵・王・一人のみならず一国の智人並びに万民等の心より起れる大悪心なり」云云。
 
一、目を瞋らして鏡に向え等文。(三三七ページ)
  目を瞋らして鏡に向えば、却って像の瞋は人にあり。当に知るべし、諸天は昼夜に行者の頂に在り。故に瞋を起して行者に向えば、即ち目を瞋らして天に向うなり。故に却って天の瞋は人にあるなり。
 
一、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か文。(三三八ページ)