四信五品抄
解説
真蹟十三紙完、千葉県中山法華経寺蔵。『日目本』、静岡県大石寺蔵(従来は『日興本』とされてきたが、字体から日目筆と判断する。また『富士大石寺案内』堀日亨編にても日目筆としている)。『日常目録』『日祐目録』『日朝本目録』『平賀本目録』『刊本録内』等所収。日全の『法華問答正義抄』第十八・第二十一・第二十二に引文される。/ 本書は『富士一跡門徒存知事』に「法門不審条々ニ付テ御返事也。」とあるように、富木常忍の「不審状」(『日宗全』1巻180頁)に答えたものとされている。同状は三月二十三日の日付を有し、「弁公御房」を通じての披露状となっている。その内容は、まず齢六十に及び残り少ない余命を考えると、身延にて師匠に親近給仕し、法門を聴聞して罪障消滅したいが、その是非に付き賢察を仰ぎたいと述べられ、次いで@仏法の極理を知るにはいかなる修行をすればよいかA読経の際の心得として、肉食後・五辛食後・不浄時は読経をすべきか否か、その時は法衣を着すべきか否か、また常時読経をするよりも、月に一度精進潔斎をして行うべきか、との具体的な質問がなされている。両書の日付や「四信五品抄」の内容からして、『富士一跡門徒存知事』の見解は妥当と思われる。さて、本書の内容は、@戒についてA唱題の功徳についてB仏法と王法の関係について、の三項にわけて述べられている。/ 第一の戒について。まず、世間の学者が『法華経』を修行するには戒定恵の三学は欠けてはならぬとするのは間違いであることが、『法華経』の本迹流通分、ことに『分別功徳品』の四信五品より説き起こされる。すなわち四信五品の中の、在世の四信の初め一念信解と滅後の五品の初め初随喜品は、一念三千の宝篋であり諸仏の出門であることが示される。そしてこの二つは六即に配せば名字即位に当たるのであり、名字即の行人は三学の内戒定の二法を制止して、恵の一分に限るべきである。またその恵すら適わぬ者は信によって恵に代えるのであるとし、信の一字が強調されている。/ 第二に唱題の功徳について。では名字即位にある末代の法華経の行者は具体的に何を制止し何を修行するかとの問が設けられ、六波羅蜜中布施・持戒等の五度を制止し、唱題によって以信代恵することが肝要であるとし、初心の行者が一分の解も無く題目を唱えたとしても、自然にその意を得ることができるとされる。更にその行人の位は「教弥実位弥下」で真実一乗の要法たる妙法を信ずるのであるから、名字即位にありながらその信ずる法の高きによって、四味三教の極位や爾前の円人、具体的には真言等の諸宗権門の行者に超過するのであるから、けして侮ってはならぬと述べられている。/ 最後に第三の仏法と王法との関係について、古来仏法と王法とは一体不離の関係にあり、桓武天皇の世には伝教大師を用いた故に安泰であったが、その後弘法・慈覚・智証の三大師が真言を弘めた故に国は漸々に衰微し、今末法に入って日蓮が彼の邪教真言を破し、『法華経』を弘めて国土の滅亡を止めようとしているのに、国主はこれを用いぬことは悲しむべき事である、と述べられている。なお、本書は文末に余白があるにもかかわらず、日付宛名署名等がみられない。未完のまま富木殿に遣わされたか、これに送り状があったか、要検討。
目 次
/@ 法華経の修行と流通分 /A 一念信解・初随喜と名字即 /B 以信代恵と名字即 /C 善知識と悪友 /D 教弥実位弥下 /E 末代初心の行者の修行方法 /F 五波羅密禁止の釈文 /G 唱題を勧める理由 /H 道理を知らない唱題 /I 唱題の行者の功徳 /J 真言宗の邪法を禁ぜよ/
銭百文を送りくだされ、まことにありがたくお受けしました。
近頃の学者は、一般には皆「仏の在世と滅後には明確な相違があるが、法華を修行しようとする者は、常に必ず戒・定・恵の三学を具足することが必要である。この中の一つを欠いても、修行は成就しない」と理解している。
私もまたこの数年、そのように考えていたところ、釈尊ご一代の聖教全体についてはともかくも、法華経に限ってこの理解を見直してみると、大部事情が異なってきた。法華経は大きく分けて、序分と正宗分と流通分の三つからなるが、序分と正宗分はしばらく置いて流通分についていえば、その経文は専ら末法のことを映し出した鏡であり、非常に大切なことが説かれている。
法華経にはその流通分が二つある。一つは前半十四品の迹門の内、法師品第十已下の五品であり、二つには後半十四品の本門の内、分別功徳品第十七の後半から経末までの十一品半である。
この本迹二門の流通分を合わせると十六品半となり、その中に末法における法華経の修行のあり方が明らかに説かれている。
この流通分だけでなお理解できない場合は、観普賢経や涅槃経等を引き合わせて考えれば、こと足りるだろう。
それらの中で、分別功徳品に説かれている初心者の階位である四信と五品とは、法華経の本門を修行する際の肝要であり、仏の在世と滅後の行者の鏡である。
妙楽大師の文句記に「一念でも信解の心を起こすことは、法華経の本門を修行する人の基本的な位である」とあるように、
仏在世の四信の第一・一念信解と、滅後の五品の第一・初随喜品の二つは、百界千如・一念三千の宝を納める箱であり、十方三世の仏たちが出生された門である。
天台と妙楽の両大師が、この一念信解と初随喜品の位を定めて、三つの解釈を示された。一つは五十二位の最初の十信位で、六即の第四・相似即にあたるというもの。二つめはまだ煩悩を断じていない五品の最初の位で、六即の第三・観行即にあたるというもの。三つめは六即の第二で、法華経を聞いて信心を起こす名字即の位にあたるという解釈である。
摩訶止観の第七にはこの三つの解釈について、「仏の御意を知ることは困難であるが、教えを受ける相手に応じて説かれたことが原因での相違であり、それぞれに真理は含まれているので、あれこれと争う必要はない」と述べられている。
私は、この三つの解釈の中では、最後の名字即の位にあたるという解釈が、最も経文に叶っているのではないかと思う。と言うのは、分別功徳品の経文に仏滅後の五品の第一・初随喜品を説いて、「法華経の寿量品を聞いて、誹謗せずに随喜の心を起こす」とある。もしこの経文が、悟りに間近い相似即や、既に修行の段階に入っている観行即のような上位のことを述べたものだとしたら、「誹謗せずに」という言葉はとても適当であるとは言えないだろう。
寿量品に説かれる医師の譬えの中で、毒薬を飲んで本心を失ってしまった者と失わなかった者とは、共に名字即の位である。また涅槃経の四依品に見える「もしは信ずる者、もしは信じない者、乃至、インドの熙連河の砂の数ほども多くの仏を供養した功徳によって、悪世で正法を誹謗しない者」も名字即の位であることを、よく考えるがよい。
さらに「一念信解」という四文字の中の「信」の一字だけが、四信の初めである一念信解の正体であって、残る「解」の一字はむしろ第二信已後の領分である。そうであるとしたら、理解することがなく、ただ信のある「無解有信」こそが四信の最初の位にあたる。
経文には第二信について「教えを聞いて、そのおおよそを理解する」とあり、文句記の第九には「ただ初信を除く。それは解がないからである」とある。
分別功徳品の次の随喜功徳品では、滅後五品の第一である初随喜品のことを重ねて説明している。すなわち五十展転といって、最初に法を聞いて随喜した者が次々に語り伝えて五十人に至った時、その人が得る功徳はかなり薄いものとなる。
その五十番目の人の位について、二つの解釈がある。ここでは初随喜品は観行即にあたると定めた上で、一つは第五十人目の人はその初随喜=観行即の位であるというもので、もう一つは初随喜=観行即の位の外であり、これはその下の名字即の位にあたるというものである。妙楽大師の「教えが真実であればあるほど、修行する人の位は低くなる」という釈文に随えば、これも名字即の位ということになろうか。
法華経以前に説かれた諸経においては、蔵・通・別の三教よりも円教は下根の衆生を救済し、その法華経以前の円教よりも法華経は下根の衆生を救済し、さらに法華経の中においては、迹門よりは本門のほうが下根の衆生を成仏に導く。「教えが真実であればあるほど、修行する人の位は低くなる」という言葉は、心に止めて、よくよく考えるべきである。
問うていう、最初の問題にかえって、末法時代に法華経を修行しようとする初心の行者は、必ず円教の戒・定・恵の三学を実践しなくてはならないのであろうか。答えていう、これは大事なことなので、経文を引き合わせて熟考し、その結果を貴方にお送りする。
結論からいえば、仏は滅後の五品位の内、初随喜品と第二品・第三品の者には、戒律と禅定の二学を禁じて、もっぱら智恵の一学に限って実践せよと命じられている。
またその智恵の一学を実践できない者には、信心をもって智恵に代えることを示して、最終的には信の一字を最も大切なものとされた。したがって不信は一闡提と謗法の原因であり、また信は智恵の原因であって、それを実践するのは名字即の位である。
天台大師は「相似即の位に進んだ者は、次の世に生まれてもその得たものを忘れることはないが、名字即と観行即の位の場合は、次の世に行くと忘れてしまう者と忘れない者に分かれる。忘れてしまった者も善知識に値えば、前世で得たものを思い出すが、忘れない者が悪友に値えば、せっかく忘れなかったものを失ってしまう」と述べている。
この釈文に照らして考えてみるに、おそらく中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も、祖師である天台・伝教の善知識に背いて、真言宗の善無畏・不空という悪友に近づいたために、その本心を失ってしまったのだろう。
また末代の学者たちは、悪友の恵心が著した往生要集の序文にあざむかれて、法華の本心を失って阿弥陀の権門に入ってしまった。彼らは昔に下された法華大乗の仏種を捨てて、小乗の教えに退いて今日に至った者たちである。
過去の因縁から推測するに、彼らは未来生において無数劫の永きにわたって地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕ちて苦しむだろう。「もし悪友に値えば本心を失う」と言われたとおりである。
問うていう、その証拠は何か。答えていう、摩訶止観の第六に「法華経以前の教えで、修行する人の位が高く説かれているのは、それが方便の教えだからである。法華円教の教えを実践する人の位が低いのは、その教えが真実であることによる」とあり、
これを受けて、弘決の第六には「これは方便の教えと真実の教えを判定したものである。教えが真実であればあるほど修行する人の位は低くなり、教えが方便であればあるほど修行する人の位は高くなるからである」とある。
また、文句記の第九には「修行の位についていえば、観ずる対象が深くなればなるほど、位は低くなることをあらわす」とある。
他宗のことはともかくとして、天台宗の学者たちはどうして「真実であればあるほど修行する人の位は低くなる」という重要な釈文を捨てて、恵心僧都の筆記などを用いるのか。
善無畏・金剛智・不空とか慈覚・智証という真言の諸師については、必ず又の機会に学ぶようにせよ。このことは世界第一の大事である。志ざしのある人は、どうせうとんずるにしても、先づは日蓮のいうことをよく聞いた上でうとんずるがよい。
問うていう、末代における初心の行者は、具体的にどのように修行すればよいのか。答えていう、大乗の菩薩の修行である六波羅密の内、前の五波羅蜜を廃して智恵波羅蜜を取り、その智恵波羅蜜に信を以て代えて、もっぱら南無妙法蓮華経と唱えること、これを一念信解および初随喜の位の修行とするのが、法華経の本意である。
疑っていう、そのような解釈はこれまで聞いたことも見たこともない。非常に驚いて、耳を疑う始末である。どうか明白な証拠の文を引いて、詳しく説明されたい。
答えていう、法華経の分別功徳品には、第二の読誦品について「仏のために塔寺や僧房を造ったり、飲食・衣服・寝具・医薬の四事をもって僧に供養したりしてはならない」とあり、この経文は明らかに初心の行者に布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五波羅蜜の修行を禁止している。
疑っていう、汝が今引いた経文は、ただ仏のための造塔や僧への供養という布施を禁止したものであり、それ以外の持戒等の波羅蜜をも禁止したものではないと考えるが、どうか。答えていう、この経文は最初の布施を挙げて、それ已下の持戒等を省略したものである。
問うていう、どうしてそれを知ることができるか。答えていう、その後の第四の兼行六度品について、経文には「ましてや、人がありてこの経をよく受持し、兼ねて布施や持戒等を修行すれば、その功徳は最勝である」とあり、
これは明らかに初随喜品から第三品までの人には布施・持戒等の五波羅蜜を禁止し、第四品に至って始めて許したものである。後で許したのだから、それ以前の禁止は明らかである。
問うていう、経文に布施等の五波羅蜜の禁止が説かれていることはおおよそ分かったが、論師や人師の註釈の方はどうであろう。答えていう、汝が尋ねる註釈というのは、インドの論師のものか、あるいは中国や日本の人師のものか。
疑いようのない経文をないがしろにして、註釈に証文を求めることは、あたかも本を捨てて末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴ぶのと同じである。
万が一、経文に相違する註釈があれば、経文を捨てて註釈を取ろうとでもいうのか。それはとんでもない心得違いである。しかしながら、今は経文を補強する意味で、求めに応じて註釈の文を示してみよう。
法華文句の第九には「初心の行者の場合、一番恐れなければならないのは、あれこれの縁に取り紛れて、肝心の正しい修行がおろそかになってしまうことである。それゆえ直接かつ一向に法華経を受持することが最上の修行である。雑事を廃止して真理の一行を修行すれば、その利益は広大である」とある。
この釈文の「縁」とは、具体的に示せば五波羅蜜のことである。初心の行者が五波羅密を修行することは、必ずや正業の信の一行を妨げることになる。たとえば小さな船に多くの財物を積み込んで海を渡ろうとしても、重過ぎて財物もろとも沈没してしまうのと同じである。
また「直接かつ一向に法華経を受持する」ということは、実は法華経一部にわたるのではなく、ただ題目の南無妙法蓮華経を受持して、それ以外の文はまじえないことである。法華経一部の読誦でさえも許さないのであるから、ましてや五波羅蜜については言うまでもない。
さらに「雑事を廃止して真理の一行を修行すれば」というのは、持戒等の五波羅密の事を捨てて、題目の理だけを信行するという意味であり、
「その利益は広大である」というのは、初心の行者が南無妙法蓮華経の題目にその他の諸行をまじえると、利益は全く失われてしまうということである。
法華文句の次下には「問う、もし法華経を持つことが第一の戒であるとしたら、どうして経の後文に『また能く戒を持つ者』と説かれているのか。答う、今は初心の者の修行を述べているのである。後文の持戒の勧めは修行が進んだ第五品の位のことであり、後のことを持ち出して初心のことを非難してはならない」とある。
今の学者たちはこの釈文を見ないで、末法時代の愚人の修行も南岳・天台の両大師の修行と同じと思い込んでいる。まったくひどい誤りである。
妙楽大師は、文句の釈文を受けて「問う、もしそうであれば、塔寺を建てたり、仏舎利を供養するという事行を禁止するということは、戒律を持つとか、僧に布施するという事行を禁止することになるのか」といい、
実際に伝教大師は「二百五十の事戒は即座に捨ててしまった」と宣言された。しかも、ただ大師一人に限らず、鑑真の弟子の如宝や道忠、ならびに奈良の七大寺等の僧たちも、みな一緒に戒律を捨て去ってしまった。
また、伝教大師は末法灯明記の中で未来の者を誡めて、「もし末法の世の中に戒を持つ者がいたら、それは怪しむべきことである。たとえば人が多く行きかう市場の中で虎がいるようなもので、誰も信じないだろう」と述べられている。
問う、汝はどうしてみずからの一念に三千の諸法が具足することを観じる摩訶止観の修行を勧めないで、ただ題目ばかりを唱えよというのか。
答えていう、日本という二文字の中には、六十六箇国の人間や家畜・財物などが一つも残らずにすべて納まっている。月支という二文字の中に、どうしてインドの七十箇国の一切が納まっていないことがあろうか。
妙楽大師は文句記の第八に「省略して経文の題名である妙法蓮華経の五字を挙げれば、その中に深く法華経の一部八巻二十八品を納めている」といい、また釈籤の第一には「省略して十界と十如を挙げれば、その中に三千の諸法が漏れなく納まっている」と説かれている。
文殊師利菩薩や阿難尊者は、インドの霊鷲山で説かれた八年間の仏の言葉を書き上げるに際して「妙法蓮華経」と名づけ、一経の初めに「このように私は聞いた」と記された。それゆえ、妙法蓮華経の五字の中には法華経の一部がすべて納まっている。
問う、以上のような深い道理を何も知らない者が、ただ南無妙法蓮華経と唱えるだけで、道理を知る者と同じような功徳が得られるのかどうか。
答う、幼子が母の乳を飲めば、たとえその味が分からなくても、自然に育っていくものである。インドの名医である耆婆が調合する妙薬は、薬学の知識が何もなくても、信じてこれを飲めば重病も治すことができる。水には心はないが能く火を消し、火も物を焼くのに心があるわけではない。竜樹菩薩や天台大師のお考えも同じであるが、これについては又の機会に示そう。
問う、なにゆえに題目の五字の中に万法が含まれているのか。答う、章安大師は玄義の序文について、「おそらく天台大師の序文は経の奥深い教えを著わしたものであり、奥深い教えとは経文の心を述べたものである。経文の心とは妙法蓮華経の五字であり、その中に迹門と本門のすべてが納まっている」といい、妙楽大師は「法華経の文の心である妙法蓮華経の五字を示すことによって、多くの教えが説かれた理由を知ることができる」と述べている。
濁った水に心は無いけれども、月を浮かべると自然と澄んでくる。草木も心を持たないが、雨を得ていつしか花を咲かせる。
妙法蓮華経の五字は法華経の文字でもなく、また単なるその意味でもない。ひとえに法華経一部の元旨である。
したがって、初心の行者はその道理を知らなくても、信じて唱えさえすれば、おのずから法華経の真意に叶うのである。
問う、汝の弟子は、何らの理解も得ないでただ一言、南無妙法蓮華経と唱えるだけというが、その位はどうなるのか。
答う、この人の功徳は、ただ法華経以前の諸教で最も位の高い者や、法華以前の円教の人に超えるだけでなく、また真言等の諸宗の元祖である善無畏・智儼・慈恩・吉蔵・道宣・達摩・善導等よりも百千万億倍勝れている。
願うことは、日本国中の人びとよ、わが弟子を軽んずることがないように。彼らは、過去世において八十万億劫という長い間、諸仏を供養した大菩薩である。涅槃経の四依品に「過去世に熙連河の砂の数ほどの仏について修行した者、あるいは恒河の砂の数ほどの仏について修行した者であるから、末代悪世においてこの経を誹謗せずに受持できるのである」と説かれるのは、彼らのことではなかろうか。
また彼らは未来においては、法華経の随喜功徳品に、八十年の間に多くの衆生に種々の布施を行じた者よりもはるかに超過すると説かれた五十展転の人の功徳を備えるだろう。たとえていえば、それは産着に包まれた天子のようであり、大竜の赤子のようなものであって、決して軽蔑することがないようにせよ。
妙楽大師は「もし法華経の行者を悩ます者がいれば、その罪によって頭は七つに破れてしまう。行者を供養する者は、仏以上の福を受けるだろう」と誡めている。
インドの優陀延王は賓豆盧尊者を軽蔑したために、他国の王に捕らえられて七年間足を鎖で繋がれ、相模守北条時宗は日蓮を流罪に処したので、百日の内に内乱に値った。
法華経の普賢菩薩品には「もしこの経典を受持する者の欠点などをあばき出す人がいたとしよう。たとえその欠点が事実であってもなくても、その人は現世で癩病に犯されるだろう。乃至、多くの悪く重い病にかかるだろう」とあり、また「この経典を受持する者を軽蔑した者は、長く眼が不自由となるだろう」とあるとおり、
明心と円智は白癩の病気にかかり、道阿弥は眼が不自由になった。国中に悪性の流行病が起きているのは、「もし法華経の行者を悩ます者がいれば、その罪によって頭は七つに破れてしまう」という経文に当たる。この罰から推察するに、わが門人たちが「行者を供養する者は、仏以上の福を受けるだろう」という福徳を得ることは疑いようがない。
人王の第三十代・欽明天皇の御世に、はじめて仏法がわが国に渡来してから、桓武天皇の御世に至るまでの二十代・二百余年の間に南都に六宗が成立したが、その中心が何であるか、いまだはっきりしなかった。
そんな中、延暦年間に一人の聖人がこの国に出現された。かの伝教大師である。
この人はすでに弘まっていた六宗の誤りを追求して、南都の七大寺をその弟子となし、比叡山に延暦寺を建立して本寺と定めて、国中の諸寺を末寺とした。
この時に日本の仏教はただ天台の一門となった。その結果、王法も一つに定まり、それを受けて国情も安定した。その功績は、伝教大師が「仏が法華経已前に説いた諸経と、今説いた無量義経と、まさにこれから説く涅槃経の、已今当の三説よりもこの法華経は勝れている」という法華経の経文により、仏教の勝劣を判定されたことにある。
ところがその後、弘法・慈覚・智証の三大師が中国の祖師が決められたことだといって、大日の三部経は法華経よりも勝れているといい、さらに伝教大師が宗の一字をけずり取って独立を許されなかった真言に、宗の一字を加えて真言宗を立て、それまでの南都六宗と天台宗の七宗を八宗とした。
また三人はそろって勅宣を願い受けて、日本中に真言を弘め、諸寺の法華経の信仰を責め破った。これは明らかに「法華経已前の諸経と今の無量義経とこれからの涅槃経よりも法華経は勝れている」という金言を破らんとしたものであり、それゆえに釈迦・多宝および十方の諸仏の大怨敵となってしまった。
このようなことがあって、その後に仏法は次第にすたれていき、王法も並行しておとろえ、天照大神や正八幡等の古くからの守護の善神も力を失い、大梵天王や帝釈天・四天王も謗法の国を捨て去り、この国は今、滅びようとしている。心ある人ならば、どうしてこの現状を嘆かずにはおられようか。
三大師の邪法の根拠地は、弘法の東寺と慈覚の比叡山総持院と智証の園城寺との三箇所である。この三所の邪法を禁止しなければ、国土が滅亡し、多くの衆生が悪道に堕ちることは、疑いないだろう。
日蓮はおおよそこのように考えた上で、国主にも示したけれども、一向に用いようとはしない。まことに嘆かわしく、残念なことである。
◆ 四信五品抄 〔C0・建治三年四月一〇日・富木常忍〕
青鳧一結送り給び候ひ了んぬ。
近来の学者一同の御存知に云く「在世滅後異なりと雖も、法華を修行するには必ず三学を具す。一を欠きても成ぜず」云云。余又年来此の義を存する処、一代聖教は且く之れを置く。法華経に入りて此の義を見聞するに、序正の二段は且く之れを置く。流通の一段は末法の明鏡、尤も依用と為すべし。而るに流通に於て二有り。一には所謂 迹門の中の法師等の五品、二には所謂 本門の中の分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり。此の十一品半と五品と合はせて十六品半、此の中に末法に入りて法華を修行する相貌分明なり。是れに尚事行かざれば、普賢経・涅槃経等を引き来たりて之れを糾明せんに其の隠れ無きか。
其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要、在世滅後の亀鏡なり。荊渓の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首めなり」云云。其の中に現在の四信の初めの一念信解と滅後の五品の第一の初随喜と、此の二処は一同に百界千如・一念三千の宝篋、十方三世の諸仏の出づる門なり。天台・妙楽の二の聖賢、此の二処の位を定むるに三つの釈有り。所謂 或は相似十信鉄輪の位、或は観行五品の初品の位、未断見思、或は名字即の位なり。止観に其の不定を会して云く「仏意知り難し機に赴きて異説す、此れを借りて開解せば何ぞ労はしく苦ろに諍はん」云云等。
予が意に云く、三釈の中名字即は経文に叶ふか。滅後の五品の初めの一品を説いて云く「而も毀呰せずして随喜の心を起こす」。若し此の文相似と五品とに渡らば、而不毀呰の言は便ならざるか。就中 寿量品の失心・不失心等は皆名字即なり。涅槃経に「若信若不信 乃至煕連」とあり、之れを勘へよ。又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに居し、解の一字は後に奪はるる故なり。若し爾らば無解有信は四信の初位に当たる。経に第二信を説いて云く「略解言趣」云云。記の九に云く「唯初信を除く、解無きが故に」。随って次下の随喜品に至りて上の初随喜を重ねて之れを分明にす。五十人是れ皆展転劣なり。第五十人に至りて二の釈有り。一には謂く、第五十人は初随喜の内なり。二には謂く、第五十人は初随喜の外なりと云ふは名字即なり。「教弥実なれば位弥下し」と云ふ釈は此の意なり。四味三教よりも円教は機を摂し、爾前の円教よりも法華経は機を摂し、迹門よりも本門は機を尽くすなり。「教弥実位弥下」の六字心を留めて案ずべし。
問ふ、末法に入りて初心の行者必ず円の三学を具するや不や。答へて曰く、此の義大事たり。故に経文を勘へ出だして貴辺に送付す。所謂 五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に恵の一分に限る。恵又堪へざれば信を以て恵に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は恵の因、名字即の位なり。天台云く「若し相似の益は隔生すれども忘れず、名字観行の益は隔生すれば即ち忘る。或は忘れざるも有り、忘者も若し知識に値へば宿善還りて生ず。若し悪友に値へば則ち本心を失ふ」云云。恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して、心、無畏・不空等の悪友に遷れり。末代の学者、恵心の往生要集の序に誑惑せられて法華の本心を失ひ、弥陀の権門に入る。退大取小の者なり。過去を以て之れを惟ふに、未来無数劫を経て三悪道に処せん。若し悪友に値へば則ち本心を失ふとは是れなり。
問うて曰く、其の証 如何。答へて曰く、止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり。円教の位下きは真実の説なればなり」。弘決に云く「前教の下は正しく権実を判ず。教弥実なれば位弥下く、教弥権なれば位弥高き故に」。又記の九に云く「位を判ずることをいはば、観境弥深く実位弥下きを顕はす」云云。他宗は且く之れを置く、天台一門の学者等、何ぞ実位弥下の釈を閣きて恵心僧都の筆を用ゐるや。畏・智・空と覚・証との事は追って之れを習へ。大事なり大事なり、一閻浮提第一の大事なり。心有らん人は聞いて後に我を外め。
問うて云く、末代初心の行者何物をか制止するや。答へて曰く、檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを、一念信解初随喜の気分と為すなり。是れ則ち此の経の本意なり。疑って云く、此の義未だ見聞せず。心を驚かし耳を迷はす。明らかに証文を引きて請ふ苦ろに之れを示せ。答へて曰く、経に云く「我が為に復塔寺を起て、及び僧坊を作り、四事を以て衆僧を供養することを須ひず」。此の経文は明らかに初心の行者に檀戒等の五度を制止する文なり。疑って云く、汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか。答へて曰く、初を挙げて後を略す。
問うて曰く、何を以て之れを知らん。答へて曰く、次下の第四品の経文に云く「況や復人有りて能く是の経を持ちて兼ねて布施・持戒等を行ぜんをや」云云。経文分明に初・二・三品の人には檀戒等の五度を制止し、第四品に至りて始めて之れを許す。後に許すを以て知んぬ、初めに制することを。
問うて曰く、経文一往相似たり、将又疏釈有りや。答へて曰く、汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か、将又漢土日本の人師の書か。本を捨てて末を尋ね、体を離れて影を求め、源を忘れて流れを貴み、分明なる経文を閣きて論釈を請ひ尋ぬ。本経に相違する末釈有らば、本経を捨てて末釈に付くべきか。然りと雖も好みに随ひて之れを示さん。文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを妨げんことを畏る。直に専ら此の経を持つ即ち上供養なり。事を廃して理を存するは所益弘多なり」。此の釈に縁と云ふは五度なり。初心の者が兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり。譬へば小船に財を積みて海を渡るに財と倶に没するが如し。「直専持此経」と云ふは一経に亘るに非ず。専ら題目を持ちて余文を雑へず、尚一経の読誦だも許さず、何に況や五度をや。「廃事存理」と云ふは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云。「所益弘多」とは初心の者諸行と題目と並べ行ずれば所益全く失ふと云云。文句に云く「問ふ、若し爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり。何が故ぞ復能く戒を持つ者と言ふや。答ふ、此れは初品を明かす、後を以て難を作すべからず」等云云。当世の学者此の釈を見ずして、末代の愚人を以て南岳・天台の二聖に同ず。誤りの中の誤りなり。妙楽重ねて之れを明かして云く「問ふ、若し爾らば、若し事の塔及び色身の骨を須ひずば亦事の戒を持つことを須ひざるべし。乃至、事の僧を供養することを須ひざるや」等云云。伝教大師の云く「二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ」。唯教大師一人に限るに非ず、鑑真の弟子如宝・道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ。又教大師、未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべき」云云。
問ふ、汝何ぞ一念三千の観門を勧進せずして唯題目許りを唱へしむるや。答へて曰く、日本の二字に六十六国の人畜財を摂尽して一も残さず。月氏の両字に豈に七十箇国無からんや。妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」。又云く「略して界如を挙ぐるに具に三千を摂す」。文殊師利菩薩・阿難尊者、三会八年の間の仏語之れを挙げて妙法蓮華経と題し、次下に領解して云く「如是我聞」云云。
問ふ、其の義を知らざる人、唯南無妙法蓮華経と唱へて解義の功徳を具するや不や。答ふ、小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す。耆婆が妙薬誰か弁へて之れを服せん。水心無けれども火を消し、火物を焼く豈に覚りあらんや。竜樹・天台皆此の意なり。重ねて示すべし。
問ふ、何が故ぞ題目に万法を含むや。答ふ、章安云く「蓋し序王とは経の玄意を叙し、玄意は文の心を述す。文の心は迹本に過ぎたるは莫し」。妙楽の云く「法華の文の心を出だして諸教の所以を弁ず」云云。濁水心無けれども月を得て自ら清めり。草木雨を得て豈に覚り有りて花さくならんや。妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意ならくのみ。初心の行者其の心を知らざれども、而も之れを行ずるに自然に意に当たるなり。
問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位 如何。答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・磨・導等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずる事勿れ。進みて過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり。豈に煕連一恒の者に非ずや。退きて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓に纏はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ。妙楽の云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ、供養すること有らん者は福十号に過ぐ」。優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し、相州は日蓮を流罪して百日の内に兵乱に遇へり。経に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出ださん。若しは実にもあれ若しは不実にもあれ、此の人現世に白癩の病を得ん。乃至、諸悪重病あるべし」。又云く「当に世々に眼なかるべし」等云云。明心と円智とは現に白癩を得、道阿弥は無眼の者と成りぬ。国中の疫病は頭破七分なり。罰を以て徳を惟ふに、我が門人等は福過十号疑ひ無き者なり。
夫れ人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りしより以来、桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず。爰に延暦年中に一の聖人有りて此の国に出現せり。所謂 伝教大師是れなり。此の人先より弘通する六宗を糾明し、七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。王法も二に非ず。法定まり国清めり。其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり。其の後、弘法・慈覚・智証の三大師、事を漢土に寄せて大日の三部は法華経に勝ると謂ひ、剰へ教大師の削る所の真言宗の宗の一字之れを副へて八宗と云云。三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し、寺毎に法華経の義を破る。是れ偏に已今当の文を破らんとして釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵と成りぬ。然して後仏法漸く廃れ、王法次第に衰へ、天照太神・正八幡等の久住の守護神は力を失ひ、梵・帝・四天は国を去りて已に亡国と成らんとす。情有らん人誰か傷差ざらんや。所詮 三大師の邪法の興る所は、所謂 東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり。禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と疑ひ無き者か。予粗此の旨を勘へ、国主に示すと雖も敢へて叙用無し。悲しむべし悲しむべし。
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