報恩抄

 

解説

 

真蹟断簡、五箇所分蔵。@山梨県妙了寺二行ABC東京都本門寺二紙二十七行D高知県要法寺貼合二行E東京都本通寺二行・対欠F京都府本禅寺六行。以上『集成』。この他『定本』4-3042山梨県円実寺一行。身延曾存御書。『日乾目録』及び日乾真蹟対校「報恩抄」によれば、身延本の全体像はおよそ次の如くである。まずはおそらく表紙外題であろうと思われるが、宗祖の自筆で「報恩抄 四巻」、また内題として「報恩抄 日蓮撰之」と記され、且つ表裏記載という体裁であったことがわかる。そして、『日意目録』『日乾目録』当時はそれが、二巻に仕立てられていたようである。宗祖時四巻表裏の内訳は@表第一巻は冒頭「夫老狐は」〜「三方の空此日」(『定本』1196頁)迄の九紙と、次下欠損「輪より別」〜「内ぞかし」(『定本』1199頁)まで推定六紙分を合わせて十五紙を表第一巻とする。A表第二巻は「況滅度後と申て」〜「真言宗盛りなりけり。但」(『定本』1206頁)迄の十四紙が表第二巻。(但し次下「し妙楽大師といふ人あり。」〜「末文を造給。」一紙分欠損)B表第三巻は「所謂弘決・釈籖」〜「代々座主相承莫」(『定本』1214頁)まで十六紙完。C表第四巻は「不兼伝。在」〜「他宗の人はよも用いじ」まで一紙分と、次下欠損「とみえて候。」〜「口決せりといふとも、伝教」(『定本』1215頁)まで一紙分、次下「義真の正文」から「若以毀罵刀杖打ちゃく)」(『定本』1222頁)まで十三紙、都合十五紙が表第四巻。D裏第一巻(表第四巻裏)は「及奪衣鉢種種資具」から「一閻浮提の内に真言を」(『定本』1228頁)まで十三紙と、次下欠損一紙分「伝へ鈴をふるこの人」〜「いきかへり給はず。」(『定本』1229頁)まで、そして次下「不空三蔵は金剛智と」〜「間やむことなし。」(『定本』1229頁)までの一紙、都合十五紙。E裏第二巻は「結句は使をつけて」〜「をもひ切て申始めしかば」(『定本』1237頁)まで十六紙完。F裏第三巻は冒頭一紙「案にたがはず」〜「日蓮に値ぬれば悪口をはく。」(『定本』1237頁)欠損と、次下「正直にして」〜「利剣等のやうなれども」(『定本』1244頁)までの十四紙、都合十五紙。G裏第四巻は「法華経の題目に対すれば」〜「又妙楽大師の時」(『定本』1246頁)まで推定六紙分欠損し、次下「月氏より法相」〜最後「南無妙法蓮華経」まで九紙、都合十五紙である。表裏の欠損部分は当然ながら対応している。以上を総括すると、宗祖当時は四巻表裏都合百二十紙であり、また継ぎ目に筆が渡っている由であり且つ冒頭自筆で「四巻」とあった由であるから、始めから四巻に分けた継ぎ紙に書かれたものと思われる。また、日意日乾当時にはそれが第一第二巻を合し第一巻とし、第三第四巻を合して第二巻としていたようで、表裏都合十六紙が欠損していた。なお、『日乾目録』は当時第二巻(宗祖当時の表第三第四巻)について「已上此一巻二十九丁有之」と記し、更に裏にも丁付けがされていることを伝えるが、「二十九丁」は欠損部分が含まれていないから、宗祖が付けられたものではなく(原則的に継ぎ紙には丁付けされない)、当時現存分に後人が丁付けしたものと思われる。現存断簡の内、池上本門寺蔵以外の断簡はその欠損部分に該当し、日乾以前の流出を裏付けている。また、池上本門寺蔵断簡は日乾当時は身延山にあり、その後流出したことが判明する。以上が身延曾存「報恩抄」のおよその体裁である。『日常目録』(写本の部)『日祐目録』(写本の部)にその名が見られ、写本は静岡県大石寺蔵、下御坊『日舜本』がある。『日朝本目録』『平賀本目録』『刊本録内』等所収。日全の『法華問答正義抄』第十三・第十五・第十六に引文される。/本抄は広義に見れば門家全体に示された法門書であるが、直接的には師匠道善房の死去に伴い、その報恩の為めに記されたものである。次項224「報恩抄送文」には「道善房の御死去之由去月粗承候。」とあり、六月に訃報を受けたことがわかり、それは真蹟御書、建治二年三月の 番号213「光日房御書」に「師匠のありやうをもとひをとづれざりけんとなげかしくて、」とあり、この時はまだ道善房は死去していないことによって裏付けられる。とすれば「報恩抄」は死去の報を得て、短い期間に一気呵成に書かれたことがわかる。本抄は大きく三段に分けることが出来る。すなわち第一に総じて十宗の勝劣、ことに権実に約して爾前の七宗と天台法華宗の勝劣が示される。第二に別して真言宗及び台密の破折。第三に末法適時の大法たる本門の三大秘法が示される。先ず第一の十宗の勝劣について。冒頭仏教的真の報恩とは、父母・師匠・国主の意に背いても仏法研鑽の時間を作りそれを極めることであると定義される。  次で仏法研鑽の成果として十宗の勝劣が示される。十宗とは倶舎・成実・律(以上小乗)・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅・天台法華である。小乗の三宗はさておき、大乗の七宗においてその勝劣は『涅槃経』の四依の文、『法師品』の「已今当」の文により『法華経』が最勝であることは明らかであるとし、その上で諸宗諸経の流布と、法華宗よりの破折と値難の歴史が示される。すなわち釈尊時代には釈尊は九横の大難を蒙り、天台の時は光宅寺法雲を始めとする南三北七の邪義を破す故に大難を蒙ったが、震旦のみならず五天竺に「法華経第一」の法義が流布し、妙楽の時には新来の法相・真言・新華厳を破折し、日本の伝教の時は、南都六宗を破折して天台法華宗に帰伏させたことが示される。第二の別して真言・台密の破折は、全体の半分の紙数を費やして念入りになされている。前半は善無畏が『大日経』を渡して以来の日本の真言弘通の様相が取り上げられる。すなわち伝来は善無畏によってなされたが、実質的な伝来者は伝教であり、天台宗の一部として組み込み取り入れ宗とはされなかった。然るに弘法が平城天皇の帰依を受けて真言宗を開き、天台宗にては慈覚・智証が伝教の『依憑集』の意に背いて「理同事勝」の邪義を立てたことが挙げられ、その罪をいえば邪義歴然としている弘法より、わかりにくい慈覚智証の方が重いと指摘されている。また、真言・台密の悪法たる現証として、山門寺門の抗争、高野山の本寺と伝法院との抗争を挙げられている。後半は更に真言の悪法たる現証が事細かに挙げられる。すなわち遠くは三三蔵の祈雨が大災害をもたらし、近くは文永十一年阿弥陀堂法印の祈雨にても同じく大災害をもたらしたこと、慈覚の日輪を射たという夢は吉夢ではなく天下第一の凶事であること、弘法の徳を示す伝説は根拠の乏しい信用に足らぬものであること、たとえ奇瑞があっても(天台・伝教には奇瑞があるが)それによって法の邪正が決せられるのではないこと、承久の変が真言の祈祷により悲惨な結果をまねいたこと、などが事細かに示されている。第三の末法適時の大法が示される段では、先ず正法を弘通する故に競い起こった大難の数々を挙げられ、その弟子を見放した師である故道善房の後生を案じられ、それに引き換え宗祖を守った浄顕房・義浄房の行為は天下第一の『法華経』へのご奉公であると称賛されている。次で『法華経』の肝要とは、『方便品』・『寿量品』・「諸法実相」等ではなく、如是我聞の上の妙法五字であることが示され、その妙法五字が今日まで弘められなかった現実と意味を知るために三時弘教の次第が示される。そして、天台伝教等が示されなかった末法適時の正法の具体相は如何との問いに対し、本門の本尊(その内実は「観心本尊抄」に示された霊山虚空会の儀式を上行菩薩が末法に再現された「観心本尊」である)と本門の戒壇(その内実は示されず)と本門の題目(法華経の広略ではなく肝要の妙法五字)であることが示される。また、広大無辺にして天台伝教にも越える日蓮の慈悲により、この妙法は末法万年尽未来際に流布するであろうと述べられ、最後にその功徳は師道善房に及ぶであろうと結ばれている。なお、真言・台密の念入りな破折は、当時蒙古の再度の襲撃が間近であるとの予測があり、その調伏がまたしても真言密教によってなされるであろうとの見通しから、それに対する警告の意味があったものと思われるが、より直接的には清澄寺が密教色の濃い天台寺院であったことによると思われる。当時の清澄寺が求聞持法の霊場であり、且つ密教的文書が多かったことは、金沢文庫所蔵の清澄寺文書に明らかである(『日蓮大聖人の思想』一 『興風』8号42頁参照)。また、天台伝教が残された末法適時の大法が、本門の本尊・戒壇・題目であることが示されるのは、先の 番号181「撰時抄」にて「問、いかなる秘法ぞ。先名をきき、次に義をきかんとをもう。」(『定本』1029頁)とされながら明確に示されなかった課題に、答えるという意味を持っていたものと思われる。そういう意味では両書は姉妹編といえるであろう。

 


 

目次/

@ 報恩の古例A 真実の報恩B 十の明鏡C 法華経の明鏡D 法華最勝への疑難E 祖師たちは仏敵F 謗法の指摘と受難G 釈尊在世の受難H 釈尊滅後の受難I 法雲法師の立義J 天台大師の弘通K 法相宗の邪義L 華厳宗の邪義M 真言宗の邪義N 妙楽大師の中興O 仏教の日本伝来と南都六宗P 伝教大師最澄の弘通Q 真言密教と天台止観R 弘法大師の邪見S 慈覚大師の判定㉑ 智証大師の判定㉒ 慈覚・智証への批判㉓ 法華経とその行者㉔ 慈覚・智証・弘法の誑惑㉕ 謗法の日本国と日蓮㉖ 謗法の指摘㉗ 爪上の土と十方の地土㉘ 法華経は至極の教え㉙ 讃歎の中の誹謗㉚ 善無畏三蔵の祈雨と堕獄㉛ 金剛智三蔵の祈祷㉜ 不空三蔵の祈祷㉝ 真言師の悪風㉞ 弘法の雨㉟ 慈覚大師の夢㊱ 弘法大師の徳行㊲ 仏法の邪正は徳行によらず㊳ 徳行への不審㊴ 還著於本人㊵ 知教の自覚と一連の受難㊶ 道善御房への追悼㊷ 法華経の肝心㊸ 唱題の功徳㊹ 肝心は南無妙法蓮華経㊺ インドの諸師の弘通と受難㊻ 天台・妙楽両大師の弘通㊼ 伝教大師の弘通㊽ 三大秘法とその流布㊾ 南無妙法蓮華経の流布の必然㊿ 道善御房への回向

 


日蓮がこれを撰述する。


@ 報恩の古例

そもそも、狐はみずからが生まれた古塚を大切に思い、老いて死ぬ時もかならず首を古塚に向けるという。中国晋代の武将・毛宝に助けられた白い亀はその恩を忘れず、毛宝が戦いに敗れた時に背中に乗せ、水の上を渡して窮地を救ったとされる。動物でさえこのように振る舞う。ましてや人間として恩を知り、恩に報じることを大切にしないでおられようか。
むかし、予譲という賢者は旧主の智伯の仇を討つために、わが身を種々に苦しめてその機会を待ったが果たさず、最後は自害してその報恩にあてた。弘演という人は使者の役目を終えて帰国したところ、主君の衛の懿公が北狄に攻め殺され、遺骸が荒らされていたのを見て、自分の腹を割き、主君の肝を中におさめて息絶えた。
これらは世間の人の振る舞いである。ましてや仏教を学び、実践しようとする者は、片時も父母や師匠や国の恩を忘れることがあってはならない。


A 真実の報恩

そして、この大恩に報いるためには必ず仏法を習いきわめて、智恵ある者となることが必要である。
たとえば多くの眼の不自由な人たちを導く場合、自分の眼も不自由であれば、とても橋や河を渡すことはできない。方角と風向きに不案内な船頭が、どうして大勢の商人を船に乗せて宝の山に至ることができようか。
仏法を習いきわめようと思うならば、そのための時間が必要である。また時間を得ようと思えば、父母や師匠・国主などの世俗の事柄にかかわっていてはいけない。
良いにつけ悪いにつけ、悟りの道を得るまでは、父母や師匠などの意向に心を惑わすことがないようにすべきである。
このように言うと、一般の人たちは世間の道理にもはずれ、仏教の教えにもそむくと思うであろう。けれども、儒教の孝経にも、父母や主君に随わないで忠臣や孝子になる旨が説かれている。
仏教の典籍にも「父母の恩を棄てて悟りの道に入ることこそ、真実の報恩のすがたである」と説かれている。
儒教の中では、比干が悪逆の紂王に随わないでかえって賢人といわれたし、仏教においては、悉達太子が父の浄飯王に背いて出家し、三界第一の孝子となられたことは、その好例である。


B 十の明鏡

以上のように私は考えて、父母や師匠などの意見に随わないで仏法を学んだのであるが、およそ釈尊の一代聖教を見きわめるには十の明鏡がある。
それは倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・真言宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・天台法華宗である。この十宗を明師とし、明鏡として一切経の心を知ることができる。
ただし世間の学者などは、この十の鏡がすべて正直に仏の道を照らしていると思っているようだが、
倶舎宗・成実宗・律宗の小乗の三宗などは、庶民が書いた手紙のようなもので、他国へ渡る時には何の役にも立たない。
大乗の七宗こそ生死の大海を越えて浄土の岸に到達できる大船であるから、これを習い究めてわが身を助け、人をも導こうと考えて学んでみると、七宗にはみな自讃の言葉があり、「わが宗こそ、釈尊一代の教えの心を得ている」などと、それぞれ主張している。
いわゆる華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観など、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭など、三論宗の興皇・嘉祥など、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証など、禅宗の達磨・恵可・恵能など、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空などの人びとが、
それぞれの宗旨が依って立つ経典や論釈にもとづいて、「我れこそ一切経の心を悟った。仏の本意を究めた」と言っている。
たとえば、華厳宗の人は「一切経の中では華厳経が第一であり、大王である。法華経や大日経などはその臣下のようなものである」と言い、
真言宗の人は「一切経の中では大日経が第一であり、天中の月である。他の諸経は多くの星のようなものである」と言い、
禅宗の人は「一切経の中では楞伽経が第一である」と言い、その他の宗の人も同様である。
しかも、前にあげた祖師たちを世間の人びとが尊敬することは、あたかも諸天が帝釈天を敬うようであり、仰ぎ見ることは、まるで多くの星が日月につき従うようである。
我ら凡夫にとっては信ずることさえできれば、どの師であっても構わない。ただ、仰いで信じていればよいのであろうが、日蓮の疑いは晴れることはない。
世間のことでも、いくらそれぞれ「我れこそ」「いや、我れこそ」と主張しても、国主はただ一人である。国主が二人になればその国は穏やかではない。一つの家に二人の主人がいれば、その家はかならず亡びる。
仏教もまた変わりはないだろう。どの経であられようと、ただ一つの経こそが一切経の大王でいらっしゃるだろう。
ところが十宗、あるいは七宗がみな「我れこそ第一」と争って譲らない。一つの国に七人、あるいは十人の国王がいては、とても人民は穏やかではない。
どうすればよいのかと迷った末に、一つの願を立てた。「私は八宗、十宗には従わない。
天台大師がひとえに経文を師として一代聖教の勝劣を考えられたように、一切経を見きわめていこう」と。すると涅槃経という経典には「法に依って、人に依ってはならない」と説かれている。
「法」とは、仏の説かれた一切経のことであり、「人」とは、仏を除き申し上げた以外の普賢菩薩・文殊師利菩薩などの菩薩をはじめ、前にあげた多くの人師のことである。
涅槃経にはまた、「真実の教えを説き明かした了義経に依り、方便の教えを説いた不了義経に依ってはならない」とも説かれている。「了義経」とは法華経のことであり、「不了義経」とは華厳経・大日経・涅槃経などの法華経の前後に説かれた諸経である。
それゆえ涅槃経に説かれる仏の遺言を信ずるならば、もっぱら真実の教えを説く法華経を明鏡として、一切経の心を知るべきであろう。


C 法華経の明鏡

そこで法華経の文を開き申し上げると、「この法華経は諸経の中で最も上位にある」と見える。
この経文のとおりであれば、須弥山の頂きに帝釈天がいるように、転輪聖王の頂きに如意宝珠があるように、多くの木の上に月が宿るように、諸仏の頂上に肉髻があるように、法華経は華厳経・大日経・涅槃経などの一切経の頂上の如意宝珠である。
よって論師や人師を捨てて経文に依るならば、大日経や華厳経などより法華経が勝れていることは、あたかも太陽が青空に輝き出ると天地がよく見えるように、その高下・勝劣は明らかである。
また大日経や華厳経などのあらゆる経を見ても、この法華経の経文に似たものは一つもない。
それらの経典は、あるいは小乗経との勝劣を説いたり、あるいは世俗の真理に対して仏教の真理を説き示したり、あるいは諸法は空であるとする空諦や諸法は因縁による存在であるとする仮諦に対して、空や仮にとらわれない中道の理が勝れると述べているにすぎない。
たとえて言えば、小国の王が自分の臣下に向かってみずからを「大王」と称しているのと同じである。それに対して法華経は「諸王に対して大王である」と説かれているのである。
ただ涅槃経だけには法華経に似た経文があります。それゆえ、天台大師以前の南三北七の諸師は迷って、「法華経は涅槃経より劣る」と判定した。
しかし法華経の経文を開いてよく見ると、無量義経のように華厳経・阿含経・方等経・般若経などの法華以前の四十余年の諸経をあげて、それらの経々と涅槃経に対して「自分の方が勝れる」と説いているし、
涅槃経の中には「この経が世に現われるのは〈中略〉法華経の中で八千人の声聞が成仏の保証を得たのは、大きな果実が成熟したようなものであり、この経は秋に収獲し冬に貯蔵した後は、もはやすることがないようなものである」とあり、涅槃経みずからが法華経より劣ると説いている。
このような明らかな経文があるにもかかわらず、智恵ある南三北七の諸師でさえ迷ったほどの問題なので、末代の学者はよくよくこの文意を考えるべきである。
この経文によってただ法華経と涅槃経との勝劣に止まらず、十方世界の一切経の勝劣をも知るがよい。
ただ、経文を正しく理解できないのはやむをえないとしても、天台大師や妙楽大師・伝教大師が勝劣を明らかにされているのだから、ものが見える人であれば誰でもそれを承知しておかなければならない。
しかし、天台宗の人である慈覚大師や智証大師でさえこの経文に迷ったのであるから、まして他宗の人びとの場合は仕様がないだろう。


D 法華最勝への疑難

ある人は疑っていう。中国や日本に渡った経典の中には法華経より勝れた経典はないとしても、インド・竜宮・四天王天・日天・月天・l利天・都率天などには数えきれない経典があるのだから、その中には法華経より勝れた経典はあるにちがいないと。
答えていう。一つを見てすべてを推察せよ。「家を出ることなくして天下のことを知る」というはこの事である。
愚かな人は「私たちは四大洲の内の南閻浮提の空ばかり見て、他の三大洲の空は見たことがないが、そこには別の日天がおられるのだろう」と疑ったり、
山の向こうに煙が登るのを見て、「火は見えないので、煙はあるけれども火ではないのだろう」と言ったりする。
このように仏説を疑う者は、すべての善根を断じてしまった一闡提の人であることを知れ。目に障害があって物が見えない人と同じである。
法華経の法師品には、釈迦如来が真実の言葉により五十余年間に説き示されたすべての教えの勝劣を定めて、「私が説いた経典は数えきれないほど多いが、すでに説いた諸経と今説いた無量義経、そしてこれから説こうとしている涅槃経の中で、この法華経はもっとも信じ難く、理解し難い」と説かれている。
この経文は、たとえ釈迦如来の一仏が説かれたものであっても、等覚の菩薩以下の者は仰いで信じるべきなのに、さらに多宝仏が東方世界から来てその真実を証明し、十方世界の諸仏も釈迦仏と同じように広長舌を梵天にまでつけて不妄語を証明されてから、それぞれの国土にお帰りになった。
法師品の「已に説き、今説き、当に説かん」の已今当の三字は、釈尊一代の五十年の説法はもとより、十方三世の諸仏の御経を一字一点も漏らすことなく、法華経に対しては劣ることを説かれたものであり、
十方の諸仏はその法華経の会座で真実を証明をされたのであるから、それぞれ自分の国土にお帰りになり、お弟子などに向かって、「法華経より勝れたお経がある」と説かれたとしても、はたしてその弟子たちは信用するであろうか。
また「自分は見てないが、インド・竜宮・四天・日天・月天などの宮殿の中には、法華経より勝れたお経があるのではないか」と疑うならば、それでは梵天・帝釈・日天・月天・四天・竜王は法華経の会座にはおられなかったと言うのか。
万が一、日月などの諸天が「法華経より勝れたお経がある。お前が知らないだけだ」とおっしゃるとすれば、とんでもない嘘つきの日月である。
日蓮は責めて言うだろう。「日天や月天は空の上にあられるが、まるで私たち人間が大地の上にいるように、空から落ちることなく安住されているのは、不妄語戒を堅固に持たれた功徳によるのである。
もし、法華経より勝れたお経があるなどとおっしゃるものなら、おそらく世界中が壊れてしまう壊劫の時代が来る前に、大妄語の罪によって大地の上にどっと落ちてしまうでしょう。そして、無間地獄の底の堅い鉄の上まで止まることはないだろう。
大妄語の人は、たとえ一瞬の間でも空にあって、四天下を廻ることはおできになれない」と。


E 祖師たちは仏敵

ところが、華厳宗の澄観などや、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの智恵のある三蔵や大師たちは、華厳経や大日経などは法華経より勝れていると主張されている。身分からいえば私たちはとてもこれらの人たちに及ばないけれども、仏法の道理から見れば、これらの人たちは諸仏の大怨敵ではないか。
提婆達多や瞿伽梨などの悪人どころか、大天や大慢婆羅門などの極悪人と同じである。このような人たちを信ずるなどということは、はなはだ恐ろしい限りである。
問うていう。どうして華厳宗の澄観、三論宗の嘉祥、法相宗の慈恩、真言宗の善無畏や弘法・慈覚・智証などを仏の敵と言われるのか。
答えていう。これは大きな問題である。仏法において最も大切なことである。私の愚かな眼で経文を見る限り、法華経より勝れたお経があると言う人は、たとえどのような人であっても、謗法の罪は免れることはできないと説かれています。
経文にしたがって申すならば、どうしてこれらの人たちが仏敵でないことがあろうか。又、もしこれらの人たちに恐れをなして、仏敵たることを指摘しないとすれば、釈尊が示された一切経の勝劣はすべて絵空事になってしまう。
さらに、これらの人たちに恐れをなして、その末学の人たちを仏敵であると言っても、彼らは「法華経より大日経が勝れているというのは私の個人的な考えではなく、わが宗の祖師が立てられた法義である。
祖師と私たちとでは、戒律や行法を持つ持たないの違いや智恵の勝劣、身分の違いなどはあっても、学ぶ法門においては違いがない」と言うので、過失があるのは彼らではなく、その祖師たちである。


F 謗法の指摘と受難

また、日蓮がこのことを知りながら、かの人びとを恐れて言わなければ、涅槃経の「たとえ身命を失うことがあっても、教えを隠してはいけない」という仏の誡めを用いない者になってしまう。一体、どうすればよいのか。
言おうとすれば世間の人びとの迫害が恐ろしい。言わないでいようとすると、仏の誡めを免れることはできない。進退がきわまってしまった。
まさしく法華経の法師品に「しかもこの経は如来の在世でさえも怨嫉が多い。まして滅後はなおさらである」とあり、安楽行品に「この経には世間の怨みが多く、信仰することは難しい」とある通りである。


G 釈尊在世の受難

摩耶夫人が釈迦仏を懐妊された時、欲界第六天の魔王は神通力をもって夫人の御腹をすかし見て、「我らの大怨敵である法華経という利剣を懐妊した。産まれない内に、何とか無きものにせねばならない」と考えた。
そこで魔王はすぐれた医者に姿を変えて浄飯王の宮殿に入りこみ、「これは安穏にお産ができる良薬です」と偽って、毒薬を夫人に服(の)むように勧めた。
また、釈迦仏がお産まれになった時は石の雨を降らし、乳には毒を混ぜ、城を出て出家された時は黒い毒蛇となって道を塞ぎ、あるいは提婆達多・瞿伽梨・波瑠璃王・阿闍世王などの悪人の身に入りこんで、大石を投げて仏の御身の血を流し、釈迦族の人たちを殺し、釈尊のお弟子を殺害した。
これらの大難はすべて第六天の魔王が法華経を釈尊に説かせまいとしたもので、法師品に「如来の在世でさえなお怨嫉が多い」と説かれるところの大難である。これらは法華経にとっては遠い難であり、
近い難としては、仏の弟子である舎利弗や目連、それに多くの大菩薩なども四十余年の間は法華経を聞いて信じることがなかったのであるから、法華経の大怨敵の一分といえよう。


H 釈尊滅後の受難

ただし法師品には「まして仏の滅後においてはなおさらである」とあって、未来の世にはこのような大難よりもっと恐ろしい大難があるだろう、と説かれています。
仏でさえ忍び難いという大難を、どうして凡夫が忍ぶことができようか。まして仏の在世より大きな難であると仰せである。
どのような大難であろうと、提婆達多が長さ約九メートル、幅約五メートルもある大石を投げて仏を殺さんとしたことや、阿闍世王が酔象をけしかけて仏を害しようとしたことに過ぎるものはないと思うけれども、それらに過ぎた大難であると説かれていますので、わが身には少しの過失もないのにたびたび大難に値う人こそ、仏滅後の法華経の行者であると知るべきでしょう。
仏から滅後の弘経を託された付法蔵の人びとは、仏滅後の衆生を善導する四依の菩薩であり、仏のお使いである。その付法蔵の第十四番目の提婆菩薩は外道に殺され、第二十四番目の師子尊者は邪見の檀弥羅王に頸を切られ、第八番目の仏陀密多と第十三番目の竜樹菩薩は、共に国王を改心させるために赤幡を七年も十二年も掲げて苦難を重ねた。
第十一番目の馬鳴菩薩は敗戦の賠償金三億の身代わりとして他国に移され、如意論師は外道との論義でだまされ、口惜しさのあまり思い悩んで死んだ。これらは仏滅後一千年の間のことである。
像法に入って五百年、仏の入滅後一千五百年という時に、中国に一人の智人が出現した。その名を智といい、後に智者大師と呼ばれた。
法華経の教えをありのままに弘めようと思われたところ、それまでの多くの智恵ある人びとが仏の一代聖教を種々に判定して、それが最終的には十流の学派となった。江南の三派と江北の七派である。


I 法雲法師の立義

十流の学派があったが、その中の一派が勝れていた。すなわち江南三派の中の第三、光宅寺の法雲法師の立義である。
この法師は一代仏教を五つに分け、その五つの中から華厳経と涅槃経と法華経の三経を選び出した。
そして、一切経の中では華厳経が第一で、大王のようなもの、涅槃経が第二で、摂政・関白のようなもの、第三は法華経で、公卿などのようなもので、それ以下の経は万民のようなものと判定した。
この人は生まれつき勝れた智恵を持ちながら、恵観・恵厳・僧柔・恵次などの大学者から法門を習い伝えられて、南北の諸師の法義を破折し、
山林に居を構えて法華経・涅槃経・華厳経の研鑽を積まれていたが、噂を聞いた梁の武帝が法師を召し出し、内裏に光宅寺という寺を建てて崇められた。この法雲法師が法華経を講じた時は天から花が降り、あたかも仏の在世の時のようなありさまであった。
天監五年(五〇六)に大旱魃があった時、天子はこの法師を請じて法華経を講ぜさせられたが、薬草喩品の「その雨が四方にあまねく降り」と言う二句に至るや、甘露のような雨が降ったので、
天子は感激して直ちに僧正に任ぜられ、諸天が帝釈天に仕え、万民が国王を恐れるように、みずから奉仕された。その上、ある人は「この法師は、はるか過去の灯明仏の世から法華経を講じてきた人である」と夢に見たという。
法雲法師には法華経を注釈した書が四巻あり、その中には「この経は広大な教えではない」とか、「異なった方便の教えである」などと見えて、まさしく法華経はいまだ仏教を説き尽くしていない経典であると書かれています。
けれども、このような解釈が仏の御意に叶っていたからこそ、天から花も降り、雨も降ったのでしょう。
そんなめでたい事がありましたので、中国の人びとは「やはり法華経は華厳経や涅槃経より劣っているんだ」と思ってしまい、更にこの注釈書は新羅・百済・高麗や日本にまで弘まった結果、すっかりその考えが定着してしまいました。


J 天台大師の弘通

その法雲法師が亡くなられてから程なくして、梁代の末から陳代の始めに智法師という小僧が現われた。
南岳大師という人のお弟子で、天台大師と号したが、師匠の考えに疑問があったのだろうか、たびたび経蔵に入って一切経をご覧になり、中でも華厳経・涅槃経・法華経の三経を選び出して、特に華厳経を講じられた。
また、華厳経によって仏を礼拝する時の讃歎文を作り、日々行じて功徳を積まれたりしたので、世間の人は「この人も華厳経を第一とされたか」と見ていたが、実は法雲法師の華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三という立義があまりに納得できなかったので、ことさらに華厳経をご覧になったのである。
その結果、一切経の中では法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三と判定され、あらためて歎いて、「如来の聖教は中国に渡ってきたが、人びとを利益するどころか、かえって一切衆生を悪道に導いている。これはひとえに人師たちの誤りによる。
たとえば国を治める人が東を西と言い、天を地と言えば、万民はその通りと思ってしまうだろう。
後に身分が低い者が出てきて、汝らが西と思っているには東であり、天と思っているのは地であると言っても、信用しないばかりか、自分たちの国を治める人の意におもねって、その者を悪口したり、打ったりなどするであろう。
どのようにしたらよいだろうか」と思案されたけれども、黙っていることはとてもできないことなので、「光宅寺の法雲法師は謗法の罪によって地獄に堕ちた」ときつく非難された。
すると、南北の諸師は一斉に蜂のように騒ぎだし、烏のように集まって、
「智法師の頭を割ってしまえ、国外に追放せよ」などと言ったので、陳の国王はこれを聞かれて、南北の諸師と智とを召し合わせ、自分もその席に列して、双方の主張をお聞きになった。
その時に法雲法師の弟子で、恵栄・法歳・恵曠・恵高ネどという僧正や僧都以上の人びとが百余人も集まったが、
みな悪口雑言して、眉を上げて眼を怒らし、手をあげて拍子をとり、騒くばかりである。
一方、智法師は末座に坐して顔色も変えず、言葉も誤らず威儀を正して、静かに諸僧の言葉を書きつけて、一々に責め返した。
そして「そもそも、法雲法師の法義として第一華厳経・第二涅槃経・第三法華経とお立てになる証拠は、いかなる経文なのか。
明確な証文を出されよ」と詰め寄ったところ、諸僧たちはそれぞれ頭を垂れ、顔色を失って一言の返答もなかった。
さらに「法華経の開経である無量義経にはまさしく『次に方等部経・摩訶般若・華厳海空を説く』とあり、
仏はことさらに華厳経の名前をあげて、無量義経に対しても、いまだ真実を顕わしていないと退けられている。
法華経より劣っている無量義経にこのように華厳経は責められているのです。一体、どのように考えられて、華厳経を一代聖教の中で第一とされるのでしょうか。
皆さんが法雲法師の味方をしようと思うのなら、この無量義経の文を破り、より勝れた経文を取り出して、法師の御義をお助けなされよ」と責められた。
また「涅槃経が法華経よりも勝れているとありますが、それはどの経文に説かれているのか。涅槃経第十四巻の聖行品には、華厳経・阿含経・方等経・般若経をあげて涅槃経との勝劣は説かれていますが、そこには法華経と涅槃経との勝劣はまったく見られない。
その法華経と涅槃経との勝劣については、涅槃経第九巻の如来性品に明確に説かれている。すなわち『この経が説かれた理由は〈中略〉、法華経の中で八千人の声聞が成仏の保証を得たのは、大きな果実が成熟したようなものであり、この経は秋に収獲し冬に貯蔵した後は、もはやすることがないようなものである』と見える。
経文には明らかに諸経を春夏に譬え、涅槃経と法華経とを秋冬の菓実の位と説かれていますが、法華経は秋に収穫し冬に貯蔵する大菓実の位であるのに対して、涅槃経は秋の末・冬の始めの落穂拾いの位と定められている。この経文は間違いなく、涅槃経みずからが法華経よりも劣っていると認められたものである。
法華経の文には『已に説き、今説き、当に説かん』とあり、この法華経は已前に説いた爾前経や今説いた無量義経に勝れているだけでなく、これから説くであろう涅槃経等にも勝れている、と仏は定められている。
教主釈尊がそのように定められたのであるから、もはや疑う余地もないのだが、滅後のことを案じられて、東方の宝浄世界の多宝仏を証人に立てられたので、
多宝仏は大地からおどり出て『法華経はすべて真実である』と証明し、また十方世界から分身諸仏もお集まりになり、釈尊と同じように広長舌を大梵天に届かせて、真実を証明された。
しばらくして多宝仏は宝浄世界に帰り、十方世界の分身諸仏もそれぞれ本土に帰られたが、もしその後に、多宝仏も分身諸仏もおられない中で教主釈尊が涅槃経を説いて、『この経は法華経よりも勝れている』などとおっしゃったとしても、果たしてお弟子たちが信用されることなどあろうか」と問い詰められたので、
あたかも修羅と帝釈が戦った時に、日天・月天の光明が修羅の眼をつよく照らしたように、又居ながらにして諸侯を制したという漢の高祖の剣がその頸にあたったように、南北の諸師は一同に両眼を閉じ、頭を垂れてしまった。
天台大師のご様子はといえば、まるで獅子王が狐や兎の前で一声吼えたようであり、鷹や鷲が鳩や雉を射すくめた姿のようであった。
このようなありさまだったので、法華経が華厳経や涅槃経よりも勝れていることは、中国全体に知れわたっただけでなく、さらにインドにまで伝わり、「数多くあるインドの所論もみな智者大師の立義には及ばない。
教主釈尊が再び出世されたのであろうか。仏の教えが今一度、かがやき現われた」と称讃された。


K 法相宗の邪義

その後、天台大師も入滅され、陳・隋の世も終って唐の世となった。章安大師も入滅されてしまい、
天台宗の仏法も次第に衰えていった頃、唐の太宗の世に玄奘三蔵という人が出現し、貞観三年(六二九)にインドに渡り、同十九年に帰国したが、インドの仏法を研さんして、法相宗という宗を伝えた。この宗は天台宗とは水と火のような違いがあり、
玄奘三蔵は天台大師のご覧にならなかった解深密経・瑜伽師地論・成唯識論などの経論を持ち帰って、「法華経は一切経の中では勝れているけれども、解深密経には劣っている」と主張した。
何せ天台大師のご覧にならなかった経典であり、智恵も浅かったからだろうか、天台宗の学者たちは皆「そうか」と思ってしまった。
また太宗は賢王であり、玄奘三蔵へのご帰依も深かったので、たとえ反論すべきことがあっても、世の常ながら、国王の権勢を恐れて言い出す人はいなかった。
折角打ち立てられた法華経が最勝であるという教えをくつがえして、「一切衆生には本来五つの性分があり、仏の教えはその性分に応じて説かれたものなので、三乗の教えこそ真実であり、一乗の教えは方便である」と申し立てたことは、全く遺憾なことである。解深密経はインドから伝えられたものだが、あるいはインドの外道の教えが中国に渡ってきたのであろうか。
法華経は仮りに説かれた方便の教えで、解深密経こそ真実の教えであると言うのであるから、釈迦仏・多宝仏や分身諸仏の真実の言葉はすべて虚妄となってしまい、玄奘やその弟子の慈恩こそ当時は生身の仏と仰がれたことだろう。


L 華厳宗の邪義

その後の則天武后の時代に、以前に天台大師によって格下げられた華厳経に加えて、新訳の華厳経が伝来したので、昔のくやしさを晴らすために、新訳の華厳経によって旧訳の華厳経を助けて、華厳宗という宗を法蔵法師という人が立てた。
この宗では華厳経を根本の教えとし、法華経を枝末の教えとする。それゆえ、南北の諸師が第一華厳経・第二涅槃経・第三法華経とし、天台大師が第一法華経・第二涅槃経・第三華厳経とするのに対して、この華厳宗は第一華厳経・第二法華経・第三涅槃経と判定した。


M 真言宗の邪義

また玄宗皇帝の御世に、インドから善無畏三蔵が大日経と蘇悉地経を持ち来たり、金剛智三蔵は金剛頂経を伝えた。また、金剛智三蔵の弟子に不空三蔵がいた。
この三人はインドの人で、家柄も高貴である上に、人柄もどことなく中国の僧と相違していた。
その法門も何となく目新しく、後漢からその時までになかった印と真言というものを副え加えて、ありがたく見えたので、天子は頭を下げて尊崇し、万民は掌を合わせて敬った。
この人たちは「華厳経・解深密経・般若経・涅槃経・法華経などの勝劣は、所詮顕教の内の話であり、あくまでも釈迦如来の説法における問題にすぎない。今、この大日経などの密教経典は、法王である大日如来の勅言である。
顕教の諸経典は庶民の多くの言葉であり、この密教経典は天子の一言である。華厳経や涅槃経などは、たとえハシゴを掛け立てても大日経には及ばない。
ただ法華経だけは大日経によく似た経典である。しかしながら、法華経は釈迦如来の説法で、いわば庶民の正しい言葉であるのに対して、大日経などの密教経典は天子の正しい言葉である。言葉は似ているけれども、人の品格には雲泥の相違がある。
あたかも濁った水に映った月と清らかな水に映った月のようなものである。月の影は同じであるけれども、映す水に清濁の違いがある」などと説いたところ、だれもこの教えの由来を尋ねて真偽をただす人もいなかったので、諸宗はみなその義に屈伏して、いつしか真言宗に傾倒してしまった。
善無畏三蔵と金剛智三蔵が亡くなった後も、不空三蔵がまたインドに帰って菩提心論という論物を伝来したので、ますます真言宗は盛んになった。


N 妙楽大師の中興

これに対して、天台大師より二百年あまり後に妙楽大師という人が出た。たいへん智恵の勝れた人で、天台大師の釈書をよく理解された上に、
「天台大師の法華経を最勝とする立義は、大師の入滅後に中国に渡った解深密経を依りどころとする法相宗や、中国ではじめて立てられた華厳宗、そして大日経などに基づく真言宗よりも勝れておられるが、あるいは智恵が足りないのか、あるいは人を恐れてか、それとも国王の威勢に怖じ気づいてか、今は誰も口に出す者はいない。
このまま行けば天台宗の正しい教えは失われてしまうだろう。また、仏教は混乱して、陳・隋の時代以前に南北の諸師が邪義を説いていた時よりもひどい状態になってしまうであろう」と覚悟されて、天台大師の摩訶止観・法華玄義・法華文句の三大部について三十巻にもおよぶ注釈書を造られた。すなわち輔行伝弘決と玄義釈籤と文句記である。
この三十巻の書は天台大師の三大部の中で重複している部分を削り、不足しているところを加えるだけでなく、天台大師の時代にはいまだ現れていなかったために、批判を免れていた法相宗と華厳宗と真言宗の三宗を一時に責めつぶされた書である。


O 仏教の日本伝来と南都六宗

一方、日本国には、人王第三十代・欽明天皇の御世の十三年十月十三日に、百済国から一切経と釈迦仏の尊像とがもたらされた。
そして用明天皇の御世に聖徳太子がはじめて仏教を研学して、和気の妹子という臣下を中国に派遣し、太子ご自身が前世で所持していたという一巻の法華経をお取り寄せになり、持経と定められた。その後、人王第三十七代・孝徳天皇の御世に三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗が日本に渡り、
人王第四十五代の聖武天皇の御世に律宗が渡ってきて、
孝徳天皇から人王第五十代・桓武天皇の時代にいたるまでの十四代一百二十余年の間は、已上の六宗だけで、天台・真言の二宗はなかった。


P 伝教大師最澄の弘通

しかるに桓武天皇の御世に最澄という小僧がいた。後に興福寺と呼ばれる山階寺の行表僧正のお弟子である。法相宗を始めとして六宗の教えをよく学び尽くした。
それでも仏教を習い窮めたとは思えなかったので、華厳宗の法蔵法師が書いた起信論の注釈書をご覧になったところ、中に天台大師の釈文が引かれていた。「これはすばらしい釈文である。
はたしてこの書は日本に伝えられているのかどうか」と疑問に思い、ある人に問うたところ、その人は
「中国の揚州にある竜興寺の僧の鑑真和尚は天台宗の道暹律師の弟子で、天宝年間の末に日本国に来られて小乗の戒律を弘められたが、その際に持って来た天台大師の釈書は弘められなかった。人王第四十五代・聖武天皇の時代のことである」と語った。
最澄法師が「是非ともその書物を見たいものだ」と言われたので、その人が取り出してお見せしたところ、法師は一度ご覧になっただけで、生死の迷いを覚まして悟られた。
また、この天台大師の釈書に基づいて六宗の教えを調べてみたところ、その立義がみな邪見であることが判明した。
そこで最澄法師はたちまちに誓いを立て、「日本国の人びとはみな謗法の者の信者となってしまっているので、天下は必ず混乱するだろう」と思って南都の六宗を非難されたので、南都七大寺の六宗の学者たちはいっせいに蜂起して京都中に押しかけたので、天下一同の大騒ぎとなった。七大寺の者たちは非常に悪心が強かったが、
延暦二十一年正月十九日に、桓武天皇が高雄寺に行幸になり、七大寺の学僧である善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏の十四人と最澄法師とを対論させなされた。
華厳宗や三論宗・法相宗などの人たちは、それぞれ自宗の元祖の教えを口々に唱えたが、最澄上人は六宗の人たちの立義を一々に書き留め、法華経および天台大師の所釈と種々の経論とに照らし合わせて論難されたところ、六宗の人たちは口が鼻のようになってしまい、一言も答えることができなかった。
天皇はその様子に驚かれて、くわしく最澄上人にお尋ねになり、重ねて勅宣を下して十四人の学者を問いただされたので、彼らは一同に帰伏状を奉った。
その書には「七大寺の六宗の学者は〈中略〉初めて仏教の究極の法門を悟った」とあり、
「聖徳太子の弘通から今にいたるまでの二百余年の間、数多くの経文や論釈が講究された。しかし、それぞれに理を争って決着せず、この最も勝れた法華円宗の教えもいまだ明らかに示されなかった」とあり、
また「法華円宗の実義が示された今、三論宗と法相宗との長年の争いが氷が溶けるように解決し、すべてが明らかになったさまは、あたかも雲や霧が晴れて、太陽と月と星の三光を仰ぎ見るような思いである」と述べられている。
最澄和尚は南都の学者十四人の立義について、「みな法の鼓を深い谷にまで鳴らして、所依の経典を講究しながら、問者も答者も三乗の路にさまよって義理を争っている。老若を問わず、みな三界の煩悩を断じるのに、なお歴劫修行の教えに執着し、大白牛車に譬えられる法華円教のすばらしさを知らない。どうして菩提心をおこして即座に悟りを得る即身成仏が成就できようか」と言われた。
臣下の和気の弘世と真綱は「南岳大師は前世において霊鷲山で釈尊が説かれた法華経を聴聞し、天台大師はすべての善を摂めた法華経の悟りを大蘇山で開かれた。ところが、法華一乗の妙旨が権教に障えられて滞っていることは嘆かわしく、円融三諦の理がいまだ発揮されていないことは悲しい限りである」と述べた。
また、南都の十四人は「われわれ善議らは、過去世の因縁によって僥倖にめぐり会い、すばらしい法華経の妙旨に接することができた。深い因縁がなければどうしてこのような尊い時を得ることができようか」と感激した。
この十四人の立義と、華厳宗の法蔵や審祥、三論宗の嘉祥や観勒、法相宗の慈恩や道昭、律宗の道宣や鑑真などの中国や日本のそれぞれの元祖たちの法門とは、入れ物の瓶は変わっても中の水は変わらないように、まったく同じ一つのものである。
その十四人がみなそれまでの邪義を捨てて、伝教大師の法華経の教えに帰伏したのだから、どの末代の者が「華厳経・般若経・解深密経などは法華経より勝れている」などと言うことができようか。
倶舎宗・成実宗・律宗の小乗の三宗に関しては、南都の者たちは兼学しているので、華厳宗・三論宗・法相宗の大乗の三宗が論破されたからには、同時に破されたことになる。
ところが、このような子細を知らない者は、南都の六宗はまだ健在だと思っている。
あたかも目の不自由な人が太陽や月を見ることができないために、空に太陽や月はないと思ったり、耳の不自由な人が雷の音を聞くことができないために、空には雷の音がないと考えるようなものである。


Q 真言密教と天台止観

さて真言宗という宗旨について申せば、人王第四十四代の元正天皇の御世に、善無畏三蔵が大日経を持って来朝したが、ついに弘めることなく中国へ帰ってしまったという。
その後、法相宗の玄ムなどが大日経義釈十四巻を日本に伝え、また東大寺の得清大徳も同書を伝えたとされる。
これらの釈書を伝教大師はご覧になったけれども、大日経と法華経との勝劣についてはいろいろと不審があったので、去る延暦二十三(八〇四)年七月に中国に渡られて、
西明寺の道邃和尚や仏滝寺の行満和尚などに会い申し上げて、止観の法門や円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和尚に会い申し上げて真言密教を相伝し、明くる延暦二十四年六月に帰国された。その報告のために桓武天皇に対面された時に、
天皇は宣旨を下して、南都の六宗の学者たちにも七大寺において止観と真言とを習学するよう命じられた。
この真言と止観との二宗の勝劣については中国にも多くの議論があり、善無畏三蔵の大日経義釈には「円融相即の理においては同じであるが、印や真言などの事相があることでは真言密教が勝れる」と説いている。しかし、伝教大師は「これは善無畏三蔵の誤りである。大日経は法華経より劣っている」とお考えになって、真言を一宗と立てず、南都六宗と天台法華宗に加えて合計八宗とはされなかった。
そして、真言宗の名を削って法華宗の内に入れて七宗とし、大日経を天台法華宗の補助的な経典と位置づけて、華厳経や大品般若経・涅槃経などと同列に置かれた。
ところが、大乗円頓戒を別受戒として授ける大戒壇を日本国に建立するかしないかという重要な問題に関しての論争が激しく、その忙しさに取り紛れて、真言と天台の二宗についての勝劣は弟子たちにも明確にはお教えにならなかったようである。
ただし伝教大師は依憑天台集という著作の中でに、「間違いなく真言宗は天台法華宗の正義を盗み取って大日経に入れてしまい、理は法華経と同じであると主張している。したがって真言宗は天台宗に帰伏した宗旨である」と述べられている。
ましてや善無畏三蔵と金剛智三蔵が入滅した後、不空三蔵はインドに帰って竜智菩薩にお会いした時に、竜智菩薩から「インドには仏のご本意を明らかにした論釈がない。
中国の天台という人の論釈こそ仏法の邪正を定め、偏教と円教を明らかにした書物です。どうか
それをインドに渡していただきたい」とねんごろに頼まれたという話を、不空の弟子の含光という者が語ったことを、妙楽大師は法華文句記の第十巻の末に記録されていますが、伝教大師はそれをこの依憑天台集に転載されています。
これから見ても、大日経は法華経より劣るという伝教大師のお考えは明白である。
以上のように、釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師がみな、大日経を始めとする一切経の中で法華経が最も勝れているとされたことは、間違いようのない事実である。
また真言宗の元祖と言われる竜樹菩薩のお心も同じである。それは竜樹菩薩の大智度論を詳しく検討すれば明らかであるにもかかわらず、真言密教にのみ即身成仏があると述べる菩提心論という書物を不空が竜樹菩薩の著作としたことに、人びとはみなだまされてしまったかのように見える。


R 弘法大師の邪見

また、石淵の勤操僧正のお弟子に空海という人がいた。後に弘法大師と呼ばれた。
延暦二十三年(八〇四)五月十二日に中国に渡り、金剛智三蔵と善無畏三蔵から数えて第三代目のお弟子にあたる恵果和尚という人から金剛界と胎蔵界の法門を伝受して、大同二年(八〇七)十月二十二日に帰国された。平城天皇の御世のことである。
桓武天皇は既に崩御されていたので、平城天皇にお目にかかり、天皇は空海を信頼して深く帰依されたけれども、まもなく退位され、嵯峨天皇の治世となった。弘法はまた嵯峨天皇の帰依も受けていたが、その嵯峨天皇の弘仁十三年六月四日に伝教大師はご入滅されてしまった。
すると、翌年の弘仁十四年から弘法大師は天皇の師となり、真言宗を立てて東寺を賜り、真言和尚と呼ばれたので、日本の八宗はこの時より始まったのである。
弘法大師は釈尊ご一代の聖教の勝劣について、「第一は真言の大日経、第二は華厳経、第三は法華経および涅槃経である。
法華経は阿含経や方等経・般若経などに比べれば真実の経であるけれども、華厳経や大日経に対しては真実を説かない無益な教えである。
教主釈尊はたしかに仏ではあるけれども、大日如来に比べればまだ迷いの領域にあるので、両者は皇帝と辺境未開の者とのように異なっている。
また天台大師は盗人である。六波羅蜜経が真言の教えを醍醐味に譬えるいるのを盗んで、法華経を醍醐味とした」等と書かれており、法華経は尊い教えであるなどというのは、弘法大師にとってはまるで取るに足りない考えである。
インドの外道はともかくとして、中国の南北の諸師が、法華経は涅槃経に比べれば邪見の経であると言ったのにも勝り、華厳宗の祖師が、法華経は華厳経に対すれば枝末の教えであると言ったにも越えている。
たとえば、かのインドの大慢婆羅門が、大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人の像を高座の足に彫りつけて、その上に昇って邪法を弘めたようなものである。
もし伝教大師がおられたならば、かならずや一言申されたであろう。また、お弟子の義真・円澄・慈覚・智証等の人びとは、どうしてご不審を持たれなかったのであろうか。これは天下第一の忌まわしい出来事である。


S 慈覚大師の判定

慈覚大師は承和五年(八三八)に中国に渡り、十年の歳月をかけて天台・真言の二宗を習学された。
法華経と大日経との勝劣について、法全や元政などの八人の真言師からは、理において両経は同じであるが、事相においては大日経が勝れると習い、
天台宗の志遠・広修・維K等からは、大日経は五時の第三・方等部に属する経にすぎないと習った。
承和十三年(八四六)九月十日に帰朝され、嘉祥元年(八四八)六月十四日には伝燈大法師位の宣旨が下った。
法華経と大日経等との勝劣については、中国での習学では決着しなかったが、帰国後に著わした金剛頂経疏七巻と蘇悉地経疏七巻の合計十四巻では、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の教えと法華経の教えとは、究極の理は同じであるけれども、事相の印と真言とについては真言の三部経のほうが勝れていると判定した。
これは全く善無畏・金剛智・不空が作った大日経疏に見える判定と同じである。
ただ、もう一つ自分の心に確信が持てなかったのだろうか、あるいは自分は納得しているけれども他人の不審を晴らそうとお考えになったのか、この十四巻の注釈書を御本尊の前に置いて、
「このように注釈を作りましたが、ご仏意はいかがでしょうか。真言の三部経が勝れているのか、それとも法華経の三部経が勝れているのか」と祈念されたところ、五日目の明け方頃に夢のお告げがあった。
すなわち、青空に大きな太陽が昇られ、それを弓矢で射たところ、矢は空高く飛んで太陽に当たった。太陽は動揺して、「ああ、地面に落ちる」と思ったところで、夢からさめた。
慈覚大師はこれに喜び、「私はめでたい夢を見た。法華経より真言が勝れていると書いた注釈書は、仏意に叶っていた」と思われて、申請して宣旨をいただき、二つの注釈書を日本国に弘めた。
ただし、その宣旨の文意には「ついに天台の法華止観と真言の法義が、究極の理において符合していることを知った」と宣べられている。
大師の祈念では大日経より法華経は劣るようであり、それに対する宣旨では法華経と大日経とは同じと言われている。


21 智証大師の判定

智証大師は、わが国においては義真和尚・円澄大師・別当大師光定・慈覚大師などの弟子である。
顕教と密教の二道についてはおおよそ日本で学ばれていたので、天台宗と真言宗との勝劣に対するご不審を晴らすために中国へ渡られたのであろうか。
仁寿二年(八五二)に中国に入られて、真言宗は法全や元政などに習われた。大日経と法華経の勝劣については、理は同じて事は大日経が勝れているという義であり、おおよそ慈覚大師の考えと同様である。
天台宗は良Z和尚に習われた。真言と天台の勝劣については、大日経は華厳経や法華経などには及ばないという教示であった。七年間中国で学ばれて、貞観元年(八五九)五月十七日に帰国された。
その後に著わされた大日経旨帰には、「法華経でさえ及ばない。ましてそのほかの教えはなおさらである」と書かれた。これは法華経は大日経より劣るという解釈である。
一方、授決集には「真言や禅宗の教えは、華厳経・法華経・涅槃経などの経典に比べれば、真実の教えに入るための方便の教えである」と述べられ、観普賢経記や法華論記には「大日経と法華経は同じ」と示されている。
貞観八年四月二十九日に下された勅宣には、「聞くところによると、真言と天台の両宗の教えは同じく最高であり、倶に深秘であるという」とあり、
また六月三日の勅宣には「祖師の伝教大師は、すでに法華円教の止観業と真言密教の遮那業の二つを必修の行業とされた。代々の座主が両業を兼ね伝えないことなどありえない。また、それに続く者たちが、どうして先師の道に背くことなどがあろうか。
しかし聞くところによると、比叡山の僧たちはひとえに先師の教えに背き、片寄った考えに執着して、他宗の教えを説くばかりで、祖師が定めた両業をもり立てて行こうという気持ちがないという。
およそ先師の伝えられた道というものは、その一つでも欠いてはいけない。道を伝え弘める者の勤めとして、どうして両業を兼ね備えないことなどがあろうか。今より後は、かならず真言密教と法華円教の両教に通達した者を延暦寺の座主とし、これを恒例とせよ」とある。


22 慈覚・智証への批判

このように、慈覚・智証の二人は伝教大師や義真のお弟子であり、中国に渡って天台や真言の明師に会いながら、二宗の勝劣については明確に判定しなかったのであろうか。ある時は真言が勝れ、ある時は法華経が勝れ、ある時は理は同じで事相は真言が勝れているなどとしている。
また願って下された宣旨の中では、真言宗と天台宗との勝劣を論じる人は天皇の命に背く者である、と誡められている。
これでは自語相違と言われても仕方がない。他宗の人は間違っても用いないだろうと思われます。
ただし「真言と天台の二宗に勝劣はないというのは、伝教大師のお考えである」と宣旨に引き載せられているが、いったい伝教大師のどの著作に書かれているのでしょうか。このことはよくよく追求せねばならない。
慈覚や智証と日蓮とが伝教大師の御事を詮索することは、自分の親と年の数を争ったり、太陽に向かい申し上げてにらみ合いをするようなもので、とても勝ち目はありませんが、慈覚や智証の味方をされる人びとは、どうか明白な証文を用意していただきたい。詰まるところは、信用できるものでなければならないからである。
玄奘三蔵はインドに渡って婆沙論を見た人であるが、インドに渡ることのなかった法宝法師に翻訳の誤りを責められた。
法護三蔵はインドの法華経の原本を見たけれども、中国の人は原本を見ずに嘱累品の位置の間違いを指摘したではないか。
たとえ慈覚大師が伝教大師にお会いして習い伝えたとしても、智証大師が義真和尚から直接口決を得たからと言っても、伝教大師や義真和尚の正しい証文と違っていれば、どうして疑問に思わないことがあろうか。
伝教大師の依憑天台集という著作は、大師の最も大切な秘書である。その書の序文に「新たに渡来した真言宗は、善無畏がもと天台宗の一行禅師をあざむいて一念三千を取り入れたという事実を無いものとし、古く渡来した華厳宗は、法蔵の五教判が天台の四教判の影響を受けて成立しているという事実を隠している。空理にこだわる三論宗は嘉祥が天台大師に論難されて帰伏したことを忘れ、またその嘉祥が章安大師の法門に心酔したことを伏せている。有に執着する法相宗は撲揚の智周が天台大師に帰依したことを否定し、青竜寺の良賁が天台大師の経典解釈法を用いたことを退けている。
〈中略〉謹んで依憑天台集一巻を著わして、私と志ざしを同じくする後世の学者に贈る。日本第五十二代・嵯峨天皇の弘仁七年丙申の年のことである」とある。
次の本文には「インドのある名僧が『私は、中国の天台の釈書こそ仏法の邪正をもっとも正しく弁えていると聞いたので、ぜひともそれを拝見したい。ついては翻訳してインドに伝えてもらえないだろうか』と懇願した」とあり、
続いて「これはインドになくなってしまった仏の正法を周囲の国に求めた姿ではないか。肝心の中国の方では天台の釈書の大切さを知っている者は少ない。あたかも、むかしの魯の国の人たちが、孔子が聖人であることを知らずに、疎略に扱ったようなものである」と記されている。
この依憑天台集は法相・三論・華厳・真言の四宗を責めたものです。もし天台宗と真言宗とに勝劣がないならば、どうして真言宗を責めたのでしょうか。
しかも不空三蔵等の人師を「まるで魯の国の人のようだ」などと書かれています。善無畏・金剛智・不空の真言宗が勝れたものであれば、どうしてこのような悪口を吐かれることがあろうか。
またインドの真言宗が天台宗と同じか、または勝れているならば、どうしてインドの名僧が不空三蔵に懇願し、「インドには正法がない」などと言うのか。
とにかく慈覚と智証の二人は、口では伝教大師のお弟子とは名乗っておられるけれども、その心はとてもお弟子とは言えない。
と言うのは、この書には「謹んで依憑天台集一巻を著わして、私と志ざしを同じくする後世の学者に贈る」とあるではないか。
真言宗は天台宗よりも劣ると習い伝えてこそ「私と志ざしを同じくする」と言えるのではないか。
みずから願い出て下された宣旨には「比叡山の僧たちはひとえに先師の教えに背き、片寄った考えに執着している」とあり、「およそ先師の伝えられた道というものは、その一つでも欠いてはいけない」と見える。
この宣旨の言葉に従えば、慈覚や智証などこそ、ひとえに先師に背く人びととなりましょう。
このように申すことは恐れ多いことですが、これを責めなければ大日経と法華経の勝劣が逆転してしまうと思い、命をかけて責めるのです。
この二人は弘法大師と同じ考えだったので、その邪義を責めなかったのも道理というものです。
そんなことであれば、食糧を費し、大勢の人の手間ひまかけて中国へ渡られたけれども、むしろ本師である伝教大師のお教えをよくよく学ばれた方がよかったのではなかろうか。
結局、比叡山の仏法というものは、ただ伝教大師と義真和尚・円澄大師の三代だけで終わってしまったことになる。
天台宗の座主とは名ばかりで、実際は真言宗の座主に変わってしまった。名前と所領とは天台宗の山であるが、その主は既に真言師である。
慈覚と智証の両大師は「すでに説いた経と今説いた経、そしてこれから説くであろう経の中で、法華経はもっとも勝れている」という法華経の文を破ってしまわれた人である。
この経文を破られたからには、釈迦仏や多宝仏、そして十方の分身諸仏の怨敵と言わざるをえない。
弘法大師こそ第一の謗法の人と思っていたけれども、これはとてもそれどころではない悪事である。
その理由は、誰が見てもそれと分かる悪事をわざわざ用いる人もいないので、そんな悪事はけっして成就することもない。弘法大師の立義はあまりにも悪事なので、弟子たちでさえ用いることがない。
印と真言の事相は彼の宗の特色であるが、教相の方はさすがに弘法の立義は用いづらいので、善無畏・金剛智・不空や慈覚・智証の立義を用いている。
その慈覚や智証が「真言と天台とは理においては同じである」などと言うのであるから、人びとも皆なるほど思ってしまう。
そして自然と勝れているという事相の印と真言に心が傾いてしまい、天台宗の人びとも本尊開眼の仏事を奉修するために真言の事相を習うようになり、結果として日本の国は一同に真言宗になり、天台宗の人は一人もいなくなってしまった。
たとえていえば、法師と尼僧、あるいは黒色と青色とはまぎらわしいので、目の不自由な人は見間違えることがある。
出家の法師と在家の男性、あるいは白色と赤色とは区別がはっきりしているので、目の不自由な人でも見違えることはない。まして目の良い人はなおさらである。
慈覚と智証の立義はこのまぎらわしい法師と尼僧、あるいは黒色と青色のようなものであって、智恵のある人も迷い、まして愚かな人は言うまでもありませんで、この四百余年の間は比叡山・園城寺・東寺・奈良・五畿・七道、そして日本一国がみな謗法の者となってしまった。


23 法華経とその行者

法華経第五の安楽行品には「文殊師利よ、この法華経は諸仏如来の秘密の教えであり、諸経の中の最も上にある経典である」とある。
この経文に従えば、法華経は大日経などのすべての経々の頂上に居られる正法である。
善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証などの人びとは、この経文をどのように理解されるのであろうか。
また法華経第七の薬王品には「よくこの経典を受持する者も、一切衆生の中において第一の者である」と見える。
この経文に依れば、法華経の行者は大小種々の流れの中の大海であり、多くの山の中の須弥山、多くの星の中の月天、多くの明かりの中の大日天であり、転輪聖王や帝釈天や多くの王の中の大梵天王である。
伝教大師は法華秀句の中に、この法華経薬王品の「この経もまた数多くの経典の中で最も第一である。〈中略〉よくこの経典を受持する者も、一切衆生の中において第一の者である」の文を引き、
「以上は経文である」と書き入れられ、続いて「天台大師の法華玄義には」等と文を引用し、
「以上は玄義の文である」と書かれた上で、引用文の意味について「心して知れ。他宗が依りどころとしている経は第一ではない。また、その経を持つ者もまた第一ではない。
天台法華宗が依りどころとしている法華経は最も第一であるから、この法華経をよく持つ者も衆生の中で第一である。これは仏の金言によるのであり、けっして単なる自慢ではない」と述べられている。
さらに巻末の文には「諸宗が天台大師の釈義を依りどころとしている詳しい説明は、依憑天台宗に譲る」とあるが、
同書には「今、わが天台大師は、法華経を講説し、注釈することにおいて、多くの人の中で特に勝れ、唐代でも一人ぬきん出ている。明らかに如来の使いである。讃歎する者は福徳を須弥山のように積み上げ、誹謗する者は無間地獄へ堕ちる罪を造るだろう」と記されている。
法華経をはじめ、天台大師・妙楽大師・伝教大師の経釈の心を重んじるならば、今の日本国には法華経の行者は一人もいないことになる。
インドでは、教主釈尊が法華経を説かれ、宝塔品に至ってすべての仏を集められて、諸仏が大地の上に坐す中で、大日如来だけを宝塔の中の南の下座に据え申し上げ、みずからは北の上座にお着きになった。
この大日如来は、大日経の胎蔵界の大日如来と、金剛頂経の金剛界の大日如来の主君である。
その胎蔵部と金剛部の両部の大日如来を従者とした多宝仏の上座に教主釈尊はお座りになられた。これは法華経が真言より勝れていることを示された法華経の行者の姿である。これはインドのことである。
中国では、陳の代に天台大師が南三北七の諸師の義を論破して、現身にして大師となられた。伝教大師が「多くの人の中で特に勝れ、唐代でも一人ぬきん出ている」と言われたのはこのことである。
日本国では、伝教大師が南都六宗を論破して、日本の最初第一の根本大師となられた。
インド・中国・日本において、ただこの三人だけが法華経の説く「一切衆生の中で第一の者」なのです。
伝教大師の法華秀句には「浅く劣った教法は持ちやすく、深く勝れた教法は持ちがたいとは釈尊のご判断である。たとえ持ちがたくとも、浅劣な教法を去って深勝な教法を取れというのが、大丈夫たる仏の御心である。そこで天台大師は釈尊に順じて、法華宗を助けて中国に弘宣し、わが叡山の一家はこの天台大師の法灯を継いで、法華宗を助けて日本国に弘通した」と述べられている。
仏が入滅されてから一千八百年余りの間、法華経の行者は中国に一人、日本に一人の以上二人に釈尊を加え申し上げて、合計三人である。
儒教の典籍に「聖人は一千年に一度出て、賢人は五百年に一度出る。黄河は濁った水と澄んだ水とに分かれて流れているが、五百年には半分が澄み、千年には全部が澄む」と書かれているとおりであります。


24 慈覚・智証・弘法の誑惑

ところが日本国には比叡山に限り、伝教大師のご存生の時に法華経の行者がおられた。
義真・円澄は比叡山の第一・第二の座主である。第一の義真だけは法華経の行者の伝教大師に似ていたが、第二の円澄は半分は伝教大師のお弟子であるものの、半分は弘法大師の弟子である。
第三の座主である慈覚大師は最初は伝教大師のお弟子のようであったが、御年四十歳の時に中国に渡ってからは、名前だけは伝教大師のお弟子として師の跡をお継ぎになったけれども、その法門はとても伝教大師のお弟子とはいえない。ただし、円頓の大戒だけはお弟子のようである。
まったくコウモリのようなもので、鳥でもなければ鼠でもない。母を食べるというフクロウか、父を食べるという破鏡獣のようである。法華経という父を食べ、法華経の持者である母を噛む者である。
慈覚大師が太陽を射た夢を見たのは、その良い証拠である。また、それが祟ってか、死去の後は墓がないというありさまである。
智証大師の一門である園城寺と慈覚大師の一門である比叡山とは仲が悪く、修羅と悪竜とのようにいつも戦っている。
園城寺を焼き、比叡山を焼き、智証大師が本尊としていた弥勒菩薩も焼けてしまったし、慈覚大師が本尊としていた大講堂の大日如来も焼けてしまった。ただ根本中堂だけは焼け残り、さながら生きながらにして無間地獄の苦を受けているようである。
また弘法大師もその跡を継ぐ者がおぼつかない。大師には「鑑真が築いた東大寺の戒壇院で受戒しない者を東寺の長者に就けてはならない」という御遺告がある。
ところが宇多法皇は仁和寺を建立して東寺の法師を移してしまい、「わが寺には比叡山の円頓戒を受持しない者を住持としてはいけない」と明言した宣旨を下された。
それゆえに、今の東寺の法師は鑑真の弟子でもないし、弘法の弟子でもない。比叡山で受戒すれば、戒においては伝教大師のお弟子である。けれども、伝教大師の法華経の教えを用いることはないので、もちろんそのお弟子でもない。

ある者は髪を剃り申し上げたと言い張った。また、弘法が唐から帰国の際に投げた三鈷杵が高野山で見つかったとか、あるいは夜中に太陽が出たとか、あるいは現身のまま大日如来になられたとか、あるいは伝教大師に真言の秘法である十八道をお教えしたとか言って、
いろいろの徳を飾り立てて智恵ある人に見せかけ、師匠の邪義を盛り立てて、国王や臣民を迷わしている。
また高野山には本寺と末寺の伝法院という二つの寺がある。本寺は弘法の建てた大塔で、本尊は胎蔵界の大日如来である。伝法院は正覚房覚鑁の建てた寺で、本尊は金剛界の大日如来である。
この本寺と末寺の二寺はいつも合戦を繰り返している。まるで比叡山と園城寺のようである。弘法や慈覚・智証が世間をたぶらかした罪が積もり積もって、この二つの争いとなって現れたのであろうか。
たとえ糞を集めて栴檀と称しても、焼けばただ糞の臭いがするだけである。どれだけ大妄語を集めて仏のお言葉であるとうそぶいても、ただ無間地獄に堕ちるだけである。
インドの尼オ外道の死骸を埋めた上に出現した塔は、数年の間はその七宝荘厳が人びとの心を惑わしたが、馬鳴菩薩の礼拝によって一挙に崩れ落ちてしまった。
鬼弁婆羅門が垂らした暖簾は長いあいだ人をたぶらかしたが、馬鳴菩薩に論難されてその妖術は破られてしまった。
拘留外道は八百年の間、神通力で石になっていたが、陳那菩薩に責められて水になってしまった。
中国の道士は数百年間、多くの人びとをあざむいていたが、摩騰と竺蘭に論破されて道教の経典は焼き亡ぼされた。
秦朝に仕えていた趙高が国をかすめ取り、漢朝に仕えていた王莽が王位を奪い取ったように、慈覚・智証や弘法は、法華経の位と所領を奪って大日経のものとしてしまった。法王である法華経が居なくなったのだから、どうして国王や人民が安穏でいられようか。
今の日本の人びとは皆このような慈覚・智証や弘法の流れを汲んでいるので、一人として謗法でない者はいない。


25 謗法の日本国と日蓮

ただし、以上のような事柄をよくよく考えてみるに、今の世の様子は、大荘厳仏の滅後に出現した五人の比丘の内、普事比丘を除いた四比丘とその眷属が、正法を護持した普事比丘を誹謗して地獄へ堕ちて苦を受け、後に一切明王仏の教化に値うも得道せず、過去の謗法罪によって更に無間地獄に堕ちたさまに似ている。
威音王仏の末法の時代には、不軽菩薩を誹謗した人びとは悔い改めたものの、なお千劫という長いあいだ無間地獄に堕ちた。ましてや、今の日本国の真言師や禅宗・念仏者たちは微塵も悔い改める心がない。法華経の譬喩品に説かれるように、「このようにめぐり転じて、限りなく長いあいだ無間地獄に堕ちる」ことは疑いのないだろう。
こんな謗法の国であるから諸天にも見捨てられた。諸天が捨てれば、古くから日本を守護してきた善神も社殿を焼き払って、寂光浄土へと帰ってしまわれた。
ただ日蓮が一人この国にとどまって人びとに告げ示すので、国主はこれを恨んで、数百人の民衆にののしらせたり、悪口を言わせたり、杖木で打たせたり、刀剣で切らせたり、住居から追い出したりする。
それでも懲りなければ、みずから手を下して二度にわたって流罪にし、去る文永八年九月十二日にはついに頸を切ろうとまでした。
金光明最勝王経には「悪人を敬い善人を罰することが原因となって、他方の賊が攻めて来たり、国中の人びとが騒乱に巻き込まれるだろう」と説かれている。
大集経には「もしまた多くの国王や王族・貴族の中に、種々の非法を行なって仏弟子を悩まし、またはののしったり、刀杖で打ったり斬ったりし、衣鉢や種々の道具を奪ったり、仏弟子に対する供養を妨げる者がいれば、我らは即時に他国から攻めさせ、
国内にも内乱や疫病、飢饉や時ならぬ風雨、また争いごとを起こさせて、その国王が自国を失なうように仕向けるであろう」と説かれている。
これらの経文は日蓮がこの国にいなければ大嘘となり、仏は大妄語の人となってしまい、無間地獄への道を免れなさることもできないだろう。


26 謗法の指摘

去る文永八年九月十二日に、松葉谷の草庵を急襲してきた平左衛門尉頼綱をはじめとする数百人の兵士に向かって、「日蓮は日本国の柱である。日蓮を失うことは、日本国の柱を倒すことになるのだぞ」と言った。
さきほどの経文には、国主などが悪僧たちの讒言や諸人の悪口に基づいて、智恵ある人を処罰するようなことがあれば、突然に戦いが起こり、また大風が吹き、他国からの侵略があるだろう、とある。
あの文永九年二月の北条一門の内乱や同じく十一年四月の大風、そして十月の蒙古の来襲は、まさしく国主が日蓮を敵視し、迫害したことが原因ではないか。まして、これらのことは既に「立正安国論」に予言していたことなので、だれが疑うことができようや。
弘法や慈覚・智証の誤りに禅宗と念仏宗のわざわいが加わって、まさに逆風が吹いて大波が起こり、そこに大地震が重なったようなものである。それゆえ、日本の国もにわかに衰えてきた。
先に武家の平清盛が国の実権を握り、やがて承久の政変によって三上皇が配流され、政権は関東に移ったけれども、ただ国内の乱れだけで他国からの侵略はなかった。
当時も既に謗法の者は国中に充満していたけれども、それを指摘する智恵ある人がいなかった。そのゆえに世の中は比較的平穏を保っていたのだ。
眠っている獅子は手をつけなければ吼えない。早い流れも櫓をささなければ波は高くならない。盗人も制止しなければ怒らない。火は薪を加えなければ燃え上がらない。
それと同じように、謗法の罪は明らかであっても、これを指摘して責める人がいなければ、物事は起こらず、国中はまずは穏やかである。
むかし、日本国に仏教が渡ってきた当初は何事もなかったが、物部守屋が仏像を焼き、僧を迫害し、堂社や寺塔を焼いたりしたので、天から火の雨が降り、国には疱瘡が流行し、戦乱が続いた。
今はそれとはとても比較にならないほどに、謗法の人びとは国中に充満している。日蓮も不退転の決意で強くそれを責めるので、修羅と帝釈との争いや仏と魔王との戦い以上のありさまである。
金光明経には「時に隣国の怨敵は、兵を率ゐてかの国を攻め破らんと考えるだろう」とあり、
最勝王経には「時にこの経を信ずる善王が兵を率いて、隣国の怨敵を討罰するために出発しようとする時、私たち諸天は、多くの夜叉などの諸神とともに姿を隠して助け、その怨敵を自然に降伏させるだろう」とある。金光明経や最勝王経の文は以上のとおりであるが、大集経や仁王経にも同様のことが説かれている。
これらの経文によれば、国主が正法を行ずる者を憎み、邪法を行ずる者の味方をするならば、大梵天王・帝釈・日月・四天王などが隣国の賢王の身に入り替わって、その国を攻めるだろうという。
たとえば訖利多王を雪山下王が攻め、大族王を幻日王が滅ぼしたようなものである。
訖利多王と大族王はインドの仏法を破壊した王である。中国でも仏法を滅ぼした王はみんな賢王によって攻められた。
今の日本国はそれらとは比較にならないほどひどいありさまである。国王は、仏法の味方のようでありながら、実は仏法を滅ぼす法師の肩を持つので、愚かな者にはまったく分からない。智恵ある者でも普通の者では知ることができない。天人でも、劣った天人は知ることができないだろう。
それゆえに、中国やインドの昔の混乱よりも、今の日本国の乱れは大きいのである。


27 爪上の土と十方の地土

法滅尽経には「私の滅度の後に、五逆罪が行なわれる濁悪の世となって魔道が横行し、悪魔が僧の姿で現われて仏法を破壊するだろう。乃至、悪人は海の砂ほど多くなり、善人は減って一人二人という状態になってしまうであろう」とあり、
涅槃経には「このような涅槃経を信ずる者は爪の上に載る土ぐらいに少なく、乃至、この経を信じない者は十方世界の土のように多い」とある。
これらの経文に私は深い感銘を覚える。今の世の日本国の人びとはみな口々に「我れも法華経を信じている」と言うが、それが本当ならば謗法者は一人もいないことになる。
ところが今の経文には、末法の世に謗法の者は十方世界の土のように多く、正法を信ずる者は爪の上の土のように少ないとあり、経文と世間の人びとの認識とは水と火のように相違している。
世間の人は「日本国には日蓮一人だけが謗法の者である」と言うが、これもまた今の経文とは天地の違いがある。
法滅尽経には善人は一人か二人、涅槃経には信ずる者は爪の上の土とある。経文に依れば、日本国にはただ日蓮一人こそが爪の上の土であり、一人か二人ということになります。はたして経文を信用すべきであろうか、世間の人びとの言葉を信用すべきであろうか。


28 法華経は至極の教え

問うていう。涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪の上の土のように少ないとある。ところが汝の考えでは、法華経の行者は爪の上の土より少ないというが、その違いはどうか。
答えていう。涅槃経には「法華経の中で八千人の声聞が成仏の保証を得たのは、大きな果実が成熟したようなものであり、この経は秋に収獲し、冬に貯蔵した後はもはやすることが何もないようなものである」とあり、妙楽大師は「涅槃経はみずから法華経を指して至極の教えとしている」と言われている。このように涅槃経は法華経を指して「至極の教え」と言っています。
したがって、涅槃宗の人が「涅槃経は法華経より勝れている」と主張したことは、あたかも主人を家来といい、賎しい人を高貴な人というようなものである。
涅槃経を読むということは、実に法華経を読むことをいう。ちょうど賢人が、みずからの国主を尊重する人がいれば、たとえその人が自分のことを見下しても悦ぶようなものである。
涅槃経という経典は、法華経を見下して自分をほめる人を強く敵として憎まれる。この例によって知るがよい。
華厳経・観無量寿経・大日経などを読む人も、その経よりも法華経は劣ると思って読む人は、それらの経々の心に背くことになるであろう。
これによって知るがよい。法華経を読む人がいて、いかに法華経を信じているように見えても、その人が他の諸経でも成仏できると思うならば、とてもそれは法華経を読んでいるとはいえない。


29 讃歎の中の誹謗

たとえば三論宗の嘉祥大師は、法華玄論という十巻の書を造って法華経を讃歎したけれども、妙楽大師が「法華経を讃めているように見えるが、その中に毀りが含まれているので、とても讃歎したことにはならない」と批判されたように、
かえって法華経を破壊した人である。したがって、嘉祥は心をひるがえして天台大師に帰依し、それからは法華経を講じなかった。「私が法華経を講じれば、悪道に堕ちることは間違いない」と考えて、七年間も自分の身を踏み台として天台大師に仕えられた。
法相宗の慈恩大師にも法華玄賛という法華経を讃歎した十巻の書がある。ところが伝教大師は「法華経を讃めながら、結果として法華経の心を殺してしまった」と非難されている。
これらの事例から考えてみると、法華経を読んだり讃歎したりする人びとの中にも、無間地獄に堕ちる人が多くいるのである。
嘉祥や慈恩がすでに法華経一乗を誹謗した人であるならば、弘法や慈覚・智証は法華経を軽蔑した人ではないか。
嘉祥大師のように講会を廃止して人びとを解散し、自身を天台大師の踏み台にして仕えても、それまでの法華経を誹謗した罪は消えることはないのだろう。
不軽菩薩を軽蔑して誹謗した者は、後に不軽菩薩に信伏して従ったけれども、重罪は消えることなく、千劫もの長いあいだ無間地獄に堕ちた。
よって、弘法や慈覚・智証などにたとえ改める心があっても、なおも法華経を読み講じるならば、重罪は消えることはない。ましてや改めようとする心はなく、法華経を破り、日々に真言密教を信じ修して伝えて行ったのだから、救いがたい。
世親菩薩や馬鳴菩薩は小乗教を用いて大乗教を破した罪を悔いて、舌を切ろうとまでした。
そして、世親菩薩は「たとえ仏の説かれた教えではあっても、阿含経は冗談でも口にはしない」と誓い、馬鳴菩薩は懺悔のしるしとして大乗起信論を造り、小乗教を破折された。
嘉祥大師は天台大師を招き申し上げて、百余人の智者の前で五体を地に付けて礼拝し、全身から汗を流し、血の涙を流して、「今からは弟子を持たないし、法華経を講じない。
弟子の顔を見て法華経を読み申し上げると、いかにも自分に力があって、法華経のことをよく知っているように見えるから」と言って、天台大師よりも高僧であり老僧でもあられたが、わざと人の見ている前で天台大師を背負い申し上げて河を渡り、高座の傍にはべり、天台大師を背中にお乗せて高座に昇らせ申し上げた。
挙げ句の果ては、天台大師の御臨終の後に隋の皇帝に見参されて、まるで子供が母に死におくれたように、地団駄を踏んで泣かれたのである。
嘉祥大師の法華玄論を見ても、それほどひどく法華経を誹謗した注釈書には見えない。
ただ法華経とその他の諸大乗経とは、その入り口に浅深の違いはあっても、肝心の理は一つであると書かれていますが、これが謗法の根本でしょうか。
華厳宗の澄観も真言宗の善無畏も、大日経等と法華経とは理においては一つであると書かれています。嘉祥大師に謗法の罪があるならば、善無畏三蔵もその罪科を免れることはできない。


30 善無畏三蔵の祈雨と堕獄

善無畏三蔵は中インドの国主であった。位を捨てて出家し、南の国におもむいて殊勝と招提の二人に遇い、法華経を伝授されて百千もの石塔を立てたので、さながら法華経の行者のようであった。
それが、大日経を習いはじめてから、法華経は大日経より劣ると思ったのであろう。
始めのうちはそれほど強く主張することもなかったが、中国に渡って玄宗皇帝の師となると、盛んに言いつのるようになっった。
そして、天台宗に嫉妬する心を持たれたようで、それが原因で急死し、二人の獄卒に七本の鉄の縄で縛られて、閻魔王の宮殿に連れて行かれた。
しかし、寿命はまだつきていないから帰るように言われたので、自分でもこれは法華経誹謗の罪であると気づいたのか、真言の観念や印契・真言などを投げ捨てて、法華経の「今此三界」の文を唱えたところ、縄も切れて、この世にお帰りになることができたという。
また、玄宗皇帝から雨乞いの祈祷を命じられた時、すぐさま雨は降ったけれども、同時に大風が吹いて国に災いをもたらした。
挙げ句の果ては、死去された時に弟子たちが集まって臨終の様子が立派であったと誉めたたえたが、実際は無間地獄に堕ちてしまった。
問うていう。どうしてそれを知ることができるのか。答えていう。彼れの伝記には「今、善無畏の遺骸を見るに、全体的に小さくなり、皮膚が黒ずみ、骨が露出している」と書かれている。
彼れの弟子たちは死後に地獄の相が現われたことを知らないで、師の徳をほめあげるつもりであったが、書き留めたことによって善無畏の罪科は露顕してしまった。
「死んだ後、身体はしだいに縮小し、皮膚は黒く、骨が露出している」という。
人が死んだ後に色が黒いのは地獄の業因であるというのは、仏陀のお言葉である。善無畏三蔵が地獄に堕ちた業因とは何であろうか。
幼くして王位を捨てて出家したことは第一の道心である。インド五十余箇国を修行して歩き、慈悲の心が深いために中国にまで渡った。
インド・中国・日本および世界中に真言密教を伝え、鈴を振って法を弘めたのはこの人の功徳ではないか。
どうしてこのような人が地獄に堕ちたのであろうかと、死後の福徳を願う人びとはお考えになるべきである。


31 金剛智三蔵の祈祷

また金剛智三蔵は南インドの大王の太子であったが、出家して金剛頂経を中国へ伝えた。その徳行は善無畏三蔵に劣ることなく、互いに師となって密教を伝持した。
ある時、金剛智三蔵が唐の玄宗皇帝の命を受けて雨を祈ったところ、七日のうちに雨が降った。皇帝はおおいに悦ばれたたものの、にわかに大風が吹き荒れた。
皇帝も臣下の人もすっかり気まずくなられて、使者を遣わして三蔵を追放されたが、あれこれ言い張って中国に留まった。
そのうち皇帝の寵愛された姫宮が死去された時、蘇生の祈祷をせよとの命を受けて、宮中の七歳になる少女二人を薪の中に入れ籠めて、身代わりとして焼き殺したことは痛ましいことであった。しかも結局、姫宮は生きかえられることはなかった。


32 不空三蔵の祈祷

不空三蔵は金剛智のお供をしてインドからやってきた。善無畏や金剛智の行ないやありさまを見て不審に思ったのであろうか、彼らが入滅した後、インドに帰って竜智菩薩に会い申し上げて真言密教を習い直し、後に天台宗に帰伏したが、それは心ばかりで、身を移すことはなかった。
同じように玄宗皇帝から祈雨の命を受けたところ、三日めに雨が降った。喜ばれた皇帝はみずから御布施を下された。
ところが、すぐに大風が吹き荒れて内裏を吹き破り、公家や殿上人の宿所もすべて壊滅してしまったので、皇帝は非常に驚き、風を止めるように宣旨を下された。
祈りの効があってか、一時は止んだが、しばらくするとまた吹くという具合で、数日の間は吹き荒れた。結局は使いを遣って不空三蔵を追放し、ようやく風も収まった。

 

33 真言師の悪風

この三人の祖師が吹かせた悪風は、密教の流伝と共に中国・日本のすべての真言師に受け継がれた大風である。
その証拠に、去る文永十一年四月十二日の大風は東寺第一の智者と言われた阿弥陀堂の加賀法印の祈雨が招いた逆風である。
よくもまあ、善無畏・金剛智・不空の悪法を寸分も違えず伝えたものである。心憎いことである。


34 弘法の雨

去る天長元年(八二四)二月の大旱魃の時は、先ず守敏が雨を祈り、七日の内に雨が降った。ただし都の中だけで、田舎には降らなかった。
次に弘法大師が引き続いて祈祷したが、七日たっても雨の気配はなく、十四日たっても雲は出なかった。二十一日目に淳和天皇が和気真綱を使者として、御幣を神泉苑に捧げられたところ、雨が三日間降り続いた。
弘法大師やその弟子たちはこの雨を奪い取り、真言祈祷の雨であると宣伝したので、今日にいたる四百余年の間、これを弘法の雨≠ニ称している。


35 慈覚大師の夢

慈覚大師は弓矢で太陽を射落とした夢を見たと言い、弘法大師は弘仁九年(八一八)の春に疫病払いの祈祷をしたところ、夜中に大きな太陽が出現したとでたらめを言っている。
この世界が成立した成劫の時代から、人寿の増減を繰り返して世界が推移する住劫の第九までの二十九劫の間、太陽が夜中に出たことなど一度もない。
慈覚大師は夢の中で太陽を射たという。五千巻あるいは七千巻を数える仏典や、三千巻余りの儒教および道教の典籍に、太陽を射る夢は吉夢であるという説が、果たしてあるのかどうか。
修羅は帝釈と戦って日天を射申し上げたところ、その矢はかえって自分の眼を射抜いた。殷の紂王は日天を的として矢を射たところ、最終的に周の武王に滅ぼされた。
日本の神武天皇の御世に、大和国鳥見の土豪・長随彦(ながすねひこ)と天皇の兄・五瀬命(いつせのみこと)が合戦をした時、五瀬命の手に矢が当たった。
その時、命(みこと)は「私は日天である天照太神の子孫である。太陽に向かい申し上げて弓を引いたので、日天の罰を受けたのだ」と言われた。
阿闍世王は仏に帰依申し上げて、宮殿に帰ってお眠りになっていたが、突然に驚いて目を覚まし、諸臣に向かって「太陽が地に落ちる夢を見た」と告げられた。諸臣はそれを聞いて、「仏の御入滅の知らせであろうか」と言った。臨終の釈尊のもとに赴いて教化を受け、最後の弟子となった須跋陀羅がその前日に見た夢もまた同じであった。
日天を射るとか太陽が落ちるという夢は、わが国ではとくに避けなければならない。神を天照といい、国を日本というからである。
また教主釈尊を日種と申し上げる。摩耶夫人が太陽を懐妊した夢をみてお産みになった太子である。
慈覚大師は大日如来を比叡山の本尊と定めて釈迦仏を捨て、真言の三部経を崇めて法華の三部経の敵となったために、このような不吉な夢を見たのである。
たとえば中国の善導は、最初は密州の明勝という人に法華経を学んでいたが、後に道綽に会ってからは法華経を捨てて浄土教に移り、観無量寿経の注釈書を書いて、「法華経は千人のうち一人も得道できない。念仏は十人が十人、百人が百人とも往生できる」と考えて、この教えを確立するために阿弥陀仏のご前で祈誓をした。
果たしてこれが仏の本意に叶っているかどうか祈っていると、「毎夜、夢の中に一人の僧が現われて、教えを示した」という。そして「仏の本意を得たものであるから、その教えのとおりに行え」と指示されたので、これを「観念法門経」と名づけたという。
法華経には「もしこの経を聞く者がいれば、一人として成仏しない者はない」とあるが、善導は「千人のうち一人も得道できない」と言う。法華経と善導とでは、水と火のように違っている。
善導は観無量寿経を「十人が十人、百人が百人とも往生できる」経典だと言うが、無量義経に依れば、観無量寿経は「いまだ真実を顕わしていない」という。無量義経と善導とでは、天と地ほどの開きがある。
これでは、たとえ夢の中に阿弥陀仏が僧となって現われ、「善導の考えは真実である」と証明したとしても、とても本当のこととは思えない。
大体、阿弥陀仏は法華経の神力品の会座に来て、他の諸仏とともに広長舌を出して、法華経の真実を証明されたではないか。また、阿弥陀仏の脇士の観音や勢至も法華経の会座にいたではないか。この事実によって思い知るがよい。慈覚大師の夢は災いをもたらす不吉な夢である。


36 弘法大師の徳行

問うていう。弘法大師の般若心経秘鍵には「弘仁九年の春、天下に伝染病が大流行した。その時、嵯峨天皇がみずから筆端を黄金に染め、紺紙を手に取って、般若心経一巻を書写された。
私は講読の師に選ばれ、般若心経の要旨について演べたところ、まだ結びの言葉を述べない内に、多くの病人が治癒し、その夜に太陽の光が輝いた。これはわが身の戒行の功徳ではない。ひとえに帝のご信心の力によるものである。
ただし、神社にお参りする人はこの般若心経の秘鍵を読むがよい。むかし、私は霊鷲山における仏の説法の座にあって、親しくその甚深の教えを聞き申し上げた。どうしてこの書が経典の心に叶わないことがあろうか」とある。
また孔雀経音義には「弘法大師が帰朝した後、真言宗を立てようと考えて、諸宗の人びとを朝廷に集めたところ、人びとは即身成仏の義門について疑った。そこで大師が大日如来の智拳の印を結んで南に向いたところ、たちまちに口が開いて金色の毘盧遮那如来となり、すぐにまたもとの姿に戻った。
それを見た人びとは、仏の三密のはたらきが行者の身に入り、行者の三業が仏に入って、互いに相応相入して一体になる入我我入の義や、現身のままに仏の覚りを得る即身成仏への疑いは、たちまち晴らすことができた。真言瑜伽宗とその宗旨である秘密曼荼羅の道はその時から建立された」とある。
また「この時に諸宗の学徒は弘法大師に帰伏し、始めて真言密教の道に入り、さらに大師に願って教えを請うた。三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄などの人たちである」とある。
弘法大師伝には「中国から日本へ帰る船が出発する日に、『わたしが学んだ教法の流布する地がもしあれば、この三鈷はそこに至るだろう』と願を起こし、日本の方に向けて三鈷を投げ上げたところ、遠く飛んで雲の中に入った。十月に大師は日本に帰国した」とあり、
さらに「高野山のもとに禅定に入る場所を定めた。すると、あの海上に投げた三鈷がそこに在った」などと述べられている。
弘法大師の徳行は数えきれず、今はその二、三を示したに過ぎない。このように偉大な徳を持つ人を信じないで、どうして逆に無間地獄に堕ちるなどと言うのか。


37 仏法の邪正は徳行によらず

答えていう。私も大師を尊敬し、信じ申し上げている。ただし、昔にも不思議な徳行を持つ人びとがいたけれども、仏法の邪正はそのようなもので決めることはできない。
インドの阿竭多(あかだ)仙人はガンジス河の水を十二年ものあいだ耳に留め、耆兎(きと)仙人は大海の水を飲み干し、世智外道は太陽と月を手中に納め、瞿曇(くどん)仙人は仏弟子を牛や羊に変えるなどしたけれども、彼らは慢心を強くする一方だったので、ひとえに生死に迷う結果となってしまった。
これについて天台大師は「名聞名利を求めて見思の煩悩を増す」と説明されています。
光宅寺の法雲が法力によって即時に雨を降らせたり、直ちに花を咲かせたことについて、妙楽大師は「感応はこのように勝れていても、正しい法理とは言えない」と書かれています。
したがって、天台大師は法華経を講じて直ちに甘露の雨を降らせ、伝教大師も三日の内に雨を降らされたが、それをもって仏の御意に叶ったとは言われていない。
弘法大師がいかなる徳を持たれていても、法華経を戯論の法と決めつけ、釈迦仏は無明の領域にあると書かれたことは、智恵ある人ならば用いてはならない。


38 徳行への不審

ましてや前に挙げられました弘法大師の徳行には、数々の不審なことがある。「弘仁九年の春、天下に伝染病が大流行した」と言うが、一口に春といっても九十日間ある。何月の何日のことか。これが第一の不審である。本当に弘仁九年に伝染病が流行したのか。これが第二の不審である。
また「その夜に太陽の光が輝いた」と言うが、これが最も疑わしい大事である。弘仁九年は嵯峨天皇の御世である。太政官の職員である左史と右史の記録に、それが載っているかどうか。これが第三の不審である。
万が一、記載されていたとしても、とても信じることはできない。夜中に太陽が出たことなど、この世界が成立した成劫の時代から、人寿の増減を繰り返して世界が推移する住劫の第九までの二十九劫の間、一度たりともなかった天変である。
夜中に太陽が出現するとは、いったいどういうことであろうか。こんなことは仏が説かれたどの経典にも書かれていないし、中国太古の統治者である伏羲・神農・黄帝の三皇や、同じく古代の聖君である少昊・琢香E帝K・唐尭・虞舜の三墳および五典にも記載されていない。
仏教の経典には、人間の寿命が減り行く減劫の時代に二つの太陽、三つの太陽、あるいは七つの太陽が出るとは見えるけれども、それは昼間のことである。夜に太陽が出現したら東西北の三州の方はどうなるのか。
たとえ仏教内外の典籍に見えなくても、実際に、弘仁九年の春の何月何日、いつの夜のいつの時刻に太陽が出たという公家や諸家、あるいは比叡山の記録などにあるのなら、少しは信ずることもできるであろう。
般若心経秘鍵には、続いて「むかし、私は霊鷲山における仏の説法の座にあって、親しくその甚深の教えを聞き申し上げた」という。夜中の太陽という話は、この文章を人に信じさせるために作り出した大妄語ではないのか。
弘法が言うように、仏が霊鷲山において「法華経は戯論であり、大日経は真実である」と説かれたのを、阿難や文殊が聞き間違って、妙法華経を真実と書いてしまったのか、どうか。
取り立てて言うほどもない婬らな女性の和泉式部や、破戒の能因法師などが歌を詠んで降らせた雨を、三七日経っても降らすことのできなかった人に、このような徳が果たしてあるだろうか。これが第四の不審である。
孔雀経音義に「弘法大師が大日如来の智拳の印を結んで南に向いたところ、たちまちに口が開いて金色の毘盧遮那如来となった」とあるが、これはまたどの天皇の何年のことか。
中国では建元、日本では大宝が年号の始まりだが、在家や出家の日記の中に書かれる大切な記録には必ず年号が記載されているものである。それがどうしてこれほどの大事でありながら、王の名も臣の名も、年号も日時も記されていないのか。
また次に「大師に願って教えを請うたのは、三論宗の道昌・法相宗の源仁・華厳宗の道雄・天台宗の円澄などの人たちである」とあるが、
この円澄は寂光大師と称して、天台宗第二の座主である。その時にどうして第一の座主であった義真や根本の伝教大師を招かなかったのだろうか。
円澄は天台宗第二の座主で、伝教大師のお弟子であるけれども、同時に弘法大師の弟子でもある。
自分の弟子を招くよりも、あるいは三論宗・法相宗・華厳宗の人びとを招くよりも、天台宗の伝教大師と義真の二人を招くべきではないか。
しかも、この記録には「真言瑜伽宗とその宗旨である秘密曼荼羅の道はその時から建立された」とあり、おそらくこれは伝教大師や義真のご存命の時のことと思われる。
弘法という人は、平城天皇の大同二年(八〇七)から弘仁十三年(八二二)まで盛んに真言宗を弘めたが、その頃には伝教大師と義真の二人はご存命中であった。
また義真は天長十年(八三三)までご存命であったが、その義真を招かなかったことは、天長十年まで弘法大師の真言宗は弘まらなかったのだろうか。いろいろと不審なことが多い。
孔雀経音義は弘法の弟子の真済がみずから書いたものであり、その内容は信じがたい。真済のような邪見の者が果たして公家や諸家、あるいは円澄の記録などを引用するだろうか。また、道昌・源仁・道雄の記録も調べる必要がある。
さらに「たちまちに面門が開いて金色の毘盧遮那如来となった」とあるが、面門とは口のことである。口が開いたのであろうか。眉間が開いたと書こうとして、誤って面門と書いてしまったのだろうか。偽りの書物を造ろうとするので、自然とこのような間違いを犯すのだろう。
この「弘法大師が大日如来の智拳の印を結んで南に向いたところ、たちまちに口が開いて金色の毘盧遮那如来となった」という記録に関しては、
涅槃経の第六巻に「迦葉は仏に申し上げた。『世尊よ、私は今、須陀・斯陀含・阿那含・阿羅漢の四種の人を依りどころとはしません。なぜならば瞿師羅経の中に、仏が瞿師羅に対して、
天魔などが仏法を破壊しようとして仏の姿となり、三十二相や八十種好を具えて光り輝き、満月のように円満な顔で、眉間の白毫相は雪よりも白く、左の脇から水を出し、右の脇から火を出すと説かれているからです』と」とあり、
また第七巻には「仏は迦葉に告げられた。『わたしが入滅した後、この悪魔が徐々にわが正法を破壊するだろう。また、姿を変えて阿羅漢や仏となり、煩悩を具える身でありながら煩悩を断じたと見せかけて、わが正法を破壊するだろう』と」と説かれている。
弘法大師は華厳経や大日経に対して法華経を戯論などと悪口し、しかも仏の姿を現じたという。これは、涅槃経に「悪魔が煩悩を具える身でありながら仏の姿となり、わが正法を破壊するだろう」と記されている通りである。
涅槃経で言われる正法とは法華経のことである。それゆえ、涅槃経の後続の文には「仏は遠い過去にすでに成仏している」とあり、また「法華経の中で八千人の声聞が成仏の保証を得たのは、大きな果実が成熟したようなものであり、この経はもはや秋に収獲し、冬に貯蔵した後に何もすることがないようなものである」と説かれている。
釈迦仏・多宝仏、そして十方の分身諸仏は、一切経の中で法華経のみが真実の教えであり、大日経などの諸経は方便の教えであると断言されている。
それに対して弘法大師は、仏の姿を現じて、華厳経や大日経に対して法華経は戯論である、などと言っている。涅槃経が真実であるならば、弘法大師は天魔ではないだろうか。
また、帰国の際に投げた三鈷のことも実に疑わしい。たとえ中国の人が日本に来て掘り出したとしても、信じることは難しい。前もって誰かに埋めさせておいたのではないか。
ましてや弘法は日本の人であるから信用できない。弘法にはこのような人をあざむく話が多いので、これらのことを弘法大師が仏の御意に叶った人であるという証拠にすることはできない。


39 還著於本人

しかるに、この真言宗や禅宗・念仏宗などが次第に流布してきた頃、人王第八十二代の後鳥羽法皇はかねてより北条義時を亡ぼそうと強く思われていた。国主である以上、あたかもライオンが兎をねじ伏せ、鷹が雉を捕まえるように簡単なことであろうし、その上、
比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺・天照太神・正八幡・山王神社・賀茂神社・春日神社などに数年の間、調伏の祈祷をさせたり、神に祈られておられたにもかかわらず、いざ戦ってみると、二三日も持ちこたえることができず、順徳上皇は佐渡の国へ、土御門上皇は阿波の国へ、後鳥羽上皇は隠岐の国へそれぞれ流され、ついにその地で崩御されてしまった。
義時調伏の祈祷を修した最上位の仁和寺門跡の道助法親王は、自身が東寺から追い出されたばかりでなく、眼のように寵愛されていた勢多伽丸の首が切られてしまったことは、調伏の祈祷が裏目に出てしまったもので、邪法による祈りは「災いがかえって本人に著く」という法華経の普門品の教えどおりになったものと思われます。ただし、これはまだ小さいことである。
この後には日本国の万民が一人残らず、乾草を積んで火をつけるように、大山が崩れ落ちて谷が埋まるように、必ずや他国から攻められるようなことが起こるだろう。


40 知教の自覚と一連の受難

この法華経の正しい教えと現実の出来事との因果関係を、日本国の中でただ日蓮一人だけが知っている。
ただ、それを口にすると、殷の紂王が忠臣である比干の胸を裂いたように、夏の桀王が自分を諫めた竜蓬の頸を斬ったように、檀弥羅王が師子尊者の頸を刎ねたように、竺の道生が蘇山に流されたように、法道三蔵が顔に焼き印を押されて江南に追放されたように、処分されるに違いない。かねてよりそのことは知っていたけれども、
法華経には「私たちはみずからの身命に執着しません。ただ無上道を惜しみます」と説かれ、涅槃経には「かりに自分の命を捨てることがあっても、教えを隠してはならない」と諫められている。この機会に命を惜しむならば、いったいいつの世に仏に成ることができようか、
またいつの世に両親や師匠を救い申し上げることができようかと、一途に思い切って言い始めたところ、思っていた通りに、住居を逐われ、ののしられ、打たれ、傷を受けて、去る弘長元年(一二六一)五月十二日に幕府のお咎めを受けて、伊豆国伊東に流された。
同三年の二月二十二日に赦免されたが、その後もますます菩提心を強くして法華経の教えを説いたので、ますます大難が重なりやって来たさまは、あたかも大風によって大波が起こるようであった。
むかし威音王仏の滅後に出世した不軽菩薩が杖木で迫害されたことも、わが身の上のように思われた。また歓喜増益仏の末世に出現した覚徳比丘が破戒の悪比丘たちから受けた大難も、わが諸難には及ばないであろうと思われた。
日本の国は六十六ヶ国と二つの島から成るが、その中に一日一時たりとも安穏で居られる場所はない。
むかしの羅ラ羅のように二百五十戒を受持し、物事に堪え忍んだ聖人も、あるいは富楼那のような智者も、日蓮に会えば悪口を吐き、
中国の太宗皇帝に重用された魏徴や、日本で最初に摂政となった藤原良房のように正直な賢者も、日蓮を見れば道理を曲げて非道を行う。
まして世間一般の人びとはといえば、あたかも犬が猿を見つけた時のようであり、猟師が鹿を追いつめる姿と同じである。
日本国の中には一人として、日蓮の言うことには何か深い理由があるのだろうと言う人もいない。それももっともな事である。
何せ、そろって念仏を称える人たちに向かって「念仏は無間地獄に堕ちる」と言い、真言密教を尊崇する多くの人たちに「真言は国を亡ぼす悪法である」と言い、禅宗を尊崇している国主に対して、日蓮は「天魔の教えである」と言うのであるから、
自分から招いたわざわいである。それゆえ、人びとが日蓮をののしってもとがめ立てはしない。とがめたところで相手は一人や二人ではない。打たれても痛みは感じない。もとから覚悟していたことであるから。
このように、ますます身命をかえりみずに責めたので、禅僧数百人と念仏者数千人と真言師百千人が、奉行所や権勢のある人、
あるいは権力を持つ女房や有力な後家尼御前などに、ありとあらゆる讒言をし、その結果、「日蓮は、天下第一の大事である日本国を亡ぼそうと咒咀する法師である。
今は亡き最明寺殿や極楽寺殿を無間地獄に堕ちたなどと言う法師である。お尋ねなさるまでもない。直ちに頸を斬られよ。
その弟子たちなどは、頸を斬り、遠い国に流し、牢に入れよ」と尼御前たちがお怒りになったので、そのとおりに執行された。
去る文永八年九月十二日の夜は、相模国の竜口で首を斬られるところであったが、どうしたのだろうか、その夜は処刑は免れて依智というところに着いた。
十三日の夜は「赦免された」と騒いでいたが、またどうしたことか、佐渡国へ流された。
佐渡では「処刑は今日か、明日か」などと噂するうちに四箇年が経ち、結局、去る文永十一年二月十四日に赦免され、同三月二十六日に鎌倉に帰りついた。同四月八日、侍所の所司である平左衛門尉頼綱と会見し、さまざまなことを申し述べた中で、「今年の内に蒙古は必ず来襲する」と申しておいた。
同五月十二日、鎌倉を出てこの身延山に入った。これはもっぱら身命を捨てて父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国の恩に報おうとしたのであるが、たまたま死ぬこともなく、今にいたった結果であります。
また賢人の習いとして、三たび国を諫めても、用いられなければ山林に交われということは、古来よりの定めである。


41 道善御房への追悼

日蓮が法華経のために身命を捨てようとした功徳は、必ず上は仏・法・僧の三宝から、下は梵天・帝釈・日月までもご存知のことであろう。亡き父母も恩師の道善御房の聖霊も、この功徳によって助かりなさるだろう。
ただし、疑いが一つある。目連尊者は助けようとしたけれども、母の青提女は餓鬼道に堕ちてしまった。善星比丘は釈尊の子息と伝えられるけれども、結局は無間地獄に堕ちてしまった。
これらは何とか力を尽くして救おうとされたけれども、自業自得の結果であるから仕様がない。
故道善御房は、自分の弟子のことであるから、ひどく日蓮を憎いなどとは思われなかったであろうが、非常に臆病であったうえに、清澄を離れまいと固執した人である。
地頭の東条景信が恐ろしいと言い、提婆達多や瞿伽梨のような円智と実城が近くにいて威すのを強くおびえて、不便だと思う年来の弟子などさえも捨てられた人であるから、後生はどうかと疑われる。
ただ東条景信や円智・実城が共に先に死去したことは一つの救いであったと思うけれども、彼らは法華経の十羅刹女の罰を受けて早くに亡くなったのである。
道善御房は後になって法華経を少し信じられるようになったけれども、それは喧嘩の後に護身棒を持ち出し、昼間に灯をつけるようなもので、何の役に立とうか。
そのうえ何があろうとも、子供や弟子などというものはかわいそうな者である。
できない人でもなかったのに、佐渡国に流されていた日蓮を一度も訪ねて来られなかったことを考えると、とても法華経を信じていたとは言えない。
それにつけても嘆かわしいことなので、かの御房が死去されたと聞いた時には、たとえ火の中や水の中をくぐってでも走って行き、お墓をたたいてお経を一巻読誦しようと思ったけれども、
賢人の習いとして、自分では遁世などとは思わないが、世間の人は遁世と思っているであろうから、理由もなく走り出ていくと、意志の弱い者だと人は言うだろう。したがって、どのようなことがあっても、行くわけにはいかない。
ただし、あなた方二人は日蓮が幼少の頃の師匠であられる。勤操僧正と行表僧正が元は伝教大師の師匠であったのが、後にはお弟子になられたようなものである。
日蓮が東条景信の怒りを買って清澄山を出た時に、日蓮を追って密かに出られたことは、天下第一の法華経への奉公である。後生の成仏を疑われてはいけない。


42 法華経の肝心

問うていう。法華経一部八巻二十八品の中では、何が肝心であるか。
答えていう。華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経である。
そして、すべての経典において「如是我聞」の上に見える経典の題目がその経の肝心である。
大につけ小につけ、いずれもその題目をもって一経の肝心とする。大日経・金剛頂経・蘇悉地経などもまた同じである。
仏の場合もまた同じである。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通智勝仏・雲雷音王仏など、これらの仏もまた名前の内にその仏の種々の徳を具えている。
今の法華経もまた変わらない。「如是我聞」の上にある「妙法蓮華経」の五字はすなわち法華経一部八巻の肝心であり、同時に一切経の肝心で、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神などが頂上にいただく正法である。


43 唱題の功徳

問うていう。それぞれの意味も知らないで、「南無妙法蓮華経」と唱えるのと「南無大方広仏華厳経」と唱えるのとでは、その功徳は等しいのか。それとも浅いと深いとの差別があるのか。答えていう。その功徳には差別がある。
疑っていう。それはどのような理由によるのか。答えていう。小さな河は露や雫や井戸水や溝の水や入り江の水を収めることができても、大きな河の水を収めることはできない。大きな河は露および小さな河の水を収めても、大海の水を収めることはできない。
阿含経は露や雫や井戸水や入り江の水などを収めた小さな河のようなものである。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経などは小さな河を収めた大河である。法華経は露や雫、井戸水や入り江の水、小さな河や大河、空からの雨など、すべての水を一滴も漏らさず収めた大海である。
たとえば、体に熱があって苦しい場合、冷たい水がたくさんあるそばで寝れば涼しいけれども、少しばかりの水のそばでは苦しさがやわらがないようなものである。
五逆罪を犯した人や不信謗法の一闡提の人は、阿含経・華厳経・観無量寿経・大日経などの少しばかりの水のそばでは、大罪の大熱を冷ますことはむつかしいが、
法華経の大雪山の上に横たわれば、五逆罪・謗法罪・一闡提などの大熱はたちまちに冷めてしまうだろう。したがって、愚者はかならず法華経を信ずるべきである。
それぞれの題目を唱えることが易しいことにおいては何れの経典でも同じであるが、愚者と智者とでは唱える功徳において天と地のような違いがある。
たとえば、太く大きい煩悩の綱は力の強い智者でも切ることがむつかしいが、力の弱い愚者でも法華経の刀を用いればたやすく切ることができる。また、煩悩の堅い石は諸経の鈍い刀では力の強い智者でも割ることがむつかしいが、法華経の鋭利な剣を用いれば力の弱い愚者でも割ることができる。
さらに、法華経という薬はその内容を知らなくても、飲めば病は治癒するが、諸経という食物では病気は治癒しない。また、法華経の不思議な薬は寿命を延ばすが、諸経の平凡な薬では病を治癒することはできても、寿命を延ばすことはできない。


44 肝心は南無妙法蓮華経

疑っていう。法華経の二十八品の中では何が肝心であろうか。答えていう。ある人は「二十八品はすべてそれぞれに肝心である」と言い、ある人は「方便品と寿量品が肝心である」と言う。ある人は「方便品が肝心である」と言い、ある人は「寿量品が肝心である」と言う。ある人は「方便品の開・示・悟・入の四仏知見の文が肝心である」と言い、ある人は「諸法実相の文が肝心である」と言う。
問うていう。あなたの考えはどうか。答う。南無妙法蓮華経が肝心である。問う。その証拠はなにか。答えていう。阿難尊者や文殊菩薩などは「如是我聞」と書いて、「わたしはこのようにお聞きした」と言われている。
問うていう。それはどういう意味か。答えていう。阿難尊者と文殊菩薩は八年間、法華経の数多くの教えを一字一句も残さず聴聞されたが、仏が入滅された後に弟子たちが集まって仏の教えを編集した際に、九百九十九人の阿羅漢たちが筆に墨をつけた時、
まず「妙法蓮華経」と書かせ、次に「如是我聞」と唱えられたが、これは「妙法蓮華経」の五字が法華経一部八巻二十八品の肝心たることの証拠ではないか。
したがって、過去の日月灯明仏の時代から法華経を講じていたと伝えられる光宅寺の法雲法師は、「如是とは、仏から聞いたところを伝えようとして、先ず題目を挙げて、それを一経全体の肝心としたのである」と言い、
霊鷲山で直々に仏の説法を聴聞されたと伝えられる天台大師は、「如是とは、仏から聞いた教えの肝心を指示した語である」と言われ、
章安大師は「講義を記録した者が解釈して言う。おそらく天台大師の序文は経の奥深い教えを著わしたものであり、奥深い教えとは経文の心を述べたものである」と言われている。この釈文の「経文の心」とは、題目は法華経の心という意味である。
妙楽大師は「釈尊一代の教法を収め、法華経の文の心を出だす」と言われている。
インドには七十箇国があり、その総名は月氏国である。日本は六十余箇国あり、その総名は日本国である。
月氏という名前の中に七十箇国とそこに住む人間や動物、珍しい財宝などがすべて含まれている。日本と言う名前の中には六十六箇国があり、
出羽国に産する鷲の羽も奥州で出る黄金も、そのほか国の珍しい財宝や人間・動物、および寺院も神社もすべて日本という二字の名前に収まっている。
天人の眼で日本という二字を見れば、六十六国とそこに住む人間や動物などが見えるに違いない。菩薩の眼で見れば、人間や動物などがあちこちで死んだり産まれたりする姿が見えるだろう。
あたかも人の声を聞いて体の様子を知り、足跡を見てその動物の大小を知り、蓮華を見て池の大小を計り、雨の降り方を見て竜の大きさを考えるようなもので、これらはすべて一つのことに一切が含まれているという道理である。
阿含経の題目にはおよそ一切のものが収まっているようだが、実はただ小乗の釈迦仏が一仏あるだけで、他の仏は収まっていない。
また華厳経・観無量寿経・大日経などにも一切のものが具わっているようだが、二乗が仏に成るという法門と久遠実成の釈迦仏は含まれていない。
これはちょうど花が咲いても実がならず、雷が鳴っても雨が降らず、鼓があっても鳴らず、眼があっても物が見えず、女性がいても子供を産まず、人間がいても命やたましいがないようなものである。
大日如来の真言や薬師如来の真言、阿弥陀如来の真言や観世音菩薩の真言などもまた同様である。
これらの真言はそれぞれの経典の中では、大王・須弥山・日月・良薬・如意宝珠・利剣などのようであるが、法華経の題目と比較すると雲泥の相違があるばかりでなく、その本来の働きを失ってしまう。
あたかも、多くの星の光が一つの太陽のために奪われ、多くの鉄が一つの磁石に力なく吸い寄せられ、大きな刀が小さな火によって働きを失い、牛やロバなどの乳がライオンの乳に比べて水のようになり、多くの狐が一匹の犬に会って妖術の力を無くし、犬が小さな虎を見て顔色を変えるようなものである。
南無妙法蓮華経と唱えれば、南無阿弥陀仏の働きも、南無大日真言の働きも、観世音菩薩の働きも、一切の諸仏・諸経・諸菩薩の働きも、全部、妙法蓮華経の働きのために失われてしまう。
あらゆる経典は妙法蓮華経の働きを借りなければ、すべて無用なものとなるだろう。これは今、目前にあるまぎれもない道理である。
日蓮が南無妙法蓮華経を弘通すれば、南無阿弥陀仏の働きは月が欠けるように、潮が干くように、草が秋冬に枯れるように、氷が日光に溶けるようになっていく、そのさまを見るがよい。


45 インドの諸師の弘通と受難

問うていう。この妙法蓮華経が本当に尊いのならば、なぜ迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教などは、善導が南無阿弥陀仏を勧めて中国に弘通したように、恵心・永観・法然が日本国に隈なく阿弥陀仏の教えを流布したように、勧められなかったのだろうか。
答えていう。これは古くからの疑いであって、今始めてのものではない。馬鳴菩薩や竜樹菩薩などは仏が入滅されてから六百年および七百年の頃に出世した大論師である。
この人たちが世に出て大乗経を弘められた時には、多くの小乗経を信奉する人たちが疑いを強く持って、「先きに迦葉や阿難などが、仏が入滅された後の二十年から四十年までの間に存命されて弘められた正法は、釈尊一代の教えの肝心であった。
そして、この尊者たちはただ『すべてのものは苦であり、空であり、無常であって、我はない』という法門を肝心として弘通された。今、馬鳴や竜樹などの智恵がいかにすぐれているといっても、迦葉や阿難等の尊者たちには及ばないだろう。〈これが第一の疑問である〉。
迦葉は仏に直接お会いして悟りを得た人であるが、馬鳴や竜樹などは仏にお会いしていない。〈これが第二の疑問である〉。
インドの外道が『すべてのものは常住であり、楽であり、我はあり、清浄である』と立てたのを、仏は出世されて『すべてのものは苦であり、空であり、無常であって、我はない』と説かれた。ところが今、馬鳴や竜樹などは外道と同じように『常住であり、楽であり、我はあり、清浄である』と説いている。〈これが第三の疑問である〉。
これは仏も御入滅になり、迦葉などの尊者もお亡くなりになったので、第六天の魔王がその身に入り込んでしまって、仏法を破って外道の法にしてしまおうとする姿に違いない。
とすれば、彼らは仏法の敵である。頭を割れ。頸を斬れ。命を断て。食物を施すな。国外へ追放せよ」と責め立てた。馬鳴や竜樹などはただ一人か二人である。多勢に無勢で、昼夜に悪口の声を聞き、朝暮に杖木で打たれた。
しかしながら、この二人は仏の使いである。間違いなく、摩耶経には仏の入滅後六百年に馬鳴が出、七百年には竜樹が出るであろうと説かれています。
これは楞伽経などにも記されているし、付法蔵経にあることは言うまでもない。
ところが、多くの小乗教の信奉者たちはこれを用いずに、道理を無視してただ責めたのである。
法華経に説かれる「仏の御在世ですら多くの怨嫉を受ける。まして仏が入滅した後は言うまでもない」との経文は、この時に少々体験的に読まれたのである。
提婆菩薩が外道に殺され、師子尊者が頸を切られたことなども、この事から推し量られよ。


46 天台・妙楽両大師の弘通

また、仏が入滅されてから一千五百余年後に、インドから見ると東に漢土いう国があり、その陳および隋の御世に天台大師が出られた。
この人が「如来の聖教には大乗もあれば小乗もあり、顕教もあれば密教もあり、権教もあれば実教もある。
迦葉や阿難などはもっぱら小乗教を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親などは権大乗教を弘めて、実大乗の法華経についてはただ指し示しただけで、内容については触れなかった。あるいは経文の文字だけを釈して、如来の化導の始終については説かなかった。
あるいは法華経の中でも、前半十四品の迹門を中心とした教えについては述べても、後半十四品の本門を中心とした教えについては顕わさなかった。あるいは本迹二門の教相については述べても、観心については触れなかった」と言ったところ、南三北七の十師の流れをくむ数千万人の学僧たちは、一時にどっと笑いくずれ、
「世も末になって、何とも不思議なことを言う法師が出てきたものだ。時には偏見から我らを非難する者はいるけれども、後漢の永平十年に中国に仏法が渡来してから、今の陳・隋の時代にいたるまでの三蔵や人師の二百六十余人を物知らずと悪口する上に、謗法者だと言い、悪道に堕ちたという者が出現した。
あまりにも正気を失った挙げ句に、法華経を渡された羅什三蔵をも物知らずと言っている。
また、中国のことはともかくも、インドの大論師で、仏滅後の衆生の依りどころとなる竜樹・天親などの数百人の菩薩たちも、いまだ法華経の実義を述べておられないと言うのである。
こんなことを口にする者は、たとえ殺したとしても鷹を殺すのと変わらず、鬼を殺すことよりは勝れている位だ」と声を高くして騒いだ。
また妙楽大師の時にインドから法相宗と真言宗とが伝来し、華厳宗が中国で開かれたので、妙楽大師があれこれと責められたために、これもまたひと騒ぎあった。


47 伝教大師の弘通

日本国では仏の滅後一千八百年頃に伝教大師が出られて、天台大師の注釈書を披見して、仏法が渡来した欽明天皇の時以来の二百六十余年間の六宗の教えを論難されたので、かの宗の人たちは「これは仏ご在世の時の外道か、それとも中国の道士が日本に出現したのか」と誹謗した。
しかも伝教大師は、仏の滅後一千八百年の間、インドや中国・日本にそれまでなかった円頓の大戒壇を比叡山に建立しようとされ、同時に「西国筑紫の観世音寺の戒壇と東国下野の小野寺の戒壇、そして中国大和の東大寺の戒壇は一同に小乗の臭糞の戒であり、価値がないことは瓦や石のようである。
このような戒を持つ法師などは、あたかも狐か猿と同じである」と言われたので、六宗の人たちは「なんと奇怪なことだろう。法師に似た大きなイナゴが日本国に現われた。仏教の苗はあっという間に食われてしまうだろう。
悪政で知られる殷の紂王や夏の桀王が法師となって日本に生まれたのに違いない。仏教破壊で名を馳せた後周の宇文や唐の武宗が再びこの世にやって来た。これで日本の仏法も滅亡するだろう。国も亡びてしまうだろう」と責め立てた。
ともかくも、大乗と小乗の二種類の法師が同時に世に出たのであるから、まるで修羅と帝釈が、または秦の項羽と漢の高祖とが一つの国に並んだようなものである。人びとは手をたたき、舌をふるって、
「仏が居られた時には、仏と提婆達多との二つの戒壇があり、その争いのために多くの人が死んだ。それゆえ、他宗に背くことはともかくも、みずからの師である天台大師もお立てにならなかった円頓の戒壇を建立するなどとは、何とも奇怪なことである。ああ、恐ろしい」と騒ぎ立てた。
けれども、明らかに経文に基づいていたために、比叡山の大乗戒壇は無事に建立されたのである。
以上のように、心中の悟りは同じであっても、その弘められた法に関して言えば、迦葉や阿難よりも馬鳴や竜樹などの方が勝れ、馬鳴などよりも天台大師は勝れ、その天台大師を伝教大師は超えられたのである。
これは、世が末になると人の智恵は浅くなり、仏教は法理は逆に深くなるという道理である。たとえば、軽い病には普通の薬で間に合うが、重い病には特によく効く薬でなければならないし、弱い人には強い味方がいてこそ助かることができるようなものである。


48 三大秘法とその流布

問うていう。天台大師や伝教大師が弘通されなかった正法があるか。答えていう。ある。
求めていう。その正法とはどんなものか。答えていう。それは三つある。末法の衆生のために仏が留め置かれたもので、迦葉や阿難などの仏弟子たちも、馬鳴や竜樹などの論師がたも、そして天台や伝教などの先師がたもいまだ弘められなかった正法である。
求めていう。その具体的なすがたはどうか。答えていう。一つには本門の本尊である。日本をはじめ世界中にいたるまで、みな一同に本門の教主釈尊を本尊とするだろう。そして、宝塔の内の釈迦牟尼仏と多宝仏、そして宝塔の外の諸仏ならびに上行などの四菩薩は脇士となるのである。
二つには本門の戒壇である。三つには本門の題目である。日本をはじめ中国・インドはもとより、世界の至るところまでの人びとがみな、智恵のある者もない者も、すべての行を捨てて南無妙法蓮華経と唱えるだろう。
これはまだ弘まっていない。世界の中で、仏の滅後二千二百二十五年の間、一人も唱えた者がいない。日蓮一人が南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と、声も惜しまずに唱えているのである。
風の強さに応じて波に大小があり、薪の量によって火炎に高低がある。池の大きさに応じて蓮華に大小があり、雨の量は竜の大小による。根が深ければ枝は茂り、水源が遠ければ流れは長いという道理がある。
中国で周の時代が七百年間も続いたのは、文王が礼を重んじ孝を尊んだことによる。秦の治世が短くして滅んだのは、始皇帝が人倫の道に外れたからである。
その道理に基づけば、日蓮の慈悲の心が真実に広大であるならば、南無妙法蓮華経は万年に限らず、未来永劫までも流布するだろう。この日本国のすべての人びとの目を開き、その無間地獄への道を塞いだ功徳は、
伝教大師や天台大師をも超え、竜樹菩薩や迦葉尊者にも勝れている。浄土の極楽世界で積む百年間の修行の功徳は、穢土の娑婆世界で積む一日の修行の功徳に及ばない。正法時代と像法時代の二千年間の仏教弘通の功徳も、末法時代における一時の弘通の功徳には及ばないだろう。
これは決して日蓮の智恵が賢いからではなく、末法という時がもたらす結果である。
春には花が咲き、秋には実が結び、夏は暖かく、冬は冷たい。これらはそれぞれの時節がなせる業というものではないか。


49 南無妙法蓮華経の流布の必然

法華経の薬王品には「わたしが入滅した後、後の五百年の時代に世界中にこの経を広く弘めて、断絶させないようにし、悪魔や魔民、多くの天・竜・夜叉や人の精気を食べる鳩槃荼などに付け入る隙を与えてはならない」と見える。
もしこの経文が実現されなければ、法華経そのものも反古となり、すると舎利弗は華光如来となれず、迦葉尊者は光明如来となれず、目連は多摩羅跋栴檀香仏となれず、阿難は山海恵自在通王仏となれず、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏となれず、耶輸陀羅は具足千万光相仏となることはできないだろう。
化城喩品の三千塵点劫や如来寿量品の五百億塵点劫の久遠の化導も共にそら言となり、おそらく教主釈尊は妄語の罪で無間地獄に堕ち、多宝仏は偽証の罪で阿鼻地獄の炎に苦しみ、十方世界の分身諸仏もやはり偽証の罪で八大地獄を家とし、すべての菩薩は一百三十六の地獄の苦を受けるだろう。
どうしてそのようなことがあろうか。そのようなことがなければ、日本国には必ずや南無妙法蓮華経が広く流布するに相違ない。


50 道善御房への回向

しかれば、花の利益は根にかえり、果実の真実の味わいは土にとどまるように、日蓮の法華経弘通の功徳は、恩師・道善御房の聖霊の御身に集まるだろう。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。


建治二年〈太歳丙子〉七月二十一日     これを記述す。


甲州波木井郷の身延山から、安房国東条郡清澄山の浄顕房および義城房のもとへ送り申し上げる。


 


報恩抄 〔C2・建治二年七月二一日・浄顕房・義浄房〕


 日蓮之れを撰す


 夫れ老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。されば古への賢者予譲といゐし者は剣をのみて智伯が恩にあて、こう演と申せし臣下は腹をさひて衛の懿公が肝を入れたり。いかにいわうや仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや。
 此の大恩をほうぜんには必ず仏法をならひきわめ、智者とならで叶ふべきか。譬へば衆盲をみちびかんには生盲の身にては橋河をわたしがたし。方風を弁へざらん大舟は、諸商を導きて宝山にいたるべしや。仏法を習ひ極めんとをもわば、いとまあらずば叶ふべからず。いとまあらんとをもわば、父母・師匠・国主等に随ひては叶ふべからず。是非につけて出離の道をわきまへざらんほどは、父母・師匠等の心に随ふべからず。この義は諸人をもわく、顕にもはづれ冥にも叶ふまじとをもう。しかれども、外典の孝経にも父母・主君に随わずして、忠臣・孝人なるやうもみえたり。内典の仏経に云く「恩を棄てて無為に入るは真実報恩の者なり」等云云。比干が王に随はずして賢人のなをとり、悉達太子の浄飯大王に背きて三界第一の孝となりしこれなり。
 かくのごとく存じて父母・師匠等に随はずして仏法をうかがいし程に、一代聖教をさとるべき明鏡十あり。所謂 倶舎・成実・律宗・法相・三論・真言・華厳・浄土・禅宗・天台法華宗なり。此の十宗を明師として一切経の心をしるべし。世間の学者等をもえり、此の十の鏡はみな正直に仏道の道を照らせりと。小乗の三宗はしばらくこれををく。民の消息の是非につけて、他国へわたるに用なきがごとし。大乗の七鏡こそ生死の大海をわたりて浄土の岸につく大船なれば、此れを習ひほどひて我がみも助け、人をもみちびかんとをもひて習ひみるほどに、大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり。我が宗こそ一代の心はえたれえたれ等云云。所謂 華厳宗の杜順・智儼・法蔵・澄観等、法相宗の玄奘・慈恩・智周・智昭等、三論宗の興皇・嘉祥等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等、禅宗の達磨・恵可・恵能等、浄土宗の道綽・善導・懐感・源空等。此等の宗々みな本経本論によりて我も我も一切経をさとれり、仏意をきわめたりと云云。彼の人々の云く、一切経の中には華厳経第一なり。法華経・大日経等は臣下のごとし。真言宗の云く、一切経の中には大日経第一なり。余経は衆星のごとし。禅宗が云く、一切経の中には楞伽経第一なり。乃至、余宗かくのごとし。而も上に挙ぐる諸師は世間の人々各々をもえり。諸天の帝釈をうやまひ衆星の日月に随ふがごとし。
 我等凡夫はいづれの師なりとも信ずるならば不足あるべからず。仰ぎてこそ信ずべけれども日蓮が愚案はれがたし。世間をみるに各々我も我もといへども国主は但一人なり、二人となれば国土をだやかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてをはすらめ。而るに十宗七宗まで各々諍論して随はず。国に七人十人の大王ありて、万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふところに一つの願を立つ。我八宗十宗に随はじ。天台大師の専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく一切経を開きみるに、涅槃経と申す経に云く「法に依りて人に依らざれ」等云云。依法と申すは一切経、不依人と申すは仏を除き奉りて外の普賢菩薩・文殊師利菩薩、乃至、上にあぐるところの諸の人師なり。此の経に又云く「了義経に依りて不了義経に依らざれ」等云云。此の経に指すところ了義経と申すは法華経、不了義経と申すは華厳経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経なり。されば仏の遺言を信ずるならば専ら法華経を明鏡として一切経の心をばしるべきか。
 随って法華経の文を開き奉れば「此の法華経は諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云。此の経文のごとくば須弥山の頂に帝釈の居るがごとく、輪王の頂に如意宝珠のあるがごとく、衆木の頂に月のやどるがごとく、諸仏の頂上に肉髻の住せるがごとく、此の法華経は華厳経・大日経・涅槃経等の一切経の頂上の如意宝珠なり。されば専ら論師・人師をすてて経文に依るならば大日経・華厳経等に法華経の勝れ給へることは、日輪の青天に出現せる時、眼あきらかなる者の天地を見るがごとく高下宛然なり。又大日経・華厳経等の一切経をみるに此の経文に相似の経文一字一点もなし。或は小乗経に対して勝劣をとかれ、或は俗諦に対して真諦をとき、或は諸の空仮に対して中道をほめたり。譬へば小国の王が我が国の臣下に対して大王というがごとし。法華経は諸王に対して大王等と云云。但涅槃経計りこそ法華経に相似の経文は候へ。されば天台已前の南北の諸師は迷惑して、法華経は涅槃経に劣ると云云。されども専ら経文を開き見るには無量義経のごとく華厳・阿含・方等・般若等の四十余年の経々をあげて、涅槃経に対して我がみ勝るととひて、又法華経に対する時は「是の経の出世は、乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大果実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。我と涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども南北の大智の諸人の迷ひて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし。此の経文は但法華経・涅槃経の勝劣のみならず、十方世界の一切経の勝劣をもしりぬべし。而るを経文にこそ迷ふとも天台・妙楽・伝教大師の御れうけんの後は眼あらん人々はしりぬべき事ぞかし。然れども天台宗の人たる慈覚・智証すら猶此の経文にくらし、いわうや余宗の人々をや。
 或人疑って云く、漢土日本にわたりたる経々にこそ法華経に勝れたる経はをはせずとも、月氏・竜宮・四王・日・月・l利天・兜率天なんどには恒河沙の経々ましますなれば、其の中に法華経に勝れさせ給ふ御経やましますらん。答へて云く、一をもって万を察せよ。庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり。痴人が疑って云く、我等は南天を見て東西北の三空を見ず。彼の三方の空に此の日輪より別の日やましますらん。山を隔て煙の立つを見て、火を見ざれば煙は一定なれども火にてやなかるらん。かくのごとくいはん者は一闡提の人としるべし。生き盲にことならず。法華経の法師品に、釈迦如来金口の誠言をもて五十余年の一切経の勝劣を定めて云く「我が所説の経典は無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経は最も為れ難信難解なり」等云云。此の経文は但釈迦如来一仏の説なりとも、等覚已下は仰ぎて信ずべき上、多宝仏東方より来たりて真実なりと証明し、十方の諸仏集まりて釈迦仏と同じく広長舌を梵天に付け給ひて後、各々国々へかへらせ給ひぬ。已今当の三字は、五十年並びに十方三世の諸仏の御経一字一点ものこさず引き載せて、法華経に対して説かせ給ひて候を、十方の諸仏此の座にして御判形を加へさせ給ひ、各々又自国に還らせ給ひて、我が弟子等に向かはせ給ひて、法華経に勝れたる御経ありと説かせ給はば、其の土の所化の弟子等信用すべしや。又我は見ざれば、月氏・竜宮・四天・日月等の宮殿の中に、法華経に勝れさせ給ひたる経やおはしますらんと疑ひをなさば、されば今の梵釈・日月・四天・竜王は、法華経の御座にはなかりけるか、若し日月等の諸天、法華経に勝れたる御経まします、汝はしらず、と仰せあるならば大誑惑の日月なるべし。日蓮せめて云く、日月は虚空に住し給へども、我等が大地に処するがごとくして堕落し給はざる事は、上品の不妄語戒の力ぞかし。法華経に勝れたる御経ありと仰せある大妄語あるならば、恐らくはいまだ壊劫にいたらざるに、大地の上にどうとおち候はんか。無間大城の最下の堅鉄にあらずば留まりがたからんか。大妄語の人は須臾も空に処して四天下を廻り給ふべからずと、せめたてまつるべし。
 而るを華厳宗の澄観等、真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等の大智の三蔵・大師等の、華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと立て給ふは、我等が分斉には及ばぬ事なれども、大道理のをす処は、豈に諸仏の大怨敵にあらずや。提婆・瞿伽梨もものならず。大天・大慢外にもとむべからず。彼の人々を信ずる輩はをそろしをそろし。
 問うて云く、華厳の澄観・三論の嘉祥・法相の慈恩・真言の善無畏、乃至、弘法・慈覚・智証等を、仏の敵との給ふか。答へて云く、此れ大なる難なり。仏法に入りて第一の大事なり。愚眼をもて経文を見るには、法華経に勝れたる経ありといはん人は、設ひいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候。而るを経文のごとく申すならば、いかでか此の諸人仏敵たらざるべき。若し又をそれをなして指し申さずば、一切経の勝劣空しかるべし。又此の人々を恐れて、末の人々を仏敵といはんとすれば、彼の宗々の末の人々の云く、法華経に大日経をまさりたりと申すは我私の計らひにはあらず、祖師の御義なり。戒行の持破、智恵の勝劣、身の上下はありとも、所学の法門はたがふ事なしと申せば、彼の人々にとがなし。又日蓮此れを知りながら人々を恐れて申さずば「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれ」の仏陀の諫暁を用ゐぬ者となりぬ。いかんがせん、いはんとすれば世間をそろし、黙止さんとすれば仏の諫暁のがれがたし。進退此に谷まれり。
 むべなるかなや、法華経の文に云く「而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」。又云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云。釈迦仏を摩耶夫人はらませ給ひたりければ、第六天の魔王、摩耶夫人の御腹をとをし見て、我等が大怨敵法華経と申す利剣をはらみたり。事の成ぜぬ先にいかにしてか失ふべき。第六天の魔王、大医と変じて浄飯王宮に入り、御産安穏の良薬を持ち候大医ありとののしりて、大毒を后にまいらせつ。初生の時は石をふらし、乳に毒をまじへ、城を出でさせ給ひしかば黒き毒蛇と変じて道にふさがり、乃至、提婆・瞿伽利・波瑠璃王・阿闍世王等の悪人の身に入りて、或は大石をなげて仏の御身より血をいだし、或は釈子をころし、或は御弟子等を殺す。此等の大難は皆遠くは法華経を仏世尊に説かせまいらせじとたばかりし、如来現在猶多怨嫉の大難ぞかし。此等は遠き難なり。近き難には舎利弗・目連・諸大菩薩等も四十余年が間は、法華経の大怨敵の内ぞかし。
 況滅度後と申して、未来の世には又此の大難よりもすぐれてをそろしき大難あるべしと、とかれて候。仏だにも忍びがたかりける大難をば凡夫はいかでか忍ぶべき。いわうや在世より大なる大難にてあるべかんなり。いかなる大難か、提婆が長さ三丈、広さ一丈六尺の大石、阿闍世王の酔象にはすぐべきとはをもへども、彼れにもすぐるべく候なれば、小失なくとも大難に度々値ふ人をこそ、滅後の法華経の行者とはしり候わめ。付法蔵の人々は四依の菩薩、仏の御使ひなり。提婆菩薩は外道に殺され、師子尊者は檀弥羅王に頭を刎ねられ、仏陀密多・竜樹菩薩等は赤幡を七年・十二年さしとをす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はをもひじにに死す。此等は正法一千年の内なり。
 像法に入りて五百年、仏滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始めは智、後には智者大師とがうす。法華経の義をありのままに弘通せんと思ひ給ひしに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども、詮じて十流となりぬ。所謂 南三北七なり。十流ありしかども一流をもて最とせり。所謂 南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり。此の人は一代の仏教を五にわかつ。其の五つの中に三経をえらびいだす。所謂 華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政関白のごとし。第三法華経は公卿等のごとし。此れより已下は万民のごとし。此の人は本より智恵かしこき上、恵観・恵厳・僧柔・恵次なんど申せし大智者より習ひ伝へ給へるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわりて法華経・涅槃経・華厳経の功をつもりし上、梁の武帝召し出だして、内裏の内に寺を立て、光宅寺となづけて此の法師をあがめ給ふ。法華経をかうぜしかば天より花ふること在世のごとし。天鑑五年に大旱魃ありしかば、此の法雲法師を請じ奉りて法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品の「其雨普等 四方倶下」と申す二句を講ぜさせ給ひし時、天より甘雨下りたりしかば天子御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈につかえ、万民の国王ををそるるがごとく我とつかへ給ひし上、或人夢みらく、此の人は過去の灯明仏の時より法華経をかうぜる人なり。法華経の疏四巻あり。此の疏に云く「此の経未だ碩然ならず」。亦云く「異の方便」等云云。正しく法華経はいまだ仏理をきわめざる経と書かれて候。此の人の御義仏意に相ひ叶ひ給ひければこそ、天より花も下り雨もふり候ひけらめ。かかるいみじき事にて候ひしかば、漢土の人々、さては法華経は華厳経・涅槃経には劣るにてこそあるなれと思ひし上、新羅・百済・高麗・日本まで此の疏ひろまりて、大体一同の義にて候ひしに、
 法雲法師御死去ありていくばくならざるに、梁の末、陳の始めに、智法師と申す小僧出来せり。南岳大師と申せし人の御弟子なりしかども、師の義も不審にありけるかのゆへに、一切経蔵に入りて度々御らんありしに、華厳経・涅槃経・法華経の三経に詮じいだし、此の三経の中に殊に華厳経を講じ給ひき。別して礼文を造りて日々に功をなし給ひしかば、世間の人をもはく、此の人も華厳経を第一とをぼすかと見えしほどに、法雲法師が、一切経の中に華厳第一・涅槃第二・法華第三と立てたるが、あまりに不審なりける故に、ことに華厳経を御らんありけるなり。かくて一切経の中に、法華第一・涅槃第二・華厳第三と見定めさせ給ひてなげき給ふやうは、如来の聖教は漢土にわたれども人を利益することなし。かへりて一切衆生を悪道に導くこと人師の誤りによれり。例せば国の長とある人、東を西といゐ、天を地といゐいだしぬれば万民はかくのごとくに心うべし。後にいやしき者出来して、汝等が西は東、汝等が天は地なりといわばもちゐることなき上、我が長の心に叶はんがために今の人をのりうちなんどすべし。いかんがせんとはをぼせしかども、さてもだすべきにあらねば、光宅寺の法雲法師は謗法によて地獄に堕ちぬとののしらせ給ふ。
 其の時南北の諸師はちのごとく蜂起し、からすのごとく烏合せり。智法師をば頭をわるべきか国をうべきか、なんど申せし程に、陳主此れをきこしめして南北の数人に召し合わせて、我と列座してきかせ給ひき。法雲法師が弟子等恵栄・法歳・恵曠・恵高ネんど申せし僧正・僧都已上の人々百余人なり。各々悪口を先とし、眉をあげ眼をいからかし手をあげ拍子をたたく。而れども智法師は末座に坐して、色を変ぜず言を誤らず威儀しづかにして諸僧の言を一々に牒をとり、言ごとにせめかへす。をしかへして難じて云く、抑 法雲法師の御義に第一華厳・第二涅槃・第三法華と立てさせ給ひける証文は何れの経ぞ、慥かに明らかなる証文を出ださせ給へとせめしかば、各々頭をうつぶせ色を失ひて一言の返事なし。重ねてせめて云く、無量義経に正しく「次説方等十二部経 摩訶般若 華厳海空」等云云。仏、我と華厳経の名をよびあげて、無量義経に対して未顕真実と打ち消し給ふ。法華経に劣りて候無量義経に華厳経はせめられて候。いかに心えさせ給ひて、華厳経をば一代第一とは候ひけるぞ。各々御師の御かたうどせんとをぼさば、此の経文をやぶりて、此れに勝れたる経文を取り出だして、御師の御義を助け給へとせめたり。又涅槃経を法華経に勝ると候ひけるは、いかなる経文ぞ。涅槃経の第十四には華厳・阿含・方等・般若をあげて、涅槃経に対して勝劣は説かれて候へども、またく法華経と涅槃経との勝劣はみえず。次上の第九の巻に法華経と涅槃経との勝劣分明なり。所謂 経文に云く「是の経の出世は、乃至法華の中の八千の声聞に記別を受くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し」等云云。経文明らかに諸経をば春夏と説かせ給ひ、涅槃経と法華経とをば菓実の位とは説かれて候へども、法華経をば秋収冬蔵の大菓実の位、涅槃経をば秋の末冬の始め}拾の位と定め給ひぬ。此の経文、正しく法華経には我が身劣ると、承伏し給ひぬ。法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並びとの経々に勝れたるのみならず、後に説かん経々にも勝るべしと仏定め給ふ。すでに教主釈尊かく定め給ひぬれば疑ふべきにあらねども、我が滅後はいかんがと疑ひおぼして、東方宝浄世界の多宝仏を証人に立て給ひしかば、多宝仏大地よりをどり出でて「妙法華経 皆是真実」と証し、十方分身の諸仏重ねてあつまらせ給ひ、広長舌を大梵天に付け又教主釈尊も付け給ふ。然して後、多宝仏は宝浄世界えかへり十方の諸仏各々本土にかへらせ給ひて後、多宝・分身の仏もをはせざらんに、教主釈尊、涅槃経をといて法華経に勝ると仰せあらば、御弟子等は信ぜさせ給ふべしやとせめしかば、日月の大光明の修羅の眼を照らすがごとく、漢王の剣の諸侯の頸にかかりしがごとく、両眼をとぢ一頭を低れたり。天台大師の御気色は師子王の狐兎の前に吼えたるがごとし、鷹鷲の鳩雉をせめたるににたり。かくのごとくありしかば、さては法華経は華厳経・涅槃経にもすぐれてありけりと震旦一国に流布するのみならず、かへりて五天竺までも聞こへ、月氏大小の諸論も智者大師の御義には勝れず、教主釈尊両度出現しましますか、仏教二度あらはれぬとほめられ給ひしなり。
 其の後天台大師も御入滅なりぬ。陳隋の世も代はりて唐の世となりぬ。章安大師も御入滅なりぬ。天台の仏法やうやく習ひ失せし程に、唐の太宗の御宇に玄奘三蔵といゐし人、貞観三年に始めて月氏に入り同十九年にかへりしが、月氏の仏法尋ね尽くして法相宗と申す宗をわたす。此の宗は天台宗と水火なり。而るに天台の御覧なかりし深密経・瑜伽論・唯識論等をわたして、法華経は一切経には勝れたれども深密経には劣るという。而るを天台は御覧なかりしかば、天台の末学等は智恵の薄きかのゆへにさもやとをもう。又太宗は賢王なり、玄奘の御帰依あさからず、いうべき事ありしかども、いつもの事なれば時の威ををそれて申す人なし。法華経を打ちかへして三乗真実・一乗方便・五性各別と申せし事は心うかりし事なり。天竺よりはわたれども月氏の外道が漢土にわたれるか。法華経は方便、深密経は真実といゐしかば、釈迦・多宝・十方の諸仏の誠言もかへりて虚しくなり、玄奘・慈恩こそ時の生身の仏にてはありしか。
 其の後則天皇后の御宇に、前に天台大師にせめられし華厳経に、又重ねて新訳の華厳経わたりしかば、さきのいきどをりをはたさんがために、新訳の華厳をもって、天台にせめられし旧訳の華厳経を扶けて、華厳宗と申す宗を法蔵法師と申す人立てぬ。此の宗は華厳経をば根本法輪、法華経をば枝末法輪と申すなり。南北は一華厳・二涅槃・三法華、天台大師は一法華・二涅槃・三華厳、今の華厳宗は一華厳・二法華・三涅槃等云云。
 其の後玄宗皇帝の御宇に、天竺より善無畏三蔵大日経・蘇悉地経をわたす。金剛智三蔵は金剛頂経をわたす。又金剛智三蔵に弟子あり不空三蔵なり。此の三人は月氏の人、種姓も高貴なる上、人がらも漢土の僧ににず。法門もなにとはしらず、後漢より今にいたるまでなかりし印と真言という事をあひそいてゆゆしかりしかば、天子かうべをかたぶけ万民掌をあわす。此の人々の義にいわく、華厳・深密・般若・涅槃・法華経等の勝劣は顕教の内、釈迦如来の説の分なり。今の大日経等は大日法王の勅言なり。彼の経々は民の万言、此の経は天子の一言なり。華厳経・涅槃経等は大日経には梯を立てても及ばず。但法華経計りこそ大日経には相似の経なれ。されども彼の経は釈迦如来の説、民の正言、此の経は天子の正言なり。言は似たれども人がら雲泥なり。譬へば濁水の月と清水の月のごとし。月の影は同じけれども水に清濁ありなんど申しければ、此の由尋ね顕はす人もなし。諸宗皆落ち伏して真言宗にかたぶきぬ。善無畏・金剛智・死去の後、不空三蔵又月氏にかへりて、菩提心論と申す論をわたし、いよいよ真言宗盛りなりけり。
 但し妙楽大師と云ふ人あり。天台大師よりは六代二百余年の後なれども智恵賢き人にて、天台の所釈を見明らめてをはせしかば、天台の釈の心は後に渡れる深密経・法相宗、又始めて漢土に立てたる華厳宗、大日経・真言宗にも法華経は勝れさせ給ひたりけるを、或は智恵の及ばざるか、或は人を畏るか、或は時の王威をおづるかの故にいはざりけるか。かうてあるならば天台の正義すでに失せなん。又陳隋已前の南北が邪義にも勝れたりとをぼして三十巻の末文を造り給ふ。所謂 弘決・釈籤・疏記これなり。此の三十巻の文は本書の重なれるをけづり、よわきをたすくるのみならず、天台大師の御時なかりしかば、御責めにものがれてあるやうなる法相宗と、華厳宗と、真言宗とを、一時にとりひしがれたる書なり。
 又日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年〈壬申〉十月十三日に、百済国より一切経・釈迦仏の像をわたす。又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、和気妹子と申す臣下を漢土につかはして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて持経と定め、其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。人王四十五代に聖武天王の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。孝徳より人王五十代の桓武天皇にいたるまでは十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。
 桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の御弟子なり。法相宗を始めとして六宗を習ひきわめぬ。而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給ふに、天台大師の釈を引きのせたり。此の疏こそ子細ありげなれ。此の国に渡りたるか、又いまだわたらざるかと不審ありしほどに、有る人にとひしかば、其の人の云く、大唐の揚州竜興寺の僧鑑真和尚は天台の末学道暹律師の弟子、天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、天台の御釈を持ち来たりながらひろめ給はず。人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかたる。其の書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんありて生死の酔ひをさましつ。此の書をもって六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見なる事あらはれぬ。忽ちに願を発して云く、日本国の人皆謗法の者の檀越たるが、天下一定乱れなんずとをぼして六宗を難ぜられしかば、七大寺六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。而るを去ぬる延暦二十一年正月十九日に、天王高雄寺に行幸ありて、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等十有余人を召し合はす。華厳・三論・法相等の人々、各々我が宗の元祖が義にたがはず。最澄上人は六宗の人々の所立一々に牒を取りて、本経本論並びに諸経諸論に指し合はせてせめしかば一言も答へず、口をして鼻のごとくになりぬ。天皇をどろき給ひて、委細に御たづねありて、重ねて勅宣を下して十四人をせめ給ひしかば、承伏の謝表を奉りたり。其の書に云く「七箇の大寺、六宗の学匠、乃至、初めて至極を悟る」等云云。又云く「聖徳の弘化より以降、今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此理を争ひて其の疑ひ未だ解けず。而るに此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云。又云く「三論・法相、久年の諍ひ、渙焉として氷のごとく解け、昭然として既に明らかにして、猶雲霧を披きて三光を見るがごとし」云云。最澄和尚、十四人が義を判じて云く「各一軸を講ずるに法鼓を深壑に振るひ、賓主三乗の路に徘徊し、義旗を高峰に飛ばす。長幼三有の結を摧破して、猶未だ歴劫の轍を改めず、白牛を門外に混ず。豈に善く初発の位に昇り、阿荼を宅内に悟らんや」等云云。弘世・真綱二人の臣下云く「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台に闢く。一乗の権滞を慨き、三諦の未顕を悲しむ」等云云。又十四人の云く「善議等牽かれて休運に逢ひ、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せんや」等云云。此の十四人は華厳宗の法蔵・審祥、三論宗の嘉祥・観勒、法相宗の慈恩・道昭、律宗の道宣・鑑真等の漢土日本の元祖等の法門、瓶はかはれども水は一つなり。而るに十四人、彼の邪義をすてて伝教の法華経に帰伏しぬる上は、誰の末代の人か、華厳・般若・深密経等は法華経に超過せりと申すべきや。小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。大乗の三宗破れぬる上は、沙汰のかぎりにあらず。而るを今に子細を知らざる者、六宗はいまだ破られずとをもへり。譬へば盲目が天の日月を見ず、聾人が雷の音をきかざるゆへに、天には日月なし、空に声なしとをもうがごとし。
 真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。又玄ム等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。此等を伝教大師御らんありてありしかども大日経・法華経の勝劣いかんがとをぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去ぬる延暦二十三年七月御入唐、西明寺の道邃和尚、仏滝寺の行満等に値ひ奉りて止観円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和尚に値ひ奉りて真言を相伝し、同じき延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面、宣旨を下して六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多くの子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知ろしめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を、我が国に立てう立てじの諍論がわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか。但し依憑集と申す文に、正しく真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、竜智菩薩に値ひ奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこあなかしこ。月氏へ渡し給へとねんごろにあつらへし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然なり。されば釈迦如来・天台大師・妙楽大師・伝教大師の御心は一同に大日経等の一切経の中には、法華経はすぐれたりという事は分明なり。又真言宗の元祖という竜樹菩薩の御心もかくのごとし。大智度論を能く能く尋ぬるならば、此の事分明なるべきを、不空があやまれる菩提心論に皆人ばかされて、此の事に迷惑せるか。
 又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云ふ人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子、恵果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎょ、平城天王に見参し御用ゐありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れて有りし程に、伝教大師は嵯峨の天王、弘仁十三年六月四日御入滅、同じき弘仁十四年より、弘法大師、王の御師となり、真言宗を立てて東寺を給はり、真言和尚とがうし、此れより八宗始まる。一代の勝劣を判じて云く、第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向かふれば無明の辺域と申して、皇帝と俘囚とのごとし。天台大師は盗人なり、真言の醍醐を盗みて、法華経を醍醐というなんどかかれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が、法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。例へば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。伝教大師御存生ならば、一言は出だされべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。
 慈覚大師は去ぬる承和五年に御入唐、漢土にして十年が間、天台・真言の二宗をならふ。法華・大日経の勝劣を習ひしに、法全・元政等の八人の真言師には、法華経と大日経は理同事勝等云云。天台宗の志遠・広脩・維K等に習ひしには、大日経は方等部の摂等云云。同じき承和十三年九月十日に御帰朝、嘉祥元年六月十四日に宣旨下る。法華・大日経等の勝劣は、漢土にしてしりがたかりけるかのゆへに、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻。此の疏の心は、大日経・金剛頂経・蘇悉地経の義と、法華経の義は、其の所詮の理は一同なれども、事相の印と真言とに真言の三部経すぐれたりと云云。此れは偏に善無畏・金剛智・不空の造りたる大日経の疏の心のごとし。然れども、我が心に猶不審やのこりけん。又心にはとけてんけれども、人の不審をはらさんとやをぼしけん。此の十四巻の疏を御本尊の御前にさしをきて、御祈請ありき。かくは造りて候へども仏意計りがたし。大日の三部やすぐれたる、法華経の三部やまされると御祈念有りしかば、五日と申す五更に忽ちに夢想あり。青天に大日輪かかり給へり。矢をもてこれを射ければ、矢飛びて天にのぼり、日輪の中に立ちぬ。日輪動転してすでに地に落ちんとすとをもひて、うちさめぬ。悦びて云く「我に吉夢あり。法華経に真言勝れたりと造りつるふみは仏意に叶ひけり」と悦ばせ給ひて、宣旨を申し下して、日本国に弘通あり。而も宣旨の心に云く「遂に知んぬ。天台の止観と真言の法義とは理冥に符へり」等云云。祈請のごときんば、大日経に法華経は劣なるやうなり。宣旨を申し下すには法華経と大日経とは同じ等云云。
 智証大師は本朝にしては、義真和尚・円澄大師・別当・慈覚等の弟子なり。顕密の二道は、大体此の国にして学し給ひけり。天台・真言の二宗の勝劣の御不審に、漢土へは渡り給ひけるか。去ぬる仁寿二年に御入唐、漢土にしては、真言宗は法全・元政等にならはせ給ひ、大体大日経と法華経とは理同事勝、慈覚の義のごとし。天台宗は良Z和尚にならひ給ふ。真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ばず等云云。七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日御帰朝。大日経の旨帰に云く「法華尚及ばず、況や自余の教をや」等云云。此の釈は法華経は大日経には劣る等云云。又授決集に云く「真言禅門乃至若し華厳・法華・涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり」等云云。普賢経の記・論の記に云く「同じ」等云云。貞観八年〈丙戌〉四月二十九日〈壬申〉、勅宣を申し下して云く「如聞、真言止観両教の宗、同じく醍醐と号し、倶に深秘と称す」等云云。又六月三日の勅宣に云く「先師既に両業を開きて以て我が道と為す。代々の座主相承して兼ね伝へざること莫し。在後の輩、豈に旧迹に乖かんや。如聞、山上の僧等、専ら先師の義に違して偏執の心を成す。殆ど余風を扇揚し、旧業を興隆するを顧みざるに似たり。凡そ厥師資の道、一を欠くも不可なり。伝弘の勤め寧ろ兼備せざらんや。今より以後、宜しく両教に通達するの人を以て延暦寺の座主と為し、立てて恒例と為すべし」云云。
 されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は、違勅の者といましめられたり。此等は皆自語相違といゐぬべし。他宗の人はよも用ゐじと見えて候。但し二宗の斉等とは、先師伝教大師の御義と、宣旨に引き載せられたり。抑 伝教大師何れの書にかかれて候ぞや、此の事よくよく尋ぬべし。慈覚・智証と日蓮とが、伝教大師の御事を不審申すは、親に値ひての年あらそひ、日天に値ひ奉りての目くらべにては候へども、慈覚・智証の御かたうどをせさせ給はん人々は、分明なる証文をかまへさせ給ふべし。詮ずるところは信をとらんがためなり。玄奘三蔵は月氏の婆沙論を見たりし人ぞかし。天竺にわたらざりし宝法師にせめられにき。法護三蔵は印度の法華経をば見たれども、属累の先後をば漢土の人みねども、誤りといゐしぞかし。設ひ慈覚の伝教大師に値ひ奉りて習ひ伝へたりとも、智証大師は義真和尚に口決せりといふとも、伝教・義真の正文に相違せば、あに不審を加へざらん。
 伝教大師の依憑集と申す文は大師第一の秘書なり。彼の書の序に云く「新来の真言家は則ち筆受の相承を泯し、旧到の華厳家は則ち影響の軌模を隠し、沈空の三論宗は弾訶の屈恥を忘れて称心の酔ひを覆ふ。著有の法相は僕陽の帰依を非して青竜の判経を撥ふ等。乃至、謹んで依憑集一巻を著して同我の後哲に贈る。其れ時興ること、日本第五十二葉弘仁の七〈丙申〉の歳なり」云云。次下の正宗に云く「天竺の名僧、大唐天台の教迹最も邪正を簡ぶに堪へたりと聞いて、渇仰して訪問す」云云。次下に云く「豈に中国に法を失ひて之れを四維に求むるに非ずや。而も此の方に識ること有る者少なし。魯人の如きのみ」等云云。此の書は法相・三論・華厳・真言の四宗をせめて候文なり。天台・真言の二宗同一味ならば、いかでかせめ候べき。而も不空三蔵等をば、魯人のごとしなんどかかれて候。善無畏・金剛智・不空の真言宗いみじくば、いかでか魯人と悪口あるべき。又天竺の真言が天台宗に同じきも、又勝れたるならば、天竺の名僧いかでか不空にあつらへ、中国に正法なしとはいうべき。それはいかにもあれ、慈覚・智証の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず。其の故は此の書に云く「謹んで依憑集一巻を著して、同我の後哲に贈る」等云云。同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ同我にてはあるべけれ。我と申し下さるる宣旨に云く「専ら先師の義に違ひ偏執の心を成す」等云云。又云く「凡そ厥師資の道、一を欠けても不可なり」等云云。此の宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ。かうせめ候もをそれにては候へども、此れをせめずば大日経・法華経の勝劣やぶれなんと存じて、いのちをまとにかけてせめ候なり。此の二人の人々の、弘法大師の邪義をせめ候わざりけるは最も道理にて候ひけるなり。されば糧米をつくし、人をわづらはかして、漢土へわたらせ給はんよりは、本師伝教大師の御義をよくよくつくさせ給ふべかりけるにや。されば叡山の仏法は、但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其の主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は、已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事なり。其の故は、水火天地なる事は僻事なれども人用ゐる事なければ、其の僻事成ずる事なし。弘法大師の御義はあまり僻事なれば、弟子等も用ゐる事なし。事相計りは其の門家なれども、其の教相の法門は、弘法の義いゐにくきゆへに、善無畏・金剛智・不空・慈覚・智証の義にてあるなり。慈覚・智証の義こそ、真言と天台とは理同なりなんど申せば、皆人さもやとをもう。かうをもうゆへに事勝の印と真言とにつひて、天台宗の人々画像木像の開眼の仏事をねらはんがために、日本一同に真言宗にをちて、天台宗は一人もなきなり。例せば法師と尼と、黒きと青きとはまがひぬべければ、眼くらき人はあやまつぞかし。僧と男と、白と赤とは目くらき人も迷はず、いわうや眼あきらかなる者をや。慈覚・智証の義は、法師と尼と、黒きと青きとがごとくなるゆへに、智人も迷ひ、愚人もあやまり候ひて、此の四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州、皆謗法の者となりぬ。
 抑 法華経の第五に「文殊師利、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の上に在り」云云。此の経文のごとくならば、法華経は大日経等の一切経の頂上に住し給ふ正法なり。さるにては善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は此の経文をばいかんが会通せさせ給ふべき。法華経の第七に云く「能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。伝教大師の秀句と申す書に云く「此の経も亦復是の如し。乃至、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持すること有らん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て、亦為れ第一なり」。已上経文なりと引き入れさせ給ひて、次下に云く「天台法華玄に云く」等云云。已上玄文と、かかせ給ひて、上の心を釈して云く「当に知るべし、他宗所依の経は未だ最為第一ならず。其の能く経を持つ者も亦未だ第一ならず。天台法華宗所持の法華経は最も為れ第一なる故に、能く法華を持つ者も亦衆生の中の第一なり。已に仏説に拠る、豈に自歎ならんや」等云云。次下に譲る釈に云く「委曲の依憑、具に別巻に有るなり」等云云。依憑集に云く「今吾が天台大師、法華経を説き法華経を釈すること群に特秀し唐に独歩す。明らかに知んぬ、如来の使ひなりと。讃めん者は福を安明に積み、謗らん者は罪を無間に開かん」等云云。法華経・天台・妙楽・伝教の経釈の心のごとくならば、今日本国には法華経の行者は一人もなきぞかし。月氏には教主釈尊、宝塔品にして一切の仏をあつめさせ給ひて大地の上に居せしめ、大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせ給ふ。此の大日如来は大日経の胎蔵界の大日・金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に教主釈尊居せさせ給ふ。此れ即ち法華経の行者なり。天竺かくのごとし。漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて、現身に大師となる。「群に特秀し唐に独歩す」というこれなり。日本国には伝教大師六宗にせめかちて、日本の始め第一の根本大師となり給ふ。月氏・漢土・日本に但三人計りこそ「一切衆生の中に於て亦為れ第一」にては候へ。されば秀句に云く「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり。浅きを去りて深きに就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云云。仏滅後一千八百余年が間に法華経の行者漢土に一人、日本に一人、已上二人、釈尊を加へ奉りて已上三人なり。外典に云く「聖人は一千年に一たび出で、賢人は五百年に一たび出づ。黄河は渭ながれをわけて、五百年には半河すみ、千年には共に清む」と申すは一定にて候ひけり。
 然るに日本国は叡山計りに、伝教大師の御時法華経の行者ましましけり。義真・円澄は第一第二の座主なり。第一の義真計り伝教大師ににたり。第二の円澄は半ばは伝教の御弟子、半ばは弘法の弟子なり。第三の慈覚大師は、始めは伝教大師の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其の跡をばつがせ給へども、法門は全く御弟子にはあらず。而れども円頓の戒計りは、又御弟子ににたり。蝙蝠鳥のごとし。鳥にもあらず、ねずみにもあらず、梟鳥禽・破鏡獣のごとし。法華経の父を食らい、持者の母をかめるなり。日をいるとゆめにみしこれなり。されば死去の後は墓なくてやみぬ。智証の門家園城寺と慈覚の門家叡山と、修羅と悪竜と合戦ひまなし。園城寺をやき叡山をやく。智証大師の本尊慈氏菩薩もやけぬ。慈覚大師の本尊、大講堂もやけぬ。現身に無間地獄をかんぜり。但中堂計りのこれり。弘法大師も又跡なし。弘法大師の云く「東大寺の受戒せざらん者をば東寺の長者とすべからず」等、御いましめの状あり。しかれども寛平の法王は仁和寺を建立して東寺の法師をうつして、我が寺には叡山の円頓戒を持たざらん者をば住せしむべからずと、宣旨分明なり。されば今の東寺の法師は、鑑真が弟子にもあらず、弘法の弟子にもあらず、戒は伝教の御弟子なり。又伝教の御弟子にもあらず、伝教の法華経を破失す。去ぬる承和二年三月二十一日に死去ありしかば、公家より遺体をはほらせ給ひ、其の後誑惑の弟子等集まりて御入定と云云。或はかみをそりてまいらするぞといゐ、或は三鈷をかんどよりなげたりといゐ、或は日輪夜中に出でたりといゐ、或は現身に大日如来となり給ふといゐ、或は伝教大師に十八道ををしへまいらせたりといゐて師の徳をあげて智恵にかへ、我が師の邪義を扶けて王臣を誑惑するなり。又高野山に本寺・伝法院といいし二つの寺あり。本寺は弘法のたてたる大塔大日如来なり。伝法院と申すは正覚房の立てし金剛界の大日なり。此の本末の二寺昼夜に合戦あり。例せば叡山・園城のごとし。誑惑のつもりて日本に二つの禍の出現せるか。糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞のかなり。大妄語を集めて仏とがうすれども、但無間大城なり。尼オが塔は、数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばりは、多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙菩薩にせめられてやぶれぬ。拘留外道は石となって八百年、陳那菩薩にせめられて水となりぬ。道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。趙高が国をとりし、王莽が位をうばいしがごとく、法華経の位をとて大日経の所領とせり。法王すでに国に失せぬ。人王あに安穏ならんや。日本国は慈覚・智証・弘法の流れなり、一人として謗法ならざる人はなし。
 但し事の心を案ずるに、大荘厳仏の末、一切明王仏の末法のごとし。威音王仏の末法には改悔ありしすら猶千劫阿鼻地獄に堕つ。いかにいわうや、日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし。「如是展転 至無数劫」疑ひなきものか。かかる謗法の国なれば天もすてぬ。天すつればふるき守護の善神もほこらをやひて寂光の都へかへり給ひぬ。但日蓮計り留まり居て告げ示せば、国主これをあだみ数百人の民に或は罵詈、或は悪口、或は杖木、或は刀剣、或は宅々ごとにせき、或は家々ごとにをう。それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり。去ぬる文永八年九月の十二日には頸を切らんとす。最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に、他方の怨賊来たりて国人喪乱に遭はん」等云云。大集経に云く「若し復諸の刹利国王、諸の非法を作し、世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し、刀杖をもって打斫し、及び衣鉢種々の資具を奪ひ、若しは他の給施に留難を作す者有らば、我等彼れをして自然に卒かに他方の怨敵を起こさしめん。及び自界の国土にも亦兵起こり、病疫飢饉し、非時の風雨し闘諍言訟せしめん。又其の王をして久しからずして復当に己が国を亡失せしむべし」等云云。此等の文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人、阿鼻地獄はいかで脱れ給ふべき。
 去ぬる文永八年九月十二日に、平左衛門並びに数百人に向かひて云く、日蓮は日本国のはしらなり。日蓮を失ふほどならば、日本国のはしらをたをすになりぬ等云云。此の経文に智人を国主等、若しは悪僧等がざんげんにより、若しは諸人の悪口によて失にあつるならば、にはかにいくさをこり、又大風ふかせ、他国よりせむべし等云云。去ぬる文永九年二月のどしいくさ、同じき十一年の四月の大風、同じき十月に大蒙古の来たりしは、偏に日蓮がゆへにあらずや。いわうや前よりこれをかんがへたり。誰の人か疑ふべき。弘法・慈覚・智証の誤り、並びに禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて、逆風に大波をこり、大地震のかさなれるがごとし。さればやうやく国をとろう。太政入道が国ををさへ、承久に王位つきはてて世東にうつりしかども、但国中のみだれにて他国のせめはなかりき。彼れは謗法の者は国に充満せりといへども、ささへ顕はす智人なし。かるがゆへになのめなりき。譬へば師子のねぶれるは手をつけざればほへず。迅き流れは櫓をささへざれば波たかからず。盗人はとめざればいからず。火は薪を加へざればさかんならず。謗法はあれどもあらわす人なければ国もをだやかなるににたり。例せば日本国に仏法わたりはじめて候ひしに、始めはなに事もなかりしかども、守屋仏をやき、僧をいましめ、堂塔をやきしかば、天より火の雨ふり、国にはうさうをこり、兵乱つづきしがごとし。此れはそれにはにるべくもなし。謗法の人々も国に充満せり。日蓮が大義も強くせめかかる。修羅と帝釈と、仏と魔王との合戦にもをとるべからず。金光明経に云く「時に隣国の怨敵是の如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云。又云く「時に王見已りて、即ち四兵を厳ひて彼の国に発向し、討罰を為さんと欲す。我等爾の時に、当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し、彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云。最勝王経の文、又かくのごとし。大集経云云。仁王経云云。此等の経文のごときんば、正法を行ずるものを国主あだみ、邪法を行ずる者のかたうどせば、大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ。例せば訖利多王を雪山下王のせめ、大族王を幻日王の失ひしがごとし。訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失ひし王ぞかし。漢土にも仏法をほろぼしし王、みな賢王にせめられぬ。これは彼れにはにるべくもなし。仏法のかたうどなるやうにて、仏法を失ふ法師のかたうどをするゆへに、愚者はすべてしらず。智者なんども常の智人はしりがたし。天も下劣の天人は知らずもやあるらん。されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。法滅尽経に云く「吾般泥の後、五逆濁世に魔道興盛なり。魔沙門と作りて吾が道を壊乱せん。乃至、悪人転多く海中の沙の如く、善者は甚だ少なくして、若しは一、若しは二」云云。涅槃経に云く「是の如き等の涅槃経典を信ずるものは、爪上の土の如し。乃至是の経を信ぜざるものは、十方界の所有の地土の如し」等云云。此の経文は予が肝に染みぬ。当世日本国には、我も法華経を信じたり信じたり、諸人の語のごときんば、一人も謗法の者なし。此の経文には、末法に謗法の者十方の地土、正法の者爪上の土等云云。経文と世間とは水火なり。世間の人の云く、日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云。又経文には天地せり。法滅尽経には善者一・二人。涅槃経には信ずる者は爪上の土等云云。経文のごとくならば、日本国は但日蓮一人こそ爪上の土、一・二人にては候へ。経文をや用ゐるべき、世間をや用ゐるべき。
 問うて云く、涅槃経の文には、涅槃経の行者は爪上の土等云云。汝が義には法華経等云云 如何。答へて云く、涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云。妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云。大経と申すは涅槃経なり。涅槃経には法華経を極と指して候なり。而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは、主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり。涅槃経をよむと申すは、法華経をよむを申すなり。譬へば賢人は国主を重んずる者をば、我をさぐれども悦ぶなり。涅槃経は法華経を下げて我をほむる人をば、あながちに敵とにくませ給ふ。此の例をもって知るべし。華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣るとよむは、彼々の経々の心にはそむくべし。此れをもって知るべし、法華経をよむ人の此の経をば信ずるやうなれども、諸経にても得道なるとをもうは、此の経をよまぬ人なり。例せば、嘉祥大師は法華玄と申す文十巻を造りて法華経をほめしかども、妙楽かれをせめて云く「毀り其の中に在り、何んが弘讃と成さん」等云云。法華経をやぶる人なり。されば嘉祥は落ちて、天台につかひて法華経をよまず、我経をよむならば悪道まぬかれがたしとて、七年まで身を橋とし給ひき。慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文十巻あり。伝教大師せめて云く「法華経を讃むと雖も還りて法華の心を死す」等云云。此等をもってをもうに、法華経をよみ讃歎する人々の中に無間地獄は多く有るなり。嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし。弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや。嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも、猶や已前の法華経誹謗の罪やきへざるらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて、千劫阿鼻に堕ちぬ。されば弘法・慈覚・智証等は設ひひるがへす心ありとも、尚法華経をよむならば重罪きへがたし。いわうやひるがへる心なし。又法華経を失ひ、真言教を昼夜に行ひ、朝暮に伝法せしをや。世親菩薩・馬鳴菩薩は小をもて大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。世親菩薩は仏説なれども、阿含経をばたわぶれにも舌の上にをかじとちかひ、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて、小乗をやぶり給ひき。嘉祥大師は天台大師を請じ奉りて百余人の智者の前にして、五体を地になげ、遍身にあせをながし、紅のなんだをながして、今よりは弟子を見じ、法華経をかうぜじ、弟子の面をまぼり法華経をよみたてまつれば、我が力の此の経を知るににたりとて、天台よりも高僧老僧にてをはせしが、わざと人のみるとき、をひまいらせて河をこへ、かうざにちかづきてせなかにのせまいらせ給ひて高座にのぼせたてまつり、結句御臨終の後には、隋の皇帝にまいらせ給ひて、小児が母にをくれたるがごとくに、足をすりてなき給ひしなり。嘉祥大師の法華玄を見るに、いたう法華経を謗じたる疏にはあらず。但法華経と諸大乗経とは、門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候へ。此れが謗法の根本にて候か。華厳の澄観も、真言の善無畏も、大日経と法華経とは理は一つとこそかかれて候へ。嘉祥とがあらば、善無畏三蔵も脱れがたし。
 されば善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてて他国にいたり、殊勝・招提の二人にあひて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみえしか。しかれども大日経を習ひしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやをもひけん。始めはいたう其の義もなかりけるが、漢土にわたりて玄宗皇帝の師となりぬ。天台宗をそねみ思ふ心つき給ひけるかのゆへに、忽ちに頓死して、二人の獄卒に鉄の縄七つつけられて閻魔王宮にいたりぬ。命いまだつきずといゐてかへされしに、法華経謗法とやをもひけん、真言の観念・印・真言等をばなげすてて、法華経の「今此三界」の文を唱へて、縄も切れかへされ給ひぬ。又雨のいのりををほせつけられたりしに、忽ちに雨は下りたりしかども、大風吹きて国をやぶる。結句死し給ひてありしには、弟子等集まりて臨終いみじきやうをほめしかども、無間大城に堕ちにき。問うて云く、何をもってかこれをしる。答へて云く、彼の伝を見るに云く「今畏の遺形を観るに、漸く加縮小し、黒皮隠々として、骨其れ露はなり」等云云。彼の弟子等は死後に地獄の相の顕はれたるをしらずして、徳をあぐなどをもへども、かきあらはせる筆は畏が失をかけり。死してありければ身やうやくつづまりちひさく、皮はくろし、骨あらわなり等云云。人死して後、色の黒きは地獄の業と定むる事は仏陀の金言ぞかし。善無畏三蔵の地獄の業はなに事ぞ。幼少にして位をすてぬ。第一の道心なり。月氏五十余箇国を修行せり。慈悲の余りに漢土にわたれり。天竺・震旦・日本・一閻浮提の内に真言を伝へ鈴をふる、この人の功徳にあらずや。いかにとして地獄には堕ちけると後生ををもはん人々は御尋ねあるべし。
 又金剛智三蔵は南天竺の大王の太子なり。金剛頂経を漢土にわたす。其の徳善無畏のごとし。又互ひに師となれり。而るに金剛智三蔵勅宣によて雨の祈りありしかば七日が中に雨下る。天子大いに悦ばせ給ふほどに、忽ちに大風吹き来たる。王臣等けうさめ給ひて、使ひをつけて追はせ給ひしかども、とかうのべて留まりしなり。結句は姫宮の御死去ありしに、いのりをなすべしとて、身の代に殿上の二の女子七歳になりしを薪につみこめて、焼き殺せし事こそ無慚にはおぼゆれ。而れども姫宮もいきかへり給はず。
 不空三蔵は金剛智と月支より御ともせり。此等の事を不審とやをもひけん。畏と智と入滅の後、月氏に還りて竜智に値ひ奉り、真言を習ひなをし、天台宗に帰伏してありしが、心計りは帰れども、身はかへる事なし。雨の御いのりうけ給はりたりしが、三日と申すに雨下る。天子悦ばせ給ひて我と御布施ひかせ給ふ。須臾ありしかば、大風落ち下りて内裏をも吹きやぶり、雲閣月卿の宿所一所もあるべしともみえざりしかば、天子大いに驚きて宣旨なりて風をとどめよ。且くありては又吹き又吹きせしほどに、数日が間やむことなし。結句は使ひをつけて追ひてこそ、風もやみてありしか。此の三人の悪風は、漢土日本の一切の真言師の大風なり。さにてあるやらん。去ぬる文永十一年四月十二日の大風は、阿弥陀堂加賀法印、東寺第一の智者の雨のいのりに吹きたりし逆風なり。善無畏・金剛智・不空の悪法を、すこしもたがへず伝へたりけるか。心にくし、心にくし。
 弘法大師は去ぬる天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏祈雨して七日が内に雨を下らす。但京中にふりて田舎にそそがず。次に弘法承け取りて一七日に雨気なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より和気真綱を使者として、御幣を神泉苑にまいらせたりしかば、雨下る事三日。此れをば弘法大師並びに弟子等、此の雨をうばひとり、我が雨として、今に四百余年、弘法の雨という。慈覚大師の夢に日輪をいしと、弘法大師の大妄語に云へる、弘仁九年の春大疫をいのりしかば、夜中に大日輪出現せりと云云。成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に、日輪夜中に出でしという事なし。慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に日輪をいるとゆめにみるは、吉夢という事有りやいなや。修羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其の矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡ぼす。日本の神武天皇の御時、度美長と五瀬命と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云く、我はこれ日天の子孫なり。日に向かひ奉りて弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと云云。阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎょしんなりしが、をどろいて諸臣に向かひて云く、日輪天より地に落つとゆめにみる。諸臣の云く、仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。我が国は殊にいむべきゆめなり。神をば天照という、国をば日本という。又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給へる太子なり。慈覚大師は大日如来を叡山に立てて釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此の夢出現せり。例せば漢土の善導が、始めは密州の明勝といゐし者に値ひて法華経をよみたりしが、後には道綽に値ひて法華経をすて観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生・百即百生と定めて、此の義を成ぜんがために、阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶ふやいなや、毎夜夢の中に常に一の僧有り、来たりて指授すと云云。乃至、一経法の如くせよ。乃至、観念法門経等云云。法華経には「若し法を聞くこと有らん者は一りとして成仏せずということ無けん」。善導は「千の中に一も無し」等云云。法華経と善導とは水火なり。善導は観経をば十即十生・百即百生と。無量義経に云く観経は「未だ真実を顕はさず」等云云。無量義経と楊柳房とは天地なり。此れを阿弥陀仏の僧と成りて、来たりて真なりと証せば、あに真事ならんや。抑 阿弥陀は法華経の座に来たりて、舌をば出だし給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此れをもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。
 問うて云く、弘法大師の心経の秘鍵に云く「時に弘仁九年の春天下大疫す。爰に皇帝自ら黄金を筆端に染め紺紙を爪掌に握りて般若心経一巻を書写し奉りたまふ。予講読の撰に範りて経旨の宗を綴り未だ結願の詞を吐かざるに、蘇生の族途に彳ずむ。夜変じて日光赫々たり。是れ愚身の戒徳に非ず。金輪の御信力の所為なり。但神舎に詣でん輩は此の秘鍵を誦し奉れ。昔、予、鷲峰説法の莚に陪して、親しく其の深文を聞きたてまつる。豈に其の義に達せざらんや」等云云。又孔雀経の音義に云く「弘法大師帰朝の後、真言宗を立てんと欲す。諸宗朝廷に群集して即身成仏の義を疑ふ。大師智拳の印を結びて南方に向かふに、面門俄に開きて金色の毘盧遮那と成り、即便本体に還帰す。入我々入の事、即身頓証の疑ひ、此の日釈然たり。然るに真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅の道、彼の時より建立しぬ」。又云く「此の時に諸宗の学徒大師に帰して、始めて真言を得て、請益し習学す。三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄等、皆其の類なり」。弘法大師の伝に云く「帰朝泛舟の日発願して云く、我が所学の教法若し感応の地有らば、此の三鈷其の処に到るべしと。仍って日本の方に向かひて三鈷を抛げ上ぐるに遥かに飛びて雲に入る。十月に帰朝す」云云。又云く「高野山の下に入定の所を占む。乃至、彼の海上の三鈷、今新たに此に在り」等云云。此の大師の徳無量なり。其の両三を示す。かくのごとくの大徳あり。いかんが此の人を信ぜずして、かへりて阿鼻地獄に堕つるといはんや。
 答へて云く、予も仰ぎて信じ奉る事かくのごとし。但し古への人々も不可思議の徳ありしかども、仏法の邪正は其れにはよらず。外道が或は恒河を耳に十二年留め、或は大海をすひほし、或は日月を手ににぎり、或は釈子を牛羊となしなんどせしかども、いよいよ大慢ををこして生死の業とこそなりしか。此れをば天台云く「名利を邀め見愛を増す」とこそ釈せられて候へ。光宅が忽ちに雨を下らし須臾に花を感ぜしをも、妙楽は「感応斯の若きも猶理に称はず」とこそかかれて候へ。されば天台大師の法華経をよみて須臾に甘雨を下らせ、伝教大師の三日が内に甘露の雨をふらしてをはせしも、其れをもって仏意に叶ふとはをほせられず。弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかかせ給へる御ふでは、智恵かしこからん人は用ゐるべからず。いかにいわうや上にあげられて候徳どもは不審ある事なり。「弘仁九年の春天下大疫」等云云。春は九十日、何れの月何れの日ぞ〈是一〉。又弘仁九年には大疫ありけるか〈是二〉。又「夜変じて日光赫々たり」云云。此の事第一の大事なり。弘仁九年は嵯峨天皇の御宇なり。左史右史の記に載せたりや〈是三〉。設ひ載せたりとも信じがたき事なり。成劫二十劫・住劫九劫・已上二十九劫が間にいまだ無き天変なり。夜中に日輪の出現せる事 如何。又如来一代の聖教にもみえず。未来に夜中に日輪出づべしとは三皇五帝の三墳五典にも載せず。仏経のごときんば壊劫にこそ二つの日三つの日乃至七つの日は出づべしとは見ゆれども、かれは昼のことぞかし。夜日出現せば東西北の三方は 如何。設ひ内外の典に記せずとも現に弘仁九年の春、何れの月、何れの日、何れの夜の、何れの時に日出づるという。公家・諸家・叡山等の日記あるならばすこし信ずるへんもや。次下に「昔、予、鷲峰説法の莚に陪して、親しく其の深文を聞く」等云云。此の筆を人に信ぜさせしめんがためにかまへ出だす大妄語か。されば霊山にして法華経は戯論、大日経は真実と仏の説き給ひけるを、阿難・文殊が誤りて妙法華経をば真実とかけるか、いかん。いうにかいなき淫女、破戒の法師等が歌をよみて雨らす雨を、三七日まで下らさざりし人は、かかる徳あるべしや〈是四〉。孔雀経の音義に云く「大師智拳の印を結びて南方に向かふに、面門俄に開きて金色の毘盧遮那と成る」等云云。此れ又何れの王、何れの年時ぞ。漢土には建元を初めとし、日本には大宝を初めとして緇素の日記、大事には必ず年号のあるが、これほどの大事にいかでか王も臣も年号も日時もなきや。又次に云く「三論の道昌・法相の源仁・華厳の道雄・天台の円澄」等云云。抑 円澄は寂光大師、天台第二の座主なり。其の時何ぞ第一の座主義真、根本の伝教大師をば召さざりけるや。円澄は天台第二の座主、伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり。弟子を召さんよりは、三論・法相・華厳よりは、天台の伝教・義真の二人を召すべかりけるか。而も此の日記に云く「真言瑜伽の宗、秘密曼荼羅道彼の時より建立しぬ」等云云。此の筆は伝教・義真の御存生かとみゆ。弘法は平城天皇大同二年より弘仁十三年までは盛んに真言をひろめし人なり。其の時は此の二人現にをはします。又義真は天長十年までをはせしかば、其の時まで弘法の真言はひろまらざりけるか。かたがた不審あり。孔雀経の疏は弘法の弟子真済が自記なり、信じがたし。又邪見の者が公家・諸家・円澄の記をひかるべきか。又道昌・源仁・道雄の記を尋ぬべし。「面門俄に開きて金色の毘盧遮那と成る」等云云。面門とは口なり、口の開けたりけるか。眉間開くとかかんとしけるが誤りて面門とかけるか。ぼう書をつくるゆへにかかるあやまりあるか。「大師智拳の印を結びて南方に向かふに、面門俄に開きて金色の毘盧遮那と成る」等云云。涅槃経の五に云く「迦葉、仏に白して言さく、世尊我今是の四種の人に依らず。何を以ての故に、瞿師羅経の中の如き、仏瞿師羅が為に説きたまはく、若し天・魔・梵、破壊せんと欲するが為に変じて仏の像となり、三十二相八十種好を具足し荘厳し、円光一尋面部円満なること猶月の盛明なるがごとく、眉間の毫相白きこと珂雪に踰え、乃至、左の脇より水を出だし右の脇より火を出だす」等云云。
又六の巻に云く「仏迦葉に告げたまはく、我般涅槃して、乃至、後是の魔波旬漸く当に我が之の正法を沮壊すべし。乃至化して阿羅漢の身及び仏の色身と作らん。魔王此の有漏の形を以て無漏の身と作り我が正法を壊らん」等云云。弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此の涅槃経には魔、有漏の形をもって仏となって、我が正法をやぶらんと記し給ふ。涅槃経の正法は法華経なり。故に経の次下の文に云く「久しく已に成仏す」。又云く「法華の中の如し」等云云。釈迦・多宝・十方の諸仏は一切経に対して法華経は真実、大日経等の一切経は不真実等云云。弘法大師は仏身を現じて、華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。又三鈷の事殊に不審なり。漢土の人の日本に来たりてほりいだすとも信じがたし。已前に人をやつかわしてうづみけん。いわうや弘法は日本の人、かかる誑乱其の数多し。此等をもって仏意に叶ふ人の証拠とはしりがたし。
 されば此の真言・禅宗・念仏等やうやくかうなり来たる程に、人王第八十二代尊成隠岐の法王、権太夫殿を失はんと年ごろはげませ給ひけるゆへに、国主なればなにとなくとも師子王の兎を伏するがごとく、鷹の雉を取るやうにこそあるべかりし上、叡山・東寺・園城・奈良七大寺・天照太神・正八幡・山王・加茂・春日等に数年が間、或は調伏、或は神に申させ給ひしに、二日三日だにもささへかねて、佐渡国・阿波国・隠岐国等にながし失せて終にかくれさせ給ひぬ。調伏の上首御室は、但東寺をかへらるるのみならず、眼のごとくあひせさせ給ひし第一の天童勢多伽が頸切られたりしかば、調伏のしるし還著於本人のゆへとこそ見えて候へ。これはわづかの事なり。此の後定めて日本の国臣万民一人もなく、乾草を積みて火を放つがごとく、大山のくづれて谷をうむるがごとく我が国他国にせめらるる事出来すべし。
 此の事日本国の中に但日蓮一人計りしれり。いゐいだすならば殷の紂王の比干が胸をさきしがごとく、夏の桀王の竜蓬が頸を切りしがごとく、檀弥羅王の師子尊者が頸を刎ねしがごとく、竺の道生が流されしがごとく、法道三蔵のかなやきをやかれしがごとくならんずらんとは、かねて知りしかども、法華経には「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」ととかれ、涅槃経には「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれ」といさめ給えり。今度命ををしむならばいつの世にか仏になるべき、又何なる世にか父母師匠をもすくひ奉るべきと、ひとへにをもひ切って申し始めしかば、案にたがはず或は所をおひ、或はのり、或はうたれ、或は疵をかうふるほどに、去ぬる弘長元年〈辛酉〉五月十二日に御勘気をかうふりて、伊豆国伊東にながされぬ。又同じき弘長三年〈癸亥〉二月二十二日にゆりぬ。其の後弥菩提心強盛にして申せば、いよいよ大難かさなる事、大風に大波の起こるがごとし。昔の不軽菩薩の杖木のせめも我が身につみしられたり。覚徳比丘が歓喜仏の末の大難も此れには及ばじとをぼゆ。日本六十六箇国島二つの中に、一日片時も何れの所にすむべきやうもなし。古へは二百五十戒を持ちて忍辱なる事、羅云のごとくなる持戒の聖人も、富楼那のごとくなる智者も、日蓮に値ひぬれば悪口をはく。正直にして魏徴・忠仁公のごとくなる賢者等も日蓮を見ては理をまげて非とをこなう。いわうや世間の常の人々は犬のさるをみたるがごとく、猟師が鹿をこめたるににたり。日本国の中に一人として故こそあるらめという人なし。道理なり。人ごとに念仏を申す、人に向かふごとに念仏は無間に堕つるというゆへに。人ごとに真言を尊む、真言は国をほろぼす悪法という。国主は禅宗を尊む、日蓮は天魔の所為というゆへに。我と招けるわざわひなれば人ののるをもとがめず。とがむとても一人ならず。打つをもいたまず、本より存ぜしがゆへに。かういよいよ身もをしまずせめしかば、禅僧数百人、念仏者数千人、真言師百千人、或は奉行につき、或はきり人につき、或はきり女房につき、或は後家尼御前等につきて無尽のざんげんをなせし程に、最後には天下第一の大事、日本国を失はんと呪そする法師なり。故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾に頸をめせ。弟子等をば又或は頸を切り、或は遠国につかはし、或は籠に入れよと尼ごぜんたちいからせ給ひしかば、そのままに行はれけり。
 去ぬる文永八年〈辛未〉九月十二日の夜は相模国たつの口にて切らるべかりしが、いかにしてやありけん、其の夜はのびて依智というところへつきぬ。又十三日の夜はゆりたりととどめきしが、又いかにやありけん、さどの国までゆく。今日切る、あす切る、といゐしほどに四箇年というに、結句は去ぬる文永十一年〈太歳甲戌〉二月の十四日にゆりて、同じき三月二十六日に鎌倉へ入り、同じき四月の八日、平左衛門尉に見参してやうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ。同じき五月の十二日にかまくらをいでて此の山に入れり。これはひとへに父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国恩をほうぜんがために身をやぶり命をすつれども破れざればさてこそ候へ。又賢人の習ひ、三度国をいさむるに用ゐずば山林にまじわれということは定まれるれいなり。此の功徳は定めて上は三宝より下梵天・帝釈・日月までもしろしめしぬらん。父母も故道善房の聖霊も扶かり給ふらん。
 但し疑ひ念ふことあり。目連尊者は扶けんとをもいしかども母の青提女は餓鬼道に堕ちぬ。大覚世尊の御子なれども善星比丘は阿鼻地獄へ堕ちぬ。これは力のまますくはんとをぼせども自業自得果のへんはすくひがたし。故道善房はいたう弟子なれば日蓮をばにくしとはをぼせざりけるらめども、きわめて臆病なりし上、清澄をはなれじと執せし人なり。地頭景信がをそろしといゐ、提婆・瞿伽利にことならぬ円智・実城が上と下とに居てをどせしをあながちにをそれて、いとをしとをもうとしごろの弟子等をだにもすてられし人なれば、後生はいかんがと疑う。但一つの冥加には景信と円智・実城とがさきにゆきしこそ一つのたすかりとはをもへども、彼等は法華経の十羅刹のせめをかほりてはやく失せぬ。後にすこし信ぜられてありしは、いさかひの後のちぎりぎなり、ひるのともしびなにかせん。其の上いかなる事あれども子・弟子なんどいう者は不便なる者ぞかし。力なき人にもあらざりしが、さどの国までゆきしに一度もとぶらわれざりし事は、信じたるにはあらぬぞかし。それにつけてもあさましければ、彼の人の御死去ときくには火にも入り、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたたいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば末もとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず。但し各々二人は日蓮が幼少の師匠にてをはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしが、かへりて御弟子とならせ給ひしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、をひてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑ひおぼすべからず。
 問うて云く、法華経一部八巻二十八品の中に何物か肝心なる。答へて云く、華厳経の肝心は大方広仏華厳経、阿含経の肝心は仏説中阿含経、大集経の肝心は大方等大集経、般若経の肝心は摩訶般若波羅蜜経、双観経の肝心は仏説無量寿経、観経の肝心は仏説観無量寿経、阿弥陀経の肝心は仏説阿弥陀経、涅槃経の肝心は大般涅槃経。かくのごとくの一切経は皆如是我聞の上の題目、其の経の肝心なり。大は大につけ小は小につけて題目をもて肝心とす。大日経・金剛頂経・蘇悉地経等亦復かくのごとし。仏も又かくのごとし。大日如来・日月灯明仏・燃灯仏・大通仏・雲雷音王仏、是等も又名の内に其の仏の種々の徳をそなへたり。今の法華経も亦もってかくのごとし。如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即ち一部八巻の肝心、亦復一切経の肝心、一切の諸仏・菩薩・二乗・天人・修羅・竜神等の頂上の正法なり。
 問うて云く、南無妙法蓮華経と心もしらぬ者の唱ふると南無大方広仏華厳経と心もしらぬ者の唱ふると斉等なりや、浅深の功徳差別せりや。答へて云く、浅深等あり。疑って云く、其の心 如何。答へて云く、小河は露と涓と井と渠と江とをば収むれども大河ををさめず。大河は露乃至小河を摂むれども大海ををさめず。阿含経は井江等露涓ををさめたる小河のごとし。方等経・阿弥陀経・大日経・華厳経等は小河ををさむる大河なり。法華経は露・涓・井・江・小河・大河・天雨等の一切の水を一Hももらさぬ大海なり。譬へば身の熱き者の大寒水の辺にいねつればすずしく、小水の辺に臥しぬれば苦しきがごとし。五逆謗法の大一闡提の人、阿含・華厳・観経・大日経等の小水の辺にては大罪の大熱さんじがたし。法華経の大雪山の上に臥しぬれば五逆・誹謗・一闡提等の大熱忽ちに散ずべし。されば愚者は必ず法華経を信ずべし。各々経々の題目は易き事同じといへども、愚者と智者との唱ふる功徳は天地雲泥なり。譬へば大綱は大力も切りがたし。小力なれども小刀をもてばたやすくこれをきる。譬へば堅石をば鈍刀をもてば大力も破りがたし。利剣をもてば小力も破りぬべし。譬へば薬はしらねども服すれば病やみぬ。食は服せども病やまず。譬へば仙薬は命をのべ、凡薬は病をいやせども命をのべず。
 疑って云く、二十八品の中に何れか肝心なる。答へて云く、或は云く、品々皆事に随ひて肝心なり。或は云く、方便品・寿量品肝心なり。或は云く、方便品肝心なり。或は云く、寿量品肝心なり。或は云く、開・示・悟・入肝心なり。或は云く、実相肝心なり。問うて云く、汝が心 如何。答ふ、南無妙法蓮華経肝心なり。其の証 如何。答へて云く、阿難・文殊等、如是我聞等云云。問うて曰く、心 如何。答へて云く、阿難と文殊とは八年が間此の法華経の無量の義を一句一偈一字も残さず聴聞してありしが、仏の滅後に結集の時九百九十九人の阿羅漢が筆を染めてありしに、妙法蓮華経とかかせて次に如是我聞と唱へさせ給ひしは、妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。されば過去の灯明仏の時より法華経を講ぜし光宅寺の法雲法師は「如是とは将に所聞を伝へんとして前題に一部を挙ぐるなり」等云云。霊山にまのあたりきこしめしてありし天台大師は「如是とは所聞の法体なり」等云云。章安大師の云く、記者釈して曰く「蓋し序王とは経の玄意を叙し、玄意は文の心を述す」等云云。此の釈に文心とは題目は法華経の心なり。妙楽大師云く「一代の教法を収むること法華の文心より出づ」等云云。天竺は七十箇国なり、総名は月氏国。日本国は六十箇国、総名は日本国。月氏の名の内に七十箇国乃至人畜珍宝みなあり。日本と申す名の内に六十六箇国あり。出羽の羽も奥州の金も乃至国の珍宝人畜乃至寺塔も神社も、みな日本と申す二字の名の内に摂まれり。天眼をもっては、日本と申す二字を見て六十六国乃至人畜等をみるべし。法眼をもっては、人畜等の此に死し彼しこに生ずるをもみるべし。譬へば人の声をきいて体をしり、跡をみて大小をしる。蓮をみて池の大小を計り、雨をみて竜の分斉をかんがう。これはみな一に一切の有ることわりなり。阿含経の題目には大旨一切はあるやうなれども、但小釈迦一仏ありて他仏なし。華厳経・観経・大日経等には又一切有るやうなれども、二乗を仏になすやうと久遠実成の釈迦仏なし。例せば華さいて菓ならず、雷なって雨ふらず、鼓あて音なし、眼あて物をみず、女人あて子をうまず、人あて命なし又神なし。大日の真言・薬師の真言・阿弥陀の真言・観音の真言等又かくのごとし。彼の経々にしては大王・須弥山・日月・良薬・如意珠・利剣等のやうなれども、法華経の題目に対すれば雲泥の勝劣なるのみならず皆各々当体の自用を失ふ。例せば衆星の光の一つの日輪にうばはれ、諸の鉄の一つの磁石に値ひて利精のつき、大剣の小火に値ひて用を失ひ、牛乳・驢乳等の師子王の乳に値ひて水となり、衆狐が術、一犬に値ひて失ひ、狗犬が小虎に値ひて色を変ずるがごとし。南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も、南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も、一切の諸仏諸経諸菩薩の用も、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。彼の経々は妙法蓮華経の用を借らずば、皆いたづらものなるべし。当時眼前のことはりなり。日蓮が南無妙法蓮華経と弘むれば、南無阿弥陀仏の用は月のかくるがごとく、塩のひるがごとく、秋冬の草のかるるがごとく、氷の日天にとくるがごとくなりゆくをみよ。
 問うて云く、此の法実にいみじくば、など迦葉・阿難・馬鳴・竜樹・無著・天親・南岳・天台・妙楽・伝教等は、善導が南無阿弥陀仏とすすめて漢土に弘通せしがごとく、恵心・永観・法然が日本国を皆阿弥陀仏になしたるがごとく、すすめ給はざりけるやらん。答へて云く、此の難は古への難なり、今はじめたるにはあらず。馬鳴・竜樹菩薩等は仏滅後六百年七百年等の大論師なり。此の人々世にいでて大乗経を弘通せしかば、諸々の小乗の者疑って云く、迦葉・阿難等は仏の滅後二十年四十年住寿し給ひて正法をひろめ給ひしは、如来一代の肝心をこそ弘通し給ひしか。而るに此の人々は但苦・空・無常・無我の法門をこそ詮とし給ひしに、今馬鳴・竜樹等はかしこしといふとも迦葉・阿難等にはすぐべからず〈是一〉。迦葉は仏にあひまいらせて解りをえたる人なり。此の人々は仏にあひたてまつらず〈是二〉。外道は常楽我浄と立てしを、仏世に出でさせ給ひて苦・空・無常・無我と説かせ給ひき。此のものどもは常楽我浄といへり〈是三〉。されば仏も御入滅なりぬ。又迦葉等もかくれさせ給ひぬれば第六天の魔王が此のものどもが身に入りかはりて仏法をやぶり外道の法となさんとするなり。されば仏法のあだをば頭をわれ、頸をきれ、命をたて、食を止めよ、国を追へと諸の小乗の人々申せしかども、馬鳴・竜樹等は但一・二人なり。昼夜に悪口の声をきき朝暮に杖木をかうぶりしなり。而れども此の二人は仏の御使ひぞかし。正しく摩耶経には六百年に馬鳴出で、七百年に竜樹出でんと説かれて候。其の上、楞伽経等にも記せられたり。又付法蔵経には申すにをよばず。されども諸の小乗のものどもは用ゐず但理不尽にせめしなり。「如来現在 猶多怨嫉 況滅度後」の経文は此の時にあたりて少しつみしられけり。提婆菩薩の外道にころされ、師子尊者の頸をきられし此の事をもっておもひやらせ給へ。
 又仏滅後一千五百余年にあたりて月氏よりは東に漢土といふ国あり。陳・隋の代に天台大師出世す。此の人の云く、如来の聖教に大あり小あり顕あり密あり権あり実あり。迦葉・阿難等は一向に小を弘め、馬鳴・竜樹・無著・天親等は権大乗を弘めて実大乗の法華経をば、或は但指をさして義をかくし、或は経の面をのべて始中終をのべず、或は迹門をのべて本門をあらはさず、或は本迹ありて観心なしといゐしかば、南三北七の十流が末、数千万人時をつくりどっとわらふ。世の末になるままに不思議の法師も出現せり。時にあたりて我等を偏執する者はありとも、後漢の永平十年〈丁卯〉の歳より、今陳・隋にいたるまでの三蔵人師二百六十余人を、ものもしらずと申す上、謗法の者なり悪道に堕つという者出来せり。あまりのものぐるはしさに、法華経を持ちて来たり給へる羅什三蔵をも、ものしらぬ者と申すなり。漢土はさてもをけ、月氏の大論師竜樹・天親等の数百人の四依の菩薩もいまだ実義をのべ給はずといふなり。此れをころしたらん人は鷹をころしたるものなり。鬼をころすにもすぐべしとののしりき。又妙楽大師の時、月氏より法相・真言わたり、漢土に華厳宗の始まりたりしを、とかくせめしかばこれも又さはぎしなり。
 日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給ひ、天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給ひしかば、在世の外道・漢土の道士、日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇は同じく小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其れを持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生まれたり。後周の宇文・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし、国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師出現せば、修羅と帝釈と、項羽と高祖と一国に並べるなるべし。諸人手をたたき舌をふるふ。在世には仏と提婆が二つの戒壇ありてそこばくの人々死ににき。されば他宗にはそむくべし。我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとののしりあえりき。されども経文分明にありしかば叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。されば内証は同じけれども法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・竜樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱き人には強きかたうど有りて扶くるこれなり。
 問うて云く、天台伝教の弘通し給はざる正法ありや。答ふ、有り。求めて云く、何物ぞや。答へて云く、三つあり、末法のために仏留め置き給ふ。迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、天台・伝教等の弘通せさせ給はざる正法なり。求めて云く、其の形貌 如何。答へて云く、一つには日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂 宝塔の内の釈迦・多宝・外の諸仏並びに上行等の四菩薩脇士となるべし。二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱ふべし。此の事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱ふるなり。例せば風に随ひて波の大小あり、薪によて火の高下あり、池に随ひて蓮の大小あり、雨の大小は竜による、根ふかければ枝しげし、源遠ければ流れながしというこれなり。周の代の七百年は文王の礼孝による。秦の世ほどもなし、始皇の左道なり。日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超え、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是れはひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓なる、夏はあたたかに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや。
 「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布して、断絶して悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等をして其の便りを得しむること無けん」等云云。此の経文若しむなしくなるならば舎利弗は華光如来とならじ、迦葉尊者は光明如来とならじ、目オは多摩羅跋栴檀香仏とならじ、阿難は山海恵自在通王仏とならじ、摩訶波闍波提比丘尼は一切衆生喜見仏とならじ、耶輸陀羅は具足千万光相仏とならじ。三千塵点も戯論、五百塵点も妄語となりて、恐らくは教主釈尊は無間地獄に堕ち、多宝仏は阿鼻の炎にむせび、十方の諸仏は八大地獄を栖とし、一切の菩薩は一百三十六の苦しみをうくべし。いかでかその義あるべき。其の義なくば日本国は一同の南無妙法蓮華経なり。されば花は根にかへり、真味は土にとどまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
 建治二年〈太歳丙子〉七月二十一日、之れを記す。
 甲州波木井の郷蓑歩の岳より安房国東条郡清澄山浄顕房・義城房の本へ奉送す。

 


 

 

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