撰時抄
解説
真蹟一部欠、五箇所分蔵。@静岡県妙法華寺蔵、第一巻二十紙(第一紙・第二紙・第五紙〜第二十二紙)、第二巻二十紙完、第三巻十八紙(第一紙〜十四紙・第十六紙〜第十九紙)、第四巻二十五紙完、第五巻二十四紙完。A京都府立本寺蔵、一巻第四紙。B千葉県妙善寺蔵、第三巻第十五紙三行断簡。C山梨県妙了寺蔵、第三巻第十五紙二行断簡。D山梨県大宝寺蔵、第三巻第十五紙六行断簡。また異本として『日乾目録』に「撰時抄上 五十三紙 此内二紙端一行程切レリ」とあり、また『日遠目録』に「撰時抄上 一」とあり、且つ同抄所収の第五函の末尾に「以上二十冊」とあって、身延山久遠寺に冊子本仕立ての「撰時抄」の上巻が曾存したことが分かる(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』265頁、寺尾英智著)。また、同本を写したと思われる『延山録外』にはその内十紙程が写されており、筆写した日暹には「寛永十一年太才甲戌七月二日始之」の識語を持つ本抄注釈書『撰時抄上文集私抄』があり、そこに「(当山)御抄唯有上巻初十紙計」とある由で、この時点では四十三紙余りは流出していることがわかる(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』269頁・寺尾英智)。写本は『日興本』が末尾七紙北山本門寺蔵。同じく一紙(字体行数等から北山本門蔵本と同一と思われ、細かな出入りはあるものの現妙法華寺本「撰時抄」の写本か転写本と思われる。『定本』1054頁に相当)静岡県富士市黒田大泉寺蔵。『伝日法所持本』下巻、静岡県光長寺蔵。『日大本』京都府要法寺蔵。『日常目録』(写本の部)『日祐目録』(写本の部)、『日朝本目録』『平賀本目録』『刊本録内』等所収。日全の『法華問答正義抄』第十五に引文される。/本抄はその題号が示すように、今末法の始めの五百年は白法が隠没し、上行等地涌千界によって『法華経』の要法妙法五字が広宣流布するときであることが示されている。内容的には前後二段に分けることができる。すなわち前段は時について詳述され、今末法の始めの五百年という時に、地涌千界が出現して妙法五字が流布されることが示され、後段はその一大事の秘法の内実を、諸宗との比較から明らかにされ、更に台当異目の立場から本門『寿量品』の題目が示され、それを今日蓮が日本国に建立することが示されている。第一に前段の論旨を示せば、先ず仏法の内実及び流布等の如何を知るには、時を知ることが肝要であり、機根その他はそれに付随するものであることが示される。これは佐前 番号23「唱法華題目抄」から 番号145「法華取要抄」に至るまで、機根を中心にしてきたことと相違している。もっとも「観心本尊抄」以来、末法の始めの五百年に上行菩薩が出現して本門本尊が建立されると宣言された時点で、時を基点として法門が建立されることは必然であったといえるであろう。さて、そこで末法の始めの五百年という「時」における弘教は摂受ではなく、『勧持品』『不軽品』の如く強いて説く折伏を用いるべきことが示される。また、その「時」は『大集経』の第五の五百歳にあたり、白法が隠没し『法華経』の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法が広宣流布する時であるとし、その前兆として天変地夭が起こり、法華経の行者が国主を諫暁しても用いざれば、諸天が隣国に仰せつけて此国を襲い前代未聞の大闘諍が起こり、終には『法華経』を用いることになるであろうと述べられる。更に『法華経』の流布は在世八年と滅後末法の始めの五百年であって(「観心本尊抄」の「在世本門末法之初一同純円也。但彼脱此種也。」を思い合わすべし)、その『法華経』流布の時に生まれあわせたことは大果報であって、正像の大王よりも末法の民・癩人は勝れるとされている。因みに身延本「撰時抄」では「末法に入ても五百年すきなハ、又権機なるべきか。唯像法の後末代の始五百年計こそ純円の機にてハ候へけに候へ。」とあって(『日蓮聖人真蹟の形態と伝来』296頁)、純円の機は「末法の始めの五百年」という考え方に立たれていたことがわかる。そして、末法正機を具体的に示すために三時弘教の次第が順次詳説される。特に注意すべきは像法の天台と伝教との勝劣で、両者は同じく像法の法華経の行者であるが、天台は円定円恵を説いたのに対し伝教は円戒を建立した点において勝れる聖人であるとしている。これは「曾谷入道殿許御書」に既に述べられるところである。しかし、末法に入ればそれらは総て隠没し、南無妙法蓮華経の五字七字が上行菩薩等の地涌千界により広宣流布されるとし、台当異目が示される。第二に後段は前段を受け継ぎ、しからばその天台伝教が未だ弘通せざる最大深秘の正法とは如何との問が設けられる。その答えの前提として「三の大事」とてまず浄土宗・禅宗・真言宗が破折され、次でそれらより最大の悪事として、それらを許す叡山天台宗の破折がなされる。
すなわち慈覚大師は理同事勝をもって『法華経』を下し真言宗の方人となり、安然和尚は『教時諍論』に「真言第一・禅宗第二・法華第三・華厳第四」といったために禅宗が蔓延り、恵心僧都が『往生要集』を著すことによって浄土宗を生むことになったとし、彼らを「伝教大師の師子の身の中の三虫」であるとしている。恵心の破折はこれをもって嚆矢とする。そして法華経の行者たる日蓮は、これらの邪義を道理・証文そして現証において指摘し、不軽菩薩の如く忍難弘教する故に、彼の像法の時代に権大乗の題目(阿弥陀の名目)が広宣流布したように、南無妙法蓮華経の広宣流布も疑いないとの確信が述べられる。具体的にいえば、天変地夭・蒙古襲来はその前兆であり、これは一往は嘆きであるが、その責から逃れるために上下万民が『法華経』に帰依し日蓮に帰依することを思えばかえって喜ぶべきであるとしている。次に「立正安国論」の上申、文永八年九月十二日の逮捕の時、そして文永十一年四月八日の平左衛門との会見、以上を三度の高名といわれ、その時々に示した預言が的中しているのはすべて経による故であり、日本国の上下万民がこれを用いず大難をもって応じ続けるならば、必ず相応の現証が起きるであろうとし、我が門弟はこのことをよく心得て、不軽菩薩の如く身命を賭して随力弘通せよ、しからば必ず諸天の加護を蒙るであろうと激励され本抄は終っている。因みに後段冒頭に天台伝教が弘通せざる最大深秘の正法につき、「問、いかなる秘法ぞ。先名をきき、次に義をきかんとをもう。」との設問があるが、諸宗破折の後に「寿量品の南無妙法蓮華経」とあるぐらいで、明確な答えは示されていない。恐らくそれは直後の(本抄は建治二年に添削されている)建治二年七月の「報恩抄」に示されたものと思われ、その点で両者は姉妹編といえるであろう。
目次
/01 仏法と時 /02 機か時か /03 五箇五百歳と浄土教 /04 南無妙法蓮華経の広宣流布 /05 広宣流布の釈文 /06 正法時代のインドの仏法 /07 像法時代の中国の仏法 /08 像法時代の日本の仏法 /09 末法時代の日本の仏法 /10 日蓮は法華経の行者 /11 正像二時の法華経弘通 /12 菩提心論と不空の誤り /13 像法時代の天台大師の弘通 /14 像法時代の伝教大師の弘通 /15 末法流布の秘法と三宗の邪義 /16 浄土宗の誤り /17 禅宗の誤り /18 真言宗の誤り /19 伝教大師と真言宗 /20 弘法大師の誤り /21 三宗の邪義を総括する /22 慈覚大師の誤り /23 叡山における真言の扱い /24 慈覚大師の夢について /25 真言亡国の現証 /26 世界第一の法華経の行者 /27 災難の原因について /28 三度の高名/29 第二の高名について /30 法華経の行者のありよう /31 不惜身命の弘通 /
釈尊の弟子の日蓮が述べる。
そもそも、仏法を学ぶ方法としては、第一に必ず時を習わなければいけない。
法華経の化城喩品によれば、むかし、大通智勝仏は世に出られても成仏の時を得なかったので、十小劫という長い間、一つのお経も説かれなかった。経文には「禅定に入ったまま十小劫という時間が経過した」とある。また、成仏した後も「仏はその時ではなかったので、説法を請われたけれども黙って坐っておられた」とも説かれている。
今の教主釈尊も、成道されてから四十余年の間は、出世の本懐である法華経を説かれなかった。法華経方便品には「説くべき時が来なかったから」とある。
中国の老子は母の胎内にあること八十年といい、また釈尊の次の仏とされる弥勒菩薩は、兜率天の内院に籠られて、五十六億七千万歳もの間、成道の時を待たれているという。
ホトトギスは春を過ごし夏を待って飛来し、ニワトリは暁を得て鳴くように、鳥でさえ時を間違えることはない。まして、仏法を修行しようとするのに、どうして時を選ばないことがあろうか。
釈尊が寂滅道場ではじめての説法である華厳経を説かれた時には、十方世界から多くの仏たちが来たり現われ、すべての大菩薩たちも集まられ、大梵天王や帝釈天王・四大天王は衣をひるがえし、竜神や八部衆たちは合掌し、凡夫の智恵ある人たちは耳を澄まし、今度あらたに悟りを得た解脱月などの多くの菩薩たちは説法を請われたが、
釈尊は法華経の肝要である二乗作仏と久遠実成の法門はその名前さえも隠し、即身成仏と一念三千の肝心の法門も述べられなかった。
これらの法門を聴聞して利益を得る人びとはいたけれども、時を得なかったので説かれることはなかった。方便品の経文に「説くべき時がまだ至らなかったから」とあるとおりである。
そんな釈尊が霊鷲山で法華経を説かれた時には、世界一の親不孝者の阿闍世王もその説法の座に列なり、生涯に謗法の限りを尽くした悪逆の提婆達多には天王如来の記別を授け、五障の罪障深き八歳の竜女は蛇の身のままで成仏した。
また、それまで決して仏になれないと説かれてきた二乗が迹門で成仏を許されたのは、焼いた種から花が咲き実がなったように、まことに不思議なことである。本門で久遠実成の法門が説かれた際には、それを聞いた人びとは百歳の老人を指して二十五歳の青年の子と言うようなものだと疑った。
法華経の教えに基づく一念三千の法門では、九界の迷いの衆生はそのまま悟りの仏界であり、迷いの衆生と悟りの仏とは互いに具融すると説かれる。この一切衆生の成仏を実現する万法の互具互融の法門を説く法華経の一字は、万宝を降らす如意宝珠であり、経中の一句は諸仏を生み出す種子となる。
釈尊がこのような甚深の法門を説かれたのは、教えを受け入れる人びとの能力の関係ではなく、その教えが説かれる時が来たからである。法華経方便品に「今はまさにその時である。必ず大乗の教えを説く」とあるとおりである。
問うていう、教えを受け入れる能力がないのに大法を聞いた場合、愚かな者はきっと謗って悪道に堕ちるだろうが、これは説く人の罪になるのではないか。
答えていう、人が路を作った場合、その路に迷う者がいれば、それが作った人の罪となろうか。
また良い医師が病人に薬を与えて、病人が嫌って服さないで死んだとしても、それは医師の罪とはいえないだろう。
尋ねていう、けれども法華経第二巻の譬喩品には「智恵なき人の中でこの経を説いてはいけない」とあり、第四巻の法師品には「あちこちでむやみにこの経を人に説き与えないようにせよ」とあり、
第五巻の安楽行品には「この法華経は多くの仏たちの秘蔵の教えであり、諸経の中では最高である。長く守護して、いいかげんに説いてはならない」とある。これらの経文は、受け入れる能力がなければ、決して説いてはいけないという意味ではないのか。どうか。
今、反問していう、同じ法華経の不軽品には「不軽菩薩がすべての人に向かって『あなたがたはみな菩薩の教えを行じて仏になるべき人びとであるから、私は深く尊敬する』といって礼拝讃嘆したところ、
人びとの中には心のよくない者が怒りをなして、『この無智の僧』などと悪口してののしり、また杖や木、瓦や石で打ちすえた」とある。
また勧持品には「数多くの智恵なき者が法華の行者をののしり、また刀や杖をもって迫害する者があるだろう」とある。
これらの経文によれば、悪口やののしりを受け、また打ちすえられながらも法華経を説かれた訳ですが、これは説いた不軽菩薩等の間違いとなるのだろうか。
求めていう、この同じ法華経の中に見える二つの弘経方法には、水と火のような相違がある。どのように心得たらよいのであろうか。答えていう、天台大師は法華文句に「その時々にかなった方法しかない」といい、弟子の章安大師は涅槃経疏に「いずれを取り、いずれを捨てるかは、その時世によって適切な方法を選択すべきであり、一方的な判断をしてはいけない」と述べている。
両大師の解釈は、たとえば人びとが謗るようであれば一旦は説かないでおき、また謗っても敢えて説くこともある。また、たとえば一部の人が信じても多くの人が謗るならば説いてはならないし、多くの人が一同に謗っても強いて説くこともある、という意味である。
釈尊が悟りを開き、引き続いて寂滅道場で華厳経を説かれた時には、法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月などの大菩薩や、梵天・帝釈天・四天王などの、能力のすぐれた凡夫が数多くいたし、
次の鹿野苑で阿含経を説かれた時には、苦行を共にした阿若拘隣などの五人をはじめ、迦葉などの二百五十人、舎利弗などの二百五十人、さらに八万の多くの諸天がいたが、いずれにおいても仏は法華経をお説きにならなかった。次に方等部の諸経を説かれた時には父の浄飯王があまりにも願われたので、
王の宮殿に足を運ばれて観仏三昧経を説かれ、また母の摩耶夫人のためにl利天に昇って九十日間籠られて摩耶経を説かれた。
自分にとって慈悲ある父母のためにはどんな秘法でも惜しまれるはずはないのに、法華経はついぞ説かれなかった。
要するに、法は聞く人の能力によるのではなく、説くべき時が来なかったので、ついに説かれなかったのである。
問うていう、それでは、どのような時に小乗経や権大乗経を説き、どんな時に法華経を説くべきなのか。
答えていう、下は最も初心の十信から、上は仏の次位の等覚にいたる一切の菩薩方でさえ、時と機とを明らかに知ることはできない。ましてや我われのような凡夫が、どうして時や機を知ることができようか。
求めていう、それでは我われは時と機とを知る術をまったく持たないのであろうか。答えていう、仏の智恵の眼を借りて時と機とを考え、仏の日の光をもって国土を照らして見よ。
問うていう、それはどういう意味か。答えていう、仏の未来記の経文を明鏡として法の説不を考えることである。その仏は大集経の中で月蔵菩薩に対して、未来の時のありさまを次のように説き定められている。
つまり、仏の滅後には五箇の五百歳があり、最初の五百年間は解脱堅固といって、仏の教えがよく守られて、悟りを開く者の多い時代である。次の五百年間は禅定堅固といって、衆生が大乗の教えをよく守り、禅定の修行に励む時代である〈以上で一千年〉。次の五百年は読誦多聞堅固といって、経典の読誦と説法を聞くことに精進する人が多い時代である。次の五百年は多造塔寺堅固といって、仏の利益を得るために多くの仏塔や寺院を造立することが盛んな時代である〈以上で二千年〉。第五の五百年は闘諍堅固といって仏法の中に争いばかりが起こり、白法隠没といって仏法の実義が滅びる時代であると。
この五箇の五百歳、合計二千五百年の仏法の流布について、学者たちの見解はいろいろである。中国浄土教の道綽禅師は、正法一千年・像法一千年の四箇の五百歳の間は、小乗と大乗の教えが盛んであるが、
第五の五百歳の末法に入れば、それまでの教えはみな滅びてしまい、浄土念仏の教えを修行する人だけが生死の苦しみを離れて、極楽浄土に往生することができると言った。
日本の法然は、現在の日本に流布している法華経や華厳経・大日経、多くの小乗経や天台・真言・律などの諸宗は、大集経に正像二千年の間に弘まると予言された教えであって、
末法になれば残らず滅亡してしまう。万が一、その教えを修行する人があったとしても、一人とて生死の迷いを離れることはできない。
八宗の祖の竜樹菩薩の十住毘婆沙論や、中国浄土教の曇鸞法師の浄土論の注釈などに、法華経などの諸大乗経は「修行するのが困難な道である」といい、道綽禅師の安楽集に「まだ一人も成仏した者はいない」といい、善導和尚の往生礼讃に「千人に一人も成仏しない」とある通りである。
末法に入ってこれらの諸大乗経の教えが滅びた後には、必ず浄土の三部経と弥陀念仏の一行だけが最高の教えとして、衆生を救済するのである。
浄土教の祖師たちが、この念仏を修行する人びとはどのような悪人・愚人でも、「十人が十人、百人が百人、すべてが弥陀の極楽浄土に往生することができる」、「ただこの浄土念仏の一行だけが極楽に往生する道である」と説いている通りである。
それゆえ後生の幸いを願う人びとは、比叡山・東寺・園城寺・南都七大寺などの日本国中の山寺への帰依をやめ、それらの山寺に寄進した田畠や郡郷を取り戻して、念仏堂に納めるならば極楽往生は疑いない、南無阿弥陀仏と。このように法然が念仏を勧めたので、国中がこぞって念仏の教えに従ってからすでに五十年あまりの時が経っている。
日蓮がこれらの邪義を破折したことも、すでに古いことになりました。
かの大集経にいう白法隠没という時が、第五の五百歳に当たり、末法の初めの今の世であることは疑いない。
しかし白法隠没の次に弘まるのは、法華経の肝心である南無妙法蓮華経の大白法であって、世界中に八万の国々があり、その国々の八万の王を筆頭にして、いずれもその臣下や万民までが皆、今の日本国の人びとが一人残らず弥陀の名号を称えるように、一同に南無妙法蓮華経と唱えるよう、法華経の題目を広く流布させ申し上げなければならない。
問うていう、その証拠は何か。答えていう、法華経第七巻の薬王品に「私が滅度した後、第五の五百歳においてこの経を広宣流布して、決してこの世界から無くなることがないようにせよ」とある。この経文は大集経の白法隠没の次の時を指して説かれたものであり、法華経の題目が広宣流布することが示されている。
また第六巻の分別功徳品には「悪世末法の時に、よくこの経を持つ者は」云云とあり、第五巻の安楽行品には「後の末世の仏法が滅びようとする時に」等とあり、
第四巻の法師品には「しかもこの法華経は仏の御在世ですら怨みや嫉みが多い。ましてや仏の滅後においては一層激しくなるだろう」とあり、第五巻の安楽行品には「この経には世間の怨みが多く、信仰することは難しい」とある。
第七巻の薬王品には第五の五百歳の闘諍堅固の時を説いて、「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼などの鬼神が力を得て正法の流布を妨げる」とあり、大集経には「仏法の中で戦いや言い争いがおこる」とある。
また法華経の第五巻の勧持品には「悪世の中の僧は」「あるいは大寺院に住して」とあり、「邪悪な鬼神が僧たちの身に入りこんで」云云とある。
これらの経文の意味は次のとおりである。第五の五百歳の時に、邪悪な鬼神がその身に入り込んだ高僧たちが国中に満ちあふれるだろう。その時に一人の智者が現われる。
すると、邪悪な鬼神に魅入られた高僧たちは、国王や臣下をはじめ万民をうまく味方につけて、この一人の智者の悪口をいい、ののしり、杖や木で打ったり、石や瓦を投げつけたり、果ては流罪・死罪にまで行なおうとする。その時に釈迦・多宝および十方の諸仏は地涌の菩薩たちに命じ、菩薩たちはまた梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などに命じて、盛んに天変地異を起こさせるだろう。
もし国主らがこの天地が表した警告を用いない場合は、諸聖は隣国の王に命じてこの国の悪逆の王や僧たちを責められるので、それまでに見たこともない大きな戦乱が起こるだろう。
その時、日月の光をいただくすべての人びとが、あるいは国を大切に思い、あるいは自分の身を大事に考えて、すべての仏や菩薩に祈りを捧げるものの、何の効験も得られない時に、
今まで憎んでいた一人の小僧を信じて、多くの高僧たちや八万の大王たち、そして一切の万民がみな頭を地につけ、手を合わせて南無妙法蓮華経と唱えるに違いない。
それは、法華経の神力品で仏が現わされた十種の大神力の第八番目で、十方世界の衆生がみなこの娑婆世界に向かって、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と大きな声で一同に唱えた姿と同じである。
問うていう、経文は疑いようがないようですが、天台・妙楽・伝教などの先師の予言があるかどうか。
答えていう、汝の疑いは逆である。人師の釈を引いた時にこそ、経論はどうかと疑ってもよいが、今は根本の経文が明らかであれば、人師の釈を尋ねる必要はない。もし人師の釈が経文と違っていたならば、経文を捨てて人師の釈を用いるとでも言うのか。どうか。
彼れがいう、道理はその通りである。しかし、凡夫の習性として、経文は遠い昔に仏がインドで説かれたものであるの対し、釈文はその後に施されたものであり、より親しく思われるので、釈文が明きらかであれば、今一層、信心が増すだろう。
今いう、汝の考えももっともであるから、少しばかり人師の釈を示そう。天台大師は法華文句に「仏滅後の五百歳までも、法華経の教えは衆生に得益の恵みを与えるであろう」といい、妙楽大師は文句記に「末法の初めには目には見えないが、法華経の下種益が実在する」といい、
伝教大師は守護国界章に「仏滅後の正法千年と像法千年が過ぎ去って、末法の世が間近にせまってきた。今こそ、法華経の一仏乗の教えによって衆生が救済される時である。どうしてそのように分かるのか。安楽行品の経文に『末世になって仏法が滅しようとする時である』と見えるからである」といい、
また法華秀句には「時代をいえば、正法が形骸化した像法時代の終わりにして、正法が滅尽する末法時代のはじめ。国土を問えば、中国の東にして靺鞨(まっかつ)国の西にある辺国の日本。人々はどうかといえば、五濁が充満する悪世の中に生をうけ、お互いに闘争を繰り広げている。法華経の法師品に『しかもこの法華経を弘通すると、仏の在世中でさえ怨みや嫉みが多い。ましてや、仏滅後はいうまでもない』と説かれた仏語は、本当に深く重い」といわれている。
そもそも釈尊が世に出でられたのは、この世界が成立して、命ある者が安住している住劫という時期のうち、第九の減劫という時代の中でも人間の寿命が百歳になった時であった。この人の寿命が百歳の時からさらに十歳に減じていく間の時期は、仏の御在世の五十年と、入滅後の正法千年と像法の千年と、末法の万年とに分けられる。
その間において法華経の弘まる時が二度ある。それは釈尊一代五十年の最後の八箇年と、滅後二千年を過ぎた末法のはじめの五百年である。
ところが天台・妙楽・伝教の大師たちは、昔は釈尊が法華経を説かれた時にもお漏れになり、今は滅後に法華経が弘まる末法時代にも生まれ合わせられなかった。ちょうどその中間に出世したことを嘆かれ、同時に末法のはじめを恋い慕われたのが、先の三師のご釈文である。
それは、インドの阿私陀仙人が悉達太子のお生まれになったのを見て、「自分はすでに九十歳を越えてしまい、もはや太子の成道を見ることは叶わない。また死後は無色界に生まれるので、欲界における五十年の仏説を聞くこともできない。さらに仏滅後の正法・像法・末法に生まれて法華経の経文を拝することもできない」と嘆き悲しんだようなものである。
今日の道心ある人びとは、これらを見聞きして悦ばれるがよい。正法および像法の二千年の間に生まれて大王となるよりも、後世の救済を願う人びとは、末法の庶民と生まれて法華経に値うことこそ幸いである。どうしてこれ信ぜずにおられよう。
かの天台宗の座主となって人びとに崇められるよりも、たとえ不治の病人であっても、南無妙法蓮華経と唱える幸せを思うべきである。
中国梁代の武帝が発願文に「たとえ無間地獄に堕ちても成仏を許された提婆達多となることはあっても、決して天上に生まれても成仏できない欝頭羅弗にはなるまい」と述べたのも、その意は同じである。
問うていう、それではインドの竜樹や天親などの論師たちにも、末法時代に法華経の教えが流布するという考えがあったのだろうか。答えていう、竜樹や天親などは内心では知っておられたが、言葉に出しては述べられなかった。
求めていう、どうして述べられなかったのか。答えていう、多くの理由があるが、一には法華経の教えを説いても、それを受け入れる人がいなかったからである。二には法華経の教えを説くべき時期を得なかったからである。三にはかの論師たちは迹仏の弟子だったので、法華経弘通の命令をお受けにならなかったからである。
求めていう、この問題については詳しく聞きたいと思う。答えていう、仏の滅後における教法の流布について言えば、釈尊が入滅された翌日の二月十六日から正法時代が始まる。
最初は迦葉尊者が仏の譲りを受けて二十年、次に阿難尊者が二十年、次に商那和修が二十年、次に優婆崛多が二十年、次に提多迦が二十年、それぞれ仏法を弘通した。この百年間はもっぱら小乗経の教えを弘通して、大乗経はその名前さえ出されなかった。ましてや真実の大乗経である法華経が弘まることはなかった。
次には弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢などの四、五人が出世し、正法時代前半の五百年の間に大乗経の教えを少々説いたものの、特に弘めることはされず、ひとえに小乗経を説かれて終った。以上は大集経の第一の五百年、解脱堅固の時代である。
正法時代後半の五百年間には、馬鳴・迦毘羅・竜樹・迦那提婆・羅ラ羅跋陀羅・僧難提・僧耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・婆修盤陀・摩努羅・鶴勒夜那・師子などの十余人の人びとが、
最初は外道の家から仏教に入って小乗経を究め、後に大乗経の教えに転じて、そこから小乗経を徹底的に否定された。
これらの菩薩たちは大乗の教えをもって小乗の教えを破折されたが、大乗経と法華経との勝劣については明瞭に説かれなかった。
たとえ少し説かれるようなことがあって、本迹の二十妙や二乗作仏・久遠実成、已今当の三説の妙や百界千如・一念三千など、法華経の重要な法門は明かされなかった。
ただ指で天月を指し示す程度にすぎず、また一端をほのめかすように書かれただけで、化道の始終・師弟の遠近・得道の有無などの法華経独自の教えについては、まったく見ることはできない。已上が正法時代の後半五百年で、大集経に禅定堅固と説かれた時代である。
かくして正法一千年の後に仏法はインドに栄えたが、あるいは小乗経をもって大乗経を破したり、あるいは方便の教えをもって真実の教えを隠したりして、仏法は非常に乱れてしまった。その結果、悟りを得る者は段々に少なくなり、仏法を修行しながら還って悪道に堕ちる者が数えきれないほど多くなった。
正法一千年が過ぎ、像法に入って十五年目の後漢の永平十年(六七)、仏教が東に流伝し、はじめて中国に入った。
像法時代前半の五百年の内、はじめの百年余りの間は、中国土着の道教とインド伝来の仏教がその正邪を争ったが、決着はつかなかった。たとえ決着したとしても、仏教を信ずる人の心はそれほどまだ深くなかった。
それゆえに、もし仏教の中にも大乗と小乗、方便教と真実教、顕教と密教などの勝劣があるなどと言おうものなら、仏の教えが混乱して逆に疑問を起こしてしまい、中には道教や儒教などの外典に親しむ者も出てくるだろう。
中国に最初に仏教を伝えた摩騰迦や竺法蘭は、そんな事態を恐れて、自分たちは教えの正邪を知りながらも、大乗と小乗を区別せず、方便と真実の相違に触れることもなかった。
その後、魏・晋・宋・斉・梁の五代の間に、仏教の中で大乗と小乗、権教と実教、顕教と密教の争いがあったが、いずれも決着がつかず、その結果上は皇帝から下は民衆にいたるまで、仏教に対する疑いが少なくなかった。
当時は南三北七といって、江南の三家と江北の七家の十流が分立していた。江南の三家とは、笈法師の三時教、宗愛の四時教、僧柔・恵次・恵観の五時教であり、江北の七家とは、北地師の五時教、菩提流支の半満二教、光統などの四宗教、護身法師などの五宗教、安廩などの六宗教、北地禅師の二種の大乗教および一音教である。これらの人びとがそれぞれの主張に執着して、さまざまに言い争った。
ただし、釈尊一代の聖教の勝劣に関しては、華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三であるという見解においては一致していた。
つまり法華経は、前に説かれた阿含経・般若経・維摩経・思益経などの諸経に比べれば、真実の教えを説いた了義経であるが、後に説かれた涅槃経に比べると、仏が無常の応身なので、法華経はいまだ真理を尽くしていない不了義経であるという意見である。
後漢の仏教伝来から四百余年を経た五百年代に入って、陳・隋の二代にわたって智という一人の小僧が出世した。後には天台智者大師と尊称され、
南三北七の十家の邪義を破して、諸経の勝劣については法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三と判断された。
これは像法時代前半の五百年のことで、大集経にいう第三の読誦多聞堅固の時代に当たった。
像法時代後半の五百年では、唐の第二祖・太宗皇帝の時世に玄奘三蔵がインドに仏教を求め、十九年の間に百三十ヶ国の諸寺に遊学し、多くの学者に会い申し上げて、八万の聖教と十二部経の奥義を習い極めたが、その中に二つのすぐれた宗旨があった。それは法相宗と三論宗である。
この二宗の内、特に遠くはインドの弥勒菩薩・無著菩薩より伝わる法相大乗宗を、玄奘三蔵は近く那蘭陀寺の戒賢論師に学んで中国に帰り、これを太宗皇帝に授けられた。
この法相宗の主張によれば、仏教は人びとの能力に応じて説くべきである。よって仏の教えは一つであり、平等に一切衆生を成仏に導くという一乗教を受け入れる機のためには、衆生を能力によって声聞・縁覚・菩薩の三種に分ける三乗教は一仏乗に導くための方便であり、一乗教こそ真実であると説くのであり、法華経などが該当する。これに対して、三乗教を受け入れる衆生のためには、三乗教が真実であって一乗教は方便であると説くのであり、解深密経や勝鬘経などが該当する。それを天台大師などはこのような仏の意趣を知らないで、三乗方便一乗真実のみを主張している、という。
しかるに太宗という皇帝は賢王であって、単にその名が天下に知られていただけでなく、上古の三皇五帝よりも徳行がすぐれているとの評判が世界中に鳴り響いていた。また、中国全土を掌握した上に、西は高昌から東は高麗にいたるまでの一千八百余国を平定して、その威を国の内外に振るっていた。玄奘はそれほどの賢王の帰依を一身に集めていたので、
当時の天台宗の学者で、玄奘に対抗して宗義を争う人は誰一人もいなかった。その結果、法華経の真実の教えは中国の人びとから忘れられてしまった。
また太宗の子の高宗、およびその高宗の継母である則天皇后の時代に、華厳宗に法蔵法師という学者がいた。
法相宗が天台宗を圧倒するさまを見て、以前に天台大師によって方便の教えと斥けられた華厳経を取り出して、諸経の勝劣を華厳経第一・法華経第二・涅槃経第三と主張した。
太宗から四代目の玄宗皇帝の治世の開元四年にインドから善無畏三蔵が大日経と蘇悉地経を将来し、同八年には金剛智三蔵と不空三蔵が金剛頂経を将来して、この真言三部経に拠って中国に真言宗を弘めた。
この宗では一切経を二つに分ける。一つは釈尊が説いた顕教で、華厳経や法華経などをいう。もう一つは大日如来が説いた密教で、大日経などをいう。
法華経は顕教の中では第一であるが、密教に比べれば、身口意の三密の内、意密に当たる実相の極理はほぼ同じであるものの、身密の印契と口密の真言の二密が欠落している。それゆえ、大日経のように身口意の三密を具備せず即身成仏が実現しないので、真実の教えとはいえない、と主張する。
以上のように、法相・華厳・真言の三宗がこぞって天台法華宗を批判したけれでも、当時の天台宗には天台大師ほどの智者がいなかったと見えて、内心では彼らの主張は誤りであると思いながらも、
天台大師のように天下の公場において対論し、正邪を決することがなかったので、上は国王大臣から下は万民にいたるまで、一様に仏法の正邪に迷い、成仏の道も途絶えてしまった。これが像法時代後半の五百年の内、前二百余年のありさまであった。
像法時代に入って四百年余りが経ち、百済国より一切経および教主釈尊の木像と僧尼などが将来されて、仏教が初めて日本国に伝えられた。中国の梁代の末、陳代の初めに当たり、本朝では神武天皇から数えて第三十代の欽明天皇の治世のことである。
欽明天皇の御子の用明天皇に太子があり、上宮王子あるいは聖徳太子と称して、仏法を信じてこれを弘められた上に、法華経・維摩経・勝鬘経の三経を鎮護国家の法と定められた。
その後、第三十七代・孝徳天皇の御代に観勒僧正が百済から三論宗と成実宗を伝え、道昭法師が中国から法相宗と倶舎宗を伝えた。
第四十四代・元正天皇の御代には善無畏三蔵がインドから大日経を伝えたが、弘めることなく中国へ帰ってしまった。
次の第四十五代・聖武天皇の治世には審祥大徳が新羅国より華厳宗を伝え、良弁僧正と聖武天皇に授け申し上げて、東大寺の大仏を造立された。
また同じ治世に中国の鑑真和尚が天台宗と律宗を伝え、その内、律宗は東大寺に小乗の戒壇を建立して弘めたけれども、天台法華宗のことはその名前さえも出すことなく入滅されてしまった。
その後、像法時代に入って八百年が経ち、第五十代・桓武天皇の時に最澄という小僧が出現して、後に伝教大師と称された。
最初、行表僧正らについて三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の南都六宗や禅宗等の教えを学ばれたが、十九歳の時に思うところがあって、後に比叡山延暦寺と改称する国昌寺を建立された。それから同寺に籠もって南都六宗が依拠する経論と、各々の宗の学者たちの注釈とを照合して見たところ、
両者の間に矛盾することが多い上に、学者たちの注釈の中には間違ったものがあふれていて、もしこれをそのまま信受する人がいれば、みな謗法の罪によって三悪道に堕ちるだろうとお考えになった。
また、それぞれの学者たちがみな自分こそは法華経の実義を悟ったと誇っているものの、いずれも嘘であることに気づかれ、
もしこのことを口にすれば諍いが起こるだろうし、黙っていれば「仏法を破る者を見たら強く責めよ」と涅槃経に説かれた仏の誡めに背くことになると思い悩まれたが、最後に仏の誡めを尊重して桓武天皇に奏上されたところ、天皇は大いに驚かれ、早速南都六宗の学者と対論をさせなされた。
六宗七寺の学者たちのおごった心の旗は山のように高く挙げられ、邪悪な心は毒蛇のようにずる賢かったが、所詮敵うことはなく、ついに桓武天皇の御前で論伏されて、一同に伝教大師の弟子となった。
ちょうど、中国の南三北七の学者たちが陳王の御前で天台大師に言いこめられて御弟子となったのと同じである。ただし、天台大師の場合は法華経の修行に必要な円教の戒・定・恵の三学の内、戒学は欠けていた。
伝教大師はその上に、天台大師が責められなかった小乗の別受戒を破折して、梵網経に基づく大乗の別受戒を南都六宗の八人の大徳に授けられ、また比叡山に法華円頓の大戒壇を建立したので、
延暦寺の円頓の別受戒は日本第一であるのみならず、仏の滅後一千八百余年の間、インド・中国および世界中にもいまだなかった霊鷲山で説かれた法華経に基づく大戒であり、それが日本の国において初めて宣布されたのである。
よって、その功績からいえば、伝教大師はインドの竜樹や天親にも超え、中国の天台や妙楽にも勝れておられる聖人である。
今の世の東寺・園城寺・南都七大寺、または日本諸国にいる八宗・浄土宗・禅宗・律宗などの僧たちの、誰が伝教大師の円頓戒に背くことができようか。
かの中国の僧たちは、円の三学の中の定学と恵学については天台大師の弟子になったようだが、円頓戒を一同に授ける戒壇は中国には建てられなかったので、戒学においては天台の弟子にならない者もあっただろう。
そこへいくと、この日本の国において伝教大師の弟子でない者は、文字どおり外道であり、悪人である。
ただし、中国と日本における天台宗と真言宗との勝劣については、伝教大師は心中では承知しておられたものの、南都六宗とのように天皇の御前で対論して勝敗を決着することがなく、そのためであろうか、
伝教大師亡き後は真言宗が力を得て、東寺・七大寺・園城寺などの諸寺の人びとをはじめ、上は天皇から下は庶民にいたるまで、日本国全体がみな真言宗は天台宗より勝れていると思うようになった。
それゆえに天台法華宗が本来のすがたを発揮したのは、ただ伝教大師の時ばかりであった。この伝教大師の時は像法の末で、大集経に多造塔寺堅固と説かれる第四の五百歳の時に当たり、まだ「仏法の中において言い争いがさかんとなり、正法が滅びる」という第五の五百歳の末法の時には至っていない。
今はすでに末法に入って二百年余りが経て、大集経の「仏法の中において言い争いがさかんに起こり、正法が滅びる」という時に当たっている。もし仏の未来記が真実であるならば、必ずこの世界に戦乱がさかんに起こるべき時である。
聞くところによれば、中国の三百六十ヶ国・二百六十余州はすでに蒙古国によって攻め亡ぼされたという。
先に北方の蕃族である金国のために都の開封が攻め落とされ、徽宗・欽宗の二人の皇帝は生け捕りにされて、かの韃靼の地で崩御されてしまった。
徽宗の孫の高宗皇帝は田舎の臨安府の行在所(あんざいしょ)に逃げ落ちられたが、その後はついに都へ帰ることなく、今は蒙古に滅ぼされてしまった。
また高麗の六百余国も新羅・百済などの諸国も同様に大蒙古国に攻められ、そのありさまは今度の日本の壱岐・対馬や九州のようである。
これらは大集経に闘諍堅固といわれる戦乱そのものであり、仏の予言は、ちょうど大海の潮が時を間違えることなく満ち干きするように正確である。
このことから考えても、大集経に説かれる白法隠没の時に続いて、法華経の大白法が日本国をはじめ全世界に弘まることを疑うことはできないだろう。
かの大集経は仏説とはいえ、法華経の真実に入るために説かれた方便の教えである。成仏の道は説かれていないので、生死を離れるためには必ず法華真実の教えに依る必要があるが、地獄から人・天までの六道や卵生・胎生・湿生・化生の四生や三世の因果が説かれるさまは、法華経と少しも違わないように見える。
ましてや法華経は、釈尊がみずから方便品で「必ず真実を説く」とおっしゃっているし、多宝仏は宝塔品で「みな真実である」と証言しているし、十方世界の分身諸仏も神力品で広長舌を梵天まで届かせて、その真実を証明している。釈尊は更に舌を色界の頂上にある色究竟天に付けて、言葉に偽りのないことを示された上で、
「第五の五百歳に至ってすべての仏法が滅びた時に、上行菩薩に持たせた妙法蓮華経の五字を、法華経を誹謗する極悪不信の者たちの重病を治癒する良薬とせよ」と、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・竜神たちにおっしゃったが、そのお言葉に万が一も虚妄があろうか。
たとえ大地がひっくり返り、高山が崩れ落ち、春の次に夏が来ないで、太陽が西から東へ進み、月が地上に落ちることがあっても、末法の始めに法華経の要法が弘まると説かれた仏の金言に間違いがあろうはずがない。
そして、これが間違いないならば、闘諍堅固の末法時代に日本の国王以下のすべての者たちが、仏のお使いとして南無妙法蓮華経の題目を弘めようとする者を、あるいはののしり、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打ちすえ、また弟子やつき従う者にまで種々の迫害を加える人びとが、どうして無事でいられましょう。
このように言えば、愚かな者は天下を呪う者と思うであろう。しかし、実は法華経の題目を弘める者は、日本国の一切衆生の父母に他ならない。章安大師は涅槃経疏に「仏法を破壊する者のためにその悪を責めて除くことは、彼れにとっては慈悲ある親の行為に他ならない」と述べている。
よって、日蓮は当代の天皇の父母であり、仏法を破壊する念仏者・禅衆・真言師などの師範であり、主君である。
それを上は天皇から下は庶民にいたるまでみな危害を加えるけれども、どうして日天・月天は彼らの頭上を照らされ、地神は彼らの足を載せられるのであろうか。
むかし提婆達多が釈尊を打ち奉った時には、大地が揺れ動いて火炎が燃え出し、
檀弥羅王が師子尊者の首を切った時には、王の右の手が刀と共に落ちてしまった。
徽宗皇帝は法道三蔵の顔に焼き印を押して江南に配流したところ、半年もたたない内に北方の蕃族である金国に攻められ、かの地で崩御されてしまった。
今、蒙古が日本へ攻めてくるのも、同じように法華経の行者に迫害を加えたことの酬いである。いかにインド全体の兵士を集めて、鉄囲山を城として戦っても防ぎきれるものではない。必ずや日本国の一切衆生は戦禍のうずに巻き込まれるだろう。
果たして日蓮が法華経の行者であるかないかは、眼前の事実によって判断しなければならない。
教主釈尊は法華経第四巻の法師品に「末代悪世に法華経を弘通しようとする者を悪しざまにののしる人は、一劫という長いあいだ仏に敵対する者の罪よりも、百千万億倍も重い」と説かれている。
それを今の日本の国主から万民に至るまで、みな感情のおもむくままに、自分の親の仇や前世からの敵よりも深く憎み、謀反人や人殺しよりも強く責めるけれども、大地が割れて生き身のまま落ち入ったり、雷が当たってその身を裂かないのはどうしてなのか、よく分からない。それとも日蓮が法華経の行者ではないのだろうか。
もしそうだとすれば、これ以上に嘆かわしいことはない。今生では万人から迫害されて一時の安穏も得られず、さらに後生も悪道に堕ちるというのは、何とも情けない限りである。
また日蓮が法華経の行者でなければ、いったい誰が法華経の行者なのか。
法然は「法華経を捨てよ」、善導は「千人の内、一人も悟る者はない」、道綽は「いまだ仏に成った者は一人もいない」とそれぞれ言うが、彼らは法華経の行者でしょうか。
また弘法大師は「法華経は無意味な言論である」と書かれているが、これが法華経の行者の作すところであろうか。
法華経には分別功徳品に「よくこの経を持つ者」とあり、宝塔品に「よくこの経を説く者」と説かれています。この「よく説く」というのはどういうことかと申すと、安楽行品に「数多くの経典の中で最もその上にある」とあるように、大日経・華厳経・涅槃経・般若経などの諸大乗経よりも法華経はすぐれていると強く主張する者こそ、法華経の行者であるという意味です。
これらの経文に拠るかぎり、日本国に仏法が渡ってから七百余年の間、伝教大師と日蓮の二人以外に法華経の行者はいないこととなる。
それなのに、法華経の行者を迫害する者に何の罰もないのはどうもおかしいと思っていたが、法華経の陀羅尼品や安楽行品に「頭が七分にわれる」とか「口がふさがってしまう」とか説かれる現罰がないのも当然で、これらは軽い罰であり、しかもただ一人か二人の身の上のことである。
片や日蓮はこの世界第一の法華経の行者である。それゆえ、この日蓮をそしったり、怨んだりする人に味方したり、守ったりする者が値う大難もまた世界第一であるに違いない。
すなわち、日本国中を揺り動かした正嘉元年八月の大地震や、一天に渡り現れた文永元年七月の大彗星などがその大難である。これらの動かぬ証拠をよく見るがよい。
仏の滅後に仏法を弘める者に迫害を加えたことは多くあったが、このような大難は一度もなかった。
それはすべての衆生に対して南無妙法蓮華経と唱えよと勧める行者が一人もいなかったからである。この日蓮が法華経の題目を弘通する功徳において、世界中に誰が対等に眼を合わせ、肩を並べる者がいるだろうか。
疑っていう、仏滅後一千年の正法時代は、仏の在世に比べれば人びとの能力は劣ったが、後の像法や末法の時代とは比べようもなく勝れていた。どうして正法時代に法華経の教えを用いないことがあろうか。
それゆえ正法一千年の間には、馬鳴・竜樹・提婆・無著などのすぐれた論師たちがインドに出現された。特に、千部の論師といわれた天親菩薩は法華論を造り、法華経が諸経の中の第一であることを述べられた。
真諦三蔵の言い伝えによれば、インドにおいて法華経を弘めた人は五十人に余り、天親はその一人であるという。以上は正法時代のありさまである。
像法時代に入り、その中頃に天台大師が中国に出現して、法華玄義・法華文句・摩訶止観の三大部三十巻を造り、法華経の奥義を究められた。
像法の末には伝教大師が日本に出現して、天台大師が悟られた円頓の恵学と定学の二法を日本国に弘められた上に、円頓の大戒壇を比叡山に建立して、日本国全体を一様に円戒相応の地となしたので、上は天皇から下は万民までが、みな比叡山延暦寺を師と仰ぐようになった。
これらは像法時代において法華経が広く弘まったすがたではないのか。
答えていう、世間の学者は一般に、仏は必ず衆生の能力に応じてその教えを説くというが、しかし決してそうではない。
もし能力のすぐれた人のためには必ず大法を説くというのであれば、どうして仏は初めに成道された時に法華経を説かれなかったのか。また仏滅後でも機根のすぐれている正法時代の前五百年に小乗経ではなく、大乗経が弘通されねばならなかった。
また縁の深い人のために大法が説かれるというならば、父親の浄飯王や母親の摩耶夫人のために観仏三昧経や摩耶経のような権大乗経が説かれるはずがない。
さらに縁のない悪人や正法を誹謗する者に秘法は説かないというのならば、覚徳比丘は多くの戒律を遵守しない者に涅槃経を説くことはなかったであろう。
また不軽菩薩は正法を信じない僧俗の男女に向かってどうして法華経を説かれたのであろうか。このようなことから、人びとの能力に応じて法を説くという世間の学者の考えは、とんでもない間違いであることが分かる。
あらためて問うが、正法時代の竜樹や天親などは、法華経の実義を弘められなかったのか。答えていう、弘められなかった。
問うていう、では、どのような法門を説かれたのか。答えていう、華厳・方等・般若などの権大乗の顕教や大日経などの密教は説かれたが、実大乗たる法華経の法門は説かれなかった。
問うていう、それは何によって知ることができるのか。答えていう、竜樹菩薩が造った論は三十万偈あるといわれるが、それらが残らず中国や日本に伝わった訳ではないので、全体を知ることはできないけれども、中国に伝わった十住毘婆沙論や中論・大智度論などの代表的な著作から、インドに残った論を推測することができる。
疑っていう、インドに残った論の中に、中国に伝わった論よりもすぐれた論はなかったのであろうか。
答えていう、そもそも竜樹菩薩のことは、私たちが勝手にあれこれと言うべきではない。仏は付法蔵経の中で、「私の滅後七百年の時に竜樹菩薩という人が南インドに出現するだろう。その人の本意は中論という論書に述べられている」と予言された。
実際、竜樹菩薩の末流はインドに七十を数え、それぞれの祖の七十人がすべて大論師であるが、みな中論を根本としている。
その四巻二十七品から成る中論の主な教えは「すべての事物は因縁から生じ、そのあり方は同時に空・仮・中の真理にかなっている」という四句の偈である。この四句の偈は華厳経や般若経などに説かれる蔵・通・別・円の四教および空・仮・中の三諦の法門と同じであって、いまだ法華経の開会に基づく円満融通の三諦の法門は述べられていない。
疑っていう、汝のように考える人は、今までにもいたのか。答えていう、天台大師は法華玄義に「中論をもって法華経に比べてはいけない」といい、また摩訶止観には「天親や竜樹は、心の中では法華経の教えを理解していたが、人びとに対してはその時々にかなう教えを弘通した」といい、
妙楽大師は玄義釈籖に「諸経の誤りを破折して真実に帰入させることは、とうてい法華経に及ばない」といい、従義は三大部補注に「竜樹や天親の教えは、いまだ天台大師に及ばない」と述べている。
問うていう、唐代の末期に不空三蔵が一巻の論書を中国に伝えた。その名を菩提心論といい、竜猛菩薩、すなわち竜樹の撰述と伝えられる。日本の弘法大師は「この論は竜樹が作った千部の論の中でも第一に重要な論である」というが、どうであろうか。
答えていう、この論書は全部で一部七丁というきわめて短いものであるが、その中に竜樹の言葉ではない記述が多い。そのために目録にも竜樹の作とも不空の作とも見えて、定まっていない。さらに、これは仏の一代諸経を総括した論ではなく、粗雑な内容も多々見られる。
その第一が、この論の肝心とされる「唯だ真言の法の中において即身成仏が成就する」という文の誤りである。理由は、経文の証拠があり事実の証明もある法華経の即身成仏を否定して、経文の証拠も事実の証明もない真言経に即身成仏を立てたことです。特に「唯だ真言の法の中」という「唯」の一字は誤りの根元である。
およそ考えてみるに、菩提心論は不空三蔵がひそかに作ったものですが、当時の人びとに信用させようとして、竜樹に仮託したものであろう。
そもそも不空三蔵には非常に多くの誤りがある。たとえば、三蔵の訳という法華経の観智儀軌に如来寿量品の仏を阿弥陀仏というのは、明らかな大間違いである。また陀羅尼品を神力品の次に置いたり、属累品を経の最後に移したりと、全くひどいものである。
そうかと思えば、天台の大乗戒を盗んで、代宗皇帝より勅許をいただいて五台山の五寺に戒壇を建立したり、
また真言宗の教相判釈には天台宗の五時八教判を用いるなどと言って、人を惑わすことは限りない。
このようなありさまなので、他の人のものならともかく、不空が訳した経論は信用できない。
おおよそインドから中国へ経論を伝えて翻訳した人は、唐代以前の旧訳と以後の新訳を合わせて百八十六人に及ぶが、ひとり羅什三蔵を除いて、その他の訳者で間違いのない者はいない。中でも不空三蔵は取り立てて誤りが多く、人びとを惑わす心が顕著である。
疑っていう、どうして羅什三蔵一人が正しいとわかるのか。汝は禅宗・念仏宗・真言宗などの七宗を破折するだけでなく、中国・日本に伝わる訳者の翻訳もすべて用いないというのか。
答えていう、これは私の最も大切な秘事である。詳細に問うがよい。ついては今、少しばかり話そう。
羅什三蔵は常々、高座にのぼって次のように言われた。「これまで翻訳された中国のすべての経典を見るに、インドの経本を正しく訳したものは一つもない。どうにかしてこの事を証明しようと思い、
私は一つの大願を立てた。それは身を不浄にするために妻帯し、舌だけを清浄にして、仏法については決して偽りを言わないと誓った。それゆえ、自分が死んだら必ず焼いてみよ。その時にもし舌が不浄の身とともに焼けてしまったならば、それは私が翻訳した経論に間違いがある証拠なので、捨ててしまうがよい」と。
これを聞いた人びとは、上は皇帝より下は万民にいたるまで、どうかして羅什三蔵より後に死にたいものだと願った。
いよいよ羅什三蔵が死去され、火葬に付し申し上げたところ、不浄の身はすべて焼けて灰となった。ただ御舌だけは火の中に残り、青蓮華の上にあって五色の光を放ち、夜は昼のようになり、昼は太陽の光を奪うほどであった。
そのような訳で、他の人が翻訳した経々には間違いがあることが知られ、羅什三蔵の訳された経々、その中でも特に法華経は信用されて、自然と中国全土に弘まったようです。
疑っていう、羅什三蔵以前はそうであろうが、以後の善無畏・不空などはどうなるのか。
答えていう、たとえ羅什三蔵以後であっても、訳者の舌が焼けてしまえば、その翻訳には誤りがあると知るべきである。
したがって日本の国に法相宗が弘通した時、伝教大師は「羅什三蔵の舌は焼けなかったが、法相宗所依の経論を訳した玄奘や慈恩には間違いがあったので、その舌は焼けてしまった」と破折され、これを聞かれた桓武天皇は道理であると思われて、天台法華宗に帰依された。
涅槃経の第三巻の寿命品や第九巻の如来性品等を見申し上げると、そこには仏法がインドから他国へ伝わる時に多くの誤りが生じて、悟りを得る衆生も次第に少なくなると説かれています。
それゆえ、妙楽大師は文句記の九に「誤るも誤らないも、その責任はともに訳者にあって、仏の御意とは関係ない」と述べられています。
今の人びとが経典の教えにしたがってどのように後世を願ったとしても、間違った経文に基づいたのでは仏に成ることはできない。ただし、それはけっして仏の御責任ではない、というのが妙楽大師のご文の意味であります。
仏教を習うには、大乗と小乗、権経と実経、顕教と密教の区別を知る必要があるが、それ以上にまず翻訳に間違いがあるかないか知ることこそが、第一の大事なのです。
疑っていう、正法一千年の間に出世した竜樹・天親などの論師が、内心では法華経の教えが顕教や密教の諸経よりすぐれていることを知っておられながら、外に向かっては宣べないで、ただ方便の大乗経だけを弘通されたことは、必ずしも承伏できないが、言わんとすることは少しはわかったように思います。
像法一千年の中間に、天台大師が中国に現われて法華経の教えを弘められた。大師は法華経の題目である妙法蓮華経の五字の解釈を法華玄義十巻一千枚に説き尽くし、法華文句十巻には経文冒頭の「如是我聞」から末尾の「作礼而去」にいたるまで、一字一句について因縁・約教・本迹・観心の四つの解釈を一千枚に書き尽くされた。
この玄義・文句の二十巻では、諸経を江河に譬え、法華経を大海に譬えて、全世界の仏法は露ひとつも残らず妙法蓮華経の大海に注ぐと述べて、両者の関係を定められた。
またインドの大論師の教えも一点も残すことなく、中国の南三北七の十師の見解も、破すべきは破し、用いるべきは用いて、法華経の教えを宣揚された。
さらに摩訶止観十巻を著わして、釈尊一代五十年に説かれた実践修行を凡夫の一念に取りまとめ、仏界から地獄界にいたる十界の衆生と国土のすべてを三千諸法の中に収め尽くした。
そのようにして説かれた一念三千の観法は、遠くはインドの正法一千年の論師の教えよりもすぐれ、近くは中国の像法一千年の前半五百年に出現した人師たちの解釈にもまさっていた。
それゆえに、三論宗の嘉祥大師吉蔵が南北の一百余人の先達と長者をさそって、天台大師に法華経の講義を請うた状には、「千年に一度聖人が出、五百年に一度賢人が出るという話は、実は今のことである。乃至、賢明にして高徳の南岳大師と天台大師は、昔は観音・薬王の二尊として霊鷲山で身口意の三業に法華経を受持し、今は師弟となって正法を伝えている。
その甘露の教えは中国に止まらず、まさに遠くインドにまで及ぼうとしている。生まれながらの悟りの智恵をもって法華経を講義し、その教えの深奥を極めたことは実に無類である。乃至、今は一百余人の僧とともに智者大師を請じたてまつる」とある。
また終南山の道宣律師は天台大師を称讃して「法華経の義理に明らかなさまは、真昼の日光が深い谷間まで照らし出すようであり、よく大乗の法義を説くさまは、強い風が大空に自在に吹きわたるようである。
たとえ教理に精通する者が数多くあって、大師の講演の巧妙である理由を探り求めて、得尽くすことはできない。乃至、経文を解釈してよくその義理に達し、月を指さして決して指に執着しないように、必要以上に文字に捕らわれず、ついに法華経の真理に帰着している」といい、
華厳宗の法蔵法師も天台大師を讃めて「恵思禅師や智者大師のごときは凡人と異なり、その心はおのずから天地の神秘に通じ、その振る舞いはすでに悟りの位を得た菩薩である。昔、霊鷲山で聞いた釈尊の説法を、今もそのままに記憶されている」と述べている。
さらに真言宗の不空三蔵と含光法師の師弟が、真言宗を捨てて天台大師に帰伏する物語が宋高僧伝にある。それには
「含光が師の不空三蔵と共にインドへ行ったところ、一人の僧が問うていうには、中国には天台の典籍があって、よく仏法の勝劣を判じているというが、それを翻訳してインドに伝えることはできないかと語った」とあるが、これは含光法師が妙楽大師に話されたものである。
妙楽大師はこの話を聞いて、「これはインドの仏法がなくなってしまい、それを周囲の国に求めたものではないか。ただ、この国で天台の教えの価値を正しく知る者が少ないのは、あたかも魯の国の人でありながら、その国の聖人である孔子を知らないようなものである」と宣べている。
インドに天台の玄義・文句・止観の三大部三十巻のようなすぐれた論書があるならば、インドの僧がどうして中国の天台の釈書を求めるだろうか。
これらは像法時代の中国に法華経の真実が顕われて、世界中に流布したすがたではないのか。
答えていう、正法一千年と像法一千年の内の前四百年を合わせた仏滅後一千四百余年の間に、天台大師はそれまでどの論師も弘められなかった釈尊一代の諸経に超過する法華経の円定と円恵を中国に弘められたので、その名は遠くインドにまで聞こえた。
よって、法華経はたしかに広く流布したように見えるが、ただ円頓の戒壇は立てられなかったので、小乗の戒律を大乗法華経の円定・円恵に接いだ形となり、多少の不自然さが残った。たとえば日蝕で太陽が欠け、月蝕で月が欠けたようなものである。
ましてや天台大師が出られた時代は、大集経に説かれる第三の読誦多聞堅固の時に当たり、まだ法華経が広く流布する第五の五百歳ではなかった。
問うていう、伝教大師は日本国の人である。第五十代の桓武天皇の御代に出て、欽明天皇の時から二百余年の間に弘まった六宗の邪義を破折し、天台大師が弘通された円恵と円定を弘められだけでなく、鑑真和尚が立てた日本三箇所の小乗の戒壇を否定して、比叡山に大乗円頓の別受戒を授ける戒壇をみずから建立した。
この大事は釈尊滅後の一千八百年の間のインド・中国・日本をはじめ、全世界第一の不思議な出来事である。
内心の悟りにおいては竜樹や天台などにあるいは劣っているか、あるいは同じ程度であるかも知れない。
けれども、仏法を志す人びとを円戒の一法に統一したことに関しては、竜樹や天親にも超え、南岳や天台にも勝れておられるように見える。
およそ仏滅後一千八百年の間、天台・伝教の二人だけが法華経の行者であられた。
それゆえ、伝教大師は法華秀句に「もし世界最高の須弥山を手にとって無数の他方世界に投げ置いたとしても、それはまだ困難とはいえない。乃至、もし釈尊の滅後、悪い世の中においてこの法華経をよく説くことがあれば、それこそ困難なことである」という見宝塔品の文を引いて、
「浅く劣った教法は持ちやすく、深く勝れた教法は持ちがたいとは釈尊のご判断である。たとえ持ちがたくとも、浅劣な教法を去って深勝な教法を取れというのが、大丈夫たる仏の御心である。そこで天台大師は釈尊に信順し、甚深で持ちがたい法華宗を助けて中国に弘宣し、わが叡山の一家はこの天台大師の法灯を継承して、法華宗を助けて日本国に弘通した」と解釈されている。
これは、この世界が成立して、命ある者が安住する住劫という時期のうち、第九の減劫という時代の中でも人間の寿命が百歳になった時から、如来が世におられた五十年と、その滅後一千八百年との間に、高さ十六万八千由旬、六百六十二万里の金山を、
身長五尺の小身の者が、大きさ一寸か二寸の瓦礫をつかんで一丁二丁ほども投げるように、雀が飛ぶよりも早く、この須弥山世界をとりかこむ鉄囲山の外まで投げる者があったとしても、それよりも末法時代において法華経を仏が説かれたように説く人はきわめて珍しいが、
天台大師や伝教大師だけは、仏が説かれたままに説かれた稀な人である、という意味である。
この二人に比べると、インドの論師たちはまだ法華経の実義にまでは行き着かれなかった。中国でも天台以前の学者たちは、あるいは過ぎたり足りなかったりしたし、
以後の法相宗の慈恩や華厳宗の法蔵・真言宗の善無畏などは東を西といい、天を地というほどひどい誤りの人びとであった。この法華秀句の文は伝教大師の単なる自慢の言葉ではない。
すなわち延暦二十一年正月十九日、高雄寺に桓武天皇がお出ましになり、南都の六宗七大寺の碩学である善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏らの十数人を召して、
最澄法師と対論させなされた時に、碩学たちは一言にもとに説き伏せられ、みな一同に頭を下げ、手を組み合わせて降参した。
三論宗の二蔵・三時・三転法輪の教判や、法相宗の三時教判や五性各別説、華厳宗の四教・五教・根本枝末の教判や六相円融・十玄門の教義なども、みな根本的に破折されてしまい、
あたかも大きな家の棟や梁が折れたようなもので、碩学たちのおごり高ぶって掲げていた旗も倒れてしまった。
時に天皇は非常に驚かれて、その月の二十九日に和気弘世と大伴国道の両名を勅使として、重ねて七大寺・六宗に対して勅宣を下されたので、一同はそれぞれ帰伏状を提出した。その状には
「心を静めて天台大師の法華経の文句および玄義を見るに、全体的に釈尊一代の教法をまとめ、よくその義理を究めていて、通じないところはない。諸宗をはるかに凌駕し、特に法華一乗の道を示して、
非常に深遠な真理が説かれている。これまで南都七大寺の六宗の学者は、このような法門を聞きたこともなく、見たこともなかった。
お陰で三論宗と法相宗との間の永年の争いも、氷が解けるように解決して澄み切った状態となった。ちょうど雲や霧が晴れて、太陽や月や星の光を見るようである。
聖徳太子が仏法を弘通されてから後、二百年余りの間に数多くの経論が講讃され、だれやかれやと教理の優劣を争ったが、その疑問は解決されなかった。その間、この最妙の天台円宗は弘宣されなかったが、それはこの間の衆生が円教の法味を受けるまでに、いまだ至っていなかったからだろうか。
つつしんで考えてみるに、桓武天皇はむかし霊山において如来の付嘱を受けて、深く純円一実の機根を目前に観察され、その結果はじめて法華の教えを興し、六宗の学者も仏教の極理を悟ることができた。
この世界の衆生は今日より後、みな法華経の船に乗って、早々に菩提の彼岸に渡ることができるだろう。
乃至、私・善議らは幸いにも過去の因縁に引かれて、良い巡り合わせを得て、天台の法華経註釈の巧妙な言葉を聞くことができた。もし深い宿縁がなかったならば、どうしてこのようなすぐれた天子の世に生まれ合わせることができただろう」と述べられている。
かの中国の嘉祥等は一百余人と共に天台大師を聖人と定め、今も日本の南都七大寺の二百余人の学者たちは、伝教大師を聖人と称し申し上げた。このように仏の滅後二千余年に及んで、中国と日本に聖人が二人出現したのである。
しかも伝教大師は、天台大師が弘めなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立されたのであるから、これは像法時代の末に法華経が広く流布したすがたではないのか。
答えていう、正法時代の前半五百年に迦葉・阿難等が弘めなかった大法を、後半五百年に馬鳴・竜樹・提婆・天親等が弘通したことは、前に明らかにした通りである。
また像法時代に入って竜樹・天親等の弘め残した大法を天台大師が弘められたことも、前に述べた通りである。
さらに像法時代前半に天台大師が弘められなかった円頓の大戒壇を、伝教大師が建立されたことは今の質問の通りである。
ただし、もっとも気がかりな問題が一つある。それは、仏は丁寧に説き尽くされたものの、仏の滅後の正法および像法二千年の間に、迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親から天台・伝教にいたるまでの諸師が、まだ弘通されていない最大かつ甚深秘密の正法が、法華経一部の文の上に明らかに見えている。
この甚深秘密の正法は、仏の予言どおり、今日末法の始めである第五の五百歳の間に、本当に広く世界中に弘まるのかどうか、これがもっとも大きな問題である。
問うていう、それはどのような秘密の法なのか。まず名前を聞いて、次にその義理を聞きたいと思う。
この深秘の正法が末法に弘まるということがもし真実ならば、釈尊が二度世に出られるということか。あるいは上行菩薩が再び大地より涌出するということか。急いで慈悲をもって教えていただきたい。
かの玄奘三蔵は六度も生まれかわってインドに入り、十九年の歳月の末に「法華一乗は方便教、小乗阿含経は真実教」と習得した。また不空三蔵は中国からインドへ帰り、寿量品の釈尊を阿弥陀仏だと書いた。これらは東を西といい、太陽を月というようなひどい誤りである。
これではいくら苦労しても益に立たないし、心を砕いても何の甲斐もない。幸いに私たちは妙法流布の末法に生まれ合わせたので、一歩も歩むことなく、三祇という長い時間修行した小乗の菩薩よりも勝れた功徳を得、頭を虎に与えることなく、三十二相の一つの無見頂相を得て仏道を成就したいものである。
答えていう、末法流布の秘法について述べるのは、法華経の文に明らかに見えていますので困難ではない。しかし、その際に注意しなければならない三つの大きな悪事がある。
大海は広いが死骸を留めないし、大地は厚いが不孝の者は載せない。仏法は五逆罪を犯す悪人を助け、不孝の者を救うけれども、正法を誹謗する一闡提の者と戒律を持って聖者のふりをする者は許されない。
三つの悪事とは、念仏宗と禅宗と真言宗である。第一の念仏宗は既に日本国中に弘まっていて、僧俗の男女が一同に口ずさみのように南無阿弥陀仏と唱えている。
第二の禅宗は、三衣一鉢を帯し、聖者のふりをした大慢心の禅僧が国中にあふれ、周囲からは天下の指導者であると思われている。
第三の真言宗は、またこの念仏宗や禅宗に過ぎたる邪悪ぶりで、比叡山をはじめ東寺・南都七大寺・三井園城寺の官主となり、御室門跡となり、あるいは長吏や検校となって栄えている。
彼らは焼け失せた内侍所の神鏡の代わりに大日如来の宝印を仏の鏡と頼み、西海に沈んだ宝剣の代わりに不動・降三世・軍荼利・大威徳・金剛夜叉の五大尊の力で国敵を切り払うとうそぶいている。
このように変な形で固まってしまった信仰は、たとえ劫石がすり減るほどの長い時間をかけても傾きそうにもないし、仮りに大地がひっくり返ったとしても疑いが起こりそうにもない。
中国の天台大師が南三北七の諸師を責められ時は、この真言宗はまだインドから伝わっておらず、我が国の伝教大師が南都の六宗を破斥された時も、その対象から漏れてしまった。このように法華の強敵からのがれたことにより、逆に真言宗の方が法華の大法を盗み亡ぼす結果となった。
その上、伝教大師の御弟子である慈覚大師がこの宗をひいきし、叡山の天台宗を真言宗としてしまったので、今さら敵対しようとする者は誰もいないありさまである。
そんな状況だったので、弘法大師の邪義をとがめる人もいなかった。
五大院の安然和尚が弘法の十住心の教判を批判したが、ただ弘法が華厳よりも法華は劣るという点だけを咎めたので、かえって法華経が大日経には劣るという点を認めることになってしまった。結局、安然の真言宗に対する批判は本格的なものでなく、あくまでも世間でいう義理立てに過ぎなかった。
問うていう、この三宗の誤りとは、いかなるものか。答えていう、まず浄土宗というのは、中国の斉の時代に曇鸞法師という人があり、三論宗の学者だった時に竜樹菩薩の十住毘婆沙論を見て、仏道修行の方法として難行道と易行道の二種を立て、弥陀念仏の易行道を選択したことに始まる。
次に唐の時代に道綽禅師という人があり、もとは涅槃経を信じていたが、曇鸞法師が浄土宗に移った旨の文を見て、涅槃経を捨てて浄土宗に帰依し、仏教には自力で悟りを得ようとする聖道門と弥陀の本願他力を頼んで往生する浄土門の二門があると主張し、聖道門を捨てて浄土門を取った。また道綽の弟子に善導という人があり、この人は阿弥陀仏を念じて浄土へ往生する念仏を正行、それ以外のすべての善行を雑行と立て分け、念仏の正行による往生を説いた。
日本では末法時代に入って二百年あまりの頃、後鳥羽院の御代に法然という者があり、
すべての出家および在家の人に勧めて、「仏の教えは時代と衆生の能力に基づいて説き分ける必要がある。法華経や大日経等に基づく天台宗や真言宗等の八宗九宗や、釈尊一代の中の大乗小乗・顕教密教・権教実教等の経々に基づく諸宗は、正法および像法の二千年の間の機根のすぐれた智恵ある人びとのための教えである。よって末法に入った今は、どのように力を尽くして修行しても何の利益も得られない。
しかも、これら諸宗の修行と弥陀念仏とを一緒に修行すれば、念仏修行もまた極楽往生の行ではなくなる。これは自分勝手に言うのではない。諸宗の修行に対して、インドの竜樹菩薩や中国の曇鸞法師は『難行道』と称し、道綽は『まだ一人も成仏した者はない』と退け、善導は『千人に一人も往生する者はいない』と決めつけた。
これらはみな他宗の者であるからお疑いもあるかも知れない。そこで末代においては恵心僧都以上の天台・真言の智者はおられないであろう。その恵心僧都の往生要集の序には『顕教や密教の教えは、私のような末代の愚者が生死の苦しみを離れる道ではない』とある。また三論宗の永観に往生拾因という書物があるが、それなども見るがよい。
それゆえ、法華や真言などをふり捨てて、ひたすらに念仏を唱えるならば、十人は十人、百人は百人がみな極楽に往生することができる」と説いた。叡山・東寺・園城寺・南都七大寺等の人びとは、はじめこそ教えの是非を争ったけれども、恵心の往生要集の序の言葉を道理と思われたのか、叡山の座主職にあった顕真はその教えを信じられて、法然の弟子となった。
その後は、たとえ法然の弟子とならない人でも、弥陀念仏は他の仏の名よりも親しみやすいのか、みな口ぐせのように唱え、また心だのみにしたので、まるで日本国中の者が一同に法然の弟子となったようなありさまである。
この五十年の間は、以上のように日本中が法然の弟子となったので、一人残らず謗法の者となってしまった。
これはたとえば、千人の子供が協力して一人の親を殺せば、千人が一同に五逆罪を犯した者になるのと同じである。その中の一人が無間地獄に堕ちるならば、どうして残りの者もみな地獄に堕ちないことがあろうか。
結局、法然は晩年の流罪を怨んで死後に悪霊となり、自分や弟子たちを罪科に処した国主や叡山・園城寺の僧たちの身に取り憑いて、謀反を起こさせたり、悪事をさせたりして、終にはみな関東の幕府に滅ぼされてしまった。
わずかに残った叡山や東寺などの僧たちは、猿が人に笑われ、辺境の野蛮人が子供にさえも軽蔑されるように、在家の男女にあなどられている。
禅宗はまたこのような宗教界の混乱につけこんで、戒律を堅く持つ聖者のふりをして世間の人の眼を迷わし、またいかにも尊げに見えるので、どんなに間違った法門を言いふらしても、誰もその誤りに気づかない。
そもそも禅宗という宗旨は、「仏の本意は文字や言葉を媒介せずに、心から心へと直接伝えられる」と説いて、釈尊はその一切経の外にある本意を、迦葉尊者に人知れずささやかれたという。
よって、禅宗を知らないで一切経を習うのは、犬が雷にかみつこうとし、猿が水に映った月影を捉えようとするのと同じであるとうそぶいている。
そんな禅宗という宗旨は、日本国中で不孝が原因で親に捨てられた者や、礼儀を知らずに主君に勘当された者、また学問を重んじない年若い法師等や、物に取り憑かれた遊女のような者の性分に合っている邪法と見えて、このような者たちがみな禅宗に帰依して、表面では戒律を持つ聖者のふりをして、一国の民衆を取り食う蝗虫となってしまった。
それを見て天は眼を瞋らして天変が起こり、地神は身を震わして地異が起こるのである。
真言宗はまた、念仏と禅の二宗とは比べようもないほど誤りに満ちた宗旨である。今、そのおおよそを申せば次のとおりである。
もともとは、唐の玄宗皇帝の御世に善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵の三人が大日経・金剛頂経・蘇悉地経の三部経をインドから将来したことに始まる宗旨である。
この三経の極理は、声聞・縁覚の二乗を否定し包括して説いた菩薩の教えにあり、事相として印相と真言を説くところに特徴がある。
よって、極理としては華厳経や般若経に見える声聞・縁覚・菩薩の三乗に相対して説いた一仏乗の教えにも及ばず、また天台宗でいう法華以前の別教や円教よりも劣り、
蔵教や通教の教え程度にすぎない。そこで善無畏三蔵が案じたことは、この経の教えをありのままに説いたならば、華厳宗や法相宗にも馬鹿にされ、天台宗にも笑われるだろう。ただ、せっかく勝れた経典だと思ってインドから持って来たのだから、このまま弘めないのも残念と考えたのだろう。
天台宗の一行禅師という偏屈者を味方につけて、当時の中国に弘まっている諸宗の教えを聞いてみたところ、
だまされているとは気づかない一行阿闍梨は、三論・法相・華厳等の宗旨のおおよそを述べた上に、天台宗の教義の立て方を隠すことなく語ったので、それを聞いた善無畏は、天台宗はインドで聞いていた以上に勝れた宗旨で、とてもその上を行くことは難しいと考えた。
そこで一行に向かって、「貴僧は中国では賢人であり、天台宗はまことに殊勝な宗旨であるが、その天台宗に真言宗がすぐれているのは事相として手に印契を結び、口に真言を唱えることである」と言ったところ、一行はなるほどと納得してしまった。
それを見た善無畏三蔵は一行に、「天台大師が法華経の註釈を書かれたのにならって、大日経の註釈を造って真言の教えを弘めようと思うが、どうか一つ貴僧が書いてくれないか」といったところ、
一行は、「承知しました。ただ、どのように書けばよいのでしょうか。まことに天台宗はあっぱれな宗旨であって、諸宗がみなわが宗こそ勝れていると言い張って天台宗に挑んでも、どうしても敵わないことが一つある。
それは法華経の開経の無量義経に『四十余年未顕真実』という文があり、これによって法華経以前の四十余年間に説かれたすべての経々を、真実ではないと否定してしまいます。
また法華経の法師品に説かれる已今当の三説超過の文と神力品に見える四句の要法の文とで、法華経の後に説かれる経々を方便の教えとして退け、法華経と同時に説かれる経々を法師品の『今説く』の経文に摂めて、法華経に及ばない教えと破折してしまうのです。
この法華経の以前と以後と同時の内、大日経はどこに入るのでしょうか」と尋ねた。その時に善無畏は種々計略をめぐらして、「大日経の最初に入真言門住心品があり、この品は同経の序分として、法華経の開経の無量義経が四十余年の経々を方便の教えと決めつけて否定するのと同じ役割をしている。
そして、大日経の第二・入曼荼羅具縁品以下の諸品は、中国では法華経と大日経とは別々に分かれているが、実はインドでは一つの経典である。
法華経は、釈尊が舎利弗や弥勒に向かって大日経から事相の印と真言とを略して、教理の部分だけを法華経と名づけて説かれ、それを羅什三蔵が中国に伝え、天台大師はこれを見て宗旨を立てたのである。
同様に大日経は、大日如来が法華経を大日経と名づけて金剛薩Pに対して説かれたものであり、私は現にインドでこれを見たので、間違いはない。
それゆえ貴僧は大日経と法華経とを、あたかも水と乳とを混ぜたように一味のものとして書けばよろしい。
そうなれば、大日経は法華経と同じように、大日経以前と同時と以後の経々を、すべて方便として説かれた劣った教えとして退けることとなる。
その上で、事相の印と真言とをもって、天台大師が法華経の教えに基づいて説いた心法の一念三千を飾り立てれば、身=印と口=真言と意=一念三千の三密相応の秘法となる。
この三密相応という観点からすれば、天台宗がただ意密の一念三千だけなのに対して、真言宗は身口意の三密を兼ね具えて、ちょうど屈強な将軍が甲と鎧を着た上に弓矢を持ち、腰に太刀を具えたようなものである。
一方、意密だけの天台宗は、屈強な将軍が丸裸で武具を着けず、また武器も何も持たないようなものである」と巧みにいったことを、一行阿闍梨がそのままに書き付けて出来あがったのが大日経疏という釈書である。
中国の三百六十ヶ国にはこのような事情を知る人がいなかったのか、当初は勝劣を争うこともあったが、真言宗の善無畏等の人格が非常に勝れていたのに対して、当時の天台宗にはこれといった人物がなく、
また天台大師ほどの智恵ある者もいなかったので、日々に真言宗が勢力を得ていったので争いごともなくなり、
年月が過ぎる内に、真言宗の教えの根幹がでっち上げられたものであることは、奥深く隠されて、見えなくなってしまいました。
わが国における真言宗は、伝教大師が中国に渡り、天台宗の奥義を道邃・行満の両師から学び伝えた次いでに、真言宗を順暁から習い伝えたのに始まる。
大師は天台宗を桓武天皇に授け、真言宗を南都六宗の大徳に習わせられた。南都六宗と天台宗との勝劣は入唐する前に定められていたので、何ら問題はなかった。
一方、真言宗のことについては、帰国後は大乗円頓の戒壇を比叡山に立てる立てないの議論が思うように行かず、敵が多くいては戒壇建立の大事が成就しがたいと思われたのか、あるいは後の末法の行者に破折させようと思われたのか、天皇の御前においても真言宗に関しては何の仰せもなく、弟子たちに向かっても明らかに語られなかった。
ただし大師には依憑天台集という一巻の秘書があり、その中に中国・朝鮮の七宗の人びとが天台宗に帰伏したさまを書かれていますが、その序文に真言宗の誤りが一言記されています。
弘法大師は伝教大師と同じく延暦二十三年(八〇四)に中国へ渡られ、青竜寺の恵果に値われて、真言密教を習学された。
大同元年(八〇六)に帰国されてからは、十住心論等を著わして諸経の勝劣を判定され、第一真言・第二華厳・第三法華と立てられました。
この大師は世間の人たちから思いの外に重く見られている。ただ申しづらいけれども、仏法に関しては意外に粗雑な面があります。
およそ考えてみるに、弘法大師は中国へ渡られて、主に真言教の事相である印契と真言を習い伝えて、その教理については深く学ばれなかった。
日本に帰ってみると、人びとの間では天台宗がすぐれた教えとして尊敬されており、このままでは真言宗を弘めることは困難と思ったのか、中国へ行く前に学んだ華厳宗の教えに注目し、華厳経は法華経よりすぐれていると立てた。
それも、普通の華厳宗が言うように言ったのでは、人は信じまいと思われたのか、
少し手段を講じて、これは大日経や竜猛菩薩の菩提心論、さらには善無畏などの真実義であると大うそで固めたところ、思いの外、天台宗の人びとが強く反対することもなかった。
問うていう、弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・弁顕密二教論を見ると、秘蔵宝鑰には「十住心の第八の如実一道心と第九の極無自性心は、それぞれの当分では真理の名を得るが、後の第十の秘密荘厳心に対した時には戯論となる」とあり、
また「大日法身に比べれば、釈尊はなお無明の中にあり、悟りに到達していない」とある。弁顕密二教論には五蔵五味の教判を立てて、法華経は「第四の熟蘇味である」とあり、また「中国の天台等の学僧たちは、われ先にと六波羅蜜経に説かれる第五陀羅尼蔵の醍醐味を盗用して、それぞれの依経こそ醍醐味であるとしている」などとあるが、これらの解釈はどうか。
答えていう、私はこの釈文を見て驚き、あらためて一切経および真言宗所依の三部経などを開いてみたが、華厳経と大日経に比べると法華経は戯論であり、天台大師等は六波羅蜜経に基づく真言の五蔵五味判の醍醐味を盗んだ者であり、釈尊は無明の中にあるなどという経文は、一字一句もありませんでした。
これらはまったく根も葉もないたわ言であるが、この三、四百年あまりの間、日本の多くの智恵ある人たちが疑うことなく用いられてきたので、きっと根拠があるものと思われているのだろう。
そこで、とりあえず分かりやすい誤りをあげて、その主張全体が信ずるに足らないことを示そう。
そもそも天台大師が法華経を醍醐味と定めたのは中国の陳および隋の時代である。ところが六波羅蜜経はその後の唐の時代半ばに般若三蔵が伝えたものである。
かりに六波羅蜜経が陳および隋の時代に伝わっていたならば、天台大師が真言の醍醐味を用いられた可能性も出てきようが、事態はまったく逆であり、不可能なことである。
これについては次のような例がある。わが国の徳一が、「天台大師は解深密経に説かれる三時教判を間違いだというが、これは短い舌で仏説を誹謗してわが身を誤る姿だ」と批判したのを、
伝教大師が、「解深密経は唐代の初めに玄奘が中国に伝えたもので、いっぽう天台大師はその前の陳および隋代の人であるから、同経は大師の滅後数十年を経て伝わったものである。
滅後に伝えられた経を、どうして破折されることなどあろうか」と責められましたところ、徳一は答に窮しただけでなく、舌が八つに裂けて死んでしまいました。
このように話としてはよく似ているが、今の弘法の言葉はかの徳一以上の悪口である。つまり天台大師をはじめ、華厳宗の法蔵・三論宗の嘉祥・法相宗の玄奘等から江南江北の学者たち、また後漢の仏教伝来以来の一切の学僧たちをまとめて盗人とそしられたからです。
そもそも法華経を醍醐とすることは、天台大師等が手前勝手に言ったのではない。
仏が涅槃経の中に法華経を醍醐とお説きになり、インドの天親菩薩は法華経と涅槃経を醍醐味と書かれたのです。また竜樹菩薩は、大智度論に法華経を妙薬と名づけられた。
よって、もし法華経を醍醐という人はみな盗人ならば、釈尊はもちろんのこと、仏説を証明した多宝如来や十方の諸仏、インドの竜樹や天親なども、みな盗人であられることになるが、果たしてそんなことがあろうか。
弘法の門人をはじめ、日本の東寺の真言宗の者たちよ、どんなに愚かなために、自分では正邪の判断ができないとしても、仏説などの他人の言葉を鏡として、みずからの謗法の罪を知れ。
このほか、法華経を戯論の法と書かれているが、これは大日経や金剛頂経などに確かな文証があれば出されたい。
万が一、何かの経文に法華経は戯論であると書いてあったとしても、それは翻訳した人の誤りということもあるので、よくよく考えなければならない。
孔子は論語に「九思一言」と述べて、熟慮して行動せよと説き、周公旦は人を迎えるために、入浴時には三度まで髪をしぼり、食事中には三度まで口中の物を吐いた。仏教以外の浅薄な世間の教えを学ぶ人でも、智者はこのように行動するものです。それをどうして弘法は軽々に法華経を戯論などといったのであろうか。
さらに、そんな誤りを受けつぐ末学で、高野山に伝法院を創建した正覚房覚鑁は、舎利講式に「最も尊いのは大日経および金剛頂経の大日如来であり、ロバや牛のような法華経などの顕教の仏はその車を引くことすらできない。最も奥深いのは金剛界および胎蔵界の曼陀羅の教えであり、法華経などの顕教を奉ずる者はその履きものを取ることもできない」という。
「顕教の四法」とは法相・三論・華厳・法華の四宗のこと、「驢牛の三身」とは法華経・華厳経・般若経・深密経の教主たる釈尊のことで、これらの仏の教えを修行する四宗の僧たちは、正覚房や弘法の牛飼いや履物取りに成る資格もないと書いています。
かのインドの大慢婆羅門は生まれながらの物識りで、顕教・密教の二道によく通じ、仏教内外の典籍の教えにも自在に達したので、国王も臣下も頭を垂れ、庶民はみな師範と仰いだ。
その結果、彼はおごり高ぶったあまりに、「世間のおいては大自在天と婆籔天と那羅延天と大覚世尊の四聖が尊崇されている。私はこの四聖を自分の坐る高座の足にしよう」と考え、高座の四隅の足に四聖の像を彫りつけ、その上に坐って法門を説いた。
あたかも今の真言師たちが、釈迦仏をはじめ一切の仏を描き集めて敷曼荼羅を作り、結縁潅頂を修する時にこれを敷いて投花するのに用いたり、
また禅宗の法師などが「わが宗は仏の頭頂を踏む大法である」とうそぶく姿と同じである。
そんな大慢婆羅門の前に賢愛論師という小僧があらわれて、「かの婆羅門には誤りがあり、是非とも糾さなければならない」と言ったが、国王から万民まで誰も耳を貸す者はおらず、かえって大慢婆羅門の弟子や信者等に言いつけて、多くの偽りをでっち上げて、ののしったり打ちつけたりさせた。しかし、賢愛は少しも命を惜しまないで、いよいよ大慢の誤りを言い募ったので、
憎んだ国王が賢愛を問答で言い詰めさせようとされたが、逆に大慢が責められてしまった。それを見た王は深く悔い改め、天を仰ぎ地に伏して嘆き、「自分は直接このことを聞いて邪見を捨てることができたが、
先王は大慢にだまされたまま、今も阿鼻地獄におられるだろう」と賢愛論師の足にすがりついて泣き悲しまれた。賢愛論師のお計らいとして、見せしめのために大慢を驢馬に乗せてインドじゅうに引き廻しにされたが、大慢はますます悪心を強盛にしたので、生きながらに無間地獄に堕ちてしまった。
今の世の真言師や禅宗等の人びとも、この大慢婆羅門の姿とまったく同様である。中国の隋代の人で、三階教を説いた信行禅師は、「教主釈尊が説かれた法華経は、三階教から見れば第一階の正法および第二階の像法の二千年に弘まる教えであって、私が作った普経こそが第三階の末法時代に流布する教えである。よって、末法の今に法華経を修行する者は、十方の大阿鼻地獄に堕ちてしまう。
法華経は末法の衆生の機根に適合しないからである」といって、昼夜六時の勤行と四時の坐禅を修して、振る舞いが生き仏のように見えたところから、多くの人の尊敬を集め、一万人に余る弟子があったけれども、
ある時、法華経を読誦する少女に責められて、にわかに声を失い、後には大蛇に変じて、多くの弟子や信者を飲み込み、果ては少女や処女までも食らったという。今の浄土宗の善導や法然の「末法に法華経を信じて成仏する者は、千人に一人もいない」という悪義も、法華経を誹謗することにかけては、三階禅師のそれとまったく変わりません。
以上のような念仏・禅・真言の三宗の大悪事は、既に人びとの目から隠されて年久しくなっていますので、いまさらその邪義を指摘しても無駄かもしれないが、言えばまた信ずる人もあるだろう。ただ、実はこの三宗の邪義よりも百千万億倍も信じられないような最大の悪事がある。
慈覚大師という人は、伝教大師に義真・円澄を介して列なる大師第三の御弟子である。けれども、わが国の上下万民はみな師の伝教大師よりもすぐれた人だと思っている。
この大師は真言宗と法華宗のそれぞれの教義を深く学ばれたのですが、その結果、真言は法華経より勝れているという間違った判断を下された。
しかも、比叡山延暦寺の三千人の大衆や日本中の学者たちも、みなこの邪義に帰伏してしまった。
それゆえ、弘法大師の門人たちは、弘法が法華経は真言はもちろんのこと、華厳経にも劣ると書かれたのは、少し行き過ぎではないかと思っていたが、この慈覚大師の判断に力を得て、真言宗が法華経より勝れているのは間違いないと確信した。
元来、真言宗は法華経より勝れているという主張に対しては、日本国では法華宗の根本道場である比叡山がもっとも強く反対しなければならないのに、座主の慈覚がみずから進んで比叡山三千人の大衆の口をふさいでくれたので、真言宗は思うままに日本国に弘まることができた。それゆえ真言宗の根本道場である東寺の第一の味方は、慈覚大師にほかならない。
この真言宗と同じように、浄土宗や禅宗なども他の国はともかくも、日本国では比叡山延暦寺の許可がなければ未来永劫に弘まるはずはなかったのに、
安然和尚という叡山第一の学者が教時諍論という書を作り、九宗の勝劣を立てて、第一真言宗・第二禅宗・第三天台法華宗・第四華厳宗等と書いたのである。
このとんでもない間違った解釈のために、禅宗が易々と日本国に弘まってしまい、まさに亡国の危機を迎えている。
また法然の念仏宗が流行して国を滅ぼさんとしたのも、恵心僧都の往生要集の序文がその原因である。
このように天台法華宗の敵である真言宗や禅宗・念仏宗が盛んになって、法華経の正法が失われる原因を、叡山の先師たちがみずから作ったことは、仏が「百獣の王の獅子の身の中に虫がいて、内から獅子の身を食い殺してしまう」と予言されたとおりの姿である。
伝教大師は出家してから十五年ほどの間、日本国において天台や真言などの教えを誰に聞くでもなく、ひとりで習学された。
大師は生まれながらの智恵に勝れ、特に師匠に就くことなく奥義を悟られたが、世間の人びとの疑いを晴らすために、あらためて中国に渡って天台と真言の二宗の教えを学ばれた時、
中国の学者たちの間にはいろんな説があったけれども、大師ご自身の気持ちとしては、法華は真言よりも勝れていると決められていたので、帰国してからは真言宗の宗の字を削り捨てられて、天台法華宗の止観・真言などと書かれた。
また十二年間におよぶ籠山・修学を定めた止観と真言の二人の年分度者を、朝廷より許されて叡山に定め置かれ、さらに一乗止観院において鎮護国家の三部として法華経と金光明経と仁王経の三経を長講させ、天皇の仰せをこうむって、古来よりの日本国第一の重宝である神璽・宝剣・内侍所の三種の神器になぞらえて崇められた。
叡山第一の座主の義真和尚と第二の座主の円澄大師までは、このような真言の取り扱いに関して相違はなかった。
第三の慈覚大師は承和五年(八三八)に中国に渡ってから十年間、顕教と密教の勝劣を宗叡・全雅などの八人の師から学び、
また天台宗の広修や維Kなどにも習われたが、心の中では「真言宗は天台宗より勝れている。わが師の伝教大師は、この二宗の関係については詳しく学ばれなかったようだ。
中国におられた期間も短かったので、顕密の勝劣については概略だけを学ばれたのであろう」と思われた。日本に帰って比叡山の東塔止観院の西に総持院という大講堂を建て、
ご本尊に金剛界の大日如来を安置し、そのご宝前で善無畏三蔵の書いた大日経の疏にならって、金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻の以上十四巻を作った。
その中の主要な解釈の文には「教えには二つある。一は顕示教で、三乗の教えである。これは世俗の真理と仏教との円融を説かない。二には秘密教で、一仏乗の教えである。これは世俗の真理と仏教とは融合して一体であると説く。
また秘密教の中に二つある。一は理秘密教で、華厳・般若・維摩・法華・涅槃などの諸経を指す。これは世俗の真理と仏教との円融不二は説くが、真言や密印という事相を説かない。
二は事理倶密教で、大日経・金剛頂経・蘇悉地経などの真言の経典を指す。これは世俗の真理と仏教の一体不二を説き、さらに真言と密印という事相をも説く」とある。
この解釈は、法華経と真言三部経との勝劣を判定されて、両者の究極の真理は同じく一念三千の法門であるが、
密印や真言などの事相は法華経には説かれていない。よって法華経はただ理秘密であるのに対して、真言の三部経は事相も説き備える理事倶密で、その相違は天地雲泥であるという意味である。
しかも「このような理解は、自分の単なる思いつきではなく、ちゃんと善無畏三蔵の大日経の疏の解釈に基づいている」と思われたが、それでも二宗の勝劣については心許なかったのか、また他人の疑いを晴らそうと考えられたのであろうか、
慈覚大師の伝記には、「二経の疏を作りあげた大師は、心中ひそかに『この疏は、はたして仏意に叶っているのかどうか。もし叶っていなければ、世の中へは出すまい』と思った。そこで、大日如来の仏前にこの疏を置き、七日七夜、丹精をこめて祈った。
すると、その五日目の明け方の夢に、正午の時に太陽を仰ぎ、これに向かって弓を射たところ、その矢が命中して、太陽が動転したのを見た。大師はこの夢の意味を自分の二経の疏が仏意に叶ったものと判断し、後世に伝えようと決心された」とある。
このように慈覚大師は、わが国では伝教および弘法のそれぞれの教えを習い究め、中国においては八人の高僧や南インドの宝月三蔵などに師事して十年もの間、最大事の秘法である真言密教を学び極められた上、二経の疏を作って本尊に祈ったところが、智恵の矢が中道実相の太陽に的中した夢を見たと思われ、
喜びのあまりに仁明天皇に奏問し、勅許を申し受けて二疏を世に公開された。その結果、天台の座主は真言の官主となり、真言の三部経は鎮護国家の三部となって広く流布し、それから既に四百余年が経過し、学者は稲や麻のように多く、信仰する者は竹や葦のようにおびただしくなった。
また桓武天皇や伝教大師などが建立された日本国中の天台寺院は残らず真言の寺となり、
公家も武家も同様に真言師を招いて師匠と仰ぎ、僧官に昇らせ、寺を任せるようになった。さらに木像や画像の本尊の開眼供養にも、八宗がみな大日如来の印契と真言を用いるようになった。
疑っていう、法華経は真言よりも勝れると考える人は、この慈覚の釈をどのように扱うのか。用いるのか、それとも捨てるのか。
答えていう、未来における教法の正邪の判定に関して、仏は「教えそのものに依れ、教えを説く人に依ってはならない」といわれ、竜樹菩薩は「経文に依る論は正しく、経文に基づかない論は間違っている」といわれ、
天台大師は「経文と一致する教えは用いよ。経文にも合わず、内容も不備な教えは決して信用してはならない」といわれ、伝教大師は「仏の真説に依って、人師の口伝を信じてはいけない」といわれた。
これらの仰せによる限り、夢などに依ってはならない。ひとえに法華経と大日経との勝劣を直接に、かつ明白に説いた経論の文証こそが大切なのです。
ただし、印と真言とがなければ木画二像の本尊の開眼ができないということは、実におかしなことである。というのは、真言宗が伝わる以前には本尊の開眼はなかったことになるが、そんなことがあろうか。
インド・中国・日本には、真言宗が伝わる以前には、本尊の木像や画像が歩きまわったり、法を説いたり、しゃべったりされたという話も伝わっている。
それが真言宗が伝わって、印や真言をもって開眼をするようになってからは、返ってそのような利益もなくなってしまった。これらのことは常々よく話に出ることである。
この金剛頂経と蘇悉地経の二疏の誤りについては、わざわざ日蓮が明白な証拠をよそから引くまでもない。他ならない慈覚大師ご自身のお言葉を信じればよいのです。
問うていう、それはどのように信じるのか。答えていう、そもそも慈覚の夢の大元をさぐれば、それは真言が法華経より勝れていると自分で思い込んでいたから見た夢である。それでも、もしこの夢が本当に吉夢であるならば、慈覚大師が判断されたように、真言が勝れていることになるのだろう。
けれども、弓矢で太陽を射るという夢をはたして吉夢といってよいのだろうか。仏教の五千七千余巻の経典や仏教以外の三千余巻の典籍の中に、太陽を射るという夢が吉夢であるという証拠があれば、拝見したいと思うが、まずは当方から少し証拠を出してみよう。
インドの阿闍世王がある時、天から月が落ちる夢を見たので、耆婆大臣に占わせられたところ、大臣は仏の御入滅であると答えた。また須跋多羅も天から太陽が落ちる夢を見て、自分でこれは仏の御入滅であると占ったという。
悪鬼神の阿修羅が帝釈天と戦う時は、まずその臣下である日天・月天を射申すという。また中国古代の夏の桀王や殷の紂王という悪王は、日ごろ太陽を射て、ついには身を滅ぼし、国を滅ぼしてしまった。
仏の生母の摩耶夫人は太陽を孕むという夢をみて、悉達太子をお産みになったので、仏の幼名を日種という。また日本国というのは、天照太神が太陽神であられるからである。
以上の事例に基づいて慈覚大師の夢を解釈するならば、大師が造った金剛頂経と蘇悉地経の二疏というのは、恐れ多くも天照太神や伝教大師、釈迦仏や法華経を射申し上げた矢であったということになります。
日蓮はもとより愚かな者であって、経論のことは知るよしもない。ただこの慈覚大師の夢によって、真言は法華経よりも勝れていると考えるのは仏意に叶っていると思う人は、今生には国を滅ぼし、家をなくし、後生には無間地獄に堕ちるだろうということは知っています。
ちょうど今、それを判断する事実がある。この日本国と蒙古国との合戦に向けて、国内のすべての真言師が調伏の祈祷を行なったとします。そして、もし日本が勝ちましたならば、真言は勝れていると思ってもよいでしょう。
かつて、承久の合戦の際に多くの真言師が祈りましたが、調伏される側におられた北条義時は勝たれ、調伏した方の後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の順徳天皇は佐渡の島へお遷りになり、みずからを調伏する結果となってしまいました。
結局は、狐などが鳴いてわが身を滅ぼしてしまうように、「仏菩薩の加護を受けている者を迫害しようとすると、還って自身がその難を受ける」という法華経普門品の経文のとおりに、叡山の大衆は鎌倉幕府に攻められて、一同に降伏してしまった。
ところが、今また幕府が真言師に蒙古の調伏を祈らせるのは、わざわざ日本を滅ぼそうとして祈らせるのかと私は申しているのである。これをよく知る人は世界第一の智者である。まことによく心得よ。
今は鎌倉幕府の世の中であるから、東寺・叡山・園城寺・南都七大寺の真言師等や、法華最第一の義を忘れてしまった法華宗の謗法の人びとが関東に落ち下って、頭を下げ、膝をかがめて、さまざまに武士の機嫌をとって、
多くの寺院の別当や長吏となり、王位を失わせた前歴のある真言の悪法を取り出して、同じように国土の安穏を祈っている。幕府の将軍家や付き従う侍どもは、さぞかし真言で祈祷すれば国土は安穏になるだろうと安易に思っているが、実は法華経を失わんとする悪の根源である真言の僧侶たちを用いていることを知らないのかだら、こんなありさまでは国は必ずや滅びてしまうだろう。
国が亡びることは悲しいし、身が滅することは歎かわしい。それゆえ、身命をかえりみずにこの天下の謗法を訴えているのである。
もし国主が国を安穏に保とうとするならば、今のようなあり方に疑問を感じて、その理由を尋ねるのが当然であるのに、ただ謗法の人びとの讒言ばかりを信じて、さまざまに日蓮に危害を加えて来る。
法華経を守護すべき梵天・帝釈天・日天・月天・四天王・地神等は、昔から謗法はいけないと思われていたが、特に糾弾する人もいなかったので、一人息子のいたずらを許すように知らぬふりをする時もあり、また少しばかり罰して思い知らせる時もあった。
今は、この謗法の者たちをこらしめずに用いることさえおかしいのに、たまたま謗法をきびしく注意する人があると、逆に害を加えて、しかもそれが一日二日、一月二月、一年二年に止まらず、数年にも及んだりする。
そのようにして日蓮が受けてきた迫害は、昔、不軽菩薩が杖木で打たれた難にも勝れ、覚徳比丘が殺害されようとした難にも過ぎている。
さすがにこの度は、梵天・帝釈天の二王をはじめ、日天・月天・四天王・衆星・地神などがさまざまに怒りを表し、たびたび天変地異などを起こして制止しようとされたが、国主や謗法の者たちは返ってますます危害を加えたので、天のお計らいとして隣国の聖人に仰せつけてこの国をこらしめ、また大鬼神を国内に送り込んで人心を迷わせて、大きな内乱を起こさせた。
善いにつけ悪いにつけ、前触れが大きいほど来たるべき物事や災難も大きいというのが道理なので、仏滅後二千二百三十余年の間、これまで見たことのない大長星が現われ、経験したことのない大地震が起こったのである。
中国や日本にはこれまでも智恵に勝れ、すばらしい才能の聖人は数多くあったが、いまだ日蓮ほどに法華経を信じて、多くの強敵を作ったものはいない。この眼前の事実から、日蓮を世界第一の法華経の行者と知るべきである。
仏教が日本に伝わってから既に七百余年になり、一切経は五千巻および七千巻の多きを数え、宗派は八宗および十宗に分かれ、智恵ある人は稲や麻のように多く、仏教の弘通は竹や葦のように盛んである。
しかし、仏の中では阿弥陀仏、仏の名号の中では弥陀の名号ほど広く弘まっているものはありません。
この弥陀の名号を弘めた人は誰かといえば、先ず恵心僧都が往生要集を作って勧めたことにより、日本国の三分の一が念仏者となった。次に永観が往生拾因と往生講式を作って勧めたために、わが国の三分の二が念仏者となった。最後に法然が選択集を作って勧めたので、ついに一国をあげて念仏者となってしまった。
それゆえ、今の日本で弥陀の名号を唱える人びとは、宣伝されるようにすべて法然一人の弟子というわけではない。
この念仏というのは、浄土三部経の大無量寿経と観無量寿経と阿弥陀経の題名にある阿弥陀仏の名を唱えることである。浄土三部経は真実の大乗経である法華経に比べれば方便の権大乗経であり、権大乗の浄土三部経の題目である念仏が弘まるのは、次に実大乗である法華経の題目が広く流布することの先触れではなかろうか。
心ある人はこの道理を推しはかるがよい。権経が弘まれば、その後にきっと実経が弘まるだろう。ゆえに権経の題目である念仏が流布すれば、次に実経の題目である南無妙法蓮華経が流布することは間違いない。
欽明天皇の時代に仏教が伝わってから今に七百余年になるが、いまだかつて南無妙法蓮華経と唱えよと人に勧め、またみずからも唱えた智人は見たことも聞いたこともない。
太陽が出れば星は隠れてしまい、賢王が出現すれば愚王は亡びてしまう。それと同じで、実経が流布すれば権経はすたれ、智人が南無妙法蓮華経と唱えれば愚人がこれに随うことは、あたかも影が身に添い、響きが声に応ずるようなものである。
正嘉以来の前兆や度々の法難等から考えてみるに、日蓮が日本第一の法華経の行者であることは間違いない。また日本だけに止まらず、中国やインドをはじめ、世界中にも肩を並べるほどの行者はいないだろう。
問うていう、正嘉の大地震や文永の大彗星は、何が原因で起こったのであろうか。
答えていう、天台大師は「智恵ある人は物事の起こる由来を知り、蛇だけが蛇の道を知っている」と述べている。
問うていう、その意味は何か。答えていう、法華経の涌出品において上行菩薩を上首とする地涌の菩薩たちが大地から涌現した時、弥勒菩薩をはじめ文殊師利・観世音・薬王などの菩薩たちは、上行菩薩等のことを全く知らなかった。弥勒菩薩たちはすでに四十一品の無明の煩悩を断じて、仏の次の等覚の位にあったが、最後の元品の無明の煩悩を断じていないので愚人といわれ、
本門寿量品の肝心である南無妙法蓮華経を末法に弘めるために、この上行菩薩等は呼び出されたことを知らなかったという意味である。
問うていう、日本・中国・インドの三国の中で、このような災難が起こる原因を知る人があろうか。答えていう、思想的な迷いや感情的な迷いを断じ尽くし、さらに根元的な無智の迷いを四十一品まで滅した大菩薩でさえも、このことはご存知ない。ましてや少しの煩悩も断じない凡夫が、どうして知ることなどあろうか。
問うていう、物事の起こる由来を知る智者でなければ、このような災難を振り払うことはできない。たとえば、病気の原因を知らない人が病を治そうとすれば、かえって病人を殺してしまうように、この災難が起こった大元の理由を知らない人びとが祈ったりすると、かえって国が滅びてしまうことは疑いないだろう。かえすがえすも情けないことである。
答えていう、蛇は七日の内に大雨が降ることを知り、烏は一年中の吉凶を知るという。これは、蛇は雲を起こして雨を降らす大竜に従う者であり、烏は長らく学んだ結果によるのだろう。
日蓮は凡夫であるから、みずからの智恵では災難の原因を知ることはできないが、仏の金言を明鏡として、汝らにそのあらましを知らせよう。
昔、中国周代の平王の時に、世間に頭髪を乱した赤裸の者が現われたが、それを辛有という者が占って「百年のうちに周の世は滅びるであろう」といった。
同じ周代の幽王の時には、大地震が起こって山がくずれ、川がふさがってしまったが、それを白陽という者が勘合して「十二年の内に大王が難に値われるだろう」といった。
これら中国の古例にならっていえば、今の大地震や大彗星などは、国主がこの日蓮を憎み、亡国の法である禅宗と念仏者と真言師とを用いられたので、天が怒って起こされた災難である。
問うていう、何を根拠にして、そのように言うのか。答えていう、金光明最勝王経に「悪人を敬って善人を罰するので、星宿の運行や風雨の時節も乱れる」とある。
この経文を信ずるならば、この国に悪人がいて、国王や臣下がこれに帰依していることは間違いない。
またこの国に智人がいて、国主がこれを憎んで迫害していることも疑いない。
同経には「須弥山の頂上にある三十三天の天人たちが非常に怒っているから、怪しい流星が走り、二つの太陽が同時に出、他国から攻められて国民に危害がおよぶ」ともある。
すでにこの国には未曾有の天変や地異が出現している。また他国からの攻めもあることから、三十三天のお怒りがあることは疑いないだろう。
仁王経には「多くの悪心の比丘が専ら名誉や私利を求めて、国王や太子・王子に向かって、進んで仏法を破壊する原因となる教えや、国を滅亡させる原因となる教えを説くだろう。すると、国王たちは正邪を分別できないので、その言葉を信じてしまう」とあり、
また「太陽や月の運行は乱れ、季節は逆さまにめぐり、赤い太陽や黒い太陽が出現し、二つ三つ四つ五つの太陽が並び出る。あるいは日蝕で光が消え、太陽に一重二重三重四重五重の輪が現われる」とある。
これらの経文は、悪徳の僧たちが国に満ちあふれ、国王や太子等に向かって仏法を亡ぼし国を滅するような教えを説くのを聞いて、国王らはすっかりだまされて、この教えこそ正しい仏法であり、国家を安寧に持つ教えであると思われて、
その言葉を信用して政治を行えば、先ず日月に変異が生じ、大風・大雨・大火などが出現し、次には内賊といって親類の中に合戦が起こり、自分に味方する者は皆討たれて亡くなり、後には他国より攻められて自殺したり、生け捕られたり、降参したりするだろう、という意味である。
これはひとえに悪徳の僧たちが仏法を亡ぼし、国を滅する姿である。
守護経には「釈迦牟尼如来のすべての教えは、あらゆる天魔や外道や悪人や五神通を得た神仙などが、たとえ外からは壊ろうとしても一向に叶わない。しかし名前や姿だけが僧である悪徳の者たちが、内から壊して滅尽させてしまう。
あたかも須弥山を、たとえ三千大千世界の草木をすべて薪にして長い間焼いても、少しも破損することはできないが、もし世界が破滅する時の劫火が内から燃え出てしまうと、一瞬にして何もかも残さず燃え尽きてしまうのと同じである」と説かれている。
また蓮華面経には「仏は阿難尊者に告げられた。たとえば獅子が死んだ時には、空中や地中や水中や陸上にいる生物は、決して獅子の肉を食わないが、ただ獅子の体から虫が生じ、それが内から獅子の肉を食ってしまう。
阿難よ、それと同じように、私の教法も外から壊されることはないが、わが教団の内にひそむ悪僧たちが、私が三大阿僧祇という長い間、修行を積み重ね、苦労して覚ったところの教法を破壊するだろう」と見える。
この守護経の経文は、過去世の迦葉仏が、現在の釈迦如来が滅度した後の末法の様子を訖哩枳王に説かれたものである。それによると、釈迦如来の仏法を滅ぼすのはどんな者かといえば、
かの大族王はインド全部の寺院を焼き払って、十六大国の僧や尼を殺し、中国の武宗皇帝は国内の四千六百余ヶ所の寺塔を破壊し、二十六万五百人の僧や尼を還俗させたが、そんな悪人でも釈迦如来の仏法を滅ぼすことはできない。
ただ三衣を身に着し、一鉢を手に抱えて、釈尊一代の八万聖教を心に暗記し、十二部経を口に読むほどの僧侶が、仏の本意に違背して仏法を破滅させるだろう。
たとえば須弥山は金の山であるから、三千大千世界のあらゆる草木を地上から天上界に至るまで積みあげて、一年二年、あるいは百千万億年もの間焼き続けても、少しも破損することはできない。
しかし世界滅亡の壊劫に際して劫火が出現する時には、須弥山の根元から豆粒ほどの小さな火が出て、須弥山だけでなく、三千大千世界をもすべて焼き尽くすのと同じである。
この守護経の仏の仰せに従えば、仏教を奉ずる十宗・八宗の僧たちが、仏教という須弥山を焼き払ってしまうのではあるまいか。小乗教の倶舎・成実・律などの僧たちが大乗教に嫉妬する胸の中の怒りは、仏教を焼き尽くす炎である。
また蓮華面経の仏の仰せに従えば、真言宗の善無畏等や禅宗の三階禅師等や浄土宗の善導等らは、獅子の体より生じた虫が獅子の肉を食うように、内から仏教を食い滅ぼす蝗虫の僧である。
伝教大師は顕戒論において、三論・法相・華厳などの南都六宗の学僧たちを六虫と書かれた。
今、日蓮は真言宗・禅宗・浄土宗などの元祖を仏教を食らう三虫と名づける。また天台宗の慈覚・安然・恵心などは、法華経と伝教大師にとっての獅子身中の三虫である。
このように日蓮は大謗法の根源を糾弾するが、その日蓮に迫害を加えるので、天神も光を惜しみ、地祇もお怒りになって、その結果として大彗星や大地震などの災いが起こるのである。
それゆえ、世界第一の大事を強く申したので、最第一の瑞相がここに起こってきたと心得るがよい。
哀れで嘆かわしいことは、日本国の人びとが法華経を誹謗して無間地獄に堕ちることである。
悦ばしく楽しみなことは、不肖の身ながらも、このたび法華経を信じて心田に仏になる種を植えたことである。今に見ているがよい。
大蒙古国が数万艘の兵船をもって日本国に攻めて来れば、国王から庶民にいたるすべての者が、一切の寺院や神社を投げすてて、みな声をそろえて南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱え、手を合わせて「助けたまえ、日蓮の御房、日蓮の御房」と叫ぶでしょう。
たとえば、インドの大族王が戦いに敗れた時に幻日王に手を合わせて命乞いをし、日本の平宗盛が捕虜として鎌倉へ連行された時に梶原景時に救いを求めたように、高慢の者は敵に降るという道理である。
かの不軽菩薩を軽蔑してそしった慢心の僧たちは、はじめ杖や木をもって打ちつけたが、後には手を合わせてその罪を悔いた。
提婆達多は釈尊の御身に傷つけて血を流したけれども、臨終の時には改悔して「南無」と唱えた。もしその時に続けて「仏」と唱えていれば地獄へは堕ちなかったものを、罪業が深すぎたためにただ「南無」とだけ唱えて、「仏」と言うことはできなかった。
今の日本国の高僧たちもまた「南無日蓮聖人」と唱えようとしても、「南無」だけで終ってしまうだろう。まことに気の毒な限りである。
仏教以外の典籍には、物事が起こる前にこれを知るを聖人というとあり、仏典には、過去・現在・未来の三世のことを知るを聖人というとあるが、私にはこれまで三度の手柄がある。
第一には、去る文応元年(一二六〇)七月十六日に、立正安国論を最明寺入道時頼に呈上した時、取り次ぎの宿谷入道に向かって、「禅宗と念仏宗とを禁断なされよと申し継いでいただきたい。
この言葉を用いられない場合は、北条の一門から内乱が起こり、他国から侵略されるだろう」といったことである。
第二には、去る文永八年(一二七一)九月十二日の午後四時ころ、捕縛のために松葉谷の草庵に来た平左衛門尉頼綱に向かって、「日蓮は日本国の棟梁である。私を失うことは、日本国の柱を倒すことである。
まもなく自界叛逆の難といって、北条一門の同士討ちが起こり、他国侵逼の難といって、この国の人びとが他国の者に打ち殺されるだけでなく、多く生け捕りにされるだろう。
建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏殿・長楽寺などの一切の念仏者や禅僧等の寺院を焼き払って、彼らの首を由比が浜で斬らなければ、日本国は必ず滅びるであろう」と申しました。
第三には、去年〈文永十一年(一二七四)〉の四月八日、流刑地の佐渡から鎌倉へ帰りついた時、やはり平左衛門尉に向かって、「国主が統治する地に生まれ合わせたからには、この身は随い申し上げるけれども、心は随い申し上げるわけにはいかない。
念仏は無間地獄へ堕ちる業、禅宗は天魔の仕業であることは疑いない。特に、真言宗はこの国にとって大きな災いであります。けっして大蒙古を調伏する祈祷を真言師に命じてはならない。
万が一、この大事を真言師が調伏するようなことがあれば、日本国の滅亡は一層早まるだろう」と申したところ、頼綱が「蒙古はいつごろ攻めて来ますか」と尋ねたので、
「経文にはいつとは説かれていませんが、天のご様子は大変お怒りのようであるから、急ぐように思われます。よもや今年を過ぎることはないでしょう」と答えた。
この三つの大事は、実は日蓮が申したのではなく、ひとえに釈迦如来の御魂がこの日蓮の身にお入りになって、仰せになったのではなかろうか。
自分のこととはいえ、身に余る光栄である。そして、法華経に説かれる一念三千という重要な法門の肝心も、実はここにある。
法華経の方便品に「いわゆる諸法のこのような相」と説かれたのは、何であるか。十如是の最初の相如是である物事の実相を正しく見きわめることは最も大切な法門ですので、仏はこれを教えるために世に出られたのである。前に挙げた「智恵ある人は物事の起こる由来を知り、蛇だけが蛇の道を知っている」という妙楽大師の言葉の意味も同じである。
多くの流れが集まって大海となり、微塵が積もって須弥山となった。日蓮が法華経を信じはじめたのは、日本の国全体からすれば一滴の水や一つの塵のようなものである。けれども、法華経の題目を二人・三人・十人・百千万億人と次第に唱え伝えてゆくならば、やがて妙覚の仏の須弥山ともなり、大いなる涅槃の大海ともなるだろう。
凡夫が仏になる道とは、実にこのようなものである。
問うていう、文永八年九月十二日の第二の高名の際に、どうして日蓮を迫害すれば内乱と外冦が起こると知られたのか。
答えていう、大集経の五十には、「もし多くの国王や王族・貴族の中に、種々の非法を行なって仏弟子を悩まし、または罵ったり、刀杖で斬ったり打ったりし、衣鉢や種々の道具を奪ったり、その仏弟子に対する供養を妨げる者がいれば、
我らは即時に他国から攻めさせ、国内にも内乱や疫病、飢饉や時ならぬ風雨、また争いごとを起こさせて、その国王が自国を失うように仕向けるであろう」とある。
同じ趣旨の経文が多くの経に見えるが、この大集経の文は特にわが身に当たり、また今の日本国にとって尊く思われるので、これを引用してみた。
この経文に「我等」とあるのは、大梵天や帝釈天や第六天の魔王、日天や月天や四天王などの、三界の一切の天衆や竜衆等のことである。
これらの内の主だった者が仏前に参り、誓いを立てて、「仏の滅後、正法・像法および末法の時代に、正しい法の行者を邪法を説く僧たちが国主に訴えれば、王は側近の者や味方の者、そして自分が尊敬する者などの言うことであるからと考えて、
道理を尽くさず、是非も糾さず、その言葉のままに正法の智人をひどく侮辱したりなどすれば、にわかにその国に大きな戦乱を起こし、後には他国に攻めさせるだろう。すると国主も亡くなり、その国も滅んでしまう」と申したと説かれています。文字どおりの痛し痒しである。
今生の私にはさしたる過失はない。
ただ自分の国を助け、生まれた国の恩を報じようと思って申しただけなのに、お用いなきことさえ残念であるのに、呼び出した時に懐から法華経の第五の巻を取り出して激しく打ち付け、ついには捕縛して鎌倉の町中を引き廻したりなどした。そこで私は日月などの諸天に向かって、
「昔、霊山会において法華経の行者を守護すると誓った日天および月天が天に居られながら、このたび日蓮が大難に遇うのを見て、身代わりをされようともしないのは、日蓮が法華経の行者ではないからか。そうであれば、私は早速に邪見を改めよう。
ただし、もし日蓮が法華経の行者であるならば、すぐにでもこの国に守護の姿を見せていただきたい。それができないとすれば、今の日天や月天等は釈迦・多宝や十方の諸仏をあざむき申し上げる大妄語の人である。
かの提婆達多やその提婆を師とした倶伽梨が人びとをあざむき惑わした罪にも、百千万億倍も過ぎた大妄語の天衆である」と大声で申したところ、その五ヶ月後に自界叛逆難である内乱が勃発した。
それゆえ、国が乱れれば乱れるほど、わが身は取るに足らない凡夫であるけれども、法華経を持ち申し上げている限りでは、今の日本では第一の大人であると申したのである。
問うていう、慢心の煩悩には、七慢・九慢・八慢とあるが、今の汝が大慢心は、仏教で説くところの大慢心に百千万億倍も勝れている。
かの徳光論師は弥勒菩薩を礼拝せず、大慢婆羅門は自在天・婆藪天・那羅延天・仏世尊の像を四脚に彫刻した椅子に座して自分の優位を示した。
大天は凡夫でありながら阿羅漢と自称し、無垢論師は全インド第一の者とうそぶいたが、これらはみな無間地獄に堕ちた罪人である。
汝はどうして世界第一の智人であるなどと言うのか。とても大地獄へ堕ちずにはすむまい。恐ろしい限りである。
答えていう、汝は七慢・九慢・八慢などの内容を知った上で問うているのか。釈尊はみずから三界第一と名乗られたところ、これを聞いた一切の外道は、「直ちに天罰が下るだろう。大地が割れて地獄に堕ちるに違いない」とののしった。
また日本では南都七大寺の三百余人の僧衆が、「最澄法師の慢心ぶりは、あたかもインドの大天や鉄腹婆羅門の生まれかわりのようである」と誹謗した。
これに対して、諸天は釈尊を罰するどころか、かえって左右に侍って守護し、大地も割れるどころか、金剛のように堅固になった。
また伝教大師は比叡山に延暦寺を立て、一切衆生の眼目となって人びとを導き、終には南都七大寺の諸僧はみな弟子となり、諸国の人民はみなその檀那となった。
このように、事実として勝れているものを勝れているというのは、慢心どころか、結果としては大いなる功徳をもたらすことになろうか。
伝教大師の法華秀句には「天台法華宗が諸宗に勝れているのは、その所依の経典である法華経が勝れているからである。単に自分を讃めて他を毀るわけではない」とある。
法華経第七の薬王品には「多くの山の中で須弥山が第一である。この法華経も同様に、諸経の中で最もその上にある」とある。
この経文によれば、法華経以前に説かれた華厳・般若・大日等の諸経や、同時に説かれた無量義経、後に説かれた涅槃経等を集めた五千巻七千巻の経々、またインド・竜宮・四天王天・l利天・日天・月天の中にある一切経や、十方世界にあるすべての経典は、土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山の諸山のようであり、それに対して日本に伝来された法華経は須弥山のようであって、その勝劣は歴然としているという。
同じく薬王品には「法華経が一切の経法の中で第一であるのと同じように、よく法華経を受持する者も、一切衆生の中で最もすぐれている」と見える。
この経文は、華厳経の請主の普賢菩薩や聴衆の解脱月菩薩、華厳経を伝えたインドの竜樹菩薩・馬鳴菩薩、中国の法蔵大師・清涼国師・則天皇后、日本の審祥大徳・良弁僧正・聖武天皇、
解深密経の対告衆の勝義生菩薩や般若経の説者の須菩提尊者、解深密経や般若経を伝えた中国の嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗、日本の観勒・道昭・孝徳天皇、
真言宗の大日経の聴衆である金剛薩Pや、大日経を伝えたインドの竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王、中国の善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・恵果、日本の弘法大師・慈覚大師、
涅槃経の請問主の迦葉童子菩薩や聴聞衆の五十二類の衆生、涅槃経を伝えた中国の曇無懺三蔵・光宅寺法雲・南三北七の十師等の人たちよりも、
末代悪世の凡夫として一つの戒も持たず、人からは極悪不信の者のように思われても、経文に説かれている通りに、法華経がすべての経典よりも勝れており、その教え以外に仏になる道はないと強く信じる人は、たとえほんの少しの智解がなくとも、かの大聖たちよりも百千万億倍もすぐれているという経文である。
かの大聖たちの中には、後に法華経を信じさせるためにひとまず他の経を勧めた人もおり、または他の経に深く執着して法華経に帰依しない人もおり、または他の経に留まるだけでなく、深く執着するあまりに、法華経はその経より劣るという人もいる。
それゆえに今、法華経を行じようとする者は、同じ薬王品に「たとえば一切の諸水の中で海が第一であるように、法華経を受持する者も第一である。
また多くの星の中で月天子が第一であるように、法華経を受持する者もまた第一である」と説かれている旨を堅く信じて、当世の日本国の智人たちは数多い星のようであり、法華経の行者日蓮は唯一の満月のようであると心得られよ。
問うていう、これまでにも、このようなことを言った人があっただろうか。
答えていう、伝教大師は「心して知れ。他宗の拠り所とする経は最第一の経ではないので、その経を受持する者もまた第一ではない。天台法華宗の拠り所とする法華経はすでに最第一であるから、よくこの経を受持する者も衆生の中で第一である。これは仏の金言に依るのであって、決して自分勝手にうぬぼれているのではない」と仰せである。
一日に千里を走るという名馬の尾に取り付いたダニはおのずから千里を飛び、転輪聖王に従う家来は瞬時に世界中を廻るというが、誰がこの事実を非難したり、疑ったりすることができようか。
「決して自分勝手にうぬぼれているのではない」という言葉は、よくよく心に刻みつけるべきだろう。このように、法華経を説かれた通りに信受する人は、大梵天王にも勝れ、帝釈天にも超えているから、
修羅を従えて須弥山をもかつぎ上げることもできるし、竜神を使って大海の水を汲み干すこともできるのである。
伝教大師はまた「法華経を讃める者は福徳を須弥山のように高く積みあげ、謗る者はその罪の重さで無間地獄に堕ちる」といわれ、
法華経の譬喩品には「この経を信受し、読誦し書写したりする者を見て、軽んじて賤しめ、憎み嫉んで、強い恨みを持つならば、その人は命を終えた後に阿鼻地獄に堕ちるだろう」と説かれている。
教主釈尊のお言葉が真実であり、多宝如来の「皆是真実」の証明に間違いがなく、十方の諸仏が梵天まで舌を伸ばして真実を証明したことが確かであるならば、今の日本国の衆生が無間地獄へ堕ちることを、どうして疑うことができようか。
また法華経第八巻の普賢菩薩品には「もし後の世においてこの経典を受持して読誦する者は、その願いが成就し、また現世において福報を得るだろう」とあり、
「もしこの経を供養し讃歎する者は、今世において事実として果報を得るだろう」と説かれている。
この二文の中、前の「また現世において福報を得るだろう」という八字と、後の「今世において事実として果報を得るだろう」という八字の十六字の文が実現せず、もし日蓮が今生において大果報を得ることがなければ、教主釈尊のお言葉は提婆の虚言と同じものとなり、多宝如来の証明は倶伽梨の妄語と変わらなくなってしまう。
すると、謗法の衆生は無間地獄に堕ちず、三世の諸仏もおられないということになるが、果たしてそんなことがあるかどうか。
そこでわが弟子たちは、取りあえず法華経に説かれているように身命を惜しまず修行して、この機会に仏法の虚実を試みるがよい。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
尋ねて云う、法華経の勧持品には「私はみずからの身命をかえりみず、ただ無上道を惜しむ」とあり、
涅槃経の如来性品には「たとえば議論や方法に長じた者が、王の命令を受けて他国に使者としておもむいた時、かりに自分の命を捨てることがあっても、王の言葉を伝えないようなことがあってはならない。それと同様に仏の教えを弘通する智者も、人びとの中においては身命をかえりみることなく、必ず大乗方等教の如来の秘蔵の教えである、一切衆生には皆仏性がある旨を説き勧めよ」とあるが、
どうして身命を捨ててまで弘通しなければならないのか、くわしくお教えください。
答えていう、かつて学びはじめた頃の私は、伝教・弘法・慈覚・智証などの先師が天皇の勅宣をいただいて、求法のために遠く中国へ渡ったことが、「私はみずからの身命をかえりみず」という経文にあたるのか、
または玄奘三蔵が法を求めて中国からインドへ行くのに、六度に及ぶ生を費やしたことなどが当たるのか、
さらには雪山童子が半偈の教えを聞くために鬼神に身を与え、薬王菩薩が七万二千歳の間、臂を焼いて仏を供養したことが当たるのか、などと思っていたが、その後に経文を子細に拝見して、決してこれらのことではないと考えるに至った。
法華経の勧持品に「私はみずからの身命をかえりみず」と説かれるこの「身命」について、その前文には三類の敵人が法華経の行者を罵り、責め、杖で打ちつけ、刀で切りつけ、その果てに身命を奪うと説かれている。
また涅槃経の如来性品に「かりに自分の命を捨てることがあっても」などと説かれていますのは、次の経文に「善根を断じた一闡提の者が悟りきった阿羅漢の姿をし、人里離れた閑静な場所に住んで、大乗経典を誹謗するだろう。そして、それを見た多くの凡人たちは、この人こそ真実の阿羅漢であり、大菩薩であると讃えるであろう」とある。
前の法華経の勧持品には、三類の強人の第三・僣聖増上慢を説いて、「あるいは人里離れた静寂の地に住み、律の規定どおりボロ布で作った法衣を着用して、乃至、世間の人からは六神通を体得した阿羅漢のように尊敬されるだろう」とあり、般泥経には「悟りを得た阿羅漢によく似た一闡提の者が悪事を行ずる」と見える。
これらの経文によれば、正法に強く敵対するのは、悪王や悪臣ではなく、外道や魔王でもなく、破戒の僧侶でもなく、戒律を堅く持って智恵ある高僧と敬われる者たちの中にこそ、大謗法の人はいるのである。
それゆえに妙楽大師は三類の強人について、「第三の僣聖増上慢にいたってはその迫害は最も激しく、耐えることが難しい。なぜなら、後の者ほどその姿が巧妙で、邪悪ぶりが露見しづらいからである」と述べている。
法華経の安楽行品には「この法華経は諸仏如来の深遠秘密の教えであり、一切の諸経の中で最上の経典である」と説かれており、
ここには「最上の経典である」とある。よって、この経文によれば、法華経は一切経の頂上にありと主張する人が法華経の行者ということになろう。
その法華経の行者と、国中の人びとから尊敬を集め、法華経よりも勝れている経々があると説く諸宗の者たちとが問答対決する時、
諸宗の者たちには国王や重臣の帰依があり、いっぽう法華経の行者は貧しく力もないため、国中の者が一同に軽蔑します。その時、かの不軽菩薩が増上慢の四衆に抵抗し、賢愛論師が大慢婆羅門を破折したように、強くその謗法を責めたならば迫害は激しくなり、必ずや身命にかかわることになろう。
これが「私はみずからの身命をかえりみず」という経文が実現した姿であり、第一の大事というべきであります。今の日蓮の身がこの大事に当たっていることは言うまでもない。
私のような分斉で、弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵のような高僧たちを、法華経に強く敵対する者だと言い、経文が真実であるならば、かの人びとが無間地獄に堕ちることは疑いないなどと言うのは、けっして容易なことではない。
法華経の宝塔品に説かれるように、裸で大火の中に入ったり、須弥山を手に取って投げたり、大石を背負って大海を渡ったりすることはなお容易であり、今の日本国で経文に説かれるままに法華経の法門を立てることこそ、最大の難事である。
それゆえ、霊山浄土にまします教主釈尊や宝浄世界の多宝仏、十方分身の諸仏や地涌千界の菩薩たち、梵天・帝釈天・日天・月天・四天王などの聖衆が、かげになりひなたになって助けて下さらなければ、法華経の行者は一時も一日も安穏ではいられないだろう。
◆ 撰時抄 〔C0・建治元年〕
釈子日蓮述
夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし。過去の大通智勝仏は出世し給ひて十小劫が間一経も説き給はず。経に云く「一坐十小劫」。又云く「仏、時未だ至らずと知ろしめして、請ひを受けて黙然として坐したまへり」等云云。今の教主釈尊は四十余年の程、法華経を説き給はず。経に云く「説時未だ至らざるが故に」と云云。老子は母の胎に処して八十年、弥勒菩薩は兜率の内院に籠らせ給ひて五十六億七千万歳をまち給うべし。彼の時鳥は春ををくり、鶏鳥は暁をまつ。畜生すらなをもかくのごとし。何に況や、仏法を修行せんに時を糾さざるべしや。
寂滅道場の砌には十方の諸仏示現し、一切の大菩薩集会し給ひ、梵・帝・四天は衣をひるがへし、竜神八部は掌を合はせ、凡夫大根性の者は耳をそばだて、生身得忍の諸菩薩・解脱月等請をなし給ひしかども、世尊は二乗作仏・久遠実成をば名字をかくし、即身成仏・一念三千の肝心其の義を宣べ給はず。此等は偏にこれ機は有りしかども、時の来たらざればのべさせ給はず。経に云く「説時未だ至らざるが故に」等云云。霊山会上の砌には閻浮第一の不孝の人たりし阿闍世大王座につらなり、一代謗法の提婆達多には天王如来と名をさづけ、五障の竜女は蛇身をあらためずして仏になる。決定性の成仏はョ種の花さき果なり、久遠実成は百歳の叟二十五の子となれるかとうたがふ。一念三千は九界即仏界、仏界即九界と談ず。されば此の経の一字は如意宝珠なり。一句は諸仏の種子となる。此等は機の熟不熟はさてをきぬ、時の至れるゆへなり。経に云く「今正しく是れ其の時なり、決定して大乗を説かん」等云云。
問うて云く、機にあらざるに大法を授けられば、愚人は定めて誹謗をなして悪道に堕つるならば、豈に説く者の罪にあらずや。答へて云く、人路をつくる、路に迷ふ者あり、作る者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう、病人嫌ひて服せずして死せば、良医の失となるか。尋ねて云く、法華経の第二に云く「無智の人の中に此の経を説くこと莫れ」。同じき第四に云く「分布して妄りに人に授与すべからず」。同じき第五に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り。長夜に守護して妄りに宣説せざれ」等云云。此等の経文は、機にあらずば説かざれというか、いかん。今反詰して云く、不軽品に云く「而も是の言を作さく、我深く汝等を敬ふ」等云云。「四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り。悪口罵詈して言く、是の無智の比丘」。又云く「衆人或は杖木瓦石を以て之れを打擲す」等云云。勧持品に云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん」云云。此等の経文は、悪口罵詈乃至打擲すれどもととかれて候は、説く人の失となりけるか。求めて云く、此の両説は水火なり。いかんが心うべき。答へて云く、天台云く「時に適ふのみ」。章安云く「取捨宜しきを得て一向にすべからず」等云云。釈の心は、或時は謗じぬべきにはしばらくとかず、或時は謗ずとも強ひて説くべし。或時は一機は信ずべくとも万機謗るべくばとくべからず、或時は万機一同に謗ずとも強ひても説くべし。初成道の時は、法恵・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩、梵・帝・四天等の凡夫大根性の者かずをしらず。鹿野苑の苑には、倶隣等の五人、迦葉等の二百五十人、舎利弗等の二百五十人、八万の諸天、方等大会の儀式には世尊の慈父の浄飯大王ねんごろに恋せさせ給ひしかば、仏宮に入らせ給ひて観仏三昧経をとかせ給ひ、悲母の御ためにl利天に九十日が間籠らせ給ひしには摩耶経をとかせ給ふ。慈父悲母なんどにはいかなる秘法か惜しませ給ふべき。なれども法華経をば説かせ給はず。せんずるところ機にはよらず、時いたらざればいかにもとかせ給はぬにや。
問うて云く、何なる時にか小乗権経をとき、何なる時にか法華経を説くべきや。答へて云く、十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで、時と機とをば相知りがたき事なり。何に況や我等は凡夫なり。いかでか時機をしるべき。求めて云く、すこしも知る事あるべからざるか。答へて云く、仏眼をかって時機をかんがへよ、仏日を用て国をてらせ。問うて云く、其の心 如何。答へて云く、大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂 我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固、次の五百年には禅定堅固〈已上一千年〉。次の五百年には読誦多聞堅固、次の五百年には多造塔寺堅固〈已上二千年〉。次の五百年には「我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」等云云。此の五の五百歳・二千五百余年に、人々の料簡さまざまなり。漢土の道綽禅師が云く、正像二千・四箇の五百歳には小乗と大乗との白法盛んなるべし。末法に入りては彼等の白法皆消滅して、浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし。日本国の法然が料簡して云く、今日本国に流布する法華経・華厳経並びに大日経・諸の小乗経・天台・真言・律等の諸宗は、大集経の記文の正像二千年の白法なり。末法に入りては彼等の白法は皆滅尽すべし。設ひ行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず。十住毘婆沙論と曇鸞法師が難行道、道綽の未有一人得者、善導の千中無一これなり。彼等の白法隠没の次には、浄土の三部経・弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし。此れを行ぜん人々は、いかなる悪人愚人なりとも、十即十生・百即百生、唯浄土の一門のみ有りて通入すべき路とはこれなり。されば後世を願はん人々は、叡山・東寺・園城・七大寺等の日本一州の諸寺諸山の御帰依をとどめて、彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばいとて念仏堂につけば、決定往生南無阿弥陀仏とすすめければ、我が朝一同に其の義になりて今に五十余年なり。
日蓮此等の悪義を難じやぶる事は、事ふり候ひぬ。彼の大集経の白法隠没の時は、第五の五百歳、当世なる事は疑ひなし。但し彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内に八万の国あり、其の国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく、広宣流布せさせ給ふべきなり。問うて云く、其の証文 如何。答へて云く、法華経の第七に云く「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」等云云。経文は、大集経の白法隠没の次の時をとかせ給ふに、広宣流布と云云。同第六の巻に云く「悪世末法の時、能く是の経を持つ者」等云云。又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんと欲する時に於て」等。又第四の巻に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。又第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」。又第七の巻に、第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等其の便りを得ん」。大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云。法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」。又云く「或は阿蘭若に有り」等云云。又云く「悪鬼其の身に入る」等云云。文の心は第五の五百歳の時、悪鬼の身に入れる大僧等国中に充満せん。其の時に智人一人出現せん。彼の悪鬼の入れる大僧等、時の王臣・万民等を語らひて、悪口罵詈、杖木瓦礫、流罪死罪に行はん時、釈迦・多宝・十方の諸仏、地涌の大菩薩らに仰せつけば、大菩薩は梵・帝・日月・四天等に申しくだされ、其の時天変地夭盛んなるべし。国主等其のいさめを用ゐずば、隣国にをほせつけて、彼々の国々の悪王・悪比丘等をせめらるるならば、前代未聞の大闘諍一閻浮提に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ、或は身ををしむゆへに、一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば、彼のにくみつる一の小僧を信じて、無量の大僧等・八万の大王等・一切の万民、皆頭を地につけ掌を合はせて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし。例せば神力品の十神力の時、十方世界の一切衆生一人もなく、娑婆世界に向かひて大音声をはなちて、南無釈迦牟尼仏・南無釈迦牟尼仏、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。
問うて曰く、経文は分明に候。天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや。答へて曰く、汝が不審逆なり。釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ。経文に分明ならば釈を尋ぬべからず。さて釈の文、経に相違せば経をすてて釈につくべきか 如何。彼れ云く、道理至極せり。しかれども凡夫の習ひ、経は遠し釈は近し。近き釈分明ならば、いますこし信心をますべし。今云く、汝が不審ねんごろなれば少々釈をいだすべし。天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に沾はん」。妙楽大師云く「末法の初め冥利無きにあらず」。伝教大師云く「正像稍過ぎ已りて末法太だ近きに有り。法華一乗の機今正しく是れ其の時なり。何を以て知ることを得ん。安楽行品に云く、末世法滅の時なり」。又云く「代を語れば則ち像の終り末の初め、地を尋ぬれば唐の東、羯の西、人を原ぬれば則ち五濁の生闘諍の時なり。経に云く、猶多怨嫉 況滅度後と。此の言良に以有るなり」云云。夫れ釈尊の出世は住劫第九の減、人寿百歳の時なり。百歳と十歳との中間、在世五十年滅後二千年と一万年となり。其の中間に法華経の流布の時二度あるべし。所謂 在世の八年、滅後には末法の始めの五百年なり。而るに天台・妙楽・伝教等は、進みては在世法華経の御時にももれさせ給ひぬ。退きては滅後末法の時にも生まれさせ給はず。中間なる事をなげかせ給ひて末法の始めをこひさせ給ふ御筆なり。例せば阿私陀仙人が悉達太子の生まれさせ給ひしを見て悲しみて云く、現生には九十にあまれり。太子の成道を見るべからず、後生には無色界に生まれて五十年の説法の坐にもつらなるべからず、正像末にも生まるべからずとなげきしがごとし。道心あらん人々は此れを見ききて悦ばせ給へ。正像二千年の大王よりも、後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ。此れを信ぜざらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱ふる癩人とはなるべし。梁の武帝の願に云く「寧ろ提婆達多となて無間地獄には沈むとも、欝頭羅弗とはならじ」云云。
問うて云く、竜樹・天親等の論師の中に此の義ありや。答へて云く、竜樹・天親等は内心には存ぜさせ給ふとはいえども、言には此の義を宣べ給はず。求めて云く、いかなる故にか宣べ給はざるや。答へて云く、多くの故あり。一には彼の時には機なし、二には時なし、三には迹化なれば付属せられ給はず。求めて云く、願はくは此の事よくよくきかんとをもう。答へて云く、夫れ仏の滅後二月十六日よりは正法の始めなり。迦葉尊者仏の付属をうけて二十年、次に阿難尊者二十年、次に商那和修二十年、次に優婆崛多二十年、次に提多迦二十年、已上一百年が間は但小乗経の法門をのみ弘通して、諸大乗経は名字もなし。何に況や法華経をひろむべしや。次には弥遮迦・仏陀難提・仏駄密多・脇比丘・富那奢等・の四五人、前の五百余年が間は大乗経の法門少々出来せしかども、とりたてて弘通し給はず、但小乗経を面としてやみぬ。已上大集経の先五百年、解脱堅固の時なり。正法の後六百年已後一千年が前、其の中間に馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅ラ尊者・僧難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人々、始めには外道の家に入り、次には小乗経をきわめ、後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給ひき。此等の大士等は諸大乗経をもって諸小乗経をば破せさせ給ひしかども、諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず。設ひ勝劣をすこしかかせ給ひたるやうなれども、本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の肝要の法門は分明ならず。但或は指をもって月をさすがごとくし、或は文にあたりてひとはし計りかかせ給ひて、化導の始終・師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみへず。此等は正法の後の五百年、大集経の禅定堅固の時にあたれり。正法一千年の後は月氏に仏法充満せしかども、或は小をもて大を破し、或は権経をもって実経を隠没し、仏法さまざまに乱れしかば得道の人やうやくすくなく、仏法につけて悪道に堕つる者かずをしらず。
正法一千年の後、像法に入りて一十五年と申せしに、仏法東に流れて漢土に入りにき。像法の前五百年の内、始めの一百余年が間は漢土の道士と月氏の仏法と諍論していまだ事さだまらず。設ひ定まりたりしかども仏法を信ずる人の心いまだふかからず。而るに仏法の中に大小・権実・顕密をわかつならば、聖教一同ならざる故、疑ひをこりて、かへりて外典とともなう者もありぬべし。これらのをそれあるかのゆへに摩騰・竺蘭は自らは知りて而も大小を分けず、権実をいはずしてやみぬ。其の後、魏・晋・宋・斉・梁の五代が間、仏法の内に大小・権実・顕密をあらそひし程に、いづれこそ道理ともきこえずして、上一人より下万民にいたるまで不審すくなからず。南三北七と申して仏法十流にわかれぬ。所謂 南には三時・四時・五時、北には五時・半満・四宗・五宗・六宗・二宗の大乗・一音等、各々義を立て辺執水火なり。しかれども大綱は一同なり。所謂 一代聖教の中には華厳経第一、涅槃経第二、法華経第三なり。法華経は阿含・般若・浄名・思益等の経々に対すれば真実なり、了義経・正見なり。しかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見の経等云云。漢より四百余年の末、五百年に入りて、陳隋二代に智と申す小僧一人あり。後には天台智者大師と号したてまつる。南北の邪義をやぶりて、一代聖教の中には法華経第一、涅槃経第二、華厳経第三なり等云云。此れ像法の前五百歳、大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたれり。
像法の後の五百歳は唐の始め太宗皇帝の御宇に玄奘三蔵、月支に入りて十九年が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値ひたてまつりて、八万聖教十二部経の淵底を習ひきわめしに、其の中に二宗あり。所謂 法相宗・三論宗なり。此の二宗の中に法相大乗は遠くは弥勒・無著、近くは戒賢論師に伝へて、漢土にかへりて太宗皇帝にさづけさせ給ふ。此の宗の心は、仏教は機に随ふべし。一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり。所謂 法華経等なり。三乗の機のためには三乗真実・一乗方便。所謂 深密経・勝鬘経等此れなり。天台智者等は此の旨を弁へず等云云。而も太宗は賢王なり。当時名を一天にひびかすのみならず、三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき、漢土を手ににぎるのみならず、高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし、内外を極めたる王ときこえし賢王の第一の御帰依の僧なり。天台宗の学者の中にも頸をさしいだす人一人もなし。而れば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ。同じき太宗の太子高宗、高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師と云ふ者あり。法相宗に天台宗のをそわるるところを見て、前に天台の御時せめられし華厳経を取り出だして、一代の中には華厳第一、法華第二、涅槃第三と立てけり。太宗第四代玄宗皇帝の御宇、開元四年同八年に、西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持ちて渡り真言宗を立つ。此の宗の立義に云く、教に二種あり。一には釈迦の顕教、所謂 華厳・法華等。二には大日の密教、所謂 大日経等なり。法華経は顕教の第一なり。此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども、事相の印契と真言とはたえてみへず。三密相応せざれば不了義経等云云。已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども、天台大師程の智人法華宗の中になかりけるかの間、内々はゆはれなき由は存じけれども、天台のごとく公場にして論ぜられざりければ、上国王大臣、下一切の人民にいたるまで、皆仏法に迷ひて衆生の得道みなとどまりけり。此等は像法の後の五百年の前二百余年が内なり。
像法に入りて四百余年と申しけるに、百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等日本国にわたる。漢土の梁の末、陳の始めにあひあたる。日本には神武天王よりは第三十代、欽明天王の御宇なり。欽明の御子、用明の太子に上宮王子仏法を弘通し給ふのみならず、並びに法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給ひぬ。其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗・成実宗を観勒僧正、百済国よりわたす。同御代に道昭法師、漢土より法相宗・倶舎宗をわたす。人王第四十四代元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有りしかども、而も弘通せずして漢土へかへる。此の僧をば善無畏三蔵という。人王第四十五代に聖武天王の御宇に審祥大徳、新羅国より華厳宗をわたして、良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて、東大寺の大仏を立てさせ給えり。同御代に大唐の鑑真和尚、天台宗と律宗をわたす。其の中に律宗をば弘通し、小乗の戒場を東大寺に建立せしかども、法華宗の事をば名字をも申し出ださせ給はずして入滅し了んぬ。
其の後人王第五十代、像法八百年に相当たりて桓武天王の御宇に、最澄と申す小僧出来せり。後には伝教大師と号したてまつる。始めには三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並びに禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給ひし程に、我と立て給へる国昌寺、後には比叡山と号す、此にして六宗の本経本論と宗々の人師の釈とを引き合はせて御らむありしかば、彼の宗々の人師の釈、所依の経論に相違せる事多き上、僻見多々にして信受せん人皆悪道に堕ちぬべしとかんがへさせ給ふ。其の上法華経の実義は、宗々の人々、我も得たり我も得たりと自讃ありしかども其の義なし。此れを申すならば喧嘩出来すべし、もだして申さずば仏誓にそむきなんと、をもひわづらわせ給ひしかども、終に仏の誡めををそれて桓武皇帝に奏し給ひしかば、帝此の事ををどろかせ給ひて六宗の碩学に召し合はさせ給ふ。彼の学者等始めは慢幢山のごとし、悪心毒蛇のやうなりしかども、終に王の前にしてせめをとされ、六宗七寺一同に御弟子となりぬ。例せば漢土の南北の諸師、陳殿にして天台大師にせめをとされて御弟子となりしがごとし。此れは是れ、円定・円恵計りなり。其の上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給ふのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏の滅後一千八百余年が間身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒、日本国に始まる。されば伝教大師は、其の功を論ずれば竜樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり。されば日本国の当世の東寺・園城・七大寺・諸国の八宗・浄土・禅宗・律等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。かの漢土九国の諸僧等は、円定・円恵は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒にをいては弟子とならぬ者もありけん。この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり。而れども漢土日本の天台宗と真言の勝劣は、大師心中には存知せさせ給ひけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるゆへにや、伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、真言宗は天台宗に勝れたりと、上一人より下万人にいたるまでをぼしめしをもえり。しかれば天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。此の伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ「於我法中 闘諍言訟 白法隠没」の時にはあたらず。
今末法に入りて二百余歳、大集経の「於我法中 闘諍言訟 白法隠没」の時にあたれり。仏語まことならば定めて一閻浮提に闘諍起こるべき時節なり。伝へ聞く、漢土は三百六十箇国二百六十余州はすでに蒙古国に打ちやぶられぬ。花洛すでにやぶられて、徽宗・欽宗の両帝北蕃にいけどりにせられて、韃靼にして終にかくれさせ給ひぬ。徽宗の孫高宗皇帝は長安をせめをとされて、田舎の臨安行在府に落ちさせ給ひて、今に数年が間京を見ず。高麗六百余国も新羅・百済等の諸国等も皆大蒙古国の皇帝にせめられぬ。今の日本国の壱岐・対馬並びに九国のごとし。闘諍堅固の仏語地に堕ちず。あたかもこれ大海のしをの時をたがへざるがごとし。是れをもって案ずるに、大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか。彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるる道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記し給ひけるは寸分もたがわざりけるにや。何に況や法華経は、釈尊は要当説真実となのらせ給ひ、多宝仏は真実なりと御判をそへ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給ひて、後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。大地は反覆すとも、高山は頽落すとも、春の後に夏は来たらずとも、日は東へかへるとも、月は地に落つるとも此の事は一定なるべし。
此の事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と並びに万民等が、仏の御使ひとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、弟子眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。これをば愚痴の者は呪咀すとをもいぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云く「彼れが為に悪を除くは即ち是れ彼れが親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等の頂を照らし給ふべき。地神いかでか彼等の足を載せ給ふべき。提婆達多は仏を打ちたてまつりしかば、大地揺動して火炎いでにき。檀弥羅王は師子尊者の頭を切りしかば、右の手刀とともに落ちぬ。徽宗皇帝は法道が面にかなやきをやきて江南にながせしかば、半年が内にゑびすの手にかかり給ひき。蒙古のせめも又かくのごとくなるべし。設ひ五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなうべからず。必ず日本国の一切衆生、兵難に値ふべし。されば日蓮が法華経の行者にてあるなきかは、これにて見るべし。
教主釈尊記して云く、末代悪世に法華経を弘通するものを悪口罵詈等せん人は、我を一劫が間あだせん者の罪にも百千万億倍すぎたるべしととかせ給へり。而るを今の日本国の国主万民等、雅意にまかせて、父母宿世の敵よりもいたくにくみ、謀反殺害の者よりもつよくせめぬるは、現身にも大地われて入り、天雷も身をさかざるは不審なり。日蓮が法華経の行者にてあらざるか。もししからばををきになげかし。今生には万人にせめられて片時もやすからず、後生には悪道に堕ちん事あさましとも申すばかりなし。又日蓮法華経の行者ならずば、いかなる者の一乗の持者にてはあるべきぞ。法然が法華経をなげすてよ、善導が千中無一、道綽が未有一人得者と申すが法華経の行者にて候べきか。又弘法大師の云く、法華経を行ずるは戯論なりとかかれたるが、法華経の行者なるべきか。経文には「能持是経」、「能説此経」なんどこそとかれて候へ。よくとくと申すはいかなるぞと申すに、「於諸経中 最在其上」と申して、大日経・華厳経・涅槃経・般若経等に法華経はすぐれて候なりと申す者をこそ、経文には法華経の行者とはとかれて候へ。もし経文のごとくならば日本国に仏法わたて七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし。いかにいかにとをもうところに、頭破作七分口則閉塞のなかりけるは、道理にて候ひけるなり。此等は浅き罰なり。但一人二人等のことなり。日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は、閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。此等をみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすすめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合はせ、四海に肩をならぶべきや。
疑って云く、設ひ正法の時は仏の在世に対すれば根機劣なりとも、像末に対すれば最上の上機なり。いかでか正法の始めに法華経をば用ゐざるべき。随って馬鳴・竜樹・提婆・無著等も正法一千年の内にこそ出現せさせ給へ。天親菩薩は千部の論師、法華論を造りて諸経の中第一の義を存す。真諦三蔵の相伝に云く、月支に法華経を弘通せる家五十余家、天親は其の一なりと。已上正法なり。像法に入りては天台大師、像法の半ばに漢土に出現して、玄と文と止との三十巻を造りて法華経の淵底を極めたり。像法の末に伝教大師日本に出現して、天台大師の円恵・円定の二法を我が朝に弘通せしむるのみならず、円頓の大戒場を叡山に建立して日本一州皆同じく円戒の地になして、上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰がせ給ふは、豈に像法の時、法華経の広宣流布にあらずや。答へて云く、如来の教法は必ず機に随ふという事は世間の学者の存知なり。しかれども仏教はしからず。上根上智の人のために必ず大法を説くならば、初成道の時なんぞ法華経をとかせ給はざる。正法の先五百余年に大乗経を弘通すべし。有縁の人に大法を説かせ給ふならば、浄飯大王・摩耶夫人に観仏三昧経・摩耶経をとくべからず。無縁の悪人謗法の者に秘法をあたえずば、覚徳比丘は無量の破戒の者に涅槃経をさづくべからず。不軽菩薩は誹謗の四衆に向かひて、いかに法華経をば流通せさせ給ひしぞ。されば機に随ひて法を説くと申すは大なる僻見なり。
問うて云く、竜樹・世親等は法華経の実義をば宣べ給はずや。答へて云く、宣べ給はず。問うて云く、何なる教をか宣べ給ひし。答へて云く、華厳・方等・般若・大日経等の権大乗、顕密の諸経をのべさせ給ひて、法華経の法門をば宣べさせ給はず。問うて云く、何をもってこれをしるや。答へて云く、竜樹菩薩の所造の論三十万偈。而れども、尽くして漢土日本にわたらざれば其の心しりがたしといえども、漢土にわたれる十住毘婆沙論・中論・大論等をもって、天竺の論をも比知して此れを知るなり。疑って云く、天竺に残る論の中にわたれる論よりも勝れたる論やあるらん。答へて云く、竜樹菩薩の事は私に申すべからず。仏記し給ふ。我が滅後に竜樹菩薩と申す人南天竺に出づべし。彼の人の所詮は中論という論に有るべしと仏記し給ふ。随って竜樹菩薩の流、天竺に七十家あり。七十人ともに大論師なり。彼の七十家の人々は皆中論を本とす。中論四巻二十七品の肝心は因縁所生法の四句の偈なり。此の四句の偈は華厳・般若等の四教三諦の法門なり。いまだ法華開会の三諦をば宣べ給はず。疑って云く、汝がごとくに料簡せる人ありや。答へて云く、天台云く「中論を以て相比すること莫れ」。又云く「天親・竜樹内鑑冷然にして、外は時の宜しきに適ふ」等云云。妙楽云く「若し破会を論ぜば、未だ法華に若かざる故に」云云。従義の云く「竜樹・天親未だ天台に若かず」云云。
問うて云く、唐の末に不空三蔵一巻の論をわたす。其の名を菩提心論となづく。竜猛菩薩の造なり云云。弘法大師云く「此の論は竜猛千部の中の第一肝心の論」云云。答へて云く、此の論一部七丁あり。竜猛の言ならぬ事処々に多し。故に目録にも或は竜猛、或は不空と両方なり。いまだ事定まらず。其の上此の論文は一代を括れる論にもあらず。荒量なる事此れ多し。先づ唯真言法中の肝心の文あやまりなり。其の故は文証現証ある法華経の即身成仏をばなきになして、文証も現証もあとかたもなき真言経に即身成仏を立て候。又唯という唯の一字は第一のあやまりなり。事のていを見るに、不空三蔵の私につくりて候を、時の人にをもくせさせんがために事を竜猛によせたるか。其の上不空三蔵は誤る事かずをほし。所謂 法華経の観智の儀軌に、寿量品を阿弥陀仏とかける、眼の前の大僻見。陀羅尼品を神力品の次にをける、属累品を経末に下せる、此等はいうかひなし。さるかとみれば、天台の大乗戒を盗みて、代宗皇帝に宣旨を申し五台山の五寺に立てたり。而も又真言の教相には天台宗をすべしといえり。かたがた誑惑の事どもなり。他人の訳ならば用ゐる事もありなん。此の人の訳せる経論は信ぜられず。総じて月支より漢土に経論をわたす人、旧訳新訳に一百八十六人なり。羅什三蔵一人を除きてはいづれの人々も誤らざるはなし。其の中に不空三蔵は殊に誤り多き上、誑惑の心顕はなり。
疑って云く、何をもって知るぞや、羅什三蔵より外の人々はあやまりなりとは。汝が禅宗・念仏・真言等の七宗を破るのみならず、漢土日本にわたる一切の訳者を用ゐざるかいかん。答へて云く、此の事は余が第一の秘事なり。委細には向かひて問ふべし。但しすこし申すべし。羅什三蔵の云く、我漢土の一切経を見るに皆梵語のごとくならず。いかでか此の事を顕はすべき。但し一つの大願あり。身を不浄になして妻を帯すべし。舌計り清浄になして仏法に妄語せじ。我死せば必ずやくべし。焼かん時、舌焼くるならば我が経をすてよと、常に高座してとかせ給ひしなり。上一人より下万民にいたるまで願して云く、願はくは羅什三蔵より後に死せんと。終に死し給ふ後、焼きたてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ。御舌計り火中に青蓮華生ひて其の上にあり。五色の光明を放ちて夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給ひき。さてこそ一切の訳人の経々は軽くなりて、羅什三蔵の訳し給へる経々、殊に法華経は漢土にはやすやすとひろまり候ひしか。
疑って云く、羅什已前はしかるべし。已後の善無畏・不空等は 如何。答へて云く、已後なりとも訳者の舌の焼くるをば誤りありけりとしるべし。されば日本国に法相宗のはやりたりしを、伝教大師責めさせ給ひしには、羅什三蔵は舌焼けず、玄奘慈恩は舌焼けぬとせめさせ給ひしかば、桓武天王は道理とをぼして天台法華宗へはうつらせ給ひしなり。涅槃経の第三・第九等をみまいらすれば、我が仏法は月支より他国へわたらんの時、多くの謬誤出来して衆生の得道うすかるべしととかれて候。されば妙楽大師は「並びに進退は人に在り何ぞ聖旨に関はらん」〈記九〉とこそあそばされて候へ。今の人々いかに経のままに後世をねがうとも、あやまれる経々のままにねがわば得道もあるべからず。しかればとても仏の御とがにはあらじとかかれて候。仏教を習ふ法には大小・権実・顕密はさてをく、これこそ第一の大事にては候らめ。
疑って云く、正法一千年の論師の内心には法華経の実義の顕密の諸経に超過してあるよしはしろしめしながら、外には宣説せずして但権大乗計りを宣べさせ給ふことはしかるべしとわをぼへねども、其の義はすこしきこえ候ひぬ。像法一千年の半ばに天台智者大師出現して、題目の妙法蓮華経の五字を玄義十巻一千枚にかきつくし、文句十巻には始め如是我聞より終り作礼而去にいたるまで、一字一句に因縁・約教・本迹・観心の四の釈をならべて又一千枚に尽くし給ふ。已上玄義・文句の二十巻には一切経の心を江河として法華経を大海にたとえ、十方界の仏法の露一Hも漏らさず、妙法蓮華経の大海に入れさせ給いぬ。其の上天竺の大論の諸義一点ももらさず、漢土南北の十師の義破すべきをばこれをはし、取るべきをば此れを用ゐる。其の上、止観十巻を注して一代の観門を一念にすべ、十界の依正を三千につづめたり。此の書の文体は遠くは月支一千年の間の論師にも超え、近くは尸那五百年の人師の釈にも勝れたり。故に三論宗の吉蔵大師、南北一百余人の先達と長者らをすすめて、天台大師の講経を聞かんとする状に云く「千年の興、五百の実、復今日に在り。乃至、南岳の叡聖天台の明哲、昔は三業住持し今は二尊に紹係す。豈に止甘露を震旦に灑ぐのみならん。亦当に法鼓を天竺に震ふべし。生知の妙悟魏晋以来、典籍の風謡実に連類無し。乃至、禅衆一百余の僧と共に智者大師を奉請す」等云云。終南山の道宣律師、天台大師を讃歎して云く「法華を照了すること高輝の幽谷に臨むが若く、摩訶衍を説くこと長風の太虚に遊ぶに似たり。仮令文字の師千群万衆ありて数彼の妙弁を尋ぬとも能く窮むる者無し。乃至、義月を指すに同じ。乃至、宗一極に帰す」云云。華厳宗の法蔵法師、天台を讃じて云く「思禅師、智者等の如き神異に感通して迹登位に参はる。霊山の聴法憶ひ今に在り」等云云。真言宗の不空三蔵・含光法師等、師弟共に真言宗をすてて天台大師に帰伏する物語に云く、高僧伝に云く「不空三蔵と親り天竺に遊びたるに彼しこに僧有り。問うて曰く、大唐に天台の教迹有り、最も邪正を簡び偏円を暁らむるに堪へたり、能く之れを訳して将に此土に至らしむべきや」等云云。此の物語は、含光が妙楽大師にかたり給ひしなり。妙楽大師此の物語を聞いて云く「豈に中国に法を失ひて之れを四維に求むるに非ずや、而も此の方識ること有る者少なし。魯人の如きのみ」等云云。身毒国の中に天台三十巻のごとくなる大論あるならば、南天の僧いかでか漢土の天台の釈をねがうべき。これあに像法の中に法華経の実義顕はれて、南閻浮提に広宣流布するにあらずや。
答へて云く、正法一千年像法の前四百年、已上仏滅後一千四百余年に、いまだ論師の弘通し給はざる一代超過の円定円恵を漢土に弘通し給ふのみならず、其の声月氏までもきこえぬ。法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓の戒壇を立てられず。小乗の威儀をもって円の恵定に切りつけるは、すこし便りなきににたり。例せば日輪の蝕するがごとし、月輪のかけたるににたり。何にいわうや天台大師の御時は大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたて、いまだ広宣流布の時にあらず。
問うて云く、伝教大師は日本国の士なり。桓武の御宇に出世して欽明より二百余年が間の邪義をなんじやぶり、天台大師の円恵・円定を撰し給ふのみならず、鑑真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり、叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり。此の大事は仏滅後一千八百年が間の、身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり。内証は竜樹・天台等には或は劣るにもや、或は同じくもやあるらん。仏法の人をすべて一法となせる事は、竜樹・天親にもこえ、南岳・天台にもすぐれて見えさせ給ふなり。総じては如来御入滅の後一千八百年が間、此の二人こそ法華経の行者にてはをはすれ。故に秀句に云く「経に云く、若し須弥を接りて他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だこれ難しとせず。乃至、若し仏の滅後悪世の中に於て能く此の経を説かん是れ則ち為れ難し」等云云。此の経を釈して云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」云云。釈の心は、賢劫第九の減、人寿百歳の時より、如来在世五十年、滅後一千八百余年が中間に、高さ十六万八千由旬六百六千十二万里の金山を、有る人五尺の小身の手をもって方一寸二寸等の瓦礫をにぎりて一丁二丁までなぐるがごとく、雀鳥のとぶよりもはやく鉄囲山の外へなぐる者はありとも、法華経を仏のとかせ給ひしやうに説かん人は末法にはまれなるべし。天台大師・伝教大師こそ仏説に相似してとかせ給ひたる人にてをはすれとなり。天竺の論師はいまだ法華経へゆきつき給はず。漢土の天台已前の人師は、或はすぎ、或はたらず。慈恩・法蔵・善無畏等は東を西といゐ、天を地と申せる人々なり。此等は伝教大師の自讃にはあらず。
去ぬる延暦二十一年正月十九日、高雄山に桓武皇帝行幸なりて、六宗七大寺の碩徳たる善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人、最澄法師と召し合はせられて宗論ありしに、或は一言に舌を巻きて二言三言に及ばず、皆一同に頭をかたぶけ、手をあざう。三論の二蔵・三時・三転法輪、法相の三時・五性、華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相十玄、皆大綱をやぶらる。例せば大屋の棟・梁のをれたるがごとし。十大徳の慢幢も倒れにき。爾の時天子大いに驚かせ給ひて、同二十九日に弘世・国道の両吏を勅使として、重ねて七寺六宗に仰せ下されしかば、各々帰伏の状を載せて云く、「窃かに天台の玄疏を見れば、総じて釈迦一代の教を括りて悉く其の趣を顕はすに通ぜざる所無く、独り諸宗に逾え殊に一道を示す。其の中の所説甚深の妙理なり。七箇の大寺六宗の学生昔より未だ聞かざる所、曾て未だ見ざる所なり。三論・法相久年の諍ひ渙焉として氷の如く釈け、照然として既に明らかに猶雲霧を披きて三光を見るがごとし。聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此理を争へども其の疑ひ未だ解けず。而るに此の最妙の円宗未だ闡揚せず。蓋し以て此の間の群生未だ円味に応はざるか。伏して惟れば聖朝久しく如来の付を受け深く純円の機を結び、一妙の義理始めて乃ち興顕し、六宗の学者初めて至極を悟る。此の界の含霊今より後、悉く妙円の船に載り、早く彼岸に済ることを得ると謂ひつべし。乃至、善議等牽かれて休運に逢ひ乃ち奇詞を閲す、深期に非ざるよりは何をか聖世に託せんや」等云云。彼の漢土の嘉祥等は一百余人をあつめて天台大師を聖人と定めたり。今日本の七寺三百余人は伝教大師を聖人とがうしたてまつる。仏滅後二千余年に及んで、両国に聖人二人出現せり。其の上、天台大師未弘の円頓大戒を叡山に建立し給う。此れ豈に像法の末に法華経広宣流布するにあらずや。
答へて云く、迦葉・阿難等の弘通せざる大法を、馬鳴・竜樹・提婆・天親等の弘通せる事、前の難に顕はれたり。又竜樹・天親等の流布し残し給へる大法、天台大師の弘通し給ふ事又難にあらわれぬ。又天台智者大師の弘通し給はざる円頓の大戒、伝教大師の建立せさせ給ふ事又顕然なり。但し詮と不審なる事は、仏は説き尽くし給へども、仏滅後に迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親、乃至、天台・伝教のいまだ弘通しましまさぬ最大の深秘の正法、経文の面に現前なり。此の深法、今末法の始め五五百歳に一閻浮提に広宣流布すべきやの事不審極まり無きなり。
問ふ、いかなる秘法ぞ。先づ名をきき、次に義をきかんとをもう。此の事もし実事ならば、釈尊の二度世に出現し給ふか。上行菩薩の重ねて涌出せるか。いそぎいそぎ慈悲をたれられよ。彼の玄奘三蔵は六生を経て月氏に入りて十九年、法華一乗は方便教、小乗阿含経は真実教。不空三蔵は身毒に返りて寿量品を阿弥陀仏とかかれたり。此等は東を西という、日を月とあやまてり。身を苦しめてなにかせん、心に染みてようなし。幸ひ我等末法に生まれて一歩をあゆまずして三祇をこえ、頭を虎にかわずして無見頂相をえん。答へて云く、此の法門を申さん事は経文に候へばやすかるべし。但し此の法門には先づ三つの大事あり。大海は広けれども死骸をとどめず。大地は厚けれども不孝の者をば載せず。仏法には五逆をたすけ、不孝をばすくう。但し誹謗一闡提の者、持戒にして第一なるをばゆるされず。此の三つのわざわひとは、所謂 念仏宗と禅宗と真言宗となり。一には念仏宗は日本国に充満して、四衆の口あそびとす。二に禅宗は三衣一鉢の大慢の比丘の四海に充満して、一天の明導とをもへり。三に真言宗は又彼等の二宗にはにるべくもなし。叡山・東寺・七寺・園城、或は官主、或は御室、或は長吏、或は検校なり。かの内侍所の神鏡燼灰となりしかども、大日如来の宝印を仏鏡とたのみ、宝剣西海に入りしかども、五大尊をもって国敵を切らんと思へり。此等の堅固の信心は、設ひ劫石はひすらぐともかたぶくべしとはみへず。大地は反覆すとも疑心をこりがたし。彼の天台大師の南北をせめ給ひし時も、此の宗いまだわたらず。此の伝教大師の六宗をしえたげ給ひし時ももれぬ。かたがたの強敵をまぬかれて、かへて大法をかすめ失う。其の上伝教大師の御弟子、慈覚大師此の宗をとりたてて叡山の天台宗をかすめをとして、一向真言宗になししかば、此の人には誰の人か敵をなすべき。かかる僻見のたよりをえて、弘法大師の邪義をもとがむる人もなし。安然和尚すこし弘法を難ぜんとせしかども、只華厳宗のところ計りとがむるににて、かへて法華経をば大日経に対して沈めはてぬ。ただ世間のたて入りの者のごとし。
問うて云く、此の三宗の謬誤 如何。答へて云く、浄土宗は斉の世に曇鸞法師と申す者あり。本は三論宗の人、竜樹菩薩の十住毘婆沙論を見て難行道・易行道を立てたり。道綽禅師という者あり。唐の世の者、本は涅槃経をかうじけるが、曇鸞法師が浄土にうつる筆を見て、涅槃経をすてて浄土にうつて聖道・浄土二門を立てたり。又道綽が弟子善導という者あり。雑行・正行を立つ。日本国に末法に入りて二百余年、後鳥羽院の御宇に法然というものあり。一切の道俗をすすめて云く、仏法は時機を本とす。法華経・大日経・天台・真言等の八宗九宗、一代の大小・顕密・権実等の経宗等は上根上智の正像二千年の機のためなり。末法に入りては、いかに功をなして行ずるとも其の益あるべからず。其の上、弥陀念仏にまじへて行ずるならば念仏も往生すべからず。此れわたくしに申すにはあらず。竜樹菩薩・曇鸞法師は難行道となづけ、道綽は未有一人得者ときらひ、善導は千中無一となづけたり。此等は他宗なれば御不審もあるべし。恵心先徳にすぎさせ給へる天台・真言の智者は末代にをはすべきか。かれ往生要集にかかれたり。顕密の教法は予が死生をはなるべき法にはあらず。又三論の永観が十因等をみよ。されば法華真言等をすてて一向に念仏せば十即十生百即百生とすすめければ、叡山・東寺・園城・七寺等始めは諍論するやうなれども、往生要集の序の詞、道理かとみへければ、顕真座主落ちさせ給ひて法然が弟子となる。其の上、設ひ法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにをもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば、日本国一人もなく謗法の者となりぬ。譬へば千人の子が一同に一人の親を殺害せば千人共に五逆の者なり。一人阿鼻に堕ちなば余人堕ちざるべしや。結句は法然流罪をあだみて悪霊となって、我並びに弟子等をとがせし国主・山寺の僧等が身に入りて、或は謀反ををこし、或は悪事をなして、皆関東にほろぼされぬ。わづかにのこれる叡山・東寺等の諸僧は、俗男俗女にあなづらるること猿猴の人にわらわれ、俘囚が童子に蔑如せらるるがごとし。
禅宗は又此の便りを得て持斎等となって人の眼を迷はかし、たっとげなる気色なれば、いかにひがほうもんをいゐくるへども失ともをぼへず。禅宗と申す宗は教外別伝と申して、釈尊の一切経の外に迦葉尊者にひそかにささやかせ給えり。されば禅宗をしらずして一切経を習うものは、犬の雷をかむがごとし。猿の月の影をとるににたり云云。此の故に日本国の中に不孝にして父母にすてられ、無礼なる故に主君にかんだうせられ、あるいは若なる法師等の学文にものうき、遊女のものぐるわしき本性に叶へる邪法なるゆへに、皆一同に持斎になりて国の百姓をくらう蝗虫となれり。しかれば天は天眼をいからかし、地神は身をふるう。
真言宗と申すは上の二つのわざはひにはにるべくもなき大僻見なり。あらあら此れを申すべし。所謂 大唐の玄宗皇帝の御宇に、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を月支よりわたす。此の三経の説相分明なり。其の極理を尋ぬれば会二破二の一乗、其の相を論ずれば印と真言と計りなり。尚華厳・般若の三一相対の一乗にも及ばず、天台宗の爾前の別円程もなし。但蔵通二教を面とす。而るを善無畏三蔵をもわく、此の経文を顕わにいゐ出だす程ならば、華厳・法相にもをこづかれ、天台宗にもわらわれなん。大事として月支よりは持ち来たりぬ。さてもだせば本意にあらずとやをもひけん。天台宗の中に一行禅師という僻人一人あり。これをかたらひて漢土の法門をかたらせけり。一行阿闍梨うちぬかれて、三論・法相・華厳等をあらあらかたるのみならず、天台宗の立てられけるやうを申しければ、善無畏をもはく、天台宗は天竺にして聞きしにもなをうちすぐれて、かさむべきやうもなかりければ、善無畏、一行をうちぬひて云く、和僧は漢土にはこざかしき者にてありけり。天台宗は神妙の宗なり。今真言宗の天台宗にかさむところは印と真言と計りなりといゐければ、一行さもやとをもひければ、善無畏三蔵、一行にかたて云く、天台大師の法華経に疏をつくらせ給へるごとく、大日経の疏を造りて真言を弘通せんとをもう。汝かきなんやといゐければ、一行が云く、やすう候。但しいかやうにかき候べきぞ。天台宗はにくき宗なり。諸宗は我も我もとあらそいをなせども一切に叶はざる事一つあり。所謂 法華経の序分に無量義経と申す経をもって、前四十余年の経々をば其の門を打ちふさぎ候ひぬ。法華経の法師品・神力品をもって後の経々をば又ふせがせぬ。肩をならぶ経々をば今説の文をもってせめ候。大日経をば三説の中にはいづくにかをき候べきと問ひければ、爾の時に善無畏三蔵大いに巧みて云く、大日経に住心品という品あり。無量義経の四十余年の経々を打ちはらうがごとし。大日経の入曼陀羅已下の諸品は、漢土にては法華経・大日経とて二本なれども、天竺にては一経のごとし。釈迦仏は舎利弗・弥勒に向かひて大日経を法華経となづけて、印と真言とをすてて但理計りをとけるを、羅什三蔵此れをわたす。天台大師此れを見る。大日如来は法華経を大日経となづけて金剛薩Pに向かひてとかせ給ふ。此れを大日経となづく。我まのあたり天竺にしてこれを見る。されば汝がかくべきやうは、大日経と法華経とをば水と乳とのやふに一味となすべし。もししからば大日経は已今当の三説をば皆法華経のごとくうちをとすべし。さて印と真言とは心法の一念三千に荘厳するならば三密相応の秘法なるべし。三密相応する程ならば天台宗は意密なり。真言は甲なる将軍の甲鎧を帯して弓箭を横たへ太刀を腰にはけるがごとし。天台宗は意密計りなれば甲なる将軍の赤裸なるがごとくならんといゐければ、一行阿闍梨は此のやうにかきけり。
漢土三百六十箇国には此の事を知る人なかりけるかのあひだ、始めには勝劣を諍論しけれども、善無畏等は人がらは重し、天台宗の人々は軽かりけり。又天台大師ほどの智ある者もなかりければ、但日々に真言宗になりてさてやみにけり。年ひさしくなればいよいよ真言の誑惑の根ふかくかくれて候ひけり。日本国の伝教大師漢土にわたりて、天台宗をわたし給ひしついでに、真言宗をならべわたす。天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給ふ。入唐已後には円頓の戒場を立てう立てじの論か計りなかりけるかのあひだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず。但し依憑集と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落ちたるやうをかかれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。
弘法大師は同じき延暦年中に御入唐、青竜寺の恵果に値ひ給ひて真言宗をならはせ給へり。御帰朝の後、一代の勝劣を判じ給ひけるには、第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候。此の大師は世間の人々もってのほかに重んずる人なり。但し仏法の事は申すにをそれあれども、もってのほかにあらき事どもはんべり。此の事をあらあらかんがへたるに、漢土にわたらせ給ひては、但真言の事相の印・真言計り習ひつたえて、其の義理をばくはしくもさばくらせ給はざりけるほどに、日本にわたりて後、大いに世間を見れば天台宗もってのほかにかさみたりければ、我が重んずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに、本日本国にして習ひたりし華厳宗をとりいだして法華経にまされるよしを申しけり。それも常の華厳宗に申すやうに申すならば人信ずまじとやをぼしめしけん。すこしいろをかえて、此れは大日経、竜猛菩薩の菩提心論、善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども、天台宗の人々いたうとがめ申す事なし。
問うて云く、弘法大師の十住心論・秘蔵宝鑰・二教論に云く「此の如きの乗々は自乗に名を得れども、後に望めば戯論と作す」。又云く「無明の辺域にして明の分位に非ず」。又云く「第四熟蘇味なり」。又云く「震旦の人師等、諍ひて醍醐を盗みて各自宗に名づく」等云云。此等の釈の心 如何。答へて云く、予此の釈にをどろひて一切経並びに大日の三部経等をひらきみるに、華厳経と大日経とに対すれば法華経戯論、六波羅蜜経に対すれば盗人、守護経に対すれば無明の辺域と申す経文は一字一句も候わず。此の事はいとはかなき事なれども、此の三四百余年に日本国のそこばくの智者どもの用ゐさせ給へば、定めてゆへあるかとをもひぬべし。しばらくいとやすきひが事をばあげて、余事のはかなき事をしらすべし。法華経を醍醐味と称することは陳隋の代なり。六波羅蜜経は唐の半ばに般若三蔵此れをわたす。六波羅蜜経の醍醐は陳隋の世にはわたりてあらばこそ、天台大師は真言の醍醐をば盗ませ給わめ。傍例あり。日本の得一が云く、天台大師は深密経の三時教をやぶる、三寸の舌をもって五尺の身をたつべしとののしりしを、伝教大師此れをただして云く、深密経は唐の始め、玄奘これをわたす。天台は陳隋の人、智者御入滅の後、数箇年ありて深密経わたれり。死して已後にわたれる経をばいかでか破し給ふべきとせめさせ給ひて候ひしかば、得一はつまるのみならず、舌八つにさけて死し候ひぬ。これは彼れにはにるべくもなき悪口なり。華厳の法蔵・三論の嘉祥・法相の玄奘・天台等乃至南北の諸師、後漢より已下の三蔵人師を皆をさえて盗人とかかれて候なり。其の上、又法華経を醍醐と称することは天台等の私の言にはあらず。仏涅槃経に法華経を醍醐ととかせ給ひ、天親菩薩は法華経・涅槃経を醍醐とかかれて候。竜樹菩薩は法華経を妙薬となづけさせ給ふ。されば法華経等を醍醐と申す人盗人ならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、竜樹・天親等は盗人にてをはすべきか。弘法の門人等乃至日本の東寺の真言師 如何に自眼の黒白はつたなくして弁へずとも、他の鏡をもって自禍をしれ。
此の外法華経を戯論の法とかかるること、大日経・金剛頂経等にたしかなる経文をいだされよ。設ひ彼々の経々に法華経を戯論ととかれたりとも、訳者の誤る事もあるぞかし。よくよく思慮のあるべかりけるか。孔子は九思一言、周公旦は沐には三にぎり、食には三はかれけり。外書のはかなき世間の浅き事を習ふ人すら、智人はかう候ぞかし。いかにかかるあさましき事はありけるやらん。かかる僻見の末へなれば彼の伝法院の本願とがうする聖覚房が舎利講の式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏なり。驢牛の三身は車を扶くること能はず。秘奥なる者は両部曼陀羅の教なり。顕乗の四法は履を採るに堪へず」云云。顕乗の四法と申すは法相・三論・華厳・法華の四人、驢牛の三身と申すは法華・華厳・般若・深密経の教主の四仏、此等の仏僧は真言師に対すれば聖覚・弘法の牛飼ひ、履物取者にもたらぬ程の事なりとかいて候。
彼の月氏の大慢婆羅門は生知の博学、顕密二道胸にうかべ、内外の典籍掌ににぎる。されば王臣頭をかたぶけ、万民師範と仰ぐ。あまりの慢心に、世間に尊崇する者は大自在天・婆籔天・那羅延天・大覚世尊、此の四聖なり、我が座の四足にせんと、座の足につくりて坐して法門を申しけり。当時の真言師が釈迦仏等の一切の仏をかきあつめて、潅頂する時敷まんだらとするがごとし。禅宗の法師等が云く、此の宗は仏の頂をふむ大法なりというがごとし。而るを賢愛論師と申せし小僧あり。彼れをただすべきよし申せしかども、王臣万民これをもちゐず、結句は大慢が弟子等・檀那等に申しつけて、無量の妄語をかまへて悪口打擲せしかども、すこしも命もをしまずののしりしかば、帝王賢愛をにくみてつめさせんとし給ひしほどに、かへりて大慢がせめられたりしかば、大王天に仰ぎ地に伏してなげいての給はく、朕はまのあたり此の事をきひて邪見をはらしぬ。先王はいかに此の者にたぼらかされて阿鼻地獄にをはすらんと、賢愛論師の御足にとりつきて悲涙せさせ給ひしかば、賢愛の御計らひとして大慢を驢にのせて五竺に面をさらし給ひければ、いよいよ悪心盛んになりて現身に無間地獄に堕ちぬ。今の世の真言と禅宗等とは此れにかわれりや。漢土の三階禅師云く、教主釈尊の法華経は第一第二階の正像の法門なり。末代のためには我がつくれる普経なり。法華経を今の世に行ぜん者は十方の大阿鼻獄に堕つべし。末法の根機にあたらざるゆへなりと申して、六時の礼懺、四時の坐禅、生身仏のごとくなりしかば、人多く尊みて弟子万余人ありしかども、わづかの小女の法華経をよみしにせめられて、当坐には音を失ひ後には大蛇になりて、そこばくの檀那弟子並びに小女処女等をのみ食ひしなり。今の善導・法然等が千中無一の悪義もこれにて候なり。此等の三大事はすでに久しくなり候へば、いやしむべきにはあらねども、申さば信ずる人もやありなん。これよりも百千万億倍信じがたき最大の悪事はんべり。
慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なり。しかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝れてをはします人なりとをもえり。此の人真言宗と法華宗の奥義を極めさせ給ひて候が、真言は法華経に勝れたりとかかせ給へり。而るを叡山三千人の大衆、日本一州の学者等一同帰伏の宗義なり。弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣るとかかせ給へるは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもってをもうに、真言宗の法華経に勝れたることは一定なり。日本国にして真言宗を法華経に勝ると立つるをば叡山こそ強きかたきなりぬべかりつるに、慈覚をもって三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし。されば東寺第一のかたうど慈覚大師にはすぐべからず。例せば浄土宗・禅宗は余国にてはひろまるとも、日本国にしては延暦寺のゆるされなからんには無辺劫はふとも叶ふまじかりしを、安然和尚と申す叡山第一の古徳、教時諍論と申す文に九宗の勝劣を立てられたるに、第一真言宗、第二禅宗、第三天台法華宗、第四華厳宗等云云。此の大謬釈につひて禅宗は日本国に充満して、すでに亡国とならんとはするなり。法然が念仏宗のはやりて一国を失はんとする因縁は、恵心の往生要集の序よりはじまれり。師子の身の中の虫の師子を食ふと、仏の記し給ふはまことなるかなや。
伝教大師は日本国にして十五年が間、天台・真言等を自見せさせ給ふ。生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給ひしかども、世間の不審をはらさんがために、漢土に亘りて天台・真言の二宗を伝へ給ひし時、彼の土の人々はやうやうの義ありしかども、我が心には法華は真言にすぐれたりとをぼしめししゆへに、真言宗の宗の名字をば削らせ給ひて、天台宗の止観真言等かかせ給ふ。十二年の年分得度の者二人ををかせ給ひ、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し、永代日本国の第一の重宝神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給ひき。叡山第一の座主義真和尚・第二の座主円澄大師までは此の義相違なし。
第三の慈覚大師御入唐、漢土にわたりて十年が間、顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう。又天台宗の人々広修・維K等にならわせ給ひしかども、心の内にをぼしけるは、真言宗は天台宗には勝れたりけり。我が師伝教大師はいまだ此の事をばくはしく習はせ給はざりけり。漢土に久しくもわたらせ給はざりける故に、此の法門はあらうちにみをはしけるやとをぼして、日本国に帰朝し、叡山東塔止観院の西に総持院と申す大講堂を立て、御本尊は金剛界の大日如来、此の御前にして大日経の善無畏の疏を本として、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻をつくる。此の疏の肝心の釈に云く「教に二種有り。一は顕示教、謂く三乗教なり。世俗と勝義と未だ円融せざる故に。二は秘密教、謂く一乗教なり。世俗と勝義と一体にして融する故に。秘密教の中に亦二種有り。一には理秘密の教、諸の華厳・般若・維摩・法華・涅槃等なり。但世俗と勝義との不二を説いて未だ真言密印の事を説かざる故に。二には事理倶密教、謂く大日経・金剛頂経・蘇悉地経等なり。亦世俗と勝義との不二を説き、亦真言密印の事を説く故に」等云云。釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給ふに、真言の三部経と法華経とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり。しかれども密印と真言等の事法は法華経かけてをはせず。法華経は理秘密、真言の三部経は事理倶密なれば、天地雲泥なりとかかれたり。しかも此の筆は私の釈にはあらず。善無畏三蔵の大日経の疏の心なりとをぼせども、なをなを二宗の勝劣不審にやありけん、はた又他人の疑ひをさんぜんとやをぼしけん。大師〈慈覚なり〉の伝に云く「大師二経の疏を造り、功を成し已畢りて、心中独り謂へらく、此の疏仏意に通ずるや否や。若し仏意に通ぜざれば、世に流伝せじ。仍って仏像の前に安置し、七日七夜深誠を翹企し祈請を勤修す。五日の五更に至りて夢みらく、正午に当たりて日輪を仰ぎ見、弓を以て之れを射る、其の箭日輪に当たりて日輪即ち転動す。夢覚めての後深く仏意に通達せりと悟り後世に伝ふべし」等云云。慈覚大師は本朝にしては伝教・弘法の両家を習ひきわめ、異朝にしては八大徳並びに南天の宝月三蔵等に十年が間最大事の秘法をきわめさせ給へる上、二経の疏をつくり了り、重ねて本尊に祈請をなすに、智恵の矢すでに中道の日輪にあたりてうちをどろかせ給ひ、歓喜のあまりに仁明天王に宣旨を申しそへさせ給ひ、天台座主を真言の官主となし、真言の鎮護国家の三部とて今に四百余年が間、碩学稲麻のごとし渇仰竹葦に同じ。されば桓武・伝教等の日本国建立の寺塔は一宇もなく真言の寺となりぬ。公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあをぎ、官をなし寺をあづけたぶ。仏事の木画の開眼供養は八宗一同に大日仏眼の印真言なり。
疑って云く、法華経を真言に勝ると申す人は此の釈をばいかんがせん。用ゐるべきか又すつべきか。答ふ、仏の未来を定めて云く「法に依りて人に依らざれ」。竜樹菩薩云く「修多羅に依るは白論なり、修多羅に依らざるは黒論なり」。天台云く「復修多羅と合する者は録して之れを用ゐよ。文無く義無きは信受すべからず」。伝教大師云く「仏説に依憑して口伝を信ずること莫れ」等云云。此等の経・論・釈のごときんば夢を本にはすべからず。ただついさして法華経と大日経との勝劣を分明に説きたらん経論の文こそたいせちに候はめ。但し印真言なくば木画の像の開眼の事、此れ又をこの事なり。真言のなかりし已前には木画の開眼はなかりしか。天竺・漢土・日本には真言宗已前の木画の像は或は行き、或は説法し、或は御物言あり。印真言をもて仏を供養せしよりこのかた利生もかたがた失せたるなり。此れは常の論談の義なり。此の一事にをひては、但し日蓮は分明の証拠を余所に引くべからず。慈覚大師の御釈を仰ぎて信じて候なり。
問うて云く、何にと信ぜらるるや。答へて云く、此の夢の根源は、真言は法華経に勝ると造り定めての御ゆめなり。此の夢吉夢ならば、慈覚大師の合はせさせ給ふがごとく真言勝るべし。但し日輪を射るとゆめにみたるは、吉夢なりというべきか。内典五千七千余巻・外典三千余巻の中に、日を射るとゆめに見て吉夢なる証拠をうけ給はるべし。少々これより出だし申さん。阿闍世王は天より月落つるとゆめにみて、耆婆大臣に合はせさせ給ひしかば、大臣合はせて云く、仏の御入滅なり。須抜多羅天より日落つるとゆめにみる。我とあわせて云く、仏の御入滅なり。修羅は帝釈と合戦の時、まづ日月をいたてまつる。夏の桀・殷の紂と申せし悪王は、常に日をいて身をほろぼし国をやぶる。摩耶夫人は日をはらむとゆめにみて悉達太子をうませ給ふ。かるがゆへに仏のわらわなをば日種という。日本国と申すは天照太神の日天にしてましますゆへなり。されば此のゆめは、天照太神・伝教大師・釈迦仏・法華経をいたてまつれる矢にてこそ、二部の疏は候なれ。日蓮は愚痴の者なれば経論もしらず。但此の夢をもって法華経に真言すぐれたりと申す人は、今生には国をほろぼし家を失ひ、後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候。今現証あるべし。日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行ひ候へば、日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとをもひ候なん。但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候ひしが、調伏せられ給ひし権の大夫殿はかたせ給ひ、後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の天子は佐渡の島々へ調伏しやりまいらせ候ひぬ。結句は野干のなきの己が身にをうなるやうに、還著於本人の経文にすこしもたがわず。叡山の三千人かまくらにせめられて、一同にしたがいはてぬ。しかるに又かまくら、日本を失はんといのるかと申すなり。これをよくよくしる人は一閻浮提一人の智人なるべし。よくよくしるべきか。今はかまくらの世さかんなるゆへに、東寺・天台・園城・七寺の真言師等と、並びに自立をわすれたる法華宗の謗法の人々、関東にをちくだりて頭をかたぶけ、ひざをかがめ、やうやうに武士の心をとりて、諸寺・諸山の別当となり長吏となりて、王位を失ひし悪法をとりいだして、国土安穏といのれば、将軍家並びに所従の侍已下は、国土の安穏なるべき事なんめりとうちをもひて有るほどに、法華経を失ふ大禍の僧どもを用ゐらるれば、国定めてほろびなん。
亡国のかなしさ亡身のなげかしさに、身命をすてて此の事をあらわすべし。国主世を持つべきならば、あやしとをもひて、たづぬべきところに、ただざんげんのことばのみ用ゐて、やうやうのあだをなす。而るに法華経守護の梵天・帝釈・日月・四天・地神等は古への謗法をば不思議とはをぼせども、此れをしれる人なければ一子の悪事のごとくうちゆるして、いつわりをろかなる時もあり、又すこしつみしらする時もあり。今は謗法を用ゐたるだに不思議なるに、まれまれ諫暁する人をかへりてあだをなす。一日二日・一月二月・一年二年ならず数年に及ぶ。彼の不軽菩薩の杖木の難に値ひしにもすぐれ、覚徳比丘の殺害に及びしにもこえたり。而る間、梵釈の二王・日月・四天・衆星・地神等やうやうにいかり、度々いさめらるれども、いよいよあだをなすゆへに、天の御計らひとして、隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ、大鬼神を国に入れて人の心をたぼらかし、自界反逆せしむ。吉凶につけて瑞大なれば難多かるべきことわりにて、仏滅後二千二百三十余年が間、いまだいでざる大長星、いまだふらざる大地しん出来せり。漢土・日本に智恵すぐれ才能いみじき聖人は度々ありしかども、いまだ日蓮ほど法華経のかたうどして、国土に強敵多くまうけたる者なきなり。まづ眼前の事をもって、日蓮は閻浮第一の者としるべし。
仏法日本にわたて七百余年、一切経は五千七千、宗は八宗十宗、智人は稲麻のごとし、弘通は竹葦ににたり。しかれども仏には阿弥陀仏、諸仏の名号には弥陀の名号ほどひろまりてをはするは候はず。此の名号を弘通する人は、恵心は往生要集をつくる、日本国三分が一は一同の弥陀念仏者。永観は十因と往生講の式をつくる、扶桑三分が二分は一同の念仏者。法然せんちやくをつくる、本朝一同の念仏者。而かれば今の弥陀の名号を唱ふる人々は、一人が弟子にはあらず。此の念仏と申すは、双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此れをすいしぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目又流布すべし。欽明より当帝にいたるまで七百余年、いまだきかず、いまだ見ず、南無妙法蓮華経と唱へよと他人をすすめ、我と唱へたる智人なし。日出でぬれば星かくる、賢王来たれば愚王ほろぶ。実経流布せば権経のとどまり、智人南無妙法蓮華経と唱えば愚人の此れに随はんこと、影と身と声と響きとのごとくならん。日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。
問うて云く、正嘉の大地しん・文永の大彗星はいかなる事によって出来せるや。答へて云く、天台云く「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」等云云。問うて云く、心いかん。答へて云く、上行菩薩の大地より出現し給ひたりしをば、弥勒菩薩・文殊師利菩薩・観世音菩薩・薬王菩薩等の四十一品の無明を断ぜし人々も、元品の無明を断ぜざれば愚人といわれて、寿量品の南無妙法蓮華経の末法に流布せんずるゆへに、此の菩薩を召し出だされたるとはしらざりしという事なり。問うて云く、日本・漢土・月支の中に此の事を知る人あるべしや。答へて云く、見思を断尽し、四十一品の無明を尽くせる大菩薩だにも此の事をしらせ給はず、いかにいわうや一毫の惑をも断ぜぬ者どもの此の事を知るべきか。問うて云く、智人なくばいかでか此れを対治すべき。例せば病の所起を知らぬ人の、病人を治すれば人必ず死す。此の災ひの根源を知らぬ人々がいのりをなさば、国まさに亡びん事疑ひなきか。あらあさましや、あらあさましや。答へて云く、蛇は七日が内の大雨をしり、烏は年中の吉凶をしる。此れ則ち大竜の所従、又久学のゆへか。日蓮は凡夫なり。此の事をしるべからずといえども、汝等にほぼこれをさとさん。彼の周の平王の時、禿にして裸なる者出現せしを、辛有といゐし者うらなって云く、百年が内に世ほろびん。同じき幽王の時、山川くづれ、大地ふるひき。白陽と云ふ者勘へていはく、十二年の内に大王事に値はせ給ふべし。今の大地震・大長星等は国主日蓮をにくみて、亡国の法たる禅宗と念仏者と真言師をかたうどせらるれば、天いからせ給ひていださせ給ふところの災難なり。
問うて云く、なにをもってか此れを信ぜん。答へて云く、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、星宿及び風雨皆時を以て行らず」等云云。此の経文のごときんば、此の国に悪人のあるを王臣此れを帰依すという事疑ひなし。又此の国に智人あり。国主此れをにくみてあだすという事も又疑ひなし。又云く「三十三天の衆咸く忿怒の心を生じ、変怪流星堕ち、二の日倶時に出で、他方の怨賊来たりて国人喪乱に遭はん」等云云。すでに此の国に天変あり地夭あり。他国より此れをせむ。三十三天の御いかり有ること又疑ひなきか。仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別へずして此の語を信聴せん」等云云。又云く「日月度を失ひ時節反逆し、或は赤日出で、或は黒日出で、二三四五の日出で、或は日蝕して光無く、或は日輪一重二重四五重輪現ず」等云云。文の心は悪比丘等国に充満して、国王・太子・王子等をたぼらかして、破仏法・破国の因縁をとかば、其の国の王等此の人にたぼらかされてをぼすやう、此の法こそ持仏法の因縁・持国の因縁とをもひ、此の言ををさめて行ふならば日月に変あり、大風と大雨と大火等出来し、次には内賊と申して親類より大兵乱をこり、我がかたうどしぬべき者をば皆打ち失ひて、後には他国にせめられて、或は自殺し、或はいけどりにせられ、或は降人となるべし。是れ偏に仏法をほろぼし、国をほろぼす故なり。
守護経に云く「彼の釈迦牟尼如来所有の教法は一切の天魔・外道・悪人・五通の神仙皆乃至少分をも破壊せず。而るに此の名相の諸の悪沙門皆悉く毀滅して余り有ること無からしむ。須弥山を仮使三千界の中の草木を尽くして薪と為し長時に焚焼すとも一毫も損すること無し。若し劫火起こりて火内より生じ須臾も焼滅せんには灰燼をも余す無きが如し」等云云。蓮華面経に云く「仏阿難に告げたまはく、譬へば師子の命終せんに、若しは空若しは地若しは水若しは陸所有の衆生敢へて師子の身の宍を食はず、唯師子の身より諸の虫を生じて自ら師子の宍を食ふが如し。阿難、我が之の仏法は余の能く壊るに非ず、是れ我が法の中の諸の悪比丘我が三大阿僧祇劫に積行し勤苦し集むる所の仏法を破らん」等云云。経文の心は過去の迦葉仏、釈迦如来の末法の事を訖哩枳王にかたらせ給ひ、釈迦如来の仏法をばいかなるものがうしなうべき。大族王の五天の堂舎を焼き払ひ、十六大国の僧尼を殺せし、漢土の武宗皇帝の九国の寺塔四千六百余所を消滅せしめ、僧尼二十六万五百人を還俗せし等のごとくなる悪人等は釈迦の仏法をば失ふべからず。三衣を身にまとひ、一鉢を頸にかけ、八万法蔵を胸にうかべ、十二部経を口にずうせん僧侶が彼の仏法を失うべし。譬へば須弥山は金の山なり。三千大千世界の草木をもって四天・六欲に充満してつみこめて、一年二年百千万億年が間やくとも、一分も損ずべからず。而るを劫火をこらん時、須弥の根より豆計りの火いでて須弥山をやくのみならず、三千大千世界をやき失うべし。若し仏記のごとくならば、十宗・八宗・内典の僧等が、仏教の須弥山をば焼き払うべきにや。小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり。真言の善無畏等・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は、仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり。伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の碩徳等を六虫とかかせ給へり。日蓮は真言・禅宗・浄土等の元祖を三虫となづく。又天台宗の慈覚・安然・恵心等は、法華経・伝教大師の師子の身の中の三虫なり。此等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば、天神もをしみ、地祇もいからせ給ひて、災夭も大いに起こるなり。
されば心うべし。一閻浮提第一の大事を申すゆへに最第一の瑞相此れをこれり。あわれなるかなや、なげかしきかなや、日本国の人皆無間大城に堕ちむ事よ。悦ばしきかなや、楽しきかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる。いまにしもみよ。大蒙古国数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合はせて、たすけ給へ日蓮の御房、日蓮の御房とさけび候はんずるにや。例せば月支の大族王は幼日王に掌をあわせ、日本の盛時はかぢわらをうやまう。大慢のものは敵に随ふという、このことわりなり。彼の軽毀大慢の比丘等は始めには杖木をととのへて不軽菩薩を打ちしかども、後には掌をあわせて失をくゆ。提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども、臨終の時には南無と唱へたりき。仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを、業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいわず。今日本国の高僧等も、南無日蓮聖人ととなえんとすとも、南無計りにてやあらんずらん。ふびんふびん。
外典に云く、未萌をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖人という。余に三度のかうみやうあり。一には、去にし文応元年〈太歳庚申〉七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向かひて云く、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ゐなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給ふべし。二には、去にし文永八年九月十二日申の時に平左衛門尉に向かひて云く、日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼等が頸をゆひのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべしと申し候ひ了んぬ。第三は、去年〈文永十一年〉四月八日左衛門尉に語りて云く、王地に生まれたれば身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑ひなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべしと申せしかば、頼綱問うて云く、いつごろかよせ候べき。日蓮言く、経文にはいつとはみへ候はねども、天の御気色いかりすくなからず、きうに見へて候。よも今年はすごし候はじと語りたりき。此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわらせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり。経に云く「所謂諸法 如是相」と申すは何事ぞ。十如是の始めの相如是が第一の大事にて候へば、仏は世にいでさせ給ふ。「智人は起をしる、蛇みづから蛇をしる」とはこれなり。衆流あつまりて大海となる。微塵つもりて須弥山となれり。日蓮が法華経を信じ始めしは、日本国には一H一微塵のごとし。法華経を二人・三人・十人・百千万億人唱へ伝うるほどならば、妙覚の須弥山ともなり、大涅槃の大海ともなるべし。仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ。
問うて云く、第二の文永八年九月十二日の御勘気の時は、いかにとして我をそんせば自他のいくさをこるべしとはしり給ふや。答ふ、大集経〈五十〉に云く「若し復諸の刹利国王、諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し、刀杖をもって打斫し、及び衣鉢種々の資具を奪ひ、若しは他の給施に留難を作す者有らば、我等彼れをして自然に卒かに他方の怨敵を起こさしめ、及び自界の国土にも亦兵起、飢疫飢饉、非時の風雨、闘諍言訟、譏謗せしむ。又其の王をして久しからずして、復当に己が国を亡失すべし」等云云。夫れ諸経に諸文多しといえども、此の経文は身にあたり、時にのぞんで殊に尊くをぼうるゆへに、これをせんじいだす。此の経文に我等とは、梵王と帝釈と第六天の魔王と日月と四天等の三界の一切の天竜等なり。此等の上主、仏前に詣して誓ひて云く、仏の滅後、正法・像法・末代の中に、正法を行ぜん者を邪法の比丘等が国主にうったへば、王に近きもの、王に心よせなる者、我がたっとしとをもう者のいうことなれば、理不尽に是非を糾さず、彼の智人をさんざんとはぢにをよばせなんどせば、其の故ともなく其の国ににわかに大兵乱出現し、後には他国にせめらるべし。其の国主もうせ、其の国もほろびなんずととかれて候。いたひとかゆきとはこれなり。予が身には今生にはさせる失なし。但国をたすけんがため、生国の恩をほうぜんと申せしを、御用ゐなからんこそ本意にあらざるに、あまさへ召し出だして法華経の第五の巻を懐中せるをとりいだしてさんざんとさいなみ、結句はこうぢをわたしなんどせしかば、申したりしなり。日月天に処し給ひながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば、一には日蓮が法華経の行者ならざるか、忽ちに邪見をあらたむべし。若し日蓮法華経の行者ならば忽ちに国にしるしを見せ給へ。若ししからずば今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり。提婆が虚誑罪、倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと声をあげて申せしかば、忽ちに出来せる自界反逆難なり。されば国土いたくみだれば、我が身はいうにかひなき凡夫なれども、御経を持ちまいらせ候分斉は、当世には日本第一の大人なりと申すなり。
問うて云く、慢煩悩は七慢・九慢・八慢あり。汝が大慢は仏教に明かすところの大慢にも百千万億倍すぐれたり。彼の徳光論師は弥勒菩薩を礼せず、大慢婆羅門は四聖を座とせり。大天は凡夫にして阿羅漢となのる、無垢論師が五天第一といゐし、此等は皆阿鼻に堕ちぬ。無間の罪人なり。汝いかでか一閻浮提第一の智人となのれる、大地獄に堕ちざるべしや。をそろしをそろし。答へて云く、汝は七慢・九慢・八慢等をばしれりや。大覚世尊は三界第一となのらせ給ふ。一切の外道が云く、只今天に罰せらるべし。大地われて入りなん。日本国の七寺三百余人が云く、最澄法師は大天が蘇生か、鉄腹が再誕か等云云。而りといえども天も罰せず、かへて左右を守護し、地もわれず、金剛のごとしとなりぬ。伝教大師は叡山を立て一切衆生の眼目となる。結句七大寺は落ちて弟子となり、諸国は檀那となる。されば現に勝れたるを勝れたりという事は、慢ににて大功徳となりけるか。伝教大師云く「天台法華宗の諸宗に勝れたるは、所依の経に拠るが故なり。自讃毀他ならず」等云云。
法華経第七に云く「衆山の中に須弥山これ第一なり。此の法華経も亦復かくの如し。諸経の中に於て最もこれ其の上なり」等云云。此の経文は、已説の華厳・般若・大日経等、今説の無量義経、当説の涅槃経等の五千七千、月支・竜宮・四王天・l利天・日月の中の一切経、尽十方界の諸経は土山・黒山・小鉄囲山・大鉄囲山のごとし。日本国にわたらせ給へる法華経は須弥山のごとし。又云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経文をもって案ずるに、華厳経を持てる普賢菩薩・解脱月菩薩等、竜樹菩薩・馬鳴菩薩・法蔵大師・清涼国師・則天皇后・審祥大徳・良弁僧正・聖武天王、深密・般若経を持てる勝義生菩薩・須菩提尊者・嘉祥大師・玄奘三蔵・太宗・高宗・観勒・道昭・孝徳天王、真言宗の大日経を持てる金剛薩P・竜猛菩薩・竜智菩薩・印生王・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・玄宗・代宗・恵果・弘法大師・慈覚大師、涅槃経を持ちし迦葉童子菩薩・五十二類・曇無懺三蔵・光宅寺法雲・南三北七の十師等よりも、末代悪世の凡夫の一戒も持たず、一闡提のごとくに人には思はれたれども、経文のごとく已今当にすぐれて法華経より外は仏になる道なしと強盛に信じて、而も一分の解なからん人々は、彼等の大聖には百千億倍のまさりなりと申す経文なり。彼の人々は、或は彼の経々に且く人を入れて、法華経へうつさんがためなる人もあり、或は彼の経に著をなして法華経へ入らぬ人もあり、或は彼の経々に留逗まるのみならず、彼の経々を深く執するゆへに法華経を彼の経に劣るという人もあり。されば今法華経の行者は心うべし。譬へば一切の川流江河の諸水の中に海これ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是の如し。又衆星の中に月天子最もこれ第一なるが如く、法華経を持つ者も亦復是の如し等と御心えあるべし。当世日本国の智人等は衆星のごとし、日蓮は満月のごとし。
問うて云く、古へかくのごとくいえる人ありや。答へて云く、伝教大師の云く「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最為第一ならず。其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗は所持の経最為第一なるが故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る、豈に自歎ならんや」等云云。夫れ麒麟の尾につけるだにの一日に千里を飛ぶといゐ、輪王に随へる劣夫の須臾に四天下をめぐるというをば難ずべしや、疑ふべしや。豈に自歎哉の釈は肝にめひずるか。若し爾らば法華経を経のごとくに持つ人は梵王にもすぐれ、帝釈にもこえたり。修羅を随へば須弥山をもにないぬべし。竜をせめつかわば大海をもくみほしぬべし。伝教大師云く「讃むる者は福を安明に積み、謗る者は罪を無間に開く」等云云。法華経に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」等云云。教主釈尊の金言まことならば、多宝仏の証明たがわずば、十方の諸仏の舌相一定ならば、今日本国の一切衆生、無間地獄に堕ちん事疑ふべしや。法華経の八の巻に云く「若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は、乃至、所願虚しからず、亦現世に於て其の福報を得ん」。又云く「若し之れを供養し讃歎すること有らん者は、当に今世に於て現の果報を得べし」等云云。此の二の文の中に、亦於現世得其福報の八字、当於今世得現果報の八字、已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば、如来の金言は提婆が虚言に同じく、多宝の証明は倶伽利が妄語に異ならじ。一切衆生も阿鼻地獄に堕つべからず。三世の諸仏もましまさざるか。されば我が弟子等心みに法華経のごとく身命もをしまず修行して、此の度仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
抑 此の法華経の文に「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」。涅槃経に云く「譬へば王使の善能談論して方便に巧みなる、命を他国に奉るに、寧ろ身命を喪ふとも終に王の所説の言教を匿さざるが如し。智者も亦爾なり。凡夫中に於て身命を惜しまず、かならず大乗方等如来の秘蔵、一切衆生に皆仏性有りと宣説すべし」等云云。いかやうな事のあるゆへに、身命をすつるまでにてあるやらん。委細にうけ給はり候はん。答へて云く、予が初心の時の存念は、伝教・弘法・慈覚・智証等の勅宣を給はりて漢土にわたりし事の我不愛身命にあたれるか。玄奘三蔵の漢土より月氏に入りしに六生が間身命をほろぼしし、これ等か。雪山童子の半偈のために身をなげ、薬王菩薩の七万二千歳が間臂をやきし事か。なんどをもひしほどに、経文のごときんば此等にはあらず。
経文に「我不愛身命」と申すは、上に三類の敵人をあげて、彼等がのり、せめ、刀杖に及んで身命をうばうともとみへたり。又涅槃経の文に寧喪身命等ととかれて候は、次下の経文に云く「一闡提有りて羅漢の像を作し、空処に住し、方等経典を誹謗す。諸の凡夫人見已りて、皆真の阿羅漢、是れ大菩薩なりと謂はん」等云云。彼の法華経の文に第三の敵人を説いて云く「或は阿蘭若に納衣にして空閑に在りて、乃至、世に恭敬せらるること六通の羅漢の如き有らん」等云云。般泥経に云く「羅漢に似たる一闡提有りて悪業を行ず」等云云。此等の経文は、正法の強敵と申すは悪王・悪臣よりも外道・魔王よりも破戒の僧侶よりも、持戒有智の大僧の中に大謗法の人あるべし。されば妙楽大師かひて云く「第三最も甚だし。後々の者は転識り難きを以ての故に」等云云。法華経の第五の巻に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。此の経文に「最在其上」の四字あり。されば此の経文のごときんば、法華経を一切経の頂にありと申すが法華経の行者にてはあるべきか。而るを又国に尊重せらるる人々あまたありて、法華経にまさりてをはする経々ましますと申す人にせめあひ候はん時、かの人は王臣等御帰依あり、法華経の行者は貧道なるゆへに、国こぞってこれをいやしみ候はん時、不軽菩薩のごとく、賢愛論師がごとく、申しつをらば身命に及ぶべし。此れが第一の大事なるべしとみへて候。此の事は今の日蓮が身にあたれり。予が分斉として弘法大師・慈覚大師・善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵なんどを、法華経の強敵なり、経文まことならば無間地獄は疑ひなしなんど申すは、裸形にて大火に入るはやすし、須弥山を手にとてなげんはやすし、大石を負ひて大海をわたらんはやすし、日本国にして此の法門を立てんは大事なるべし云云。
霊山浄土の教主釈尊・宝浄世界の多宝仏・十方分身の諸仏・地涌千界の菩薩等、梵釈・日月・四天等、冥にかし顕に助け給はずば、一時一日も安穏なるべしや。