題目抄文段
正徳六丙申六月十三日 大貳日寛記す
一、法華題目抄文。
当抄の大意は佐渡已前、文永三丙寅御年四十五歳の時の述作なり。故に文の面は権実相対の判釈なり。文の初めに能唱の題目の功徳を明かし、次に所唱の妙法の具徳を明かす。これ則ち能唱の功徳の広大なる所以は、良に所唱の具徳の無量なるに由る故なり。
次に題号を釈す。これに二意あり。謂く、附文・元意なり。附文の辺、また二意を含む。一には「法華」の二字は体を挙げ、「題目」の二字は名を挙ぐ。これ則ち名は必ず体ある故なり。謂く、妙法蓮華経とは即ちこれ法華経一部八巻二十八品の題目なり。故に「法華題目抄」というなり。下の文四に云く「釈迦如来乃至四十二年が間は名をひしてかたりいださせ給わず仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいでさせ給いたり」云云。
二に雙観経等の題目を簡ぶ。故に「法華題目抄」というなり。これ則ち日本一同に念仏を唱うる故なり。撰時抄下二十二に云く「此の念仏と申すは雙観経・観経・阿弥陀経の題名なり権大乗経の題目の広宣流布するは実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや」云云。
次に元意の辺は、この題号に於て三箇の秘法を含むなり。謂く、「法華」の二字は所信の体、即ちこれ法華経の本門寿量文底下種の本尊なり。「題目」の二字は能唱の行、即ちこれ本門寿量文底下種の題目なり。所住の処は即ちこれ久遠元初の本門の戒壇なり。
問う、何を以てこの事を知らん。
答う、当体義抄二十三十三に云く「正直に方便を捨て但法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うる人は、三道即三徳と転じ、其の人の所住の処は常寂光土なり。本門寿量の当体蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」(取意)云云。果、既に本門寿量の当体蓮華仏なり。因、豈本門寿量の妙法に非ずや。能唱、既に本門寿量の妙法なり。所信、豈本門寿量の本尊に非ずや。故に知んぬ、「但法華経を信ず」とは即ちこれ法華経の本門寿量文底の本尊なることを。今「法華」の二字は即ち「但法華経を信ず」に同じ。今「題目」の二字は即ち「南無妙法蓮華経と唱う」に同じ。故に知んぬ、今「法華題目抄」というは、但法華経の本門寿量文底の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うる義なることを。故に「法華題目抄」というなり。これは蓮祖出世の本意に約する故に、元意の義、了らざるべからず云云。
問う、啓蒙二十三初に当抄の題を釈して云く「本より法華の号は一門の道理を専らにせず。故に本迹一致の題目なり。三大秘法の中の本門の題目と名異義同なり」云云。この義如何。
答う、彼尚台家通途の法相の名通義別を知らず。況や当流甚深の元意を知らんや。当に知るべし、「法華の号は一門を専らにせず」とはこれ名通、一往の辺なり。若し義別の辺は勝劣分明なり。故に記十三十に云く「具聞の言、全く本迹を表す。況や法華の号は一門を専らにせず。先ず迹を表し、次に本を表す。迹中の顕実すら尚而して之を強毒す。況や復本実能く即ち受けんや」略抄。既に迹を挙げて本を況す。豈勝劣分明に非ずや是一。若し本迹一致の題目、三箇の秘法の中の本門の題目と名異義同といわば、汝何ぞ蓮祖の唱えたまうが如く、本門寿量の南無妙法蓮華経と弘めずして、更に本迹一致の題目というや。豈宗祖違背の謗法に非ずや是二。凡そ諸御抄の中に、何れの処に本迹一致の南無妙法蓮華経というや是三。
一、根本大師門人文。(九四〇n)
「根本大師」とは即ち伝教大師の御事なり。これ則ち根本中堂建立の大師なるが故なり。
問う、何ぞ根本中堂と名づくるや。
答う、法華止観の観心を根本と為る故なり。故に具には「一乗止観院根本中堂」というなり。また報恩抄上三十六に云く「日本の始第一の根本大師」と云云。若しこの意は、日本国の大師の根本なるが故に根本大師と名づくるか。
問う、彼は迹化の菩薩、此れは本化の菩薩。何ぞ彼の門人と号せんや。
答う、これ佐渡已前の故に且く外相に准じて爾云うなり。実にはこれ本化の菩薩、何ぞ彼の門人といわん。内証は仏法血脈抄十八十八に云く「今外相は天台宗に依る、故に天台を高祖と為す。内証は独り法華に依る、故に釈尊・上行を直師と為すなり」略抄。
一、日蓮撰文。(九四〇n)
御名乗の事、別章の如し云云。
一、南無妙法蓮華経文。(同n)
問う、始めに七字を置く、何の意ありや。
答う、これ題中の題目、及び入文に勧むる所の題目、倶にこれ口唱なることを顕すなり。
第三に入文判釈とは、当抄大いに分ちて二と為す。初めに信心口唱の功徳を明かし、次に「問うて云く妙法蓮華経の五字」の下は妙法五字の功徳を明かす。初めの文、また二。初めに正釈、次に「問うて云く題目」の下は引証。初めの正釈にまた二。初めに行浅功深、次に「問うて云く火火」の下は広釈。
一、問うて云く法華経の意をもしらず等文。(同n)
これ無智平信の行浅功深を明かす云云。涅槃経三六十一に云く「若し善男子善女人有って、此の経名を聞いて四趣に生ずる者は、是の処有ること無けん」云云。同●に云く「此くの如く名を聞いて、自ら悪に堕せず、深解を俟たず」云云。御書一五一七。
問う、若し爾らば我等衆生、一期に一遍なりと雖も不退の位に到るべきや。
答えて云く、若し過去の謗法なき人は実に所問の如し。遂に不退に到るべし。然るに我等衆生は過去の謗法無量なり。この謗法の罪滅し難し。天台云く「泰山を壊つに非ずんば焉ぞ江海を・めんや」云云。況や文に、終に到るべしという、之を思い見るべし。
善無畏抄三十九に云く「謗法無くして此の経を持つ女人は十方虚空に充満せる乃至十悪・五逆なりとも草木の露の大風にあえるなる可し(乃至)但滅し難き者は法華経謗法の罪なり乃至設い八万聖教を読み大地微塵の塔婆を立て大小乗の戒行を尽し十方世界の衆生を一子の如くに為すとも法華経謗法の罪はきゆべからず、我等・過去・現在・未来の三世の間に仏に成らずして六道の苦を受くるは偏に法華経誹謗の罪なるべし」云云。故に信力強盛に妙行を励むべきなり。
十 五 日
一、問うて云く火火等文。(九四〇n)
この下は広く釈するに二。初めに正しく明かし、次に「而るに今」の下は当世の謬解を破し、重ねて唱題の妙用を顕す。初めの正しく明かすに三。初めに唱題の妙能、次に「正直」の下は信心の勝徳、三に「善星」の下は解を簡び信を嘆ず云云。
「火火」等とは会●十八二十三、註に引く所の如し。東春一十四、啓蒙に引く所の如し。また玄五二十に云く「水の性は冷の如けれども飲まずんば安ぞ知らん」等云云。
答の中の大意に云く、諸法は万差なり。一概なるべからず云云。
大論二十五二十に云く「問う、義と之れ名と合すと為んや、離すと為んや。若し合せば、火を説く時、応に口を焼くべし。若し離せば、火を説く時、水来るべし。答う、亦合せず、亦離せず。仮に為に名を立て、以て諸法に名づく。後の人、此の名字に因り是の事を識る」云云。この文の意なり。
一、師子の筋を事の緒として(乃至)如し文。(同n)
華厳●抄七十八二十二、止一五十一、註に引く所の如し。
一、梅子のすき声を等文。(同n)
楞厳経第二に云く「醋梅を談説すれば口中に水出ず」云云。梅林は渇を止む。祖庭事苑第五巻、註に引く所の如し。また啓蒙の中に云云。また「滅除薬を●に塗れば、則ち毒去り箭脱く」等の事は往生要集下三十二に。
一、小乗の四諦の名計り等文。(同n)
今、便に因みて名を称するの徳を示さん。謂く、宋の質直、魏の張遼、及び楊大眼の如し。天下無双の猛威の士なり。故に父母その名を呼べば、則ち小児その啼を止む云云。小児豈その人を知らんや。
道綽論註下四に云く「又人有って狗に噛まるるが如し。虎の骨を灸いて之を熨するに即ち愈ゆ。或は時に骨無ければ、掌を●いて之を磨り、口の中に虎来る、虎来ると喚ばわれば患者即ち愈ゆ。又転筋を患うに、木瓜の枝を灸き之を熨せば即ち愈ゆ。或は時に木瓜無ければ、手を灸いて之を磨り、口の中に木瓜、木瓜と呼ばわれば亦即ち愈ゆるなり」云云。此等の名すら尚この徳あり。況や法華の御名をや。弘三本初に云く「諸の名は理に法りて立てたり。名既に理に法る。理亦名に因る。故に妙の名を仮りて以て妙の理を詮す」云云。
一、鸚鵡なを天に生ず等文。(九四〇n)
鸚鵡は能く言う鳥なり。凡そ鳥は四指なり。三は前に向い、一は後に向う。この鳥は両指後に向う。行く時は口を以て地を啄み、然る後に足これに従うなり云云。また新語園第七二十三に、鸚鵡種々の事云云。
正しく天に生まるる相は、賢愚経第十一、註に引く所の如し。また林二十五十三、往いて見よ。持誦及び生天は七反なり。これを思い合すべし。一反の功、豈虚しからんや。
一、三帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる文。(同n)
大悲経、大論第七四、註に引く所の如し。摩竭魚の相、且く三説あり。一には華厳音義に云く「大いなる者は二百余里」云云。二には賢愚経に云く「七百由旬」云云。即ち一万一千二百里なり。三には譬喩経に云く「身長四十万里」云云。名義集二五十の文は一向格別なり。
また大論の中に、この魚、先世にはこれ仏の破戒の弟子、宿命智を得るとは、今案ずるに、譬喩経に云く「昔沙門有り。塔寺を造作す。未だ成らざるの頃、五百の沙門遠方従い来る。五百の賢者有り。各各袈裟被服を給与す。寺主の沙門云く、我が功徳積みて須弥の如し。而るに国人助けず。但近きを賎しみ、遠きを貴ぶと。便ち火を以て塔寺を焼き、遂に三悪に入り、後に大魚と作って身長四十万里、眼は日月の如く、牙の長さは二万里、白きこと雪山に似たり。舌の広さ四万里、赤きこと火山に似たり。目の広さ五万里。時に五百人有り、海に入り宝を採る。正しく是先身に五百の沙門に衣を給う者なり。因縁宿対」等云云。当に知るべし、またこの非法の国主等、多くこの報を受くるなり。賢愚経に云く「諸王大臣、自ら勢力を恃み、桎げて百姓を剋めん。殺戮無辺なり。命終して多く摩竭大魚に堕つ」等云云。一覧四二十五。林三十六紙。
一、八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり文。(同n)
問う、二句の不同如何。
答えて云く、凡そ妙法蓮華経の五字は一切経の総要なり。故に「八万聖教の肝心」というなり。宗祖の所謂「亦復一切経の肝心」とはこれなり。天台大師、毎日行法の日記に云く「読誦し奉る一切経の総要、毎日一万遍」と云云。玄師伝に云く「一切経の総要とは所謂妙法蓮華経の五字なり」云云。またこの妙法蓮華経の五字は三世諸仏の所証の法なり。故に「一切諸仏の眼目」というなり。故に玄文第一に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵なり。三世諸仏の証得したまう所なり」文。当に知るべし、この文にまた三大秘法を含むなり。謂く、「本地」の二字は即ち本門の戒壇なり。これ則ち本尊所住の地なり、故に本地という。豈戒壇に非ずや。「甚深」の二字は即ち本門の本尊なり。天台云く「実相を甚深と名づく」云云。「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如」云云。故に知んぬ、「甚深」の二字は一念三千なることを。豈本門の本尊に非ずや。「奥蔵」の二字は即ち本門の題目なり。これ則ち題目に万法を含蔵する故なり。故に知んぬ、三大秘法は三世の諸仏の所証の大法、一切諸仏の眼目なることを。これはこれ元意の重なり。初学の知る所に非ず。仰いでこれを信ずべし云云。
十 八 日
一、正直捨方便等文。(九四〇n)
この下は信心の勝得を明かすなり。
一、信を以て入ることを得等文。(同n)
問う、信の字の義、如何。
答う、字彙に云く「●実なり、疑わざるなり」云云。先ず外典の意は、多く実を以て信と名づくるなり。故に伊川程氏云く「実を以て之を信と謂う」云云。徐氏云く「文に於て人の言を信と為す。言いて信ならずんば人と為すに非ず」云云。千字文註上十五に云く「君子の道は期信を失わず。人に一諾を許さば千金にも移らず。魏の文公・元伯等の事の如し」云云。また商君の移木の信及以尾生が信等の如きは常の如し。仲尼云く「人にして信無くんば其の可なることを知らず」云云。また云く「丘、食をば尚去つ可し、信をば去つべからず」云云。凡そ仁義礼智も信あらずんば立たず。左伝の中に「信は国の宝なり」というはこれなり。謂く、信を以て仁義礼智を行う則は、君安らけく民豊かなる故なり。また五倫の道も信あらずんば成らず。臣の範所謂君臣信ぜずんば則ち国政安からず、父子信ぜずんば則ち家道睦まじからず。兄弟信ぜずんば則ち其の情親しからず。朋友信ぜずんば則ち其の交り絶え易し云云。並びにこれ実を以て信に名づくるなり。妙楽大師の弘四末五十に「孔丘の言尚信を以て首と為す。況や仏法の深理をや。信無くして寧ろ入らんや」とはこれなり。
次に内典の意は、随順して疑わざる義なり。故に大乗法要論十八に云く「信とは何の義ぞ。謂く、信順の義なり」云云。四教儀九六に云く「信は順従を以て義と為す」等云云。宝積経百十八初に云く「又仏道を慕う、猶預を懐かず。是れを信根と名づく」文。天台の文九に云く「疑無きを信と曰う」等云云。
問う、随順の義、如何。
答う、如来の金言に随順す、これを信順の義と名づくるなり。例せば沙石第二三に「藤の疣を尋ねて曽て失いし馬を得たるが如し」と。また愚案記第六十九に「但天下泰平等の文を唱えて問答に勝利を得たるが如し」と。凡師の言を信順する、尚斯くの如し。況や如来の金言に信順せんをや。十八史略第三三に云く「後漢の光武、王良の兵に追わるる所と為って●陀河に至る。候吏還って曰く、河水氷を流し船無くば渉る可からずと。王覇をして之を視て衆を驚かすことを恐れ、還って即ち云く、氷堅し、渡る可しと。遂に前みて河に至れば、氷亦合す。乃ち渡る。未だ数騎を畢えずして氷解く」云云。人の言に信順する、尚この利あり。況や仏の言を信ぜんをや。弘決第一上六十八に云く「江南の愚直、他の言を信じて大河を渡る云云。仏の言に信を執る則は尚能く生死の大海を度る。数里の川を渡ること、何ぞ奇と為るに足らん」取意。弘決四末五十に云く「耆年の者有り。初始て出家し未だ識る所有らず。少き沙弥、戯れて云く、汝に初果を与えんと。即ち毛毬を以て其の頂上に着けて語って云く、此れは是れ初果なりと。信心を以ての故に、即ち初果乃至第四果を得たり」云云。林三十六巻初の文に具なり。往いて見よ。少沙弥の言に信順するすら尚以て是くの如し。況や如来の金言に信順せんをや(御書三十八二十一)。
問う、疑無きを信と曰う義、如何。
答う、止観第四五十六に三種の疑を明かす云云。弘四末四十四に云く「疑に過有りと雖も然も須く思繹すべし。自身に於ては決して疑うべからず。師法の二は疑いて須く暁むべし。若し疑わずんば或は当に復邪師・邪法に雑るべし。故に当に疑に熟して善師之を択ぶべし。疑を解の津と為とは此の謂なり。師法已に正ならば、法に依って修行せよ。爾の時、三疑は永く須く棄つべし」等云云。
「自身に於ては決して疑うべからず」とは、凡そ真如の妙理に染浄の二法あり。染法は薫じて迷の衆生と成り、浄法は薫じて悟の仏と成る。この迷悟の二法異なりと雖も、真如の妙理はこれ一なり。譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り、月輪に向えば水を取るが如し。真如の妙理もまたまた是くの如し。一妙真如の理なりと雖も、悪縁に遇えば迷の衆生と成り、善縁に遇えば悟の仏と成る。譬えば人の夢に種々の善悪の業を見て、覚めて後これを思うに、皆我が一心の見る所の夢なるが如し。我が一心は真如の一理の如し。夢中の善悪は即ち迷悟の如し。然れば則ち我が身は即ちこれ迷悟不二、生仏一体にして、真如の妙法蓮華経の全体なり。豈成仏せざらんや。故に「自身に於いては決して疑うべからず」というなり。
「師法の二は疑いて須く暁むべし」等とは、像法は既に去りぬ。今末法に約して文を借り、これを消せん。謂く、宗々の祖師の所立は格別なり。或る師云く「教外別伝、不立文字。法華経は閑文字なり」と。或る師云く「一切経の中には浄土の三部経、末法に入りて機教相応して第一なり。法華経等は千中無一の雑行なり」と。或る師云く「大日経等は一切経の中の第一なり。法華経は第三の戯論なり」等云云。
然るに如来の金言には「四十余年、未顕真実」、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたまうべし」等と云云。経文と諸師の所立と天地雲泥なり。何ぞ疑わざるを得んや。また蓮師の末弟の流々も同じからず。或る師云く「本迹一致の南無妙法蓮華経」と。或る師云く云云。或る師云く云云。然るに蓮祖の妙判には、皆「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経」云云。蓮師の妙判と諸流の立義と水火の不同なり。豈疑わざるべけんや。故に「応に疑に熟して善思之を択ぶべし」というなり。若し一代経の中には法華最第一、法華経の中には本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経の五字七字、正法正師の正義に決定せば、何れもこれに依って応に修行すべし。故に「師法已に正ならば、法に依って修行せよ」というなり。当に知るべし、正法正師決定せば、爾の時、疑なきことを信というなり。
当体義抄二十三二十四に云く「然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」と。
七 月 七 日
一、信を以て入ることを得等文。(九四〇n)
経に云く「汝舎利弗すら尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり。況や余の声聞をや。己が智分に非ず」等云云。当に知るべし、この経はこれ甚深微妙なり。故に智分の能く及ぶ所に非ず。故に智慧第一の舎利弗すら、尚この経に於ては信を以て入ることを得たり。況や余の声聞をや云云。
問う、舎利弗の智慧第一の相は如何。
答う、舎利弗の母は摩陀羅波羅門の女、舎利女これなり。舎利弗の父は提舎波羅門、また鉄腹と名づけ、五天第一の大論議師なり。その相、具に大論十一六紙已下の如し。身子託胎の時、夢想の事あり、懐胎已後その母聡明なり。年始めて八歳にして波羅門の十八大経を誦し、通じて一切の経書の義理を解す。即ち竜王会にして論床に登り、五天第一の誉を得たり。而して目連を友として善し。倶に刪闍耶梵志に師事す。後、阿説示に値いて「諸法因縁生」の一句を聞き、即座に初果を悟る。終に仏弟子と成り、半月にして第四果を悟る。論文の始終能く之を見るべし。大論十一初に云く「舎利弗は一切の弟子の中に於て智慧第一なり。仏の偈説の如き、一切衆生の智、唯仏世尊を除いて、舎利弗の智慧及び多聞に比せんと欲するも、十六分の中に於て猶尚一にも及ばず」等云云。
此くの如き智慧第一の身子すら尚この経に於ては信を以て入ることを得たり。況や余の声聞をや。何に況や末代愚盲の凡夫をや。故に止観四五十九に云く「法華に云く、諸の声聞等、己が智分に非ず、信を以て入ることを得たりと。我の盲瞑なる、復信受せずんば更に何ぞ帰する所あらん。長く沈み長く溺れて出要を知らず乃至若し心に法を信ずれば法は則ち心に染む。猶預狐疑する事は覆器に同じ」等云云。文意に云く、在世の諸の声聞すら尚この経を信じて入ることを得たり。況や末代愚盲の衆生、この経を信受せずんば更に何の帰する所あらんや。長く生死の海に沈み、長く貪愛の水に溺れ、出要を知るべからず。若し心に妙法を信ずれば、妙法は則ち心に染み、妙法心に染む則は我即ち妙法なり。成仏何ぞ疑わんや。若しこれを疑わば、覆器の法水停まらざるに同じ。故に疑を生ずべからず等云云。
問う、設い心に妙法を信ずと雖も、妙法何ぞ心に染まんや。
答う、この問い、恐らくは非なり。千字文の註上十六に云く「墨、糸の染むことを悲しむ」云云。註に云く「墨子、名は●、梁の恵王の時、有道の人なり。出でて素糸の染みて余色に従うを見、之を悲しみて云く、人堪然として聖体に同じ。悪俗に居るを以て之に染み累を為す。愚に近づく者は賢ならず。穢に近づく者は臭し。蘭に近づく者は香し。人の善悪も皆染に由って性を成す。尭舜は許由に染みて聖君と成り、紂は崇候に染みて闇君と成る。墨に近づく者は黒く、朱に近づく者は赤しと」云云。一切皆然なり。豈心に妙法を信じて妙法を心に染まざらんや。
佐渡抄十七二十二に云く「日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば乃至此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし」等云云。謗法既に心に染む、妙法豈心に染まざらんや。若し妙法心に染む則は、我が身即ち妙法蓮華経なり。預章の男子は女色に深く心を染む。故に終に変じて女身と成れり。東坡居士は竹の絵に深く心を染むる故に、或る時、一身竹に変ぜり。舎利弗は妙法を深く心に染めて華光如来と顕れたり。蓮祖はまた妙法を心に染めたまう故に、一身の全体、妙法の本尊と顕れ給えり。設い末代と雖も妙法を深く心に染めなば豈寂光に到らざらんや。故に妙楽大師云く「一句も神に染めなば悉く彼岸を資けん」等云云。然るに世人、但悪業謗法を深く心に染めて、妙法を心に染むる人は千人の中にも少なきなり。祖書十八七に云く「世間の人の有様を見るに、口には信心深き事を云えども、実に神に染むる人は千万人に一人もなし」等云云。また十三二十八。
十 五 日
一、雙林最後文。(九四〇n)
「雙林」は即ちこれ沙羅雙樹なり。仏、拘尸那城跋提河の辺に在して御涅槃に入りたまう時、一日一夜の御説法なる故に「雙林最後の涅槃経」というなり。四方に各双つ、故に双樹と名づくるなり。四方の八株、悉く高きこと五丈、下の根は相連り、上の枝は相合い、その葉は豊蔚に、花は車輪の如く、草は大にして瓶の如く、その味密の如し。この八株通じて一林と名づく。故に「雙林」というなり。
仏涅槃に入り已れば、東西の二双、合して一樹と為り、南北の二双また合して一と為る。二合皆悉く如来を垂覆す。その樹皆変じて白し。故にまた●林と名づくるなり。多く所表の法門あり。具には会●一初、弘七本三十五の如し。
一、涅槃経に云く文。(同n)
これ会●三十二二十九紙の文なり。今所引の意に云く、既に法華の文に「以信得入」という。何が由ぞ但信心を以て入ることを得るや。故にこの文を引いて、その所以を顕すなり。「この菩提の因は復無量なりと雖も」とは、夫れ円教の菩提の因は十乗観法、読誦教典、更加説法、六度万行、事行五悔及び神通示現乃至百仏世界等に分身散影し、一切衆生を利益す。此くの如き自行化他の菩提の因は無量なりと雖も、皆信心の中に能く●く摂尽す。故に「若し信心を説けば則ち已に摂尽す」というなり。若し位に約して判ずれば、観行已後の諸の位の功徳はこれ無量なりと雖も、皆名字即の信心の中に具するなり。宗祖云く「信は慧の因・名字即の位なり」云云。
一、夫れ仏道に入る根本は等文。(同n)
文意に云く、何を以て涅槃経にいう無量の菩提の因を信心の中に摂するや。故に今、その所以を顕して「仏道に入る根本」等というなり。謂く、信心は根本なり。無量の行は枝葉なり。若し根本なくんば何ぞ百千枝葉を生ぜん。故に知んぬ、百千の枝葉は 同じく一根に趣くなることを。霊山に大樹あり。大薬王樹と名づく。その樹の高さ十六万八千由旬なり。月氏に樹あり。尼拘盧樹と名づく。その樹の蔭、五百乗の車を覆う。昔、筑紫に大いなる櫪あり、長九百七十丈。又近江国栗田郡に大いなる柞の木あり。その囲五百尋、朝に丹波国を覆い、夕に伊勢国を覆う。此等の大樹の枝葉の繁茂、心を以て知るべし、言に宣ぶべからず。彼の無量の枝葉、皆一根より生ずるが故に、皆同じく根本に趣くが如し。無量の菩提の因も皆信心より生ずるが故に、皆根本の信心に摂するなり。今この意を顕す故に「仏道に入る根本は信を以て本と為す」云云。即ち別教の五十二位を引いて、信を以て本と為る義を証するなり。謂く、別教の信心の位は始めて次第三諦を聞いて、随順して疑わざる位なるが故なり。
また本業瓔珞経に云く「初めて三宝海に入る、信を以て本と為す」等云云。止観第五三十五に云く「仏法は海の如し。唯信のみ能く入る。信は即ち道の源、功徳の母、一切の善法は之に由りて生ずるなり」文。凡そ仏法の妙理は竪に深く横に広きこと、猶大海の深広なるが如し。故に「仏法は海の如し」というなり。設い身子の智慧と雖も、能く測量する所に非ざるが故に「唯信のみ能く入る」というなり。大論一二十に云く「仏法は深遠なり。仏乃し能く知る」と。また云く「自ら智慧を以て求めば得ること能はず。何を以ての故に。仏法甚深なるが故に」等云云。「信は即ち道の源、功徳の母」とは、若し信心の源なくんば、何ぞ諸善の縁あらん。若し信心の母なくんば、何ぞ諸善の子あらんや。故に信心は母の如く、源の如し。一切の善法は子の如く、流れの如し。故に「一切の善法は之に由りて生ず」というなり。豈信を以て本と為すに非ずや。智者大師云く「根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し」等云云。これを思い合わすべし云云。
一、たとひさとりなけれども乃至誹謗闡提の者なり文。(九四〇n)
文中に「鈍根も正見の者なり」とは、正法正師の正義を信ずる、これを正見と名づくるなり。「誹謗闡提」とは、正法を誹謗する則は仏種を断つ故に闡提というなり。
通じて附文・元意の両辺あり。若し附文の辺は、設い愚痴無智にして悟なけれども、法華の正法に於て信心ある者は鈍根も正見なり。設い法然・弘法の如く悟ありとも、若しこの経に於て信心なき者は、誹謗闡提の者なり云云。故に但法華経を信ずべし云云。
若し元意を示さば即ち別抄に出す。当体義抄二十三二十三に云く「仏説いて云く『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん(乃至)』文、天台云く『(乃至)若此の経を謗ぜば義・断ずるに当るなり』文(乃至)然るに日蓮が一門は正直に権教の邪法・邪師の邪義を捨てて正直に正法・正師の正義を信ずる故に当体蓮華を証得して常寂光の当体の妙理を顕す事は本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うるが故なり」文。
この文の両段、逆次に今文の二句に配すべし。「若人不信」の四字は即ち「無信心者」に同じ。「毀謗此経」の四字は即ち「誹謗」の二字に同じ。「則断」等の八字は即ち「闡提」の二字に同ずるなり。故に今「たとひさとりあるとも信心なき者は誹謗闡提の者なり」というは即ち「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん」の文の意なり。また「たとひさとりなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者なり」というは、即ち「正直に正法・正師の正義を信ず」の文意なり。
当に知るべし、正法・正師の正義とは、即ちこれ本門寿量の教主の金言なり。文意に云く、若し人、本門寿量の教主の金言を信ぜずして毀謗せば、則ち本門寿量文底の一念三千の仏種を断つ。故に設い悟ありとも誹謗闡提の者なり。若し本門寿量の教主の金言、正法・正師の正義を信ぜば、設い悟なけれども即ちこれ正見なり云々。故に別して本門寿量の教主の金言を信じて南無妙法蓮華経と唱うべきなり。
十 六 日
一、善星比丘等文。(九四〇n)
この下は解を簡んで信を嘆ずるなり。「善星比丘」は仏の菩薩の時の御子なり。仏に三子あり。第一は善星比丘。即ちこれ第三の夫人、釈長者の女鹿野が子なり。第二は優婆摩耶。即ちこれ第一の夫人、水光長者の女瞿夷の子なり。第三は羅●羅。即ちこれ第二の夫人、移施長者の女耶輸の子なり。これはこれ善悪無記を表するなり。故に善星は羅云の庶兄なり。善星を生ずる時、鹿野は猶妾の如し。故に涅槃の会●に「羅云の庶兄」というなり。これ則ち年、羅云より長ずる故に兄というなり。標上四四十。また四十五云云。
一、二百五十戒を持ち等文。(同n)
これ三学を挙ぐるなり。戒を持ち、定を得たること、文の如く知るべし。若し「十二部経を諳にせし」とは豈慧に非ずや。
会●三十一三に云く「善星出家の後、十二部経を受持、読誦、解説し、欲界の結を壊り、四禅を獲得す」云云。●に云く「出家の後に信有るは戒なり。十二部経を受持するは是れ慧、四禅を獲得するは是れ定なり」云云。
問う、善星の有解無信の相は如何。
答う、既に十二部経を受持、読誦、解説、分別す。豈「有解」に非ずや。然るに善星、少年より不善の心あり。或る時、仏、初夜に於いて天帝の為に法を説く。座久し。時に善星悪念を生じ、仏に白して言く、薄拘羅鬼来らん、速やかに禅室に入りたまえと云云。仏に訶せらるる所と為る。故に仏また或る時、迦尸国尸婆羅城に在り、城に入り食を乞いたまう。無量の衆生、仏の迹を見んと欲す。善星、仏の後に随いて之を滅す。而るに滅すること能わず。死せる蚯蚓を取り、仏の迹の中に置く。無量の人をして残害の想を起さしむ。凡そ仏は足の地を離るること四寸、千幅印文、常に迹の中に現ず。仏、何ぞ蚯蚓を残害せんや。善星初めて出家し、十二部経を受持し、四禅定を得たりと雖も、後に悪友に親しみ、四禅を退失し、即ち邪見を生ず。言うに仏なく、法なく、また因果なし。仏は相法を知り、他人の心を知る等云云。仏、種々に調伏すと雖も、而も終に邪見の心を改めず。生身に無間地獄に●入せるなり。善星既に仏語に随順せず、故に「無信」というなり。
問う、仏豈預め此くの如き事を知らざらんや。若しこれを兼知せば、何ぞ出家を許さんや。
答う、仏若し善星の出家を許さざらんには、後に王位を紹いで当に仏法を壊るべし。故に出家を許せり。また若し出家せずんば、無量世に於て都て利益なからん。今出家を許すは後世の因と為るなり。具には会●三十一十八の如し。往いて見よ。
一、提婆達多文。(九四〇n)
法蓮抄、啓蒙九十五、同八四十、会●三十一三十一。
一、六万八万の宝蔵をおぼへ文。(同n)
下の文十紙に云く、外道六万蔵、仏の八万蔵等云云。
一、十八変を現ぜしかども等文。(同n)
「十八変」は註に甫註を引くが如し。神足所学の相は註に経律異相第二十一巻を引くが如し。既に六万・八万の宝蔵を覚えたり。故に有解に非ずや。然りと雖も更に如来の語に随順せず、剰え怨敵を成す。豈不信に非ずや。故に善星・提婆、並びに有解無信というなり。
一、今に大阿鼻にありと聞く等文。(九四〇n)
註の中には文を牒して本拠を出さず。啓蒙の中に云く「弘二末三十四に云く、提婆達多は現に阿鼻に住し、無間の苦を受く等、即ちこの例証なり」云云。今謂く、増一阿含四十六十四の文に准ずるに、目連、既に勅免を蒙り無間獄に至る。虚空の中に住し、弾指して提婆達多を呼ぶ。爾の時、獄卒云く、この中に拘屡孫仏の時の提婆、拘那含仏の時の提婆、迦葉仏の時の提婆あり。また出家の提婆、在家の提婆あり。今汝の命ずる所は何れの提婆ぞや云云。尚拘屡孫・拘那含の時の提婆あり。豈今日の提婆、今に阿鼻大城に在らざらんや。故に弘決及び今文に爾云うなり。これ展転無数劫の規則を示す故なり。
問う、呵責謗法滅罪抄、外十六二十に云く「提婆達多(乃至)無間地獄に行きしかども法華経にて召し還して天王如来と記せらる」云云。豈相違するに非ずや。
答う、今文は外用に約する故に「今にあり」というなり。彼の文は内証に約する故に、「召し還して」というなり。これ則ち調達は実にこれ法身の大士なり。故に内証に約すれば、任運自在にして往還無碍なり云云。
一、又鈍根第一の須梨盤特等文。(この御文、御書に拝せず)
若し盤特の鈍根の往因を知らんと欲せば、須く義楚第五十一、甫註八三十八を見るべし。或は猪の口を塞ぐ。或は法慳に依るなり。
問う、正しく鈍根の相、如何。
答う、弘二末十一に法句経第一を引いて云く「盤特出家す。仏、五百の阿羅漢をして日々之に教えしむ。三年にして始めて一偈を獲たり。謂く、口を守り、意を摂り、身に犯すこと莫し。是くの如き行者、世を度することを得んと云云。又掃●を誦せしむ」等云云。此くの如き鈍根と雖も但一念の信あり。普明如来と成れり。統紀第六十七の天台大師伝に云く「時に僧尼類多く業無し。朝議、経に通ぜざる者を策して皆道を休めしめんと欲す。師之を諌めて云く、調達は日に万言を誦して未だ淪墜を免れず。盤特は唯一偈を憶して乃ち四果を得たり。篤く道の為に論ずれば、豈多誦に関らんや。少主大いに悦び、即ち捜簡を停む」云云。像法すら尚爾なり。況や末法をや。祈雨抄十九八に云く「すりはむどくは三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ・是れ偏に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず」等云云。撰時抄上九に云く「彼の天台の座主(東寺七大寺の碩学)よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」と判じたまう、これなり。
一、又迦葉舎利弗等文。(九四〇n)
これ下根に次いで中・上二根を挙ぐるなり。有解というと雖も有解に依って仏道を成ずるに非ず。唯有信に由って入ることを得るなり。故に「信を以て入ることを得たり、己が智分に非ず」云云。
一、疑を生じて信ぜざらん者等文。(九四一n)
文の元意は、本門寿量の教主の金言に於て疑を生じて信ぜざる者は即ち当に悪道に堕すべしとなり。
十 八 日
一、而るに今の代に世間の学者等文。(同n)
この下は二に当世の謬解を破し、重ねて唱題の妙用を唱う、また二。初めに牒破、次に「蓮華」の下は重ねて唱題の妙用を顕す、また二。初めに正しく明かし、次に「法華経の第一の巻」の下は法の希有なることを歎ず云云。
「只信心計り」等とは、この謬解の中に信行の二意あり云云。然るにこの謬解は蓮祖の正義に敵対し相翻す。故に先ず須く蓮師の正義を了すべし。蓮師の正義に就いてまた二意あり。所謂附文・元意なり。初めに附文とは、既に当抄は佐渡已前なるが故に、且く仏の爾前経に同じ。分明に未だ本迹の起尽を判ぜず。未だ三大秘法の名目を出さず。故に但●く法華経を信じて法華の題目を唱うべしと勧めたまうなり。
若しその元意は、法華経の本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経の五字の本尊を信じて、法華経の本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経と唱うべし云云。附文・元意、並びに信行あり云云。
問う、但法華経の本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経の五字の本尊を信ずべき証文、如何。
答う、証文分明なり。下山抄二十六四十四に云く「実には釈迦・多宝・十方の諸仏・寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」文。文の中の「実」の字、深く意を留むべし。例せば「我実成仏」の「実」の字の如し。また「肝要」とは即ち文底の異名なり。諸文も例して爾なり。文意に云く、既に寿量品の説已りて神力結要付嘱の付に至り、先ず釈迦・多宝・十方分身の諸仏、広長舌を出して上梵世に至りたまう。その本意を尋ぬれば、実に滅後末法の衆生をして但本門寿量品の肝要・南無妙法蓮華経の五字の本尊を信ぜしめんが為なり云云。
問う、文には但「寿量品の肝要たる南無妙法蓮華経の五字」といい、「五字の本尊」とはいわず。何ぞ「五字の本尊」というや。
答う、既に神力品に於て諸仏舌を出し、五字の本尊を付嘱せるなり。
問う、その証如何。
答う、経に云く「要を以って之を言わば乃至皆此の経に於いて宣示顕説す」と云云。「此の経」とは即ち妙法蓮華経の五字の本尊なり。意に云く、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力等、皆妙法蓮華経の五字の本尊に於いて宣示顕説す等云云。故に天台云く「其の樞柄を撮って而して之を授与す」云云。「而して之を授与す」の文、深く意を留むべし。また本尊抄に云く云云。
汝若し信ぜずんば、今、明文を引かん。
新尼御前御抄に云く、外十二二十七に云く「今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給い(乃至)四十余年乃至迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが乃至上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆずらせ給いて乃至此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ」文。
この文は晴天の日輪、夜中の満月なり。豈結要付嘱の当体は、妙法蓮華経の五字の本尊に非ずや。故に知んぬ、下山抄に「寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を信ぜしめんが為なりと出し給う広長舌なり」というは、文の意、正しくこれ妙法蓮華経の五字の本尊を信ぜしめんが為に出し給う広長舌なることを。
問う、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経と唱うべき証文、如何。
答えて云く、下山抄二十六十八に云く「世尊眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に法華経の半分・迹門十四品を譲り給う、これは又地涌の大菩薩・末法の初めに出現せさせ給いて本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべき先序のためなり」云云。既に地涌の菩薩末法に出現して、本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給うべしという。豈明文分明に非ずや。然るに一流の義、「本迹一致の南無妙法蓮華経」とは蓮祖違背の謗罪、不相伝の大僻見なり。
一、此の人人等文。(九四一n)
正しく謬解を破するなり。「世間の学者」の意に云く、博学才智にして解了を備え、勤行精進して広く経巻を読まんは、悪道を脱れ、不退の位に到るべし。何ぞ只法華経を信ずる信心計りにて解了もなく、只法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱うる計りにて、争か悪趣を脱るべけんや等と云云。
今、破する意に云く、既に法華・涅槃の経文を閲するに、善星・提婆は博学才智にして解了を備え、勤行精進して広く衆経を読めども、信心なきを以て淪堕を脱れず。若し槃特は只一念の信あり。此等の経文の如くんば、当世の学者は阿鼻大城を脱れ難しと云云。
一、さればさせる解りなくとも等文。(同n)
四信抄十六七十に云く「小児乳を含むに其の味を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん水無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らんや」。また云く「濁水心無けれども月を得て自ら清めり草木雨を得豈覚有って花さくならんや乃至初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり」云云。
八 月 七 日
一、譬えば蓮華等文。(同n)
この下は次に重ねて唱題の妙用を顕す、また二。初めに正しく明かし、次に「法華経の第一の巻」の下は法の希有なることを歎ず。初めの正しく明かすにまた四。第一に蓮蕉一双、第二に角檀一双、第三に金樹一双、第四に琥磁一双。若し文相の面は四双八句、並びに無解有信に唱題せば自然にこの功徳を得るに譬うるなり。若し文底の意は、自ら四悉を含むなり。若し爾らずんば、何ぞ必ずしも四双に約せんや。故に四悉に約してその意を消すべきなり。
悉檀の名義は胡漢兼称なり。玄文第一三十一に云く「悉は是れ此の語、檀は是れ胡の語、悉の言は遍なり。檀は翻じて施と為す。仏、四法を以て遍く衆生に施す、故に悉檀と云う」文。第一に世界、また三意を含む。謂く、楽欲・開隔・歓喜なり。仏、衆生の楽欲に随って正因縁生隔別の法を説いて歓喜を生ぜしむるなり。生善・滅悪は為人・対治なり。実相の妙理に入らしむるは即ちこれ第一義なり。譬えば病人の楽欲に随って、下医を簡んで上医の薬を与え、歓喜を生ぜしむるが如し。即ちこれ世界なり。随って快気を得、随って病を治するは、これ為人・対治なり。病尽く除愈して元復し、故の如くなるは即ちこれ第一義なり。これはこれ如来利物の相なり。若し今文の意は、無解有信の唱題、自ら四悉の益を得るなり。謂く、第一は為人、第二は世界、第三は対治、第四は第一義なり。
一、蓮華は日に従って回る等文。(九四一n)
文意は日に従って開き回るなり。涅槃経九二十二に云く「譬えば蓮華の如き、日に照らさるる所と為れば開敷せざること無し。一切衆生も亦復斯くの如し。未発心の者も皆悉く発心して菩薩の因と為る」文。菩薩はこれ菓、因はこれ花なり。賢愚経に云く「譬えば蓮華の日を見て則便開敷するが如し」文。玄文第七に云く「日に随って開き回る」云云。故に知んぬ、日に従って開き回るの義なることを。
一、芭蕉は雷によりて増長す文。(同n)
涅槃経三十二の文、註に引く所の如し。甫註十四十四。
一、我等は蓮華と芭蕉との如く文。(同n)
若し具に譬に合せば、但唱題の妙用に依り我等が菩薩心の華開け、功徳の妙香の果上に回ることは、譬えば蓮華の日に従って開き回るが如し。而して唱題の妙用に由って我等が善根の増長するは、譬えば芭蕉の雷に依って増長するが如し。蓮に心なく、芭蕉に心なしと雖も、自然に開き回り、自然に増長することは、但日輪と雷聲との妙用に依るが如し。我等に「させる解りなくとも」、南無妙法蓮華経と唱えば、豈この功徳を得ざるべけんや云云。既に菩提の善根の増長に約す、寧ろ為人に非ずや。
一、犀の生角を等文。(九四一n)
註に爾雅等を引くが如し。
一、栴檀の一葉等文。(同n)
また註に観仏三昧経を引くが如し。
一、我等が悪業等文。(同n)
若し具に譬を合せば、但唱題の妙用に依って我等が悪業を遠離すること、「犀の生角」を身に帯して水に入れば、水五尺、身に近づかざるが如し。但唱題の妙用に依って我等が悪業の、菩薩の善因と変成すること、栴檀の一葉開きぬれば四十由旬の伊蘭変じて牛頭栴檀の上妙の香と成るが如し。水に心なく、伊蘭に心なしと雖も、自身に近づかず、自ら臭悪を変ずること、但犀角と栴檀との妙用に由るが如し。我等にさせる解はなけれども、南無妙法蓮華経と唱えなば豈悪業を遠離し、悪業を変ぜざらんや。既に悪業を遠離し、及び悪を変じて善と成す。豈善悪差別に非ずや。故にこれ世界なり。
一、金剛は堅固等文。(同n)
註に諸文を引くが如し。
一、一切の物に破られず文。(同n)
我等が悪業堅固なれば、権経の力用の破る能わざるに譬うるなり。
一、羊の角と亀の甲文。(同n)
現本の「犀」の字は伝写の謬なり。応に「羊」の字に作るべし。「亀の甲」は法華経の信心なり。「羊の角」は法華経の題目なり。
一、尼倶類樹。(同n)
罪福報応経に云く「尼倶類樹は其の高さ二十里、枝は方円に布き、六十里を覆う」云云。若し大論第八には「樹陰五百乗の車を覆う」云云。当に知るべし、二十里は即ち百二十町なり。富士山の如き、直立は只これ二十五町なり。今熟これを勘うるに、この樹の高さ富士山に五倍せり。学者当に恥ずべし、我等が貪欲の高きこと、仍之に過ぎたり。故に古歌に云く「十悪の立ち双びたる其の中に 貪欲程の長高も無し」云云。この貪欲を本と為して瞋恚・愚癡・殺盗等の無量の悪業を生じ、五道・六道に輪廻す。猶彼の樹の無量の枝葉を生じて、五百乗・六十里を覆うが如し云云。
一、大鳥にも枝おれざれども文。(同n)
我等が悪業広大なれば、権経の力用の断ずること能わざるに譬うるなり。
一、鷦鷯鳥に枝を折らる文。(九四一n)
具には註及び啓蒙の中にこれを評するが如し。
一、我等が悪業等文。(同n)
我等が悪業堅固にして広大なること、金・樹の如し。然りと雖も唱題の妙能のこれを折破すること羊角・鷦鷯の如し。而して金・樹に心なし、何ぞ必ずしも解智に依らんや。自然の妙用、仰いで信ずべきのみ。この文、対治なること皎世目前なり。
一、琥珀は塵をとり等文。(同n)
註及び啓蒙の中の如し。
一、我等が悪業は塵と鉄との如く等文。(同n)
唱題の妙用、既に能く我等が悪業の塵・鉄を吸い取る。また応に須く清浄の妙理を顕すべし。故に第一義に配するなり。唱題の妙能、既に是くの如しと雖も、仍謗法の罪を吸い取らざるか。三国志に云く「琥珀は腐芥を吸わず、磁石は曲針を受けず」云云。
享保元丙申八月八日 七月朔日
改元これあり
一、法華経の第一の巻文。(同n)
この下は法の希有なることを歎ず、また二。初めに名を聞くこと難し。二に「さればこの経に値いたてまつる」の下は値遇の難。初めの名を聞くこと難きにまた二。初めに経を引いて釈し、次に「されば須仙多仏」の下は事を引いて釈す、また三。初めに過去、次に「釈迦」の下は現世、次に「しかりといえども」の下は未来。三世に約して名を聞くことの難きを釈し顕すなり。
一、無量無数劫等文。(同n)
この文は竪に約す。第五の巻の文は横に約するなり。我等衆生の三界・六道を輪廻し、或は天に生に生じ人に生ず。或は修羅に生じ畜生に生ず。或は餓鬼に生じ地獄に生ずること「無量無数劫」なり。この間に遂に法華経の名字を聞かず、故に今に至って生死を離れず。故に知んぬ、無量無数劫にもこの法を聞くこと最も難きことを。故に「是の法を聞かんこと亦難し」というなり。
一、第五の巻に云く、是の法華経は等文。(同n)
我等衆生、世々生々に無量の国に生を受け、無辺の苦楽に合いしかども、一度も法華経の国に生まれず。故に今に至って仍流転するなり。故に知んぬ、無量の国に於ても聞くことを得べからざることを。
一、須扇多仏文。(九四一n)
大論三十四、註に引く所の如し。「多宝仏」もまた註に引く所の如し。
一、仏滅度に至り文。(この御文、御書に拝せず)
「一千余年すぎて」とは摩訶尸那の初聞を挙ぐるなり。「三百五十余年に及びて」とは日本の初聞を挙ぐるなり。松野抄三十四四十一に云く「仏・月氏国に出でさせ給い一代聖教を説かせ給いしに四十三年と申せしに始めて法華経を説かせ給ふ乃至一千二百余年と申せしに漢土へ渡し給ふ、いまだ日本国へは渡らず、仏滅後一千五百余年と申すに日本国の第三十代・欽明天皇と申せし御門の御時・百済国より始めて仏法渡る」云云。一千二百余年の後の三百余年は、即ちこれ「仏滅後一千五百余年」なり。
一、さればこの経に値いたてまつる事等文。(同n)
この下は次に値遇の難、また二。初めに正しく釈し、次に「さればこの経の題目」の下は結勧。
一、三千年に一度華さく等文。(同n)
経に云く「優曇鉢華の時に一たび現ずるが如きのみ」文。天台の文句四に云く「優曇花とは此に霊瑞と言う。三千年に一たび現ず。現ずれば則ち金輪王出ず」等文。玄七に云く「此の霊瑞華は蓮華に似たり。故に以て譬と為す」云云。華の色は金色なり。施設論の説は註に引く所の如し。甫註四四十一。啓運抄十一巻云云。
一、一眼の亀にもたとへたり文。(同n)
経に云く「又、一眼の亀の浮木の孔に値えるが如し」等云云。註の如し、啓蒙の如し。また祖書三十四三十九に委悉なり。往いて見よ。これ文底の妙法に値い難きに譬うるなり。また二十七三十八。
一、大地の上に錐を立て等文。(同n)
大地より梵天に至るまで、二十九万四千由旬なり云云。
一、此の須弥山等文。(九四二n)
この須弥山の中央より彼の須弥山の中央に至るまで、十二億八万三千四百五十由旬なり。
一、さればこの経の題目等文。(同n)
この下は結勧なり。或は文を分ちて云く、法の希有なることを歎ずるにまた三。初めに経文を引く。「法華経の御名を聞く」の下は釈。「さればこの経」の下は結勧。第二の釈の中にまた二。初めに名を聞くこと難し。次に値遇すること難し云云。
九 日
一、問うて云く題目計り文。(九四二n)
大段の第二、引証、また二。初めに正しく証を引き、次に広・略・要を判じて要を取るの義を決するなり。
「題目計りを唱う」とは、正しく宗祖の意は、信じてこれを唱うるを題目を唱うと名づくるなり。これはこれ経釈の元意、祖書の大判、本門三箇の秘法の中の本門の題目は、必ず信行を具するが故なり。須く知るべし、信はこれ行の始め、行はこれ信の終り、故に須臾も離るべからず。離るべきは題目に非ざるなり。況やまた当抄の大意は、専ら唱題の妙用を明かして信心の勝徳を歎ずるをや。故に今「題目計りを唱う」とは、即ち信じてこれを唱うる義なり。若し信ぜずして妙法を唱うることは、題目を唱うとは名づけず。例せば「論語読みの論語読まず」というが如し。応に「題目唱えの題目唱えず」と名づくべきなり。然りと雖も一向に唱えざる人には勝らんか。
古歌に云く「論語読みの論語読まずも浦山し論語読まずの論語読まずは」云云。仍恐る、日夜他の宝を数うるが如く、宝山の空手に似たらんことを。故に但本門の本尊を信じて、本門寿量の妙法を唱うべきなり。
一、法華の名を受持せん者文。(同n)
この引証の文意に信行を具す。謂く、受持はこれを以て信心を顕す。「法華の名」とは正しく唱題を証するなり。大論十五十五に云く「信力大なる故に能く持ち、能く受く」文。
一、一部・八巻等文。(同n)
この下は広・略・要を判じ、要を取るの義を決するなり。所謂上来の消釈は即ちこれこの意なり云云。
一、方便品寿量品乃至略なり文。(同n)
「略」は闕略に非ず、即ちこれ存略なり。故に大覚抄に云く「余の二十六品は身に影の随い玉に財の備はるが如し、方便品と寿量品とを読み候えば自然に余の品は読み候はねども備はり候なり」。
一、但一四句偈文。(同n)
文の八に云く「一句一偈とは随って経中の要偈を取る」云云。
一、要中の要なり文。(この御文、御書に拝せず)
問う、「要」の字の意は如何。
答う、一を挙げて一切を括るの義なり。文八十三に云く「総じて一切を括るを要と為す」云云。孝経大義十八に云く「其の父を敬う則は子悦び、其の君を敬う則は臣悦ぶ。一人を敬いて千万人悦ぶ。敬わるる者は寡くして、而も悦ぶ者は衆し。此れを之れ要道と謂う」云云。玄一十三に云く「云何なるをか要と為す。綱維を提ぐるに目として動かざるなく、衣の一角を牽くに縷として来らざる無きが如し」等云云。唱法華題目抄十一四十三に云く「其の上法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり」文。故に知んぬ、宗祖の元意は、二十六品は方便・寿量の両品に納まり、方便・寿量の両品は妙法の二字に収まることを。故に但この肝要を取り、応にこれを修行すべしとなり。故に取要抄に云く「日蓮は広略を捨てて肝要を好む」等云云。
問う、啓蒙に云く「吾が祖は唱題を正行と為すと雖も、而も広略の助行を廃す可からず。此の文、明証なり」云云。この義は如何。
答う、この義、大いに非なり。正しく当文の意は広・略・要を判じ、但要を取るの明証なり。何ぞ反例して、広・略を廃せざるの明証と為んや。大田抄に云く「広を捨て略を取り略を捨てて要を取る」云云。当に知るべし、助行には広を捨てて略を取り、正行には略を捨てて要を取るなり云云。具には末法相応抄にこれを示すが如し。
法華題目抄、文を分かって二と為す・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・第一に信心口唱の功徳、二・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・ ・・初めに略して行浅功深を明かす
・・初めに正釈に二・・・・
・・ ・・次に「問うて云火」の下は広釈、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・ ・・初めに唱題の妙能
・・・初めに正しく明かす、三・・・・ 次に信心の勝徳
・・・ ・・三に解を簡んで信を歎ず
・・・・次に「而るに今」の下、当世の謬解を破して重ねて唱題の妙用を顕す、
・・ 二・・
・・・・・・・
・・・ 初めに牒破
・・・・次に「譬えば蓮」の下、重ねて唱題の妙用を顕す、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・ ・・初めに蓮蕉一双・・為人
・・・ 初に正しく明かす、四・・・・・・ 次に角檀一双・・世界
・・・ ・ 三に金樹一双・・対治
・・・ ・・四に琥磁一双・・第一義
・・・ ・・初めに名を聞くこと難し
・・・・次に法の希有なるを歎ず、二・・・
・・ ・・次に値遇すること難し
・・・次に「問うて云く題目」の下は引証
・・第二に妙法五字の具徳○六ウ
十 日
一、問うて云く妙法蓮華経の五字等文。(九四二n)
問の意に云く、能信能行の功徳無量なること、既に命を聞き畢んぬ。所信所行の「妙法蓮華経の五字」に幾の功徳納まれるや。
大段の第二、妙法五字の具徳に二。初めに正釈、次に「而去」の下十五に重ねて今昔を挙げて誡勧す。初めの正釈にまた三。初めに妙体の具徳、次に「先ず妙法」の下は妙名の具徳、三に「譬如」の下は妙用の具徳云云。
一、大海は衆流を納め等文。(同n)
この下は妙法の具徳なり。初めに譬、次は法なり。法の中に正に十界の依正を納むるに約す。故に知んぬ、妙体の具徳なることを。当体義抄に云く「妙法蓮華経とは其の体何物ぞや、答う十界の依正即ち妙法蓮華の当体なり」云云。これを思い合すべし。須く知るべし、「十界の依正」とは即ち一念三千なり。依正不二門に云く「三千の中の生・陰二千を以て正と為し、国土一千を依に属す。依正既に一心に居す、一心豈能所を分たんや。能所無しと雖も依正宛然たり」文。故に妙法蓮華経の五字に、十界の依正・三千の万法を収むるなり。
一、先ず妙法蓮華経等文。(同n)
この下は妙名の具徳、また二。初めに通じて五字の具徳を明かし、次に「妙とは」の下は別して妙の一字の具徳を明かす。初めにまた三。初めに総標、次に「経の一」の下は経の一字の具徳を釈し、以て四字の具徳を顕す。三に「此の経の一字」の下は総結。
一、経の一字は諸経の中の王等文。(同n)
この下は経の一字の具徳を釈し、以て四字の具徳を顕す、また二。初めに正釈、次に「されば薬王品」の下は引証。初めの正釈に三。初めには別して伝来の諸経を収むるに約し、次には通じて梵漢の諸経を収むるに約し、三には広く諸仏の諸経を収むるに約す。当に知るべし、狭より広に至るなり。初めの別して伝来の諸経を収むるに約するに、また二。初めに正しく明かし、次に「是皆」の下は結。初めの正しく明かすにまた三。初めに正しく説き、次に結集、三に翻訳云云。一、先ず妙法蓮華経の已然等文。(九四三n)
この下は次に梵漢の諸経を収むるに約す、また二。初めに正しく明かし、次に「此等」の下は結。初めの正しく明かすに三。初めに華厳、次に三味、三に涅槃。次の三味にまた二。初めに通じて標し、次に大日経を以て余に例す。
一、此の経の一字の中等文。(九四三n)
この下は三に総結、また二。初めに「経」の一字の具徳を結し、次に「妙法」の下は四字の具徳を顕成す。
一、妙法蓮華の四字は八万法蔵に超過せり経の一字の一代に勝れたればなり。(同n)
点の如し。啓蒙に云く「古本に云く、経の一字、一代に勝れたる故に、妙法蓮華の四字もまた八万法蔵に超過せり」云云。
十 一 日
一、妙とは法華経に云く文。(同n)
この下は別して「妙」の一字の具徳を明かすに二。初めに名義を釈し、次に「釈門」の下に具徳を明かす。初めの名義を釈するにまた二。初めに経釈を引き、略して妙と名づくる義を示開す。次に「世間」の下は広釈。
一、方便の門を開いて真実の相を示す文。(同n)
今将にこの文の意を了せんとするに、須く開顕の大旨を暁むべし。且く一文を引いて、略してその相を示さん。教大師云く「於一仏乗とは根本法華経なり。分別説三とは隠密法華経なり。唯有一乗とは顕説法華経なり」等云云。
根本法華とは如来所証の本法なり。隠密法華経とは即ちこれ爾前の諸経なり。顕説法華経とは開顕の法華経なり。妙楽云く「法既に本妙」等云云。
当に知るべし、如来所証の本法は天上の月の如く、爾前の諸経は雲の月を隠すが如く、開顕の法華は雲を開いて月を見るが如きなり云云。今、この文意、「開」「示」の両字は即ちこれ開顕の法華なり。「方便門」の三字は爾前の諸経なり。「真実相」の三字は如来所証の本法なり。意に云く、昔に在っては方便の門を閉じて真実の相を隠す、雲の月を隠すが如し。今に至っては方便の門を開いて真実の相を示す、雲を開いて月を見るが如し云云。当に知るべし、今経の開顕とは即ちこれ如来所証の本法を顕示するなり。具には文句第八愚記の如し。
一、秘密の奥蔵を発く文。(九四三n)
今将にこの文の意を了せんとするに、須く「秘密」の大旨を暁むべし。謂く、諸文の意は三義を出でず。一には法体の真秘。謂く、法体法爾の相を即ち秘密と名づくるなり。「一身即三身を名づけて秘と為し、三身即一身を名づけて密と為す」と釈するが如きはこれなり。二には在昔の隠秘。謂く、法体の真秘を隠覆するが故なり。また「昔説かざる所を名づけて秘と為す」等の如きはこれなり。三には開顕の真秘。謂く、法体の真秘を顕示するが故なり。「顕露彰灼の故に真秘と云う」と釈するが如きはこれなり。即ちこれ「秘密」の綱要なり。諸師、多くこの義を解せず。具に文句第三、方便品の愚記の如し。
今「秘密の奥蔵を発く」とは、「発」とは開なり。即ちこれ開顕の法華経なり。「秘密の奥蔵」とは、今は在昔の隠秘に約す。謂く、昔に在っては法体法爾の本妙を隠覆す、故に秘密というなり。譬えば蔵の財を隠すが如し。故に「奥蔵」というなり。今に至っては彼の秘密の奥蔵を開き、法体法爾の本妙を顕示す。故に「之を称して妙と為す」というなり。
問う、正しく今文の意は、直ちに開発を以てこれを称して妙と為す。何ぞ「法体法爾の本妙を顕示す。故に『之を称して妙と為す』という」といわんや。 答う、開に二意を含む。一には謂く、所除。二には謂く、所見なり。この二意は全く同時に在り。雲は所除の如く、月は所見の如し。雲を開く則は必ず月を見、秘密の奥蔵を開く則は必ず法体法爾の本妙を見る。雲を開くの意は正に月を見るに在り。蔵を開くの意はまた財を見るに在り。故に知んぬ、昔の隠秘を開くの意は法体法爾の本妙を見るに在ることを。故に文は直ちに開発を以て妙と名づくるに似たりと雖も、その意は正に法体の本名を顕すに在り。今、開顕の大旨に依って以て解釈の深意を示す。後来の学者、若しこの旨に迷わば法華の開顕は源を尽くさず、権実の浅深は其の流を濫さん云云。
一、発とは開なり文。(同n)
籤一本二十に云く「発とは開なり。昔秘して説かず」等云云。記三中四十八に云く「発とは開なり。所除の辺に約して名づけて発迹と為し、所見の辺に約して発本と為す」等云云。
一、妙と申す事は開と云う事なり文。(同n)
蔵を開く則は必ず財を見る。故に蔵を開くとは即ち財を見る義なり。また帳を開く則は必ず仏を見る。故に開帳とは即ち見仏の義なり。故に爾云うなり。
一、世間に財を積める蔵等文。(九四三n)
この下は次に広釈、二。初めに鑰に依って蔵を開く義に寄せて釈し、次に「譬えば大地」の下は、日月に依って眼を開く義に寄せて釈す。初めにまた二。初めに爾前、次に「而るに今」の下は今経。
一、鑰なければ開く事かたし等文。(同n)
例せば大師の第十五の蔵の如し云云。御書十三二十、山門秘伝見聞七に云く「伝教大師比叡山建立の時・根本中堂の地を引き給いし時・地中より舌八つある鑰を引き出したり、此の鑰を以て入唐の時に天台大師より第七代・妙楽大師の御弟子・道●和尚に値い奉りて天台の法門を伝え給いし時、天機秀発の人たりし間・道●和尚悦んで天台の造り給へる十五の経蔵を開き見せしめ給いしに十四を開いて一の蔵を開かず、其時伝教大師云く師此の一蔵を開き給えと請い給いしに●和尚云く『此の一蔵は開く可き鑰無し天台大師自ら出世して開き給う可し』と云云其の時伝教大師日本より随身の鑰を以て開き給いしに、此の経蔵開けたりしかば経蔵の内より光・室に満ちたりき、其の光の本を尋ぬれば此の一念三千の文より光を放ちたりしなりありがたき事なり、其の時・道ずい和尚は返って伝教大師を礼拝し給いき、天台大師の後身と」云云。合譬云云。
一、而るに仏・法華経を解かせ給いて等文。(同n)
当に知るべし、財はこれ法体の本妙、蔵はこれ爾前の諸経、鑰はこれ開顕の法華経なり。然るに爾前四十余年の間は空しく四味三教の蔵門を閉じ、徒に法体本妙の財を隠して開顕の鑰なし。故に蔵を開くこと能わず。所以に蔵の内の財を見ず。設い見ると重いし者も僻見にてありしなり。而る後、法華開顕の鑰を以て爾前諸経の蔵を開きたまう。この時、四十余年の九界の衆生は始めて法体本妙の財を見、知りたりしなり。既に蔵開く則は妙を見る。故に「妙と申す事は開と云う事なり」と云云。
十 三 日
一、譬えば大地の上等文。(同n)
この譬は大論四二十五の文に依るなり。この下は日月に依って眼を開く義に寄せて釈す、また二。初めに譬、次に「爾前経」の下は合譬。初めの譬にまた二。初めに爾前に譬え、次に「日月・出で給いて」の下は法華に譬うるなり。
一、人畜・草木等文。(九四三n)
これ法体の本妙に譬うるなり。「日月の光なければ」とは、爾前の間は衆生の眼を閉じて、法体の本妙を見せしめざるに譬うるなり。次に「日月・出で給いて」等とは、法華の時は衆生の眼を開いて、法体の本妙を見せしむるに譬うるなり。
一、爾前の諸経は長夜の闇の如く文。(同n)
「闇」に二失あり。一には世人の眼を閉ずるの失、二には人畜等の色形を見せしめざるの失なり。今先ず総じて爾前の諸経を以て長夜の闇に合し、「諸の菩薩」の下に於て正に二失に合するなり。
問う、薬王品得意抄に「爾前は星の如く」云云。
答う、「長夜の闇」というと雖も豈星の光なからんや。若しそれ星の光はありと雖もなきが如し。故に「長夜の闇」というなり。況やまた譬を用うること、便に随って同じからざるをや。
一、本迹二門は日月の如し文。(同n)
「日月」に二徳あり。一には世人の眼を開くの徳。二には人畜等の色形を見せしむるの徳なり。今は先ず総じて法華経を以て日月に合せ、「中程に」の下に於て正に二徳に合するなり。当に知るべし、当抄は佐渡已前、権実相対なり。故に未だ分明に本迹の相を判ぜず。然りと雖もまた二門を混合せず。故に「本迹二門は日月の如し」というなり。謂く、本門は日の如く、迹門は月の如し。即ち薬王品得意抄等に同ずるなり。
問う、啓蒙にこの文を消して云く「本迹倶に或は日の如く、或は月の如し。故に『本迹二門は日月の如し』と云うなり。既に玄第一に『円は月の如く、照は日の如し。法華も亦爾なり』と云う。此の文の日月は各本迹に亘る。今文も亦爾なり」云云。この義は如何。
答う、彼の所引の文は玄義第一二十二紙の表の文なり。蓮祖、秀句十勝抄二十四十一に同じく玄義第一二十二紙の裏の文を引いて云く「又日は能く星月を映奪して現ぜざらしむ。故に法華は迹を払い、方便を除く。故に日蓮云く迹門を月に譬え本門を日に譬うるか」已上。誰か蓮祖の明判を棄てて日講が僻見を用うべきや。況や当抄の次下に云く「迹門の月輪」等云云。
一、諸の菩薩の二目等文。(九四四n)
この下は爾前の二失に合するなり。謂く、爾前の諸経は既に長夜の闇の如し。三乗等の眼を閉じて法体の本妙の色形を見せしめざるなり。次に「中程に」等の下は法華の二徳に合するなり。謂く、本迹二門は既に日月の如し。故に三乗等の眼を開く。法体の本妙の色形を見せしむるなり。
問う、「爾前」の合譬の文には眼を閉ずといわず。また「法華」の下には色形を見るといわず。何ぞ二失、二得に合すというや。
答う、影略互顕なり。謂く、色形を弁えざることは良に眼を閉ずるに由る。眼を開く意は正に色形を見るに在り。故に各一を挙げて以て二意に合するなり。一、中程に法華経の時・迹門の月輪等文。(同n)
当に知るべし、「迹門」は爾前・本門の中間なり。故に「中程」というなり。 問う、啓蒙に云く「古本に迹門の日輪」云云。尤も正と為すべし。一には、今は本迹を分つ場所に非ざる故に。二には、別に日輪の合譬之れ無き故に。三には、下の文の『春夏の日輪』の文は本迹に亘る故に。但し『中程』とは、爾前の闇に迷う最中に法華を説き始むる故なり」等云云。この義は如何。
答う、既に次下に「迹門十四品の一妙・本門十四品の一妙」という。何ぞ一向に本迹を分つ場所に非ずといわんや是一。若し「迹門の日輪」に作らば、別に月輪の合譬これなし是二。凡そ譬えを用うること一准ならず。何ぞ下の文を以て強いて今の文に擬せんや是三。多くの難ありと雖も、今は且くこれを略す。
一、菩薩の両眼等文。(同n)
法説の第一、正説に云く「菩薩是の法を聞いて、疑網皆已に除く。千二百の羅漢、悉く亦当に作仏すべし」云云。同じき第五の歓喜段に云く「大智舎利弗、今尊記を受くることを得たり。我等亦是の如く、必ず当に作仏することを得べし」文。故に知んぬ、第一に菩薩、第二に二乗、第三に凡夫なることを。「我等亦是の如し」とはこれ四衆・八部の凡夫なり云云。「生盲の一闡提」とは、涅槃経九に云く「唯生盲一闡提を除く」等云云。
十 四 日
一、迹門等文。(九四四n)
この下、正しく具徳を明かす、また二。初めに題号に就いて明かし、次に「六万九千」の下は入文に就いて明かすなり。
一、迹門十四品の一妙・本門十四品の一妙文。(同n)
これ略釈の意に依る。故に開権顕実を迹門の一妙と名づけ、開迹顕本を本門の一妙と名づくるなり。迹本二門の妙法は、その名は同じと雖もその義は天地水火なり。此に尽すべきに非ず、故に且くこれを略するのみ。
「迹門の十妙本門の十妙」とは、本迹倶にこれ正釈の意に依るなり。「迹門の三十妙・本門の三十妙」とは、これ開を判ずる二門の意に依る。謂く、正釈十妙の上に更に相待判●の十妙、絶待開●の十妙を加うる故に「迹門の三十妙」というなり。迹を以て本に例す、本門もまた爾なり。「迹門の四十妙・本門の四十妙」とは、また本体の十妙の上に更に心法の十妙・仏法の十妙・衆生法の十妙を加うる故に「迹門の四十妙」というなり。迹を以て本に例す、本門もまた爾なり。「観心の四十妙」とは即ち彼の観心の一科の意、四十妙の法に附して以て己心を観るなり。
問う、啓蒙等の意に云く、本迹各三十妙とは、これ心・仏・衆生の三法妙に約す。本迹各四十妙とは、前の十妙及び三十妙を重ね合せてこれを挙ぐ、故に四十妙というなりと云云。この義は如何。
答う、この義、大いに非なり。略して二失あり。一には待絶二妙を闕くの失、二には四十妙の文に別体なきの失云云。然るに啓蒙、会して云く、妙名一唱、待絶倶時の故に別にこれを論ぜずと云云。今謂く、既に待絶倶時の故に応に一妙を論ずべし。学者これを思え。待絶三法妙等はこれを略す云云。
一、百二十重の妙なり文。(同n)
既に「妙」の一字に百二十重の妙の功徳を具するなり云云。故に一返の口唱の功徳は広大なり。三重の秘伝云云。
十 五 日
一、六万九千等文。(同n)
この下は次に入文に就いて明かす、また二。初めに単論、次に「妙とは」とはの下は具徳を明かす、また二。初めに妙の義を明かし、次に「法華経」の下に正しく互具を明かす。
一、一一の字の下に一の妙あり文。(九四四n)
「一一の字の下に一の妙」とは、即ちこれ題号の通名の妙の字なり。別に祖の体あるに非ず。所以に妙楽云く「別は総より別る」云云。また記一の本に云く「句句の下に通じて妙名を結す」云云。証真云く「題して妙法という。故に其の下の文文句句は皆妙なり。鵄梟等の句の如き、並びに妙を詮ずるを以て」等云云。一、妙とは乃至円満の義なり文。(同n)
今、「円満の義」を明かす所以は、次の互具の義を明さんが為なり。
問う、開目抄上二十一に云く「されば経文には顕現自在力・演説円満経等云云、一部六十巻は一字一点もなく皆円満経なり、譬へば如意宝珠は一珠も無量珠も共に同じ一珠も万宝を尽して雨し万珠も万宝を尽すがごとし、華厳経は一字も万字も但同事なるべし」文。この文、全く当文に同じ。その異は如何。
答う、若し華厳の如きは、実にその義を論ずれば即ち二失あり。一には二乗不成仏、二には始成正覚なり。実義は然りと雖も、且く阿含等に望む故に、円満の義に約して以て互具を論じ、即ち如意珠に譬うるなり。若し迹門の如きも二乗作仏を明かすと雖も、仍「我始めて道場に座して」と説く。珠の破れたると、月に雲の掛かると、日の蝕したるが如し。実義は然りと雖も、今は爾前に望む故に通じて円満の義に約し、以て互具を論ず。即ち如意珠に譬うるなり。彼は阿含等に望み、此れは華厳等に対する故に、勝劣分明なり。妙楽云く「凡そ諸の法相は所対不同」云云。宗祖云く所詮所対を見て経経の勝劣を弁うべきなり、強敵を臥伏するに始て大力を知見する是なり」文。
一、一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり文。(同n)
一字一字の下の妙の文字に、余の六万九千三百八十四字を納むるなり。今、所詮を以て能詮を顕す。故に一字一字に余の六万九千等を納むというなり。当に知るべし、一々の字の下の妙の文字は、本これ通名の妙の文字なるが故なり云云。此等の功徳、皆久遠名字の妙法に帰するなり。具に上に元意を示すが如し。故に今これを略す云云。
一、如意宝珠の芥子計り等文。(九四四n)
大論五十九十三、上の啓蒙の弁の如し。信者、当に知るべし、既に妙法の宝珠を持つ、故に内外に就いて用心あり。一には謂く、焼亡。二には謂く、盗賊なり。所謂焼亡とは、即ちこれ不信謗法の火、妙法の無量の功徳を焼失する故なり。道乗がこれ瞋恚の火すら尚読誦の功徳を焼く。況や謗法の炎をや。所謂盗賊とは、即ちこれ悪鬼・魔王の障●なり。例せば隠士・烈子の如し云云。
第二に妙法五字の具徳、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・
・ 初めに正釈、三・・
・・・・・・・・・・・ ・・初めに譬
・・ 初めに妙体の具徳、二・・・・・
・・ ・・次に法
・・ 次に「先ず妙法」の下は妙名の具徳、また二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・ 初めに通じて五字の具徳を明かす、三・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・ 初めに総標
・・・・ 次に「経一」の下は経の一字の具徳を釈して以て四字の具徳を顕す、
・・・・ また二・・
・・・・・・・・・・
・・・・・ 初めに正釈、また三・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・ 初めに別して伝来の諸経を納むるに約す、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・ ・・初めに正説
・・・・・・・ 初めに正しく明かす、三・・・ 次に結集
・・・・・・・ ・・三に翻訳
・・・・・・・・次に「是皆」の下は結
・・・・・・ 次に通じて梵漢の諸経を納むるに約す、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・ ・・初めに華厳
・・・・・・・ 初めに正しく明かす・・・ 次に三味
・・・・・・・ ・・三に涅槃
・・・・・・・・次に「此等」の下は結
・・・・・・・三には広く諸仏諸経を納むるに約す
・・・・・・二に「されば薬王」の下は引証
・・・・ ・・初めに経の一字の具徳を
・・・・・三に「此の経の一字」の下は総結、二・・ 結す
・・・ ・・次に「妙法」の下は四字
・・・ の具徳を顕成す
・・・・次に「妙とは」の下は別して妙の一字の具徳を明かす
・・・三に「譬如」の下は妙用の具徳
・・次に「而過」の下十五に重ねて今昔を挙げて誡勧
○次に「妙とは」の下は別して妙の一字の具徳を明かす、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・ 初めに名義を釈す、また二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・
・・ 初めに経釈を引き、略して妙と名づくるの義を示開す
・・・次に「世間」の下は広釈、二・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・ ・・初めに爾前
・・ 初めに鎰に依って蔵を開くの義に寄せて釈す、二・・
・・ ・・次に今経
・・ ・・初めに譬を挙ぐ
・・・次に日月に依って眼を開くの義に寄せて釈す、二・・
・ ・・次に合譬
・・次に「釈門十四品」の下は正しく具徳を明かす、二・・
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・ 初めに題号に就いて明かす ・・初めに単論
・・次に「六万」の下は入文に就いて明かす、また二・・
・・次に「妙とは」の
下は互具を明かす、また二・・
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・ 初めに妙の義を明かす
・・次に正しく互具を明かす
当に知るべし、題号に就いて妙名の具徳を明かすに、また多意を含む。今、意を取ってこれを示す。謂く、若し略釈に依らば但迹本二妙を含む。若し正釈に依らば即ち迹本二十妙を含む。若し更に判開二門を加うるに依って即ち本迹の六十妙を含む。若し更に三法及び観心を加うるに依らば、即ち百二十重の妙の功徳を含むなり。
また、入文に就いて妙名の具徳を明かすに、若し単にこれを論ぜば、即ち六万九千三百八十四の妙の功徳を含む。若し互具に約せば、六万九千三百八十四の妙名に各六万九千三百八十四の妙を具する故に、妙の名に更に無量無辺の妙の功徳を具するなり。この妙名を唱うる故に、唱題の功徳もまたこれ無量無辺なり等云云。
一、譬えば秋冬(乃至)如し文。(九四四n)
この下は妙用の具徳、また二。初めに治し難きを能く治することに約して釈し、次に「されば諸経にしては」十五の下は結前生後。初めの釈にまた二。初めに総じて明かし、次に「提婆」の下は別して明かす、三。初めに悪人成仏、次に女人成仏、三に「妙とは蘇生」の下は二乗成仏云云。「大論」は百十七の文なり。「妙楽」は弘六末八、籤六七十一。
一、提婆達多文。(同n)
この下は悪人成仏にまた二。初めに達多の作仏を明かし、次に「提婆が三逆を」の下は況して結す。初めにまた二。初めに正釈、次に「爾前の経経・実ならば」の下は権実を判ず。初めの正釈にまた二。初めに爾前堕獄、次に「過去大地」の下は法華作仏。初めの文にまた六。初めには達多の種姓、次に出家学道、三に具に三逆を犯す、四に弟子檀那、五に現身堕獄、六に人点見聞云云。
一、五法を行じ等文。(同n)
法蓮抄を見合すべし。
一、阿闍世太子をかたらいて等文。(同n)
会●三十一巻三十一、往いて見よ。
一、●伽梨文。(同n)
西域六巻、大論十三十七、第二九。
一、女人をば内外典に文。(同n)
この下は女人成仏、また三。初めに内外の女人を嫌うを明かし、次に「此くの如く諸経に」の下は法華の作仏を明かし、三に「此の南閻浮提」の下は結。
また御書二十二二十、十九五十九、類雑十二十二、沙石四十七等、往いて見よ。啓蒙二十九五十六。
一、華厳経に云く文。(九四五n)
宝物集下四、即ち今の所引に同じ。二蔵義十五五には「宝積経に云く」等云云。是等は古来の伝説と見えたり云云。
一、大涅槃経等文。(同n)
会●十十三に「又云く」等文。啓蒙の中を往いて見よ。
一、大論には、清風は等文。(九四六n)
大論十四十六。
一、妙とは蘇生の義等文。(九四七n)
この下は二乗作仏を明かす、また二。初めに妙の義を明かす、即ち法・譬・合あり。次に「天台」の下は文を引いて釈す。
問う、合譬の文には「二乗・闡提・女人」という。何ぞ但二乗作仏というや。 答う、是に先ず妙の義を挙ぐ。故に通じて蘇生の一類を出すなり。然りと雖も意は正に二乗に在り。故に次に文を引いて釈するには、但二乗に約するなり。故に「二乗・闡提・女人」というは、但これ言は総、意は別なり。初心成仏抄二十二二十に云く「仏世に出でさせ給いて四十余年の間・多くの法を説き給いしかども二乗と悪人と女人とをば簡ひはてられて成仏すべしとは一言も仰せられざりしに此の経にこそ敗種の二乗も三逆の調達も五障の女人も仏になるとは説き給い候つれ」云云。
一、黄鵠の子・死せるに(乃至)如く文。(同n)
一義に云く、●の雛を「黄鵠」と名づくるなりと云云。
一義に云く、鵠「こうのくぐい」と読む。故に黄鵠とは即ち「鵠の鳥」の事なり。この鵠の鳥の事を下の句には「●の母」というなり。これ則ち本草羅氏の説に准ずるに、鵠は則ち●の義あるが故なりと云云。
また子安を以て即ち人名と為す。三国伝七三十の如し。註及び啓蒙を往いて見よ。
今謂く、黄鵠とは即ち●なり。鵠は古の●の字なる故なり。字彙第十の頭書に云く「鵠は曷各の切、鶴と同じ」。荘子に「鵠は日に浴せずして白し」。●に「鵠は古の鶴の字なり」。地志に「黄鵠磯今楼乃ち黄鵠に作る」云云。和字彙に「黄鵠ツル」云云。
問う、鶴の色は初めは白し。一千年にして鶴毛は蒼なり。二千年にして黒し、所謂玄鶴なり。何ぞ「黄鵠」というや。
答う、これ古事に由る故なり。崔●詩に云く「昔人已に白雲に乗じて去る。此の地空しく余す黄鶴楼。黄鶴一たび去って復返らず。白雲千歳空しく悠悠」云云。註に云く「江夏郡の辛氏、酒を沽りて業と為す。一の先生有り、藍縷にして座に入り、辛に謂いて云く、好酒有りや否やと。辛、飲ましむるに巨盃を以てす。明日、亦来る。辛、索むるを待たず之を与う。此の如くなること半歳、辛、倦く意無し。一日、辛に謂いて云く、多く酒債を負う。銭の汝に酬ゆるもの無しと。遂に小籃の橘皮を取り、譬に●を画いて云く、客来りて酒を飲む時、但手を拍ちて歌わしめば、其の●必ず舞わん。此を将て酒債に酬いんと。後、客至る。其の言の如くするに、鶴果して●●と舞う。良に音律に中る。橘皮を以て画く所為れば色は黄なり。人、之を黄鶴と謂う」。已下、これを略す。三体抄二の三初、往いて見よ。恐らくはこの古事に由りて「黄鵠」というか。
一、●の母・子安と鳴けば等文。(九四七n)
●は別して子を思うの鳥なるか。義楚二十三四十二に云く「六度経に云く、昔●鶴在り、三子を生む。時に国、大いに旱す。子に与うるの食無し。乃ち自ら腋下の肉を取って三子に与う」等云云。また弘明集に云く「廬山の慧遠、未だ出家せざる時、●の雛を射る。其の母、悲しみに堪えずして死す。腹を破るに肝●寸々に断つ。●に因って菩提心を発し出家す」等云云。また●は鳥の中の君子なり。今川了俊、放鷹の游事を停むること、本朝語園二巻を往いて見よ。
一、鴆鳥・水に入れば等文。(同n)
本草綱目四十九二十五に爾雅を引く。啓蒙云云。
一、天台云く等文。(同n)
止観六五十六の文なり。妙楽云く、七は弘六末八の文なり。
一、されば諸経にして等文。(同n)
この下は妙用の具徳の中の第二、結前生後の文なり。
一、而るに正像(乃至)過ぎて等文。(同n)
この下は妙法五字の具徳の中の大段第二、重ねて今昔を挙げて以て誡勧するなり。謂く、この下の大意は、天台・伝教の釈を引いて重ねて今昔の意を挙げ、当世の女人を誡勧したまうが故なり。所謂女人は法華経を離れて成仏すべからざるが故に、四十余年の経々を行ずべからず。但法華経の妙用のみ能く女人をして成仏せしむるが故に、但法華経を信じて南無妙法蓮華経と唱うべしとなり。これ則ち誡勧の二門なり。夏●り歳寒するが故に細科はこれを略するのみ。
この誡勧二門、別して当世の女人に約することは房州天津の伯母御前へ遣し給う御抄なるが故なり。彼の人は念仏の執情甚重なる人なり等云云。
一、当世の衆生の・成仏往生のとげがたき事は等文。(九四七n)
当に知るべし、在世はこの二乗・闡提・女人・悪人と雖も、皆これ三五下種の輩にして、世々已来乃至今日調熟の衆生なり。故に難しと雖も仍易し。今末法の衆生は縦い善人・男子と雖も、皆これ本未有善の衆生にして、無始已来未だ曽て成仏の種子あらず。況や悪人・女人をや。故に「百千万億倍」というなり。然るに四十余年の経々は「余経を以て種と為さず」と釈して、これ成仏の種子に非ず。何ぞ彼の経に由って生死を離るることを得ん。故に「はかなし・はかなし」というなり。
一、但男に記して女に記せず等文。(同n)
文七四十一に云く「他経は但菩薩に記して二乗に記せず。但善に記して悪に記せず。但男に記して女に記せず。但人天に記して畜に記せず」等文。今この中は女人に約する故に、前後の文を略するなり。
問う、他経は実に二乗作仏の文なし。この義はこれを疑うべきに非ず。但し他経の中にも悪人・女人・竜畜の授記は分明なり。謂く、普超経の闍王の授記、大集経の婆籔天子の授記、豈悪人の授記に非ずや。勝曼経の離垢施女、般若経の恒河天女は即ちこれ女人の授記なり。海竜王経の竜女の授記、師子月経の?猴の授記、これはこれ竜畜の記なり。大師、何ぞ「悪に記せず、女に記せず、畜に記せず」等というや。
答う、東陽の忠尋の口伝に云く「他経に悪人を記すとは、実には善人に記すと習うなり。其の故は悪人、悪心を翻じて善人と成る。後に成仏すべき故に善人を記するの義なり」已上。女人も例して爾なり。謂く、諂曲の心を改めて正直の心と成り、後に成仏すべし。竜畜もまた例するなり。謂く、心を改め身を転じて後に成仏すべきなり。故に皆これ改転の成仏なり。故に知んぬ、他経の悪人・女人・竜畜の授記は、畢竟してこれを論ずれば善人・男子・人天の授記なることを。故に「悪に記せず、女に記せず」等というなり。その外、証真の料簡に云云。諫迷六七十四。中正五三十三。金山七百云云。
問う、もし爾らば、菩薩・善人・男子・人天の授記はこれ真実なるや。
答う、仍これ虚妄の授記なり。故に「但記す」という。当に知るべし、「但記す」とは虚妄の授記なることを顕すなり。十法界抄に云く「菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり乃至二乗の沈空尽滅は即ち是れ菩薩の沈空尽滅なり」と。これ則ち一念三千の成仏に非ざれば、有名無実にして虚妄の授記なり。故に「但記す」というなり。若し今経に於ては正しく一念三千を明かす、故に一人の成仏は法界の成仏なり。故に一人に記するも即ち仍十界の授記なり。故に「今経は皆記す」というなり。当に知るべし、十界互具する則は一人に十界を具す。一人の成仏は豈十界の成仏に非ずや。故に妙楽云く「故に成道の時は此の本理に称い、一身一念法界に遍し」等云云。当に知るべし、「皆記す」とは真実の授記なることを顕すなり。
一、東北・十万八千里文。(九四七n)
月漢の道法に多くの異説あり。一には、九千八百里、●会二十五十四。二には四万五千里、統紀二十三七。三には五万八千里、名義集三十。四には十万余里、三体詩上十五。五には十万八千里、拾芥四終。七には二十万里、華厳●抄四十九二十九、啓蒙二十四八十二に引く。
問う、何ぞ此くの如く異説多きや。
答う、五意あり。故に敢て相違には非ざるか。所謂一には一里の町数同じからざる故に。或は六町を一里と為し、或は三十六町を一里と為す故に。二には時に随って尺を用うること同じからざる故に。謂く、周代には八寸を以て用いて一尺と為す故に。三には発足の処同じからざる故に。或は中国より発し、或は辺国より発する等なり。四には所至の処同じからざる故に。或は中国に至り、或は辺国に至る等なり。五には三道の遠近同じからざる故に。謂く、北道は最も遠く、中道は差近く、南道は最も近きなり。具には統紀三十三七、また十一云云の如し。或は往還合論の義もこれあるべきなり。
一、三千里をへだてて文。(九四八n)
和漢の道法にまた異説あり。一には水陸三千里、統紀三十三三。二には三千七百里、拾芥四終。三には一万四千里、●会七二十三。これ六町一里か。
一、往生成仏等文。(同n)
当世の女人は竜女の如き即身成仏こそ難からめ、若し法華を信ぜば往生成仏は疑なし等となり。
問う、往生成仏の相貎は如何。
答う、初心成仏抄二十二十九に云く「法華経を信ずる人の一期終わる時には十方世界の中に法華経を説かん仏のみもとに生るべきなり、余の華厳・阿含・方等・般若経を説く浄土へは生るべからず、浄土十方に多くして声聞の法を説く浄土もあり辟支仏の法を説く浄土もあり或は菩薩の法を説く浄土もあり、法華経を信ずる者は此等の浄土には一向生まれずして法華経を説き給う浄土へ直ちに往生して座席に列りて法華経を聴聞してやがて仏になるべきなり」已上。
問う、若し爾れば、今時の女人は実に即身成仏は遂げ難き故に、往生成仏を期すべきや。
答う、爾らず。今の御抄は佐渡已前の権実相対、迹門の法門なり。本門寿量の極談は即身成仏、娑婆即寂光なり。既にこれ本門寿量の肝心・南無妙法蓮華経を唱うる人は、即ちこれ本門寿量の当体蓮華仏なり。豈即身成仏に非ずや。その人の所住の処は常寂光なり。豈娑婆即寂光に非ずや。何ぞ往生成仏を期すべけんや。別にこれを論ずべし、故にこれを略するのみ。
一、時時阿弥陀等の諸仏の名号を等文。(同n)
問う、既に以上に判ずるに、念仏を行ずるを以て他の宝を数うるに譬う。またこれを勧むる人を以て悪知識と名づけ、虎狼等に類す。今何ぞ時々に唱うべきことを許すや。
答う、且く念仏執情の女人に対する故に、一往台家の法門を以てこれを誘引したまうなり。台家の法門とは、十章抄三十に云く「されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり」云云。
伝教大師云く「正には法華経に依り、傍には一切説円の教に依る」等云云。況や「心に存すべき事は一念三千の観法なり」と云云。故に知んぬ、正しく台家の法門なることを。全く当家の法門に非ざるなり。況やまた究めてその義を探るに、正しく念仏制止の意なり。何となれば一日一万返の後、尚、暇あるべからず。況や六万返の後をや。何に況や十万千万の後をや。故に知んぬ、義意は究めてこれを制することを。