本尊問答抄

 

解説

 

『日興本』静岡県北山本門寺蔵、但し後半三分の一ほどを欠す。『日源本』静岡県実相寺蔵、「正応三年庚寅七月十五日書写之 日源」との識語がある。『富久成寺本』、茨城県富久成寺蔵、同寺では『日興本』と伝えるが異筆である。奥に「弘安五年月日」とあるが、これは本抄系年か書写年次か判断しがたい。書写年次とすれば、『日興本』ではないものの、宗祖在世の写本ということになろう。ちなみに本写本の奥に稲田海素氏の「鎌倉時代の古筆」との記載がある。『日常目録』(写本の部)『日祐目録』(写本の部)『富士一跡門徒存知事』『日朝本目録』『平賀本目録』『刊本録内』等所収。日全の『法華問答正義抄』第六・第十六に引文される。/本抄は、宗祖初等教育時の師である浄顕房に曼荼羅本尊を送られるとともに、その妙法曼荼羅本尊の勝れたるゆえんを書き送られたものである。冒頭末代悪世の凡夫は『法華経』の題目をもって本尊とすることが示され、その理由として『法華経』の題目は釈尊始め諸仏能生の根源である故とされている。ここに「釈迦をもって本尊とせずして法華経の題目を本尊とする」(趣意)と述べられていることに注意。次に真言破折が重点的になされる。これは蒙古調伏が真言によってなされているとの危機感と、清澄寺が密教色の濃い台密寺院であったことによるものと思われる。すなわち真言経は漢土に仏法が伝えられて六百年後に渡ってきた故に、漢土日本においてしっかりと『法華経』との勝劣が示されておらず、それが今日『法華経』を凌駕して流布するゆえんであるとしている。しかし『法華経』が勝れ真言経が劣ることは明白であり、それは経の勝劣は勿論、現証においても明白であるとし、承久の変において後鳥羽上皇等が真言の祈祷によって即時に滅んだことが挙げられている。その悪法は関東にまで及び、今幕府は蒙古調伏を真言によって行なう故に、諸天の計らいで国主は罰せられるであろうとしている。最後にこれらの現証により『法華経』によって成仏を期すべきことをしっかりと心得、書き送った御本尊に現世安穏後生善処を祈るべきことを要請されている。なお、文中宗祖が安房国長狭郡東条郷片海の海人の子であること、十二才で清澄寺に登ったこと、その後諸国を廻って修学したことなどが述べられている。

 


 

問うていう、

 末代悪世において仏教の信仰を心がける凡夫は、何を本尊として定めればよいのか。

 

答えていう、

 法華経の題目を本尊とすべきである。

 

問うていう、

 それはどの経文、どの人の解釈によるのか。

 

答う、

 法華経第四巻の法師品には「薬王よ。この経を説く所、あるいは読む所、あるいは暗誦する所、あるいは書く所、またはこの経のある所は、どこであっても、七種の宝石で飾られた高く広い立派な塔を建てよ。この法華経の中には仏の全身がおわすので、別に舎利を安置する必要はない」とあり、涅槃経第四巻の如来性品には「また次に迦葉よ。諸仏が師とするものは法である。そのために仏は法を敬い供養する。法が常住であれば、諸仏もまた常住である」とあり、天台大師の法華三昧懺儀には「道場の中には適宜な高座を設けて、ただ法華経一部八巻を安置せよ。仏像や舎利やその他の経典を安置してはいけない。法華経一部だけを置け」と説かれている。

 

疑っていう、

 天台大師の摩訶止観の第二に説かれている四種三昧の御本尊は阿弥陀仏であり、不空三蔵が翻訳した法華経の観智儀軌では釈迦と多宝の二仏を本尊としている。どうしてこれらの義に相違して、法華経の題目を本尊とするのか。

 

答えていう、

 これは自分勝手な考えではなく、前に挙げた経文や天台大師のご釈文によるのである。

ただし摩訶止観に説かれる四種三昧の本尊が阿弥陀仏であるというのは、四種三昧のうち常坐三昧・常行三昧・非行非坐三昧の時の本尊が阿弥陀仏であり、

これは文殊問経や般舟三昧経・請観音経などの説に基づいている。これらは真実の教えである法華経が説かれる已前の、釈尊がいまだその御本意を説かれなかった経典である。一方、四種三昧の中の半行半坐三昧に二種類あり、一つは方等経の七仏・八菩薩を本尊とする方等三昧であり、二つめは法華経の釈迦・多宝の二仏を本尊とする法華三昧であるが、前に挙げた法華三昧懺儀の文から考えた場合、これは法華経を本尊としなければいけない。

不空三蔵が訳した法華経の観智儀軌は宝塔品第十一の経文に基づいて、法華経の教主釈尊と証明を加えた多宝如来を本尊としているが、これは法華経の本意ではない。それに対して法華経の題目は、釈尊と多宝如来、そして十方世界の諸仏が定めた御本尊であり、法華経の行者が正しく信ずべき本尊である。

 

問うていう、

 日本国には倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華の十宗があるが、これらの諸宗は本尊がそれぞれ違っている。倶舎・成実・律の小乗の三宗は三蔵教の教主たる劣応身の小釈迦を本尊とし、法相・三論の二宗は通教の教主である勝応身の大釈迦を本尊とする。華厳宗は蓮華台上の盧遮那報身の釈尊を本尊とし、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗は始成正覚の釈迦をそれぞれ本尊とする。これに対して、どうして天台宗は法華経を本尊とするのか。

 

答う、

 諸宗が仏を本尊とするのに対して、天台宗のみが法華経を本尊とするには、しかるべき理由がある。

 

問う、

 その理由とは何であろうか。そもそも、仏と経とはどちらが勝れているのであろうか。

 

答えていう、

 本尊とは最も勝れたものを用いなければいけない。たとえば儒教では三皇・五帝を本尊とするように、仏教でも釈尊を本尊としなければならない。

 

問うていう、

 それならばどうして釈尊を本尊としないで、法華経の題目を本尊とするのか。

 

答う、

 それは前に引用した経文や釈文をよく見られよ。けっして私の勝手な考えではない。釈尊と天台大師は法華経を本尊と定め置かれた。そのゆえに末代の今、日蓮も釈尊や天台大師にならって、法華経を本尊とするのである。その理由は、法華経は釈尊を生んだ父母であり、また諸仏の眼目であって、釈尊も大日如来も、十方世界の諸仏もみな法華経からお生まれになったのである。よって、今は生みの親の法華経を本尊とするのである。

 

問う、

 その証拠は何か。

 

答う、

 法華経の結経である普賢経に「この大乗経典は仏たちの宝蔵であり、十方三世の仏たちの眼目であり、三世の多くの如来を生む種である」とあり、また「この大乗経典は仏たちの眼であり、仏たちはこれによって肉眼・天眼・恵眼・法眼・仏眼の五眼を具えられた。法身・報身・応身の仏の三身はこの経典から生まれる。この経典は大いなる仏法のあかしであり、仏の悟りである涅槃海の証明の印である。その涅槃海から清浄な仏の三身は生まれる。そして、この三身こそが人間や天衆から供養されることにより、福徳をもたらす最勝の田地である」と説かれている。これらの経文によれば、仏は生まれる方で、法華経は生む方である。仏は身体で、法華経はそのたましいである。よって本来、仏の木像や絵像の開眼供養は専ら法華経によって奉修しなければならない。現在、一般に行なわれているように木像や絵像を造って、仏眼尊の印と大日如来の真言によって開眼供養をすることは、まったくの誤りである。

 

問うていう、

 法華経を本尊とするのと、大日如来を本尊とするのとでは、どちらが勝れているのか。

 

答う、

 弘法大師や慈覚大師・智証大師の考えに従えば、大日如来は勝れ、法華経は劣ることになる。

 

問う、

 それはどういうことか。

 

答えていう、

 弘法大師の秘蔵宝鑰には十種の心のあり方を示し、その中に「第八法華経、第九華厳経、第十大日経等」と見える。これは教理の浅いものから深いものへの順序を述べたものである。また慈覚大師の金剛頂経疏と蘇悉地経略疏、および智証大師の大日経旨帰などには「大日経第一、法華経第二」等と述べられている。

 

問う、

 あなたはこれをどう考えるか。

 

答う、

 釈尊と多宝如来と十方世界の諸仏は「仏が説いたすべての経典の中では法華経が第一である」と定められている。

 

問う、

 今の日本国中の天台・真言等の僧たちをはじめ、国王・臣民などのすべての人々は「どうして日蓮法師ほどの分際で、弘法・慈覚・智証の大師がたに勝るというのか」と疑うであろうが、この点はどうか。

 

答う、

 日蓮が反論して言えば、それならば、弘法・慈覚・智証などの大師がたは釈迦・多宝の二仏や十方世界の仏たちに勝っているというのか〈これが第一の疑問である〉。

今の日本の国王から民衆にいたるまで、すべての人々は教主釈尊の御子である。その父である釈尊の最後の御遺言である涅槃経には「法を依りどころとして、人師の説に依ってはいけない」とある。今、「法華経は最もすぐれた経典である」と言うのは、まさしく「法をよりどころ」とすることによる。このため「日蓮法師ほどの分際で、弘法・慈覚・智証の大師がたに勝るというのか」と疑われる僧たちや国王、また臣民やそれに従う者から牛馬に至るまで、みな父である釈尊の御遺言に背く不孝の者ではないか〈これが第二の疑問である〉。

 

問う、

 弘法大師は法華経を読まれなかったのだろうか。

 

答う、

 弘法大師もすべての経典を読まれた。ただ法華経・華厳経・大日経に説かれる教理の浅深によってその勝劣を定められた際に、法華経の経文を「この法華経は多くの仏たちの秘蔵の教えであり、諸経の中では最も下にある」とか、「薬王よ、汝に告げる。わたしは多くの経を説いたが、その中で法華は最も第三である」と、読み間違われてしまった。

 また慈覚大師や智証大師も「多くの経典の中では、法華経は上中下の中にある」「法華経は最も第二である」などと読み替えられてしまった。先にも述べたように、釈尊や多宝如来および大日如来などのすべての仏たちは、法華経をすべての経典と比較して、「法華経が最も第一である」「法華経は最もその上にある」と明確に説かれている。果たして釈尊や十方世界の仏たちと慈覚・智証・弘法の三大師とでは、どちらを根本とすべきであろうか。

「所詮、日蓮ごときが言うことだから」と言って、釈尊や十方世界の仏たちの御意に背いて、三大師の考えに従ってしまって良いのかどうか、よくよく思案すべきである。

 

問う、

 弘法大師は讃岐の国の人で、勤操僧正の弟子である。三論宗や法相宗などの六宗を習い極めて、去る延暦二十三年(804)五月には桓武天皇の勅宣をたまわって中国に渡り、順宗皇帝の勅許を得て、青竜寺の恵果和尚より真言の大法を伝えられた。恵果和尚は大日如来から七代目の相承であられる。たとえ人は変わろうとも、法門は大日如来と同じである。それは瓶の水を別の瓶へ移すようなものである。大日如来から金剛薩P・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と入れる瓶は相違しても、伝えられる中の水は同じ真言の法門である。弘法大師は恵果和尚から真言の法を習得し、三千余里の海を越えて日本国に帰られて、平城・嵯峨・淳和の三天皇に授け申し上げた。去る弘仁十四年(823)正月十九日に東寺建立の勅許を賜わり、真言の秘密の法を弘通された。したがって日本の国において真言の金剛鈴を振り、また金剛杵を持つ人で弘法大師の弟子でないものは一人もいない。

 また慈覚大師は下野の国の人で、広智菩薩の弟子である。大同三年(808)に十五歳で比叡山に登って伝教大師の弟子となり、15年の間、法相宗や三論宗などの六宗を習い、また法華宗と真言宗の二宗を学んで、承和五年(838)に中国へ渡られた。時あたかも仏教を弾圧して会昌天子と呼ばれた武宗帝の御世である。法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠などの天台および真言の学僧に値い申し上げて、顕教と密教の二道を習い極められた。特に真言密教の研究には十年もの年月を費やされた。大日如来からは九代目の相承である。帰朝後、嘉祥元年(848)には仁明天皇の御師となり、仁寿・斉衡年間に金剛頂経の疏七巻と蘇悉地経の疏七巻を造り、比叡山に総持院を建立して、第三の座主に就任された。日本天台宗における真言密教の始まりである。

 また智証大師は讃岐の国の人で、天長四年(827)に十四歳で比叡山に登り、義真和尚の御弟子となられた。日本国では義真・慈覚・円澄・光定等の大徳たちに八宗の教えを習い、去る仁寿元年(851)に文徳天皇の勅宣をたまわって中国に渡り、唐の宣宗皇帝の大中年間に法全阿闍梨や良Z和尚等の諸師に七年間、顕教および密教を学ばれ、天安二年(858)に日本に帰朝して、文徳天皇や清和天皇の御師となられた。このように、代々の天皇や臣民たちが現世安穏・後生善処のために、この三人の大師を日月のように仰ぎ尊んで帰依したので、一般の愚かな者たちはただ仰いで信ずるばかりであった。涅槃経の「法を依りどころとして、人師の説に依ってはいけない」という釈尊の誡めに従う限りは、仏の法に依らずして、弘法等の人師に依ることは決して許されることではない。

 

(問う)、

 それでは、このような事態を招いた原因は何か。

 

答う、

 そもそも釈尊が御入滅になってから一千年の正法時代の間、インドに仏法が流布した順序をいえば、初めの五百年には小乗教、その後の五百年には大乗教がそれぞれ流布し、小乗と大乗、権教と実教との争いはあったが、顕教と密教の区別ははっきりしなかった。

 次の像法時代に入って十五年目に仏法がはじめて中国に渡った。当初は儒教と仏教との争いがあり、その勝劣は決まらなかったが、その後、徐々に仏法が流布するにつれて小乗と大乗、権教と実教の論争が生じた。しかし、その論争も取り立てて言うほどもなかったが、中国に仏法が渡って600年の頃、玄宗皇帝の御世に善無畏・金剛智・不空の三師がインドから来られて真言宗を立てた時に、華厳宗や法華宗などは思いの外に格下げられてしまった。そのために、上は皇帝から下は庶民に至るまで、真言と法華経とは天地雲泥の違いであると人びとは思うようになった。その後、徳宗皇帝の御世に妙楽大師が出られて、真言は法華経に比べれば、はるかに劣っていると思われたが、強くそれを主張することもなかったので、法華と真言の勝劣を認識する人もいなかった。

 日本国へは人皇三十代の欽明天皇の御世に、百済国から仏法がはじめて渡ったが、最初の30年余りは神と仏が激しく争った。その後、34代の推古天皇の御代に聖徳太子がはじめて積極的に仏法を弘通された。高麗国の恵観と百済国の観勒の二人が来朝して三論宗を弘め、孝徳天皇の御世には道昭が中国へ渡って禅宗を伝え、天武天皇の御世には新羅国の智鳳が法相宗を伝えた。第44代の元正天皇の御世に善無畏三蔵が大日経を渡したものの、これは流布しなかった。聖武天皇の御世に審祥大徳と朗弁僧正が華厳宗を渡し、第46代の孝謙天皇の御世には鑑真和尚が律宗と法華経を伝えたけれども、律宗ばかり布教して、法華経は弘通しなかった。

 第50代の桓武天皇の御世、延暦二十三年(804)七月には伝教大師が勅宣を下されて中国へ渡り、妙楽大師のお弟子の道邃・行満の二師に値い申し上げて、法華宗の定学と恵学と道宣律師よりの菩薩戒を伝受し、順暁和尚という人から真言密教を伝えて、日本に帰朝された。真言と法華との勝劣については、中国の諸師の教えによっては定めることができないとお考えになり、改めて大日経と法華経のそれぞれの解釈を比較して見られたところ、大日経が法華経に劣るばかりでなく、一行阿闍梨の大日経疏は、天台宗の肝心を取って真言宗に入れたものということに気がつかれた。

 その後、弘法大師は真言宗の根本経典である大日経が下されたのを恨みに思われたのであろうか。真言宗を立てるためにあれこれと考えて、「法華経は大日経に劣るばかりでなく、華厳経よりも劣っている」と主張した。ああ、もし慈覚・智証の両大師がこの弘法大師の誤った意見を許さず、比叡山や園城寺に弘めなかったならば、これが日本国中に流布することもなかったろうに。

 かの両大師は、さすがに華厳経が法華経よりも勝れていることは認めなかったが、法華と真言の勝劣については、全く弘法大師に同意したために、結果として根本の本師である伝教大師の大怨敵となってしまったことは、彼らにとっては多少の計算外であったろうか。その後の日本国にも智恵あり徳も高い僧たちが多く世に出たが、弘法・慈覚・智証の三大師に超えることはなかったので、今に至るまでの四百年余りの間に、日本国では真言密教は法華経よりも勝れていると決まってしまった。中には、たまたま天台宗を学んで、真言は法華に及ばないことを知る者がいても、比叡山の座主や仁和寺の御室などの高貴な人々を恐れて、それを言い出すことはなかった。また天台宗を学びながらも、真言が法華に及ばないことをよく理解せず、かろうじて「真言と法華は同じである」と言う者がいても、真言宗の人々には「とんでもない誤り」と笑われて終わってしまった。その結果、日本国中にある数十万の寺社はことごとく真言宗になってしまった。まれに真言宗と法華宗を兼ねる寺があっても、主君はあくまでも真言であって、法華は家来のようであり、また両宗を兼学する人も心の中ではみな真言を信じているのである。諸寺・諸山の座主・長吏・検校・別当などの上に立つものがすべて真言僧なので、上の好みに下は従うという道理から、日本国中は一人も残らず真言宗である。よって日本国の人々は、口では経文を「法華最第一」と読んでも、心では「法華最第二」「法華最第三」と読んでいる。あるいは、身・口・意の三業すべてで「最第二」「最第三」と読むありさまである。身・口・意の三業すべてで「法華最第一」と読む法華経の行者は、伝教大師より以後、四百余年の間に一人もいなかった。ましてや法華経の分別功徳品に「よくこの経を持つ」と説かれる行者があろうとは思われない。法華経の法師品に「この経の行者は、仏の御在世ですら多くの怨嫉を受ける。まして仏が入滅した後は言うまでもない」と説かれているように、滅後末法の衆生は、上は天皇から下は庶民にいたるまで、みな法華経の大怨敵である。

 日蓮は東海道十五箇国のうち、第十二にあたる安房の国の長狭郡東条の郷の片海の海人の子である。十二歳の時に修学のために同じ郷の清澄寺に登りましたが、辺鄙な国であるために、寺とは言いましても、学問を修得した人はいなかった。そこで随分と諸国を渡り歩いて修行し、学問しましたが、未熟であり、また教えてくれる人もいなかったので、十宗の起源や勝劣について簡単には理解することができなかった。そんな中で、たまたま仏や菩薩に祈請し、すべての経論を考え見て、それを十宗に照らし合わせてみたところ、倶舎宗は諸法の実有を説く浅い教えであり、小乗の三蔵教に相当するようである。成実宗は小乗と大乗を兼ね合わせた教えであるが、間違いがある。律宗は本来は小乗教であるが、その後に権大乗教となり、今は実大乗教だと言っている。この他に伝教大師が道邃から伝えられた律宗があるが、これは今の律宗とは異なっている。法相宗は、元は権大乗教の内でも浅薄な法門だったが、徐々に付けあがって実大乗教と肩を並べ、ついには天台や華厳等の諸宗を破ろうとするにいたった。たとえば平将門や藤原純友が下臣の身でありながら、天皇に背いたようなものである。三論宗もまた権大乗教の内で、諸法の空を説く宗であるが、これも我が宗は実大乗教であると思っている。華厳宗は権大乗教の中ではあたかも摂政・関白のようなもので、他の諸宗よりは勝っている。しかし、実大乗の法華経を敵として立てた宗であるから、下臣の身分でありながら天皇と同等になろうとするようなものである。浄土宗も権大乗教の一つであるが、善導や法然が巧妙にその教えを作り上げて、浄土経典以外の諸経の教えは高く、無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経の浄土三部経の教えは低く、また正法および像法時代の機根は高く、末法時代の機根は低いので、末法の低い機根の衆生には低い教えの浄土教の念仏が相応すると言い、衆生の機根を本として諸経を打ち破り、その結果、釈尊一代の聖教をすべて振り捨てて、念仏の一門を建立した。あたかも、賢いけれども身分の低い者があれこれと方策をめぐらして、愚かな者を身分が高いと誉めあげて敬い、本当の賢人を捨ててしまうようなものである。禅宗では、釈尊が説かれたすべての経典の外に真実の法があると主張する。たとえば親を殺してその子を用い、臣下が主君を殺してその位に就くようなものである。

 真言宗というのはすべてが偽りでできている宗旨ですが、その偽りの根源は深く隠れており、思慮の足りない者には見破ることができないので、これまで長い間だまされ続けてきたのです。まずインドには真言宗という宗旨はないのに、あると言い張っている。先ずはその根拠を追求しなければならない。次に、大日経は伝来してここにあるのだから、それを法華経に引き合わせて勝劣を考えてみると、大日経は法華経よりは七重に劣っている。その証拠は大日経にも法華経にも明白である。〈ここではその証文を省略する〉。ところが真言宗の人々は、大日経は法華経より三重に勝れた主君であるとか、二重に勝れた主君であるなどと言っている。とんでもない誤りである。これは漢の劉聡が低い身分でありながら、晋を亡ぼして、その国王である愍帝に馬の手綱を取らせ、秦の趙高が民の位にありながら、謀略をめぐらして帝位についたようなものである。また、インドの大慢婆羅門が高慢のあまり、釈尊の像を高座の足に作って、その上に座ったさまと同じである。真言宗の誤りの根源について、中国には知る人はなく、日本でも誰も不審に思わずに、すでに四百余年が過ぎてしまった。

 このように仏法における正邪の判断が正しく行われていないので、国王の威勢も衰退し、ついには他国に侵略されて、今、この国は亡びようとしている。このことを知っているのは日蓮一人である。そこで仏法のため、国王の政道のために、諸経から必要な経文を集めて一巻の書を造り、立正安国論と名づけて故最明寺入道時頼殿に上呈した。

 その書の中で詳しく述べたけれども、愚かな人には分かりにくいだろうから、とにかく現実の証拠を挙げて述べてみよう。人王第82代の後鳥羽天皇は、後に隠岐の法王と呼ばれた。鎌倉幕府の執権の北条義時を打倒しようと決心され、その先立ちとして去る承久三年(1221)五月十五日に京都守護職にあった伊賀太郎判官光季を打ち捕りなされた。続いて、日本全国の兵を集めて相模国鎌倉の義時を討とうとされたものの、逆に義時の反撃にあって負けてしまわれた。結局、ご自身は隠岐の島へ、太子の土御門上皇は阿波の国、順徳天皇は佐渡が島へそれぞれ遷され、藤原忠信等の公卿七人は即座に頸を切られて、事件は終結した。

 これはいかなる理由で負けてしまわれたのであろうか。国王の身として臣下の義時を討つことは、たとえば鷹が雉を捕り、猫がねずみを食うように、容易なことであろうに、返って猫がねずみに食われ、鷹が雉に捕られたようなことになってしまった。しかも朝廷方は鎌倉調伏の祈祷に力を注ぎ、天台の座主の慈円僧正や真言の長者、仁和寺の御室や園城寺の長吏をはじめ、奈良の七大寺・十五大寺の智恵と戒律の徳行が日月のように備わった高僧たちが、弘法・慈覚・智証の三大師が心中に真言秘密の大法として立てられた十五壇の秘法を奉修した。五月十九日から六月十四日まで身心の力の限りを尽くして執り行なわれたが、最後には日本国ではそれまで二度しか行なわれていない大法を、仁和寺御室の道助法親王が紫宸殿で六月八日から行なったところ、十四日に幕府の軍勢が宇治・勢多の守りを押し破って京都に打ち入り、後鳥羽・土御門・順徳の三院を生け取りし奉り、皇居を焼き払った。幕府は三院を三箇国へ流し申し上げ、七人の公卿の頸を切ったばかりでなく、御室の御所に押し入って、道助法親王が寵愛していた勢多迦童子という弟子を引き出して、頸を切ってしまった。御室の法親王は悲しさの余り、思い死んでしまわれた。このようにして勢多迦が死ねばその母も死に、この大がかりな祈祷を頼みとした幾千万ともいう人々はみな死んでしまい、たまたま残った者がいても、もはや生きる甲斐もないというありさまである。

 御室が祈り始められた六月八日から十四日までのこととて、その間、わずか七日ばかりのことである。この時に行なわれた十五壇の秘法というのは、一字金輪法・四天王法・不動明王法・大威徳法・転法輪法・如意輪法・愛染王法・仏眼法・六字法・金剛童子法・尊星王法・太元法・守護経法などの大法である。この秘法は、国の敵や王の敵となる者を調伏して、その生命を召し取り、魂を大日如来の密厳浄土へ送るという法である。しかも、この秘法を修した人々はいずれも地位ある高僧であって、比叡山の座主の慈円僧正や東寺の長者の親厳僧正、仁和寺の御室の道助法親王や園城寺常住院の良尊僧正などの導師四十一人と、その伴僧など三百余人であった。祈祷の法といい、修した行者といい、その時代も今よりは上代であって、何ら不足はないはずなのに、どうして朝廷は戦いに負けてしまわれたのか。たとえ勝たないまでも、早々に負けてしまって、このような恥をさらしたのはどういう理由によるのか、人びとはいまだ知らない。

 国主として臣下を討つのであるから、鷹が鳥を捕るほどのことである。万が一負けるとしても、一年や二年、十年や二十年は持ちこたえるべきである。それが五月十五日に事が起こって、六月十四日にはもう負けてしまわれたので、その間わずかに三十日余りである。片や鎌倉幕府の権大夫義時はそのようなことを知る由もなく、祈祷もしなければ、何の準備もしなかった。今、日蓮が愚案を廻らすに、このような結果になったのには理由がある。それは真言のよこしまな法で祈祷したからである。よこしまな法というものは、たとえ一人でも万国に災いをもたらすもので、一人で行なった祈祷でも一国や二国は簡単に亡んでしまう。まして三百人の僧たちが国主と一緒になって、法華経の大怨敵となって真言の祈祷を行なったのであるから、どうして亡びないでおられよう。このような災いを招いた大悪法が、その後にだんだんと関東へと移り来て、真言の者が諸堂の別当や供僧に就いて、頻りによこしまな法を行なうようになった。関東の者は元来が田舎の武士であるから、その教えが正しいかどうかなど知る由もなく、ただ仏・法・僧の三宝を崇めなければならないと思っているに過ぎないので、自然と世に流行る真言を信ずるようになり、年数を重ねるうちに、ついに今、他国から攻められて、この国はまさに亡びようとしている。関東の八箇国だけでなく、比叡山・東寺・園城寺・奈良七大寺などの座主や別当もすべて鎌倉幕府の差配となったので、隠岐の法皇と同様に、北条氏もこの真言の大悪法の信者ということになってしまわれた。

 そもそも国主となるということは、国の大小にかかわらず、みな梵天・帝釈・日天・月天・四天王のご判断によるのであり、それらの諸天は法華経の怨敵となった者を、即座に罰することを誓われている。よって、人王第81代の安徳天皇に太政入道平清盛の一門が加勢して、兵衛佐源頼朝を討つために、比叡山を氏寺とし、日吉山王を氏神として祈祷したが、法華経に背いた真言の祈祷だったために、安徳天皇は壇の浦に身を沈め、祈祷を修した明雲座主は木曾義仲に殺され、平家の一門も一時にみな亡びてしまった。このように真言の邪法によって身を亡ぼした証拠は、これまで二度あり、今回は三度目になる。日蓮の諫言を用いられず、真言の悪法によって大蒙古調伏の祈祷をされるならば、返って日本国が調伏されてしまうだろう。法華経の観世音菩薩普門品に「還著於本人」とあって、邪法の呪いは本人に還ると説かれているとおりである。さらに、これらの罰から逆に利益について考えてみると、末法の衆生にとっての成仏への道は法華経より他にはありえない。源頼朝が平家を破ったのは、常日頃から法華経を読誦していた功徳であって、これは祈祷によって現世に利益を得たことの証拠である。 日蓮がこの道理を知ることができたのは、父母と師匠との御恩であるが、父母はすでに亡くなってしまわれた。このたび亡くなられた道善御房は師匠であられたものの、日蓮が法華経を信じたので、念仏者の地頭の東条景信を恐れられて、心の中では日蓮を不便と思われたであろうが、表面では敵のように憎んでおられた。その後、少しは法華経を信じられたように聞いたけれども、臨終の時はどうであられたろうか。何とも気がかりである。よもや地獄には堕ちられはしまいが、さりとて生死の苦しみを離れたとはとても思われない。現世と来世の間の中有の世界にさまよっておられるのかと思うと、嘆かわしい限りである。貴方は地頭の東条景信が怒って日蓮を殺そうとした時に、義城房と共に清澄寺を出て、日蓮を守ってくだされた人であるからには、外に何がなくとも、それを法華経への御奉公と思われて、生死の苦しみを離れられよ。

 この南無妙法蓮華経のご本尊は、釈尊がお説きになってから二千二百三十余年の間、世界中にいまだかつて誰も弘めた人はありません。中国の天台大師と日本の伝教大師はおおよそ知っておられたが、弘めることはされなかった。末法の今こそ流布すべき時です。法華経の経文には、上行菩薩や無辺行菩薩などの本化の菩薩が出現して弘められるだろうと見えますが、いまだ出現されてはいない。日蓮はその人ではありませんが、ほぼ心得ていましたので、地涌の菩薩が出現されるまでのうわさ話として、おおよそ妙法蓮華経の五字を流布して、「仏の滅後に法華経を弘める者は多くの怨嫉を受け、大難に遇うだろう」という内容の法師品第十の「況滅度後」の経文を身読したのです。

 願うことは、どうかこの功徳を父母と師匠と、そしてすべての衆生に回向申し上げたいと祈請しております。この事を知らせ申し上げるために、ご本尊を書いて送り申し上げましたので、あらゆる他事を投げ捨てて、このご本尊の御前において一心に後生をお祈りなさい。

 また、いづれ申し上げようと思います。御房達には、何とか取りはからっていただきたい。

 

 

日蓮(花押)

 


 

 

◆ 本尊問答抄 ¶ 〔C4・弘安元年9月・浄顕房〕


 問うて云く、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云く、法華経の題目を以て本尊とすべし。
 問うて云く、何れの経文、何れの人師の釈にか出でたるや。答ふ、法華経の第四法師品に云く「薬王、在々処々に、若しは説き若しは読み、若しは誦し若しは書き、若しは経巻所住の処には、皆応に七宝の塔を起てて、極めて高広厳飾ならしむべし。復舎利を安んずることを須ゐじ。所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す」等云云。涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉、諸仏の師とする所は所謂法なり。是の故に如来恭敬供養す。法常なるを以ての故に、諸仏も亦常なり」云云。天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て、好き高座を敷き、法華経一部を安置し、亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安んずべからず、唯法華経を置け」等云云。
 疑って云く、天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり。不空三蔵の法華経の観智の儀軌は釈迦・多宝を以て法華経の本尊とせり。汝何ぞ此等の義に相違するや。答へて云く、是れ私の義にあらず。上に出だすところの経文並びに天台大師の御釈なり。但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは、彼れは常坐・常行・非行非坐の三種の本尊は阿弥陀仏なり。文殊問経・般舟三昧経・請観音経等による。是れは爾前の諸経の内未顕真実の経なり。半行半坐三昧には二あり。一には方等経の七仏八菩薩等を本尊とす。彼の経による。二には法華経の釈迦・多宝等を引き奉れども、法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし。不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり。此れは法華経の教主を本尊とす。法華経の正意にはあらず。上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり。
 問うて云く、日本国に十宗あり。所謂 倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗なり。此の宗は皆本尊まちまちなり。所謂 倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり。法相・三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす。華厳宗は台上のるさな報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗には阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用ゐたり。何ぞ天台宗に法華経を本尊とするや。答ふ、彼等は仏を本尊とするに是れは経を本尊とす。其の義あるべし。
 問ふ、其の義 如何。仏と経といづれか勝れたるや。答へて云く、本尊とは勝れたるを用ゐるべし。例せば儒家には三皇五帝を用ゐて本尊とするが如く、仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。
 問うて云く、然らば、汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして、法華経の題目を本尊とするや。答ふ、上に挙ぐるところの経釈を見給へ。私の義にはあらず。釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり。末代今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり。
 問ふ、其の証拠 如何。答ふ、普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」等云云。又云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり。諸仏是れに因りて五眼を具することを得たまへり。仏の三種の身は方等より生ず。是れ大法印にして涅槃海を印す。此の如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず。此の三種の身は人天の福田、応供の中の最なり」等云云。此等の経文、仏は所生、法華経は能生。仏は身なり、法華経は神なり。然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし。而るに今木画の二像をまうけて、大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすは、尤も逆なり。
 問うて云く、法華経を本尊とすると、大日如来を本尊とすると、いづれか勝るや。答ふ、弘法大師・慈覚大師・智証大師の御義の如くならば、大日如来は勝れ、法華経は劣るなり。
 問ふ、其の義 如何。答へて云く、弘法大師の秘蔵宝鑰・十住心に云く「第八法華、第九華厳、第十大日経」等云云。此れは浅きより深きに入る。慈覚大師の金剛頂経の疏・蘇悉地経の疏、智証大師の大日経の旨帰等に云く「大日経第一、法華経第二」等云云。
 問ふ、汝が意 如何。答ふ、釈迦如来多宝仏総じて十方の諸仏の御評定に云く「已今当の一切経の中に法華最為第一なり」云云。
 問ふ、今日本国中の天台・真言等の諸僧並びに王臣万民疑って云く、日蓮法師めは弘法・慈覚・智証大師等に勝るべきか 如何。答ふ、日蓮反詰して云く、弘法・慈覚・智証大師等は釈迦・多宝・十方の諸仏に勝るべきか〈是一〉。今日本国の王より民までも教主釈尊の御子なり。釈尊の最後の御遺言に云く「法に依りて人に依らざれ」等云云。法華最第一と申すは法に依るなり。然るに三大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧・王臣・万民・乃至所従・牛馬等にいたるまで不孝の子にあらずや〈是二〉。
 問ふ、弘法大師は法華経を見給はずや。答ふ、弘法大師も一切経を読み給へり。其の中に法華経・華厳経・大日経の浅深勝劣を読み給ふに、法華経を読み給ふ様に云く「文殊師利、此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て最も其の下に在り」。又読み給ふ様に云く「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経あり、而も此の経の中に於て法華最第三」云云。又慈覚・智証大師の読み給ふ様に云く「諸経の中に於て最も其の中に在り」。又「最為第二」等云云。釈迦如来・多宝仏・大日如来・一切の諸仏、法華経を一切経に相対して説いての給はく「法華最第一」。又説いて云く「法華最も其の上に在り」云云。所詮 釈迦十方の諸仏と慈覚・弘法等の三大師といづれを本とすべきや。但し事を日蓮によせて釈迦十方の諸仏には永く背きて三大師を本とすべきか 如何。
 問ふ、弘法大師は讃岐の国の人、勤操僧正の弟子なり。三論・法相の六宗を極む。去ぬる延暦二十三年五月、桓武天皇の勅宣を帯して漢土に入り、順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて、恵果和尚に真言の大法を相承し給へり。恵果和尚は大日如来よりは七代になり給ふ。人はかはれども法門はをなじ。譬へば瓶の水を猶瓶にうつすが如し。大日加来と金剛薩P・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法との瓶は異なれども、所伝の智水は同じ真言なり。此の大師彼の真言を習ひて、三千の波濤をわたりて日本国に付き給ふに、平城・嵯峨・淳和の三帝にさづけ奉る。去ぬる弘仁十四年正月十九日に東寺を建立すべき勅を給はりて、真言の秘法を弘通し給ふ。然れば五畿七道・六十六箇国二の島にいたるまでも鈴をとり杵をにぎる人たれかこの人の末流にあらざるや。
 又慈覚大師は下野の国の人、広智菩薩の弟子なり。大同三年御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に登りて十五年の間、六宗を習ひ、法華・真言の二宗を習ひ伝へ、承和五年御入唐、漢土の会昌天子の御宇なり。法全・元政・義真・法月・宗叡・志遠等の天台・真言の碩学に値ひ奉りて、顕密の二道を習ひ極め給ふ。其の上殊に真言の秘教は十年の間、功を尽くし給ふ。大日如来よりは九代なり。嘉祥元年仁明天皇の御師なり。仁寿・斉衡に金剛頂経・蘇悉地経の二経の疏を造り、叡山に総持院を建立して、第三の座主となり給ふ。天台の真言これよりはじまる。
 又智証大師は讃岐の国の人、天長四年御年十四、叡山に登り、義真和尚の御弟子となり給ふ。日本国にては義真・慈覚・円澄・別当等の諸徳に八宗を習ひ伝へ、去ぬる仁寿元年に文徳天皇の勅を給はりて漢土に入り、宣宗皇帝の大中年中に法全・良Z和尚等の諸大師に七年の間、顕密の二教習ひ極め給ひて、去ぬる天安二年に御帰朝、文徳・清和等の皇帝の御師なり。何れも現の為当の為、月の如く日の如く、代々の明主・時々の臣民信仰余り有り、帰依怠り無し。故に愚痴の一切、偏に信ずるばかりなり。誠に依法不依人の金言を背かざるの外は、争でか仏によらずして弘法等の人によるべきや。所詮 其の正は如何。
 答ふ、夫れ教主釈尊の御入滅一千年の間、月氏に仏法の弘通せし次第は先の五百年は小乗、後の五百年は大乗、小大権実の諍ひはありしかども顕密の定めはかすかなりき。
 像法に入りて十五年と申せしに漢土に仏法渡る。始めは儒道と釈教と諍論して定めがたかりき。されども仏法やうやく弘通せしかば小大権実の諍論いできたる。されどもいたくの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて六百年、玄宗皇帝の御宇に善無畏・金剛智・不空の三三蔵月氏より入り給ひて後、真言宗を立てしかば、華厳・法華等の諸宗は以ての外に下されき。上一人より下万民に至るまで真言には法華経は雲泥なりと思ひしなり。其の後徳宗皇帝の御宇に妙楽大師と申す人真言は法華経にあながちにをとりたりとおぼしめししかども、いたく立つる事もなかりしかば、法華・真言の勝劣を弁へる人なし。
 日本国は人王三十代欽明の御時百済国より仏法始めて渡りたりしかども、始めは神と仏との諍論こわくして三十余年はすぎにき。三十四代推古天皇の御宇に、聖徳太子始めて仏法を弘通し給ふ。恵観・観勒の二の上人、百済国よりわたりて三論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭、禅宗をわたす。天武の御宇に新羅国の智鳳、法相宗をわたす。第四十四代元正天皇の御宇に善無畏三蔵、大日経をわたす。然るに弘まらず。聖武の御宇に審祥大徳・朗弁僧正等、華厳宗をわたす。人王四十六代孝謙天皇の御宇に唐代の鑑真和尚、律宗と法華宗をわたす。律をばひろめ、法華をば弘めず。
 第五十代桓武天皇の御宇に延暦二十三年七月、伝教大師勅を給はりて漢土に渡り、妙楽大師の御弟子道邃・行満に値ひ奉りて法華宗の定恵を伝へ、道宣律師に菩薩戒を伝へ、順暁和尚と申せし人に真言の秘教を習ひ伝へて、日本国に帰り給ひて、真言・法華の勝劣は漢土の師のをしへに依りては定め難しと思し食しければ、此にして大日経と法華経と、彼の釈と此の釈とを引き並べて勝劣を判じ給ひしに、大日経は法華経に劣りたるのみならず、大日経の疏は天台の心をとりて我が宗に入れたりけりと勘へ給へり。
 其の後弘法大師、真言経を下されける事を遺恨にや思し食しけむ。真言宗を立てんとたばかりて、法華経は大日経に劣るのみならず華厳経に劣れりと云云。あはれ慈覚・智証、叡山園城に此の義をゆるさずば、弘法大師の僻見は日本国にひろまらざらまし。彼の両大師華厳法華の勝劣をばゆるさねども、法華真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば、存外に本師伝教大師の大怨敵となる。其の後日本国の諸碩徳等、各智恵高く有るなれども彼の三大師にこえざれば、今に四百余年の間、日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ。たまたま天台宗を習へる人々も真言は法華に及ばざるの由存せども、天台の座主・御室等の高貴に恐れて申す事なし。あるは又其の義をもわきまへぬかのゆへに、からくして同の義をいへば、一向真言の師はさる事おもひもよらずとわらふなり。然れば日本国中に数十万の寺社あり。皆真言宗なり。たまたま法華宗を並ぶれども真言は主の如く法華は所従の如くなり。若しは兼学の人も心中は一同に真言なり。座主・長吏・検校・別当、一向に真言たる上は、上に好むるところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師なり。されば日本国或は口には法華最第一とはよめども、心は最第二、最第三なり。或は身口意共に最第二、三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし。まして能持此経の行者はあるべしともおぼへず。「如来現在 猶多怨嫉 況滅度後」の衆生は、上一人より下万民にいたるまで法華経の大怨敵なり。
 然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房の国長狭の郡東条の郷片海の海人が子なり。生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山に罷り登りて、遠国なる上、寺とはなづけて候へども修学の人なし。然るに随分諸国を修行して学問し候ひしほどに我が身は不肖なり、人はおしへず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏菩薩に祈請して、一切の経論を勘へて十宗に合はせたるに、倶舎宗は浅近なれども一分は小乗経に相当するに似たり。成実宗は大小兼雑して謬誤あり。律宗は本は小乗、中比は権大乗、今は一向に大乗宗とおもへり。又伝教大師の律宗あり。別に習ふ事なり。法相宗は源権大乗経の中の浅近の法門にて有りけるが、次第に増長して権実と並び結句は彼の宗々を打ち破らんと存ぜり。譬へば日本国の将軍将門・純友等の如し。下に居して上を破る。三論宗も又権大乗の空の一分なり。此れも我は実大乗とおもへり。華厳宗は又権大乗と云ひながら余宗にまされり。譬へば摂政関白の如し。然るに法華経を敵となして立てる宗なる故に、臣下の身を以て大王に順ぜんとするが如し。浄土宗と申すも権大乗の一分なれども、善導・法然がたばかりかしこくして、諸経をば上げ観経をば下し、正像の機をば上げ末法の機をば下して、末法の機に相叶へる念仏を取り出だして、機を以て経を打ち、一代の聖教を失ひて念仏の一門を立てたり。譬へば心かしこくして身は卑しき者が、身を上げて心はかなきものを敬ひて賢人をうしなふが如し。禅宗と申すは一代聖教の外に真実の法有りと云云。譬へばをやを殺して子を用ゐ、主を殺せる所従のしかも其の位につけるが如し。
 真言宗と申すは一向に大妄語にて候が、深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし。一向に誑惑せられて数年を経て候。先づ天竺に真言宗と申す宗なし、然るに有りと云云。其の証拠を尋ぬべきなり。所詮 大日経ここにわたれり。法華経に引き向けて其の勝劣を之れを見る処、大日経は法華経より七重下劣の経なり。証拠彼の経此の経に分明なり。〈此に之れを引かず〉。しかるを或は云く、法華経に三重の主君、或は二重の主君なりと云云。以ての外の大僻見なり。譬へば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ、超高が民の身として横に帝位につきしがごとし。又彼の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし。漢土にも知る人なく、日本にもあやめずして、すでに四百余年をおくれり。
 是の如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ。結句は此の国他国にやぶられて亡国となるべきなり。此の事日蓮独り勘へ知れる故に、仏法のため王法のため、諸経の要文を集めて一巻の書を造る。仍って故最明寺入道殿に奉る。立正安国論と名づけき。其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し。所詮 現証を引きて申すべし。
 抑 人王八十二代隠岐の法王と申す王有しき。去ぬる承久三年〈太歳辛巳〉五月十五日、伊賀太郎判官光末を打ち取りまします。鎌倉の義時をうち給はむとての門出なり。やがて五畿七道の兵を召して、相州鎌倉の権の大夫義時を打ち給はんとし給ふところに、かへりて義時にまけ給ひぬ。結句我が身は隠岐の国にながされ、太子二人は佐渡の国・阿波の国にながされ給ふ。公卿七人は忽ちに頸をはねられてき。
 これはいかにとしてまけ給ひけるぞ。国王の身として、民の如くなる義時を打ち給はんは鷹の雉をとり、猫の鼠を食むにてこそあるべけれ。これは猫のねずみにくらはれ、鷹の雉にとられたるやうなり。しかのみならず調伏の力を尽くせり。所謂 天台の座主慈円僧正・真言の長者・仁和寺の御室・園城寺の長吏・総じて七大寺十五大寺、智恵戒行は日月の如く、秘法は弘法・慈覚等の三大師の心中の深密の大法・十五壇の秘法なり。五月十九日より六月の十四日にいたるまで、あせをながし、なづきをくだきて行ひき。最後には御室、紫宸殿にして日本国にわたりていまだ三度までも行はぬ大法、六月八日始めて之れを行ふ程に、同じき十四日に関東の兵軍宇治勢田をおしわたして、洛陽に打ち入りて三院を生け取り奉りて、九重に火を放ちて一時に焼失す。三院をば三国へ流罪し奉りぬ。又公卿七人は忽ちに頸をきる。しかのみならず御室の御所に押し入りて、最愛の弟子の小児勢多伽と申せしをせめいだして、終に頸をきりにき。御室思ひに堪えずして死に給ひ畢んぬ。母も死す。童も死す。すべて此のいのりをたのみし人、いく千万といふ事をしらず死にき。たまたまいきたるもかひなし。御室祈りを始め給ひし六月八日より同じき十四日まで、なかをかぞふれば七日に満じける日なり。此の十五壇の法と申すは一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星王・太元・守護経等の大法なり。此の法の詮は国敵王敵となる者を降伏して、命を召し取りて其の魂を密厳浄土へつかはすと云ふ法なり。其の行者の人々も又軽からず、天台の座主慈円、東寺・御室・三井の常住院の僧正等の四十一人、並びに伴僧等三百余人なり云云。法と云ひ、行者と云ひ、又代も上代なり。いかにとしてまけ給ひけるぞ。たとひかつ事こそなくとも、即時にまけおはりてかかるはぢにあひたりける事、いかなるゆへといふ事を余人いまだしらず。
 国主として民を討たん事、鷹の鳥をとらんがごとし。たとひまけ給ふとも、一年二年十年二十年もささうべきぞかし。五月十五日におこりて六月十四日にまけ給ひぬ。わづかに三十余日なり。権の大夫殿は此の事を兼ねてしらねば祈祷もなし。かまへもなし。然るに日蓮小智を以て勘へたるに其の故あり。所謂 彼の真言の邪法の故なり。僻事は一人なれども万国のわづらひなり。一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし。況や三百余人をや。国主とともに法華経の大怨敵となりぬ。いかでかほろびざらん。
 かかる大悪法としをへて、やうやく関東におち下りて、諸堂の別当・供僧となり連々と行ぜり。本より辺域の武士なれば教法の邪正をば知らず。ただ三宝をばあがむべき事とばかり思ふゆへに、自然としてこれを用ゐきたりてやうやく年数を経る程に、今他国のせめをかうむりて此の国すでにほろびなんとす。関東八箇国のみならず、叡山・東寺・園城・七寺等の座主・別当、皆関東の御はからひとなりぬるゆへに、隠岐の法皇のごとく、大悪法の檀那と成り定まり給ひぬるなり。
 国主となる事は大小皆梵王・帝釈・日月・四天の御計らひなり。法華経の怨敵となり定まり給はば、忽ちに治罰すべきよしを誓ひ給へり。随って人王八十一代安徳天皇に太政入道の一門与力して、兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神とたのみしかども、安徳は西海に沈み、明雲は義仲に殺さる。一門皆一時にほろび畢んぬ。第二度なり。今度は第三度にあたるなり。日蓮がいさめを御用ゐなくて、真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば、日本国還りて調伏せられなむ。還著於本人と説けりと申すなり。然らば則ち罰を以て利生を思ふに、法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり。現世の祈祷は兵衛佐殿、法華経を読誦する現証なり。
 此の道理を存ぜる事は父母と師匠との御恩なれば、父母はすでに過去し給ひ畢んぬ。故道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給ひて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ給ひぬ。のちにはすこし信じ給ひたるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ。おぼつかなし。地獄まではよもおはせじ。又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず。中有にやただよひましますらむとなげかし。貴辺は地頭のいかりし時、義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば、何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして、生死をはなれさせ給ふべし。
 此の御本尊は世尊説きおかせ給ひて後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教ほぼしろしめして、いささかひろめさせ給はず。当時こそひろまらせ給ふべき時にあたりて候へ。経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給ふべしと見えて候へども、いまだ見えさせ給はず。日蓮は其の人には候はねどもほぼ心へて候へば、地涌の菩薩の出でさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後のほこさきに当り候なり。
 願はくは此の功徳を以て、父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をしらせまいらせむがために御本尊を書きおくりまいらせ候に、他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給ひ候へ。又これより申さんと存じ候。いかにも御房たちはからい申させ給へ。


 日蓮花押



 

 

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